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  1. 宋史 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 宋史

    『宋史』(そうし)は、中国の元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。 宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。 至正5年(1345年)に完成。 元の中書 右丞相であったトクト(託克託・脱脱)が編纂した。 16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の ...

  2. 三国志演義の人物の一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 三国志演義の人物の一覧

    三国志演義の人物の一覧は、歴史小説『三国志演義』に登場する人物を列挙した一覧である。 実在の人物を元にしている場合、架空の人物である場合に関係なく挙げる。 『三国志演義』の人物は総計で1192人。そのうち武将437人、文官451人、漢・三国・晋の皇帝・皇族 ...

  3. 中国の書家一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 中国の書家一覧
    • 三代
    • 三国
    • 六朝
    • 宋・遼・金
    • 出典・参考文献
    • 関連項目

    1. 史籀(し ちゅう、生没年不詳) 1.1. 一説に、宣王時代の太史官で、また、秦代の人との説もある。史籀の「史」は、史官の意と姓の意と両説ある。字書『史籀篇』15篇を著したとされる。

    西晋

    1. 索靖(さく せい、239年 - 303年) 1.1. 西晋の政治家。字は幼安。敦煌郡龍勒県の人。張芝の姉の孫。草書をよくし、衛瓘と並び称され、特に章草に優れた。その書法は韋誕から出た。書跡には『月儀帖』や『出師頌』(すいししょう)などがある。 2. 衛恒(えい こう、252年 - 291年) 2.1. 字は巨山。衛瓘の子。楷書に飛白の筆意を含む散隷という書を作った。張芝を学び、古文・章草・草書・隷書・楷書をよくし、書論『四体筆勢』を著した。『四体筆勢』には、古文・篆書・隷書・草書の四書体について、その起源などを記している。従妹に衛鑠がいる。

    東晋

    1. 衛鑠(えい しゃく、272年 - 349年) 1.1. 字は茂猗(もい)。通称は衛夫人。衛恒の従妹で、汝陰郡太守李矩の妻。書を鍾繇ないし蔡琰に学び、楷書・行書・篆書・隷書の各体をよくした。王羲之の師と伝えられる。 2. 王珣(おう じゅん、349年? - 400年?) 2.1. 字は元琳。王洽の長男。書名は当時、弟の王珉の方が高く、王珣の本領は学問にあったといわれる。行草に優れ、書に『伯遠帖』がある。

    木村卜堂 『日本と中国の書史』(日本書作家協会、1971年)
    鈴木翠軒・伊東参州 『新説和漢書道史』(日本習字普及協会、1996年11月)ISBN 978-4-8195-0145-3
    玉村霽山 『中国書道史年表』(二玄社、1998年6月)ISBN 4-544-01241-4
    「中国書道史」(『書道藝術』別巻第3 中央公論社、1977年2月)
    中国の書道史 - 中国の書論 - 集帖
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  4. 大水滸シリーズの登場人物 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 水滸伝_(北方謙三)の登場人物

    大水滸シリーズの登場人物(だいすいこシリーズのとうじょうじんぶつ)は、北方謙三の小説『大水滸シリーズ』(『水滸伝』およびその続編の『楊令伝』『岳飛伝』)に登場する架空の人物の一覧である。

  5. 康熙帝 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 康熙帝
    • 即位
    • 三藩の乱
    • 外征と晩年
    • 北方民族の王者
    • 国内政策
    • 後継者問題
    • 逸話
    • 后妃
    • 脚注
    • 参考文献

    順治帝の第3子として生まれる。疱瘡にかかったことを口実に城外に出され、乳母の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后により厳格にしつけられた。順治18年(1661年)、病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由として皇太子に指名した。順治帝は同年に崩御し、玄燁は8歳で皇帝に即位した。一説によると宮中で育てられず、北京のつましい地区で育てられたということであり、順治帝が崩御して宦官が迎えに来たとき、康熙帝は同年代の子供と路上で遊んでいた。もしこれが事実なら、人間形成の大事な時期に庶民の生活に触れて、宦官の毒気に当てられないで済んだわけである。順治帝の遺命により、即位後はスクサハ・ソニン・エビルン・オボイの重臣4人による合議で政権運営が行われた。康熙6年(1667年)にソニンが死去すると、オボイが反対派を粛清して専横を振るうようになった。康熙8年(1669年)、康熙帝はソニンの遺児ソンゴトゥと謀って、モンゴル相撲にかこつけてオボイを捕らえて排除し、15歳の時に親政を始めた。

    康熙12年(1673年)、三藩の乱が起こった。明の臣であった呉三桂は順治帝に山海関を明け渡して清に投降し、その後は南に逃れた南明の永暦帝を殺したことで功績大と認められ、皇族やモンゴル王侯ではないにもかかわらず旗王と同格の親王の爵位を授けられていた。この呉三桂を筆頭とした尚可喜・耿精忠の3人の藩王は、それぞれ雲南・広東・福建を領地としており、領内の官吏任命権と徴税権も持っていたので独立小国家の体をなしていた。 康熙帝はこの三藩を廃止することを決めた。廃止しようとすれば呉三桂たちは反乱を起こすと群臣の多くは反対だったが、3人だけ「このまま藩を存続させればますます増長し、手に負えなくなり、結局反乱することと同じである。どうせ同じなら今廃止したらどうか」という意見を出し、康熙帝はこれを採用した。 予想通り、呉三桂たちは清に対して反旗を翻した。三藩軍は清の軍隊を各地で破り、呉三桂は清から分離して周を建国し、鄭氏台湾の鄭経もこれに呼応した。そのため清は、一時期長江以南を全て奪われるなど、崩壊の危機を迎える。群臣は康熙帝に故地満州に避難することを勧めたが、康熙帝は断固として三藩討伐の意思を変えなかった。そして、毎日数百も及ぶ報告に対して適切に対応した。呉三桂たちは「満州人を追い出して漢人の天下を取り戻そう」というスローガンを民衆に訴えたが、そもそも漢人の王朝である明を滅ぼしたのは他ならぬ呉三桂であったので、民衆は支持しなかった。康熙帝が漢人の周培公らを起用したことで、清軍は徐々に優勢になっていき、康熙20年(1681年)に周を滅ぼして三藩の乱は鎮圧された。その2年後には李光地(中国語版)の意見を採用し、鄭氏政権からの降将施琅を登用して台湾を制圧、反清勢力を完全に滅ぼした。

    台湾を収併した年、ピョートル1世(摂政:ソフィア・アレクセーエヴナ、顧問:ヴァシーリー・ゴリツィン)時代のロシア帝国が、満州人の故地である黒竜江付近のアルバジンに南下してきたので、この地域の軍事力を強化し(清露国境紛争)、康熙28年(1689年)にソンゴトゥを派遣してネルチンスク条約を締結した。19世紀に受け入れさせられた一連の不平等条約と異なり、この条約は両国が対等の立場として結ばれたものである。中華思想によれば中国は唯一の国家であり、対等な国家の存在を認めず、国境など存在しないという建前だったが、この原則を揺るがす内容であった。これには側近のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)の助言があったといわれ、条約締結の際にもイエズス会士が交渉を助けた。ただし、その後の対ロシア関係は理藩院によって処理されており、清の国内では朝貢国と同様の扱いを受けていた。そのため、この条約締結をもってして清朝が主権国家体制の枠組みに包含されたとまではいえない。 1670年代、ジュンガル部のガルダン・ハーン(噶爾丹)がオイラトの覇権を握り、さらにモンゴルのハルハ部の内紛に介入、ハルハ諸部を制圧した。康熙32年(1693年)、ハルハの諸侯は康熙帝に保護を求め、康熙帝はこれに応えてガルダンと対決(清・ジュンガル戦争)、みずから軍勢を率いての戦闘を経て、康熙35年(1696年)に致命的打撃をガルダンに与えることに成功(ジョーン・モドの戦い(英語版))、ガルダンは敗走中に死去した。従来、ハルハ諸侯は清朝に朝貢を行い、冊封を受けるのみで、他の朝貢国と同様に内政自主権を行使していたが、これ以後は清の盟旗制に組み込まれることとなる。 18世紀初め、ダライ・ラマ6世を巡って生じたチベットの内紛で、青海のグシ・ハン王家の傍系王族の一部とジュンガルのツェワンラブタンが同盟を結び、康熙56年(1717年)にジュンガル軍がチベットへ侵攻し、ラサを制圧、チベットのラサン・ハン(英語版、中国語版)を殺害した。康熙帝はラサンの救援要請に応じ、康熙57年(1718年)にチベットへ出兵したが、この第一次派遣軍はジュンガル軍によって壊滅させられた(サルウィン川の戦い(英語版))。これに対し康熙帝は、グシ・ハン一族の主だった者たちを、当初ジュンガルと同盟した者たちを含めて北京に招き、爵位で釣って清朝...

    康熙22年(1683年)からほとんど毎年、康熙帝は夏にはムラン・イ・アバ(muran i aba、木蘭囲場。現在の承徳市囲場満族モンゴル族自治県)に赴き、モンゴル王侯とともに狩猟を行った。こうした狩場で十数日の間、モンゴル風のテント生活を送ったのである。康熙帝は弓の達人で、自ら虎や熊を倒したといわれる。また康熙42年(1703年)には熱河に離宮避暑山荘を造り、毎年夏から秋にかけて北京を離れて熱河で過ごし、モンゴル諸王や外国朝貢使節を引見した。こうした北方民族の王者としての行動様式は、家法として雍正帝や乾隆帝にも受け継がれていく。

    康熙帝は内政にも熱心であり、自ら倹約に努め、明代に1日で使った費用を1年間の宮廷費用としたといわれる。また、使用人の数を1万人以上から数百人にまで減らした。国家の無駄な費用を抑え、財政は富み、減税をたびたび行った。また、丁銀(人頭税)の額を康熙50年(1711年)の調査で登録された人丁(16歳から59歳の成年男子)の数に対応した額に固定し、1711年以降に登録された人丁に対する丁銀を当面免除した。これは地丁銀制へとつながる。 「黄河の治水」と「漕運の整備」を六度にわたる「南巡」をほど熱心に行った。この南巡は費用は全て宮廷から支出するという、徹底したものだった。 文化的にも、『康熙字典』『大清会典』『歴代題画』『全唐詩』『佩文韻府』などを編纂させ、『古今図書集成』の編纂を命じた(完成は雍正帝の時代)。朱子学に傾倒し、自ら儒学者から熱心に教えを受けて、血を吐くまで読書を止めなかったといわれる。 康熙帝の時代から十哲の一人として朱子(朱熹)を祀るようになり、『朱子全書』『性理大全』などの朱子に関する著作をまとめた。『明史』の編纂にも力を入れ、大部分を完成させている(全巻完成は乾隆4年(1739年))。また、イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェらに実測による最初の中国地図『皇輿全覧図(中国語版)』を作成させた。 文字の獄をはじめたのも彼の代からであり、その政策は子の雍正帝、孫の乾隆帝にも受け継がれた。

    康熙帝は孝誠仁皇后が生んだ皇二子の胤礽を、康熙15年(1676年)に皇太子に立てた。康熙帝は胤礽を非常に可愛がり、遠征中に自筆の手紙を何度も差し出したり、一緒に狩りに行ったりした。また、成年しても爵位や領民を与えず、部屋住まいにした。これは帝位を円滑に継がせたいための処置であった。ところが、ガルダン・ハーン討伐で他の皇子たちが功績を挙げたので、6人に爵位と八旗や領民を与えた。旗は元来はそれぞれ独立した部族集団であり、清朝初期の皇帝やその前身の後金のハーンは満州の部族連合の長として合議で選ばれており、皇帝が皇太子と定めても帝位を継げる保証は必ずしもなかった。そのため、各旗の旗人は壮烈な党派争いを演じ、陰謀が巡らされた。また、満州人には長子相続という慣習がなく、中国式の皇太子の地位など皇子たちには納得がいかず、兄弟みな同格だと認識していた。 そうした中、康熙42年(1703年)に胤礽の後ろ盾でもあったソンゴトゥがクーデターで失脚すると、胤礽は孤立して自暴自棄となった。康熙47年(1708年)秋、内蒙古に赴いていた際に、康熙帝は同行していた胤礽を跪かせ、泣きながら激しく叱責し、逮捕させた。康熙帝は、悲観のため不眠症となった。その後、北京への帰還の際に皇太子を正式に廃した。 胤礽が廃された後、皇長子の胤禔が皇八子の胤禩(中国語版)を新たな皇太子に推薦した。しかし、胤禩が反胤礽の中心人物であったことを知り、康熙帝は怒って貝勒の爵位を取り上げた。さらに、皇三子の胤祉が、胤禔はラマに頼んで廃太子に呪詛を仕掛けたと直訴した。調べたところ、廃太子の部屋に呪詛の証拠が見つかり、胤禔は群王の爵位を取り上げられ、監禁された。またこの同年には、明の皇統の生き残りである75歳の朱慈煥を捕え、「謀反を起こした事実はないが、謀反の心を抱かなかったことはないとはいえない(朱某雖無謀反之事,未嘗無謀反之心)」との理由から凌遅刑に、その一族を皆殺しの刑に処して、明の皇統を根絶やしにしている。 その後、胤礽に会うと別人のように穏やかになっていたので、康熙帝は康熙48年(1709年)春に再び胤礽を皇太子に立てた。しかし、胤礽が諸大臣との宴会を通じて皇太子党なるものを築いたことを知ると、康熙帝は歩軍総領トホチらを処刑し、胤礽は康熙51年(1712年)に再び廃立、幽閉された。これ以後、後継者問題に懲りた康...

    外見は背格好は中以上、漢人の基準から見るとやせているが、均整の取れた容姿を持つ。丸顔で、天然痘のあとが残っている、目は普通の漢人よりも大きく、鼻は小さく、やや鉤鼻で、先端になるにつれて膨らんでいる。
    能力は俊敏で、洞察力や知性、記憶力に優れ、驚くべき天分の広さ、いかなる事件に耐えられる剛毅さを持ち、大計画を立ててこれを指導し、強固な意志力を持っており、威厳のある外見ではないが、趣向や趣味は高貴であり、大王にふさわしい、と絶賛されている。
    学問を非常に好み、孔子の著書の大半やその他にも多くの古典を暗記していた。また、西洋の学問にも深く興味を抱き、幾何学・科学・天文学をよく学んだ。

    正室

    1. 孝誠仁皇后 (hiyoošungga unenggi gosin hūwangheo)(ヘシェリ氏、赫舎里氏) 1.1. 皇子承祜(夭逝)、皇二子理親王胤礽(廃皇太子) 2. 孝昭仁皇后(hiyoošungga genggiyen gosin hūwangheo)(ニオフル氏、鈕祜禄氏) - ヌルハチの外曾孫で康熙帝の又従妹。 3. 孝懿仁皇后 (hiyoošungga fujurungga gosin hūwangheo)(トゥンギャ氏、佟佳氏) - 康熙帝の母方の従妹。 3.1. 女:皇八女(夭逝)

    側室

    1. 孝恭仁皇后 (hiyoošungga gungnecuke gosin hūwangheo) (ウヤ氏、烏雅氏) 1.1. 皇四子胤禛(雍正帝)、皇六子胤祚(夭逝)、皇七女(夭逝)、皇九女固倫温憲公主、皇十二女(夭逝)、皇十四子恂郡王胤禵(中国語版) 2. 愨恵皇貴妃(トゥンギャ氏、佟佳氏) - 康熙帝の母方従妹、孝懿仁皇后の妹。 3. 惇怡皇貴妃(グワルギャ氏、瓜爾佳氏) 3.1. 皇十八女(夭逝) 4. 敬敏皇貴妃(ジャンギャ氏、章佳氏) 4.1. 皇十三子怡親王胤祥、皇十三女和碩温恪公主、皇十五女和碩敦恪公主 5. 温僖貴妃(ニオフル氏、鈕祜禄氏) - 孝昭仁皇后の妹。 5.1. 皇十子敦郡王胤䄉(示へんに我)、皇十一女 6. 順懿密妃(王氏) 6.1. 皇十五子愉郡王胤禑、皇十六子荘親王胤禄、皇十八子胤祄(夭逝) 7. 純裕勤妃(陳氏) 7.1. 皇十七子果親王胤礼 8. 恵妃(ナラ氏、那拉氏) 8.1. 皇子承慶(夭逝)、皇長子直郡王胤禔 9. 宜妃(ゴロロ氏、郭絡羅氏) 9.1. 皇五子恒親王胤祺、皇九子貝子胤禟、皇十一子胤禌(夭逝) 10. 栄妃(マギャ氏、馬...

    岡田英弘『康熙帝の手紙』(中公新書、1979年/藤原書店(増訂版)、2013年)
    ブーヴェ『康熙帝伝』(後藤末雄訳、矢沢利彦校注、平凡社東洋文庫、1970年、ワイド版2003年)
  6. 台湾の人物一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 台湾の人物一覧
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  7. 清史稿 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 清史稿

    清史稿』(しんしこう)は、中国の辛亥革命による中華民国成立後に、趙爾巽が中心となって約100人余りの学者が編纂した二十四史を継ぐ清朝1代の未定稿の紀伝体 歴史書。。「二十五史」・「二十六史」と称する場合には同書が数えられる。 本項では、『清史稿』を ...

  8. 諸葛亮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 諸葛亮
    • 略伝
    • 評価
    • 『三国志平話』中の諸葛亮
    • 『三国志演義』中の諸葛亮
    • 著作など
    • 家系
    • 参考文献
    • 関連項目

    書生時代

    徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。 まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。 その後、諸葛亮は荊州で弟と共...

    三顧の礼

    華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。 諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三...

    赤壁の戦い

    建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。 観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。 同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できると勧めたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。 孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は...

    同時代の評価

    『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』では、荊州時代に龐統と並び称されていた。また曹操が漢中を攻略した際、劉曄は蜀を続けて攻めるよう進言したが、この際に諸葛亮の政治がよいため放置しておくのは危険であるとしている。また魏の文帝から諮問を受けた賈詡は、諸葛亮がよく国を治めていると評価している。呉の大鴻臚であった張儼は古代の名宰相である子産や晏嬰、管仲と並ぶか、それを上回る人物であると評価している。諸葛亮の死後、蜀の相となった蔣琬は楊敏に「前任者(諸葛亮)に及ばない」と謗られた際に、「事実私は前任者に及ばない」と語った。蔣琬を継いだ費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語っている。 軍事については司馬懿が諸葛亮の築いた軍営の跡を見て「天下の奇才」とする一方、「志は大きかったが機を見ることには長けていない」と評している。 張儼は著書の『黙記』述佐篇で批評として「司馬仲達は十倍の地を支配しただ自国の保全につとめただけであった。諸葛孔明を思うままに行き来させていたのだから、もしも孔明...

    西晋における評価

    『晋書』においては諸葛亮が政治・忠誠などで高い評価を受けていた記述が見られる。蜀漢の滅亡後には、司馬昭が諸葛亮の軍法や用兵を陳勰に学ばせている。また傅玄が司馬懿を讃えた楽『宣受命』では、公孫氏討伐とともに諸葛亮に対する勝利を司馬懿の功績であるとしている。また当時、諸葛亮と楽毅を比較する論がしばしばあったが、張輔は『名士優劣論』の中で楽毅などとは比べ物にならず、呂尚(太公望)に匹敵する人物であると絶賛している。また『三国志』裴松之注『漢晋春秋』では、武帝司馬炎が「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と。 この時代に書かれた『三国志』の撰者である陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。 しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功...

    五胡十六国時代以後における評価の上昇

    五胡十六国時代から南北朝時代になると、諸葛亮を名臣・名将であると評価する動きが高まった。東晋においては蜀と東晋の状況を重ね合わせ、蜀漢が正統な王朝であるという動きが強まり、諸葛亮が政治や軍事面だけでもなく、理想的な君臣関係を築いた者としても賞揚された。一方で北魏の宰相であった崔浩は「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と、陳寿の評も過剰評価であり、昔の名将と比較できるものではないと酷評している。北朝でも北斉の宇文泰は、有能な部下に対し「孤(私)の孔明である」として「亮」の名を与えている(劉亮)。 唐代に至ると唐以前の中国史を代表する名将であるとして、太公望の侍神の一人(武廟十哲)として祀られるようになり、偉大な軍師・名政治家としての評価が固まることとなった。また民衆の間でも軍師としての諸葛亮像が語られるようになった。この傾向は時代を追うごとに強まり、宋代には神仙のような力を持つ諸葛亮像が生まれるに...

    宋代には『説三分』とよばれる三国時代を題材にした講談が民衆の間で人気を博した。講談の台本として元代に作成されたのが『三国志平話』である。その中で諸葛亮は豆を撒いて兵を作り、風を起こして雨を降らせるなど神仙として描かれている。また諸葛亮は農民出身とされた。

    小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである(このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない)。 『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。 諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。 1. 『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。 2. 赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。 2.1. 非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し、全て言い負かし沈黙させる。 2.2. 非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた、田横の最後を例に挙げ孫権を説得している)。 2.3. 戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したものと言われる)。 2.4. 曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。 3. 赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍...

    『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。 諸葛亮の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である[注釈 5]。また『隋書』によると論前漢事一巻、蜀丞相諸葛亮撰がある。漢詩などはまったく残しておらず[注釈 6]、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には、王朗らの降伏勧告への反論『正議』、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』、また同じく旧蜀の臣寿良も『諸葛亮集』を纏めていたがいずれも、現存していない。 『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が既に死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。 また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して『八陣の図』(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。 諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものが諸葛亮の発明であるとされる[要出典]。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の弩(元戎)や木牛、流馬を開発したと記されている。 1. 晋時代に普及した筒袖鎧 2. 連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた) 3. 一説に一輪車(猫車)の起源とされる木牛 4. 一説に四輪車と言われる流馬 5. 駐留時栽培させた諸葛菜(蕪) 6. 織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦 7. 字を知らない民の教育に使用した紙芝居 8. おもちゃの孔明鎖 9. 孔明灯(現在の雲南省にて諸葛亮発明と伝わる) なお、諸葛亮が...

    諸葛亮の子孫たち

    中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省金華市蘭谿市諸葛鎮にあり、住民3000人のうち8割が「諸葛」姓となっている。国外へ移住した華人を含めて家系図を十数年に一度更新しており、2020年時点では中国国内のほか欧米、東南アジア、日本に合計1万3000人の「子孫」がいる。 近年になって発見された家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)があるとはいえ、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。 清の張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質(諸葛瞻の子)という孫がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘と甥の諸葛望(諸葛均の子)がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。しかし、歴史学者の張崇琛によると、張澍が記した諸葛一族は後世の創作であろうと指摘している。

    陳寿・裴松之 注『正史三国志5 蜀書』井波律子 訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉1992年。ISBN 978-4-480-08045-5
    今鷹真・小南一郎・井波律子著 『三国志Ⅱ』 〈世界古典文学全集24B〉筑摩書房 1982年 ISBN:4-480-20352-4
    中林史朗訳著『諸葛孔明語録』明徳出版社〈中国古典新書続編〉1986年
    渡辺精一訳著『全論諸葛孔明』講談社 2004年
  9. 現代漢語通用字表 - Wikipedia

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    『現代漢語通用字表』(げんだいかんごつうようじひょう、中国語 《 现代汉语通用字表 》 Xiàndài hànyǔ tōngyòng zìbiǎo)は中国 国家語言文字工作委員会と新聞出版総署が1988年 3月25日に発布し、2013年 6月5日まで使用された中国語の規範 漢字表。

  10. 台湾ドラマ - Wikipedia

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    概要 台湾をはじめ、中国や香港などで活躍する俳優、女優が出演することもある。 日本のドラマとの大きな違いとして、題名に英語訳がついている。 例)『流星花園 / Meteor garden』、『ラベンダー / lavender』、『悪男宅急電 / express boy』、『あすなろ白書 / ...