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  1. 東大寺 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/東大寺
    • 歴史
    • 大仏殿(金堂)
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    • 二月堂
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    • 文化財
    • 年中行事
    • 社会事業
    • 大仏による水銀公害説

    創建と大仏造立

    8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728年)、第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、若草山の麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られる、これが金鐘寺の前身と見られる。金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)には国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分寺兼総国分寺と定められ、寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)で、この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。...

    東大寺と橘奈良麻呂

    大仏造立・大仏殿建立のような大規模な建設工事は、国費を浪費させ日本の財政事情を悪化させるという、聖武天皇にその自身の思惑とは程遠い現実を突き付けた。実際に、貴族や寺院が富み栄える一方、農民層の負担が激増し、平城京内では浮浪者や餓死者が後を絶たず、租庸調の税制も崩壊寸前になる地方も出るなど、律令政治の大きな矛盾点を浮き彫りにした。 天平勝宝8年(756年)5月2日、聖武太上天皇が崩御する。その年の7月に起こったのが、橘奈良麻呂の乱である。7月4日に逮捕された橘奈良麻呂は、藤原永手の聴取に対して「東大寺などを造営し人民が辛苦している。政治が無道だから反乱を企てた」と謀反を白状した。ここで永手は、「そもそも東大寺の建立が始まったのは、そなたの父(橘諸兄)の時代である。その口でとやかく言われる筋合いは無いし、それ以前にそなたとは何の因果もないはずだ」と反論したため、奈良麻呂は返答に詰まったという。

    奈良時代

    奈良時代の東大寺の伽藍は、南大門、中門、金堂(大仏殿)、講堂が南北方向に一直線に並び、講堂の北側には東・北・西に「コ」の字形に並ぶ僧房(僧の居所)、僧房の東には食堂(じきどう)があり、南大門と中門の間の左右には東西2基の七重塔(高さ約70メートル以上と推定される)が回廊に囲まれて建っていた。天平17年(745年)の起工から、伽藍が一通り完成するまでには40年近い時間を要している。 奈良時代のいわゆる南都六宗(華厳宗、法相宗、律宗、三論宗、成実宗、倶舎宗)は「宗派」というよりは「学派」に近いもので、日本仏教で「宗派」という概念が確立したのは中世以後のことである。そのため、寺院では複数の宗派を兼学することが普通であった。東大寺の場合、近代以降は所属宗派を明示する必要から華厳宗を名乗るが、奈良時代には「六宗兼学の寺」とされ、大仏殿内には各宗の経論を納めた「六宗厨子」があった。

    国宝。当初の大仏・盧舎那仏および大仏殿は、聖武天皇の発願により、8世紀に造られたものであったが、その後2度の兵火で焼け落ち、現存する大仏殿は江戸時代の再建。大仏は台座と袖、脚などの一部に当初部分を残すのみで、体部の大部分は中世の作、頭部は江戸時代の作である。 聖武天皇は天平15年(743年)、大仏造立の詔を発した。当初、紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立の始まった大仏は、その後現在地の奈良で改めて造立を開始。天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。治承4年(1181年)の南都焼討の兵火で大仏殿は焼失、大仏も台座や下半身の一部を残して焼け落ちた。その後、大仏と大仏殿は重源の尽力により再興され、文治元年(1185年)に大仏の開眼供養、建久元年(1190年)には大仏殿の上棟式、建久6年(1195年)には大仏殿落慶供養が行われた。この鎌倉復興大仏も永禄10年(1567年)の東大寺大仏殿の戦いによって再び炎上した。大仏殿の再建はすぐには実施されず、大仏は仮修理の状態のまま、露座で数十年が経過したが、江戸時代になって公慶上人の尽力により大仏、大仏殿とも復興した。現存する大仏の頭部は元禄3年(1690年)に鋳造されたもので、元禄5年(1692年)に開眼供養が行われている。大仏殿は宝永6年(1709年)に落慶したものである。 文化3年(1806年)、下層の屋根がその重みに耐えられず波打って垂れ下がってきたために屋根を支える支柱を設けている。1877年(明治10年)頃から修理の計画が検討されるがなかなか行うことができず、本格的な修理が施されたのは1906年(明治39年)からであった。その際、大屋根を支える虹粱にイギリス製の鉄骨トラスが組み込まれている。1915年(大正4年)、大仏殿落慶供養が行われた。 大仏殿は寄棟造、本瓦葺き。2階建てに見えるが、構造的には一重裳階(もこし)付きで、正面5間、側面5間の身舎(もや)の周囲に1間の裳階を回している。間口57メートル、奥行50.5メートル、高さ46.8メートルで、奥行と高さは創建時とほぼ変わりないが、間口は約3分の2に縮小されている。建築様式は、鎌倉時代に宋の建築様式を取り入れて成立した大仏様(だいぶつよう)が基本になっており、水平方向に貫(ぬき)を多用するのが特色である。江戸時代にはすでに巨材の調達が困難であったため、柱は芯材の周...

    国宝。平安時代の応和2年(962年)8月に台風で倒壊後、鎌倉時代の正治元年(1199年)に復興されたもの。東大寺中興の祖である俊乗房重源が中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様ともいう)を採用した建築として著名である。大仏様の特色は、貫と呼ばれる、柱を貫通する水平材を多用して構造を堅固にしていること、天井を張らずに構造材をそのまま見せて装飾としていることなどが挙げられる。門内左右には金剛力士(仁王)像と石造獅子1対(重要文化財)を安置する。上層の正面中央には「大華厳寺」と書かれた扁額が掲げられている。これは古い記録にそのような扁額があったと書かれていたことに基づき、2006年(平成18年)10月10日に行われた「重源上人八百年御遠忌法要」に合わせて新調されたものである。 木造金剛力士立像(国宝) 1. 高さ8.4メートルの巨大な木像。建仁3年(1203年)にわずか69日で造られた。門の向かって右に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)、左に阿形(あぎょう、口を開いた像)を安置する。これは一般的な仁王像の安置方法とは左右逆である。 2. 『東大寺別当次第』という史料により、本像は建仁3年(1203年)、大仏師運慶、備中法橋(湛慶)、安阿弥陀仏(快慶)、越後法橋(定覚)によって造立されたことが従来から知られており、阿形像と吽形像の作風の違いから、前者は快慶、後者は運慶が主となって制作したと考えられていた。1988年(昭和63年)から1993年(平成5年)にかけて造像以来初めての解体修理が実施され、像内からは多数の納入品や墨書が発見された。阿形像の持物の金剛杵の内面には、建仁3年の年紀とともに「大仏師法眼運慶」「अं〔アン、梵字〕阿弥陀仏」(快慶のこと)の名が記され、吽形像の像内に納入されていた『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)の奥書には大仏師として「定覚」「湛慶」の名と小仏師12名の名が記されていた。運慶が制作の総指揮に当たったとする点では研究者の意見が一致しているが、阿形像・吽形像の現場での制作を運慶、快慶、定覚、湛慶がどのように分担したかについては解釈が分かれている。 石造獅子像(重要文化財) 1. 南大門北面の東西の間に安置されている。建久7年(1196年)に宋人字六郎が作製。元は大仏殿中門に置かれていたが、室町時代に南大門...

    国宝。旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は治承4年(1181年)、永禄10年(1567年)の2回の大火にも焼け残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見ることを許されない絶対秘仏である。建物は2005年(平成17年)12月、国宝に指定された。 建物の西側は急斜面になっており、懸崖造りで立てられている。東の山側には遠敷神社(おにゅうじんじゃ)と飯道神社(いいみちじんじゃ)があり、西側の崖下には参籠所(さんろうしょ)、仏餉屋(ぶっしょうのや)(ともに重要文化財)、興成社(こうじょうしゃ)が建てられている。また、お水取りを行う井戸(若狭井(わかさい))のための閼伽井屋(重要文化財)がある。

    国宝。境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つであり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたもので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)頃と推定されている。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と呼ぶ。正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるものは鎌倉時代の正治元年(1199年)頃(異説もある)に付加したものである。堂内には本尊の不空羂索観音(ふくうけんさく/ふくうけんじゃくかんのん)立像、梵天・帝釈天立像、金剛力士・密迹力士(みっしゃくりきし)立像、四天王立像の計9体の乾漆像(麻布を漆で貼り固めた張り子状の像)と、塑造の執金剛神(しつこんごうしん/しゅこんごうしん)立像を安置する(いずれも奈良時代)。他に塑造の日光・月光(がっこう)菩薩立像、吉祥天・弁財天立像などの諸仏が安置されていたが、これらは2011年(平成23年)から東大寺ミュージアムに移動している。諸仏の細かい製作年代や当初の安置状況については諸説ある。 乾漆不空羂索観音立像(国宝) 1. 奈良時代。高さ3.62メートル。三眼八臂(額に縦に第3の目があり、8本の腕を持つ)の観音像で、法華堂の本尊として内陣中央の須弥壇上に安置されている。頭上の宝冠は、正面に銀製の阿弥陀如来像を飾り、数多くの宝石や透かし彫りで飾った華麗なもので、普段は近くで見ることはできないが、奈良時代工芸の優品として知られる。 塑造執金剛神立像(国宝) 1. 高さ1.704メートル。本尊不空羂索観音の背後の厨子に北向きに安置される。右手に金剛杵(こんごうしょ、仏敵を追い払う武器)を持ち、目を吊り上げて威嚇する武神像である。長らく秘仏であったため、当初の彩色がよく残る。執金剛神とは、仁王像を1体で表したもの。本像は東大寺の開山(初代住職)良弁の念持仏と伝え、平将門の伝説でも知られる古来著名な像である。伝説によれば、平将門が東国で乱を起こした時、この像の髻(もとどり、結髪)を結んでいる元結紐(もとゆいひも)の端が蜂となって飛び去り、将門を刺して苦しめたという(『日本霊異記』)。確かに、...

    東大寺の境内は平城京の外京の東端を区切る東七坊大路(現国道169号)を西端とし、西南部は興福寺の境内と接していた。南大門を入って参道を進むと、正面に中門(南中門)、その先に大仏殿(正式には「金堂」)がある。大仏殿前には東大寺創建当時に造立された八角灯籠がある。中門からは東西に回廊が伸び、大仏殿の左右に達している。回廊は、現在は大仏殿の南側にしかないが、当初は北側にも回廊があり、回廊北面の中央には「北中門」があった。 南大門から中門への参道の東側には東大寺の本坊があり、反対の西側には東大寺福祉療育病院などがある。大仏殿の東方には俊乗堂、行基堂、念仏堂、鐘楼などがあり、そのさらに東方の山麓は「上院」(じょういん)と呼ばれる地区で、開山堂、三昧堂(四月堂)、二月堂、法華堂(三月堂)などがあり、その南には鎮守の手向山八幡宮(東大寺とは別法人)がある。 大仏殿の西方には指図堂(さしずどう)、勧進所、戒壇院などがある。大仏殿の北方、やや西寄りには正倉院の校倉造宝庫と鉄筋コンクリート造の東宝庫・西宝庫がある。なお、正倉院の建物と宝物は国有財産で、宮内庁正倉院事務所が管理している。境内西北端には奈良時代の遺構である転害門(てがいもん)がある。 かつてはこれら以外にも多くの堂塔が存在した。大仏殿の北には講堂と僧坊があり。これらの東には食堂(じきどう)があった。僧坊は講堂の北・東・西の3面にコの字形に設けられたので「三面僧坊」と称した。大仏殿の手前の東西には東塔・西塔(いずれも七重塔)があった。これらの塔は、周囲を回廊で囲まれ、回廊の東西南北4か所に門を設けた「塔院」を形成しており、他寺に例をみない規模のものであった。西の東七坊大路に面しては3つの門が開かれていたが、このうち北の門のみが現存する(前述の転害門)。 毎年1月1日の0時から8時までの間、中門(重要文化財)が開かれ、金堂(大仏殿・国宝)内に無料で入堂できる(通常入堂料:大人500円・小人300円)。参拝は午前7時半から受け付けている。 1. 大仏殿(金堂、国宝) - 宝永6年(1709年)再建。解説は既出。 2. 東楽門(重要文化財) - 享保7年(1722年)再建。 3. 東回廊(重要文化財) - 享保元年(1716年)から元文2年(1737年)に再建。 4. 西楽門(重要文化財) - 享保4年(1719年)再建。...

    国宝

    (建造物) 1. 金堂(大仏殿)(附:棟札1枚) 2. 南大門 3. 本坊経庫 4. 開山堂(附:須弥壇及び厨子) 5. 鐘楼 6. 法華堂(三月堂)(附:棟札1枚) 7. 二月堂 8. 転害門 (美術工芸品) 1. 絹本著色倶舎曼荼羅図 2. 紙本著色華厳五十五所絵巻 3. 銅造盧舎那仏坐像(大仏・金堂安置) 4. 乾漆不空羂索観音立像(法華堂安置) 5. 乾漆梵天・帝釈天立像(法華堂安置) 6. 乾漆金剛力士立像 2躯(法華堂安置) 7. 乾漆四天王立像(法華堂安置) 8. 塑造日光菩薩・月光菩薩立像(所在東大寺ミュージアム、もと法華堂安置) 9. 塑造執金剛神立像(法華堂安置) 10. 塑造四天王立像(所在戒壇堂) 11. 銅造誕生釈迦仏立像・銅造灌仏盤 12. 木造金剛力士立像 2躯 附 像内納入品(所在南大門)(像内納入品の明細は後出) 13. 木造俊乗上人坐像(俊乗堂安置) 14. 木造僧形八幡神坐像 快慶作(八幡殿安置) 15. 木造良弁僧正坐像(開山堂安置) 16. 木造弥勒仏坐像 17. 花鳥彩絵油色箱(ゆしょくばこ) 18. 金銅八角燈籠(大仏殿前所在) 19...

    重要文化財

    (建造物) 1. 中門 2. 東西回廊 2棟 3. 東西楽門(がくもん)2棟 4. 念仏堂 5. 法華堂経庫 6. 法華堂手水屋 7. 法華堂北門 8. 二月堂閼伽井屋(若狭井屋) 9. 二月堂参籠所 10. 二月堂仏餉屋(御供所) 11. 三昧堂(四月堂) 12. 大湯屋 13. 勧進所経庫 14. 石造五輪塔(奈良市川上町所在) (絵画) 1. 絹本著色嘉祥大師像・絹本著色浄影大師像(かじょうだいしぞう・じょうようだいしぞう) 2. 絹本著色華厳海会善知識曼荼羅図(けごんかいえぜんちしきまんだらず) 3. 絹本著色華厳五十五所絵 10面 4. 絹本著色香象大師像 5. 絹本著色十一面観音像 6. 絹本著色四聖御影(ししょうのみえい)(建長本)・(永和本) 7. 紙本著色東大寺大仏縁起 芝琳賢筆 3巻 8. 絹本著色東大寺縁起 2幅 (彫刻) 1. 木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像 順慶・賢慶・了慶・尹慶等作(金堂安置) 2. 石造獅子一双(所在南大門) 3. 木造阿弥陀如来立像・快慶作(俊乗堂安置) 4. 木造愛染明王坐像(俊乗堂安置) 5. 木造地蔵菩薩坐像(念仏堂安置) 6...

    国指定史跡

    1. 東大寺旧境内 - 現境内を含む約12ヘクタールに及ぶ広範囲の土地が国の史跡に指定されている。

    1月1日 除夜の鐘(鐘楼)
    1月1日 – 3日 正月三が日(大仏殿・二月堂)
    1月7日 修正会(大仏殿) 悔過法要が行われる。
    2月3日 節分・星祭り(二月堂) 日中、「還宮(げんぐう)」と「節分豆まき」が行われる。還宮とは古くなったお札やお守り等を火にあげる儀式のこと。節分豆まきは、午後2時ごろ、二月堂の舞台の上から行われる。「星祭り」は、星に「除災与楽」を祈る法会。夕刻、二月堂本堂に万灯明を灯し、「星曼荼羅」を掲げてこの法会を勤める。

    東大寺は、光明皇后が悲田院や施薬院を設け、日本の社会事業のさきがけとなった寺院であるため今も各種社会事業が行われている。 東大寺福祉療育病院 1. 肢体不自由児施設「東大寺整肢園」、重症心身障害児施設「東大寺光明園」、および重症心身障害児(者)通所施設「華の明」からなり、障害を持つ子供たちの療育を行っている。一般の整形外科等の外来や入院手術、リハビリテーションなども行っている。東大寺総合文化センターの西隣に所在する。 学校法人東大寺学園 1. 東大寺学園中学校・高等学校 1. 1.1. 中高一貫の男子教育を行っている。初代校長は別当も務めた清水公照。南大門の西隣にあったが、現在は山陵町に移転している。 1. 東大寺学園幼稚園 1. 1.1. 2歳児からの保育。戒壇堂の北隣に所在する。 東大寺図書館 1. 主として仏教関係図書、仏教美術、古書、古文書、考古資料等を蒐集保存し、一般の閲覧に供している。南都諸寺に伝わる文物が明治の廃仏毀釈運動で散逸・消失されることを防ぐため設けられ、現在は東大寺総合文化センター内に所在する。 1.1. 東大寺史を軸にした「ザ・グレイトブッダ・シンポジウム」を、2003年より毎年行っている(論集は2019年現在17号発行、法蔵館)

    元長崎大学教授の白須賀公平が、大学等環境安全協議会会報に寄稿した論文「水銀蒸気で二十万(推定)都市が潰滅」の中で、東大寺の大仏(盧舎那仏)建立当時に施された金めっきによる水銀公害で平城京が潰滅したとの仮説を立てている。 東大寺要録の記録によると、当時施された金めっきには金10,436両(約375キロ・グラム)と水銀58,620両(約2,110キロ・グラム)が使用されているが、当時の金メッキ技術は、金と水銀の合金であるアマルガムをめっき対象物に塗り、その後炎によって水銀を気化させ金だけを残すという手法が執られていた。白須賀の仮説では、この際に発生した大量の水銀蒸気が平城京を覆い、水銀中毒症状が蔓延して祟りと恐れられたため、平城京はわずか74年で打ち捨てられ、長岡京に遷都したのだとしている。 2006年2月26日に放送されたテレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」の第418回「水銀の不思議」は、この仮説に基づいて番組編成が行われた。

  2. 日本刀 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/両刃造

    日本刀 (にほんとう)は、 日本 固有の 鍛冶 製法によって作られた 刀 類の総称である 。. 刀剣類は、日本では 古墳時代 以前から製作されていたが、一般に日本刀と呼ばれるものは、 平安時代 末期に出現してそれ以降主流となった反りがあり刀身の片側に刃がある ...

  3. 八田與一 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/八田與一
    • 生い立ち〜台湾へ
    • 嘉南大圳
    • 台湾総督府復帰〜殉職
    • 評価
    • 八田與一を演じた人
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    1886年(明治19年)に石川県河北郡花園村(現在は金沢市今町)に生まれる。石川県尋常中学、第四高等学校(四高)を経て、1910年(明治43年)に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職した。 日本統治時代の台湾では、初代民政長官であった後藤新平以来、マラリアなどの伝染病予防対策が重点的に採られ、八田も当初は衛生事業に従事し嘉義市・台南市・高雄市など、各都市の上下水道の整備を担当した。その後、発電・灌漑事業の部門に移った。1910年総督府土木部工務課で浜野弥四郎に仕えることになった。台南水道の事業で実地調査を共にするうちに八田は浜野から多くのことを学び、後述の嘉南大圳や烏山頭ダムにその経験が活かされることになった。1919年に浜野が離任で台湾を去ると、八田は台南水道に浜野の像を建立している。浜野像は戦時中の金属供出令で資材に流用されたが奇美実業創業者の許文龍により再制作、2005年に元の水源地に設置されている。 八田は28歳で、当時着工中であった桃園大圳の水利工事を一任されたがこれを成功させ、高い評価を受けた。当時の台湾は、まさに上述のインフラストラクチャー建設のまっただ中で、水利技術者には大いに腕の振るい甲斐のある舞台であった。31歳のときに故郷金沢の開業医で、後に石川県議なども務めた米村吉太郎の長女・外代樹(とよき)(当時16歳)と結婚した。

    1918年(大正7年)、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。嘉義・台南両庁域も同平野の区域に入るほど、嘉南平野は台湾の中では広い面積を持っていたが、灌漑設備が不十分であるためにこの地域にある15万ヘクタールほどある田畑は常に旱魃の危険にさらされていた。そこで八田は民政長官下村海南の一任の下、官田渓の水をせき止め、さらに隧道を建設して曽文渓から水を引き込んでダムを建設する計画を上司に提出し、さらに精査したうえで国会に提出され、認められた。事業は受益者が「官田渓埤圳組合(のち嘉南大圳組合)」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は国家公務員の立場を進んで捨て、この組合付き技師となり、1920年(大正9年)から1930年(昭和5年)まで、完成に至るまで工事を指揮した。そして総工費5,400万円を要した工事は、満水面積1000ha、有効貯水量1億5,000万m3の大貯水池・烏山頭ダムとして完成し、また水路も嘉南平野一帯に16,000kmにわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれている。ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実させるため宿舎・学校・病院なども建設した。爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を解雇しなければならなかった。八田は、有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。 2000年代以降も烏山頭ダムは嘉南平野を潤しているが、その大きな役割を今は曽文渓ダム(中国語版)に譲っている。この曽文渓ダムは1973年に完成したダムで、建設の計画自体も八田によるものであった。また、八田の採った粘土・砂・礫を使用したセミ・ハイドロリックフィル工法(コンクリートをほとんど使用しない)という手法によりダム内に土砂が溜まりにくくなっており、近年これと同時期に作られたダムが機能不全に陥っていく中で、しっかりと稼動している。烏山頭ダムは公園として整備され、八田の銅像と墓が中にある。また、八田を顕彰する記念館も併設されている。

    1939年(昭和14年)、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事した。また1935年(昭和10年)に中華民国福建省主席の陳儀の招聘を受け、開発について諮問を受けるなどしている。 太平洋戦争中の1942年(昭和17年)5月、陸軍の命令によって3人の部下と共に客船大洋丸に乗船した八田は、フィリピンの綿作灌漑調査のため広島県宇品港で乗船、出港したがその途中、大洋丸が五島列島付近でアメリカ海軍の潜水艦グレナディアーの雷撃で撃沈され、八田も巻き込まれて死亡した。八田の遺体は対馬海流に乗って山口県萩市沖に漂着し、萩の漁師によって引き揚げられたと伝えられる。正四位勲三等叙位叙勲。 日本敗戦後の1945年(昭和20年)9月1日、妻の外代樹も夫の八田の後を追うようにして烏山頭ダムの放水口に投身自殺を遂げた。

    日本よりも、八田が実際に業績をあげた台湾での知名度のほうが高い。特に高齢者を中心に八田の業績を評価する人物が多く、烏山頭ダムでは八田の命日である5月8日には慰霊祭が行われている。 中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』に八田の業績が詳しく紹介されている。2004年(平成16年)末に訪日した李登輝台湾総統は、八田の故郷・金沢市も訪問した。2007年5月21日、陳水扁総統は八田に対して褒章令を出した。 また、当時の馬英九総統も2008年5月8日の烏山頭ダムでの八田の慰霊祭に参加した。翌年の慰霊祭に参加し、八田がダム建設時に住んでいた宿舎跡地を復元・整備して「八田與一記念公園」を建設すると語った。2009年7月30日に記念公園の安全祈願祭、2010年2月10日に着工式が行われ、2011年5月8日に完成した。完成式典には、馬英九総統や八田の故郷・石川県出身の元内閣総理大臣・森喜朗が参加した。記念公園は約5万平方メートルだが、約200棟の官舎や宿舎のうち4棟は当時の姿に復元された。宿舎は一般公開されている。 2011年には台南市の主要道路のひとつが「八田路」と命名された。 妻の外代樹も顕彰の対象となり、2013年9月1日には八田與一記念公園内に外代樹の銅像が建立された。 八田の業績と、嘉南の人達との触れ合いを取材したテレビドキュメンタリー番組「テレメンタリー96 たった一つの銅像 〜衷心感謝八田與一先生〜」が 1996年(平成8年)6月30日にテレビ朝日系列で放送された。2008年には、八田を描いた長編アニメ映画「パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜」が制作された。

    井上和彦 - 石黒昇監督のアニメ『パッテンライ!! 〜南の島の水ものがたり〜』で八田の声優を務めた。
    大沢たかお - 甲子園で準優勝した台湾公立嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)野球部を描いた台湾映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』で八田を演じた。
    ^ a b c (繁体字中国語)吳世紀 (2017-11). 自來水會刊第 36 卷第 4 期 臺灣現代化自來水建設之開拓者 都市的醫師-濱野彌四郎. 中華民國自來水協會(CTWWA). pp. 79-80. http://www.ctwwa.org.tw/ctwwa_fn05/ctwwa_page0503_1.aspx?Key=2017 2018年9月2日閲覧。
    ^ 日本と台湾の架け橋となった 八田 與一
    ^ 台湾と山口をつなぐ旅. 栖来ひかり. 西日本出版社. (2018.12). ISBN 9784908443398. OCLC 1105258434. https://www.worldcat.org/oclc/1105258434
    ^ 台湾の水利事業に尽力、八田与一氏たたえ記念公園 馬総統が明言、産経新聞、2009年5月8日。
    邱永漢 - 「台湾の恩人・八田技師(この人の事を知ってほしい)」(『文藝春秋』1959年、252-260頁)
    司馬遼太郎 - 「八田與一のこと」、「珊瑚潭のほとり」(『街道をゆく 40 台湾紀行』 朝日新聞社、1994年、281-293頁、295-306頁)
    まつだしょういち、たにうちまさと『よいっつぁん夢は大きく‐台湾の「ダムの父」・八田與一』 北國新聞社出版局、2007年、ISBN 978-4833015653
    胎中千鶴 - 『植民地台湾を語るということ—八田與一の「物語」を読み解く』 風響社、2007年、ISBN 978-4894897274
    金沢ふるさと偉人館 - 金沢市が設置する文化施設。金沢ゆかりの偉人として紹介されている。
  4. 相馬御厨 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/相馬御厨
    • 概説
    • 相馬御厨の成立
    • 下総守藤原親通の横槍
    • 源義朝の介入
    • 千葉常胤の反撃
    • 北相馬と南相馬
    • 佐竹義宗による強奪
    • 千葉氏の反撃
    • 開発領主の位置
    • 参考文献

    千葉常重によって成立した相馬御厨は伊勢神宮に寄進されたが、藤原親通や源義朝から脅かされる。千葉常胤はこれを回復し、再度伊勢神宮に寄進するが、平家政権になると、佐竹義宗に奪い取られてしまう。これを奪回するために、千葉常胤は源頼朝を利用した。相馬御厨をめぐる攻防が、治承・寿永の乱の原動力の1つとなった。 相馬御厨は在庁官人が在地領主に変貌していく過程で、国司や目代と激しく対立したこと。在地領主層が脆弱な地位を守るために寄進を行ったこと。寄進による保護にも限界があり、鎌倉幕府の成立へとつながって行ったことの例示としてよく取り上げられる。

    天治元年(1124年)6月、千葉常重(千葉氏の祖)は上総氏の当主である平常晴から相馬郡を譲られて、10月には相馬郡司となった。そして6年後の大治5年(1130年)6月11日、常重は自らが地主職を務める「相馬郡布施郷」(大雑把に茨城県北相馬郡)を伊勢神宮に寄進し、その下司職となる。その寄進の内容は、 1. 「地利の上分」(田1段(反)につき1斗5升、畠1段につき5升、当時としてはかなりの高率)と、「土産のもの」(雉100羽、塩曳き鮭100尺)を、伊勢神宮に納める 2. その半分を口入りの神主(領家に相当)・荒木田延明がとり、半分を供祭料の名目で一の禰宜元親(本家に相当)が取る 3. 在地において仲介の役を果たした散位源友定を「預所」とする 4. 常重は下司職となると同時に、「地主」として「田畠の加地子」を取る権利を認められ、常重の下司職と権利は子孫に相伝される というもの。この御厨は、同年8月に下総守(藤原親通)の庁宣によって正式に認められた。

    保延2年(1136年)7月15日、下総守の藤原親通が千葉常重を逮捕・監禁するという事件が起きる。理由は相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったというもので、おそらくは過去に遡って数年分であったろうといわれる。藤原親通は千葉常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに自分に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、私領としてしまう。後述の千葉常胤の寄進状にある「其後国司藤原朝臣親通在任之時、号有公田官物未進、同二年七月十五日、召籠常重身経旬月之後、勘負准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸、以庁目代散位紀朝臣季経、同年十一月十三日、押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻」のくだりがこれに相当する。

    更に康治2年(1143年)に介入してきたのが源義朝(頼朝の父)であった。源義朝はこのころ上総国の上総常澄の処に居た。上総常澄は平常晴の息子だが、父親とは折り合いが悪かった。そのため千葉常重が養子になり、相馬郡を譲られた。義朝は上総常澄の「浮言」を利用して、千葉常重から相馬郡(または郷)の圧状を責め取る。 そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の天養2年(1145年)3月、義朝は、その相馬郷を避状(さがりじょう)の提出するという形で伊勢内宮外宮に寄進する。 源義朝と藤原親通の利害関係はよく判らないが、藤原親通が摂関家に従属する位置にあったので、大殿・藤原忠実の権威を利用して押さえたという説がある。

    常重の子・千葉常胤は必死で立ち向かう。 久安2年(1146年)4月に、千葉常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納めた。結果、「其時国司以常胤可令知行郡務」と相馬郡司職を回復。相馬郷を「且被裁免畢」で取り戻した。しかし立花郷は戻ってこなかった。立花郷は相馬郷や千葉荘から東に遠く離れた太平洋側にある。 相馬郡司の地位と相馬郷を回復した常胤は、8月10日、改めて相馬郡(郷?)を伊勢神宮に寄進した。すでに天養2年(1145年)3月、源義朝による寄進があったが、千葉常胤は「親父常重契状」の通り、領主・荒木田神主正富(伊勢内宮神官)に供祭料を納め、加地子・下司職を千葉常胤の子孫に相伝されることの新券を伊勢神宮へ奉じた。

    源義朝と千葉常胤が寄進した相馬御厨は場所が異なる為、義朝は紛争を「調停」しただけとする説もある。 相馬御厨の境界(四至)は、千葉常重や源義朝(ほぼ同じ)より南(小野上大路まで)だけ大きく広がっていた形跡がある。かつての寄進地は茨城県北相馬郡近辺であったが、千葉県南相馬郡側に広がり、東西7km、南北20km(推定)に及ぶ広大な地域となっていた。保延2年(1136年)以降、常胤一族は必死になってその南部を開発していたのかもしれない。一方、北相馬は上総氏の領分で、上総常澄の子、相馬常清が源義朝から管理を任されていた可能性がある。 しかし千葉常胤は、源義朝を侵略者の一人と感じていたようだ。千葉常胤の寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文」とある。また源義朝はその段階では棟梁などではなく、同じレベルで領地を奪おうとしたという説がある。源義朝が相馬御厨を寄進し、現地での徴税を請負をしていた以上、単なる書類上のことだけではなく、事実上の支配があったと考えられるからである。その一方で、この寄進状の中において藤原親通の意向を受けて紀季経が千葉常重から責め取ったのが「押書」であるのに対して、源義朝が千葉常重から責め取ったのが「圧状」とされているのも注目される。押書も圧状も作成者に強制的な履行を強いるための契約文書であるが、押書は合法的な契約文書としての性格を有しており、常胤も後日国衙が主張する債務(官物未進分)を国庫(国衙の倉庫)に納めているのに対して、圧状は違法な文書として作成者はその効力の否定を主張することができ、当時の訴訟においても圧状とされた文書の証拠能力は否定されるものであった。後に義朝が神威を恐れて伊勢神宮に寄進を行った際に、神宮側が義朝の寄進の根拠にしようとした常重作成の文書を違法な圧状とみなして、同状を根拠とした神への寄進を拒んだ。その結果、伊勢神宮から相馬御厨に対する権利を認められなかった義朝は自己の権利主張を放棄する避状を提出せざるを得なかったとみられている。 その後、千葉常胤と源義朝の間でどういう決着を見たのかは不明であるが、保元の乱では千葉常胤は源義朝の率いる関東の兵の中に、上総常澄の子広常とともに名が見える。このことから、千葉常胤が、源義朝の傘下に入ることによって千葉常胤は領地の保全を図ったとの見方も可能である。

    平家政権下の永暦2年(1161年)正月、佐竹義宗(佐竹隆義の次兄)が相馬御厨を寄進するという事件が起きる。 佐竹義宗が前下総守藤原親通が持っていた新券(証文)を親通の次男・親盛から入手し、奪いとったのである。佐竹義宗の寄進状には「自国人平常晴今常澄父也、手譲平常重并嫡男常胤、依官物負累、譲国司藤原親通朝臣、彼朝臣譲二男親盛朝臣、而依匝瑳北条之由緒、以当御厨公験、所譲給義宗也、然者父常晴長譲渡他人畢所也」とある。 これを知った千葉常胤も翌2月に再度伊勢神宮に寄進の意向を示した。そもそも藤原親盛から譲り受けた新券(証文)はとっくに無効になっていたはずだが、藤原親盛の娘は平重盛の側室だった。 伊勢神宮も常胤に味方しなかった。最初こそ、常胤側の領主となっていた禰宜荒木田明盛(正富の一族)と義宗側の領主となっていた禰宜度会彦章の対立が生じた。しかし佐竹義宗が伊勢神宮に供祭料を負担して寄進状の約束を果たしたことが評価され、長寛元年(1163年)に佐竹義宗の寄進を是とする宣旨が出された。永万2年6月18日には、常胤側の荒木田明盛が度会彦章に度会彦章の主張を認めることを示す契状を提出、仁安2年6月14日付で和与状が作成された。 和与の成立は決定的だった。当時において和与とは、合意に基づく所領や所職等権利の譲与を指しており、和与に基づく権利の移転は悔返を認めない(『法曹至要抄』)と言う法理があった。この和与によって度会彦章と彼が下司とした佐竹義宗の勝訴が確定。伊勢神宮の権威を利用した法律上の闘争の道は閉ざされた。 後に佐竹義宗は強引に相馬御厨全域を支配した。これに対して、千葉氏や上総氏は大いに反発した。『源義宗寄進状』には「常澄常胤等何故可成妨哉、是背法令、大非常之上、大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等 凡不可在王土者也」とある。 一方、上総氏は訴訟の当事者ではなかったために、相馬御厨に関する権利を完全に否定された訳ではなかったが、実際には一族内の内紛や上総本国において平家によって派遣された上総介藤原忠清との争いに巻き込まれ、相馬御厨奪還の動きまでは手が回らなかったとみられている。

    治承4年(1180年)石橋山の戦いに敗れた源頼朝が房総に逃れた際、東胤頼の進言により、藤原親通の孫親政を討ち取ったことで房総藤原氏の支配に終止符を打ち、様子見していた上総広常も参陣した。そして、その後富士川の戦いで平家及び平家方として参戦した上総氏当主印東常茂を破り、転じて佐竹合戦で佐竹氏を敗走させた。 『吾妻鏡』では千葉氏が頼朝に加担したのは、累代の源氏の郎等であったからと説明されている。しかし千葉常胤にとっては、源氏は侵略者の一人であり「御恩」を感じるような相手ではない。平家と結んだ房総藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の賭けだったのである。佐竹合戦そのものが佐竹氏を排除を意図した千葉氏や広常が当主となった上総氏によって仕組まれたとする見解すら存在するのである。 佐竹合戦後も相馬御厨を巡る房総平氏内部における千葉氏と上総氏の争いは解決しておらず、相馬常清及びその子定常が常清の兄である上総広常の軍事力を背景として御厨を掌握していた可能性が高い。また、広常自身も下総・常陸国内に進出しようとした形跡もみられる。だが、広常はその軍事力を警戒された源頼朝によって討たれ、その一族は所領を失ったり頼朝や千葉常胤に従属したりした。上総氏の没落後、相馬御厨の支配権も千葉氏が掌握して、後に千葉常胤の次男相馬師常に譲られ、子孫は相馬氏として存続したと通常は解釈されているが、実際にはもう1つの問題を抱えていた。伊勢神宮が佐竹合戦後も仁安の和与状を有効と見做して、佐竹氏(義宗)を正当な給主という立場を鎌倉幕府成立後も変えていなかったことである。そのため、千葉氏は千葉常重が有していた御厨の前身である布施郷の地主職の立場を利用することになる。地主(職)は奈良時代から存在した概念であるが、土地開発のために国司が特定人物を地主職に任じて公領開発を行わせた職であり、その任免権限は下総国の国司・国衙にあったため、先の訴訟および和与とは無関係であった。建久10年3月24日に相馬御厨から伊勢神宮への年貢の上分送状には、在庁官人と推定される「田所伴」「案主散位橘」とともに「地主平」の署判がみられ、相馬御厨の官物沙汰に「地主平」=平姓千葉氏が関与していたことが判明する。相馬御厨の地頭設置が確認されるのは、嘉禄3年(12...

    この事件は、当時における在庁官人=開発領主の変貌と、国司=目代との対立の激しさ、特に在地領主層の弱体と限界を如実に示している。まず開発領主の領地領有とは、郡司、郷司という、役職において国衙から保証されたものだということ。しかしそれが、郡司、郷司という役職において保証されたものである限り、国司側はその任を解く権限を持っており、それは相馬郡において現実に行使された。更にその周囲には他の開発領主が隙あらばと狙っている。 最初の段階では同族の上総常澄、そして源義朝である。そして後には平家の権力を背景に、佐竹氏がその争奪戦に加わった。安定な状態をさらに確実なものにしようと荘園の寄進を行うが、その段階で、自分の直接支配地だけでなく、郷の単位ほどの周辺の公領も切り取って規模を拡大して立荘する。それは、根本私領だけでなく、郡司としての自分の支配、取り分を固定化しようとする行為と考えると解しやすい。 しかしその荘園寄進も、それだけで確実なものではないことは、この相馬御厨、そして大庭御厨の事件の中からも見てとれる。相馬御厨も大庭御厨も、本所の伊勢神宮は必ずしも下司となった寄進主(開発領主)を保護しきれなかった、自分の取り分が確保され、更には増えるのなら、下司職が源義朝でも千葉常胤でも構わなかったということである。

    福田豊彦『千葉常胤』 (吉川弘文館、1973年)ISBN 9784642050630
    野口実編 『千葉氏の研究』(第二期関東武士研究叢書第五巻 :名著出版,2000年)ISBN 462601576X
    野口実 『源氏と坂東武士』(吉川弘文館、2007年)ISBN 9784642056342
    千野原靖方『千葉氏 鎌倉・南北朝編』(崙書房出版、1995年) ISBN 9784845510153
  5. 西遊記の成立史 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/西遊記の成立過程
    • 作者の問題
    • 唐三蔵伝説の変遷
    • 小説への道
    • 明代:完成直前の断片
    • 西遊記の完成
    • 二つの逸話
    • 構成に潜む謎
    • 西遊記の影響
    • 参考文献
    • 関連項目

    小説『西遊記』の作者は不詳であり、一般的には呉承恩という人物とされることも多いが、確たる根拠はなく、甚だ疑わしい。作者が不明なのは、『西遊記』の古刊本に作者が明示されたものがないためである。かつては清代の『西遊証道書』の序文「西遊記原序」(虞集序とも)に、作者を「丘長春真君」とする記述があったことから、チンギス・カンに仕えた道士の丘処機(長春真人)が作者とされていた。確かに長春真人には「西遊記」という名の著作があるのだが、これは紀行であって小説ではない(この旅行記は同行した弟子の李志常が記録したもので、現在では区別のため『長春真人西遊記』と呼ばれる)。後述するように、長春真人を作者としたのは清代の書店による権威の箔付けであり、事実ではない。 それに対し、最初に呉承恩を作者として挙げたのは、清代考証学者の丁晏(1794年 ‐ 1875年)らと言われる。20世紀に入り中華民国時代に魯迅が『中国小説史略』でこの説を採用し、胡適も同様に主張して、以降定説化したものである。呉承恩(字は汝忠)は明代の官僚で、多くの著作を残したというが、現在そのほとんどが伝わっていない。作者に擬せられた理由は天啓年間の『淮安府志』巻12「文目」に「呉承恩、射陽集四冊 巻、春秋列伝序、西遊記」との記述があるためである。ここに記された「西遊記」が小説『西遊記』のことと解釈され、呉承恩を作者とする説が生じた。しかし「西遊記」という書名は、上記の長春真人の例でも分かる通り、西方への旅行記を指す一般的な名詞でもある。ゆえに『淮安府志』に記された「呉承恩西遊記」もまた小説『西遊記』を意味するものとは限らない。そもそも王朝が公式に作成した正史に準ずる存在である地方史『淮安府志』に、当時の士大夫(知識人)層から軽蔑された白話小説の作者であることが堂々と記載される蓋然性も低い。明代の著作を集めた黄虞稷『千頃堂書目』において「呉承恩西遊記」が巻8史部「輿地類」に分類されていることからも、この書が地理志ないし紀行文であって、小説だった可能性は低いとみられる。また現存するすべての明刊本において、作者を呉承恩と記載したものは1点も存在せず、呉承恩が小説『西遊記』の作者であるという説は、現在ではかなり疑わしいとされる。 『西遊記』という小説は、宋代の講談や元代の雑劇などで培われた逸話群に由来を持ち、明代に長篇小説とし...

    『西遊記』は唐の太宗時代の僧侶・玄奘三蔵が天竺(インド)に仏典を求めて旅し、十数年の苦難の果てに帰国したという史実を踏まえた作品である。しかし、成立の過程で玄奘とは直接関係のない仏教・道教説話や、各地の伝説を取り込んでいき、また孫悟空・猪八戒・沙悟浄ら様々な架空のキャラクターの造形も成立していった。以下にその形成過程を見ていくこととする。

    宋代(北宋:960年 - 1127年、南宋:1127年 - 1279年)に入るとこれまでの三蔵伝説は、一連のストーリーにまとめられ、西天取経物語として都市の講談で語られるようになる。さらに元代(1271年 - 1368年)になると、雑劇も発達。現在とさほど変わらない西遊記物語が形成される。

    14世紀半ば元朝を追って、新たに明朝が成立(1368年)。明代中期(16世紀)には印刷出版文化が普及し、通俗小説は隆盛期を迎えることとなる。これまでに形成された西天取経物語も、小説としての完成に向けて変化の度を加速させていくが、その最終過程となる明代前期の西遊記関連資料は多くが散佚しており、断片的にしか知ることができない。 明の建国者である太祖朱元璋以来、明朝では神仏や皇帝を揶揄することを禁止し、多くの文字禍(筆禍事件)が生じた。永楽9年(1411年)には帝王・聖賢を冒涜する内容の詞曲・雑劇をすべて廃棄せよとの布告が発せられる。そこで仏教と関連深い元本西遊記も問題となり、版元たちは改作を迫られることとなる。特に唐太宗が兄を殺して地獄送りとなる段と、狂言回しの滑稽なキャラクターとして登場した豚の「朱八戒」が明室と同じ朱姓であったことは重大であり、前者は太宗が玄武門の変と切り離されて竜王を見殺しにした罪に改められ(後述)、後者は朱(zhū)と同音で豚を表す「豬(猪)」に変更された。この段階の物語を「旧本西遊記」と呼ぶが、やはり完結した現存の刊本としては発見されていない。上記のような細かい変更はあるが、概ね元本西遊記と大差のない内容だったと推測される。 現在存在が確かめられる最古の刊本である世徳堂本(1592年)に至るまでの、どこかの時点で『西遊記』は小説として成立したはずであるが、残存資料がほとんどないため、詳細は不明である。ここではその過程を推測しうる断片について紹介する。

    上記のような断片に見られる過程を経て16世紀後半に小説『西遊記』はいよいよ成立したが、現在見られるのは、16世紀末の世徳堂本以降の刊本である。その後も、明代から清代(1644年 - 1912年)に様々な刊本が出現することになる。明代の長篇小説では、より精細な叙述で詩詞を交え情趣豊かに語られる「文繁本(繁本)」と、筋立てを重視して煩雑な表現を簡略化し文章量を減らした分挿絵を入れるなどした「文簡本(簡本)」に大きく分けられることが多く、『西遊記』でも繁本系統と簡本系統の2系統が存在する。先に文繁本が完成し、そこから文章や詞詩を削減した文簡本が生まれた。

    西遊記の主要部分は、(V)三蔵一行の西天取経であり、冒頭の(I)大鬧天宮や(II)観音菩薩の東下などは主要登場人物の紹介を行う段となっている。しかしその間に、他の部分とは関連性が薄く毛色の変わった部分が2つ存在する。三蔵の誕生にまつわる逸話「(III)陳光蕋江流和尚」と、太宗皇帝の側近魏徴が龍王を斬ったことから太宗が地獄巡りを行うことになる「(IV)太宗入冥(魏徴斬龍)」である。特に江流和尚は、いくつかの刊本に採用されながら世徳堂本では削除されていることもあり、刊本の前後関係や系統を推測する際の論拠にまでなっている。これら『西遊記』成立過程に関わる2つの逸話の由来について概説する。

    作中の矛盾

    これまで見てきたように『西遊記』は一人の作者が最初から書き上げた小説ではないこともあり、作中に矛盾する設定もいくつか見られる。 孫悟空が操る觔斗雲は、一跳びで十万八千里(長安から天竺までの距離と同じ)を飛ぶことができる。しかし三蔵法師が凡胎(通常の人間)であるために雲に乗ることができず、一行は徒歩・騎乗で旅しているという設定である。しかし、第46回車遅国で三大仙の虎力大仙と法力比べを行った際、悟空は五十脚の机をくみ上げた上に三蔵を雲に乗せて座らせている。また第71回では妖怪の賽太歳にさらわれた朱紫国皇后(通常の人間)を救出した後、朱紫国まで三千里の帰路を觔斗雲に皇后を乗せて戻っている。これらの描写は、人間を雲に乗せることはできないという基本設定と矛盾している。 また、第65回小雷音寺で鐃鉢に閉じ込められた孫悟空は、如意金箍棒を錐に変えて亢金龍の角に穴を開け、脱出している。しかし同様の状況である第75回の獅駝洞では、陰陽二気瓶に閉じ込められた時に悟空は、金箍棒を使うことに思い至らず、考え抜いたあげく第15回で南海菩薩からもらった「救命毫毛(命の毛)」という三本の硬い毛を錐に変えて穴...

    貞観27年の謎

    『西遊記』では第100回の三蔵法師の帰国を「貞観27年」のできごととしている。しかし唐代の貞観という年号は実際には23年(649年)までしかなく、貞観27年という年は存在しない。史実の玄奘が唐に帰国したのは同19年(645年)である。このようなずれが生じた最大の理由は、出発の年を大きく後ろへ移動させたことにある。史実で玄奘が出国したのは貞観3年(629年)であり、世徳堂本第13回で三蔵法師が出発したのは同13年(639年)と、10年ほどずらしたためである。これは「第13回」と「貞観13年」を符合させるためであったと思われる。 それならば帰国の年を早めれば貞観年中に収まるのだが、『西遊記』では往路にかかった年数を14年としなければならない理由があった。これは第98回に説明があるように、三蔵が西天で授かる経典の数5048巻を、旅にかかった日数5048日に符合させるためであった[※ 26]。一年を360日とすると、360×14=5040日という概算となる。足りない8日分については、ここまで八十難を乗り越えた三蔵の残る最後の一難として、第99回で西天と東土を往復させられることになる。なお...

    対称構造と数字の魔術

    中野美代子は世徳堂本の全体構成を俯瞰し、その組み立ての中に巧妙なシンメトリー(対称)構造が仕掛けられていると主張する(この段落の出典はすべて)。 1. 三蔵一行は第98回で天竺に到着するが、全行程(十万八千里)の真ん中である通天河[※ 27]を訪れるのが98÷2の第49回に配されている。 1. 第43回の黒水河(*)、第53回に子母河(*)が配置され、3つの河川が第49回通天河(*)を軸として対称となっている(①)。 2. 第39回に道士が偽三蔵に化けるが、第49回を軸にした反対側の第57~58回で偽悟空(六耳獼猴)の段(*)がある(②)。 3. 三蔵の乗馬玉龍が人語を話すのは第30回紅孩児の段と第69回朱紫国の段(*)で、これも第49回を挟んで左右対称位置にある(③)。 1. 長安を出発する第13回から天竺に到着する第98回までの回数の半分となる第55回を中心として、類似の話が左右対称で配置されている(④)。 1. 第32~35回の金角・銀角と、第74~77回の獅駝洞は、ともに複数の魔王を相手に戦い、孫悟空が敵の兵器(銀角の紅葫蘆(瓢箪)、三大王の陰陽二気瓶)に閉じ込められて脱...

    『西遊記』と同じ16世紀に成立した『水滸伝』第59回には、芒碭山の山賊として「混世魔王樊瑞」「八臂哪吒項充」「飛天大聖李袞」という3人が登場し、明らかに『西遊記』登場人物の影響を受けたあだ名となっている。『水滸伝』の成立は16世紀前半と推測されるため(詳細は水滸伝の成立史を参照)、これらの人物のあだ名は『西遊記』成立以前の旧本西遊記から取られたものと思われる。また『水滸伝』のスピンオフ的作品である『金瓶梅』でも、第73回に猪八戒が醜い顔の代表として言及されている(第76回には「朱八戒」の語が現れる)。 また神怪小説『封神演義』では李天王・哪吒・金吒・木吒・二郎神など、『西遊記』に登場した神々が大活躍する。『封神演義』の成立は世徳堂本からやや遅れた天啓年間(1620年代)頃と見られ、『西遊記』の影響を直接受けた作品である。仏教説話の衣をまとった『西遊記』では表向き仏教の神々が高い位置にいたが、道教主体の『封神演義』では、仏教の発祥よりも古い殷周革命期を扱うこともあり、完全に立場が逆転。燃灯仏が燃灯道人、観音菩薩が慈航道人、普賢菩薩が普賢真人、文殊菩薩が文殊広法天尊など、道教的な神名をつけられて登場する。 このほかにも明代には『西遊記』の影響を受けた神怪小説が多く作られている。主なものを挙げると、第61回火焔山解決後の続篇として明末の董若雨が書いた『西遊補』(1640年)全16回は、孫悟空が別世界を旅して古今の英雄達と出会う物語。また清初の『後西遊記』全40回は、三蔵取経から200年後を舞台に唐半偈・孫履真・猪一戒・沙弥らの旅を描いたもの。このほかにも多くの続篇が書かれている。一方『西遊記』は、清代には演劇の題材としても人気となっている。

    磯部彰『「西遊記」形成史の研究』(1993年、創文社、ISBN 978-4423192412)
    磯部彰「世徳堂刊西遊記の版本研究 明代における完成体『西遊記』の登場」(2005年、東北大学中国語学文学論集10)
    磯部彰『旅行く孫悟空 東アジアの西遊記』(2011年、塙書房、ISBN 978-4827312430)
    井波律子『三国志演義』(1994年、岩波新書、ISBN 978-4004303480)
  6. 日本の染織工芸 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/日本の染織工芸
    • 染料
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    • 外部リンク

    近代以降は化学繊維・化学染料が主流となるが、近世以前の日本の伝統的染織工芸に用いられたのはすべて天然繊維・天然染料であった。日本の染織工芸では植物由来の染料が大半である。これらは特定の植物の花、葉、幹、根などから色素を抽出するものであるが、天然色素の大部分は、糸や布に色を定着させるために、灰汁(あく)、明礬(みょうばん)などの他の物質による化学変化を利用する必要があり、このような染色を助ける物質を媒染剤という。ただし、梔子(くちなし)のように媒染剤を必要としない染料もある。なお、布を白く染める染料は、存在し、特に古代の朝廷において絹の染色の土台として用いられた。その影響によって今もなお法隆寺宝物や正倉院の遺品は、色彩が保たれているのである。 赤系の天然染料は、紅花と茜(あかね)が代表的なものである。紅花(ベニバナ)はキク科の草本で、他の多くの植物染料が根や葉を利用するのと異なり、花の部分が染料になる。紅花の花には赤と黄の色素が含有されているため、赤色を出すためには水洗いして黄色の色素を流出させねばならない。紅を「くれない」とも訓ずるが、これは「呉の藍」の意である。茜は、アカネ科の草本で、根から赤の色素が抽出される。インド茜や六葉の西洋茜もあるが、日本産のものは四葉の日本茜であり、世界中の茜の中で唯一薬効があり、古代より海外へ輸出されていた。紅花の花と同様、茜の根にも赤と黄の色素が含まれるため、黄色の色素をあらかじめ流出させる必要がある。蘇芳は、マメ科植物のスオウの幹の中心部から抽出する染料で、媒染剤によって赤または紫に発色する。スオウは、日本には自生しない南方の植物であり、当然輸入品であった。他に、近世に用いられた猩々緋(しょうじょうひ)という鮮烈な赤色があるが、これはサボテンに寄生するカイガラムシから取られたコチニールという動物性色素で、海外貿易による輸入品であった。臙脂(えんじ)も赤ないし紫系の色名であるが、これは、紅のことを指す場合と、カイガラムシから採れるコチニールを指す場合があった。 青系色は、天然染料の場合は、もっぱら藍(インディゴ)である。藍は単一の植物の名前ではなく、さまざまな植物から作られる。藍による染色は世界各地の民族にみられ、インドではマメ科のインド藍、琉球ではキツネノマゴ科の琉球藍が用いられるが、日本で用いられるのはタデ科の蓼藍である。...

    日本列島で、人々が染織製品を作り始めた時期は明確にはわかっていない。金属製品、土器、石器などは長年土中に埋もれていても遺存するのに対し、有機物である染織品は材質脆弱で遺存しにくく、先史時代の染織製品について、実物からその歴史をたどっていくことは困難である。 日本列島では、織物に先行して編物が作られていたとみられる。縄文時代草創期 - 前期の遺跡である鳥浜貝塚(福井県)からは編物や縄の断片が出土しており、縄文時代前期 - 中期の三内丸山遺跡(青森県)からは編籠(通称「縄文ポシェット」)が出土した。縄文晩期の遺跡からは間接資料ではあるが、布目圧痕のある土器が出土しており、この時代には布製品が生産されていたことがわかる。この時代の織物はヤマフジ、クズ、シナノキなどの樹皮繊維や、苧麻(ちょま)、大麻、イラクサなどの草皮繊維を原材料として作られていたと思われる。 弥生時代前期の遺跡である有田遺跡(福岡県)出土の銅戈(どうか)に付着していた平絹片(へいけんへん)が日本最古の絹の遺物とされている。『日本書紀』には、仲哀天皇8年(199年)、秦の功満王が蚕種を献ったとある。『魏志』「倭人伝」によると、当時(3世紀)の倭国では麻を植え、養蚕を行っていたという。唐古遺跡(奈良県)、登呂遺跡(静岡県)など弥生時代の遺跡からは織機の部品と思われる木製品や錘(つむ)が出土しており、吉野ケ里遺跡(佐賀県)出土の甕棺からは絹製品の断片が検出されている。こうしたことから、弥生時代には日本列島で絹織物が生産されていたことは確かである。『魏志』「倭人伝」によると、景初3年(239年)、正始4年(243年)、泰始2年(266年)に倭から魏に斑布、倭錦、絳青縑、異文雑錦などを献上しているが、これらが具体的にどのような染織品であったかは判然としない。『書紀』によれば応神天皇20年(289年)に阿知使主(あちのおみ)父子が来朝し、大和檜隈で綾を織った。同天皇37年(306年)には呉の職工の呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)が移住したとあり、雄略天皇7年(462年)には百済の織工・定女那錦(じょうあんなこむ)が来朝し韓様錦を織ったという。このように、3世紀から5世紀頃の日本には、中国大陸や朝鮮半島から染織に関わる工人が渡来し、技術を伝えたことが窺える。古墳時代になると、銅鏡、刀剣などを包んでいた絹裂が...

    時代の概観

    日本の染織工芸史が、具体的な作品をともなって跡付けられるのは、7世紀後半以降である。日本は、6世紀半ばに朝鮮半島の百済経由で仏教を受け入れ、寺院や仏像、瓦などを造るための工人も百済から渡来した。このように、当時の日本文化は、さまざまな面で、中国や朝鮮半島の影響を受けており、その点は染織も例外ではない。隋・唐の絹織物などの染織品とその技術の輸入により、日本の染織工芸は飛躍的な発展をとげたと推測されている。 日本では、平安・鎌倉時代(9 - 14世紀)の染織の現存遺品がきわめて乏しいのに対し、それより古い8世紀頃の染織遺品は比較的豊富に残っている。これは、法隆寺と東大寺(正倉院)にそれぞれ伝来した法隆寺裂、正倉院裂という一群の遺品が伝世しているためである。

    正倉院裂

    正倉院裂は、奈良・東大寺の倉である正倉院に伝来したもので、現在は宮内庁が管理している。ただし、一部の裂は明治時代に当時の帝国博物館に参考品として頒布され、現在東京国立博物館および京都国立博物館の所蔵となっている。法隆寺裂は奈良の法隆寺に伝来したもので、大部分は明治11年(1878年)、当時の皇室に献納され、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。法隆寺裂は、正倉院裂よりも点数は少ないが、正倉院裂より一時代古い飛鳥時代の裂を多く含む点で貴重である。この時代に属するものとしては、奈良・中宮寺の「天寿国繡帳」も著名である。この繡帳はごくわずかな断片が現存するにすぎないが、7世紀の刺繡作品として貴重である。京都・勧修寺に伝来した「刺繡釈迦説法図」(奈良国立博物館蔵)は唐からの渡来品と考えられている。奈良・當麻寺の「綴織当麻曼荼羅図」は中将姫が五色の蓮糸を用いて一夜で織り上げたとの伝説で名高いものであるが(実際は蓮糸ではなく絹糸の綴織)、こうした綴織の大作が日本では他にみられないことから、唐の製品と推定されている。 正倉院伝来の染織品は、正倉院裂と称され、現存するものは件数にし...

    正倉院をはじめとする上代の織物は錦と綾に代表される。「錦」および「綾」の語義は必ずしも一義的ではないが、上代染織品の場合、錦とは、先染めした多色の色糸を用いて文様を表した絹織物を指し、綾とは単色、後染めで、地組織の違いによって文様を織り出した絹織物を指すのが原則である。錦は経錦(たてにしき)、緯錦(ぬきにしき)、浮文錦に大別される。

    時代の概観

    前述のように、飛鳥・奈良時代の染織遺品が法隆寺裂・正倉院裂という形で比較的豊富に残っているのに対し、平安時代から鎌倉時代の染織は現存する作品がきわめて乏しく、実物の遺品からその歴史を跡付けることは困難である。現存遺品が乏しい理由の一つには、10年以上続いた応仁の乱(1467 - 1477年)のため、京都の町の大半が焼け野原となり、蔵などに保管されていた染織品が焼失したということもある。 平安時代、身分の高い男子の正装は束帯、女子の正装は十二単と通称される裳唐衣装束(もからぎぬしょうぞく)であったが、こうした装束の平安時代にさかのぼる実物遺品は残っていない。平安時代に属する実物遺品としては、甲冑に使用されている色糸や染韋(そめかわ)、平泉の中尊寺金色堂の須弥壇下の棺に納置されていた白平絹の衣類、厳島神社の古神宝のうちの錦半臂(にしきのはんぴ)、神護寺に伝わった経帙(きょうちつ)といった、やや特殊な遺品になる。このうち経帙は経巻を何巻かまとめて包んで収納するためのもので、細い竹ひごを絹の色糸で編み、錦の縁と綾の裏を付けたもので、神護寺に残るものだけで202枚あり(他に寺外に流出したも...

    束帯

    この時代、男子の正装は前述した束帯姿である。体に近い方から単(ひとえ)、衵(あこめ)、下襲(したがさね)、半臂(はんぴ)、袍(ほう)を着し、下半身には大口の上に表袴(うえのはかま)を穿き、足には襪(しとうず)を穿き、石帯(せきたい)を付け、頭には冠を被り、腰に太刀を佩き、手には笏を持つのが正装であった。袍は位階や年齢によって使用する色に細かい決まりがあった。半臂は袖なしの衣で、省略される場合もあった、下襲は背後に長く裾(きょ)を引くのが特色で、歩くときは供の者に裾を持たせることもあった。石帯は革製のベルト、襪は足指のない足袋である。束帯の大口と表袴を指貫(さしぬき)に代えたものを布袴姿(ほうこすがた)、さらに袍を直衣(のうし)に代えたものを直衣布袴姿といった。指貫は、裾を括り緒で括った、ゆったりとした袴である。束帯はあらたまった礼装であり、通常は衣冠や直衣が用いられることが多かった。衣冠は束帯の半臂、下襲、衵、襪、石帯を略したもので、長く裾を引く下襲を用いず、石帯の代わりに共布の紐を用い、大口と表袴の代わりに指貫を用いた。衣冠の袍を直衣に代えたものが直衣姿である。普段着としては狩...

    裳唐衣装束

    女子の正装は十二単と通称される裳唐衣装束で、唐衣、裳、表着(うわぎ)、打衣(うちぎぬ)、袿(うちき)、単、緋袴(ひのはかま)を着した。裳はスカートの後半分だけが残ったような形の装飾的な衣装である。袿は5枚ほどを重ね着し、五衣(いつつぎぬ)ともいった。略装では唐衣と裳を略し、代わりに小袿や細長を着た。このような重ね着では、一番上に着るもの以外の衣服は、袖口、襟元、裾などのごく一部が見えるだけであった。重ねて着たときに、内側の着衣の色が裾などから見えるようにするため、体に近い内側に着る衣服をもっとも長く仕立て、その上に重ねる衣服は少しずつ仕立てを短くし、こうして、それぞれの着衣の色の重なり合いを見せるようにした。以上のような衣装の平安時代の実物は残っておらず、『源氏物語』などの文学作品や、『源氏物語絵巻』、『扇面法華経冊子』の下絵などの絵画資料から窺うほかない。 平安時代の高貴な女性は、みだりに人前に素顔をさらすことはなく、男性は御簾の裾などからわずかに覗く女性の着衣の色から、女性の趣味や人柄を推し量った。このような状況であったから、この時代の染織は織物が主体となり、前代にみられたよ...

    名物裂と西陣織

    10年以上続いた応仁の乱(1467 - 1477年)によって、京都の町の大半が焼け、由緒ある寺社の建物などとともに、火に弱い染織工芸品の多くも地上から姿を消してしまった。このことは反面、近世に向けて新たな染織工芸を生み出すきっかけともなった。15世紀以降、明との勘合貿易により、金襴、緞子(どんす)、印金などの日本にはない技術や素材を駆使した裂が輸入された。こうした外来の裂は茶人や商人らによって珍重され、茶道具を包む仕覆(しふく)や、掛物の表装に用いられて愛用された。こうした外来の染織品を総称して「名物裂」といい、愛用したとされる人物の名をとって「角倉金襴」(すみのくらきんらん)、「珠光緞子」(じゅこうどんす)などと呼称されている。応仁の乱によって、京都の織物産業は一時期途絶えたが、16世紀になると、戦乱を避けて堺など各地へ散っていた職人が徐々に戻り、織物業が再開された。かつて、応仁の乱で西軍の本陣があった地区で織物業が復興したことから、京都の織物は西陣織と称されるようになった。

    小袖

    16世紀になると、ようやく現存する染織品の数も増えてくる。この時代の特色の一つは、従来、下着の地位にあった小袖が上着として表面に出てくるようになったことである。元は上層階級の下着であった小袖は、鎌倉時代以降、武家の台頭と服装の簡素化に伴って、徐々に上着として着られるようになり、応仁の乱あたりを境にして、階層や男女を問わず広く着用される一般的な衣服となった。小袖とは広袖に対する言葉で、袖口を広く開けずに狭く仕立ててあるものの意である。平安時代の女房装束では、袖口や裾からこぼれる衣の重なり合った色彩の美しさを競ったが、小袖が表に着られるようになると、小袖そのものの文様が重視され、小袖の特に背面が1枚の画面となって、ここにさまざまな技法でさまざまな図柄が表されるようになった。小袖は現代にまで通じる、日本の「着物」のルーツでもある。桃山時代の小袖には片身替り、段替り、肩裾などの大胆な模様が採用された。

    辻が花と能装束

    16世紀半ば、室町時代末期あたりから、日本の染織工芸は海外の染織品の影響を受けて、その素材や技法を多様化させていく。中国から輸入された刺繡作品の刺激を受けて、日本でも小袖などに精巧な刺繡が施されるようになり、刺繡と金箔を併用した縫箔という加飾法も現れた。室町時代末期からは「辻が花」と呼ばれる一連の染物が登場する。辻が花は縫い締め防染による染めを中心にしたもので、室町時代末期から江戸時代初期に至る短期間に隆盛して姿を消し、現存遺品が少ないこともあって、「幻の染物」ともいわれている。戦国時代から桃山時代にかけては、武将も服飾文化の重要な担い手であった。織田信長、豊臣秀吉、上杉謙信といった武将の着用した陣羽織や胴服には自らの個性と存在をアピールする大胆奇抜な衣装や色彩が採用され、ヨーロッパ渡来のラシャ(羅紗)の裂も使用された。日本の染織の歴史には長年登場しなかった綿花が栽培され普及するようになるのもこの時代である。日本で綿の栽培が始まったのは明応年間(1492 - 1500年)とされ、江戸時代中期以降には日本各地に木綿を素材とした織物が普及し、絞り染、型染、絣(かすり)などの製品が作ら...

    時代の概観

    江戸時代には男子の服飾が比較的画一的であったのに対し、女子の衣装は、武家女性と町方女性の間で差異はあったが、流行を取り入れてさまざまな技法や意匠が用いられた。こうした新たな技法や意匠を体現しているものが小袖であり、時代の傾向を反映して慶長小袖、寛文小袖、元禄小袖などの用語が使われている。江戸幕府は、たびたび倹約令を発し、町人が贅沢な衣服を誂え、着用することを戒めた。天和3年(1683年)の禁令では、刺繡、総鹿の子絞り、金紗の使用を禁止している。この種の禁令がたびたび出されること自体、禁令が厳格に守られず、町人が派手な衣服を好んでいたことを表している。江戸時代中期には京都で友禅染の生産が開始される。従来の伝統的な染めの技法は「浸け染め」といって、布全体を染液に浸す必要があったが、近世には染料が改良されて、刷毛で染料を塗る「引き染め」が可能になり、染色表現の幅が飛躍的に広がった。友禅染の技法の特色である「糊防染」と「色挿し」も、こうした染料の改良によって可能となったものであり、小袖や帯などにさまざまな絵画的衣装が表されるようになった。こうした染物とは別に、著名な絵師が布面に直接絵筆を...

    慶長小袖

    江戸時代初期の小袖の様式を指す用語で、慶長小袖というが、研究の結果、実際の製作年代は慶長の末年から元和・寛永年間(おおむね17世紀前半)頃であることが明らかになっている。黒、黒紅、赤、白を主調とした渋い色彩が特色で、技法的には刺繡と摺箔が多用される。意匠構成は、前代の桃山小袖が片身替り、段替りなど、文様を単純明快な区画に区切る傾向があったのに対し、慶長小袖は抽象的で複雑な形に文様を区画する傾向がある。

    寛文小袖

    寛文年間(1661 - 1673年)を中心とした時期の小袖様式で、特色は背面の模様構成にある。典型的な模様構成は、背面右袖から肩の部分を通って左袖へ、および、右袖から下へ伸びて右裾へという形で模様が続き、背面の左下方は模様を表さずに空白にするというものである。当時の小袖雛形本に見る意匠はおおむね上記の型を踏襲しており、前述の慶長小袖が武家女性の好みであったのに対し、こちらは新興町人階級の好みが反映された意匠となっている。地合いは桃山時代に盛行した練貫地に替わって綸子地が多く用いられている。

    明治以降、化学染料の導入とともに、手間のかかる植物染料の使用は急速に衰退していった。明治時代初期、当時の日本政府は化学研究のため舎密局(せいみきょく)という役所を設置したが、早くも明治5年(1872年)には、化学染料の導入のため、フランスのリヨンに舎密局の役人を派遣している。。友禅染などにも化学染料が導入されて、それまでになかった色が出せるようになり、織機もフランス人ジャカールが開発したジャカード織機が使われるようになった。明治時代の末期には天然染料は化学染料に完全に圧された形となっていた。 21世紀の日本では、天然素材、天然染料による染織は、伝統工芸品、無形文化財として命脈を保っており、各地に伝統染織品の展示・普及施設がつくられ、技術の伝承、製品の販売が行われている。また、「草木染」と称して天然素材による染織品製作が続けられている。「草木染」という語は、長野県出身の文学者で染織研究者であった山崎斌(あきら)によって名付けられたもので、昭和5年(1930年)、山崎が東京銀座の資生堂で「草木染手織紬復興展覧会」を開催した時に使用したのが始めとされている。

    e国宝(国立博物館所蔵国宝・重要文化財)染織
    文化庁文化遺産オンライン - 染織(ただし日本以外の地域で作られたものも含む)
    日本工芸会所属人間国宝紹介 - 染織
  7. 長篠の戦い - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/長篠合戦
    • 開戦に至る経緯
    • 『信長公記』等による合戦の経緯
    • 長篠合戦の政治的な影響
    • 参戦武将
    • 長篠の戦いをめぐる論点と詳細
    • 絵画における長篠合戦
    • 関連行事
    • 参考文献
    • 外部リンク

    甲斐国・信濃国を領する武田氏は永禄年間に、駿河の、今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へも侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪化すると、元亀3年には反信長勢力を糾合した将軍義昭に挙兵される。そこで将軍義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国である三河へ侵攻(西上作戦[注釈 4])したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。 しかし信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。 武田氏の撤兵に伴って三河の徳川家康も武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属[注釈 5]。すると家康からは、武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)。 武田氏の後継者となった勝頼は、遠江・三河を再掌握すべく反撃を開始。奥平氏の離反から2年後の天正3年(1575年)4月には大軍の指揮を執り三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲した。これにより、長篠・設楽原における武田軍と織田・徳川連合軍の衝突に至った。また、大岡弥四郎(大賀とも)の内通事件が、天正3年(1575年)の事件であるとする説が出され、大岡の調略に成功した武田軍が岡崎城を目指したものの、内通が発覚して大岡が殺害されたために長篠方面に向きを変えた可能性がある。

    長篠城攻城戦

    1万5000の武田の大軍に対して、長篠城の守備隊は500人の寡兵であったが、200丁の鉄砲や大鉄砲を有しており、また周囲を谷川に囲まれた地形のおかげで武田軍の猛攻にも何とか持ちこたえていた。しかし兵糧蔵の焼失により食糧を失い、数日以内に落城必至の状況に追い詰められた。5月14日の夜、城側は貞昌の家臣である鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を密使として放ち、約65km離れた岡崎城の家康へ緊急事態を訴えて、援軍を要請させることにした。 夜の闇に紛れ、寒狭川に潜って武田軍の厳重な警戒線を突破した鳥居が、15日の午後にたどり着いた岡崎城では、既に信長の率いる援軍3万人が、家康の手勢8000人と共に長篠へ出撃する態勢であった。信長と家康に戦況を報告し、翌日にも家康と信長の大軍が長篠城救援に出陣することを知らされた鳥居は、この朗報を一刻も早く長篠城に伝えようと引き返したが、16日の早朝、城の目前まで来たところで武田軍に見付かり、捕らえられてしまった。 最初から死を覚悟の鳥居は、武田軍の厳しい尋問に臆せず、自分が長篠城の使いであることを述べ、織田・徳川の援軍が長篠城に向かう予定であることを堂々...

    信長軍団の到着

    信長軍30,000と家康軍8,000は、5月18日に長篠城手前の設楽原に着陣。設楽原は原と言っても、小川や沢に沿って丘陵地が南北に幾つも連なる場所であった。ここからでは相手陣の深遠まで見渡せなかったが、信長はこの点を利用し、30,000の軍勢を敵から見えないよう、途切れ途切れに布陣させ[注釈 7]、小川・連吾川を堀に見立てて防御陣の構築に努める。これは、川を挟む台地の両方の斜面を削って人工的な急斜面とし、さらに三重の土塁[要出典]に馬防柵を設けるという当時の日本としては異例の野戦築城[注釈 8]だった。海外の過去の銃を用いた野戦築城の例と、宣教師の往来を理由として信長がイタリア戦役を知っていた可能性に言及されることもある。つまり信長側は、無防備に近い鉄砲隊を主力として柵・土塁で守り、武田の騎馬隊を迎え撃つ戦術を採った。 一方、信長到着の報を受けた武田陣営では直ちに軍議が開かれた。信玄時代からの重鎮たち、特に後代に武田四名臣といわれる山県昌景、馬場信春、内藤昌秀らは信長自らの出陣を知って撤退を進言したと言われているが、勝頼は決戦を行うことを決定する。そして長篠城の牽制に3,000ほ...

    鳶ヶ巣山攻防戦

    5月20日深夜、信長は家康の重臣であった酒井忠次を呼び、徳川軍の中から弓・鉄砲に優れた兵2,000ほどを選び出して酒井忠次に率いさせ、これに自身の鉄砲隊500と金森長近ら検使を加えて約4,000名の別働隊を組織し、奇襲を命じた(『信長公記』)。別働隊は密かに正面の武田軍を迂回して豊川を渡河し、南側から尾根伝いに進み、翌日の夜明けには長篠城包囲の要であった鳶ヶ巣山砦を後方より強襲した。鳶ヶ巣山砦は、長篠城を包囲・監視するために築かれた砦であり、本砦に4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦という構成であったが、奇襲の成功により全て落とされる。これによって、織田・徳川連合軍は長篠城の救援という第一目的を果たした。さらに籠城していた奥平軍を加えた酒井奇襲隊は追撃の手を緩めず、有海村駐留中の武田支軍までも掃討したことによって、設楽原に進んだ武田本隊の退路を脅かすことにも成功した。 この鳶ヶ巣山攻防戦によって武田方の動きは、主将の河窪信実(勝頼の叔父)をはじめ、三枝昌貞、五味高重、和田業繁、名和宗安、飯尾助友など名のある武将が討死。武田の敗残兵は本隊への合流を図ってか豊川を渡って...

    長篠における勝利、そして越前一向一揆平定による石山本願寺との和睦で反信長勢力を屈服させることに成功した信長は、「天下人」として台頭した。また、徳川家康は三河の実権を完全に握り、遠江の重要拠点である諏訪原城、二俣城を攻略していき、高天神城への締め付けを強化した。 武田氏は長篠において、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し[注釈 13]、領国の動揺を招いた。武田氏は長篠の敗退を契機に外交方針の再建をはかり、相模後北条氏の甲相同盟に加え、越後上杉氏との関係強化や佐竹氏との同盟(甲佐同盟)、さらに里見氏ら関東諸族らと外交関係を結んだ。 天正6年(1578年)には越後において上杉謙信の死後、ともにその養子であった上杉景勝と上杉景虎[注釈 14]との間で家督を巡る御館の乱が起こり、勝頼は北条氏の要請で出兵するが、武田方と接触していた景勝と同盟を結び(甲越同盟)、両者の調停を図る。勝頼の撤兵後に景勝が乱を制したことで、北条氏との関係は手切となった。 勝頼は関東諸族との同盟により北条氏を牽制し、武田家に人質としていた織田信房を織田家に返還して信長との和睦を試みるが(甲江和与)、天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍による武田領国への本格的侵攻が行われ、武田氏は滅亡した。 長篠城主・奥平貞昌はこの戦功によって信長の偏諱を賜り「信昌」と改名[注釈 15]し、(もともとそういう約定があったが)家康の長女・亀姫を貰い受け正室とした上、家康所有の名刀「大般若長光」も賜るという名誉を受けた。さらにその重臣含めて知行などを子々孫々に至るまで保証するというお墨付きを与えられ、貞昌を祖とする奥平松平家は明治まで続くこととなる。また、武田に処刑された鳥居強右衛門は後世に忠臣として名を残し、その子孫は奥平松平家家中で厚遇された。

    織田・徳川連合軍

    設楽原決戦の本隊 1. 織田軍武将 1.1. 織田信長、織田信忠、北畠信雄、織田掃部、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、滝川一益、明智光秀(非参戦説有り)、佐久間信盛、水野信元、高木清秀、河尻秀隆、稲葉一鉄、池田恒興、森長可、蒲生氏郷、佐々成政、前田利家、塙直政、福富秀勝、野々村正成、丹羽氏次、徳山則秀、西尾吉次、湯浅直宗 徳川軍武将 1.1. 徳川家康、松平信康、松平信一、松平定勝、松平重勝、松平忠正、石川数正、本多忠勝、本多重次、本多正重、本多信俊、榊原康政、鳥居元忠、大久保忠世・忠佐兄弟、大須賀康高、平岩親吉、内藤信成、内藤家長、渡辺守綱、田中義忠、高力正長、柴田康忠、朝比奈泰勝、成瀬正一、日下部定好 鳶ヶ巣山攻撃隊 1. 織田軍武将 1.1. 金森長近、佐藤秀方 徳川軍武将 1.1. 酒井忠次、酒井家次、松平康忠、松平伊忠・家忠親子、松平清宗、松平真乗、松平忠次、松平家忠(東条松平家)、松平家忠(形原松平家)、本多広孝・康重親子、本多忠次、牧野康成、奥平貞能、菅沼定盈、西郷家員、近藤秀用、小笠原安次、戸田一西、大沢基胤、設楽貞通(樋田にて待機) 長篠城籠城軍 1. 奥平貞昌、...

    武田軍

    設楽原決戦の本隊 1. 武田勝頼、武田信廉、武田信豊・望月信永兄弟、一条信龍、武田信光、穴山信君、小山田信茂、山県昌景、山県昌次、内藤昌秀、馬場信春、土屋昌続・昌恒兄弟、土屋貞綱、真田信綱・昌輝・武藤喜兵衛兄弟、鎌原重澄、原昌胤、跡部勝資、長坂光堅、小幡憲重(この戦いで討死したとされるが詳細不明)・信貞親子、甘利信康、横田康景・原盛胤兄弟、安中景繁、米倉重継、小笠原信嶺、小幡昌盛、初鹿野昌久、岡部正綱、朝比奈信置、大井貞清、室賀信俊、恵光寺快川、岩手胤秀、屋代正長、根津月直、堀無手右衛門、柳沢信俊 長篠城監視部隊 1. 鳶ヶ巣山、その他の砦守備隊(長篠城の南対岸) 1.1. 鳶ヶ巣砦 1.1.1. 河窪信実、小宮山信近 姥ヶ懐砦 1.1.1. 三枝昌貞・守義・守光兄弟 君ヶ伏床砦 1.1.1. 和田業繁 中山砦 1.1.1. 五味高重、飯尾助友・祐国兄弟、名和無理之助 久間山砦 1.1.1. 和気善兵衛、倉賀野秀景、原胤成 有海村駐留部隊(長篠城の西対岸) 1.1. 高坂昌澄、小山田昌成、雨宮家次、山本勘蔵信供

    両軍の開戦理由

    『甲陽軍鑑』[注釈 16]では跡部勝資、長坂光堅ら武田勝頼の側近が主戦論を主張し、宿老家臣の「撤退すべき」という意見を無視し決戦に臨んだというが『甲陽軍鑑』は勝頼期に跡部勝資ら新興の出頭人と古参宿老との対立が武田家の滅亡を招いたとする構図を記しており、文書上において跡部勝資は信玄後期・勝頼期の側近として重用されていることは確認され、武田家中における新興側近層と古参宿老層の関係が長篠合戦について記される逸話の背景になっている可能性が考えられている。 『武家事紀』には、かねてから佐久間信盛が偽って勝頼に内通し、裏切りを約束していたために、勝頼が進軍して大敗したとある。『常山紀談』では、信長の謀略で、信盛が長坂光堅に内通して裏切りを約束して、光堅から一戦を勧められた勝頼が、馬場信春らの意見を用いず進軍を決断したという話が載せられている。 今回と状況が似ている前年の第一次高天神城の戦いでの圧勝で自信過剰となって勝てると判断したという説や、鳶ヶ巣山に酒井忠次の別働隊3,000の迂回を武田軍は察知しており、第四次川中島の戦いの逆説的な再来を狙ったという説などもある。 当時の情勢を見た場合、信...

    両軍の兵力数と損害数

    通説では織田・徳川連合軍38,000(うち鳶ヶ巣山強襲部隊4,000)、武田軍15,000(うち鳶ヶ巣山に残した部隊3,000)となっているが諸説ある。 高柳光寿は『長篠之戦』で、織田12,000-13,000、徳川4,000-5,000とし、武田8,000-10,000でその内、設楽原へ布陣した兵数が6,000-7,000という数字を唱えている。連合軍の兵力はおよそ武田軍の2.5-3倍程度であり、これは通説とほぼ等しい。この数字が支持される理由に、設楽原の地形の峡さが挙げられることが多い。 武田氏の動員兵力は、『甲陽軍鑑』にある騎数9,121から想定し最小で36,000最大で52,000の動員が可能であったと考えられている[注釈 17]。このうち一部の兵力は、織田以外の勢力への備えとして領国内に残留させていたと考えられている。元亀3年(1572年)の西上作戦では30,000の兵力を動員したと言われるように、通説通りと見てもこの戦いにおいては最大動員兵力ではない。この理由として、対上杉に戦力を割かれたため(この時は対上杉に10,000の抑え部隊が配置されていたと言われる)、国人の...

    織田軍の鉄砲数と三段撃ちについて

    長篠の戦いの特筆すべき点として織田家は当時としては異例の鉄砲3,000丁を用意して兵に配布し、新戦法三段撃ちを行ったとされるのが有名である。 通説では、当時最新兵器であった鉄砲を3,000丁も用意、さらに新戦法の三段撃ちを実行した織田軍を前に、当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は為す術もなく殲滅させられたとされるが、そもそも兵力に2倍以上の差があったうえ、後述にもあるように経過・勝因については様々な論点において異論が存在する。 通説である鉄砲3,000丁というのは甫庵本『信長記』や池田本『信長公記』が出典である。甫庵本は資料としての信用度はさほど高くはないとされ、資料的な信用度が高いとされる池田本の方では1,000丁と書かれた後に「三」の字が脇に書き足されたようになっている点に信憑性の問題がある。これは甫庵本の3,000丁が一人歩きした後世の加筆なのか、筆を誤ったのに気付いてその場で加筆修正したのかは明らかではない。しかしその「三」の字は返り点とほぼ同じ大きさで書かれており、筆を誤ったのでその場で加筆したというのも少々考えにくい。 太田牛一の『信長公記』では、決戦に使用された鉄砲数に...

    近世期には屏風絵において軍記類の記述に基づき著名な戦国合戦の様子を描いた戦国合戦図屏風が製作され、長篠合戦図屏風は10の作例が知られる[注釈 19]。 現存する作例のうち原本を考えられているものが尾張徳川家の附家老で犬山藩主の成瀬氏に伝来した「長篠合戦図屏風」(犬山城白帝文庫所蔵、公式サイトに解説あり)で、成瀬本は六曲一双の本間屏風で「長久手合戦図屏風」と対になる。長篠合戦図は右隻となる。紙本着色、寸法は縦165.2cm、横350.8cm。 画面構成は右端の一扇目には大野川・寒狭川に画された長篠城と城将である奥平貞昌の姿が描かれ、右下には鳶ノ巣山砦が描かれている。ニ扇目には武田勝頼の本陣が描かれ、上部には馬場信春の最期が描かれている。第三、四扇目には設楽原における決戦の様子が描かれ、馬防柵に守られた徳川勢の鉄砲隊と突撃する山県昌景の騎馬隊が描かれている。第五、六扇目には織田・徳川勢の本陣が描かれ、信長や家康のほか羽柴秀吉や滝川一益ら諸将の姿が描かれているが、特に徳川勢の布陣が大きく描かれ成瀬氏の始祖である成瀬正一のほか徳川家の譜代家臣の諸将が描かれている。 描かれている諸将の配置や場面の構成から成瀬本には元和8年(1623年)には刊本が刊行されている小瀬甫庵『信長記』や同じく元和年間に成立している『甲陽軍鑑』の影響下に描かれている点が指摘されている。成瀬家の言い伝えでは江戸初期の作というが、樹木や人物表情の描写から17世紀の後半延宝頃と考えられる。 大阪城天守閣や徳川美術館(公式サイトに解説)も「長篠合戦図屏風」を所蔵しているが、これらは成瀬家本を写したもので、自然描写から大阪城天守閣本は成瀬家本からさほど下らない時期、徳川美術館本は江戸時代後期に描かれたと推測される。なお、名古屋市美術館本(文化庁オンラインに解説)は、合戦の情報量が少なく、絵画様式から見て成瀬本より古い17世紀前半元和から寛永前期頃の制作と見られる。作者は大和絵系の絵師。元は六曲一双で長篠合戦図を構成していたと考えられ、これを六曲一隻にまとめつつ内容を充実させ、更に左隻に小牧長久手合戦図を加えたのが成瀬本だと推測される。

    信昌の長篠籠城を偲んで、大分県中津市の奥平神社では毎年5月に例大祭「たにし祭」が開催されている。
    愛知県新城市では戦いで倒れた両軍将士の慰霊のため、毎年5月に「長篠合戦のぼりまつり」が開催され、法要、合戦行列、火縄銃等の演武などが行われている。
    藤本正行「長篠の鉄砲戦術は虚構だ」(『歴史と旅』1980年5月号)
    藤本正行「図解ドキュメント長篠合戦」(『別冊歴史読本』27号、1980年)
    柴裕之「長篠合戦の政治背景」(武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年)
  8. 桶狭間の戦い - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/桶狭間の合戦

    桶狭間の戦い (おけはざまのたたかい)は、 永禄 3年 5月19日 ( 1560年 6月12日 )に 尾張国 知多郡 桶狭間 での 織田信長 軍と 今川義元 軍の 合戦 。. 2万5千人の大軍を率い尾張に侵攻した今川義元に対し、尾張の織田信長が本陣を 奇襲 、または正面から攻撃し ...

  9. 本能寺の変 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変

    笑岩は羽柴秀吉 [注釈 14] に接近して、その姉の子三好信吉を養嗣子に貰い受けて連携しており、笑岩は本領である阿波美馬・三好の2郡を奪われると、天正9年、信長に旧領回復を訴えて織田家の方針が撤回されるように働きかけた [41]。

  10. 十二国記の登場人物 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/中嶋陽子
    • 慶東国
    • 雁州国
    • 戴極国
    • 恭州国
    • 漣極国
    • 才州国
    • 奏南国
    • 柳北国
    • 範西国
    • 芳極国

    中嶋陽子(なかじま ようこ)

    1. 声 - 久川綾 2. 現在の慶東国国主。胎果であり、蓬莱(現代の日本)で生まれ育ち普通の高校生として生活していたが、王気に導かれて蓬莱に渡ってきた景麒により訳も分からないまま十二国に連れ戻される。しかし直後に塙麟の使令とそれが呼び寄せた妖魔の襲撃により景麒は捕えられ、使令達ともはぐれて巧州国の虚海側の沿岸・配浪に流れ着く。日本に戻るべく景麒を探して当ても無く彷徨う内に、巧国の役人の目が手薄な巧国の内陸へと入り込み、そこで行き倒れたところを楽俊に拾われる。度重なる妖魔の襲撃や出会った者達の裏切り、更には水禺刀からの幻、青猿(声 - 岡野浩介)の讒言によって極度の人間不信に陥るが、楽俊の存在によって救われ、共に雁国を目指す。 3. 景麒の正体と陽子が連れて来られた理由に気付いた楽俊の薦めで、延麒に目通りを願い、延麒の代わりに尚隆に会う。尚隆から自分が人として死んでおり蓬莱に帰れば長くは生きていけない事と、偽王の出現で混乱する慶国の状況を聞き、王になるか死かの究極の選択を迫られる。楽俊や冗祐の諫言を受け、尚隆から借り受けた軍勢を率いて偽王・舒栄を打ち倒し、新たな景王として即位した...

    景麒(けいき)

    1. 声 - 子安武人 2. 慶国の麒麟。慶国宰輔を務め、首都州・瑛州の州候も兼ねる。色味の薄い金髪で、外見は20代後半の男性。慈悲深いが生真面目な性格のため、冷徹だと思われがちである。必要最低限の言葉しか発しない。更に相手の考えを理解できないと重い溜め息を吐く癖がある。 3. 陽子の前は舒覚に仕えていた。元々の性格から彼女を引き籠らせてしまったが、泰麒との交流を通じて人に優しくすることを学ぶ。使令の名前は当て字である。

    白芥瑚(はく かいこ)

    1. 声 - 進藤尚美 2. 景麒の女怪。羽毛に覆われた身体の鳥女。翼のような腕、金茶の縞のある背、足は羽毛に覆われた人型、長い尾がある。景麒の命令により、陽子が十二国世界に行く時の先導役になった。

    ※声の記述はCDドラマ版 / アニメ版の順 尚隆(しょうりゅう) / 小松三郎尚隆(こまつさぶろうなおたか) 1. 声 - 梁田清之 / 相沢正輝 2. 現在の延王。前者は十二国での名、後者は蓬莱での名前。普段は奔放で不真面目だが、重要な局面では優れた手腕を発揮する。治世は500年におよび、名君として名高い。 3. 頻繁に王宮を出奔し、風漢(ふうかん)と名乗って国内外に足を伸ばしている。遊郭や賭場で放蕩しては有り金を使い果たし、下働きをしているところを官吏に連れ戻される、ということも少なくない。一方で市井の様子や他国の動向を自ら視察する意味もあり、同様に放浪癖のある奏国の太子・利広と出会って情報交換することもある。 4. 胎果であり、蓬莱では戦国時代の瀬戸内水軍であった国人・小松家に生まれ育つ。兄が二人いたが戦死している。小松家の跡取りとしてちやほやされ、領内をぶらついては領民と交流していた。大内氏の傍流から許嫁を貰ったが、祝言の夜に婆二人を盾に寝所に入れてもらえず、以来会った事がないのに子供ができていた。小松水軍が近隣の因島水軍との戦いに敗れ一族郎党滅亡、自らも戦死しかけたところを六太に救われ、雁国を与えられる。 5. 剣術・政治的手腕共に一流で、正義や体面よりも最小限の被害で成果を挙げる主義。盛者必衰の考えも持ち合わせている。かつて自分が処刑した官吏(斡由)の墓参りには、今でもお忍びで行っている。 6. 現在の簡素な服装について臣下と折り合いをつけるまでに、300年に渡る戦いを経ている。六太以下の家臣にとんでもない字を与えている。世話焼きでもあり、自らが選んだ王の王気を自覚できず悩む泰麒のために、あえて憎まれ役を買って出たこともある。 六太(ろくた) 1. 声 - 山口勝平、幼少 - 石津彩 2. 現在の延麒。外見は12〜13歳。名前は蓬莱の親に付けられた。麒麟本来の姿は馬と鹿の中間のような形であるため、字は馬鹿。雁国宰輔を務め、首都州・靖州の州侯でもある。相手の嘘や隠し事に気付き、あえてそれを黙っているなど聡い性分。 3. 胎果であり、室町時代に京都の貧家の末っ子として生まれ育った。4歳の時に応仁の乱後の荒廃した世相の中、父親の雇い主を足軽に殺されたことがきっかけで貧しさから親に捨てられ餓死しかけたところを、沃飛に救助された。戦を起こし民を犠牲にする権力...

    乍驍宗(さく ぎょうそう)

    1. 声 - 藤原啓治 2. 泰王。姓名は朴綜(ぼくそう)。元・戴国禁軍左将軍。委州の呀嶺出身。褐色の肌に白髪、真紅の瞳。人望が厚く、知略に優れた武将として他国にまで知られた。泰麒を竦ませる程の覇気を持つ。 3. 剣の腕前は延王と並び、驕王に付き添い雁国へ赴いた際、尚隆と試合をして3本の内1本を取ったことを賞賛され、驕王(アニメでは延王)から剣を下賜された。 4. 一時期3年程仙籍を返上して禁軍を退き、黄海で朱氏に徒弟入りしていた。その経験から昇山の際も李斎ら他の昇山者とは別行動を取り、僅かな手勢のみの単独行で妖魔が跋扈する黄海を踏破して蓬山に到達した。騎乗している妖獣の「計都」は自ら捕獲したもので、最上の騎獣と言われている騶虞である。 5. 蓬山で李斎・泰麒と共に騎獣狩りに行った際、誤って饕餮の巣穴に入り込み、饕餮に跳ね飛ばされ、然程の怪我はなかったのだが泰麒の気を散らさないように重傷を装い、泰麒の折伏を成功させた。 6. 頭脳明晰で決断力と実行力を兼ね備えているものの、謙虚さに欠け、やや独善的な面がある。自分の性格や言動に加減ができず、自ら「手綱をうまく緩められない性分」と語...

    蒿里(こうり)/ 高里要(たかさと かなめ)

    1. 声 - 釘宮理恵(蒿里)、岡野浩介(高里要) 2. 泰麒。卵果が実って間も無く蝕により日本へ流され、胎果として生まれ育った。10年後に延麒により発見され、身に覚えのない事で祖母の折檻を受け雪の降る庭に放り出されていた所を廉麟と汕子によって連れ戻された。その後は蓬山で育てられ、昇山開始の報を聞いて昇山してきた驍宗を王に選び戴国へ下るが、驍宗の出征中に阿選に角を斬られ、その衝撃から無意識に鳴蝕を起こして再び蓬莱へと渡り、同時に十二国で過ごした約1年間の記憶を失う。その6年後、各国の協力により十二国へ帰還するが、肉食の強要や汕子・傲濫の暴走による血の穢れ、更に周囲から向けられた怨詛(怨みや憎しみ等の負の感情)により、体は瀕死の重体に陥っていた。西王母により病を祓われ回復した後、金波宮で目を覚ました直後に内宰と閽人が大逆を謀った事で自分が慶に少なからず負担をかけていると感じ、角が再生するのを待たずに李斎と共に行方不明になった驍宗を探すため戴国へ向かった。 3. 天真爛漫だが、幼少からの祖母の厳しい躾により、常に周囲に気を遣う自虐的な性格である。しかし二度の帰還を経て、一度決意した事...

    白汕子(はくさんし)

    1. 声 - 勝生真沙子 2. 泰麒の女怪。女の上半身に魚の首、豹の下半身に蜥蜴の尾の姿。泰麒に対して非常に過保護。 3. 『魔性の子』では泰麒を守ろうとするあまり理性を失い、些細な事でも泰麒に危害を加えた者は傲濫と共に惨殺していた。

    珠晶(しゅしょう)

    1. 声 - 山崎和佳奈 2. 現在の供王。姓名は蔡晶 (さいしょう)。12歳で登極した歴史上最年少の女王。見た目は愛らしい少女であるが、治世は90年以上。頭脳明晰で決断力・行動力に富み、自分にも他人にも厳しい評価基準を課している。気性が激しく、口より先に手が出る傾向がある。 3. 芳国を追放された祥瓊を引き取り、あえて奚の一人として働かせる。最終的に立ち直った祥瓊を「国外追放、以後の自国への立入りを禁ずる」という形で赦している。 4. 恭国で有数の商家の末娘として生まれ、幼い頃から父親に溺愛され何不自由無く育てられるも、先王崩御より27年に渡る王不在により荒廃していく国を憂い、官として国を支えることを目指す。学頭が妖魔に殺されて庠学が閉校になったことで、ついに12歳にして昇山を決意する。昇山途中で利広と出会い、また黄海の入り口の乾で頑丘を護衛として雇い、更に絶体絶命の危機に犬狼真君と遭遇して加護を受けるなど、多くの幸運に恵まれ、見事に成就する。登極はその統治の困難さを感じさせるに十分であったが、利広の計らいと宗王の後ろ盾によって成功する。 5. 騎獣が好きで、幼い頃は騎商(騎獣...

    供麒(きょうき)

    1. 声 - 大川透 2. 恭国の麒麟。あかがねに近い金髪。上背がありがっしりとした恰幅のいい外見かつ、優しすぎる性格。王を選定するまでの30年近くを蓬山で過ごし、珠晶からは最初の誓約の段階で既にそのことで平手打ちを食らっている。何事にも寛容さと温情を示している。珠晶の逆鱗に触れて叱咤されても、それすらも包み込むような慈愛に満ち溢れている。

    相如昇(そう じょしょう)

    1. 珠晶の父親。連檣で著名な豪商。林業から身を興した。その商いのやり口はなかなかあくどい。扱わない品は無いという意味で「万賈」とも呼ばれる。妻は玻娘。3男4女があり、珠晶以外は父親の商売を手伝っている。珠晶に付けた家庭教師には商売の事ばかり教えさせている。特に珠晶を可愛がっていたが、珠晶からは内心見限られている。

    鴨世卓(おう せいたく)

    1. 廉王。農民出身で、王宮でも畑作をしている。政治にはあまり詳しくない。鷹揚な性格で、初勅は「万民は健康に暮らすこと」。本人曰く「国王はお役目、農夫が仕事」。

    廉麟(れんりん)

    1. 声 - 冬馬由美 2. 漣国の麒麟。外見は18歳くらい。政治に疎い王をよく支えている麒麟。1度目の泰麒帰還の際に協力したことから、彼と誼がある。

    黄姑(こうこ)

    1. 声 - 鈴木れい子 2. 現在の采王。姓名は中瑾(ちゅうきん)。治世は12年程であり、人格者として知られている。砥尚の叔母にして育ての母。砥尚が王だった時代には三公の次席、太傅に任じられていた。本来の字は慎思(しんし)。現在の字は先王に薫陶を与えたことから、麒麟の貴色である黄色を冠して呼ばれている。梨耀の下から逃げ込んできた鈴を保護した。

    揺籃(ようらん)

    1. 声 - 浅野るり 2. 現在の采麟。8歳で砥尚を王に選定し、彼の死後黄姑を選ぶ。字の意味は「ゆりかご」。繊細で優美な見た目をもつ少女で、物静かで穏やかな性格。

    砥尚(ししょう)

    1. 黄姑の前の采王。諡は梧王。揺籃の最初の王。扶王末期の治世に2年で大学を終え、官吏にはならず野に下り、25歳の時に志を同じくする仲間を集めて『高斗』を結成して国の理不尽と戦った。扶王が崩御した後、瓢風の王(選定開始から最初の昇山者から選ばれた王)として期待されて登極したものの、政治の実情を知らずに理想を追い過ぎて道を失い、父や弟まで手にかけた。最後は「責難は成事にあらず」という遺言を残し、禅譲する。治世は20余年。外見は28歳。

    櫨先新(ろ せんしん)

    1. 宗王。治世は600年以上にして、あと80年程で史上最長の在位期間になる。「覿面の罪」の例として挙げられる才国の遵帝に会った事があるという。恰幅の良い50歳前後の大男。元は交州の港町で宿屋を一家で営み、その当時から現在に至るまで何事も家族で話し合って決める合議制を取っている。 2. 一家には同じ筆跡で文章を書けるという特技があり、また各自が御璽を押した白紙を大量に持っているため、家族の誰もが何時でも王権を行使できる(表向きには、家族からの奏上に先新が裁可を下している形式)。実質的には一家全体が「王」であり、彼は「王の要」。議長として最終的な決断をする役を担っている。

    昭彰(しょうしょう)

    1. 現在の宗麟。奏国の麒麟。銀を帯びた金髪を持つ玲瓏たる美女。物静かで穏やかな性格。

    明嬉(めいき)

    1. 先新の妻。宗后妃。合議制を取る宗王一家にあって、子供達の意見を尊重しつつ、主導的に議事を進め結論を纏める役。

    助露峰(じょ ろほう)

    1. 現在の劉王。法治国家を築いた賢君として治世も120余年に及ぶ。近年は施政に興味を失くしたかのように振舞うようになり、国も傾きつつある。即位前は、地元では評判はいいが、中央にあまり知られていない地方官だった。

    劉麒(りゅうき)

    1. 柳国の麒麟。昇山者ではなかった現王を選ぶのに20年程かかった。

    頑丘(がんきゅう)

    1. #黄海参照。

    呉藍滌(ご らんじょう)

    1. 現在の氾王。治世は300年。長身の男性だが、女性なみの美人。非常に洗練された趣味人で、金銀の甲冑を着て喜んだ驕王など、趣味の悪い者や物事を嫌う。延王・延麒とは付き合いが長いが、両者とも身嗜みには無頓着な為、猿扱いしている。一方で驍宗・泰麒を気に入っている。 2. 鉱物資源に恵まれず天候上農業にも限界がある範国を、美術品や工芸品の産出で大国へと押し上げた実力者。他国からの鉱物の輸入が要となるため、他国の動向には敏感。

    梨雪(りせつ)

    1. 現在の氾麟。六太なみのお転婆美少女。氾王の気まぐれで字を変えられる。

    祥瓊(しょうけい)

    1. #慶東国参照。

    月渓(げっけい)

    1. 声 - 田中正彦 2. 元・恵州侯で、現在は芳国の仮王。 3. 仲韃の信任を得て恵州侯に任じられ、以後、よく仕えた。仲韃を慕うがゆえに、彼の過酷なやり方を見ることに耐えられず、他の州侯らと共に反乱を起こし、仲韃と佳花そして峯麟を討った。祥瓊に対しては将来の更生を信じ、仙籍を剥奪した上で民間に隠した。佳花に対しては仲韃よりも数倍悪辣だと評していた。 4. 実直で誠実な性格と確かな手腕から、官民を問わず国内の人望を一心に集めている。しかし悪意あっての弑逆ではなかったと弁明したいがために、「玉座を簒奪することは天命に反する」と頑なに玉座を拒み、朝廷を去って本来の恵州侯の地位に戻ろうとし、官たちの懇願で助言者(実質的には冢宰)としてのみ朝廷に留まっていた。あくまでも最後には朝廷を去るつもりで居たが、更生した祥瓊の姿や、それを伝えに慶王の使者として訪れた桓魋の諫言により、仮王として立つことを決意する。 5. アニメでは、祥瓊の歌う「偲芳歌」を幸せの象徴としてとらえ、好んでいた。

    健仲韃(けん ちゅうたつ)

    1. 声 - 徳丸完 2. 夏官出身の先の峯王。諡号は冽王。姓は孫、氏は健。祥瓊の父親。治世は30年余り。武より文を好み、臣への下賜品は必ず文房四宝だった。 3. 即位前には清廉潔白な人柄で諸官の尊崇を集めていたが、自分自身が表裏の無い性格であったために、人間を表面的な言動で判断する傾向があった。即位後は法治国家の柳国を目標とするものの、罪を嫌うあまりに過酷な法を布く。約30年の治世の間に過酷さは際限なく激化していき、最期の年には1年間で30万の市民が処刑され、治世全体では国の人口の1/5に当たる60万人が処刑された。あまりの苛烈さに、ついには月渓をはじめ八州すべての州侯が離反、鷹隼宮に八州師あわせて10万の軍が殺到する事態となる。首都・蒲蘇の門は市民たちによって内側から開けられ、王宮の深部にある後宮で300あまりの小臣と共に八州師と壮烈に戦うも、討ち取られた。