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  1. 遼寧 (空母) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/遼寧_(空母)
    • 艦名
    • 建造
    • ウクライナからの購入
    • 建造再開
    • 就役後
    • 設計
    • 近代化改装
    • 登場作品
    • 関連項目
    • 外部リンク

    中華人民共和国への回航後も長らく命名はなされず、ロシア、ウクライナ時代と共通の「ヴァリャーグ」と呼ばれた。この時期の艦名の仮名表記は一定せず、「ワリャーク」(朝日新聞)、「ワリヤーグ」(世界の艦船)、「ワリャーグ」(時事通信社)、「ワリヤーク」、「ワリャク」(産経新聞、中日新聞)などがある。 中国への売却後、日本など外国メディアでは、本艦は台湾平定の功績で知られる清朝初期の将軍に由来する「施琅」と呼ばれることもあったが、新華社通信や軍事雑誌『艦船知識』は、ヴァリャーグの漢語訳の「瓦良格」と紹介している。また2011年4月27日には、国務院台湾事務弁公室が「施琅」の名称を否定している。 2012年1月時点では、複数の中国メディアが伝えたところによると、消息筋の情報として「毛沢東」、「北京」、「薩鎮氷」などの候補が挙がっていた。尖閣問題から軍部より「釣魚島」と命名するように求められてもいた。なお、空母としての艦名が決定していなかったため、中国メディアでは「航母平台」(空母プラットホーム)と仮称していた。 2012年9月25日、遼寧省大連市にて引渡しセレモニーが行われ正式に就役し艦名は「遼寧」と発表された。

    ソビエト時代

    ソ連海軍は、1143.5及び1143.6型重航空巡洋艦の2隻に加え、原子力艦の1143.7型(ウリヤノフスク級)重航空巡洋艦を4隻建造する計画を持っていた。また、先に建造された1143型(キエフ級)航空巡洋艦およびその準同型艦4隻も近代化改装を受け、艦載機を新型のYak-141VTOL戦闘機に更新して「ソ連空母機動部隊」を補完する戦力となることが期待されていた。 この計画を背景に、「ヴァリャーグ」は1143.5型(アドミラル・クズネツォフ)を踏襲する1143.6型の艦として1985年12月6日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国・ムィコラーイウの黒海造船工場で起工され、1988年11月25日に進水した。

    建造中断

    ソ連が崩壊した1991年12月、すでに中央政府からの建造資金供給は停止していたが、それでも建造元の黒海造船工場は「自腹で」細々と建造を続けた。だがそれも長くは続かず、翌1992年3月に工事は中止された。のちに本艦の売却を委託されたノルウェーの船舶ブローカー、リーベックによると、この時点での「ヴァリャーグ」の完成度は、船体が100%、機関が80%、その他の部分が20%であった(艦全体で66.7%か67.3%という説もある)。新生ロシア海軍は「あと7億5,000万ドルあれば、『ヴァリャーグ』は竣工に漕ぎ着けられる」という見積もりを算出したが、極度の財政難にあえぐロシア連邦政府にはそれだけの資金を出すことはできなかった。しかも、本艦を建造していた黒海造船工場自体が独立したウクライナに接収されてしまい、本艦の所有権自体がロシアとウクライナで争われることになったのである。 その数ヵ月後、ロシア、ウクライナの両政府は、共同でノルウェーの船舶ブローカー、リーベックを通じて海外に売却する事で一旦は妥結した。リーベックは、同艦は船体及び機関がほぼ完成し、兵装や電子機器は未搭載なので、これらの機器類...

    1997年、『ジェーン防衛週報』(英: Jane's Defence Weekly。以降、JDW)は「『ヴァリャーグ』解体工事開始」と報じたが、実際には艦そのものの解体ではなく、搭載済みの各種機器の撤去工事であった。船体だけはレジャー施設への改造のために売却される予定であったため、それ以外の艦内の余分な機器は全て撤去されるはずであったが、造船所関係者によると、主機そのものは撤去されず、電気系統やパイプなどを切断して使用不能にしただけであったという。 その後、ウクライナは本艦をスクラップとして2,000万ドルで売却する意向を示し、マカオの「中国系民間会社」である創律集団旅遊娯楽公司が1998年に購入した。「中国本国で海上カジノとして使用する予定」とされていたが、この会社の社長で香港の実業家の徐増平(中国語版)は中国人民解放軍海軍の退役軍人だった。また、創律集団旅遊娯楽公司は、事務所も電話もないペーパーカンパニーであり、カジノの営業資格もなかった。そもそもマカオの港は水深10メートル程しかなく、6万トン級の大型艦は入港できない。 ボスポラス海峡、ダーダネルス海峡を動力装置の無い大型艦が曳航されて通過するのは危険であること、既に見かけが航空母艦であり、空母の海峡通過を禁じたモントルー条約に抵触することから、トルコ政府は海峡通過に難色を示した。だが、中国政府が仲介に乗り出す。中国側はトルコへの観光客(年間200万人)増加を約束し、政治的折衝で妥協。2001年、航海を経てようやく中国本国に回航された。 2002年3月3日、マカオではなく大連港に入港し、西区4号埠頭に係留された。 この時期、中国はヴァリャーグのほか、キエフ級航空母艦の「キエフ」と「ミンスク」も購入しており、空母建造の参考にするといわれていた。後者2隻は天津と深圳で博物館船として一般公開されたが、「ヴァリャーグ」だけは係留されたままだった。

    表立った動きのなかった本艦であるが、2005年4月26日から8月までに大連船舶重工集団に所属する大連造船所の乾ドックに搬入され、錆落しと人民解放軍海軍仕様の塗装を施され、修理も進んでいることが確認された。このため一部では「中国が大連において空母の建造を計画」などと伝えられた。台湾国防部(国防省)も本艦の写真を公開し「空母保有に向けた航空機発着などの実験艦か、あるいは本格的に空母として就航させるのではないか」との見解を発表した。この報道に対し、中国国務院台湾事務弁公室(国台弁)李維一報道官は、「政治的な目的がある」として反論していたが、2005年8月には、湿ドックへ移動された。 2007年11月の情報では、中国海軍は2008年に本艦を訓練・試験艦「世忠」として再就役させる意向であると伝えられていた。しかし同時に伝えられたところでは、外装こそ手直しされたものの、レーダーなどの電子装備の艤装がほとんど進んでおらず、工事の進捗は必ずしも順調とは言えなかった。 正規空母としての再就役は断念されたともいわれ、たとえ空母として整備するとしても、戦力化にはまだ相当な期間を要すると考えられていたが、2008年末に中国海軍報道官が2012年までに中型空母を建造保有する計画を発表した際に、本艦を練習空母として就航、同時に艦載機をロシアから購入する計画があることを表明した。それによると本艦の練習空母としての改修工事は2009年中には完工される見通しであるとしていた。艦載機にはSu-33を元に開発したJ-15が予定されており、20機程度を搭載する予定であった。 2009年4月27日には本艦は大連造船所のドックから離れ、大連船舶重工集団が大連港に新建した30万トン級のドックに着けた。2010年3月19日には、ドックから同集団所属の大連港の30万トン級の艤装埠頭へ移動し、艤装が本格化した。また前述の新華社電子版の記事によれば2011年中に「中国初の空母」として出航するとしていた。 2011年8月3日には数百人の兵士らが参加する完成式典が行われ、中国共産党中央軍事委員会高官も視察した。また、渤海湾周辺で試験航行を行うために同月10日朝には出航したと報じられ、5日間にわたって渤海湾で海上公試が行なわれた。この公試では艦載機はまだ搭載されていなかったが、11月29日からの公試では、近くの飛行場を...

    就役後初の出港は2012年10月12日に行われ、10月30日に帰港。訓練目的とみられるその航海で、J-15による飛行訓練が行われたが、内容はタッチアンドゴーであるとしている。また、ヘリコプターによる離着艦が報道されている。 11月にもJ-15による訓練が続き、23日には着艦試験の成功を法制晩報が伝えた、さらに25日には新華社通信、解放軍報が離着艦試験に成功したことを伝えた。空母の運用に関しては、2009年よりブラジルからの「サン・パウロ」における訓練を含む技術的支援を得ていたことが報じられた。 2013年2月27日、母港を大連から青島の軍港に移動。この軍港は4年間を費やして建設した空母母港としての機能を備える軍港とされる。 2017年7月8日には、返還20年を迎えた香港に入港、飛行甲板や格納庫が一般公開されている。 2018年4月23日には、48隻もの艦艇が参加した海軍創設69周年の観艦式に参加している。8月より近代化改装が実施、2019年3月に青島に帰港。 2019年4月23日には、海軍創設70周年の観艦式に参加。

    「ヴァリャーグ」の機器はその多くが撤去されており、原設計から10年以上経ていることもあって中国では独自に機器を調達し備えることとなった。このため、「クズネツォフ」、「ヴァリャーグ」のいずれとも異なる点が生じている。

    2017年4月の002型航空母艦の進水式のち、遼寧も大連船舶重工集団に戻り、しばらく2隻の空母が艤装岸壁に並んだ状態で整備を受けていたが、2018年8月から近代化改装が実施された。 改修は遼寧の運用で明らかになった課題を解決するために行われたもので、艦載機システム、動力、電気系統、居住システムなど総合的な改修となっており、遼寧は今後10年~20年問題なく就役できる状態になったとしている。1月21日に改修作業を終えて試験航行に出向、3月に青島の母港に帰港した。 発着艦設備 1. 甲板のノンスキッド再塗装。ラインを白色から白・黄色の二色に変更。 2. アイランドに艦番号を記載。 3. アレスティング・ワイヤーを独自の素材に変更。衝動吸収・使用寿命を強化。 4. VLS撤去後放置されていた区画を利用して甲板面積を拡大、002型に近い形状にして作業効率の改善。 5. 元の航空指揮所を撤去して002型と同型のものを設置して外部視認性を改善。また、悪天候時に備え、ワイパーと加熱器を追加。 6. 爆弾などを可燃物を投棄するシューターを6基に増設。 電子兵装 1. アンテナの変更や不要台座の撤去など、情報処理能力、妨害能力を向上。 2. 人間工学的を考慮した指揮系統の改良。 船体 1. 各種パイプを用途に応じて色分けし、ダメージコントロールを改善。 2. 水パイプを食品工場レベルの耐腐食性鋼管に総取り換え。 3. 淡水化装置を追加し、使用できる水量を増加。 4. 動力・電気系統に数十項目に及ぶ改良を実施し、信頼性と効率性を大幅アップ。

    漫画

    『空母いぶき』 1. 尖閣諸島中国人上陸事件後、調査目的として派遣された自衛艦に対抗する形で青島基地から派遣された、3隻からなる艦隊の一艦として登場。その後、海上保安庁の巡視船と、中国海警局の艦船衝突を受け、威嚇目的で艦載機の殲15を発進させる。

    小説

    『スカイソード オン オプス』 1. 上海協力機構とNATOで成立した新RIMPAC連合演習に参加していた最中に異世界レージェルリアへ転移し、昆明級駆逐艦と共に、対ガルトレゼイン帝国艦隊の殲滅作戦で活躍する。 『日中世界大戦』 1. 与那国島攻略艦隊の旗艦として登場。そうりゅう型潜水艦「そうりゅう」等によるハープーン対艦ミサイルの攻撃で撃沈される。

    中国の空母「遼寧」が香港到着 - YouTube(朝日新聞社提供、2017年7月6日公開)
    “Сайт «АТРИНА» • Тяжелый авианесущий крейсер пр.11436, «Варяг» типа «Рига», Kuznetsov mod. class” (ロシア語). Сайт «АТРИНА» • Боевые корабли СССР и России • 1945-2005 гг. 2009年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。201...
  2. 中国の空母建造計画 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/中国の空母建造計画
    • 歴史
    • 原子力空母
    • 空母艦隊
    • 関連項目

    劉華清と中国海軍

    1982年、鄧小平の指示で、海軍司令官の劉華清は、中国海軍の近代化計画を打ち出した。後に「中国海軍の父」「中国空母の父」と呼ばれる劉は、第一列島線、第二列島線からなる近海・外洋進出を提唱し、航空母艦の必要性を一貫して主張した。 また、劉は海軍建設(再建)の計画を次のとおり提唱した。 1. 「再建期」 1982-2000年 中国沿岸海域の完全な防備態勢を整備(沿岸防御)。 2. 「躍進前期」 2000-2010年 第一列島線内部の制海権確保(近海防御)。 3. 「躍進後期」 2010-2020年 第二列島線内部の制海権確保(遠海防御)。航空母艦建造。 4. 「完成期」 2020-2040年 アメリカ海軍による太平洋、インド洋の独占的支配を阻止。 5. 2040年 アメリカ海軍と対等な海軍建設。

    空母建造計画

    中国の空母保有計画は大まかに3度立案されている 707工程 1. 1970年7月に最初に立案された空母計画。 2. 中日関係改善により、中国を訪問した日本人より艦船資料の提供を受け[注 1]、空母の流体試験モデルを作成。2万4千トンの軽空母を建造する計画であったが、中止となった。 3. 計画そのものは失敗したが、中国が空母の構造を知る初歩となった。 891工程 1. 1989年1月に立案された空母計画。1995年に中止。 2. 1985年2月に購入・解体研究した「メルボルン」を参考に、5万トンの蒸気カタパルト搭載空母の建造案が計画され、艦載機化したJ-7・J-8戦闘機の搭載が想定されていた。 3. また、外国からの輸入も検討しており1990年代にはスペインから「プリンシペ・デ・アストゥリアス」の拡大版SAC200・SAC220という2万トンの軽空母の提案を受けていた。 048工程 1. 「ヴァリャーグ」の調査を終え、2004年8月に立案された空母計画。 2. 多少修正を施しつつ、現在まで継続されており、2030年に空母5隻を配備、最終目標は2049年に10隻の空母保有することであ...

    退役空母の購入

    中国は1980年代から、空母の技術を研究するため、中古、および建造途中の空母を計4隻購入している。 メルボルン 1. 1985年、オーストラリアから退役空母を購入し、大連で解体。電子機器と武装は撤去され、舵を溶接固定されていたが、蒸気カタパルト、アレスティング・ギア、ミートボールはそのまま残されており、中国の空母研究に貢献、一説には2002年頃まで船体の一部が残っていたとされる。 キエフ 1. 2000年、ロシアから購入。2006年から天津の海浜公園「天津滨海新区航母旅游区」で展示、一般公開されている。2012年に空母ホテル「天津航母酒店」として開業。 ミンスク 1. 1997年、ロシアから韓国企業経緯で中国に転売。1999年火災で全焼するも、2000年深圳でテーマパーク「ミンスク・ワールド」として開業。2016年にミンスク・ワールドから撤去され、現在は揚子江の江蘇省南通市あたりに係留されている。 ヴァリャーグ 1. 1998年、ウクライナからマカオの民間企業が2,000万ドルで「海上カジノとして使用する予定」として購入。2002年に大連港へ係留された。その後、研究用、練習用空母...

    ロシアから設計図を入手したとされる、ウリヤノフスク級原子力空母の設計を元に、6万トン以上の原子力空母を、2020年以降に2隻建造予定とされる。 産経ニュースは大連で建造開始したとされる国産3隻目の空母が、原子力空母となる可能性について報じた。これ以前に中国船舶重工(「山東」を建造した大連船舶重工の親会社)は、原子力推進の民用船など4隻の模型を2017年12月「上海国際海事展」に展示しており、同ニュースは中国軍事筋の話として、これは「原子力空母の開発に向けた技術検証」であるとし、また「研究船による技術検証を待たずに、いきなり空母に核動力を搭載するのはリスクが大きい」と話しており、原子力推進の採用が確定したわけではないことを報じた。また、産経ニュースでは以前にも004型、005型空母が原子力空母となる可能性についても報じている。 2018年6月、中国は原子力砕氷船の建造プロジェクトを開始、2020年頃には浮体原子力発電所を建造することも目指しており、原子力空母に向けた準備の一環とされている。

    空母が作戦行動を行う際は、駆逐艦や巡洋艦、潜水艦などで構成される空母艦隊が必要となる[注 9]。中国もアメリカ海軍の空母打撃群に対抗し、2030年頃までに空母4隻からなる艦隊を持つ構想があるとされる。 空母の建造と並行し、各艦艇も量産されると見られる。米誌『ナショナル・インタレスト』は、中国海軍は2030年に空母4隻、潜水艦99隻、駆逐艦・護衛艦(コルベット)102隻、フリゲート26隻、揚陸艦73隻、ミサイル艇111隻、合計415隻を保有し、艦艇数では世界一になると予想した。

  3. 満州国 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/満州国

    満州国(まんしゅうこく、旧字体: 滿洲國、拼音: Mǎnzhōu Guó )は、1932年(大同元年 [1] )から1945年(康徳12年)の間、満州(現在の中国東北部)に存在した国家。 中華人民共和国の歴史書や事典などでは、日本帝国主義が東三省を武力占領した後に捏造した傀儡 ...

  4. 戦国時代 (中国) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/戦国時代_(中国)

    中国の戦国時代(せんごくじだい、拼音:Zhànguó Shídài、繁体字:戰國時代、簡体字:战国时代、紀元前5世紀 - 紀元前221年)は、中国の歴史の時代。 戦国時代の開始は7説ある。 一般的には周の敬王44年(紀元前476年) [注 1]、周の定王16年(紀元前453年) [注 2]、 ...

  5. 朝鮮人民軍の兵器一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮人民軍の兵器一覧
    • 銃砲類
    • 軍用車両
    • 軍用機
    • 軍艦
    • ミサイル
    • その他兵器
    • 脚注
    • 外部リンク

    拳銃・自動拳銃

    1. ルガーP08- 非正規でコピー生産したものを一部将官用に配備していたとみられるが、現在では退役済みと思われる。 2. 南部大型自動拳銃 - 大日本帝国統治時代に持ち込まれたものとみられる。未だに民兵部隊で使用されているとの見方があるが、原設計がかなり古く、現在では正規に部品や銃弾が生産されていないので退役した可能性が高い。 3. トカレフTT-33 - 68式拳銃の原型となった銃。既に退役済みとされる。 4. 54式拳銃(英語版) - 別名チャイニーズトカレフ。トカレフTT-33の中国版改良品で、ノリンコ社製。安全装置が取り付けられているのが最大の異なる点で、原型と同じく退役済みとみられる。 5. 64式拳銃 - 北朝鮮が初めて国産化した拳銃。FN ブローニングM1900の改良型。将校自衛用と特殊部隊用の消音器装着型が有。 6. 66式拳銃 - マカロフ PMをライセンス生産したもの。 7. 68式拳銃 - トカレフTT-33の独自改良型。人民軍のみならず、警察などで広く用いられているとされる。国外へも輸出されている。韓国では、68式拳銃として知られる物が66式拳銃と認知さ...

    短機関銃

    1. Vz61 - 特殊部隊に配備されており、韓国領内の南侵トンネルから消音器付きの状態で発見された。 2. M3サブマシンガン - 1962年に発行された「米帝国主義の手先、朴傀儡政権を打倒せよ!!」と題した切手には、朴正煕風の男が2人の朝鮮人民軍兵士に突き立てられる絵が描かれているが、それぞれAK系のライフルとM3サブマシンガンを携行している。また、軽歩兵旅団にも配備されているという。 3. 49/50式短機関銃 - ソ連のPPSh-41を国産化した短機関銃。1950年代まで製造され、63式小銃や58式小銃の配備で民兵向けに払い下げられた。 4. PPSh-41- 上記の49/50式短機関銃の原型となった銃。こちらも同じく民兵向けに払い下げられたか退役したと思われる。 5. PPS-43- 54式短機関銃 6. PPD-40- こちらも既に退役済みとみられる。 7. 一〇〇式機関短銃 - 大日本帝国陸軍で使われていた銃。朝鮮戦争で用いられ、その後退役したとみられる。 8. M56短機関銃 9. 新型短機関銃 - 2020年10月の軍事パレードで初めて確認された新型と思われる短...

    自動小銃

    1. トカレフM1940半自動小銃 - ソ連で開発された自動小銃。現在は88式小銃や98式小銃と置き換わる形で民兵向けに転用されている可能性がある。 2. 63式小銃 3. 58式小銃 - AK-47のライセンス生産型。2005年段階でも装備している写真が公開された。 3.1. 56式小銃- 中国でのAK-47のライセンス生産型。 4. 68式小銃 - AKMのライセンス生産型。 5. 88式小銃 - AK-74のライセンス生産型。折畳銃床の88式小銃が九州南西海域工作船事件で使用され、海中から回収された。 6. 98式小銃 - AK-74のライセンス生産型だが、プラスチック部品が金属製になっている[要出典]。 6.1. AK系の自動小銃にはライフルグレネードを装着することが可能であるほか、2010年代後半には銃身下部に装着する擲弾発射器の装備も確認されている。 6.1.1. 2020年10月の軍事パレードには、スコープやフラッシュハイダー、ヘリカルマガジンらしきものを装備した個体も複数登場した。なお、88式同様折畳銃床タイプのものも確認されていて、2020年10月の軍事パレード...

    戦車は濃淡2色のオリーブドラブで迷彩が施され、自走砲など他の軍用車両は濃いオリーブドラブ一色で塗装されているが、2010年代に入り3色の迷彩も登場した。車両側面には白で3桁の数字が書かれてある。2020年10月に行われた軍事パレードではデジタル迷彩を施された車両も複数登場し、砂漠系の迷彩を施された車両も現れた。

    An-2やMi-2などの例外を除き、機体は銀または白一色で塗装されているが、MiG-29は上面を緑色、下面を水色に塗装していたが、2013年に濃淡2色の灰色で塗装された機体が確認されている。国籍マークは機体後部側面か垂直尾翼に描かれる。機体側面に赤で3桁から5桁の番号が書かれてある。

    潜水艦/潜水艇

    1. ウィスキー級- 4隻。旧ソ連製。老朽化が著しいためほとんど行動不能と思われる。 2. ロメオ級 - 22隻。一部は中国製だが、大半は1995年までに国産された。船体は緑色に塗装されている。 3. サンオ型 - 20隻程度。北朝鮮製。全長35mの小型潜水艦。1993年に江陵浸透事件で韓国軍に鹵獲された。 4. ヨノ型 - 10隻程度。全長29mの新型潜水艇。韓国海軍「天安」を撃沈した可能性が提起されているほか、イランに輸出されている。日本語訳でサケ型とも呼ばれることもある。 5. ユーゴ型 - 20隻程度。全長18mの浸透用潜水艇。数名の特殊部隊員を乗せることができる。1998年に韓国軍に鹵獲されている。 6. 半潜水艇- 船体のみ潜水可能な小型艇。韓国や日本への密入出国に用いられており、韓国沿岸で鹵獲されたものもある。 7. 水中スクーター - 工作員の揚陸用に用いられているとされる。九州南西海域工作船事件で回収された他、韓国沿岸や日本の日本海側沿岸で漂着したのが見つかったことがある。 姜成山元総理の娘婿で韓国へ亡命した康明道は、1993年頃に北朝鮮が2隻のソ連製原子力潜水...

    小型艇

    1. ノンゴ級高速ミサイル艇 1.1. 2015年2月7日に、金正恩が新型対艦ミサイルの試射に立ち会ったという報道に登場した新型のミサイル艇。労働新聞に掲載された写真から、AK-630と3M24「ウラン」(SS-N-25「スイッチブレード」)連装発射機を2基装備しており、艦体が傾斜したステルス艦であることが指摘されている。 2. ソジュ型ミサイル高速艇 50隻 2.1. 全長:39m、全幅8.1m、排水量:210トン、速度:38ノット 2.2. ソ連の「オーサ級ミサイル艇」を北朝鮮が独自に改良したもの。武装は、P-15(SS-N-2「スティックス」)対艦ミサイル4基、および20ミリCIWSを1基装備している。 3. 206T「シュトールム」型魚雷艇- 4隻 4. 海南型哨戒艇 - 4隻 4.1. 武装:57mm連装機関砲- 2基、2-M-3 25mm連装機関砲 - 2基 4.2. 中国製の警備艇で、中国をはじめアフリカ各国でも用いられている。1993年のノドン発射時には日本海に展開した。 5. チョンジン型警備艇 - 52隻 5.1. 全長:27.7m、全幅6.4m、満載排水量:...

    その他

    魚雷艇、哨戒艇、高速艇、兵員用の小型上陸用舟艇、ホバークラフト等を多数配備している。哨戒艇は半島西部沿岸のワタリガニ漁場で度々韓国漁船を拿捕しており、韓国海軍の哨戒艇と交戦した(第1延坪海戦、第2延坪海戦)こともある。

    多連装ロケット砲

    1. M-1985/1989/1991 2. M-1977/1985/1992/1993 3. 63式130mm多連装ロケット砲 4. 63式107mm 12連装ロケット砲- 中国製の多連装ロケットランチャー。VTT-323装甲車やM1992装甲車などの陸上車両や小型艇にも搭載されている。 5. KN-09

    地対地ミサイル

    1. 9K52自走ロケット砲「ルナ」(R-70/FROG-7) 2. P-15(SS-N-2「スティックス」) 3. HY-2(CSS-N-3「シルクワーム」) 3.1. 沿岸防衛用にM1991 122mm自走カノン砲と同型の車体に発射機を1基を搭載した車体を配備しており、積極的に演習で試射している。Il-28、An-2に搭載して空対地ミサイルとしても運用している。 4. 9K720(イスカンデル) 4.1. 類似したミサイルを所有。 KN-23(英語版)とも呼ばれている。

    対戦車ミサイル

    1. 9M14(AT-3「サガー」) - 「스성보(Susong-Po)」の名で用いている。ライセンス生産か? 2. 9K111「ファゴット」 (AT-4「スピゴット」)- M1992装輪装甲車に4連装発射機が搭載されていた。 3. 9M113 - 最近出現したM-2010装輪装甲車ベースの6連装ミサイル発射機を搭載した対戦車車両(M-2018と呼ばれている)やストライカー装甲車に似た新型装輪装甲車の対戦車型車両に搭載されていると思われる。国産化されている可能性もある。なお、前述のM-2018に搭載されているミサイルについてはスパイクを模倣した類似品ではないかとの見方もある。 4. 9M120(英語版)- 正規品かその類似品を入手し、使用しているとされている。 5. 火の鳥2(Bulsae-2)-上記ミサイルの独自改良型 6. 火の鳥3(Bulsae-3)-上記ミサイルの独自改良型 7. M-2018 - 2018年に行われた軍事パレードに初登場した新型の対戦車車両。M-2010に9M113を6連装発射機で搭載したものであると思われる。なお、スパイク対戦車ミサイルかその類似品を模...

    ATM-74(英語版) - ロシア製TMD-B地雷を基にした地雷。外ケースは木製。
    爆薬 - 角筒形の容器に信管を組み込んだ破壊工作、および自爆用の携行爆薬が南侵トンネルや工作船から見つかっている。
    自由-914 - 兵員降下用の落下傘。北朝鮮国産。
    自由-91 - 自由-914の後継として配備されている落下傘。軽量化されている上に最低降下/開傘高度が低くなっており、亡命者の証言でも操作が容易で折り畳みやすく、着地時の衝撃も少ないと評されている。
    ^ a b c d 床井雅美『現代軍用ピストル図鑑』徳間文庫 2002年 ISBN 4-19-891660-8
    ^ a b c d e f g h i 李ジョンヨン:著 宮田敦司:訳『北朝鮮軍のA to Z 亡命将校が明かす朝鮮人民軍のすべて』 光人社 2009年 ISBN 9784769814436
    ^ 藤本健二『金正日の料理人 間近で見た権力者の素顔』扶桑社 2003年 ISBN 978-4-594-05846-3
    ^ 李英國・著、李京榮・監訳『私は金正日の極私警護官だった 仮面に隠された戦慄、驚愕の素顔』ブックマン社 2003年 ISBN 9784893085252
  6. 龍驤 (空母) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/龍驤_(空母)
    • 特徴
    • 歴史
    • 要目
    • 年表
    • 艦長
    • 参考文献
    • 関連項目

    当初の計画では格納庫1段で航空機約24機を搭載、基準排水量7,400英トン、公試排水量9,800トン、速力30ノットを計画していた。要目値は「軍艦基本計画資料」で(公試)排水量9576.65トン、水線長175 m、水線幅18.5 m、吃水5.5 mの値もある。 しかし、建造中に格納庫を2段にして搭載機を36機に増し、復原性確保のために小型のバルジを装着した。竣工時には当初の計画よりだいぶ排水量を増し、公試状態で11,733トンになっていた。さらに公試中の転舵の際には船体が大きく傾き、救命艇が波に叩かれて破損した。安定性が問題にされたが直ちに改装されることはなく、重油の使用制限をするなどして一応就役した。 龍驤という名称は、瑞祥神獣の「龍」とアガルまたは疾行のとき勢い強く首の揚る貌を意味する「驤」を組み合わせて「龍の空に上ぼるが如く威勢がよい」を意味する中国語である。「龍驤虎視、苞括四海」や「龍驤麟振、前無堅敵」等の句に使われ、龍驤将軍の官位(南宋)もあった。日本海軍の軍艦としては、明治時代の装甲コルベット龍驤に続く2隻目。

    建造

    第一次世界大戦以降、列強各国の建艦競争は、日本の八八艦隊計画やアメリカのダニエルズ・プラン等に代表される様に過熱化の一途を辿っていた。1921年(大正10年)11月11日、イギリスの呼びかけによってワシントン会議で議決された海軍軍縮条約は、過熱化する列強の建艦ペースに一定の枠組みを与えることを目的とし、一応の成果を得ることに成功する。主力艦に対する枠組みと共に補助艦艇にも一定の枠組みを与えたのがこのワシントン海軍軍縮条約で、補助艦艇としての航空母艦もその例外ではなく、日本に割り当てられた排水量は80,000トンとなった。 そこで、大日本帝国海軍は同条約により廃艦予定だった天城型巡洋戦艦2隻(赤城、天城)を空母への改装対象として割り当てた(天城は後に関東大震災での被災により竜骨が大破したため対象を加賀型戦艦1番艦加賀に変更)。そして排水量の大半を消費してしまったので、以降の空母は条約枠外である10,000トン未満の艦を戦力化する建造計画を立てた。その候補となったのが水上機母艦若宮の代艦として計画されていた新造水上機母艦だった。海軍軍令部は海軍省に対し、水上機母艦を航空母艦として建造...

    第四艦隊事件

    1931年(昭和6年)4月2日、進水。1933年(昭和8年)5月9日、竣工。艦の諸元は、全長167.2 m、全幅18.5 m、排水量7100トン、速力25ノットなど、実際に比べて少な目に発表している。呉鎮守府に所属。就役時の龍驤の搭載機は九〇式艦上戦闘機12機、一三式艦上攻撃機6機、九〇式二号艦上偵察機6機であった。後に偵察機の代わりに九四式艦上爆撃機6機を搭載した。 1934年(昭和9年)3月、水雷艇が転覆する友鶴事件が発生し、龍驤も呉海軍工廠で同年5月26日から8月20日まで、以下の工事が行われた。 1. 従来の小型のバルジを撤去し、より大型のバルジを装着。 2. バラストキール、艦底バラスト合わせて約550トンを搭載。 3. 重油タンクの一部に海水補填装置を設置、補填量は650トン。 4. 前部下部格納庫を廃止し、上方にあった倉庫や魚雷調整所をここに移した。 5. 12.7cm連装高角砲2基を撤去、代わりに25mm連装機銃2基を搭載。 6. 側面遮風柵を撤去。 7. 上部格納庫の防火扉を一部防火カーテンに換装。 8. 信号マストを除いて他のマストは軽量のものに換装。 9....

    支那事変

    1937年(昭和12年)7月、支那事変が発生。8月、龍驤も参加。AP通信は日本軍空母3隻(加賀、鳳翔、龍驤)の活動を世界に報じた。艦載機を九五式艦上戦闘機や九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機に更新しつつ、青島攻略作戦、厦門攻略作戦等、各方面の作戦に従事する。また空母赤城、加賀の改装や補修に合せ、随時第一航空戦隊や第二航空戦隊に編入されて行動した。当時三等航空兵として乗艦した前田勲によれば、龍驤は勤務状況が激しく厳しい艦であり、「赤鬼、青鬼でさえ龍驤と聞いただけで後ずさりする」と噂されていたという。1939年(昭和14年)4月当時に龍驤の機関科に配属されていた上村嵐によれば、猛烈な夜間の発着艦訓練により、毎月殉職者を出していたという。 1941年(昭和16年)4月、第四航空戦隊に編入され、司令部からは「小型だが搭載機数も多く使い勝手が良い」という好評価をされている。だが、対米戦争を目前にして空母に配属する搭乗員が不足し、連合艦隊と軍令部は第三航空戦隊(鳳翔)・第四航空戦隊(龍驤、春日丸)から熟練搭乗員を引き抜き、第一航空戦隊と第二航空戦隊に配備、第三、第四航空戦隊には補充しなくても...

    復原性能は工事前には軽荷状態でレンジ32度しかなかったのが、同じく軽荷状態で99.2度に改善された。一方速力は28ノット程度に低下した。工事後の主要要目は以下の通り。 1. 基準排水量:10,600英トン 2. 公試排水量:12,575トン(計画)、12,733トン(1936年5月公試) 3. 満載排水量:13,773トン 4. 全長:180.0m 5. 水線長:176.78m 6. 水線幅:20.78m 7. 最大幅:水線上22.0m、水線下20.3m 8. 吃水:7.08m(公試平均) 9. 飛行甲板:156.5m x 23.0m 10. 速力:28ノット前後 11. 燃料:重油:2,943トン[注釈 3] 12. 乗員:1938年3月 924名 13. 兵装 13.1. 12.7cm連装高角砲 4基 13.2. 25mm連装機銃 2基 13.3. 13mm4連装機銃 6基 太平洋戦争では臨戦準備時に舷外電路の装着した程度という推定もある。電探装備の訓令が1942年8月に出されているが、直後に沈没したため搭載する時間がなかったという推定もある。

    1929年(昭和4年) - 11月26日横浜船渠にて起工。
    1931年(昭和6年) - 4月2日進水。横須賀海軍工廠に曳航。
    1933年(昭和8年) - 5月9日竣工。
    1934年(昭和9年) - 友鶴事件で明るみに出た主力艦の復原性不足改善の為に改装。

    艤装員長 1. 原五郎 大佐:1931年4月2日 - 1931年12月1日 2. 松永寿雄大佐:1931年12月1日 - 1933年4月1日 艦長 1. 松永寿雄 大佐:1933年4月1日 - 1933年10月20日 2. 桑原虎雄大佐:1933年10月20日 - 1934年11月15日 3. 大野一郎大佐:1934年11月15日 - 1935年10月31日 4. 吉良俊一大佐:1935年10月31日 - 1936年11月16日 5. 阿部勝雄大佐:1936年11月16日 - 1937年12月1日 6. 岡田次作大佐:1937年12月1日 - 1938年12月15日 7. 上阪香苗大佐:1938年12月15日 - 1939年11月15日 8. 長谷川喜一大佐:1939年11月15日 - 1940年6月21日 9. 杉本丑衛大佐:1940年6月21日 - 1942年4月25日 10. 加藤唯雄大佐:1942年4月25日 - 1942年10月5日

    猪瀬直樹監修『目撃者が語る昭和史 ミッドウェー海戦から玉砕戦へ 第7巻 太平洋戦争Ⅱ』新人物往来社、1989年9月。ISBN 4-404-01657-3。 当時天津風艦長・元海軍大佐原為一「ソロモン制海決戦記」
    宇垣纏著、成瀬恭発行人『戦藻録 明治百年史叢書 第九版』原書房、1968年1月。
    小沢提督伝刊行会編『回想の提督小沢治三郎』原書房、1971年3月。
  7. 白頭山 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ペクトゥサン
    • 名称
    • 地質学的特徴
    • 歴史
    • 観光
    • スポーツ
    • 日本の気候への影響
    • その他
    • ギャラリー
    • 関連項目
    • 外部リンク

    中国吉林省と北朝鮮両江道の国境地帯にあるこの山は、古くは「不咸山」「白山」「太白山」と呼ばれた[要出典]。このうち「白山」「太白山」は中国でも朝鮮でも後世までこの山の別名としても使われた。李氏朝鮮の時代には「太白山」と呼んでいた。現在北朝鮮と大韓民国(韓国)が用いている白頭山という名称の起源は不明である。 満州民族の満州語ではゴルミン・シャンギャン・アリン(満州文字:ᡤᠣᠯᠮᡳᠨ ᡧᠠᠩᡤᡳᠶᠠᠨ ᠠᠯᡳᠨ、転写:golmin šanggiyan alin、漢字音写:果勒敏珊延阿林、意は「どこまでも白い山」)と金の時代より使われ始めた。清朝では長白山(ちょうはくさん。中国語: 簡体字: 长白山; 繁体字: 長白山、チャンパイシャン、Chángbáishān)と漢訳され定着している。

    山の中央部は、地下のマグマの上昇圧力により、毎年3mmずつ上昇を続けている。また、黒曜石の産地でもあり、朝鮮半島北部の旧石器時代から新石器時代の遺跡で出土する石器に用いられる黒曜石の産地は白頭山であることが多く、既に黒曜石を介した交易が存在したとされている。 なお、海溝の沈み込み帯から離れ過ぎた位置に存在している火山のためマグマの成因が不明であったが、2009年9月から3年間かけた地球深部の三次元構造調査・研究の結果、中国北東部(白頭山)の地下に沈み込んでいる太平洋プレートのマントル遷移層スタグナントスラブに、大きな穴が空いていることが発見され、穴と白頭山の成因に関連性があると考えられている。 天池 頂上には天池と呼ばれるカルデラ湖がある。満州を潤す松花江、および中国と北朝鮮の国境である鴨緑江・豆満江はこの山を源と発している。天池は周囲12kmから14kmで水深の平均は213m、一番深い部分は384mとなっている。10月中旬から6月中旬までは天池は氷に覆われる。 天池の周りは2,500mを超す16つの峰が取り囲んでいる。その最高峰は将軍峰であり一年の8ヶ月は雪に覆われている。 天池から北に出る川があり、出てすぐのところで落差70mの滝長白瀑布を形成している。 山麓 山麓は、朝鮮側は朝鮮半島の摩天嶺山脈などの高原地帯、中国側はなだらかな傾斜が東北平原まで続く。中国側の山麓では、朝鮮人参の中国版とも言える長白山人参(又は中国産朝鮮人参)が栽培され、日本などに輸出されている。この他、中国側では様々な薬草が栽培されている。 ヨーロッパクサリヘビの隔離された個体群が細々と生息している。

    白頭山は渤海が滅亡する926年までは渤海領であり、その後は渤海を滅ぼした契丹(遼)の領土になった。その後は金の領土、モンゴル帝国の領土と変遷していった。 朝鮮人が白頭山を領有するようになったのは李氏朝鮮の世宗(在位:1418年 - 1450年)の時代になってからであり、世宗は鴨緑江・豆満江沿いの要塞化を進め、白頭山は朝鮮民族と北方民族との境界となった。

    白頭山の外輪山: 天文峰(海抜2670m)など
    天池: 白頭山頂にあるカルデラ湖。約100万年前に生じた。朝鮮の日の出は天池に始まると言われ、それは世にまれな神秘境を呈す。雪の中に咲くシロバナシャクナゲと湖水に棲むイワナが有名。

    中国の吉林省長春市で開催された2007年アジア冬季競技大会と2009年冬季ユニバーシアードは大成功を収め、これをきっかけに、中国政府は黒竜江省ハルビン市と中国側の長白山地域(長春)にて、2018年冬季オリンピックの招致に立候補することを表明していたが、最終的に立候補を見送っている。

    白頭山はユーラシア大陸から日本に向け吹き付ける冬の季節風の経路中にある為、山体により気流が乱され日本海にカルマン渦や帯状対流雲を発生させる事がある(詳しくは日本海寒帯気団収束帯を参照)。この現象が発生すると、雲がぶつかる地域で局地的な大雪となる。

    NHKが外国メディアとしては初の白頭山(北朝鮮側)長期取材を行い、2001年にNHKスペシャルとして放送された。
    中国が自力開発に成功したと主張している高速鉄道は長白山号と名づけられてる。
  8. 船名 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/船名
    • 概要
    • アメリカ
    • イギリス
    • イタリア
    • ウクライナ
    • オーストラリアとニュージーランド
    • ソ連・ロシア
    • 中国
    • 台湾
    • ドイツ

    国家の所有物である艦艇の名前は国ごとに特徴があり、日本のように艦種毎に慣例が決まっている国もあれば、イギリスのように融通無碍に決めている国もある。国を問わずよく使われるのは自国内・領有主張している地域の地名(建造費用を寄付した地域の名をつけることもある)、国外戦勝地名、歴史上の人物や戦功ある軍人の人名、神話伝説にちなんだ名である。ただかつての大英帝国をはじめ艦艇数が多い国ほどこれだけでは足りなくなり、動植物、天象気象、印象のよい抽象名詞・形容詞など多彩な名前が使われる。多数が建造される補助艦では「伊17」「一号海防艦」「PT109」など記号・数字のみのことも多い。

    アメリカ合衆国軍艦を示す USS は UNITED STATE'S SHIP(またはSTEAMER)の略。最近まで[いつ?]命名は艦種ごとに明らかであったが、特に原子力推進艦登場以降規則が崩れてきている。戦没艦の名称を顕彰の意を込めて新造艦の艦名として即座に継承することも特徴である。イギリスとの重複を避けるためか地名・人名の固有名詞が多い。

    イギリスの艦船命名は原則が定まっておらず、艦種ごとの命名法は重巡洋艦に州名を当てたカウンティ級重巡洋艦・ヨーク級重巡洋艦程度である。 艦名は王族・軍人・政治家・神話の人名、戦勝地などの地名、建造物名、勇壮な意味を持つ単語などからとられることが多い。また英軍が敵艦(例えばフランス艦)を捕獲して編入した場合、フランス語風の名前をつけることが多かった。 また国王の即位前後に進水する艦にその名をつける慣習があった。この例外は「キング・ジョージ5世」で、国王のジョージ6世のリクエストで 父王であるジョージ5世の名で命名され、ジョージ5世時代のキング・ジョージ5世級戦艦の1番艦と同名となった。 同じクラスの艦には同種の名を付ける傾向があり、その場合それが級名となる。フラワー級コルベット(花名)、リバー級フリゲート(河川名)、トライバル級駆逐艦(世界各国の種族名)などであり、いずれも「フラワー」「リバー」「トライバル」という艦は存在しない。また同型艦の頭文字を統一する命名慣習もあり、それにもとづいてR級戦艦、C級巡洋艦(30隻近く建造)などと呼称することがある。この慣習はイギリスの影響が強いインドやシンガポールの海軍などにも見られる。 大英帝国時代には非常に艦艇数が多く、外国の陸軍軍人(en:Marshal Ney-class monitor)、シェイクスピアの戯曲の登場人物(en:Shakespearian-class trawler)など珍しい名づけ方も見られた。 なお上記の「HMS」についてだが、各時代の「シップ」の定義に含まれない艦艇、例えばスループやカッター、さらにかつては基地や軍刑務所など陸上施設についても「HM スループ」のような接頭辞が付いた。その後「HMC」(HM カッター)のように3文字で略記されるようになり、ほとんどの艦艇と陸上設備の接頭辞は「HMS」に統一された。

    イタリア海軍では艦の艦名に人名を主用しており、それに多少の地名などが混じる命名がなされている。用いられる人名には古代ローマ時代を含むイタリア史に登場する偉人の名前の多くが採られている。それらは政治家や軍人にとどまらず弩級戦艦の「ダンテ・アリギエーリ」(Dante Alighieri) や、コンテ・ディ・カブール級戦艦とサウロ級潜水艦の共に三番艦に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(S-520、Leonardo da Vinci)のような文化人としても有名な人物の名前を含む。 用いられる地名には、「ローマ」(Roma) やボルツァーノ (Bolzano) といった戦勝地が多い。 また、マエストラーレといった気象や、アクイラ(ワシ)といった鳥などの自然や、キメラなど神話からの命名もある。ただしキリスト教由来の命名はサン・マルコ(聖マルコ)他を除いて非常に少ない。その他「リットリオ」(Littorio、ファシスト党のシンボル。後に「イタリア」と改名)などの第二次世界大戦中に建造されたヴィットリオ・ヴェネト級戦艦の艦名はファシスト党主導で命名されたため例外的な名称が用いられている。 特定の人名は多用されており、イタリア統一の英雄である「ジュゼッペ・ガリバルディ」(Giuseppe Garibaldi) や「コンテ・ディ・カヴール」(conte di Cavour)、アンドレア・ドーリア (Andrea Doria) などは何度も使用されている。これら人名の一部(王族の人名)はアメリカ海軍の様に「ファーストネーム+ラストネーム」ではなく、称号を併記しているものがある点がイタリア海軍の特徴となっている。このような名前は日常会話や戦闘通信において省略された形で用いられているが、このような慣用名称は記録されることが少ないため、資料などではあくまで長い正式名称で通すことになる。

    種類に関わらず原則として都市名・地域名が艦名として与えられている(「ルーツィク」、「ドンバス」など)。その他には人名も見られるが、数は少ない(「ヘーチマン・サハイダーチュヌィイ」など)。内訳はウクライナ・コサックかソ連時代のウクライナの著名人など比較的ウクライナ人の民族アイデンティティーと結び付けやすい時期の人名が多く、キエフ大公国やハールィチ・ヴォルィーニ大公国などあまりに古い時代のウクライナの著名人の名は用いられていない。特殊な例としては、「ザポロージャ・シーチ」(ザポロージャ・コサックの根拠地の名称)と名付けられた艦が存在する。 ウクライナ海軍の艦艇は旧ソ連海軍の黒海艦隊の約半分を受けついだものだが、艦名はほとんどがソ連時代の名称から変更されている。ただし、「コスチャントィーン・オリシャーンシクィイ」はソ連時代の名称(ロシア語名)をウクライナ語名に直しただけである。ウクライナ国家国境庁の管轄である海上警備隊艦艇も同じような状況であるが、こちらにも「ザポロージャ・シーチ」と命名された艦艇が存在する。 かつて存在したウクライナ人民共和国やウクライナ国の海軍では、ロシア帝国の黒海艦隊の艦艇を引き続き運用した。ウクライナ人民共和国海軍では艦艇の名称はロシア帝国およびロシア共和国海軍時代のものを使用していたが、ウクライナ国海軍では民族主義者に対する懐柔政策の一環としてウクライナの事物に因んだ改名が実施された。その結果選ばれた名称はウクライナの都市名やウクライナ史上の人名であったが、他国と比較した場合、人名に政治・文化の分野で活躍した人物(文人)が多く含まれていた点が特徴として挙げられる。これは、ウクライナ史上の著名人物のほとんどがウクライナ・コサックであるか、ウクライナの言語や文化、歴史の研究家であるか、作家・詩人であるかに限られたためである。軽巡洋艦「タラース・シェウチェーンコ」(タラス・シェフチェンコはウクライナの作家、詩人、歴史研究家)や防護巡洋艦「ヘーチマン・イヴァーン・マゼーパ」(イヴァーン・マゼーパはウクライナ・コサックのヘーチマン)がその典型例である。ただ、これらの改名は一貫した規則のあるものではなく、一般に巡洋艦には人物名が付けられることが多かったものの、駆逐艦にもやはり人名は見られた(ウクライナ近代文学の始祖イヴァーン・コトリャレーフシクィイなど...

    イギリス連邦に所属しているオーストラリアは国家元首がイギリスの君主であるため、オーストラリア海軍 (Royal Australian Navy; RAN) 軍艦の正式な艦名にはHMAS (Her Majesty's Australian Ship) が艦名の前に付く。同様にニュージーランド海軍(RNZN) の艦名にはHMNZSが付く。 オーストラリア海軍では、かつてはイギリスと同様な命名方法を取っていたが、小所帯な海軍であるため現在では主要な艦艇は地名で事足りている。コリンズ級潜水艦では人名が採用されたが、アメリカやイタリアなどとは異なりラストネームのみを艦名としている。 オーストラリアとニュージーランドが共同で開発したアンザック級フリゲートのオーストラリア側の8隻には主に都市名が採用されているが、そのうちの「パラマッタ」(Parramatta)、「トゥウンバ」(Toowoomba) などは元々アボリジニの言葉からとられている。一方のニュージーランドでは取得分の2隻に「テ・カハ」(Te Kaha、勇気の意)、「テ・マナ」(Te Mana、身分、権威の意)という先住民族であるマオリ族の言葉から艦名が取られている。ニュージーランド海軍の主要な艦艇はこの2隻で全てであるが、これ以前に主力としていたイギリスのリアンダー級フリゲートや現用の掃海艇などにもマオリ語と思われる単語が見うけられる[疑問点– ノート]。このように自国独自の言語を使うことで他の英語国の艦名との重複を避けることができる。

    ソ連・ロシアでは都市名、人名が主要な命名源となっている。ソ連海軍では「第二十六回共産党大会記念」(Imeni XXVI syezda KPSS、デルタIV型のK-51)や「ムルマンスク青年共産党員」(Murmansky Komsomolets、ヴィクターIII型のK-358に与えられた名誉艦名)のような共産党を称える艦名が見うけられたが、ソビエト連邦の崩壊後は次々に改名されて、現在のロシア海軍にはほとんど在籍していない。 例えばソ連海軍初の本格的空母である11435型重航空巡洋艦の一番艦は設計時点では「ソビエト連邦」(«Сове́тский Сою́з») と命名され、以降「リガ」(«Ри́га»)、「レオニード・ブレジネフ」(«Леони́д Бре́жнев»)、「トビリシ」(«Тбили́си») と次々に改名された挙句に「ソビエト連邦海軍元帥クズネツォフ」(«Адмира́л фло́та Сове́тского Сою́за Кузнецо́в»、通称アドミラル・クズネツォフ)に落ち着いた。同二番艦は「リガ」から「ヴァリャーグ」(«Варя́г») 」に改名されたが、ソ連が崩壊し建造地であったウクライナから未完成のまま中国にカジノ施設用途のスクラップとして売却されたが、結局は「遼寧」として完成された。同様にキーロフ級原子力ミサイル巡洋艦は、一番艦が「キーロフ」(«Киров») から「アドミラル・ウシャコフ」(«Адмирал Ушаков») へ、二番艦「フルンゼ」(«Фрунзе») が「アドミラル・ラザレフ」(«Адмира́л Лазарев») へ、三番艦「カリーニン」(«Кали́нин») が「アドミラル・ナヒーモフ」(«Адмирал Нахимов») へ、四番艦が「ユーリ・アンドロポフ」(«Юрий Андропов») から「ピョートル・ヴェリーキー」(«Пётр Вели́кий»、ピョートル大帝)に改名されている。このように現在のロシア海軍ではかつての連邦国家に所属し、現在は独立国家となった国々の地名や共産党に関連する名前を廃し、帝政ロシア時代との連続性を強調する命名を行っている。 ソ連では潜水艦に個艦名が無くK-19、K-219の様に番号で呼ばれていた。同一設計からなる艦のグループを指す場合は開発計画番号で呼ばれている。イ...

    中国人民解放軍海軍の命名基準は、海軍艦艇命名条例(1978年公表、1986年補足、修正)に定められたものを使用している。地名が多く用いられ、艦隊の管轄区分に沿った命名となっており、重複や交錯しないようになっている。北海艦隊の管轄地域では華北、東北、西北の14省、市、区の地名、東海艦隊の管轄地域では華東7省、市と新疆ウイグル自治区の地名、南海艦隊の管轄地域では華南、西南の9省、市、区の地名が用いられる。原子力潜水艦や巡洋艦、戦艦、航空母艦は総参謀部が艦名を定め、駆逐艦やフリゲート、潜水艦などは海軍が命名を行う。新たな艦艇の建設や導入、改名をする際には、認可、命名する指導機関が艦名、舷号を与え、「艦艇命名証書」を発行し、艦艇は「艦艇条令」の規定に従って命名式が行われ、艦艇の命名は「終身制」が取られ、改名は一般的には行わなれず艦艇が退役する際には、その艦名、舷号は命名機関が取り消し、後続の艦艇には付与されない。 海軍艦艇条例による命名基準は以下の通り。 1. 巡洋艦、戦艦、航空母艦:省、自治区、直轄市。 2. 駆逐艦、フリゲート:大、中型都市。 3. 原子力潜水艦:「長征」に通し番号。 4. 通常動力型ミサイル潜水艦:「長城」に通し番号。 5. 通常動力型潜水艦:「遠征」に通し番号。 6. 掃海艦:村。 7. ミサイル艇、機雷敷設艦:県。 8. 大型揚陸艦:山。 9. 中型揚陸艦:河川。 10. 補助艦艇:所在海区と性質の名称に通し番号。 なお命名条例に「世界の他の国や地域の船名と異なる」名という条件があり、台湾海軍が先に付けた艦名は自国の地名でも使えなくなる。

    台湾の海軍である中華民国海軍でも人名・地名が多い。例えば「成功」(Chengkung) 級は中国史の有名人物の名前から、「康定」(Kangding) 級は大陸本土の都市名から名付けられている。アメリカから導入したキッド級は「基隆」DDG-1801 (Keelung)、「蘇澳」DDG-1802 (Suao)、「左営」DDG-1803 (Tsoying)、「馬公」DDG-1804 (Makung) と名づけられた。これらはいずれも都市名で、台湾海軍の艦隊基地が置かれた軍都として知られている。 語頭/語尾を同じ漢字にそろえる命名慣用もある。たとえば「丹陽」12 (Tangyang) や「建陽」912 (Chienyang) のように「陽」を語尾とする二字から成る一連の艦名があり、近年導入されたアメリカのノックス級フリゲイトも「済陽」932 (Chinyang) のように同様の命名慣用によって命名されている。また語頭の字を潜水艦では「海」、掃海艇では「永」、揚陸艦では「中」にそろえており、たとえば現用潜水艦の四隻は「海獅」791 (Haishih)、「海豹」792 (Haibao)、「海龍」793 (Hailung)、「海虎」794 (Haihu) と命名されている。イギリス海軍で頭文字をそろえた級を本来の級名のほかにC級やR級のような頭文字で呼ぶ事があるように、台湾でも字をそろえた級を「陽字号」、「永字号」などと呼称する事がある。

    ドイツ海軍では州名や都市名などの地名、人名などが艦名に用いられる。ただし潜水艦(Uボート)については諸外国のような固有名は与えられず、U103などのように、U○○(○○は、1桁から4桁の数字)を割り振る。 陸軍大国であるドイツでは海軍の船に陸軍軍人の名前が用いられる事が多く、第一次世界大戦の帝政ドイツ大洋艦隊には「フォン・デア・タン」(Von der Tann)、「モルトケ」(Moltke) など多くの陸軍軍人が在籍し、大西洋で戦った。帝政期には艦名の前に「皇帝陛下の艦」を意味するSMS(Seine Majestät Schiff の略)という称がつけられていた。このほか小型艦艇については、勇猛な鳥獣の名前を用いる事例があり動物の名前を持つ級は猛獣級、鳥の名前を持つ級を猛禽級などと称した。 これらの傾向は20世紀を通じて特に変化が無い。第二次世界大戦後の新生ドイツ海軍に就役したケルン級フリゲートには「エムデン」を含む地名の艦名が与えられており、戦後に建造された最初のミサイル駆逐艦(リュッチェンス級)には第二次世界大戦で活躍した三軍の軍人から「リュッチェンス」(Lütjens、海軍軍人)、「メルダース」(Mölders、空軍軍人)、「ロンメル」(Rommel、陸軍軍人)の名前が与えられている。

  9. 舞鶴市 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/舞鶴地方

    舞鶴市は、京都府北部では経済的中心都市として重要であり、船舶の大型化や荷役の コンテナ化 に対応する港湾にするべく「 舞鶴国際埠頭 」が整備され、関西の日本海側の重要港湾である。. なお、中心市街地の人口は1985年度の約8,400人から2000年度には約 ...

  10. 慕容儁 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/慕容儁
    • 慕容皝の時代
    • 中原進出を決断
    • 出征開始
    • 冉魏を滅ぼす
    • 皇帝に即位
    • 諸勢力を併呑
    • 中華統一を目論む
    • 最期

    太子となる

    319年、慕容皝の次男として生まれた。 335年7月、世子に立てられた。 336年9月、慕容皝の命により段部へ侵攻して諸城を攻撃すると、大勝を収めてから帰還した。 337年10月、慕容皝が燕王に即くと(前燕の成立)、11月に慕容儁は王太子に立てられた。 341年7月、東晋から使者が到来すると、慕容皝は燕王に封じられてその地位を正式なものとし、慕容儁もまた仮節・安北将軍・東夷校尉・左賢王に任じられ、多数の軍資・器械を下賜された。 343年8月、前軍師慕容評と共に代国へ侵攻したが、代王拓跋什翼犍はその民を従えて別の地へ避難したので、慕容儁らは戦うことなく引き返した。 344年、東晋朝廷より使持節・鎮軍将軍に任じられた。 346年1月、度遼将軍慕容恪・折衝将軍慕輿根と共に騎兵1万7千を率い、夫余の討伐に向かった。慕容儁は陣中で指示を行い、慕容恪・慕輿根が前線で鋒を振るった。この戦いで前燕軍は夫余を滅ぼし、夫余の玄王と部落5万人余りを捕らえてから帰還した。

    王位を継ぐ

    348年8月、慕容皝は狩猟の最中に馬から転倒して重傷を負い、その傷がもとで翌月にこの世を去った。死の間際、慕容儁を呼び寄せて後事を託すと共に「今、中原は平定されておらず、世務(この世の務め。ここでは中華平定を指す)を図る為には、賢傑(才知が傑出している事)なる人物の助けを得なければならぬ。恪(慕容恪)は智勇共に申し分なく、その才覚は重任に堪え得るものだ。汝はこれに委ね、我が志を果たすのだ。また、陽士秋(陽騖)は士大夫の品行を有し、高潔・忠幹にして貞固があり、大事を託すに足る人物である。汝はこれを善く待遇するように」と遺言した。 11月、父を龍平陵に埋葬した後に燕王の位を継ぎ、領内に大赦を下した。また、東晋へ使者を派遣して父の喪を報告した。さらに、弟の慕容友を左賢王に、左長史陽騖を郎中令に任じ、その他の文官・武官についても能力に応じて進位させた。 349年1月、この年を燕王元年と定め、父の時代同様に東晋の元号は用いなかった。但しこれは東晋との従属関係を否定した訳ではなく、周王朝に従属しながらも独自の暦を用いていた春秋時代の列国の故事に倣ったものである。 4月、東晋穆帝は謁者陳沈を前...

    5月、後趙では皇帝石虎の死をきっかけに、皇族同士が後継の座を争って殺し合うようになり、中原は大混乱に陥った。 弟の平狄将軍慕容覇(後の慕容垂)は慕容儁へ「石虎の凶暴残虐な様は極まっており、天すらもこれを見捨てました。僅かに残った子孫も、魚の如く互いの肉を食い合っております。今、中国は倒懸(逆さまに吊るされる事)する程の苦しみを味わっており、みな仁恤(憐れんで情けを掛ける事)を待ち望んでおります。もし大軍で一撃を与えれば、その勢いで必ずや征伐出来るでしょう」と上書し、今こそ後趙征伐の絶好の機会であると訴えた。さらに北平郡太守孫興もまた「石氏は大乱に陥っており、今こそ中原奪取の好機かと」と上表した。だが、慕容儁はまだ慕容皝の喪中であった事から、これを認めなかった。 慕容覇は任地である徒河を離れて自ら龍城を詣でると、再び慕容儁へ「得難くして失い易いのが時というものです。万一石氏が衰弱から再興したならば、あるいは他の英雄がこれに取って代わったならば、ただ大利を逃すのみならず、後患が怖ろしくなりましょう」と訴え、改めて出兵を請うた。これに慕容儁は「鄴中で乱が起こったといえども、鄧恒が安楽(現在の北京市順義区北西部)に拠っており、その兵は強く兵糧も充足している(鄧恒は後趙の征東将軍であり、前燕との国境の最前線である安楽を守備していた)。今もし趙を討とうとしても、東道は通れまい。そうなれば盧龍を通るしかないが、盧龍山は険しく道が狭い。虜(蛮族の事。ここでは後趙を指す)どもに高所を取られてしまえば、全軍の煩いとなる。これをどう考える」と問うと、慕容覇は「鄧恒が石氏の為に我らを阻もうとも、その将兵は郷里へ帰りたがっております。大軍で臨んだならば自ずと瓦解する事でしょう。臣(慕容覇)は殿下(慕容儁)の為に前駆となって東へ進み、徒河から密かに令支(現在の河北省唐山市遷安市南西部)まで赴き、その不意を衝きます。これを聞けば奴らは必ずや震駭し、上は城門を閉じて籠城することも出来ず、下は城を棄てて逃潰することしょう。どうして我を阻むことなど出来ましょう!そうすれば殿下は安全に進軍することが出来、難を留めることもないでしょう」と答えた。 慕容儁はなおも決断できなかったので、国相である五材将軍封奕を召喚してこの事を尋ねると、封奕は「用兵の道において、敵が強ければ智を用い、敵が弱ければ勢を用い...

    薊城へ到達

    350年2月、後趙の大将軍冉閔が皇帝石鑑や後趙の皇族を虐殺すると、自ら鄴で帝位に即いて国号を「大魏」と定めた(冉魏の建国)。 この混乱を好機と見た慕容儁は遂に計画を実行に移し、三軍を率いて征伐を決行した。まず、慕容覇に2万の兵を与えて東道から徒河へ進ませ、将軍慕輿干に西道から蠮螉塞へ進ませ、慕容儁自らは中道から盧龍塞へ進んだ。また、慕容恪・前鋒将軍鮮于亮を軍の前鋒とし、さらに軽車将軍慕輿泥に命じて槎山の道を切り開かせた。また、世子の慕容曄には龍城の留守を命じ、内史劉斌を大司農に任じて典書令皇甫真と共に補佐を委ね、まだ幼い慕容曄の代わりに政務・事務全般を管轄させた。 慕容覇軍が三陘まで到達すると、安楽を守備する後趙の征東将軍鄧恒は大いに恐れ、倉庫を焼き払って安楽から撤退し、後趙の幽州刺史王午と合流して薊城に籠った。前燕の徒河魯口南部都尉孫泳は急ぎ安楽に入城すると、消火を行って穀物や絹布を保護した。その後、慕容覇もまた安楽に入城すると、北平郡の兵糧を確保した上で再び出撃し、臨水へ進んで慕容儁の本隊と合流した。 3月、慕容儁は無終へと軍を進めた。王午は将軍王佗に数千の兵を与えて薊城の守...

    幽州・冀州を征伐

    同月、慕容儁は次いで范陽まで進出し、城を陥落させた。范陽郡太守李産が8城の令長(県令と県長)と共に降伏すると、慕容儁はこれを許して引き続き范陽郡太守に任じ、今まで通り統治を委ねた。この時、李産の子の李績は王午・鄧恒の配下として魯口にいたが、王午の許しを得て城を離れると、前燕に帰順した。 4月、慕容儁は弟の慕容宜を代郡の城郎に、孫泳を広寧郡太守にそれぞれ任じ、幽州の郡県全てに守宰(太守や県令)を設置した。 同月、薊の守備を中部侯釐慕輿句に委ねると、自ら軍を率いて鄧恒・王午の守る魯口へ侵攻した。清梁まで進撃した時、鄧恒配下の将軍鹿勃早は数千の兵で夜襲を仕掛け、その半数が前燕の陣営へ侵入した。彼らはまず前鋒都督慕容覇の陣へ突入したが、慕容覇は奮戦して自ら10人余りの敵兵を殺して鹿勃早軍の進撃を食い止めたので、その隙に前燕軍は防備を整えることが出来た。慕容儁はこの夜襲に動揺し、折衝将軍慕輿根へ「敵の士気は旺盛だ。一旦退却すべきではないか」と尋ねると、慕輿根は顔つきを改めて「我等は多勢で敵方は無勢。真っ向勝負では敵わないので、万一の僥倖を願って夜襲を掛けたに過ぎません。我等は賊を討伐する為...

    後趙に加担

    350年2月に冉閔が帝位を簒奪した時、鄴にいた後趙の皇族は尽く虐殺されてしまったが、石虎の子である新興王石祗は襄国(現在の河北省邢台市邢台県)の統治に当たっていた為に難を逃れており、同年3月には冉閔に対抗して帝位に即いていた。 同年11月、冉閔は歩兵・騎兵併せて10万を率いて襄国へ侵攻し、城を包囲した。351年2月、包囲が百日余りに渡って続くと、石祗は独力では冉閔を撃退できないと判断し、皇帝号を取り去って趙王を称すとともに、かつて後趙の太尉であった張挙に伝国璽を持たせて前燕へ派遣し(但しこれは偽物であり、本物は冉魏の首都である鄴にある)、慕容儁へ救援を要請した。慕容儁はこの申し出に応じ、禦難将軍悦綰に兵3万を与えて救援に向かわせ、石祗と合流して冉閔を討つよう命じた。羌族酋長の姚弋仲もまた子の姚襄を救援の為に差し向け、冀州にいた後趙の汝陰王石琨もまた兵を率いて襄国救援に向かった。 前燕が石祗に協力して援軍を派遣すると聞いた冉閔は、大司馬従事中郎常煒を前燕へ派遣して慕容儁を翻意させようとした。常煒が龍城に到着すると、慕容儁は直接言葉を交わさず、記室封裕を介して冉閔の暴虐について詰問し...

    勃海を得る

    4月、勃海の民である逄約は後趙の混乱に乗じ、数千家の民衆を擁して冉魏へ帰順した。これを受け、冉閔は逄約を勃海郡太守に任じ、さらにかつて後趙の勃海郡太守であった劉準を幽州刺史に任じ、逄約と共に勃海を二分して統治させた。また、豪族の封放も勃海において民衆を大勢集めて自立した。慕容儁は封奕に逄約の討伐を命じ、昌黎郡太守高開には劉準・封放討伐を命じた。封奕は逄約の下へ赴くと、自身もまた勃海郡の出身であった事から、同郷の誼で会見を求めた。逄約はこれに応じて陣営から出てきたが、封奕は部下の張安に命じ、隙を見つけて逄約を捕らえさせた。高開もまた勃海へ進軍すると、劉準・封放はいずれも降伏して彼を迎え入れた。慕容儁は封放を勃海郡太守に、劉準を左司馬に、逄約を参軍事に任じた。逄約は多数の民衆へ前燕への帰順を持ち掛けたので、前燕はさらに人材を得る事が出来た。 7月、後趙の将軍劉顕が襄国で政変を起こし、石祗や後趙の百官を誅殺した。これにより後趙は完全に滅亡し、代わって劉顕自らが襄国を支配して皇帝を称した。8月、石祗の死に伴い、悦綰は襄国より帰還した。その報告により張挙が献上した伝国璽が偽物であった事が発...

    中山攻略

    同月、慕容恪を冉魏領の中山へ侵攻させ、慕容評には魯口を守る王午を攻めさせた。 慕容恪が唐城まで到達すると、冉魏の将軍白同と中山郡太守侯龕は共に城を固守した。慕容恪は力押しで中山を攻め降すのは難しいと判断し、慕容彪に中山攻撃を継続させると、自らは南の常山へ向かって九門に駐屯し、周囲の郡県より攻略せんとした。すると、冉魏の趙郡太守李邽は郡を挙げて慕容恪に降伏したので、これを手厚く慰撫した。その後、再び中山へ戻って包囲攻撃を仕掛けると、侯龕もまた城を出て降伏したので、慕容恪は彼を中尉に任じた。さらには中山を攻め落として白同を処断し、冉魏の将帥と豪族数10家を薊へ移住させ、残りの者についてはこれまで通りの生活を保障した。 慕容評もまた南皮まで進むと、迎撃に出てきた王午配下の将軍鄭生を返り討ちにし、その首級を挙げた。 同月、慕容儁は孫興を中山郡太守に任じ、占領して間もない中山を統治させた。孫興は善政を敷いて民を慰撫したので、民心は大いに安定したという。 11月、逄約は勃海へ逃亡すると、部衆をかき集めて再び前燕へ反旗を翻した。前燕の楽陵郡太守賈堅は使者を派遣して利害を説くと、彼の部下は次第に...

    これより以前の352年6月、国相封奕を始めとした120人の群臣は慕容儁の下へ出向くと、皇帝位に即くよう請うた。だが、慕容儁は「我は元々幽漠(幽州・ゴビ砂漠の当たり)の郷里において狩猟を行い、被髮・左袵の風習(被髮とは頭髮を散乱させる事。左袵とは衣服を左前に着る事。いずれも夷狄の風習)のもとに育ってきた。どうして暦数の籙(天より賜る符命の書)が我にあろうか!卿らはみな不相応な望みを抱いて褒挙(褒め称えて推薦する事)しているが、これは我のような徳の少ない者が聞くべき事ではない」と答え、取り合わなかった。 同年10月、慕容恪ら前燕の群臣500人は皇帝璽を奉じて慕容儁の下へ出向き、冉魏を滅ぼして中原の統治者となった事をもって再び帝位に即くよう要請すると、慕容儁はこれを認めた。 11月、即位の前準備として、前燕の歴史の中で始めて百官を設置し、朝廷としての体裁を整えた。国相封奕を太尉に、慕容恪を侍中に、左長史陽騖を尚書令に、右司馬皇甫真を尚書左僕射に、典書令張希を右僕射に、宋活(宋晃)を中書監に、韓恒を中書令に任じ、他の官員も各々功績に応じて官爵を授けた。 その後、慕容儁は伝国璽を得た事を大義名分(実際には偽物であった)とし、日を選んで正陽殿において皇帝位へ即くと、領内に大赦を下した。また、年号を元璽と、国号を『大燕』と定め、郊祀を行って天地を祀った(厳密にいえばこの年が前燕の建国である)。また、慕容儁は「祖考(父祖)を追崇するは、古人の令典である」と命を下し、祖父の慕容廆を高祖武宣皇帝と、父の慕容皝を太祖文明皇帝と追尊した。さらに、司州を中州と改め、司隷校尉の官を置いて統括させた。また、龍城には留台(朝政の代行機関)を置き、玄菟郡太守乙逸を尚書に任じて政務を委ねた。 当時、東晋の使者が前燕に滞在していたが、慕容儁はその使者へ向けて「汝は還ったならば、汝の天子へ伝えるように。我は人の乏を承けたことで、中国の民より推されることとなり、皇帝となったとな」と告げた。これにより、東晋への従属関係は終わりを告げた。 353年2月、夫人の可足渾氏を皇后に、世子の慕容曄を皇太子に立て、龍城から薊城へ正式に遷都した。随行した文武百官や、諸々の藩国の使者で皇帝即位の儀礼に参加していた者はみな官位を三級進められ、殿中の旧臣はみな才能に応じて抜擢を受けた。冉閔討伐や鄴攻略戦に参加した者は一兵卒...

    魯口攻略

    同月、東晋の寧朔将軍栄胡は魯郡で反乱を起こし、彭城ごと前燕へ帰順した。 3月、後趙でかつて衛尉を務めていた李犢が常山で数千の兵を集め、前燕の統治に反抗して普壁塁に立て籠もった。5月、慕容儁は慕容恪に李犢討伐を命じた。慕容恪は出撃するとすぐさまこれを降伏させ、更に東へ進んで魯口を守る呂護討伐に向かった。 11月、かつて後趙の将軍であった楽陵の朱禿・平原の杜能・清河の丁嬈・陽平の孫元らは、後趙崩壊以降は各々兵を擁して城砦に拠っていたが、ここに至ってみな前燕に降伏した。慕容儁は朱禿を青州刺史に、杜能を平原郡太守に、丁嬈を立節将軍に、孫元を兗州刺史に任じ、これまで通り城砦に留まる事を赦して慰撫に当たった。 12月、衛将軍慕容恪・撫軍将軍慕容軍・左将軍慕容彪らは幾度も上表し、給事黄門侍郎慕容覇には命世の才(世に名高い才能)があるとして、大任を委ねるよう勧めた。慕容儁はこれを容れ、慕容覇を使持節・安東将軍・北冀州刺史に昇進させ、常山を鎮守させた。 同年、慕容儁は代へ遣使し、修好を深めた。 354年2月、慕容恪は魯口を包囲し、3月にはこれを陥落させた。呂護は城を脱出して逃走を図ったが、前軍将軍...

    一族への封爵と四公の設置

    4月、撫軍将軍慕容軍を襄陽王に、左将軍慕容彪を武昌王に、衛将軍慕容恪を太原王に、鎮南将軍慕容評を上庸王に、安東将軍慕容覇を呉王に、左賢王慕容友を范陽王に、前鋒都督慕容強を洛陽王に、散騎常侍慕容厲を下邳王に、寧北将軍慕容度を楽浪王に、弟の散騎常侍慕容宜を廬江王に、慕容桓を宜都王に、慕容遵を臨賀王に、慕容徽を河間王に、慕容龍を歴陽王に、慕容納を北海王に、慕容秀を蘭陵王に、慕容嶽を安豊王に、慕容徳を梁公に、慕容黙を始安公に、慕容僂を南康公に、子の慕容臧を楽安王に、慕容亮を勃海王に、慕容温を帯方王に、慕容渉を漁陽王に、慕容暐を中山王にそれぞれ封じた。 また慕容恪を大司馬・侍中・大都督・録尚書事に、慕容評を司徒・驃騎将軍に、尚書令陽騖を司空・守尚書令に任じた。これ以降、既に太尉に任じられていた封奕と共に、大司馬慕容恪・司徒慕容評・司空陽騖が群臣の筆頭として朝政を統括していった(いわゆる四公)。 さらに、慕容儁は冀州刺史・呉王慕容覇を信都に移らせて統治を命じたが、程なくして侍中・録留台尚書事に改任して旧都である龍城を鎮守させ、この時期に慕容覇の名を慕容垂と改めさせた。だが、慕容垂が東北(遼西...

    段龕を征伐

    段部の首領段龕はかつて冉閔の乱が起こった際、その混乱に乗じて本拠地の令支から兵を率いて南下を開始し、さらに東に進んで広固に拠点を構えると、その勢力を大きく広げていた。また、自ら斉王を名乗り、東晋に称藩を申し入れ、朝廷より鎮北将軍に任じられていた。 彼は前燕との対立姿勢を鮮明にしており、時期は不明だが前燕領の郎山を襲撃して将軍栄国を破っている。 前燕の楽陵郡太守慕容鉤(慕容翰の子)は青州刺史朱禿と共に厭次を治めていたが、彼は自らが宗室である事に驕り、いつも朱禿の事を辱めていた。その為、354年7月には朱禿は慕容鉤を襲撃して殺害すると、南へ奔って段龕に寝返ってしまった。 355年10月、段龕は慕容儁へ書簡を送り、中表の儀(東晋建国時に誓った忠誠)に背いて皇帝に即位した事を強く非難した。慕容儁はこの書を見ると甚だ激怒し、討伐を決断した。 11月、慕容儁は太原王慕容恪を征討大都督・撫軍将軍に任じて段龕討伐を命じ、陽騖・慕容塵も副将として従軍させた。その一方で、彼は段龕の勢力が強盛である事を憂慮していたので、出発に際して慕容恪へ「もし段龕が対岸に軍を並べて拒んでおり、渡河する事が出来なかっ...

    12月、慕容儁は前秦・東晋の併呑を目論み、州郡に命じて丁(成人男子)の数に漏れや誤りが無いか詳しく調査させ、1戸には1丁のみを残して残りを尽く徴発するよう命じた。これにより歩兵を150万まで増員し、来春には洛陽に集結させ、三方に命を下そうとした。だが、武邑出身の劉貴は「百姓が凋弊しているのに、兵を徴発するのは法に非ずといえましょう。人民はこの命に堪えられず、必ずや土崩の禍となることでしょう。また、政務の中で時に合致していないものが、10のうち3はあります」と上書し、固く諫めた。慕容儁はこれを善しとし、公卿に広く議論させてその多くを容れた。これにより、三五占兵(5人に3人の割合で成人男子を徴発する事)に改め、戦の準備期間を1年伸ばし、翌年の冬に鄴都に集結させるようにした。 当時、前燕では頻繁に兵の徴発が行われており、官吏は各個人がそれぞれ使者を派遣しては徴発活動を行っていた。その為、郡県は大いに困苦する事となり、また道路は大いに混雑した。同月、太尉・領中書監封奕はこの状況を憂えて慕容儁へ「これ以降、軍期が厳急でもないのに、むやみに遣使させてはなりません。また、そうでなくとも賦役や徴発は全て州郡の責任で行うべきであり、百官が督している外から来た者は、一切を帰還させるべきです」と諫めると、慕容儁はこれに従った。 同年、東晋の徐兗二州刺史・北中郎将荀羨が山茌へ侵攻した。泰山郡太守賈堅は奮戦むなしく生け捕りとなり、再三の降伏勧告にも応じずに憤死した。鎮南将軍・青州刺史慕容塵は司馬悦明を救援として派遣し、荀羨を大敗させて山茌を奪還した。慕容儁は賈堅の訃報を聞き、子の賈活を任城郡太守に任じた。 359年2月、慕容儁は鄴の顕賢里に小学を建て、王侯貴族の子らに学問を学ばせた。また、老年で病気に苦しんでいる者や、身寄りが無く生活の苦しい者を調査させ、穀帛を下賜した。 3月、子の慕容泓を済北王に、慕容沖を中山王にそれぞれ封じた。また、その他の弟や甥にも格差をつけて王公に封じた。 7月、高昌は遂に前燕の攻勢に抗しきれなくなり、城を棄てて白馬より滎陽へ逃走した。 8月、東晋の泰山郡太守諸葛攸が2万の水軍・陸軍を率いて前燕を攻め、石門より侵入して黄河の岸に駐屯した。また、配下の将軍匡超をさらに険阻な山へ進ませ、蕭館を新柵に駐屯させ、さらには督護徐冏に水軍3千を与えて上流と下流に浮橋を作ら...

    12月、慕容儁は病を発して床に伏せがちになると、大司馬・太原王慕容恪を呼び出して「我の病はこの体を次第に弱め、恐らくは治ることはないであろう。短命でこの障害を終えることになろうが、どうして恨む事があろうか!ただ心配なのは、未だ二寇(東晋・前秦)の脅威は除かれておらず、景茂(慕容暐の字)もまだまだ幼少である事だ。とても家国の多難を乗り切れるとは思えない。そこで古の宋の宣公に倣って、社稷を汝に任せようと考えている(宣公は自らの子與夷ではなく、弟の穆公を後継ぎとした)」と述べ、慕容恪に帝位を譲ろうとした。これに慕容恪は「太子はまだ幼いとは言え、天より聡聖を与えられております。必ずや残なる者どもに勝利し、刑措(犯罪の無い世界)をもたらしましょう。正統を乱してはいけません」と述べると、慕容儁は「兄弟の間で、どうしてうわべを飾る必要があるのか!」と怒った。この言葉に慕容恪は「陛下がもし臣(慕容恪)を天下の任に堪え得る者とお考えであるならば、どうして幼主を補佐が出来ないと思われるのでしょうか!」と訴え、後継に立つより補佐に回る事を求めた。この言葉を聞くと慕容儁は大層喜んで「もし汝が周公のように事を行ってくれるのであれば、憂うることなど何もない(周公旦は、甥である周朝第2代王の成王が幼少の時に摂政となったが、成人すると政権を返して臣下の地位に戻った)。李績は清方にして忠亮な男であるから大事を任せられるだろう。汝はこれを善く遇するように」と述べた。 同月、慕容垂を任地の遼東から鄴に帰還させた。 またこの時期、前年より招集を掛けていた郡国の兵が予定通り鄴都に集結したが、それに伴う混乱により盗賊が蜂起し、連日朝夕に渡って絶えず強盗略奪が行われた。これを受け、慕容儁は賦税を緩和し、特別に禁令を設け、賊の情報を密告した者には奉車都尉を下賜すると発布した。これにより賊の首領である木穀和ら百人余りを捕らえて誅殺する事に成功し、これによって動乱は静まった。 360年1月、慕容儁は病状が少し回復すると、鄴において大々的に閲兵を行い、大司馬慕容恪・司空陽騖に命じて予定通り征伐を敢行しようとした。だが、すぐに病状が悪化してしまい、取りやめとなった。慕容儁は死を悟ると、慕容恪・陽騖・慕容評・慕輿根らを呼び寄せて輔政を委ねる遺詔を遺し、やがて応福殿で崩御した。享年42、在位期間は11年であった。景昭皇...