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  1. ja.wikipedia.org › wiki › 1969年1969年 - Wikipedia

    1969年1969 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。 昭和 44年。 この項目では、国際的な視点に基づいた1969年について記載する。

  2. 1969年の日本1969ねんのにほん)では、1969年(昭和44年)の日本の出来事・流行・世相などについてまとめる。 他の紀年法 [ 編集 ]

  3. 1969年の政治(1969ねんのせいじ)は、1969年(昭和44年)の政治分野に関する出来事について記述する。

  4. ja.wikipedia.org › wiki › 日大紛争日大紛争 - Wikipedia

    • 概説
    • 背景
    • 経過
    • その後
    • 紛争前の学生運動
    • 参考文献
    • 関連文献
    • 外部リンク

    1968年4月、日大理工学部教授が裏口入学を斡旋して多額の謝礼金を受領したのに、それを脱税していたこと、1968年5月に東京国税局の調査で日本大学に莫大な使途不明金が明るみに出たことは、当時の日大の学生たちを怒らせることになった。この事件を発端に、日大で大規模な大学紛争が巻き起こった。秋田明大を議長とする日大全学共闘会議(全共闘)は、教職員組合や父兄会をも巻き込み、この大学紛争は、全学的な規模に広がった。 その後、日大の学内に警視庁機動隊が投入され、警察官1名が殉職したほか、双方に多くの負傷者を出した。 1968年9月には、学生側が古田重二良会頭を筆頭とする日本大学当局に経理の全面公開や全理事の退陣を一時約束させた。しかし、当時の佐藤栄作内閣によってその約束は覆され、日大生たちの運動は退潮し...

    1960年代後半に日本では18歳人口の急増と大学進学率の向上により大学生の数が急伸し、大学教育の性格は大衆化しつつあった。 日大は、極めて強い保守思想の持ち主である古田重二良[注釈 1]の経営のもと、その潮流に乗って急速に膨張した。1968年(昭和43年)には学生・教職員総数15万を数える日本最大の大学となり、全国大学生総数の約1割を占めるまでに至った。 一方で、学習環境や福利厚生、教職員数はこれに追いついておらず、教育条件の劣悪さに学生たちの不満が高まっていた。当時の大学の講義は500人から2000人程度の学生を入れた大教室で教員がマイクで話す形式(いわゆるマスプロ方式)が中心であり、教員の質も低く[注釈 2]、それにも関わらず授業料はしばしば値上げされた。その時の日大の学費は、当時の日本...

    使途不明金の発覚

    1968年1月26日、日大理工学部教授(教務部長兼評議員)Oが裏口入学で3000万円を得ていたことが新聞報道された[注釈 3]。 さらに同年4月14日、国税局が日大の11学部と2高校への監査[注釈 4]で昭和38年から昭和42年までの5年間で合計約20億円の使途不明金があったことを発表し、5月5日には日大の使途不明金と源泉脱税は合計34億円にのぼると公表された。 これにより、入学金・授業料・寄付金などの約一割を大学本部へ「総合費」として納付し収入を隠匿するという、学部の独立採算制を利用した金の流れのみならず、日大のずさんな管理体制が白日の下に晒された。 使途不明金の実際の使い道は、 1. 教職員への非課税手当(給与規定にないヤミ給与) 2. 本部役員への献納金 3. 学生対策費(学生運動を妨害するための体育会、応援団の予算) 4. 組合対策費(教職員組合へのスト破り) 5. 社交渉外費(古田重二良を会長とした日本会の他、後援会を通じた政財界への献金) などであった。

    全共闘の結成

    巨大な日大では、各学部が各地に散らばって学生たちを分断していたが、大学の不祥事に対して最初に声を上げたのは世田谷区の日大文理学部と神田三崎町の日大経済学部の日大生たちであった。 4月23日、文理学部学生会執行部が教授会に対して公開質問状を出した。しかし、返答は「教授会は経理に直接の権能を有しないので具体的に述べられない」と素っ気ないものであり、その後、日大の有志学生らが討論資料やビラを作成して全学生の団結と行動を呼びかけた。 秋田明大を委員長とする経済学部学生会は、5月18日に使途不明金問題についての学生委員会の開催を教授会に請願したが、ここでも学部として声明を出すまでの間は不許可とされた。これを受けて秋田明大らは無届での活動を始め、5月21日から数百人を集めて日大経済学部の本館地下ホールで抗議集会を開いた。 5月23日、大学当局は本館入り口で他学部生を排除したり、学生会執行部と指導委員長の話し合いと引き換えに無届け集会を即時解散させようとしたが、学生側はこれを拒否し、秋田明大は通告文を焼き捨てた。その後、退出しようとする学生らを体育会系学生が妨害し、大学職員がシャッターを下ろし...

    大学当局の抑圧と機動隊出動

    5月31日、日大全共闘は理事との大衆団交を申し込んだが、大学当局は「全学共闘会議は非合法団体であり、大学としては認められない」と拒絶され、各学部で抗議集会が開かれた[注釈 7]。この日の午後、集会に参加した学生が体育会系学生らに暴行され、数名が搬送された。 6月4日に行われた集会では各学部の学生1万余人が集結。右翼や体育会系を集めていた大学当局も、そのあまりの数に暴力による排除を断念し、大学本部で全共闘指導部が学生部長との談判を行うが、平行線のまま全共闘代表は11日に大衆団交を行うことを要求して引きあげた。 6月6日、古田重二良会頭らは「使途不明金は絶対にない」「この難局をのりこえ、学園の発展につくす」として退陣を拒否し、集会の完全自由化や検閲撤廃も否定した[注釈 8]。 日大全共闘が大衆団交を行うとした6月11日、大学当局側は校舎をロックアウトし、暴力集団[注釈 9]が集会に参加した学生に対して校舎の上から物を投げつけた。建物内部に入った学生には木刀や陸上競技の砲丸などの凶器が振るわれ、一部には日本刀を持ち出す者もおり、40人が入院するなど多くの学生が負傷した。 その日の午後、...

    学生・機動隊双方に多数の負傷者を出したため[注釈 20]、その責任をとって日大の永田菊四郎総長は辞職した。その直後に日大関係者による日大の総長選挙が行われ、歯学部長鈴木勝が総長となった。また、高梨公之が新たに日大の理事長となった。なお、古田は“会長”となったが、紛争収束後の1970年(昭和45年)に日大付属病院で死去する。病院では日大全共闘を避けるため偽名を名乗っていた。古田派の中心人物として知られた石松新太郎・日大理工学部助教授は1981年に愛人の子に鉄パイプで撲殺された。 なお、1970年2月25日には、京王線武蔵野台駅付近の踏切で体育系学生集団ともみあいになった全共闘側の学生が、特急電車と接触して死亡する事件が起きている。その後付近にいた他の全共闘学生らは凶器準備集合罪などで逮捕された...

    1968年の紛争以前にも、日大では学生の自治的な学生運動が起きていた。1966年(昭和41年)に学生連合会は、以下の要求を行った。 1. 専任教員の質と量の充実。 2. 教授の質と量の充実。 3. ゼミナール数の増加。 4. 新入生オリエンテーションの実施。 5. 学生の休講対策・実習対策・実験対策。 6. 専門図書の増加と専門図書の購買拡大。 7. 校舎の建設。 8. 学生寮の建設。 9. 厚生寮の建設。 10. 学生会館の建設。 11. 自由なグラウンドの建設。 12. 集会や出版について、許可制から届出制への移行。

    小熊英二 著、渦岡謙一; 高橋直樹 編『1968』 上、新曜社、2009年。ISBN 978-4-7885-1163-7。OCLC 458295347。
    荒川章二「「1968」大学闘争が問うたもの : 日大闘争の事例に即して」『大原社会問題研究所雑誌』第698巻、法政大学大原社会問題研究所、1-24頁、2016年。doi:10.15002/00013530。https://doi.org/10.15002/00013530。
    荒川章二「日大闘争 : 9.30 大衆団交以後」『国立歴史民俗博物館研究報告』第216巻、国立歴史民俗博物館、213-242頁、2019年。http://id.nii.ac.jp/1350/00002453/。

    刊行物

    1. 秋田明大編 『大学占拠の思想―日大生の永久闘争宣言』 三一書房、1969年 2. 秋田明大 『獄中記―異常の日常化の中で』 ウニタ書舗、1969年 3. 真武善行編 『日大全共闘資料集―新聞報道にみる日大闘争』 68・69日大闘争アーカイブス(自費出版)、2009年 4. 田賀秀一『1608名の逮捕者―日大闘争弁護士の証言』 大光社、1970年 5. 田村正敏『造反潜行記』 北明書房、1970年 6. 「日大闘争の記録」制作実行委員会 『忘れざる日々(とき)―日大闘争の記録vol.1』『(同)vol.2』 自費出版、2011年2月・8月 7. 日本学生ジャーナリスト会議編 『日大を許さない―「アウシュビッツ大学」からの告発』 第三書館、1986年 8. 日本大学新聞研究会編 『日大紛争の真相―民主化闘争への歩み』 八千代出版、1969年 9. 日本大学全学共闘会議・石田郁夫編著 『強権に確執をかもす志―日大全共闘』 しいら書房、1969年 10. 日本大学全学共闘会議編・田村正敏責任編集 『バリケードに賭けた青春―ドキュメント日大闘争』 北明書房発行・三笠書房発売、1969...

    写真集

    1. 佐々木美智子 『日大全共闘―あの時代に恋した私の記録』 鹿砦社、2009年 2. 日本大学全学共闘会議書記局 『日大闘争』 五同産業、1969年 3. 日本大学全学共闘会議記録局「解放区 '68」編集委員会 『解放区 '68―日大斗争の記録』 出版する会(自費出版)、1969年

  5. 1969年のテレビ(1969ねんのテレビ)では、1969年(昭和44年)の日本におけるテレビジョン放送全般の動向についてまとめる。

  6. 1969年の 10.21国際反戦デー闘争 (10.21こくさいはんせんデーとうそう)は、 1969年 10月21日 に 東京都 新宿区 を中心に発生した 日本の新左翼 暴動 事件。 事件の概要. 国際反戦デー にあたるこの日、新左翼各派は前年の国際反戦デー闘争(新宿騒乱)に続き大規模な街頭闘争を計画、 新宿 を中心に各地で 機動隊 と衝突した。 また、新宿以外でも 日本生産性本部 や NHK放送センター 、 日本工業倶楽部 に火炎瓶を持った学生らが乱入、占拠したほか、 本所警察署 に火炎瓶が投げ付けられる事件も発生した [1]。 この事件での逮捕者は1594人に上り、過去最大であった。 ただしこの記録は翌月の 佐藤首相訪米阻止闘争 で塗り替えられることになる。

  7. 第32回衆議院議員総選挙 (だい32かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、 1969年 (昭和 44) 12月27日 に 日本 で行われた 国会 (衆議院) 議員 の 総選挙 である。. 初めて12月に行われたことから「師走選挙」(しわすせんきょ)とも呼ばれた ...