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鄧琬らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。 叔父の湘東王劉彧が前廃帝を殺害して建康を掌握する(明帝)と、劉子勛に車騎将軍・開府儀同三司の位を与えた。しかし鄧琬らはその命を拒否し、劉彧の即位に反対する檄を飛ばした。
1645年 ( 順治 2年)5月、 馮銓 を総裁として明史を編纂するために明史館が設置された。. 馮銓らは史料収集に着手したが、 天啓 年間の 実録 の一部及び 崇禎 年間の実録が散逸していたため、 1648年 (順治5年)9月には各役所に対し同時代の 檔案 (公文書 ...
『 北史 』(ほくし)は、 中国 の 北朝 について書かれた 歴史書 。 李大師 により編纂が開始され、その子の 李延寿 によって完成された。 二十四史 の一つ。 全100巻で、 本紀 12巻、 列伝 88巻の構成となっている。 南北朝時代 (439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、 北魏 ・ 西魏 ・ 東魏 ・ 北斉 ・ 北周 ・ 隋 の歴史を記している。 詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は 断代史 である『 魏書 』・『 北斉書 』・『 周書 』・『 隋書 』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。 特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。 内容. 本紀. 魏本紀第一 - 太祖道武帝 ・ 太宗明元帝.
- 幼年
- 石勒(漢将)の時代
- 石勒(趙王)の時代
- 石勒(趙帝)の時代
- 石弘の時代
- 石虎(居摂趙天王)の時代
- 石虎(大趙天王)の時代
- 石虎(皇帝)の時代
- 没後
早くに両親を失った為か、幼い頃に石勒の父である周曷朱の養子となり、石勒からは弟のように扱われた。 6・7歳になると、評判の良い人相見から「この子の貌は奇であり、また壮骨を有している。その貴は言葉では表す事が出来ぬ」と称された。 302年から303年にかけて并州で飢饉が発生すると、石勒に従って故郷を離れたが、永興年間(304年~306年)に石勒と離別してしまった。 311年10月、石虎は石勒の母である王氏と行動を共にしていたが、西晋の并州刺史劉琨により捕らえられた。当時、石勒は漢(後の前趙)の将軍となって中原を荒らし回っており、この時は葛陂(汝陰郡鮦陽県にある)に駐屯していた。劉琨は彼を懐柔する為、配下の張儒に命じて石虎と王氏を送り届けさせた。また書も合わせて送り、晋朝へ帰順して共に漢帝劉聡を...
将軍となる
石虎の性格は残忍であり、馬を走らせて猟を行うのを好み、その放蕩ぶりには限りが無かった。また、弾弓(矢の代わりに弾丸を射る弓)を好んで行い、幾度も人を撃った。その為、軍中では石虎の存在は大きな患いとなった。石勒は密かにこれを殺そうと考え、母の王氏に「この子は凶暴無頼でありますが、兵士にこれを殺させては評判を落とします。自ら死んでもらうのがよいでしょう」と告げた。すると王氏は「快牛でも犢子(子牛)の時は、多く車を壊してしまうものです。汝はこれを少し我慢なさい」と諫めたので、石勒は思いとどまった。 312年2月、石勒は葛陂に留まって建業攻略を目論んでいたが、飢餓と疫病により兵の大半を失い、戦どころではなくなってしまった。さらに、琅邪王司馬睿(後の元帝)は石勒を迎え撃つ為、江南の将兵を寿春へ集結させると、石勒は遂に撤退を決断した。石虎は輜重が北へ退却するまでの時間稼ぎをするよう命じられ、騎兵2千を率いて敢えて寿春に進んだ。その途上、江南から到着した米や布を積んだ輸送船数10艘を発見すると、石虎の将兵は我先にとこれらに群がり、守備の備えをしなくなってしまった。そこに晋軍の伏兵が一斉に姿を現...
石勒軍の勇将
石虎は18歳になると、次第に節を曲げて他人に従うようになった。身長は7尺5寸となり、身のこなしは俊敏で、弓馬の術に長け、その勇力は当代一であった。その為、重臣や親族であっても敬意と畏怖の念を抱かぬ者はおらず、石勒はこれを深く称賛して征虜将軍に任じた。 313年4月、石虎は鄴城の三台(氷井台・銅雀台・金虎台)へ侵攻すると、これらを陥落させた。守将の劉演は廩丘へと敗走し、将軍謝胥・田青・郎牧は三台の流民を引き連れて降伏した。石勒は桃豹を魏郡太守に任じたが、しばらくして石虎にその任を交代させ、鄴城と三台の統治を委ねた。晋書では、石虎に鄴を任せた事が帝位篡奪のきっかけとなったと記されている。 後に繁陽侯に封じられた。 316年4月、乞活の王平が守る梁城を攻撃したが、攻め落とせずに撤退した。その後、軍を転進させると、劉演の守る廩丘を攻撃した。厭次に割拠する邵続は段文鴦(段疾陸眷の弟。邵続とは同盟関係にあった)に劉演救援を命じたが、石虎が盧関津を固めていたので、段文鴦は進軍が出来ずに景亭に軍を留めた。豫州の豪族張平らもまた挙兵すると劉演救援に向かったが、石虎は夜の内に陣営を放棄して外に伏兵を...
称帝を勧める
10月、石虎は張敬・張賓を始めとした群臣100人余りと共に、石勒に尊号(帝位)を称するよう進言した。これに対して石勒は書を下し「我は徳が少ないながらも、偶然が重なり今の地位に至るのであり、周囲からの反発を日夜恐れている。それなのに、どうして尊号を称して四方の人から詰られる事など考えるか。かつて、周文(周の文王)は、天下の3分の1を占めながらも殷朝に服属した。小白(桓公)は周室を凌ぐ紀雄があったが、尊崇を続けた。そうして彼らは国家を殷周よりも強国とした。我の徳は2伯に大きく劣るのだぞ。郷らは即座にこの議を止め、二度と繰り返すことのないように。これより敢えて口にした者は、容赦無く刑に処する」と述べ、申し出を却下した。 11月、石虎はまたも張敬・張賓・左司馬支屈六・右司馬程遐ら文武百官29人と共に「臣らが聞いたところによると、非常の度には必ず非常の功があり、非常の功があれば必ず非常の事が起きるといいます。三代(夏・殷・周)が次第に衰えると、五覇(春秋五覇)が代わる代わる興り、難を静め時代を救いました。まさに彼らは神聖にして英明であると言えましょう。謹んで思いますに、殿下(石勒)は生まれ...
厭次・広固・泰山を攻略
320年1月、段匹磾・段文鴦が後趙領の薊へ侵攻すると、石虎はその隙を突いて邵続が守る厭次を包囲した(段匹磾と邵続は協力関係にあった)。2月、邵続は城から出て自ら石虎を迎撃したが、石虎は伏せていた騎兵に背後を遮断させると、邵続を生け捕りにした。その後、邵続を厭次城下に連れていき、城内の将兵に投降を呼びかけるよう命じたが、邵続は応じなかったので襄国へ送還した。段匹磾らは石虎が厭次へ襲来したと知って軍を返していたが、邵続が捕らわれたとの報が届いて多くの士兵は離散してまった。石虎は厭次への進路を遮断していたが、段文鴦の力戦によりこれを突破された。段匹磾らは厭次に入城を果たすと、邵続の子の邵緝等と共に城を固守した。 8月、石虎は歩兵・騎兵併せて4万を率い、泰山に割拠する徐龕討伐に向かった。石虎軍の到来を知ると、徐龕は長史劉霄を石勒の下に派遣し、妻子を人質に差し出して降伏を請うたので、石虎は攻撃を中止した。東晋の徐州刺史蔡豹もまた徐龕討伐を目的として卞城に軍を置いていたが、石虎は転進するとこれに攻め込み、蔡豹を敗走させた。その後、軍を撤退させると、封丘に城を築いてから帰還した。 321年、託...
前趙を滅ぼす
325年5月、前趙の将軍劉岳は後趙へ侵攻して盟津・石梁の2砦を攻め落とすと、金墉(洛陽の一角)へ進んで洛陽の守将である河東王石生を包囲した。また、前趙の鎮東将軍呼延謨もまた荊州・司州の兵を率い、崤澠から東へ進んだ。その為、石虎は歩騎兵併せて4万を率い、成皋関から石生の救援へ向かった。劉岳はこれを知ると陣を布いて迎え撃ち、両軍は洛西で衝突した。石虎は次第に優勢となって劉岳を石梁まで後退させると、塹壕を掘って柵を環状に並べ、劉岳軍を包囲して外からの救援も遮断した。包囲された劉岳軍は兵糧が底を突き、馬を殺して飢えを凌ぐ状態までになった。さらに石虎は呼延謨軍も撃ち破り、呼延謨の首級を挙げた。その後、前趙皇帝劉曜が自ら軍を率いて救援に到来すると、石虎は騎兵3万でその進路を阻んだが、配下の汲郡内史石聡が前趙の前軍将軍劉黒に八特坂において敗北を喫した。これにより劉曜は金谷まで進んだが、突如として前趙の兵士たちは石虎軍を恐れて動揺し、散り散りに逃亡してしまった。その為、劉曜は止む無く長安に戻った。6月、石虎は劉岳の陣営を攻め落とし、劉岳とその部下80人余り及び氐羌3000人余りを生け捕って襄国へ...
皇帝に推戴
330年2月、群臣達は石勒の功業が既に充分であることから、尊号を王から帝へ改めるべきであると議論し合った。その為、石虎らは皇帝の璽綬を奉じて石勒に尊号を奉ったが、石勒は聞き入れなかった。だが、群臣と共に再度固く要請すると、石勒は「皇帝の代行」たる、趙天王を称した。石虎は太尉・守尚書令に任じられ、中山王に進封され、食邑は1万戸に及んだ。また、石虎の子である石邃は冀州刺史・散騎常侍・武衛将軍・斉王となり、石宣は左将軍となり、石挺は侍中・梁王となった。 9月、群臣が再三に渡って石勒に尊号に即くよう求めると、石勒は遂にこれを受け入れ、皇帝位に即いた。
簒奪の野心
石虎は自らの勲功を当代随一と自認していたので、石勒が即位した後は必ずや大単于を任せられるだろうと語っていた。だが、大単于を授けられたのは石勒の子である石弘であった。石虎はこれを深く怨み、子の石邃へ「主上(石勒)が襄国を都として以来、恭敬にして礼を有し、その指示に従ってきた。我が身を矢石に晒すこと20年余りに及び、南は劉岳を捕らえ、北は索頭を敗走させ、東は斉・魯の地を平らげ、西は秦・雍の地を定め、実に13州を攻め滅ぼした。大趙の業を成したのはこの我である。大単于の望は真に我に在るべきであるのに、青二才の婢児(下女の子供)に授けられてしまった。いつもこの事を思い、寝食する事も出来なくなった。主上が崩御した後を待つのだ。あの種(石勒の子孫)は留めるには足りぬ」と言い放った。 330年9月、中書令徐光は石勒へ「皇太子(石弘)は仁孝温恭ですが中山王(石虎)は雄暴多詐であり、もし一旦陛下に不慮のことがあれば、社稷の危機を招くのではないかと憂慮しております。中山(石虎)の威権を少しずつ奪い、太子を早く朝政に参画させられますように」と進言すると、石勒は内心同意したが従わなかった。 ある時、右僕射...
石勒崩御
333年5月、石勒は病に倒れると、石虎・石弘・厳震を呼び出して禁中に控えさせた。だが、石虎は石勒の命と偽って石弘・厳震を始め内外の群臣や親戚を退けたので、誰も石勒の病状を把握出来なくなった。さらに、石虎は再び命を偽り、石宏・石堪を密かに襄国に召還した。石勒の病状が少し回復すると、石宏がいるのを見て驚き「秦王(石宏)は何故にここに来るか?王に藩鎮を任せたのは、正に今日のような日に備えるためではないか。誰かに呼ばれたのか?それとも自ら来たのか?誰かが呼んだのであれば、その者を誅殺してくれよう!」と声を挙げた。この言葉に石虎は大いに恐れ「秦王は思慕の余り、自らやってきたのです、今、送り返すところです。」と述べた。数日後、石勒が再び石宏について問うと、石虎は「詔を奉じてから既に発っており、今は既に道半ばと言った所かと思われます」と答えたが、実際には石宏を外に駐軍させ、帰らせなかった。 同時期、広阿で蝗害が発生すると、石虎は密かに子の石邃に騎兵3千を与え、蝗の発生箇所を巡回させた。 石勒はその病状がいよいよ悪くなると、群臣へ「大雅(石弘の字)はまだ幼いので、恐らく朕の志を継ぐにはまだ早いで...
朝権を掌握
石勒の死後、石虎はすぐさま石弘の身柄を抑えて朝廷に臨んだ。また、程遐・徐光を捕らえて廷尉に下し、やがて殺害した。さらに、子の石邃に兵を与えて宿衛に侵入させ、文武百官を支配下に置いた。石弘は大いに恐れ、石虎へ位を譲ろうとしたが、石虎は「君(君主)が薨じたならば、世子が立つものです。これは礼の常であり、臣はどうしてこれを乱せましょうか!」と応じなかった。だが、石弘は涙を流して頑なに位を譲ろうとしたので、石虎は怒って「もしその任に堪えられなかったならば、自ずと天下で大議が起こりましょう。どうして今その論を預かるに足りましょうか!」と言い放ち、遂に石弘を強制的に皇帝に即位させた。 同月、後趙の将軍石聡・譙郡太守彭彪は石虎を見限って各々東晋へ使者を派遣し、帰順を要請した。その為、東晋朝廷は督護喬球に将兵を与えて救援に向かわせたが、到着する前に石虎は兵を派遣して石聡らを誅殺した。 8月、石虎は丞相・大単于に任じられ、九錫を下賜された。また、魏王に封じられると、魏郡を始め13郡を封国とし、百官を全て取り仕切るよう命じられた。石虎は形式的にこれを固く辞退したが、しばらくしてからその命を受けた。ま...
相次ぐ造反
劉皇太后は石虎の振る舞いに憤り、彭城王石堪と共に密かに石虎討伐を目論んだ。劉皇太后らは謀議し、まず石堪が兗州に向かって南陽王石恢を盟主に推戴して挙兵し、さらに劉皇太后が詔をもって各地の諸将を集めるという手はずとなった。 9月、石堪は襄国を出ると軽騎兵を率いて兗州を強襲したが、攻略に手間取って落とす事が出来なかった。その為、南へ逃走して譙城に入った。石虎はこの事を知ると、配下の将軍郭太らを派遣して追撃を命じた。郭太らは石堪を城父において捕らえると、襄国へ送還した。石虎はこれを火炙りにして処刑し、劉皇太后もまた誅殺した。また、石恢を襄国に召還した。 10月、関中を統治する石生、洛陽を統治する石朗もまた各々石虎討伐の兵を挙げた。石生は秦州刺史を自称すると、東晋に使者を派遣して帰順を請うた。また、氐族酋長蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して前涼の君主張駿に帰順した。石虎は子の石邃に襄国の守備を任せると、自ら歩兵騎兵併せて7万を率いて出撃した。軍を進めて金墉(洛陽城の一角)へ到達すると、迎え撃って来た石朗軍を破り、これを尽く潰滅した。こうして石朗...
石弘殺害
10月、石弘は自ら璽綬(天子の印と組紐)を携えて魏宮を詣でると、石虎へ帝位を譲る意を伝えた。これに石虎は「帝王の大業というものは、天下が自ずと議をなすものです。どうしてこれを自ら論じましょうか!」と拒絶した。 その後、尚書もまた石弘の意向を受けて「魏台(石虎)が唐・虞(堯・舜)の禅譲の故事に依る事を求めます」と奏じたが、石虎は「弘(石弘)は暗愚である。喪中にありながらこのような礼なき振る舞いを行うとは。万国の君となるべき存在ではない。これは廃するべきであり、どうして禅譲など受けようか!」と述べた。 11月、石虎は丞相郭殷に節を持たせて入宮させると、石弘を廃して海陽王に封じた。その後、石弘を程皇太后・秦王石宏・南陽王石恢と共に崇訓宮に幽閉し、やがて殺害した。群臣はみな涙を堪えられず、宮人は慟哭した。
居摂趙天王に即位
群臣が魏台へ詣でて石虎へ位を継ぐよう勧めると、石虎は「王室は多難であり、海陽は自棄となった。四海の業は重く、故にその推し逼る所を免じ、これに従うとしよう。だが、朕が聞くところによると、その道が天地に適う者は皇を称し、その徳が人神と合う者は帝を称すると言う。皇帝とは盛徳の号であり、とても受けられる所ではない。居摂趙天王を称すべきである(居摂とは大臣が皇帝に代わって政治を執る事)」と述べ、その言葉通りに居摂趙天王を称した。そして、夔安を侍中・太尉・守尚書令に、郭殷を司空に、韓晞を尚書左僕射に、魏概・馮莫・張崇・曹顕を尚書に、申鍾を侍中に、郎闓を光禄大夫に、王波を中書令に任じ、文武百官もその功績に応じて各々任官し、子の石邃を太子に擁立した。また、廮陶県から柳郷を分け、停駕県を置いた。石虎は『天子は当に東北より来たる』という讖文があった事を理由に、法駕(皇帝の乗る車駕の一種)を備えて信都へ向かい、それから再び襄国へ帰還する事で讖文に応じようとした。 12月、後趙の徐州従事朱縦は徐州刺史郭祥を殺害すると、彭城ごと東晋に降った。石虎は将軍王朗に兵を与えて討伐を命じると、王朗はこれを破って朱縦...
鄴へ遷都
石虎は鄴に遷都を考えるようになると、尚書は進み出て太常を派遣してこの事を宗廟に告げさせるよう請うた。これに石虎は「古より大事があった時は必ず宗廟に告げ、社稷には列しなかったという。尚書はこれについてどうすべきか詳議するように」と答えた。これを受け、公卿は太尉を派遣して社稷にもこの事を告げるよう請うと、石虎はこれに従った。 9月、鄴への遷都を決行した。石虎が鄴宮に入った時、大雨が周辺に降り注いだので、石虎はこれを瑞祥と捉えて大喜びし、死刑以下に大赦を下した。また、尚方令解飛に司南車(指南車)を作らせると、その構造が精微である事を称えて関内侯を賜爵し、甚だ厚く賞を下賜した。 散騎常侍以上には軺軒(最も簡便な兵車)に乗る事を許可し、また王公が郊祀する際は副車に乗り、4匹の馬に引かせ、龍旗は8旒と定めた。また、朔望(毎月1日と15日)の朝会に即しては軺軒に乗る事とした。
仏図澄の重用
かつて、天竺の僧である仏図澄は石勒に付き従い、成敗を予言して幾度も言い当てた事により、石勒から篤く敬われた。石虎もまた彼を奉じて甚だ恭敬していたので、綾錦を衣として与え、彫輦(皇帝の乗る車の一種)に乗らせ、朝会の日に入殿する際には、常侍以下に仏図澄の輿を担がせ、太子・諸公がこれを扶けて上がらせた。また、代表の者が「大和尚」と唱えると、衆はみな立ち上がって仏図澄へ尊敬の意を表したという。 さらに、朝と夕には司空李農を仏図澄の住居へ訪問させ、太子・諸公には5日に1度訪問させる事など、その尊敬ぶりは比肩するものがなかった。国の人もこれに従い、多くの者が仏図澄に師事し、彼のいる方向で唾を吐いたり鼻水を垂らす者は独りもいなかった。これにより、後趙では仏教が広く信奉され、寺廟は争って造営され、多くの民が削髮して出家するようになった。だが、賦役を逃れる為だけに出家するような悪党も少なからずいたので、石虎はその真偽が入り混じっていた事から、詔を下して中書へ「仏とは国家の奉じる所である。里閭(村里)の小人は官爵もないのに、仏に仕えるべきと思うかね」と不満を漏らした。 著作郎王度らは議して「王者の祭...
大趙天王に即位
同月、左校令成公段に命じ、太い木棒の先端に庭燎(篝火)を造らせた。その高さは10丈余りあり、上盤には燎を置き、下盤には人を置き、太い綱で上下を止めた。石虎はその完成を見て喜んだ。 337年1月、太保夔安を始めとした文武官509人は石虎へ尊号を称するよう勧める為、宮殿へ向かった。だが、夔安らが入殿した時、庭燎の油が下盤に流れ出してしまい、20人余りの死者が出た。石虎は激怒し、成公段を闔門において腰斬に処した。 後日、石虎は夔安らの勧めを容れ、殷・周の制度に依るとして大趙天王を称した。南郊において即位すると、殊死以下に大赦を下した。祖父の㔨邪を武皇帝と、父の寇覓を太宗孝皇帝と追尊し、鄭桜桃を天王皇后に、子の石邃を天王皇太子に立てた。また、王に立てていた諸子をみな郡公に降封し、王に立てていた宗室を県侯に降封し、百官にも各々格差をつけて任官を行った。 この時期、太原の流民500戸余りが後趙から離反し、黒羌に亡命した。 武鄉郡長城県の流民である韓強が玄玉璽を発見した。その四方は四寸七分の長さがあり、亀紐には金文があった。韓強は鄴に出向いてこれを献上したので、その功績により騎都尉を拝命し、そ...
皇太子石邃誅殺
石邃は幼い頃より雄々しく聡明であり、成長すると勇猛となったので、石虎は常々彼を寵愛していた。その為、いつも群臣へ「司馬氏は父子兄弟で互いを滅ぼしあった。故に朕はここに至る事が出来た。もしそうでなかったならば、我にどうして今日があったであろうか。だが、朕には阿鉄(石邃の幼名)を殺す理否などありはせぬ」と語ると、左右の側近はみな「陛下は慈父であり、子は孝であります。どうしてそのようなことになりましょう」と答えたという。 しかし、石邃は百官を統率する立場になって以降、酒色に溺れて驕りたかぶるようになり、人の道に背く行為を行うようになった。いつも狩りや遊びに興じ、鼓楽が鳴り響くと宮殿に帰った。ある夜に宮臣の家に侵入すると、その妻妾と淫らな行為に及んだ事もあった。また、着飾った美しい宮人がいれば、その首を斬り落として血を洗い落とし、盤の上に載せては賓客と共にこれを鑑賞した。さらに、諸々の比丘尼で容貌が美しい者がいれば、強姦した後に殺害し、牛羊の肉と共に煮込み、これを食したという。左右の側近にもその肉を振る舞い、その味を知らせようとした。 また、石虎は河間公石宣・楽安公石韜(石邃の異母弟)も...
段部を滅ぼす
同月、安定人の侯子光は自らを大秦国からやって来て小秦国の王となる存在であると豪語し、杜南山(現在の終南山)において数千人を集めて挙兵すると、李子楊と名を改めて大黄帝に即位して龍興と改元した。後趙の鎮西将軍石広はすぐさま討伐の兵を挙げると、迎え撃ってきた李子楊を撃ち破ってその首級を挙げた。 当時、段部の首領段遼は頻繁に後趙の国境を荒らしていた。11月、利害関係の一致する前燕君主慕容皝は将軍宋回を石虎の下に派遣し、称藩する代わりに段遼討伐を要請した。さらに、後趙が兵を挙げるならば前燕も全軍を挙げて呼応する事を約束し、その弟の寧遠将軍慕容汗を併せて人質として送った。石虎はこれに大喜びし、厚く返礼の言葉を送ると共に慕容汗を本国へ還してやり、翌年に共同で挙兵する事を約束し合った。 同年、石虎は将軍李穆に5千騎を与えて代領の大寧を攻め、拓跋翳槐(先代の代王。後趙の庇護下にあった)をここに移住させた。すると、部落の民6千余りが代王拓跋紇那の下を離れ、拓跋翳槐についた。これにより代王拓跋紇那は前燕へ逃亡したので、国人は再び拓跋翳槐を擁立し、かつて盛楽城があった場所の東南十里へ新たに盛楽城を築いて...
皇帝即位と梁犢の乱
349年1月、石虎は病が一時的に快方に向かうと、皇帝位に即いて領内に大赦を下した。また、太寧と改元し、諸子をみな王に進封し、百官を一等増位した。尚書張良を右僕射に任じた。 だが、東宮の高力(石宣は力の強い士を選んで東宮の衛士として選抜し、これを高力と号した)1万人余りは石宣の犯した罪により大赦の対象から外され、涼州の辺境に流される事となった。一行が雍城へ到達すると、雍州刺史張茂に彼らを送還するよう勅命が下ったが、張茂は彼らの馬を奪い取ると、鹿車(手押しの一輪車)を与えて歩いて牽かせ、戍所(辺境の拠点)へ食糧を送るよう命じた。これにより衛士はみな怨みを抱いたので、高力督梁犢はこれを利用して乱を起こし東へ帰ろうと考え、胡人の頡独鹿微に命じてその旨を衛士に告げさせた。この計画を聞くとみな跳び上がりながら手を叩いて大声で叫び、喜んで梁犢に従った。梁犢は自らを東晋の征東大将軍であると自称すると、衛士を率いて下弁へ侵攻し、これを攻め落とした。そして、張茂へ迫って大都督・大司馬に担ぎ上げると、軺車に乗せた。安西将軍劉寧はこの反乱を知ると、安定から出撃して迎え撃ったが、梁犢は返り討ちにした。 高...
最期
4月、石虎の病気が急速に悪化した。石虎は石遵を大将軍に任じて関中の統治を委ね、石斌を丞相・録尚書事に任じ、張豺を鎮衛大将軍・領軍将軍・吏部尚書に任じ、この3名に石世の輔政を託した。だが、劉皇后は石斌や石遵が政変を起こすのではないかと恐れ、張豺と共に石斌らの排除を目論んだ。この時、石斌は襄国におり、石虎が病に罹っている事を知らなかったので、劉皇后らは彼を欺こうとして使者を派遣し「主上の病は次第に快方へ向かっております。王は猟でも嗜みながらしばし留まってはいかがでしょう」と述べさせた。石斌はもともと猟を好んで酒を嗜む性質であったので、これを聞いて酒宴や狩猟に耽った。劉皇后らは詔を矯め、石斌には忠孝の心がないとして、官を辞して邸宅に謹慎するよう命じ、張豺の弟である張雄に強兵五百人を与えて監視を命じた。 その後、石虎は一時的に体調が恢復したので西閤へ出た。すると、200人余りの龍騰中郎が列を為して石虎へ拝した。石虎が「何だね」と問うと、彼らは「聖体が安んじられておりませんので、燕王(石斌)を宿衛へ入れて兵馬を指揮させられますよう」と請うた。また、ある者は「燕王を皇太子とする事を乞います」...
石虎が病没すると、石世が跡を継いだが、石世はまだ11歳だったので、劉皇太后が垂簾聴政を行い、張豺と共に朝権を掌握した。だが、わずか33日後に石遵の反乱に遭い殺害され、その石遵もまた石閔・石鑑により殺害され、さらに石鑑もまた石閔に殺された。350年、石閔は異民族を虐殺すると、本来の姓の冉閔を名乗り、冉魏を打ち立てた。これに対抗して石祗が後趙皇帝を称したが、351年には石祗もまた内乱により殺された。 石虎の死後わずか2年で後趙は滅亡し、代わって冉魏、前秦の苻洪(姓を改めた蒲洪)、前燕の慕容儁らが中原の覇権を争うようになる。
経歴. 劉翹 と 蕭文寿 のあいだの子として生まれた。 若くして劉裕とともに 桓玄 を討つ計画を練った。 桓弘 が広陵に駐屯すると、道規はその下で征虜中兵参軍となった。 元興 3年( 404年 )、劉裕が京口で起兵すると、道規は 劉毅 や孟昶らとともに起兵して桓弘を斬り、 長江 を渡った。 建康 を平定して、桓玄が敗走すると、東晋の武陵王 司馬遵 の承制を受けて、道規は振武将軍・ 義興郡 太守 に任じられた。 道規が劉毅や 何無忌 らとともに桓玄を追うと、桓玄は江陵に逃れ、郭銓や何澹之らを湓口に残して守らせた。 道規らは桑落洲で郭銓らを破り、湓口を落とし、尋陽を平定した。 さらに西へ進軍させると、桓玄の軍と崢嶸洲で遭遇した。
劉子頊(りゅう しきょく、孝建3年(456年)- 泰始2年8月24日(466年 9月19日))は、南朝宋の皇族。臨海王。孝武帝劉駿の七男。字は孝列。 経歴 劉駿と史昭華のあいだの子として生まれた。
劉子鸞(りゅう しらん、孝建3年(456年)- 景和元年9月11日(465年 10月16日))は、南朝宋の皇族。始平孝敬王。孝武帝劉駿の八男。字は孝羽。