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由来. 蘭陵蕭氏. 契丹の蕭氏. 著名な人物. 架空の人物. 脚注. 関連項目. 蕭. この項目では、漢民族の姓について説明しています。 キク科の植物については「 ヨモギ 」をご覧ください。 楽器の「 簫 」とは異なります。 蕭 (しょう)は、 漢姓 のひとつ。 『 百家姓 』の99番目。 南北朝時代 の 南斉 および 梁 の国姓である。 「蕭」は 中華人民共和国 の 第二次漢字簡化方案 で「 肖 」と書き換えられたため、その時代やその以前に生まれた人の 身分証明書 では姓が「肖」と記されることが多い。 改姓の手続きが困難であるため、「肖」のままで定着したことも多い [1] [2] 。
伝記資料. 蕭琛. 蕭 琛 (しょう ちん、 建元 2年( 480年 )- 中大通 3年 2月15日 [1] ( 531年 3月18日 ))は、 南朝斉 から 梁 にかけての 官僚 ・ 文人 。 竟陵八友のひとりとして知られる。 字 は彦瑜。 本貫 は 南蘭陵郡 蘭陵県 。 経歴. 宋 の太中大夫の蕭恵訓の子として生まれた。 数歳のときに従伯父の 蕭恵開 が「必ずやわが一族を興さん」と言ってかれの背中を撫でた。 蕭琛は若くして賢明で理解が早く、弁論の才能があった。 斉の 太学博士 を初任とした。 王倹 が楽遊苑で宴会を開いたとき、蕭琛は虎皮の靴を履き、桃の枝を鞭として、王倹に面会して語り合い、気に入られた。 王倹が丹陽尹となると、蕭琛は召し出されて主簿となった。
蕭 鏘 (しょう しょう、 469年 - 494年 )は、 南朝斉 の 皇族 。 鄱陽王。 字 は 宣韶 。 高帝 蕭道成 の七男。 経歴. 蕭道成と陸修儀のあいだの子として生まれた。 昇明 3年( 479年 )、蕭道成が斉王となると、蕭鏘は開国県公に封じられた。 同年( 建元 元年)、蕭道成が 皇帝 に即位すると、蕭鏘は鄱陽王に封じられた。 建元4年( 482年 )、 蕭賾 が即位すると、蕭鏘は使持節・都督雍梁南北秦四州 郢州 之竟陵 司州 之 隨郡 諸軍事・北中郎将・寧蛮校尉・ 雍州 刺史 となった。 永明 2年( 484年 )、征虜将軍に進んだ。 永明4年( 486年 )、左衛将軍の号を受け、 侍中 に転じ、歩兵校尉を兼ねた。 永明7年( 489年 )、征虜将軍・丹陽尹となった。
経歴. 伝記資料. 蕭晃. 蕭 晃 (しょう こう、 460年 - 490年 )は、 南朝斉 の 皇族 。 長沙威王。 字 は 宣明 。 小字は白象。 高帝 蕭道成 の四男。 経歴. 蕭道成と謝貴嬪のあいだの子として生まれた。 はじめ 南朝宋 の邵陵王 劉友 の王友に任じられたが、受けなかった。 昇明 2年( 478年 )、兄の 蕭映 に代わって寧朔将軍・淮南宣城二郡 太守 となった。 蕭道成が 沈攸之 を討つと、蕭晃は騎乗し弓矢を取って従軍し、「煥煥たるは蕭四繖」と称された。 この年のうちに持節・監豫司二州 郢州 之西陽諸軍事・西中郎将・ 豫州 刺史 に任じられた。 昇明3年( 479年 )、蕭道成が斉王となると、蕭晃は開国郡公に封じられた。
経歴. 伝記資料. 蕭朴 (しょう ぼく、 986年 - 1035年 )は、 遼 (契丹)の 政治家 。 字 は延寧。 経歴. 国舅少父房の末裔。 聖宗 の詩友であった蕭労古の子として生まれた。 開泰 元年( 1012年 )、牌印郎君に任じられ、南院承旨となり、租税・穀物の輸送を担当した。 まもなく南面林牙に転じた。 聖宗が国政について諮問したとき、蕭朴は百姓の辛苦をつぶさに述べ、国の出費には無駄が多いことを説明した。 聖宗は「われ人を得たるかな」と喜んで左夷離畢に抜擢した。 枢密使 蕭合卓 の下で、蕭朴は知部署院事をつとめ、禁酒政策の施行にかかわった。 興国軍節度使として出向し、まもなく南面林牙として召還された。 太平 3年( 1023年 )、太子太傅を代行した。
経歴. 伝記資料. 蕭瓛. この項目には、一部のコンピュータや 閲覧ソフト で表示できない文字が含まれています () 。 蕭 瓛 (しょう けん、 569年 - 589年 )は、 後梁 の明帝 蕭巋 の三男。 字 は欽文。 経歴. 後梁の 荊州 刺史 となり、有能で知られた。 587年 ( 開皇 7年)、 隋 の崔弘度が後梁を屈服させるべく兵を率いて鄀州に到達すると、蕭瓛はなすすべもなく叔父の蕭巌とともに 南朝陳 に亡命した。 南朝陳により 侍中 ・安東将軍・ 呉州 刺史に任じられた。 589年 (開皇9年)、陳が隋に滅ぼされると、蕭瓛は呉州の人々に推されて主となった。 南朝梁 の末裔として江南の人々の信望をえて、梁の再興に期待する人々がかれのもとに集まった。
経歴. 脚注. 伝記資料. 蕭鏗. 蕭 鏗 (しょう こう、 昇明 元年( 477年 )- 延興 元年 9月24日 [1] ( 494年 11月7日 ))は、 南朝斉 の 皇族 。 宜都王。 字 は 宣厳 。 高帝 蕭道成 の十六男。 経歴. 蕭道成と何太妃のあいだの子として生まれた。 はじめ游撃将軍の号を受けた。 永明 元年( 483年 )、宜都王に封じられた。 永明10年( 492年 )、左民尚書に転じた。 永明11年( 493年 )、持節・都督南豫司二州諸軍事・冠軍将軍・ 南豫州 刺史 となり、姑孰に駐屯した。 ときに 東晋 の 桓温 の娘の墓を盗掘した者がおり、蕭鏗が摘発して盗まれた財宝を取り返したが、宝物には一切手をつけず、そのまま墓にもどして修復した。