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天明 (てんめい、旧字体: 天明ā)は、日本の元号の一つ。 安永 の後、 寛政 の前。 1781年 から 1789年 までの期間を指す。
天明鋳物(てんみょういもの [1] )は下野国佐野天明(栃木県 佐野市)の地で製造された鋳物あるいは佐野の鋳物師によって製造された鋳物 [2]。その茶釜は福岡県の芦屋釜とともに「西の芦屋、東の天明」と称された [2]。
- 概要
- 噴火の経過
- 記録
- 被害と復興
- 二次被害と影響
- 参考文献
- 外部リンク
現在の群馬・長野県境に位置する浅間山(標高2,568m)は日本を代表する活火山であり、過去に何度も噴火を起こしている。記録に残る最古の浅間山噴火は、日本書紀に記された685年の噴火である。その後1108年に「天仁噴火」と呼ばれるかなり大規模な噴火があったと伝わる。1783年に発生した天明の浅間山噴火は、歴史に残る他のどの浅間山噴火よりも激甚な災害をもたらしたため、詳細な記録が古文書や絵図などで豊富かつ多様に残されている。比較的新しい時代に起きた大噴火であったため噴出物の保存もよい。 天明大噴火は、天明3年4月9日(1783年5月9日)から始まり、7月7日(8月4日)夜〜翌朝頃に最盛期を迎え、結果的に約90日間続いた。大規模なマグマ噴火であり、山体崩壊や二次爆発などが発生した。噴出物総量は4....
最初に鳴動が記録されたのは天明3年4月9日(旧暦)のことであった。その後5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けていた。6月28日頃からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増し、遠地の江戸や銚子などでも戸障子が振動したり降灰が見られたりするようになった。 7月7日(新暦8月4日)の夕方から翌日未明にかけて、噴火はクライマックスに達した。北北東および北北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生し[注 2]、最大10km流れ下って森林を破壊した[注 3]。関東の各地は、降り注ぐ火山灰により昼でも暗闇となった。この頃噴煙柱は高度約1万8,000mに達していたという。この日の夕方、軽井沢では軽...
この噴火の記録は極めて多数の資料や文献に残されている。地元の無量院住職手記といわれる『浅間大変覚書』のほか、天明雑変記、信濃国浅間岳之記、天明浅間山焼見聞覚書、浅間山津波実記、浅間山大焼無二物語、浅間山大変日記など、膨大な記録がある。このほか、杉田玄白による「後見草」にも噴火災害の様子が記されている。 当時の記録によれば、まるで天地が崩れるような恐ろしい災害であったらしく、地震のような激しい鳴動が起き、灰や石、泥などが雨のように降り、人々は生きた心地もしなかったという。山からは熱湯が噴き出して泥火石などが高さ約300m(百丈余)噴出したばかりか、大規模なだれが神社仏閣や民家、草木などを全て押し流し、人馬もろとも流出、あたりは泥の海と化し多数の流死者が出たと伝わる。 噴火開始の記録 吾妻火砕流...
被害の概要
1. 死者 1,624人(うち上野国一帯だけで1,400人以上) 2. 流失家屋 1,151戸 3. 焼失家屋 51戸 4. 倒壊家屋 130戸余り
鎌原村の大被害
被害が最も甚大だったのは、当時宿場町として栄えていた(浅間山北麓の)上野国吾妻郡鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原地区にあたる)であり、火砕流や土石雪崩等の直撃を受けて埋没し、村の人口570人のうち83.7%にあたる477人が死亡した。この時の生存者93人は、高所の鎌原観音堂に避難していた住民らであった。これに加えて、93軒の家屋が破壊され、馬は200頭のうち170頭が死亡したとされる。村の耕地の95%以上が荒廃した。 鎌原村を直撃した鎌原火砕流は、天明大噴火で発生した火砕流のうち最大の規模・破壊力を持つものであった。その流下量は約1億m3であったと推定されている。 埋没した鎌原村は後に、イタリアのヴェスヴィオ山噴火遺跡になぞらえて日本のポンペイとも呼ばれるようになった。1979年から行われたこの地域の考古学的発掘調査によって、鎌原観音堂の埋没した石段の最下部からは2体の女性の白骨遺体が発見された。災害発生時、この2人の女性のうち1人がもう1人を背負って避難しようとしていたが、間に合わずに土石流に巻き込まれて死亡したことがわかった。 なお、長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えら...
その他の地域の被害
軽井沢 報告書によると、信濃国軽井沢宿は以下のような様子であったという(当時の記録に基づく)。 江戸 遠く離れた江戸でも噴火の影響は大きく、約3cm降灰し昼間でも灯りを要するほど暗くなったという。報告書によると以下のような記録がある。 武蔵国金町村(現東京都葛飾区金町)の名主によると「7月9日午後2時頃から江戸川の水が泥で濁り、根を付けたままで折れた木や、粉々になった家財道具・材木などが川一面に流れてきた。中に、損壊した人や牛馬の死骸もたくさん交じっていた。午後8時過ぎから流下物は次第に減っていった」とのことである (浅間山焼記録)。俳人の小林一茶も江戸で天明泥流を経験しており、その様子を『寛政三年紀行』に記している。 その他 現在の岩手県宮古市 (田老) でも降灰があったことや和歌山県田辺市でも鳴動があったことが、近年の調査でわかった。
泥流とその影響
前述の通り、噴火によって発生した大規模泥流は、吾妻川・利根川を流下したため、流域の村々を次々に飲み込んで洪水などによる大被害を与えた。堆積した火山灰は利根川本川に大量の土砂を流出させ、天明3年の水害や天明6年の水害などの二次災害被害を引き起こした。天明泥流の被害を受けた川原畑村(家屋21軒が流れ4人が死亡[注 12])では、天明3年分の年貢が前年の1⁄7以下にとどまる事態になったという。天明大噴火による泥流被害は、後の利根川の治水などにも大きな影響を与えた。長野原町小宿にあった常林寺の梵鐘は、噴火による土石流で押し流されたが、明治43年の大水害後、15km下流で見つかった。また、その龍頭は1983年に嬬恋村今井の川原で発見された。 天明泥流によって深刻な被害を受けた吾妻川・利根川流域には、各地に流死者を供養する碑などが見られる。2021年現在までに、群馬・埼玉・東京・千葉・長野の1都4県で140以上の供養碑や災害記念碑などが見つかっている。文化12(1815)年に建てられた鎌原観音堂の「三十三回忌供養塔」には、 とあり、鎌原村で流死した477人の戒名が刻まれている。 また、天明泥...
天明の飢饉との関連
浅間山の天明大噴火は、天明の大飢饉の原因の1つにもなったと広く認識されている。各地に大量の火山灰を降らせて激しい凶作をもたらしたため、既に各地で進行していた大飢饉に拍車をかけて、結果的に天明の大飢饉をより深刻なものとした。 一方で同じ年には、東北地方北部にある岩木山が噴火(4月13日・天明3年3月12日)するばかりか、アイスランドのラキ火山の巨大噴火(6月8日)やグリムスヴォトン火山の長期噴火等も起き、桁違いに大きい膨大な量の火山ガスは成層圏まで上昇。噴火に因る塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させたことから、北半球に低温化・冷害をもたらしている(#他国への影響も参照)。 いずれにせよ、既に深刻になっていた飢饉に対して、1783年に世界各地で相次いだ火山噴火(浅間山を含む)が拍車をかけて、結果的に事態をより悪化させたのはほぼ確実であると言えよう。
天明上信騒動と政治的な影響
噴火災害により作物がほぼ全滅して深刻な食糧不足が起きたため、上野国・信濃国では百姓一揆や打ちこわしが発生した。これを天明上信騒動という[注 13]。米価が高騰し、米屋の買占めなどがあり、中山道の馬子・人夫・駕籠かきらが米屋を襲撃した。 1783年当時は、老中田沼意次が幕府の実権を握っていた田沼時代であったが、大噴火が一因となった大飢饉とそれに伴う百姓一揆などの結果として、田沼意次を失脚に追い込んだものと考えられている。
井上公夫『噴火の土砂洪水災害—天明の浅間焼けと鎌原土石なだれ—』古今書院、2009年。ISBN 978-4-7722-3121-3。田村知栄子、早川由紀夫「史料解読による浅間山天明三年(1783年)噴火推移の再構築」『地学雑誌』、東京地学協会、1995年12月、843-864頁、NAID 110000379777。『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1783 天明浅間山噴火」』(レポート)内閣府中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会、2006年3月。https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1783_tenmei_asamayama_funka/index.html。1783 天明浅間山噴火 報告書 - 中央防災会議災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 (2006年)天明3年 (1783年) 浅間山噴火 - 国土交通省利根川水系砂防事務所天明3年の大噴火 - 浅間火山博物館ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『天明浅間山噴火』 - コトバンク天明 麻衣子 (てんめい まいこ、 1989年 7月8日 - )は、 年金積立金管理運用独立行政法人 (GPIF)職員、元 フリーアナウンサー 。 かつて ホリプロ に所属していた。 来歴. 神奈川県 横浜市 出身 [1] 。 教育、学生時代の活動. 聖心女子学院初等科・中等科 [2] 、 東京学芸大学附属高等学校 [3] 、 東京大学文学部 卒業 [4] 。 東京大学在学中にNHKの「 テストの花道 」に出演。 職務経歴. 2012年4月から2014年3月、 NHK仙台放送局 で 契約 キャスター として勤務 [5] 。 2014年5月から6月、 JPモルガン投資銀行 本部で勤務し、その後弁護士の夫と共に スペイン へ1年弱移住 [6] 。
- 天ちゃん
- 158cm
用途. 医療用. 鎮痛剤 として多く頓服処方されている。 関節炎 、 痛風 、 腎結石 、 尿路結石 、 片頭痛 、 疼痛 、 歯痛 、 外傷 、 生理痛 、 腰痛 、 筋肉痛 、 神経痛 、小規模から中規模な手術後などの鎮痛目的で使用される。 解熱鎮痛薬の中では副作用が最も少ない部類に入る(副作用がないわけではない)ため、多くの疾患で第一選択薬として使用されている。 デング熱 では解熱鎮痛剤として、アセトアミノフェンが推奨されている( サリチル酸 系統のものは、出血傾向や アシドーシス を助長することから 禁忌 )。 日本では 承認審査体制 の整備前より使用されており、先発品は存在しない。 第2類医薬品 として、「 タイレノール 」や「 ノーシン 」 [注釈 1] が販売される。
天明町(てんめいまち)は、熊本県 飽託郡にあった町。 町名は、当町内を流れる 天明新川 に因る [1] 。 1991年 2月1日 、同郡の 飽田町 、 河内町 、 北部町 とともに 熊本市 に 編入合併 された。
天明3年(1783年)から天明7年にかけて大飢饉がおこり、特に天明3年は東北地方の被害が甚大であった。これは前年の天明2年に西国の凶作によって江戸の米価が急騰したため、江戸に米を売れば大きな儲けになったために備蓄まで売り払ったためであった。