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  1. 日本の警察官 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/警察官採用試験
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    • 装備
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    • 各国の警察官
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    • 外部リンク

    平安時代の弘仁7年(816年)頃に警察組織として検非違使が設置され、主に京都の警備にあたった。 江戸時代には警察に相当する組織としては、町奉行や勘定奉行などがあった。江戸市中は町奉行所が扱い、幕府直轄領については勘定奉行が扱った。たとえば江戸には南北の町奉行が、諸国には地名を冠した遠国奉行があり、その職員である与力、同心が現在の警察官に相当した。ただし、与力、同心の人数は人口に対して非常に少なく、江戸の人口100万人(当時の日本はまだ身分制の社会で、城下町の人々は武家方・寺社方・町方(など)に分類され、町奉行の活動の対象となる町方(=町人)の人口は半分の約50万人)に対して警察業務を執行する廻り方同心は南北合わせて30人にも満たなかった。この人数で江戸の治安を維持することは困難であったため、同心は私的に岡っ引と呼ばれる手先を雇い、警察業務の末端を担わせていた。江戸の岡っ引は約500人、その手下の下っ引を含めて3,000人ぐらいいたという。また、重罪であった放火、押し込み強盗などを取り締まる火付盗賊改方も設置された。 明治維新によって江戸幕府が崩壊し、新たに薩長土肥が主導する明治政府が誕生すると、諸藩の兵(藩兵)が治安維持に当たった。しかし、藩兵は純然たる兵士であり、警察官ではなかった。1871年、東京府に邏卒(らそつ)3,000人が設置されたことが近代国家警察の始まりとなった。邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用されたが、その内訳は薩摩藩出身者が2,000人、他が1,000人であり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった。同年、司法省警保寮が創設されると、警察権は同省に一括され、東京府邏卒も同省へ移管された。 薩摩藩出身の川路利良は天皇を中心とする中央集権国家にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議した。司法省警保寮は内務省に移され、1874年に首都警察としての東京警視庁が設立された。 以後の警察は、国家主導体制のもと、管轄する中央省庁の権限委任も多く行われたが、最終的に内務省に警察権が委任され、内務省方の国家警察・国家直属の首都警察としての警視庁と、各道府県知事が直接管理下に置く地方警察の体制に落ち着いた。 1933年に大阪市の天六交差点で起きたゴーストップ事件(天六事件)にて、市電を目がけて赤信...

    警察官になるには、警察官採用試験に合格しなければならない。警察官の多くは、都道府県ごとに実施されている警察官採用試験を受験し、地方公務員として都道府県に採用されることになる。警察庁の警察官採用試験は、都道府県の警察官採用試験とは別で実施され、国家公務員として採用されている。いわゆる「警察官僚」と呼ばれ、採用は毎年20人ほどの極めて狭き門である。採用試験には、大卒程度のⅠ類、短大卒程度のⅡ類、高卒程度のⅢ類といった区分が設けられている。受験資格は自治体によって異なるが、受験年齢下限は18歳、上限は28~35歳とされている。なお、職務の特性から身体基準も設けられている。身長は男子160cm以上、女子154cm以上。体重は男子約48kg以上、女子45kg以上。視力は裸眼視力0.6以上、または矯正視力1.0以上。このほかにも、色覚、聴力などについて身体要件がある。自治体によって、採用試験の時期や回数は異なっており、1年に1回という自治体もあれば、採用時期を分けて1年に2、3回実施している自治体もある。毎年度、おおむね4月・8月・12月頃に、1週間〜10日前後の試験申し込み期間が設けられ、願書などの必要書類を提出する。その約1ヵ月後に一次試験が行われ、教養試験や論文試験などの筆記試験に加えて、資格経歴の評定、身体検査、適性検査などが実施される。警察官採用試験の難易度は、市役所職員採用試験と同程度である。一次試験合格者は数週間後に行われる二次試験に進み、面接試験や体力試験を受ける。最終合格者については「警察官採用候補者名簿」に名前が記載され、翌年度の4月1日以降、順次「巡査」として採用されることになる。また、最終合格者に対しては、身辺調査が行われることになる。地域によって基準や調査範囲は異なるが、おおむね3親等以内までがその対象となっている。3親等以内に、暴力団関係者やカルト信者、日本共産党関係者、前科前歴のある者が存在する場合、不採用となる。試験は、各都道府県別、男性・女性別、またⅠ類・Ⅱ類・Ⅲ類といった区分別に、年に複数回実施されることが一般的であるが、採用までの一連の流れは共通している。 採用されると、全員が警察学校初任科に入校して、法学や警察実務を学ぶ。このほか術科として、警察礼式、点検教練、柔剣道、逮捕術、けん銃操法、救急法等を学ぶ。法学では、憲法、警察法、警察...

    警察官の階級は、警察法第62条により、警視総監以下、警視監、警視長、警視正、警視、警部、警部補、巡査部長及び巡査の9階級が定められている。また巡査と巡査部長の間に階級徽章から区別されるように、警察法に定められた正式な階級では無いが「階級的地位」として運用される巡査長[注釈 1]がある。 警察庁の長たる警察庁長官は日本の警察官の最高位の官職名・職位であるが、階級を有しない警察官である(警察法第34条第3項、第62条)。警視監以下の警察官は制服着用時に「階級章」を着装するが、長官は特別に規定された「警察庁長官章」(金色の5連日章)を両肩肩章に着装する(警察官の服制に関する規則第4条第1項)。警視総監も警視監までに規定されている階級章ではなく、両肩に4連日章を着装する。 警視総監は、最高の階級として東京都を管轄する警視庁に1名のみ置かれ、その職名と階級が一致する。全国の道府県警察本部長が警視監ないし警視長なのに対して、首都の治安維持を指揮する警視総監は、階級においても特別な地位である。 その他の公務員でも同様であるが、殉職した場合は殉職の態様により二階級、あるいは一階級特進等の形で特別に昇任する場合があり、その場合には、(遺族への)退職金支払い・叙勲・その他の保障も特進した階級に基づきなされる。 1990年代に、職務の高度化及び専門化に鑑み、警視、警部、警部補の人員割合を増やすという、階級構成の是正化が行われている。 国家公務員として警察庁(本庁)に採用された場合、国家公務員総合職採用者(旧Ⅰ種、旧三級職、有資格者、いわゆるキャリア)は警部補の階級を初任とし、国家公務員一般職(大卒)採用者(旧Ⅱ種、旧二級職、いわゆる準キャリア)は巡査部長の階級を初任とする。これら警察庁採用の警察官は昇任試験を課せられることなく、選考により昇任する。 地方公務員として都道府県に採用された場合は、採用枠や学歴に関係なく原則として巡査(旧1級職、国家III種採用相当、高卒程度)の階級を初任とする。その後は一定の経験年数を受験資格とする、巡査部長、警部補、警部と3段階の試験を通じて昇任の道が開ける。いずれも倍率の高い試験である。警視以上へは試験ではなく個別の選考により昇任する。警察制度上、巡査部長は初級幹部、警部補は中級幹部と位置づけられる。地方公務員として採用された者であっても、警視正の...

    警察庁の警察官は、警察法施行令第9条で制服のほかに階級章、識別章、警察手帳、手錠、警笛、警棒、拳銃、帯革、けん銃吊り紐を貸与されることが定められている。各都道府県警察でも、これに準じた装備が貸与されている。

    戦前は女性の警察官任官は禁止されており、警察官は全員男性であった。これは軍人も同じであり、また他の職業も大半は女性の社会進出を認めていなかった。 日本における女性警察官の採用は1946年(昭和21年)に始まった。これは日本の男尊女卑傾向が強かったこともあるが、警察・軍隊はとりわけ男社会で、「軍人と警察官は女にはできない」という強い差別思想があったためである。しかし戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ)の指導もあり、各国では既に当然であった婦警制度を実現させた。 ただし、当初はあくまでも職場の花か広報としての役割のみで採用し、それ以外の職には一切就けない人事も横行したが、昭和30年代頃から女性の社会進出も増え始め、警察内の男女差別は弱まっていった。元々、婦人警察官というのは男性警察官の補助的役割という趣旨で導入され、同じ巡査であっても婦警巡査のほうが低い扱いであったが、これは現在では廃止されている。 2000年、男女雇用機会均等法に伴い、名称が「女性警察官」へと変更された。通常はあえて女性の警察官のみを特定して呼称しない場合、「警察官」と統一して呼称される。 女性警察官は人事面での差別を一切受けないことになっており、男性警察官と同じく警務、総務、地域、刑事、交通、警備、公安、組織犯罪対策各部に配属され、機動隊や銃器対策部隊に配属された例もある。能力次第では、幹部警察官として管理官や警察署長、本部の課長(警視)や県警本部の各部長(警視正~警視長)などの職務にあたることもある。警視庁では女性警視が第5機動隊副隊長として着任したケースや岩手県警察では田中俊恵警視長が、女性警察官初の県警本部長に任命された。

    呼称としては下記のとおり多様な呼称が存在するが、俗称としては「警官」、「お巡りさん」などが一般的である。これに加えて女性の場合は「婦警さん」なども呼ばれる。 1. 「警官」 - 部隊活動にあたる警察官の集団を「警官隊」等という形で使用していたマスコミ用語であり、正式な呼称ではない。 2. 「サツ」 - 暴力団用語。また報道関係者を中心に「サツカン」と呼ばれる場合もある。蔑称のニュアンスがあるサツを避けてカンと略することもあるが、その場合、官憲とか公務員など意味が広がることもある。 3. 「マッポ」 - 警官に薩摩藩(鹿児島県)の出身者が多いことによる“薩摩っぽ”から(初代警視総監・川路利良も薩摩出身だった)。さらにはその他の藩の出身者呼ぶ俗称もある。 4. 「ポリ」 - 英語の“police”から。主に関西で蔑称的に使われる。「ポリさん」、「ポリ公」と呼ばれることもある。 5. 「公僕」 - 「広く公衆、公共に奉仕する者」の意。 6. 「ガチャ」 - サーベルの音を立てて歩いていることから。 7. 「オイコラ」 - 高圧的な警察官を意味するが、元来「おいこら」とは「おいそこの君」と人を注目させて呼び止めるいわゆる薩隅方言であって、本来は威圧する言葉ではない。このような風説が広まった背景として、千代丸健二によって「高圧的な警察官」の意味で作られた造語から発生している。千代丸は消費者運動に参加していた頃に企業と手を組んだ警察に誤認逮捕され、10年もの間裁判で争った関係から警察の内部事情に精通しており、オイコラ警察官対策という悪質な警察官の対策に関する書籍も出している。 8. 「カンケン」 - “官憲”から。 9. 「デカ」 - 刑事を指す俗称。詳細は「刑事#俗称」を参照。 10. 「デコ助」 - 制帽の徽章がおでこのところにくることから付いた蔑称。暴力団関係者が言う事がある。「デコッパチ」とも。 11. 「PM」 - 英語のPoliceMan(ポリスマン、つまりは警察官)のスペルから。本来は警察通信上の隠語だが、警察マニアや無線マニアの間でも使われている。 12. 「カンク」 - 「官狗」。昔、群馬県などで蔑称として陰で呼んでいたもの。いつの間にか元の意味を離れ、一般的呼称になっていたとも。 13. 「ヒネ」 - 「ひっそりと狙う」ことから。関西以西で蔑称として使...

    『日本戦後警察史』警察庁警察史編さん委員会、警察協会、1977年。NCID BA59637079。
    『警視庁史 明治編』警視庁史編さん委員会、警視庁、1959年。NCID BN14748807。
    『警視庁史 大正編』警視庁史編さん委員会、警視庁、1960年。NCID BN14748807。
    『警視庁史 昭和前編』警視庁史編さん委員会、警視庁、1962年。NCID BN14748807。
    • 遵法意識・体力・武道の技術
    • 公務員
  2. 魚類用語 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/魚類用語

    延長形(えんちょうけい) または 延長(えんちょう) 体長が体高の8倍以上あるもの。「延長する」のように使う。アシロ目など。 模様 縦帯(じゅうたい、英: longitudinal band ) または 縦縞(たてじま)、縦班(じゅうはん)、縦線(たてせん) ...

  3. 呪術廻戦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/呪術廻戦
    • あらすじ
    • 用語
    • 表現技法
    • 書誌情報
    • 反響・評価
    • アニメ
    • 体感型ゲーム
    • 脚注
    • 外部リンク

    東京都立呪術高等専門学校(0巻)

    2016年11月、乙骨憂太には、婚約者の少女である特級過呪怨霊・祈本里香が取り憑いていた。同級生から執拗な嫌がらせを受けていた乙骨は、里香が彼らに重症を負わせたことで呪術師に拘束され、死刑を宣告される。しかし強大すぎた里香の力に術師側は尻込み、かつ呪術高専の教師・五条悟の勧めもあったことから、乙骨は2017年に東京都立呪術高等専門学校に転校する。 他者との関わりを畏れ、呪術師になることにも生きることにも消極的だった乙骨だが、個性豊かな同級生と関わる内に生きるための自信を持ち、里香を自分から解呪するために呪術師を目指すようになる。 乙骨の入学から約1年後、かつて一般人を大量虐殺して呪術界を追放された特級呪詛師・夏油傑が突如現れる。非術師を殲滅し、呪術師だけの世界を目指す夏油は、乙骨達の前で2017年12月24日に、新宿・京都で、大勢の呪霊たちによる虐殺「百鬼夜行」を実行すると宣言する。そして百鬼夜行当日、夏油は里香を手に入れるため、高専を襲撃する。安全のため高専に残っていた乙骨は激戦の末に夏油を倒し、同時に里香の解呪に成功し、物語は幕を閉じる。

    呪い

    人間から流れ出た負の感情や、それから生み出されるものの総称。作中で、日本国内での怪死者・行方不明者は年平均1万人を超えており、そのほとんどが呪いによる被害とされている。

    組織・家系

    呪術高等専門学校 1. 東京と京都に1校ずつ存在する四年制の呪術教育機関。表向きは私立の宗教系学校とされている。略称は「呪術高専」「高専」。 2. 多くの呪術師が卒業後もここを活動拠点としており、教育のみならず任務の斡旋やサポートも行っている呪術界の要。 3. 校舎は天元の結界に囲まれており、高専が登録していない呪力を持つ者が中に入るとアラートが鳴るようになっている。 4. 現在の上層部は、伝統や地位による保守的な方針ばかりに従う保守派揃いであり、五条はその革新を目指している。また、五条が自身の「最強」による発言力を利用した融通(ワガママ)によって救われた術師(虎杖等)も数多く存在する。 5. なお、たとえ学生であっても任務に出る以上給料は支払われる。 6. このうち、東京の郊外に位置する東京都立呪術高等専門学校(都立呪術高専、単に東京校とも)は、敷地内に数多の寺社・仏閣が建てられており、天元の結界術によって日々配置が替わっている。また、校内には、宿儺の指や呪胎九相図といった危険度の高い呪物を保管する忌庫(きこ)がある。さらに、学校の地下に存在する、天元の膝元に当たる薨星宮(こう...

    テーマ

    「呪い」をメインテーマとした本作においては、呪霊と呼ばれる具現化した呪いと呪術師たちとの戦いが描かれる。SYOは敵と味方が同じくネガティブな感情である「呪力」を用いている点に触れ、単純な善悪二元論で終わっていないと述べている。

    ストーリー構成

    さわだは本作の第1話について、過去の『ジャンプ』作品よりも構成が複雑すぎると指摘している。たとえば、『ONE PIECE』の第1話では、海賊にあこがれる少年・ルフィが悪魔の実を食べてゴム人間になるも自らの未熟さを思い知らされ、成長してから海に出るという内容であり、物語を通じて世界観やキャラクターが明確に描かれている。一方、本作の第1話では、主人公・虎杖悠仁の超人的な身体能力や呪いと呪術師の関係などの大量の要素が詰まっていることに加え、虎杖とオカルト研究会のやり取りなども描かれいるため、初見の読者が理解しきれずに重要な要素であっても読み飛ばしてしまうおそれがあるとさわだは指摘している。また、多くの『ジャンプ』作品では第1話で起承転結を明確にする一方、本作の第1話では、虎杖が呪いの王・両面宿儺に乗っ取られたところで終わるというクリフハンガーの手法が用いられている。第2話では、宿儺に乗っ取られた虎杖が秘匿死刑を言い渡されるものの、宿儺を取り込む耐性があるという理由から死刑が延期されるまでの様子が描かれており、同エピソードを通じて呪術と呪いの関係といった世界観についての基本的な説明がなさ...

    キャラクター造形

    主人公の高校生・虎杖悠仁は自らの死に対しては達観しており、それは祖父を看取る場面などに現れている。同時に、彼には「正しい死」を望む行動理念があり、天寿を全うする前に人々を殺す呪霊に対しては激しい敵意を向ける。映画ライターのSYOは物語の序盤から死に対して達観した態度を見せるキャラクターは異例であると、現代ビジネスに寄せた記事の中で指摘している。一方、作者の芥見は虎杖のキャラクター造形の経緯について、親近感や頼もしさを感じるような、「近所にいたらいい」というタイプを想定したと、自身が審査員として参加したJUMP新世界漫画賞の連載企画にて、読者の質問に答える形で明らかにしている。同時に、芥見は自身が苦手とする「少年漫画の主人公らしさ」を虎杖に押し付けたとも話しており、当初は彼のことを好きにならないだろうと思っていたが、真人戦から少し好きになったことも明かしている。 呪霊たちは、人間の負の感情から生まれたという設定であり、その行動規範や命に対する価値観は人間と大きく異なる。このため、呪霊たちが一般人を殺す場面はあえて軽く描かれている。同時に、人間の死を軽んじる呪霊たちは、虎杖の生き方や...

    コミック

    1. 芥見下々 『呪術廻戦』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、既刊16巻(2021年6月4日現在) 1.1. 「両面宿儺」2018年7月9日発行(7月4日発売[集 1])、ISBN 978-4-08-881516-9 1.2. 「呪胎戴天」2018年9月9日発行(9月4日発売[集 2])、ISBN 978-4-08-881608-1 1.3. 「幼魚と逆罰」2018年12月9日発行(12月4日発売[集 3])、ISBN 978-4-08-881666-1 1.4. 「殺してやる」2019年3月9日発行(3月4日発売[集 4])、ISBN 978-4-08-881756-9 1.5. 「京都姉妹校交流会」2019年5月7日発行(5月2日発売[集 5])、ISBN 978-4-08-881828-3 1.6. 「黒閃」2019年7月9日発行(7月4日発売[集 6])、ISBN 978-4-08-881876-4 1.7. 「起首雷同」2019年10月9日発行(10月4日発売[集 7])、ISBN 978-4-08-882076-7 1.8. 「懐玉」2020年1月9日発行(1月4日発...

    小説

    1. 芥見下々(原作)、北國ばらっど(小説)、集英社〈JUMP j BOOKS〉 1.1. 『呪術廻戦 逝く夏と還る秋』 2019年5月1日発売[集 18]、ISBN 978-4-08-703489-9 1.2. 『呪術廻戦 夜明けのいばら道』 2020年1月4日発売[集 19]、ISBN 978-4-08-703492-9

    関連書籍

    1. 芥見下々 『呪術廻戦 公式ファンブック』 集英社〈ジャンプ・コミックス〉、2021年3月4日発売[集 20]、ISBN 978-4-08-882636-3

    本作の第1巻は2018年7月の発売から間もなく重版がかかり、2巻が発売された同年9月までに2度重版されている。テレビアニメの放送が開始した2020年10月以降は全巻で重版が加速し、2021年3月発売のコミックスはヒットの指標を超える初版150万部を記録し、2021年6月4日発売の16巻の初版発行部数は200万部を記録している。2021年6月時点のデジタル版を含めたコミックス累計発行部数は5000万部を突破している。また、小説版の累計発行部数は2021年2月時点で50万部を突破している。 『全国書店員が選んだおすすめコミック2019』では1位、『みんなが選ぶTSUTAYAコミック大賞2019』では大賞をそれぞれ獲得しているなどの受賞歴がある。

    2020年10月3日から2021年3月27日まで毎日放送・TBS系列『スーパーアニメイズム』枠にて放送された。 また、『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』を原作とする劇場アニメ『劇場版 呪術廻戦 0』が2021年12月24日に東宝の配給により公開予定。

    呪術廻戦×謎解きゲーム 謎の迷宮から生還せよ!

    1. あそびファクトリー主催により、渋谷マルイ6階イベントスペースに開設された「あそびファクトリーのあそび場」周辺を開催地に周遊型の体感型謎解きゲームとして2021年1月28日から2月28日まで開催された。設定は、虎杖悠仁、伏黒恵、釘崎野薔薇の3人が、ある建物に巣食う呪詛師を倒す任務を与えられ、呪詛師の「謎を解かないと祓えず、この建物からも出られない」という術式による呪霊蔓延る迷宮から生還を目指して、謎を解き歩く。

    呪術廻戦 謎ファイル

    1. あそびファクトリーから持ち帰り型の体感型謎解きゲームグッズとして2021年2月発売。

    呪術廻戦 呪霊褄まう廃校からの脱出

    1. SCRAPの主催によりオンラインでのリアル脱出ゲームとのコラボで、キット通販型の体感型謎解きゲームとして2021年2月8日より参加キットが発売され、同年2月26日から8月31日までプレイ可能だった。遠隔で発動することができる術式を持つが代償として家から出られないので高専では名前だけの在籍している呪術師という設定のプレイヤーは五条に指名され、とある廃校で起きている呪霊による失踪事件の解決に向かった高専の1年生とコンタクトを取りながら呪霊を祓って事件解決するため、謎を解いて真相を暴く。同ゲームに登場する原作側の登場人物のキャストは、テレビアニメ版と同じである。。

    出典

    以下の出典は 集英社の本内のページ。書誌情報の発売日の出典としている。

  4. 御嶽山 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/御嶽山

    気象庁は2008年(平成20年)3月31日に噴火警戒レベル1(平常)と噴火予報を発表した [22]。 2014年(平成26年)9月27日に噴火、南側斜面を火砕流が流れ下り、噴火警戒レベルが3(入山規制)に引き上げられた [23]。

  5. 球磨川 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/球磨川
    • 概要
    • 災害史
    • 地理
    • 観光・レジャー
    • 流域の自治体
    • 支流
    • ダム
    • 並行する交通
    • 関連項目
    • 外部リンク

    かつては人吉から八代まで巨岩がひしめく急流が続き、水運に利用するのが難しかったが、相良氏22代当主相良頼喬の叔父で丹波篠山出身の林正盛が、1662年(寛文2年)から私財を投げうって開削事業に着手し、無数の巨岩を取り除く難工事の末、1665年(寛文5年)には川舟の航行が可能な開削が完成した。以来、球磨川は外部との交通・物流の幹線として、また参勤交代にも利用され、人吉・球磨地方の発展に多大な貢献を果たしてきた。 肥薩線の開業と道路の整備、林業の衰退やダム建設などのため、球磨川の水運は縮小し、現在は観光用の川下り船の運航程度である。 川の水は、流域内の約14,000haに及ぶ耕地の農業用水や、八代平野の臨海工業地帯における製紙・パルプや金属加工製造業などの工業用水、流域内の20箇所で行われている水力発電などに利用されている。 八代海に注ぐ河口付近には、1,000haを超す干潟が形成されており、日本の重要湿地500に選ばれている。一年を通じて野鳥が飛来し、その種類は90種類以上となることから、バードウォッチングが盛んであり、重要野鳥生息地(IBA)にも指定されている。

    1669年(寛文9年)8月 - 青井阿蘇神社の楼門が約1m浸水。死者11人、浸水家屋1432戸。
    1755年(宝暦5年)6月 - 山津波が発生し、瀬戸石付近で堰止湖が形成され決壊。八代の萩原堤が決壊。死者506人、家屋流出2118戸、田畑被害220km2。
    1888年(明治21年)6月 - 橋梁流出が発生。死者3人、家屋流出6戸。
    1926年(大正15年)7月 - 井出(農業用取水施設)2か所が全壊。家屋流出3戸、浸水家屋200戸。

    球磨郡水上村の石楠越(標高1,391m)及び水上越(標高1,458m)を源流とし、人吉盆地の田園地帯を西に流れる。人吉市を過ぎてからは九州山地の狭い谷間を縫って流れ、JR肥薩線と国道219号が併走する。球磨村の球泉洞の付近で流れを北向きに変え、八代平野に出て分流し三角州を形成、八代海(不知火海)に注ぐ。 球磨村のあたりは日本でも有数の急流で、数多くの瀬がある。元は76の瀬があったが、ダムができたため現在は48の瀬となっている。そのうち「二俣の瀬」「修理の瀬」「網場(あば)の瀬」「熊太郎の瀬」「高曽(たかそ)の瀬」が「球磨川5大瀬」と呼ばれている。 四方を深い山々に囲まれ、外界から遮断されている人吉盆地は、内陸型気候で昼夜の寒暖の差が激しく、そのため秋から春にかけて盆地全体がすっぽりと霧に覆われてしまうことが多い。年間100日以上も朝霧が発生し、発生頻度は日本で1、2位を争うが、その霧の原因は球磨川である。 人吉盆地は、第四紀の地殻変動で四万十帯山地の一部が陥没して形成され、東西約40km、南北約10kmに及ぶ大きな古人吉湖を形成していた。その水は、元は南西の大口盆地(鹿児島県伊佐市)方面に流れ出ていたとみられるが、周辺の火山の活発な火山活動による噴出物で大口方面への流路が塞がれ、やがて人吉盆地を取り囲む山々の中で低い球磨村の一勝地大坂間へ溢れ出し、球磨川が誕生したと推定されている。 人吉市内付近は流れが比較的ゆるやかなため、インターハイのカヌー大会が開かれることもある。

    人吉藩相良氏の居城だった人吉城址は球磨川の左岸にあり、多聞櫓・角櫓・長塀が復元され昔の面影を見せている。城下町である人吉市の中心を球磨川が流れており、温泉が川沿いに点在する。 5月には「人吉温泉球磨焼酎まつり」が開催され、郷土芸能、市民総踊りパレードなどがあり、いろいろな蔵元の球磨焼酎の大試飲会(有料)や特産品の販売も行われる。また、毎年10月には八代市の球磨川河川敷で、全国の花火師が集まりその技術を競う「やつしろ全国花火競技大会」が開かれ、数十万人の観光客が訪れる。 球磨川は大きくて美味しいアユが育つことで全国的に有名であり、特に30cmを超える巨鮎は「尺アユ」と呼ばれ、釣り人の人気の的となっている。しかしその人気により県内外から大勢の釣り人が集まるようになったためか、近年アユの量は減少しつつある。流域の各ポイントでは、6月1日の解禁後は連日釣り人の姿を見ることができる。8月の最終日曜日には「日本一の大鮎釣り選手権大会」が催される。 川下り船が名物で「くま川下り」として知名度がある。かつては材木を運搬していた河道であるが、現在は観光船として運行されている。川下りは人吉から(約10km)と渡から(約8km)の2つのコースがあり、人吉から渡までは比較的穏やかな流れであるが、渡から先は急流を下る。冬場はコタツ船も運航する。 川下りの終着点近傍にある鍾乳洞の球泉洞は、全長約4,800mで、日本では6番目に長い洞窟である。洞内は一年を通して16℃に保たれ、川や滝が流れ、独特の生態を持つ洞穴生物が棲息している。500mの観光コースと、40mの縦穴などを階段で下る探検コースの2つを選ぶことができ、石柱・フローストーン(流華石)・カーテン(石幕)など、さまざまな鍾乳石の造形が作り出す幻想的な景観を楽しむことができる。周辺には、球磨川と豊かな緑や生物たちの世界を紹介し、人々と自然の関わりとその働きを展示する「森林館」をはじめ、物産館、レストラン、キャンプ場もある。 1990年代後半より、カヤック、カヌーなどのリバーツーリングやラフティングに好適な川として注目されている。特にラフティングは九州唯一にして日本最南端のスポットとして20社ほどが営業しており、全国でも有数である。おおむね川下りと同じコースを下り、人吉からは流れが緩やかなので初心者や慣らしによく、渡からは激流と荒々しい...

    熊本県

    1. 球磨郡水上村、湯前町、多良木町、あさぎり町、錦町、人吉市、球磨村、葦北郡芦北町、八代市

    柳橋川
    井口川
    免田川
    川辺川 - 八代市、球磨郡五木村、同郡相良村

    鉄道

    1. JR九州 肥薩線 2. くま川鉄道

    道路

    1. 国道219号 2. 九州自動車道

  6. 雲鷹 (空母) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/雲鷹

    1944年長さ172.0mに延長 [9] [10] [注釈 2] エレベーター(13x12m)2基 [11] 吃水 公試平均 8.00m [6] 満載平均 8.26m [6] ボイラー 三菱式水管缶4基 [12] 補助缶2基 [12] 主機 三菱ツェリー式(高低圧 [13])タービン2基 [14] 推進 2軸 x 140rpm [12]、直径5.000m ...

  7. 大日本帝国海軍航空爆弾一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/大日本帝国海軍航空爆弾一覧
    • 型式と概要
    • 信管・発火装置
    • 参考文献
    • 関連項目

    日本海軍では異なる型式の航空爆弾を相当数生産した。これらは3つの主なカテゴリー内部でさらに細分される。 1. 陸用爆弾。これは陸上の目標に対して使用される。これらは普通、高品質に造られたものではない単純な筒状弾体に、鋳造の頭部と尾部を鋲接または溶接している。 2. 通常爆弾。艦艇に対して使用される。汎用及び半徹甲形式がある。これらは高品質で、通常は鍛鋼によりケースが生産された。 3. 特殊爆弾。号数によって用途が指定されており、様々な目標に対して投入された。 日本海軍は建艦競争の不利から航空戦力を重視した。理由は日本が経済・工業力・資源とも貧弱で乏しかった事による。これは海軍の主な公論の一つであり、1912年(明治45年)頃から唱えられ始めた。欧米では全ての目標に使用できる高性能なGP(汎用)爆弾を採用したが、資源に乏しい日本では希少金属はもとより屑鉄でも使用先が限定された。そこで日本海軍では各種爆弾を制定して専用設計を施す必要があった。海軍では通常、交戦の対象は艦艇であるため、装甲板の貫通能力をある程度付与した爆弾が通常爆弾と呼ばれた。こうした爆弾は鋳鋼ではなく高価な鍛鋼により装甲板を貫通できる強度を維持していた。ただし陸用爆弾に比較すると炸薬量が少なく高価である。投下する対象は艦船であるため、生産配備の要求量は比較的少数であった。これに対し、破片を散乱させて人馬を殺傷したり、さほど堅固に装甲されていない陸上施設を破壊するには、炸薬が多く安価な陸用爆弾が投入された。陸用爆弾の弾体には鉄筋コンクリート等を貫通する程度の強度が要求された。炸薬には初期に下瀬火薬、1938年(昭和13年)以降は九八式爆薬を広く用いるようになった。下瀬火薬は感度が高く、自爆防止のため、所定の形に作られた美濃紙の小袋に加熱して鋳込み、これを弾体に詰めた。日本海軍ではこれを成形炸薬と呼んだが、現用のHEATのような意味はない。九八式爆薬は加熱して直接弾体内部に鋳込む「鋳填」を行った。 一般に、航空爆弾の呼称は上から順に「制式採用年式」「全備重量10kgごとを大体の目安として番数で表示」「用途を号数で表示」「通常、陸用を表示」「改良により型式が変更された場合、数字と型を表示」「型式を変えない程度の改良を加えた場合、改と数字を表示」している。「九九式六番二号爆弾改一」は、「九九式(制式年)」...

    日本側の信管・発火装置呼称体系は第二次世界大戦終了まで連合軍側に把握されていなかった。結果、信管の呼称体系が補助として連合軍側により作製された。これは大文字、数字、及び括弧付きの小文字で構成されるものである。一覧では日本側資料により確認できる信管と発火装置を記載する。 日本軍の爆弾は弾頭、または弾頭と尾部に、発火装置と信管を装着する型式が多かった。発火装置には、投下の際に風圧を受けて回転する小型の風車が付けられており、所定の時間回転すると安全装置を解除する。信管は衝撃により起爆し、爆弾本体に充填された爆薬を炸裂させる。日本海軍の爆弾に多用された九八式爆薬は感度が鈍感であり、口径20mmまでの銃弾の直撃程度では発火しなかった。 一五式 1. 一五式通常爆弾信管 2. 一五式弾底発火装置 3. 一五式弾底発火装置一型改二 4. 一五式弾底発火装置一型改三 5. 一五式弾底発火装置二型改一 6. 一五式弾底発火装置二型改二 7. 一五式弾底発火装置二型改三 九一式 1. 九一式煙爆弾一型 九二式 1. 九二式爆弾信管改二 2. 九二式陸用爆弾信管改一 3. 九二式陸用爆弾信管改二 信管の素材が真鍮に変更された。 4. 九二式陸用爆弾信管改三 九六式 1. 九六式爆弾信管 瞬発。 九七式 1. 九七式陸用爆弾信管甲 遅延秒時0.03秒。 2. 九七式陸用爆弾信管乙 3. 九七式弾頭発火装置一型改一 4. 九七式弾頭発火装置二型改一 5. 九七式二号弾頭発火装置 6. 九七式二号弾頭発火装置一型 7. 九七式二号弾頭発火装置二型 8. 九七式二号弾頭発火装置二型改一 9. 九七式弾底起爆装置 10. 九七式投下爆管改一 11. 九七式投下爆管改二 九八式 1. 九八式六号爆弾信管一型焼夷弾用。 2. 九八式六号爆弾信管二型改一焼夷弾用、瞬発。 九九式 1. 九九式特殊弾頭発火装置 - 火薬式時限信管。二三号爆弾用。 2. 九九式通常爆弾信管甲 3. 九九式通常爆弾信管乙 4. 九九式通常爆弾信管丙 5. 九九式二五番通常爆弾信管甲 6. 九九式二五番通常爆弾信管丙 7. 九九式二五番通常爆弾弾底発火装置 8. 九九式三号爆弾信管改一 9. 九九式三号爆弾信管改二 10. 九九式三号爆弾発火装置 11. 九九式三号爆弾発火装置改一 12. 九九式五号発火装置 零式 1....

    兵頭二十八『日本海軍の爆弾』光人社NF文庫、2010年。ISBN 978-4-7698-2664-4
    渡辺洋二『彗星夜襲隊』光人社NF文庫、2008年。ISBN 978-4-7698-2404-6
    海軍省『4瓩演習爆弾爆管破裂事故』大正15年1月28日。アジア歴史資料センターC04015184200
    海軍省『第2540号 昭和9.6.1 兵器貸与の件 中島飛行機株式会社』昭和9年6月1日。アジア歴史資料センター C05023685700
  8. 龍鳳 (空母) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/龍鳳型航空母艦
    • 特徴
    • 歴史
    • 年表
    • 参考文献
    • 関連項目

    艦載機

    竣工時(定数) 1. 艦載機31機(零式艦上戦闘機18機+九七式艦上攻撃機6機+予備7機) マリアナ沖海戦時 1. 艦上戦闘機「零戦」18機+艦上攻撃機「天山」7機+予備6機) マリアナ沖海戦後(定数) 1. 艦載機32機(「零戦」21機+「天山」9機+予備2機) 2. 海戦の損失で定数が揃わず、ほとんど搭載していなかった。

    瑞鳳との相違

    龍鳳は瑞鳳型航空母艦であるが、同型艦とされる瑞鳳とは違いがある。相違点は以下の通り。 1. 船体が瑞鳳型と比べると若干大きく、排水量も2,000tほど多い。 2. 最大速力が瑞鳳型が28ノットなのに対し、龍鳳の速力は26.5ノットと低速になっている。 3. 龍鳳は飛行甲板が強度甲板で伸縮継ぎ手がない。一方瑞鳳型は上部格納庫甲板が強度甲板で、飛行甲板に伸縮継ぎ手が設けられている。 4. 龍鳳の飛行甲板の長さが瑞鳳型より5m長い。 5. 後部エレベーターの位置が瑞鳳型よりも後方にあり、遮風柵は前方にある。 6. 着艦標識の形状が異なる。 7. その他、前部飛行甲板支柱の位置などに違いがある。

    大鯨の諸元

    1938年(昭和13年)時における「大鯨」の要目(特記の無い場合は計画要目)。 1. 公試排水量:14,400トン 2. 全長:215.65m 3. 水線長:211.00m 4. 水線幅:19.58m 5. 最大幅:20.0m(最上甲板) 6. 深さ:19.50m(第1最上甲板まで) 7. 吃水:6.53m 8. 推進:2軸 x 250rpm、直径3.500m 9. 補助缶:ロ号艦本式缶2基 10. 主機:11号10型内火機械4基 11. 出力:計画 25,600馬力、実際 13,000馬力 12. 速力:計画 22.2ノット、実際 18.5ノット 13. 航続力:計画 10,000カイリ / 18ノットまたは12,200カイリ/ 18ノット 14. 燃料:重油 1,897トンまたは補給用を含めて3,570トン 15. 補給物件:重油 1,070トン(うち730トンはバラスト用)、真水186トン、魚雷72本、同実用頭部120個 16. 乗員:竣工時定員 430名、1937年6月1日付定員 442名。その他に潜水戦隊定員 准士官以上78名、下士官兵308名。 17. 兵装:40口径...

    開発まで

    1930年(昭和5年)4月22日に調印されたロンドン海軍軍縮条約で、日本は主力艦に続いて補助艦艇の保有を大きく制限された。そのため海軍は、制限がなかった10,000トン以下の潜水母艦や給油船などを、あらかじめ戦時にいつでも航空母艦に改造できるように設計、建造した。こうして、潜水母艦大鯨、高速給油艦剣埼(祥鳳)と高崎(瑞鳳)が建造されることとなった。この3隻は全て横須賀海軍工廠で建造された。 船体構造に溶接を広く採用、日本海軍では小型の敷設艦八重山で建造の経験があったが、大型艦では初めての試みであった。また主機にはディーゼルエンジンを大型艦艇で初めて採用、航空母艦へ改造した際は煙路の問題と航続距離の伸延に有利となるはずだった。 計画当初、第1状態としての潜水母艦の要目は以下のようであった。 1. 公試排水量:10,500トン 2. 全長:215.0m 3. 水線長:211.120m 4. 垂線間長:197.3m 5. 水線幅:18.070m 6. 平均吃水:5.330m 7. 深さ:19.50m 8. 補助缶:ロ号艦本式ボイラー2基 9. 主機:11号10型ディーゼルエンジン4基...

    大鯨

    日本海軍は本格的な潜水母艦として迅鯨型潜水母艦2隻(迅鯨、長鯨)を保有していたが、八八艦隊の中型潜水艦に対応した能力であった。昭和時代に入って潜水艦の高性能化が進むと、迅鯨型は潜水母艦としての性能が不足するに至った。この状況下、巡潜・海大潜に対応した潜水母艦として建造されたのが、大鯨 と、高速給油艦から潜水母艦になった剣埼である。前述のように、有事には航空母艦に改造することを前提とした設計だったが、潜水母艦の能力も迅鯨型より飛躍的に向上していた。 潜水母艦大鯨は横須賀海軍工廠にて1933年(昭和8年)4月12日に起工された。同年5月23日、大鯨(たいげい)と命名。大鯨は、日本海軍の1万トン級大型艦として初めて電気溶接を多用した。大鯨の計画喫水線長は211.12メートルに達し、これは重巡高雄や妙高より約10m長く、大正期の戦艦山城より若干長い。当時、日本海軍の艦艇で溶接が適用されていたのは、横隔壁や上部構造のような船体の縦強度計算に関係のない部分に限られていた。それを一挙に縦強度にもおしひろげ、シャフトブラケットやスターンチューブ、スターンフレームなども全て鋼板と打物とを溶接で組み...

    1933年(昭和8年)4月12日 - 横須賀海軍工廠で起工。
    1934年(昭和9年)3月31日 - 竣工。横須賀鎮守府籍。そのまま予備艦となり工事続行。
    1937年(昭和12年)8月 - 日中戦争により一時的に第3艦隊付属となり上海方面に進出する。
    1938年(昭和13年)9月5日 - 第一艦隊・第一潜水戦隊に編入。
  9. ケント級重巡洋艦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ケント級軽巡洋艦
    • 概要
    • 艦形
    • 兵装
    • 機関
    • 防御
    • 同型艦
    • 参考文献

    1922年に締結されたワシントン条約の制限に基づき、基準排水量は1万トン以下で主砲は20.3cm(8インチ)砲を搭載する条約型重巡洋艦として設計されたのが本級である。1924年度計画において主砲の門数を主力戦艦と同じく8~9門にすると、当時のイギリス海軍の技術力では基準排水量の1万トンを超過するため、已む無く速力と防御力に目をつぶって火力と航続性能に重点を置いた設計を採った。しかし、内外から他国の同種艦に比べて舷側装甲が25mmしかないのは防御力不足と指摘を受け、就役後に一部の上部構造物を撤去して舷側装甲を増す作業があった。建造は1920年代後半から順次開始され、艦名に州名(カウンティ)が名づけられた事からカウンティ級と呼称されている。 英国巡洋艦の特性である巨大なシーレーン防御のため、高い航続力を有し、居住性と航洋性に優れていた。

    本級の基本設計はエメラルド級軽巡洋艦の延長であるが基準排水量が1万トン台の大型となったため、水面からの乾舷が艦首から艦尾まで高く、側面には凌波性を良くするフレア(反り返り)の付いた平甲板型船体を採用できた。船体長は192mもあり、船体の幅を抑えた水の抵抗の少ない船体形状に成形した事により少ない機関出力でも高速を出しやすい形状であった。 垂直に切り立った艦首から艦首甲板上に20.3cm砲を収めた連装式の主砲塔が背負い式配置で2基、2番主砲塔の基部から上部構造物が始まり、その上に近代的な塔型艦橋が立つ。 艦橋の背後に簡素な単脚式の前後マストに挟まれるように2番煙突のみ太い3本煙突が立つ。艦橋に煤煙がかからないように煙突は後方に傾斜されたが、効果が無かったために公試中に煙突を約4.6m高くして改善する必要があった。煙突の周囲は艦載艇置き場となっており、2本1組のボード・ダビッドが片舷4組ずつ計8組により運用された。 中央甲板の後方は水上機施設で、水上機は3番煙突の基部に設けられたクレーンが片舷1基ずつ計2基で運用され、船体後部に水上機1機を収められる格納庫が設けられ、上部は後部見張所を兼ねていた。後部マストの後方の後部甲板上に20.3cm連装砲塔が後向きに背負い式配置で2基配置された。 本級の副武装・対空火器として、10.2cm高角砲は単装砲架で片舷2基ずつ計4基が3本煙突の側面に配置され、舷側甲板上に53.3cm四連装魚雷発射管で片舷1基ずつ計2基が配置された。舷側部は客船のように艦首から艦尾まで上下2列の舷窓が並び、同時期のフランス海軍の巡洋艦と同じく海外に植民地を持つ外洋海軍ならではの高温多湿の海外任務で乗員が健康を損ねないように設計されている事が伺える。

    主砲

    主砲は新設計の「Mark VIII 20.3cm(50口径)砲」である。特徴としては、同世代の連合側では極めて軽い116.1kgの砲弾を仰角45度で28,030mまで到達させる射程を得ている。俯仰能力は仰角70度、俯角3度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右150度である。発射速度は毎分6発であるが実用速度は3発程度であった。 仰角70度というのはこの時期の重巡洋艦として破格の大仰角であるが、これは20.3cm砲と言う大口径砲を対空砲として使用すると言う、運用的に問題がある要求があったため設計である。このため対艦用の揚弾筒の他に、専用の対空射撃用の揚弾筒を備えている。砲身の俯仰速度も毎秒10度と高角砲並みのハイピッチで設計されていた。しかし、砲塔を旋回させる水圧ポンプの出力が低かったために目標への追従能力にも欠け、発射速度もカタログデータでさえ3発程度であり、実際に20.3cm砲での対空砲撃は非常に困難なものになった。さらに、俯仰速度が速すぎて正確な操作が出来ず、無理な構造が祟って1929年まで故障が続発して実用上問題のある砲塔であった。その為イギリス海軍は「ノーフォ...

    備砲、魚雷兵装

    高角砲は「Mark V 10.2cm(45口径)高角砲」を採用している。その性能は14.6kgの砲弾を仰角44度で15,020m、最大仰角80度で9,450mの高度まで到達させるものであった。単装砲架は左右方向に180度旋回でき、俯仰は仰角80度、俯角5度で発射速度は毎分10~15発だった。これを単装砲架で4基4門を搭載したが後に主砲が対空砲として有用ではないと判明してから連装砲架で4基8門に増備した。 他に近接攻撃用に「ヴィッカース 4cm(39口径)ポンポン砲」を採用し、単装砲架で2基搭載したが、主砲が対空砲として有用ではないと判明してから新設計の八連装砲架で片舷1基ずつ計2基に更新した。八連装は機関砲の搭載形式では類を見なく、これは四連装砲架を接続したもので構造が複雑化したために実戦では弾詰まりや追従速度の低下を招き、対空火器としては有効でなかった。 他に主砲では手に負えない相手への対抗として53.3cm魚雷発射管を四連装で片舷1基ずつ計2基装備した。しかし、本級特有の高い艦舷から海面へ射出される「Mark V魚雷」は海面によりしたたかに側面を打つことになり、強度不足により...

    第一次大戦後にイギリス海軍では主機関の型式統一が成され、ボイラーはアドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基、タービン機関は新型のギヤード・タービンであるがケント、コーンウォール、カンバーランド、サフォークはパーソンズ式でベリック、オーストラリア、キャンベラはブラウン・カーチス式で異なっていた。スペックは最大出力80,000shp、最大速力31.5ノットを発揮した。

    防御装甲の配置はホーキンス級重巡洋艦では同時期に設計された巡洋戦艦「フッド」と同じく舷側に傾斜装甲を採用するなど工夫が見られたが、本級の装甲配置は装甲巡洋艦と同じく舷側に直接装甲板を貼る直接防御であった。また対水雷防御として水線部にバルジを持っていた。 装甲厚においては舷側装甲は機関区水線部のみ25mmで主砲塔の側面は無防御であり、艦内の弾薬庫の壁面に102mm装甲、天蓋の64mmで防御する形式であった。主甲板の防御も32mmでしかなかった。就役後に防御力の不足が指摘され、1935年 - 1936年に防御力強化の改装を行い、舷側部は114mmに強化されており実戦でその効果を証明した。

    「British and Empire Warships of the Second World War, H T Lenton, Greenhill Books, ISBN 1-85367-277-7」
    「Conway's All the World's Fighting Ships 1922-1946, Naval Institute Press, ISBN 0-87021-913-8」
    「世界の艦船」 海人社
    「世界の艦船 2006年6月号 特集=回想の条約型重巡」(海人社)
  10. 金剛型戦艦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/金剛型戦艦
    • 建造の経緯
    • 艦型・兵装配置
    • 第一次世界大戦と軍縮時代
    • 金剛型の用兵思想の変遷
    • 関係年表
    • 参考文献
    • 関連項目

    戦艦と、同数の装甲巡洋艦をもって艦隊主力とすることは日清戦争後の第一、第二期拡張計画ですでに根本方針であり、日露戦争ではその真価が発揮された。 日露戦争以降の日本海軍は、それまで英国にのみ頼ってきた主力艦を自国で建造すべく研鑚を重ねていたが、1906年にイギリス海軍により画期的戦艦ドレッドノート、さらに1908年にドレッドノート同様の戦闘力を持つ巡洋戦艦インヴィンシブルが発表されると、従来の主力艦は軒並み時代遅れとなってしまった。これは装甲巡洋艦筑波型・鞍馬型・戦艦薩摩型・河内型といった国産新鋭装甲巡洋艦・戦艦についても同様であった。これにより日本独自の技術だけでは超弩級戦艦・巡洋戦艦時代の建艦競争に勝てないことが明らかとなった。 戦艦薩摩型・河内型合わせて4隻で第一戦隊を編成すれば筑波型や鞍馬型は装甲巡洋艦としては無価値であり、やや防御力が劣る戦艦としての価値しかなくなった。そこで日本海軍としては1906年(明治39年)から1907年(明治40年)にかけて戦艦8、装甲巡洋艦8の八八艦隊を完成したいと強く要望を出し始めた。当初は排水量約18,000t、速力25kt、主砲12in8門と、イギリスの巡洋戦艦インディファティガブルに近い4隻の装甲巡洋艦が計画され、まず3隻が1906年の予算で要求されたが否決された。 その後戦利艦の損傷復旧、国内建造主力艦の工事遅延、安芸 (戦艦)や伊吹 (巡洋戦艦)のタービン推進改造などでなかなか着手できず、また急激に進歩するイギリスやアメリカ合衆国やドイツの主力艦に目を見張り設計がまとまらなかったため計画は遅れ、やっと1910年(明治43年)に予算が通過した。 特に海軍が着目したのは巡洋戦艦ライオンであり、海軍は18,000t級で従来進めていた巡洋戦艦の計画を放棄し、英国の進んだ建艦技術を学ぶべく主力艦建造を英国に依頼、その設計を基に日本国内でも建造を行うこととし、当時「伊号装甲巡洋艦」として計画中だった艦の建造を英国ヴィッカースに発注することとなった。これが1番艦「金剛」で、同型艦はそれぞれ2番艦「比叡」を横須賀海軍工廠、3番艦「榛名」を神戸川崎造船所、4番艦「霧島」を三菱長崎造船所で建造と、初めて民間に主力艦建造が為され、同型主力艦4隻を同時に建造できる態勢を整えた。「榛名」と「霧島」は、初の民間による戦艦建造ということもあっ...

    本級は従来日本戦艦に多用された垂直型艦首ではなく、より凌波性に優れたクリッパー型艦首を持っている。前甲板に1・2番主砲塔を背負式に配置、艦体中央に艦橋などの上部構造物、後甲板に3・4番主砲塔をやはり背負式に配置している。また、左右両舷にはそれぞれ砲廓式の副砲が一列8基ずつ配置されている。船体は上から見ると細長く流麗なデザインとなっている。 金剛建造当時、海戦は距離8,000m前後で行われると想定されていた。このため、戦闘中に砲撃よりも強力な雷撃を併用することが考えられており、本級も53.3cm魚雷発射管を8門装備している。これはそれぞれ1番主砲塔前方・艦橋・4番主砲塔・艦尾の喫水線下に側面向きに固定装備されており、このうち最前方・最後方の2対については艦幅が発射管の長さ2本分に満たないためか左右対称ではなく前後に少しズレた形で配置されていた。但し年月が経つにつれて戦闘距離が延伸したことにより有効性が減少し、第一次改装で半減され、第二改装で全廃されている。

    金剛竣工間もなく、第一次世界大戦が勃発した。イギリスと日英同盟を結んでいた大日本帝国も連合国軍として参戦することとなり、金剛ら新鋭の巡洋戦艦群にも出撃命令が下された。当時金剛型4隻から成る第三戦隊は世界最強とうたわれており、北海・地中海方面のドイツ海軍に手を焼いていたイギリス海軍からその一時貸与を申し入れられた。さすがにこれは断ったものの、太平洋や中国方面のドイツ東洋艦隊の動きを封じるべく活動を行った。 第一次世界大戦中の1916年5月、海軍史上有名なユトランド沖海戦が起こり、これが巡洋戦艦たる金剛型のあり方を大きく変えることとなった。海戦自体は史上最大規模の砲撃戦であるにも拘らず、前衛部隊として矢面に立った巡洋戦艦に被害が集中し、両軍合わせて4隻も撃沈されるというものであった。特にライオン級の3番艦「クイーン・メリー」がドイツ巡洋戦艦「デアフリンガー」からの唯2発の直撃弾によって轟沈したことは衝撃的であった。前述の通り、金剛型の攻撃力・速力の優位はライオン級よりも装甲を若干薄くすることによって得ていた。ライオン級は巡洋戦艦にしては高い防御力を持っていたため問題なしと思われたのだが、そのライオン級の一艦がたった2発の砲弾によって撃沈されたことは、より深刻なものと受け止められた(その原因は水平防御力の不足であり、実は戦艦にも共通する弱点であった)。 日本海軍に限った話ではなく、各国ともユトランド沖海戦を教訓とした戦艦、すなわちポスト・ジュットランド艦の建造に踏み切ったが、一方で、終戦後戦勝国の間で激化し始めた建艦競争を沈静化すべく1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結された。その結果、本級の後継上位艦種として期待されていた天城型巡洋戦艦が建造できなくなったため、金剛型を改装してポスト・ジュットランド型戦艦とすることとした。 ユトランド沖海戦の戦訓は、1に巡洋戦艦の防御力不足、2に戦艦の速度不足、3に戦艦・巡洋戦艦を問わず水平防御の不足である。もとより巡洋戦艦にしては防御力の大きい金剛型の改装は、3の水平防御力の強化が主目的となった。まず1924年、先に事故を起こして現役を離れていた榛名を皮切りに改装に入り、霧島・金剛・比叡と続いて改装を行っていたが、1930年のロンドン海軍軍縮条約により金剛型1隻を削減することとなったため、改装の進行度が最も遅れており、不具合...

    戦前、戦中の大日本帝国海軍の戦略思想は、あくまで戦艦部隊同士による砲撃戦により雌雄を決する、いわゆる「艦隊決戦」思想であった。戦力で劣る日本海軍は潜水艦、航空機を利用して敵戦力を可能な限り漸減し、艦隊決戦を有利に導くとしていたが、金剛型は第三戦隊として、潜水艦と陸上機による攻撃が行われた後に決行される夜戦において、水雷戦隊・重巡部隊の先頭に立ち大口径砲によって水雷戦隊・重巡部隊が敵警戒網を突破するのを支援した後、戦場から離脱し黎明以降に主力の戦艦部隊である第一、第二戦隊を含む全兵力を結集して行われる艦隊決戦に引き続き参加することとなっていた。このため、金剛型は大改装の折に水雷戦隊とともに夜戦に参加できるように機関を換装し、30kt前後の速力を発揮できるようになった。 ところがいざ太平洋戦争が始まると、本来は戦艦が出撃する前の露払い役であった航空機の活躍により、艦隊決戦が行われる機会は訪れなかった。従来決戦の主役とされた長門型、伊勢型、扶桑型などは、艦隊決戦兵力とされたまま遊兵状態となった。 一方、金剛型は、空母と同一行動を取るのに十分な速力を持っていたことと、日本海軍が保有する戦艦の中では最も旧式で、攻防ともに最弱であったゆえに、損耗したとしても戦力に及ぼす影響が低かったため、使い潰しても構わない戦艦として、空母機動部隊に随伴した金剛型は、同じく随伴する水雷戦隊・重巡部隊とともに、航空攻撃の後に残存している水上艦の殲滅や、敵機動部隊に随伴する水上部隊から空母を護衛し、空母損傷時には曳航が期待されていたが、水上部隊と砲戦を行う機会は訪れなかった。 しかしながら空母機動部隊の活躍の場が多かったことから、金剛型はひっぱりだことなり、本来は金剛型4艦で第3戦隊を編成していたのが、金剛・榛名の第3戦隊と、比叡・霧島の第11戦隊に分割された。 戦争が進みガダルカナルでの苦戦が続くようになると、敵航空基地を砲撃粉砕することが陸軍により求められた。当初は巡洋艦・駆逐艦を主体とした作戦を実行していた海軍だったが、敵艦隊との遭遇戦が起きたり、砲撃に成功しても大きなダメージを与えられず早期に復旧されてしまうため、戦艦の大口径砲による撃砕が考えられた。この際、大和型の使用も検討されたが、戦艦を長時間敵前に晒すのは危険、戦艦の大口径砲による砲撃効果は薄い、大和を投入するには海面が狭い、...

    1911年(明治44年)1月17日 - 英ヴィッカースにて「金剛」(伊号装甲巡洋艦)起工。
    1914年(大正3年)7月28日 - 第一次世界大戦勃発、8月には日本も参戦。
    泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X。
    モデルアート3月号臨時増刊『艦船模型スペシャルNo15 戦艦金剛型』モデルアート社、2005年
    福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社 ISBN 4-7698-0607-8
    雑誌丸編集部『丸スペシャルNo112 巡洋戦艦金剛型 日本海軍艦艇発達史』潮書房、1986年