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2016年9月3日 · 6 回答. 山口多聞がなんで名将扱いが多いんでしょう?. ミッドウェー海戦でもう作戦も失敗状態なんだからさっさと撤退しとけばよかったのに 越権行為で指揮を執ると言ったり貴重な搭乗員を無駄な反撃で大勢死なせ他の3空母の犠牲に比べて 多すぎると ...
2017年6月25日 · 山口多聞少将はミッドウェーで飛竜の航空機搭乗員をすりつぶしました、 赤城、加賀、蒼龍の搭乗員は海戦後空母は沈没して飛行機も失われましたが、最後の組まで救助されました。 以後その搭乗員達は新設の1航戦と2航戦に配属されました。
2011年4月11日 · 山口多聞がなんで名将扱いが多いんでしょう? ミッドウェー海戦でもう作戦も失敗状態なんだからさっさと撤退しとけばよかったのに 越権行為で指揮を執ると言ったり貴重な搭乗員を無駄な反撃で大勢死なせ他の3空母の犠牲に比べて 多すぎると思うんですが・・ 沈めたのもヨークタウンで ...
2023年9月30日 · 山口多聞も角田覚治も闘将ではあっても決して名将ではないのではないか? 闘将でもありません。積極的と無謀の区別がつかない、愚将です。山口というのは、護衛なしの出撃を繰り返して大量に損害を出し、搭乗員から「人殺し多聞丸」と憎悪された人物です。機体の整備に時間が必要だと ...
2015年6月11日 · 艦これで飛龍が「多聞丸、見ててくれた?」って言ってますが、多聞丸って誰ですか?飛龍とはどういう関係なんですか? 99%山口多聞さんの事だと思われます。つまり山口多聞さんの英霊に対して語りかけるような台詞と取ることが出来るでしょう。詳細については先の回答者様が語ってい ...
2024年1月12日 · >搭乗員から「人殺し多聞丸」と憎悪された通り、指揮官として無能以下の存在でした。確かに山口多聞は「人殺し多聞丸」と呼ばれていましたが、 なら何故1941年(昭和16年)12月中旬の第二次ウェーク島攻略作戦支援、1942年(昭和17年)1月のアンボン攻撃、2月19日のポートダーウィン攻撃、3月 ...
2017年2月13日 · 山口多聞と南雲忠一について太平洋戦争時、連合艦隊を陣頭指揮していた南雲中将には、どうしても良い印象を持てません。 海軍には山本五十六という、米国との開戦に批判的だった冷静沈着な英傑がいたにもかかわらず、山本司令長官と半ば対立し、真珠湾での勝利だけで慢心し ...
2007年12月31日 · 山口多聞の評価、特に「殉職」(自決)について 「飛龍」の沈没とともに自決して果てた山口多聞少将ですが、これを近代軍人の責任の取り方としてどのように評価されますか?あるいは「責任」ということではなく単に艦長は母艦とともに運命をともにする・・・という意味なのでしょうか ...
2012年9月4日 · 山口多聞少将の側近の方々について。 「飛龍から強く退艦を促した」とのことですが・・・類似な事例として映画のワンシーン等で小沢治三郎中将が側近により瑞鶴から強制的に担ぎ出されていましたよね。山口司令官をそこまでして引き止めなかった取り巻きの方々が冷たかったのか、邦画 ...
2008年12月23日 · 真珠湾攻撃を指揮したのが南雲司令長官ではなく、山口多聞司令長官だとして、局地戦としての真珠湾攻撃の戦果がどのようなものであったか、また、機動部隊の損害も合わせてシュミレーションしてみて下さい。 IFとしては良く取り上げられる題材ですが…非常にばかばかしい題材ですよ ...