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  1. 二見秋三郎 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/二見秋三郎
    • 経歴
    • 親族
    • 参考文献
    • 関連項目

    神奈川県出身。地主・二見元次郎の二男として生まれる。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)、陸軍中央幼年学校予科、中央幼年学校本科を経て、1916年(大正5年)5月、陸軍士官学校(28期)を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第4連隊付となる。1918年(大正7年)3月から1920年(大正9年)10月までシベリア出兵に出征した。1925年(大正14年)11月、陸軍大学校(37期)を卒業した。 1926年(大正15年)12月、参謀本部付勤務となる。以後、参謀本部員、第3師団参謀、参謀本部員、歩兵第79連隊大隊長、参謀本部員(動員班)などを務め、1936年(昭和11年)3月、歩兵中佐に昇進。1937年(昭和12年)8月、兵科を航空兵に転じ航空兵中佐となる。1938年(昭和13年)3月、航空兵大佐に進み参謀本部付となる。 1938年(昭和13年)月、朝鮮軍参謀に就任し、張鼓峰事件の対応に当たった。1940年(昭和15年)8月、第11軍参謀に転じ日中戦争に出征。同年5月、同軍参謀副長に就任し、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級。1942年(昭和17年)1月、東部軍司令部付に転じて帰国した。 同年5月、二見は第17軍参謀長に発令され太平洋戦争に出征。第十七軍はポートモレスビー攻略のため、ポートモレスビー作戦を開始しようとしていた。同年7月14日、日本海軍は第八艦隊(司令長官三川軍一海軍中将、参謀長大西新蔵海軍少将、先任参謀神重徳海軍大佐ほか)を新編し、第八艦隊は7月30日ニューブリテン島ラバウルに到着した。作戦参謀大前敏一海軍中佐によれば、第十七軍と作戦協定を結んだときに二見参謀長は「米軍は熱帯のジャングル戦には慣れていないから、上陸してくれたらむしろチャンスだ。必ず撃滅してみせる」と語っていたという。三川長官も日本陸軍の意気込みに頼もしさを抱いていた。直後の8月7日、連合国軍はガダルカナル島に来攻してガダルカナル島の戦いがはじまる。二見参謀長は十分な兵力と弾薬・糧食の補給なしの作戦発動を控えるべきとの意見を表明していたため更迭された。大本営陸軍部参謀辻政信中佐は「二見参謀長は病気のため宮崎周一少将とその職を交代した」と回想している。9月29日に内報をうけた宮崎少将は大本営陸軍部より事情を説明されている。宮崎少将は10月6日にラバウル到着、翌7日に...

    義父 長谷川国太郎(陸軍少将)
    義弟 長谷川寿雄(陸軍中佐)
    娘婿 平林克巳(陸軍少佐)
    軍事史学会「ガダルカナル島作戦秘録『残骸録』」『防衛研究所図書館所蔵 大本営陸軍部作戦部長 宮崎周一中将日誌』錦正社、2003年6月。ISBN 4-7646-0316-0。
    外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
    リチャード・F・ニューカム(著)、田中至(訳)『サボ島沖海戦 米海軍史上最大の敗北』光人社〈光人社NF文庫〉、1998年4月(原著1963年)。ISBN 4-7698-2192-1。
    秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  2. 南太平洋海戦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/サンタ・クルーズ諸島沖海戦

    太平洋海戦(みなみたいへいようかいせん)は [1]、1942年 10月26日にソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦のこと [2]。 アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands) [3]。日本軍は空母翔鶴と瑞鳳が大破・ ...

    • 空母1沈没, 駆逐艦1沈没, 空母1損傷, 戦艦1損傷, 軽巡洋艦1損傷, 駆逐艦1損傷
    • アメリカ合衆国
  3. 孀婦岩 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/孀婦岩
    • 地理
    • 歴史
    • 生物相
    • 関連項目
    • 外部リンク

    東京の南約650 km、鳥島の南約76 kmに位置する標高99 m、東西84 m、南北56 m、面積0.01 km2の顕著な黒色孤立突岩。火道内のマグマが硬化してできた典型的な岩頸である。日本放送協会(NHK)や産業技術総合研究所等による海底から陸上までの調査により、岩質は海底部分は玄武岩であり、海上部分は安山岩であることが判明している。頂上付近には水面に対して垂直方向の柱状節理が認められる。 2003年に活火山の基準が見直された際に、新たに活火山に選定された。カルデラ式海底火山の外輪山にあたり、孀婦岩の南西2.6 km、水深240 mには火口がある。海底から海上に及ぶ形状は、ケーキに立てられた1本のろうそくにも例えられる。 その形状のために上陸することは困難であるが、1972年に早稲田大学の学生が上陸、登頂に成功したほか、2003年にもロッククライミングで登頂した例などが存在する(ただし転落事故も記録されている)。2017年5月には増本亮らクライマー2人、NHKカメラマン2人の計4人が上陸に成功している。 周辺は航海の難所ながら、豊かな漁場として伊豆・小笠原漁民に知られる。また、高い透明度と豊富な魚影からスキューバダイビングの聖地とする人も多い。

    孀婦岩について初めて確実な記録を残したのは、イギリス帝国のジョン・ミアーズ(英語版)であった。彼は交易のため2艘の船団でマカオを出発、ミンダナオ島を経て北アメリカに向かう途上で孀婦岩を目撃した。ミアーズの記録によると1788年4月9日、彼は初めてこの岩を目撃し「その岩に近づくにつれ、我々の驚きはより大きくなった。船員たちは何か超自然的な力が、この岩の形を現在の形に突然変えたのだ、と強く信じたがっていた」と書き記した。 ミアーズは、この岩をその不思議な形から、『旧約聖書』創世記19章26節に記された、神の指示に背いたために塩の柱に変えられてしまった人物に見立てて「Lot's wife(ロトの妻(英語版))」と名づけた。ミアーズの報告と実際の岩の位置は経度が大きく異なっており、実際よりも17度も東にされているが、その他の部分では正確な緯度が記録されているため、測量ミスではなく元テキストの誤記、誤植が原因であると考えられる。 日本語文献では、1885年の『寰瀛水路誌』(海軍省水路局刊)に初めて「孀婦岩」の名が現れる。「孀婦」とはやもめの意味であるが、これは「Lot's wife」を意訳したもので、やがて音読して「そうふ」と読まれるようになったと考えられる。今日では「そうふいわ」と呼ばれることも多い。聖書に由来することが確定している日本の地名は珍しい。 周辺では海底火山が活動中であり、1975年に北約500mの海域に緑色の変色水の発生が観測されたが、火山活動との関連性は不明である。 戦後、1946年(昭和21年)3月22日に伊豆諸島が本土復帰してから、1952年(昭和27年)2月10日に吐噶喇列島が本土復帰するまで、この岩は日本の最南端であった。

    海鳥の生息地となっているため、島は鳥の糞で白くなっている。2017年の調査で新種と思われる通常の3倍程のウミコオロギの仲間が発見されている。 17種類の海鳥が棲息しており、岩に棲みついているウミコオロギや2018年5月の調査ではハサミムシの体が巨大化していることが確認されている。 通常狭い島などでは小型化しやすいが、巨大化した原因としては、少ない獲物をめぐり争う上で有利であり、なおかつ捕食者がいないためだと推測されている。

    針之岩 - 小笠原諸島の聟島列島にある岩塔状の島。
    ナポレオン岩 - 甑島列島の下甑島沖にある岩塔状の島。
  4. ポートモレスビー作戦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/レ号作戦
    • 背景
    • 参加兵力
    • ブナ・ゴナの戦い
    • 参考文献
    • 外部リンク

    開戦後、グアムの攻略につづきニューブリテン島のラバウルを攻略した日本陸軍の南海支隊の1個大隊が、1942年3月7日サラモアに上陸し、同日に日本海軍の陸戦隊がラエへ上陸した。同年5月、日本陸軍と日本海軍は協力してポートモレスビーを攻略するため、第一航空艦隊の一部と第四艦隊で「MO作戦」の実施を決定し、ソロモン諸島ツラギの攻略は妨害こそあったが成功した。しかし、肝心の海路によるポートモレスビー攻略を珊瑚海海戦でアメリカ海軍に妨害され、日本海軍は中止してしまった。さらに、同年6月に生起したミッドウェー海戦における日本海軍の敗北が影響し、サモア諸島及びフィジー諸島攻略(FS作戦)は中止されることになった。これによってソロモン諸島・ニューギニア方面の拠点であるラバウル基地(ラバウル航空隊)は一層重要度を増した。それは、ラバウルの安全を脅かすポートモレスビーの攻略が重要性を増すのと同義であった。 日本陸軍は東部ニューギニアのオーエンスタンレー山脈(最高峰4,000メートル)を越え、直線距離にして220キロを陸路で侵攻するポートモレスビー攻略作戦「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を実施するため、新設された第17軍に南海支隊(支隊長:堀井富太郎陸軍少将)を編入、第17軍に対して作戦名をリ号研究と称した偵察を命じた。南海支隊は第55師団の一部の歩兵第144連隊(高知)と山砲兵第55連隊第1大隊などで編成されていたが、FS作戦に投入される予定であった歩兵第41連隊(福山)とマレー作戦に投入された独立工兵第15連隊を編入し、強化が図られた。 大本営はリ号研究の結果を待って作戦の可否を決定することにしていた。しかし、7月15日に大本営参謀辻政信中佐がダバオの第17軍司令部を訪れた時に、「今や『リ号』は研究にあらずして実行である」と述べて、大本営が陸路攻略を決定したことを通知し、これを受けて第17軍は18日に攻略命令を出した。ところが、7月25日に服部卓四郎大本営陸軍部作戦課長から第17軍に、リ号研究の結果について照会する電報が送られた。だが、これによって辻が独断専行によって命令をすり替えていたことが判明したにもかかわらず、それが問題になることもなく、作戦はそのまま実行されることとなった。 一方、ミッドウェー海戦で勝利を収めたアメリカ海軍は逆にラバウルを奪還するため、手始めに同年6月...

    日本軍

    陸軍 1. 第17軍(司令官:百武晴吉中将)・第18軍(司令官:安達二十三中将) 1.1. 南海支隊(歩兵第144連隊基幹)- 支隊長:堀井富太郎少将(戦死)、小田健作少将(後任。戦死) 1.1.1. 配属 - 歩兵第41連隊、独立工兵第15連隊、独立高射砲第47大隊、高砂義勇隊ほか 1.2. 独立混成第21旅団主力(司令部及び歩兵第170連隊から2個大隊)- 旅団長:山県栗花生少将 2. 第38師団 歩兵第229連隊第3大隊 海軍 1. 横須賀第5特別陸戦隊主力 - 司令:安田義達大佐(戦死)、兵力285名 2. 佐世保第5特別陸戦隊の一部 - 兵力108名 3. 第15設営隊- 警備兵約100名、軍属560名 4. 第二艦隊第十八戦隊 - 軽巡洋艦天龍、龍田など(1942年7月のブナ・ゴナでの上陸支援)。

    連合軍

    アメリカ軍 1. 第1軍団(司令官:ロバート・アイケルバーガー少将) 1.1. 第32師団 1.2. 第41師団 オーストラリア軍 1. 第7師団 1.1. 基幹 第18旅団、第21旅団、第25旅団 2. 第6師団第16旅団 3. 第30旅団

    この戦いは日本軍のポートモレスビー陸路攻略作戦の拠点であるブナ・ゴナ地区の攻略を目指して進攻してきた連合軍と防衛する日本軍の間で行われた戦いである。 撤退してきた南海支隊主力はブナ・ゴナ地区において、工兵や輜重兵などの支援部隊や、ミルン湾から撤収してきた安田義達率いる海軍陸戦隊によるブナ守備隊と合流した。ブナ・ゴナ地区はブナ・ギルワ・バサブアの三拠点から成り立っていた。

    防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『戦史叢書14 南太平洋陸軍作戦(1)ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 朝雲新聞社、1968年
    防衛庁防衛研修所戦史室(編) 『戦史叢書28 南太平洋陸軍作戦(2)ガダルカナル・ブナ作戦』 朝雲新聞社、1969年
    御田重宝著『東部ニューギニア戦 - 進攻篇』、講談社〈文庫〉、1988年、ISBN 4-06-184298-6
    御田重宝著『東部ニューギニア戦 - 全滅篇』、講談社〈文庫〉、1988年、ISBN 4-06-184299-4
    John Moreman; Hajime Marutani. “ココダ-日本軍の攻勢とオーストラリア軍の後退” (日本語). Australian War Memorial. 2009年12月24日閲覧。
    John Moreman; Hajime Marutani. “後期のココダ戦” (日本語). Australian War Memorial. 2009年12月24日閲覧。
    John Moreman; Hajime Marutani. “ブナ” (日本語). Australian War Memorial. 2009年12月24日閲覧。
    田中宏巳. “日本にとっての太平洋戦争とニューギニア戦” (英語/日本語). 2009年12月24日閲覧。
  5. ペリリューの戦い - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ペリリューの戦い
    • 背景
    • 戦力比較
    • 戦闘経過
    • ペリリュー戦への評価
    • 両軍の損害
    • ペリリュー島の島民
    • 伝承など
    • ペリリューの戦いを扱った作品
    • 関連項目
    • 外部リンク

    日本側の事情

    パラオは第一次世界大戦後に国際連盟による日本の委任統治領となり、1922年南洋庁がコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。日本人はパラオに米食の習慣を定着させ、なすやきゅうりなど野菜やサトウキビ、パイナップルなどの農業を持ち込み、マグロの缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、電気を通し、電話を引いた。南洋興発などの企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であった。 国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオへ要塞など軍事的な根拠地を構築することは禁止されて、パラオ本島(バベルダオブ島)に民生用として小規模な飛行場があるだけだったが、国際連盟脱退後はパラオは重要な軍事拠点のひとつとして整備が進められた。1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に飛行場の新規建設が開始され、1941年太平洋戦争開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交...

    アメリカ側の事情

    太平洋方面のアメリカ軍首脳部は、マリアナ攻略戦の最中に今後の進撃ルートの再検討を始めた。アメリカ海軍チェスター・ニミッツ提督は「マリアナの後、フィリピン、台湾を目指し、台湾を拠点として海上封鎖とアメリカ陸軍航空軍による戦略爆撃で日本を降伏に追い込む」のを目指していた。アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将は「ニューギニア西方に位置するモルッカ諸島のモロタイ島からフィリピンのミンダナオ島、レイテ島を経由して、日本本土侵攻」をも視野に入れていた。 するとアーネスト・キング海軍作戦部長が「南方資源地帯と日本本土の間のシーレーンを遮断するため、フィリピンは迂回して台湾に上陸、中国大陸沿岸部の到達を目指すべきで、最終的に日本本土を攻略」と主張し出して混乱し、そこへサイパンの戦いで上陸部隊を統率しているアメリカ海兵隊ホーランド・スミス中将が米陸軍第27歩兵師団 (アメリカ軍)(英語版)長ラルフ・スミス(英語版)陸軍少将を「攻撃精神と指導力の不足」を理由に解任したことで「スミスVSスミス」と呼ばれる大問題となり、陸海軍の混乱は収拾がつかなくなった。 結局フランクリン・ルーズベルト大統領の指示に...

    日本軍

    1. 陸軍 1.1. 総員 約10,500名 1.2. 第14師団歩兵第2連隊(連隊長:中川州男 大佐) 1.2.1. 第14師団派遣参謀:村井權治郎少将 1.3. ペリリュー地区隊本部 1.3.1. ペリリュー地区隊直轄部隊 1.3.1.1. 歩兵第2連隊 第1大隊:市岡秀衡大尉 1.3.1.2. 歩兵第2連隊 第3大隊:原田良男大尉 1.3.1.3. 歩兵第15連隊 第2大隊:飯田義栄少佐(増援として9月22日から24日にかけパラオ本島からペリリュー島へ逆上陸) 1.3.1.4. 第14師団戦車隊:天野国臣大尉 1.3.1.5. 歩兵第2連隊 砲兵大隊:小林与平少佐 1.3.1.6. 歩兵第2連隊 工兵中隊:五十畑貞重大尉 1.3.1.7. 歩兵第2連隊 通信中隊:岡田和雄中尉 1.3.1.8. 歩兵第2連隊 補給中隊:阿部善助中尉 1.3.1.9. 歩兵第2連隊 衛生中隊:安島良三中尉 1.3.1.10. 海上機動第1旅団輸送隊 第1中隊:金子啓一中尉 1.3.1.11. 第14師団経理勤務部:山本孝一少尉 1.3.1.12. 第14師団野戦病院:大塚高麿中尉 1.3.2....

    アメリカ軍

    1. 総員 48,740名 1.1. 第1海兵師団24,234名 1.2. 第81歩兵師団19,741名 1.3. 付属海軍部隊 4,765名 2. アメリカ側装備 2.1. 小銃、自動小銃41,346挺 2.2. 機関銃1,434挺 2.3. 拳銃3,399挺 2.4. 火砲729門 2.5. 戦車117両 2.6. バズーカ砲180基 2.7. 戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ) 2.8. 重巡洋艦5隻(インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド) 2.9. 軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル) 2.10. 駆逐艦14隻 2.11. 航空母艦3隻 2.12. 軽空母5隻 2.13. 護衛空母11隻 日本側の朝鮮人労働者数(軍属)を兵数としてカウントするべきか否かは議論の余地があるが、実質的に日本軍の兵力はアメリカ軍の6分の1以下だったと言える。また戦力差については航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃等を考慮するとアメリカ側が少なくとも数十から数百倍の火力で日本軍を圧倒している。 アメリカ軍は、日本側の暗号電報や...

    水際での死闘

    アメリカ軍は8月下旬からビアク島などニューギニア北西部からの陸軍爆撃機、9月6日からの海軍艦載機による予備爆撃に加え、9月12日からは戦艦5隻(ペンシルバニア、メリーランド、ミシシッピ、テネシー、アイダホ)、重巡洋艦5隻(コロンバス、インディアナポリス、ルイビル、ミネアポリス、ポートランド)、軽巡洋艦4隻(クリーブランド、デンバー、ホノルル)、駆逐艦14隻からの艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火も始めて、島内のジャングルを焼き払った。 上陸前と上陸時の支援として撃ちこまれた艦砲は合計6,894トンにおよび、支援射撃を指揮していたジェシー・B・オルデンドルフ少将は当時としてはもっとも完全でいかなる支援より優れていたと評価していた。3日におよぶ激しい砲爆撃は、構築された障害物や防御施設を見渡す限り吹き飛ばしたが、それらはアメリカ軍の上陸を遅延させるために設置された偽装にすぎず、日本軍の主抵抗線はほとんど無傷であった。日本軍はアメリカ軍の上陸が予想される日本軍が西浜と呼称していた南西部海岸に「イシマツ」「イワマツ」「クロマツ」「アヤメ」「レンゲ」と名付けた陣地を事前に構築していたが、それ...

    飛行場付近での戦い

    翌9月16日、2日目になってようやくアメリカ軍の前線の兵士にも飲料水が届けられたが、燃料用のドラム缶に入れられてきたため、水は錆と油で濁っており、飲んだアメリカ兵の多くが体調不良となった。またアメリカ兵の多くが夜間に切れ間なく撃ちこまれていた日本軍の砲撃で十分に休息が取れていなかった。そんな中で朝にリュパータス師団長ら師団幕僚が戦況把握のためにペリリュー島に上陸したが、戦況を確認すると不機嫌になり、上陸当日に最も苦戦し大損害を被っていた海兵第1連隊連隊長ブラー大佐を「もっと早く前進できんのか?馬鹿者どもが、ブラー、貴様は全力を出して、結果を出せ!俺の言ってることが、わかるだろ、この馬鹿ものが」と激しく罵倒し、第1海兵連隊には現状の膠着状態を打破し前面の高地を攻略、第5海兵連隊には飛行場の攻略、第7海兵連隊には島南端までの制圧を命じた。 海岸に構築されていた各陣地は上陸初日の戦いでアメリカ軍に攻略されていたが、イシマツ陣地は頑強な抵抗を続けていた。イシマツ陣地の後方には、これまでアメリカ軍に痛撃を与えてきた砲兵隊が展開している山岳地帯があり、アメリカ軍は16日中にイシマツ陣地を撃破...

    ブラッディノーズ・リッジ(鼻血の尾根)の戦い

    海岸地区や飛行場周辺の攻防では、アメリカ軍に多大な損害を与えたものの、日本軍陣地と部隊もほぼ壊滅したため、中川大佐はかねてよりの師団作戦命令の通り、ペリリュー島の山岳地帯に500個以上は存在すると思われる洞窟を駆使した持久戦術に移行した。「外に出て攻撃を仕掛けると、戦車と航空機と艦砲射撃が待ち構えている。その手には乗らず、敵が近づいて来たら狙撃せよ。容易く死なずに永く生きながらえて一人でも多くの敵を殺せ」と厳命した。 アメリカ軍は太平洋の他の島で繰り返された、日本軍の盲目的なバンザイ突撃を圧倒的な火力で撃滅するという展開を望んでいたが、その傾向は全く見えず、後にペリリュー守備隊を称して「これまで出会った中では、最も優秀と思える兵士で、率いる将校も、敵の圧倒的な火力の前に無駄死にする無意味さを理解し、アメリカ軍の術中にはまらない決意に満ちていた。」と評価している。 2日目までに1,000名の死傷者を出した第1海兵連隊は「ブラッディノーズ・リッジ」の攻略を命じられた。高地を進むアメリカ軍に対し日本軍は洞窟陣地を駆使して激しく抵抗した。洞窟陣地は内部で連絡されており、相互に支援できるよ...

    アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせることによって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行することに成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器および小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がることとなった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価している。 アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられている。 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となった。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後のことであり、その時点では大きな戦略的価値を失っていた。そのため、アメリカ国内においても、ペリリュー戦はほとんど顧みられることはなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていた。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつものことだよ。」と自虐気味に振り返っている。 アメリカ軍高官の中でも第3艦隊のウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評...

    日本軍(軍属を含む) 1. 戦死者 10,022名~10,695名 2. 戦傷者 446名(生存者を含む)。生還できたのは、残存者34名と捕虜302名。捕虜の多くは朝鮮出身の軍属で、戦闘開始早々に米軍に投降した。実際の戦闘員で捕虜になったのは負傷などで体の自由がきかなかった14名のみ。 アメリカ軍 1. 戦死者1,684~戦死者 2,336名 2. 戦傷者7,160~ 戦傷者 8,450名 1. 戦病者 数千名。第81歩兵師団だけで2,500名以上、第1海兵師団も含めると5,000名以上いるという説がある。

    ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から1944年8月にかけて島民はパラオ本島とコロール島に疎開させられたので、戦闘による死傷者は出なかった。 現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年か)。 陣地構築にかり出された島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、中川は島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受けたが、中川は「貴様らと一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」と拒否している。島民は、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、ペリリュー島北部のガラコル波止場で疎開のために日本軍が準備した大発動艇に乗り込んだが、大発が島を離れた瞬間、その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきた。中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいた。その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、信頼に足る日本軍人たちであったと理解したという。 戦後、疎開させられた島民の一部は、南部が廃墟となったため北部に帰ってきて定住したが、戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。 当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。 日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている。

    ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説

    「ペリリュー島の激戦場で、若い日本女性がアメリカ軍海兵隊に機関銃を乱射して86名を殺傷したのちに玉砕した」という伝承がペリリュー島で語り継がれているとされる。それを最初に日本で紹介したのは戦記作家の児島襄とされ、「最後の1兵は女性だった、と語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」という戦記文で、その場に居合わせたアメリカ軍海兵隊員スキー軍曹から目撃談を聞いたバート・尾形という日系人の「彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。そのとき、彼女は機関銃を乱射した。その機銃座の抵抗は激しく、海兵隊の死傷は86人をかぞえた。スキー軍曹も攻撃隊に加わっていたが、あまりにも激しい射撃に斜面にへばりついた」「ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意をひいている間に、背後に迂回しやっと射殺した。勇敢な日本兵に敬意を表すべく近づくと、破れた軍服からのぞく肌の白さに女性とわかり、深い感銘を受けた」という証言を紹介している。その後にこの女性は「ペリリューのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、書籍が出版されたり、伝承に基づいたテレビドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』が放映され...

    ペ島の桜を讃える歌

    名越二荒之助によれば、パラオ共和国が誕生した時、同島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている。 名越の記述は舩坂弘著『血風ペリリュー島』(1981年、叢文社)から引用されたものとされるが、舩坂本では「作詞:沖山トヨミ・庄子シゲオ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ 監修:舩坂恵子・蜂巣一郎 指導:舩坂弘」と記述され、日本人による「監修」「指導」まで明らかにされているが名越の本では省略されている。なお、舩坂弘の『血風ペリリュー島』は2000年に「ペリリュー島玉砕戦」と改題され出版されているが、ペリリュー島の桜を讃える歌の記述は削除されている。 「ペ島の桜を讃える歌」は後述サンケイ新聞社の住田良能記者が1978年にペリリュー島を取材した時に記録された「緑の島の墓」(作詞:小学校副校長ウィンティー・トンミ 作曲:妻のアントニア)と曲(メロディー)同じである。1981年「ペ島の桜を讃える歌」は1978年以前に作られていた「緑の島の墓...

    書籍

    和書 1. 『中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書6〉、1967年。 2. 『中部太平洋陸軍作戦(2)ペリリュー・アンガウル・硫黄島』防衛庁防衛研修所戦史室 編、朝雲新聞社〈戦史叢書13〉、1968年。 3. 児島襄、『天皇の島』、講談社、1967年、角川文庫。小説 4. 児島襄 『指揮官』 文藝春秋、1974年12月。ISBN 978-4167141011。 4.1. 『児島襄戦史著作集 vol.7』にも収録、文藝春秋、ISBN 4-16-509470-6 5. 新井恵美子『パラオの恋―芸者久松の玉砕』ブレーン、2013年。ISBN 978-4864270823。 6. 小田実、『玉砕』、新潮社、1998年。小説。ドナルド・キーンにより英訳された。 6.1. 共著、『玉砕/GYOKUSAI』(岩波書店、2006年)にも収録、ISBN 4-00-022549-9 7. 舩坂弘、『ペリリュー島玉砕戦』、光人社、2000年、ISBN 4-7698-2288-X 8. 星亮一、『アンガウル、ペリリュー戦記 玉砕を生きのびて』、河出書...

    雑誌記事

    1. 西部邁「流言流行への一撃【76】 ペリリュウの英霊に参拝す 番外編」『VERDAD』2005年11月号。 2. 西部邁「平成哲学指南 =番外編=ペリリュウの英霊に忘恩を謝して」『時局』2005年12月号。

    ゲーム

    1. コール オブ デューティ ワールド・アット・ウォー

    “ペリリュー島 終わりなき持久戦 ~茨城県・水戸歩兵第2連隊~” (日本語). NHK 戦争証言アーカイブス. 日本放送協会 (2008年5月26日). 2016年9月7日閲覧。
  6. 真珠湾攻撃 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/真珠湾攻撃

    真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、日本時間 1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間 12月7日)は、第二次世界大戦において日本海軍が、アメリカ合衆国のハワイ準州 オアフ島 真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対 ...

  7. クンドゥカイ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/クンドゥカイ

    クンドゥカイ(モンゴル語: Qunduqai,中国語: 渾都海,? - 1260年)とは、モンゴル帝国に仕えたトランギト・ジャライル氏族出身の軍団長の一人。 帝位継承戦争ではアラムダールとともにアリク・ブケ派の主力軍の指揮官として活躍したが、最終的にはクビライ派の軍勢 ...

  8. ウェスティングハウス・エレクトリック - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ウエスティングハウス
    • 概略
    • 現存する同名企業
    • 沿革
    • ウェスティングハウス・ブランドのライセンス
    • 関連項目
    • 外部リンク

    19世紀後半、エジソンと同時代の発明家、ジョージ・ウェスティングハウスがその発明を事業化したのが始まり。創業期においてウィリアム・スタンリー、ニコラ・テスラら天才的な技術者を多数擁し、交流、特に三相交流発送電による電力事業を開拓、その技術を確立した。これをイギリスのチャールズ・マーズが採り入れようと長いこと政治の世界と綱引きをして、やがてナショナル・グリッドという全国的送電網を企業体として成立させる流れにつなげた。 また主要な陸上交通であった鉄道の動力装置や、自動空気ブレーキシステム等、基礎となる安全技術の発展に貢献した。放送の黎明期においても、主要都市にラジオ・テレビ局を次々と開局。CBSを買収した当時、ウェスティングハウスが保有していたテレビ局が5局あったが、CBSの加盟局でなかった3つの都市のテレビ局はネットチェンジが行われた末、CBSの直営局となっている。また、自らテレビ番組の製作部門も持っていた。 以来、電気、機械関係を中心に軍事用・民生用の双方で多岐に渡る事業を展開。1950年代以降は加圧水型原子炉(PWR)の開発・製造で独占的地位を占めた。 しかし、1980年代頃からそれまでの中心事業の売却や分離が相次ぐようになる。1997年には放送以外の大半の事業を売却し、社名も伝統的なウェスティングハウスからCBSコーポレーションへ変更した。1998年には最後に残っていた製造部門である原子力部門も英国核燃料会社 (BNFL)社に売却した。 そして最終的に1999年、CBSコーポレーション本体もバイアコムによって買収され、1886年に創業したアメリカの歴史的企業はその幕を閉じた。

    ウェスティングハウス・エレクトリック・コーポレーション(英語版)とウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニーの2社は旧ウェスティングハウス・エレクトリックの流れを汲み、現在も同名で商売を行っている。 「コーポレーション」はCBSコーポレーションが1998年に新設した子会社で、「ウェスティングハウス」の商標・ブランドの管理をおこなっている。現在はCBSコーポレーション(旧バイアコム。旧WECの同名会社とは別会社)の傘下にあり、この会社からのライセンスにより、ウェスティングハウス・ブランドの液晶テレビなどの製品が販売されている。 「カンパニー」(現ウェスチングハウス・エレクトリック社)はCBSコーポレーションが1998年に売却した、旧WECの原子力部門で英国核燃料会社(BNFL)を経て、2006年からは東芝グループとなっている。多国籍企業として原子力関連事業を運営していた。2017年3月29日に米連邦倒産法第11章の適用をニューヨーク州連邦裁判所に申請した。

    1880年代、1890年代(創業期)

    1. 1886年、発明家のジョージ・ウェスティングハウスにより、ペンシルベニア州ピッツバーグにてウェスティングハウス・エレクトリック・カンパニー(Westinghouse Electric Company )として創業する。最初の特許申請は「発電のシステム」だった。 2. 1888年、ジョージ・ウェスティングハウスはニコラ・テスラから多相交流システムと誘導モーターの特許を取得した。 3. 1889年、社名をウェスティングハウス・エレクトリック&マニュファクチャリング・カンパニー(Westinghouse Electric & Manufacturing Company)に変更。 4. 1890年、最初の長距離送電線を導入。ウィラメット滝からオレゴン州ポートランドまでの14マイルをカバーした。 5. 1891年、世界初の商業用交流発電システム(エームズ水力発電プラント)を建設。高圧送電線で、カリフォルニア州ポモナ、サンアントニオキャニオン、サンバーナーディーノを繋ぐ。 6. 1893年、シカゴ万国博覧会を50万個のライトでライトアップし、二相交流発電機や配電システムを展示。送電方法...

    1900年代〜1920年代(事業拡大・変革期)

    1. 1900年、ハートフォード電灯社のために蒸気タービン発電機を製造。既に50000人近くを雇用する企業となっていた。 2. 1901年、コネチカット州ブリッジポートのブライアント・エレクトリック・カンパニーを買収(ブライアント・エレクトリック・カンパニーは子会社として存続)。 3. 1904年、東ピッツバーグ研究所に6人からなる工業研究部門を設立。 4. 1906年、正式に研究部門を設立。 5. 1909年、初のタングステン・フィラメント電球を発売。 6. 1910年、ジョージ・ウェスティングハウスが会社を引退。 7. 1911年、米海軍軍艦ネプチューン(英語版)の電力を供給する歯車伝動蒸気タービン駆動装置を導入。 8. 1914年、ミシガン州フリントのコープマン電気ストーブ株式会社をロイド・グロフ・コープマンより買収、同社をオハイオ州マンスフィールドに移転し、家庭機器市場へ参入(その後、1974年にホワイト社に売却)。 9. 1914年、ジョージ・ウェスティングハウスが死去、生涯に361の特許を取り、60の企業を設立した。 10. 1915年、ニューイングランド・ウェスティ...

    1930年代、1940年代

    1. 1930年代 粒子加速器を開発し、原子力開発時代の幕を開ける。MHD発電を発明。 2. 1931年、当時アメリカで最大の商用船舶であったSSプレジデントクーリッジ(英語版)を電化する。 3. 1932年、イグナイトロン水銀整流器を発表する。 4. 1934年、オハイオ州マンスフィールドに「明日の家(Home of Tomorrow )」をオープンし、同社の家庭用機器のデモを行う。 5. 1935年、世界最長の連続電気式スチール焼鈍炉を、ミシガン州ディアボーンのフォードモーターに完成させる。 6. 1937年、原子核研究の目玉として最初の工業用粒子加速器を製造した。 7. 1940年代 航空機搭載レーダー、ジェットエンジン、地上空港用照明にて航空産業に参入(防衛用電子機器は1999年に売却)。 8. 1941年、グランド・クーリーダムで同社製水力発電機が稼働開始。同年、同社の労働組合、および米国労働者協会活動との争議の後、労働者側を支持する連邦高裁の決定を受けて、全米電気ラジオ機器労働者連合との間に全米労働者協約を締結する。 9. 1941年、1925年から傘下の機械・歯車メ...

    1886年に設立されたオリジナルの総合電機メーカーは買収により消滅しているものの、現在、ウェスティングハウスのブランド名で数多くの製品が販売されている。これらは1998年CBSコーポレーション時代にその子会社として設立された、新しいウェスティングハウス・エレクトリックが、他の製造業者に対してブランド名をライセンスしたものである。現在は現CBSコーポレーション傘下の「ウェスティングハウス・ライセンシング・コーポレーション(Westinghouse Licensing Corporation)」がブランド管理会社として運営されている。 いくつかの製品は、旧来のウェスティングハウス・エレクトリックで手がけていた分野のものある。しかし、現在は旧来のような製造業としてのウェスティングハウス・エレクトリックが存在していないため、ウェスティングハウス・エレクトリックが製造したものでないのはもちろんのこと、現在のブランド管理会社のウェスティングハウス・ライセンシング・コーポレーションで積極的に品質管理を行っているものでもない。

  9. 西気東輸 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/西気東輸

    西気東輸(せいきとうゆ)は、中国西部の天然ガスを中国東部沿岸地域に輸送する構想であり、西部大開発の南水北調、西電東送、青蔵鉄道と並ぶ国家プロジェクトの1つである。 概要 中国の主要ガス田は中国西部に集中し、需要地は中国東部沿岸地域に集中している。

  10. アラムダール - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/アラムダル
    • 概要
    • 帝位継承戦争
    • 参考文献

    来歴

    アラムダールの出自については不明な点が多いが、ペルシア語由来の名称であること、アリク・ブケに対して「我らを羊のように首を切って殺すのか?」と発言していることなどから、ヤラワチのようにペルシア語文化圏(ホラズムなど)出身のムスリムであると見られている。 『世界征服者史』や『集史』「モンケ・カアン紀」によると、アラムダールはビチクチとしてモンケに仕えていたという。1251年に第三代カーンたるグユクの後継者を決めるクリルタイの開催が決定された際には、チャガタイ・ウルス君主イェス・モンケの下へクリルタイへ開催を伝える使者として派遣されている。 1251年のクリルタイでモンケが第四代カーンに推戴されると、アラムダールはカラコルム留守司コンコルの副官に任ぜられた。史料上に明記されてはないものの、この時アラムダールはブラルグチ(遺失物管理官)の職に就いていたと見られている。

    クビライ勢力の監査

    1251年、カーンに即位したモンケは周辺諸地域の征服活動を再開し、西アジア方面では三弟フレグを、東アジア方面では次弟クビライを遠征軍の司令官に起用した。フレグが西方で快進撃を続ける反面、クビライは大理国の征服後華北の経営に専念し、最大の攻略対象たる南宋への攻撃を始めようとしなかった。このようなクビライの態度にモンケは不満を抱き、遂にクビライの遠征軍司令官からの更迭・アラムダールらによるクビライ領の監査が行われる事態に陥った。 この時アラムダールは陝西等処行尚書省左丞相として同参知政事劉太平らとともにクビライ領の京兆地方に乗り込み、クビライ領監査のため鉤考局を設置した。更にアラムダールは監査を進める中でクビライが設置した行政管理庁の宣撫司を締め上げ、その官吏の多くを処刑してしまった。この時難を逃れたのは劉黒馬・史天沢や廉希憲ら一部の者のみであり、これらの者達は後の帝位継承戦争にて皆クビライ側につきアラムダール及びアリク・ブケ勢力に敵対した。 このような事態に対し、クビライは姚枢の助言に従ってモンケに直接面会し釈明することとした。モンケとの面会によってクビライの容疑は晴れ、アラムダー...

    クビライが東アジア遠征司令官から更迭されアラムダールの監査を受けている間、首都カラコルムではカーンたるモンケ自身が南宋遠征軍を率いる計画が進行していた。更にモンケとクビライの和解が実現すると、南宋攻略はモンケ、クビライ、タガチャルの三名が率いる3軍によって進められることとなった。 モンケは末弟のアリク・ブケとアラムダールに首都カラコルムの指揮を委ねて出発したが、遠征の途上で病にかかり急死してしまった。同じく遠征の途上にあったクビライはモンケの訃報を聞いて自らカーン位に即くことを決意し、タガチャル軍も味方につけ開平クリルタイにて即位を宣言した。一方、首都カラコルムの指揮を任されていたアリク・ブケはアラムダールら旧モンケ政権幹部らの後押しを受け、カラコルムにてクリルタイを開催しカーン位に即いた。ここでモンゴル帝国では始めて2人のカーンが並立する事態に陥り、建国以来最大の内戦が勃発した。 アリク・ブケ勢力とクビライ勢力を比較すると、前者は正当性という点で優位にあったが、後者は南宋遠征軍の主力をそのまま抱えており、軍事面では優位にあった。そこでアラムダールはまず漠北で兵を徴集し、後にクビライの拠点の1つドロン・ノール(後の上都開平府)に接近し現地の軍を接収しようとした。この時、ドロン・ノールにいたクビライの妻チャブイはアラムダールに対し「太祖チンギス・カンの曾孫チンキム(クビライとチャブイの息子)がここにいるのに、何の故を以てアラムダールは軍を動かすのか?」と述べてアラムダールの行動を峻拒し、アラムダールはやむなくドロン・ノールより引き上げた。 各地で兵を徴収し軍勢を組織したアラムダールは右翼軍として陝西方面よりクビライ勢力を攻撃せんとし、カラコルムより軍団を率いて南下した。これより先、陝西ではかつてアラムダールの弾圧を受けた廉希憲・商挺らによって旧モンケ政権の幹部でアリク・ブケ派たる劉太平は殺害され、クンドゥカイは軍勢を率いて北走し、陝西一帯はクビライ勢力の支配下に入っていた。アラムダールは北走するクンドゥカイと合流すると、まず河西を支配するコデン・ウルス(オゴデイ・ウルスの一派)を攻撃し、その主要都市西涼府を拠点とした。 アラムダールの攻撃によって大打撃を受けたコデン・ウルス当主のジビク・テムルは関中に逃れ、クビライ勢力の中には河西方面を放棄すべきではないかという...

    杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
    C.M.ドーソン著/佐口透訳注『モンゴル帝国史 2巻』平凡社、1968年
    宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
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