臺北市, 中華民國 相關
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台北市 (タイペイ/たいほく-し、 繁体字中国語: 臺北市/台北市 、 英語: Taipei City )は、 台湾島 北部にある 中華民国 の 直轄市 ・ 首都 [1] [2] 。 2024年1月時点での人口は2,511,291人 [3] であり、市域人口では 衛星都市 の 新北市 、中部の 台中市 、南部の 高雄市 に次いで国内4位だが、台湾最大の 都市圏 である 台北都市圏 の中枢都市であり、 アジア 屈指の 世界都市 でもある。 面積は約272 平方キロメートル で四方を 新北市 に囲まれている。 名称. 日本統治時代 は「たいほく」と日本語読みしていた。 現在でも NHK の放送では「たいほく」の呼称を採用している。
概要. 台北市 西門町. 台湾島 の面積は 日本 の 九州 よりやや小さく、海を隔てて北東に 日本 、南に フィリピン 、北西に 中華人民共和国 がある [注 2] [1] 。 台湾は長年の 移民 により 多民族が共生する地域 となっており [2] [3] 、現在の台湾島には元々台湾に住んでいる 台湾原住民 の他に、 漢民族 系の 閩南人 ・ 客家人 ・ 外省人 や、 日本人 ・ オランダ人 ・ ポルトガル人 ・ スペイン人 など様々な民族が住んでいる。 各民族は 多様性 や 多元論 の原則に従って共存している。
概要. 二・二八事件 を契機として 1947年 (民国36年) [2] に台湾省政府が設置された。 当初は 台湾島 と 澎湖諸島 (台澎地区)の全域を管轄としていたが、 1967年 (民国56年)以降 台北市 、 高雄市 、 台北県 、 高雄県 、 台中市 、 台中県 、 台南市 、 台南県 、 桃園市 が順次 直轄市 へ昇格したため、管轄範囲が大幅に縮小していった。 なお、中華民国政府が 1955年 (民国44年)以降も 実効支配 し続ける 台湾地区 (中華民国自由地区)と大部分の範囲が被っているが、 福建省 の 金門島 、 烏坵島 及び 馬祖列島 (金馬地区)を管轄区域としたことがない点が異なる。 設置当初、省政府は管轄地区の 地方自治 を担う存在だった。
台北都市圏 (タイペイとしけん、中国語:臺北都會區、臺北基隆大都會區)とは 中華民国 の首都 台北市 を中心に周囲の 新北市 と 基隆市 を包括した、 台湾 最大の 都市圏 である。 2018年9月現在、台北都市圏の 人口 は6,945,185人であり、台湾全国の約30%の人口が集中しており、総 面積 は2,436.0005 平方キロメートル に及ぶ。 これは、都市圏としては、世界第44位の規模である [1] 。 概要. 最も一般的な定義による「台北都市圏」は中枢都市の台北市、基隆市及び、 衛星都市 の新北市で構成される。 台北市、基隆市、 桃園市 を台北都市圏 (中国語: 臺北基隆桃園都會區)とする統計も存在する [2] [3] 。 行政区画. 台北市の夜景.
台北市 (タイペイ/たいほく-し、 繁体字中国語: 臺北市/台北市 、 英語: Taipei City )は、かつて 中華民国 台湾省 に存在した 省轄市 。 沿革. 日本統治時代 、 台北市 は 台北州 に属していた。 1945年10月25日( 昭和 20年/ 民国 34年)の 台湾光復 後、台北市は 台湾省 の省轄市(現: 市 )に再編され、台北市政府が建成小学校に設置された [1] 。 また、 台湾省政府 も台北市に設置された。 省政府は1957年(民国46年)に台北市から 南投県 南投市 中興新村 に移転した。 1949年(民国38年)に 中華民国政府が台湾へ移転 して以降、台北は 中華民国の首都 や 台湾 の政治・ 経済 の中心地として急速に人口が増加した。
台北賓館 (たいほくひんかん)は、 台湾 台北市 中正区 凱達格蘭大道 1号に所在する 中華民国 の国家招待所( 迎賓館 )である。 外交部 が管理している。 概要. 台北賓館は 日本統治時代 の 台湾総督 官邸で、 明治 32年( 1899年 )4月に起工し、明治34年( 1901年 ) 9月26日 に完成した。 設計は 福田東吾 と 野村一郎 が担当した。 しかし、木材がシロアリの被害を受けたため、明治44年( 1911年 )から 森山松之助 の設計により増改築工事を経て、 大正 2年( 1913年 )3月に現在の建物となった。 フランス風の バロック 様式、2階建の西洋館で、内装は豪華絢爛である。 台湾総督の暮らす住居と執務の場である官邸であった。
松山区 (ソンシャン-く)は、 台北市 の市轄区。 地理. 台北市の中心部に位置し、区内は住宅地を中心に構成されているが、八徳路及び南京東路周辺は商業地となっている。 また台湾国内最大の 松山空港 を擁し、台北の空の玄関口としての地位を占めている。 歴史. 元来は原住民語で「河の湾曲した場所」を意味するMalysyakkawから 麻里錫口社 と称されていた。 ここで表す河とは 基隆河 を指している。 1709年 、陳頼章による入植が進み、泉州同安人の漢人集落が形成されると、 錫口 と称されるようになった。 日本統治時代 の 1920年 に「附近の丘岡には、島内稀に見る松林を有す」ることに因み内地風地名の「松山(まつやま)」と改称され [2] 現在に至る。