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  1. 中国の書論 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/中国の書論

    執筆法の要領や基本的な7種の点画の技法を説明している。また、筆墨硯紙の精能にもふれている。王羲之がこれを学んだといわれるが、王羲之または羊欣の作という説もある。『書譜』や『法書要録』などに収められて有名になった。

  2. 胡藍の獄 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/李善長の獄
    • 概要
    • 事件の背景
    • 粛清事件の経緯
    • 雑記
    • 事件後の影響
    • 関連項目
    • 参考文献
    • 関連文献

    本項では、洪武帝(太祖。名は朱元璋)の治世(1368年 - 1398年)に起きた以下の粛清事件 1. 空印の案1376年) 2. 胡惟庸の獄(1380年) 3. 郭桓の案(1385年) 4. 林賢事件(1386年) 5. 李善長の獄(1390年) 6. 藍玉の獄(1393年) を取り上げる。以上の一連の事件の犠牲者は、合わせて十数万人に及んだとも言われ、凄惨な大粛清となった。上記のうち、林賢事件と李善長の獄は、胡惟庸の与党を追及するために行われたもので、いわば胡惟庸の獄を蒸し返して、起こされた事件であり、広い意味では胡惟庸の獄に含まれる。 胡惟庸・藍玉は、それぞれ謀叛を計画していたとされ、空印の案や郭桓の案は役人の不正を追及するためという名目があった。しかし、いずれの件もほとんど取り調べが行われないまま、関係者が即時処断されている。各事件の疑惑の根拠となった造反計画や不正については、朝廷による取り調べの結果が詳細に公的記録に残されている。しかしこれらは洪武帝側による捏造の可能性が高く、本当に反逆計画や不正があったかはかなり疑わしい。一連の事件の背景には、皇帝独裁体制を推進する洪武帝の思惑があったとされる。 洪武帝は建国前、金陵(のち応天府と改名)を拠点として元末の群雄割拠の争いを制したこともあり、江南地区の地主・知識人層の支持を基盤としており、新しい明朝政権には南人地主出身の官僚が多く参画していた。新王朝で皇帝権力を強化しようとする洪武帝は、既得権益を固守する江南地主の勢力を抑制しようと様々な施策を行うが、はかばかしい効果を得られなかった。またその間、洪武帝と同じ安徽省出身の側近勢力も「建国の功臣」として重んじられるうち、地位や名声を利用して私腹を肥やしたり、制度的・軍事的に皇帝の権力を脅かす者が出かねない状態にあった。洪武帝はこれら江南地主や功臣の勢力を一掃し、権力を自分に集中させるため、粛清という手段に訴えたのである。また胡惟庸や林賢を利用して、当時洪武帝が手を焼いていた倭寇の黒幕と見ていた日本と断交するための手段とするなど、外交面でもこれらの事件を利用した。 胡藍の獄は、胡惟庸・藍玉の造反計画への処罰というより、洪武帝が仕掛けた粛清事件であるというのは、現在では定説となっている。明建国に貢献した支持層や功臣を非情にも大量処刑した洪武帝に対し、『廿二史...

    元朝末期、モンゴル帝国による支配にかげりが見え始めると、白蓮教徒の反乱である紅巾の乱をきっかけに、華南各地に陳友諒・張士誠・韓林児・方国珍らの軍閥が割拠した。そんな中、頭角を現したのが朱元璋(後の洪武帝)である。朱元璋は逐次他の軍閥を制圧し、元を北方に放逐することにより、1368年に明王朝を建国した。

    王朝設立直後の混乱も収束し、元との戦いに一段落した1375年・1376年頃になると、洪武帝は本格的に内政の整備に力を注ぐようになる。洪武8年(1375年)8月、カラコルムを拠点に明軍を苦しめていた北元の将軍ココ・テムルが病死し、モンゴル勢力が北へ後退。それまで洪武帝は華北を軍政下に置いていたが、傅友徳のみを残して他の武将を引き上げさせ、外政面ではいくらかの余裕が生じるようになった。

    官僚粛清のために、洪武帝は監察機関も強化した。胡党に掌握されていた御史台は廃止され、1382年新たに「都察院」を設け、官僚に対する監視を強めている。はじめは正七品衙門に過ぎなかったが、翌年には正三品、さらに翌年には正二品衙門と六部尚書と同格にまで陞格されており、洪武帝からいかに重視されていたかがうかがえる。この都察院と、法務省にあたる刑部(六部の一つ)、最高裁判所にあたる大理寺は「三法司」と...
    洪武15年(1382年)4月には、禁軍(近衛軍)の一つ「親軍都尉府」が改組され、「三法司」とは別に官僚の監察と刑罰を受け持つ皇帝直属の特務機関「錦衣衛」が設置された。従来からの皇帝の護衛任務に加えて「巡察緝捕」というスパイ任務が与えられ、約500人の緹騎が皇帝の耳目として、日夜官民に対し監視の目を光らせる恐怖政治の世が現出したのである。正規の朝廷機関である三法司とは別に、独自権限を持って捜査...
    洪武帝による恐怖政治の矛先は、官僚層のみならず庶民へも向けられた。その一例が「文字の獄」と呼ばれる言論弾圧である。後の清朝の文字の獄が、満洲人王朝による漢人への思想統制的な意味合いが強いのに対して、洪武帝による文字の獄は、洪武帝個人の恣意性が強いものであった。洪武帝は元々貧乏僧侶の出身であることに強いコンプレックスがあり、僧侶や仏教に関する文字・言葉に過敏に反応したといわれる。特に「光」「禿...

    洪武帝治世の一連の粛清事件は、江南官僚・功臣の粛清および朝廷機構の変革、そして日本との交渉中止という目的で行われた。これらの事件はすべて個別単独に起きたものではない。たとえば空印の案で設置された地方長官の布政使司が正二品と、当時の中央機関である六部の尚書(正三品)よりも高位に置かれた後、胡惟庸の獄で中書省が廃止された後、六部尚書が正二品に引き上げられ、布政使が正三品となりバランスが取られている。これはいったん地方の革新が行われた後に、中央の整理を断行したことを示しており、一連の動きの中で捉えられる。空印の案では「行中書省」、胡惟庸の獄では「中書省」、郭桓の案では「六部」、林賢事件では「日本(倭寇)」、そして李善長の獄・藍玉の獄では「功臣」がそれぞれ狙い撃ちされ、洪武帝に邪魔となるものは一つ一つ潰されて、皇帝専制の準備が整ったのである。

    『アジアの歴史と文化5 中国史 近世2』(1994年、谷口規矩雄編、同朋舎出版、ISBN 978-4810408577)
    上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』(2005年、講談社、ISBN 978-4062740593)
    岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』(1998年、中央公論社、ISBN 978-4124034127)
    檀上寛『明王朝成立期の軌跡』(1978年、『東洋史研究』37巻3号、東洋史研究会)
    阪倉篤秀「明初中書省の変遷」(1977年、『東洋史研究』36巻1号、東洋史研究会)
    佐久間重男『日明関係史の研究』(1992年、吉川弘文館、ISBN 978-4642026406)
    『日本歴史大系 2 中世』(1985年、山川出版社、ISBN 978-4634200203)
  3. 東観漢記 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/東観漢記
    • 書名の由来
    • 評価
    • 経緯
    • 参考文献

    書名の「東観」とは、後漢時代に修史の史料庫が置かれた場所のこと。章帝から和帝の間に、蘭台から南宮東観に史料編纂の中心が移った。元来はただ単に「漢記」と呼ばれていたが、南北朝時代から「東観漢記」・「東観記」・「東観」などと記されているのが確認できる。

    中国史学における伝統的な評価

    既述のように、三国時代には司馬遷『史記』・班固『漢書』とともに、「三史」として重んぜられた『東観漢記』であったが、南朝宋代に范曄が『後漢書』を上梓すると、文体も非常に整っていた[注 9]ので、これが重んじられるようになった。早くも南朝梁代に劉昭注が現れ、唐代李賢注によってこの傾向は決定的となった。勅撰による『群書治要』も後漢時代の歴史記事については范曄の『後漢書』から引用する。対して、『東観漢記』には六朝時代の注釈は一つもない。したがって史実考証ももっぱら范曄の『後漢書』に基づいて行われるようになり、『東観漢記』はたちまち廃れた。たとえば、劉知幾は唐代において「世間で後漢の史書と認められているのは范曄『後漢書』と袁宏『後漢紀』のみである」と述べている。『史通』「覈才」編においても『東観漢記』が同時代史を扱った歴史書であるために制約が多く『漢書』に劣ることを傅玄の文章を引用しつつ論じ、同書「忤時」編でも『東観漢記』がさまざまな著者の記述の寄せ集めに過ぎず、一貫性のないことを批判している。

    現代歴史学における史料的価値

    池田昌広は呉樹平の研究を紹介している。それによれば、基本的に『東観漢記』の情報量は范曄『後漢書』や七家後漢書に比べ多く、たとえば光武帝紀の文字数で見ると、『東観漢記』は『後漢書』の3倍ほどであると推定される。范曄『後漢書』は先行する諸家の『後漢書』を参照してなったものであるが、わけても『東観漢記』に依拠することすこぶる多い。したがって、現在比較的完全な形で提供される范曄『後漢書』を利用する際は『東観漢記』の本文が参照できる場合は当然それを確認するのがよい。 一方で、斎藤実郎が『東観漢記』・七家後漢書・范曄『後漢書』を比較検討した研究がある。それによれば、『東観漢記』は実録のような第一次的な史記録かそれに近いものと従来考えられて、その他の後漢時代を扱った歴史書より高い史料的価値を与えられてきたのであるが、実際は必ずしもそうとはいえず、基本的にその他の『後漢書』や『後漢紀』などと同等に扱うべきではないかとの見解が示されている。

    編纂過程

    編纂過程については、中華書局『東観漢記校注』の「序」に詳しい。今それに従えば、およそ4回の編纂過程を経て『東観漢記』は完成した。

    散佚過程

    南朝宋代に范曄の『後漢書』がなると、そちらが重んじられて注釈が施されるようになり、特に唐の章懐太子李賢が『後漢書』に注を附して以後は『東観漢記』はしだいに衰えて、散佚した。『隋書』経籍志には143巻となっており、楊彪の最終編集時と同数であるが、『旧唐書』経籍志では127巻に減っている。南宋初期の記録によれば、その巻数は43巻残っているのが確認されているが、それも紹興26年(1156年)には失われた。のちに蜀で異本が見つかり、8巻に校訂された。元代以後、『東観漢記』はほとんど散佚した。

    (繁体字中国語)『東観漢記校注』劉珍ほか、呉樹平、中華書局、2008年。ISBN 978-7-101-06294-6。
    (簡体字中国語)『秦漢文献研究』呉樹平、斉魯書社、1988年。
    (繁体字中国語)『史通評釈・史通訓詁・史通訓詁補』郭孔延ほか、上海古籍出版社、2006年。ISBN 7-5325-4404-4。
    (繁体字中国語)『後漢書』范曄、李賢、中華書局、1965年。ISBN 7-101-00306-0。
  4. 晋書 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/晉書
    • 成立までの経緯と構成
    • 評価
    • 参考文献
    • 外部リンク

    玄武門の変により兄で皇太子の李建成を排除して帝位を簒奪した太宗・李世民は、房玄齢を総監として未編纂の史書を作ることを命じ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』と『晋書』が編纂された。太宗は代表作である「蘭亭序」を陪葬することを命じるほど王羲之に傾倒しており、『晋書』「王羲之伝」は自ら執筆している。既存の正史である『史記』『漢書』『三国志』などはいずれも個人が編纂したものを後に正史と定めたものであったが、太宗の欽定史書として『晋書』が編纂されて以降は史書編纂は国家事業となり、滅亡した王朝の史書を編纂することが正統王朝としての義務となった。 『晋書』成立以前にも、数多くの史家によって晋の歴史書が作られており、それらのうち代表的な18種類の書物が「十八家晋史」と呼ばれていた。『晋書』は、「十八家晋史」の内の一つである、臧栄緒の『晋書』をはじめとした晋の約数十種類の歴史書や、崔鴻の『十六国春秋』などの五胡十六国の歴史について述べられた書物などを参考にして編纂された。 本紀に記載されるのは晋の実質上の始祖である司馬懿から東晋最後の恭帝・司馬徳文までであるが、載記では東晋滅亡の年より後に死去した赫連勃勃なども入っている。 西晋では、武帝・恵帝の時代に、将来の『晋書』編纂に当たって、どの時代から扱うかが議論された。荀勗は司馬懿が魏の実権を握った正始年間を、王瓚は司馬師が曹芳を廃立した嘉平年間を始期にすべきと主張したが、結論は出なかった。のちに賈謐が、武帝が皇帝に即位した泰始年間を始期にするよう主張した。正始期を支持する荀畯・荀藩・華混、嘉平期を支持する荀熙・刁協はなおも自説を主張したが、王戎・張華・王衍・楽広らの支持を得た賈謐の主張が通った。 正史『晋書』は、王朝の事実上の始祖として本紀を立てた司馬懿・司馬師・司馬昭や、竹林の七賢など一部例外はあるが、基本的に西晋での方針に従い、武帝の即位(265年)以前に死去した人物の伝記は立てていない。すなわち、実質的に晋臣として活動した人物であっても、武帝即位以前に死去した人物は原則立伝されなかった。

    『晋書』の志の部分は、晋のみならず後漢や三国時代についても記しており、志をもたない『三国志』を補う重要な資料となっている。 また、晋だけでなく五胡十六国の歴史を載記という形で載せているのも貴重である。 いっぽう『晋書』の正確性については、批判的な評価が多い。 『史通』「採撰篇」で劉知幾は、『晋書』が『語林』『世説新語』『幽明録』『捜神記』といった書物に記載された怪しげな話を採用していることを指摘した。「分量さえ多ければいい、資料収集が広ければいいという態度だ。小人は喜ばせられるだろうが、君子のあざ笑うところである。」と手厳しく非難している。また、『旧唐書』の著者劉昫は、「房玄齢伝」の評語で、「以臧栄緒晋書為主、参考諸家、甚為詳洽。然史官多是文詠之士、好採詭謬砕事、以広異聞、又所評論、競為綺艶、不求篤実、由是頗為学者所譏。」と、筆を極めて酷評している。つまり、「『晋書』は諸書を参考に詳しく書かれている。ところが、編纂に当たった史官は文士・歌詠みが多く、デマや誤報、くだらないゴシップを喜んで書いているような程度の低い連中で、広く異聞を集め、所々で評論家ぶって美文を書こうとしているが、真実を追求していないので学者はひどくバカにしている」というのである。すなわち、正史であるにもかかわらず後世からあたかもイエロージャーナリズムのような評価しか受けなかった史書、それが晋書であった。この評価は後世も概ね踏襲されており、清朝の考証学者である趙翼なども、晋書はデマや誤報、くだらないゴシップを信じ過ぎると低い評価を行なっている。 また、現代日本において晋書の部分日本語訳を行った越智重明は「晋書には多くの誤りがあり、敦煌文書に含まれる干宝の『晋紀』や、『世説新語』などで校正しなければならない」「占田制・課田制のような重大な歴史学の問題でも、晋書には誤りがあるので鵜呑みにしてはいけない」と批判している。宮川寅雄も「おおかたは逸話や伝承のたぐいで埋められており、枝葉なことがらを洗いおとしてゆくと、家譜や歴任の官職の大まかな推移になってしまう」と述べている。 既存の史書と比較すると、それまで個人が執筆・編纂していたものに対して、複数の編者が存在することで前後矛盾する内容となっている箇所もあり、内藤湖南から批判された。例示すれば「李重伝」の中に「見百官志」(百官志に見える)と記述されるにも...

    『晋書』中華書局、1974年。
    越智重明『中国古典新書 晋書』明徳出版社、1970年。
    竹内康浩『「正史」はいかに書かれてきたか 中国の歴史書を読み解く』大修館書店、2002年。
    内藤湖南『支那史学史1』平凡社〈東洋文庫〉、1992年。
  5. 銀河戦国群雄伝ライ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/銀河戦国群雄伝ライ

    アニメ版でも基本的な性格は変わらないが、智王(虎丸)を保養地に連れ出して懐柔を図るなど、やや穏健さが増している。 プロフィールは年齢18歳、身長172センチメートル、体重55キログラム、趣味はよく斬れる刀を集める事、特技は居合い斬りと設定されている [1] 。

  6. 春秋戦国時代 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/春秋戦国時代
    • 概略
    • 時代区分
    • 関連項目
    • 参考文献

    紀元前403年に晋が韓・魏・趙の三国に分裂する前を春秋時代、それ以降を戦国時代と分けることが多い。この時代を「周の統一時代が終わって分裂状態になり、最後に秦によって再統一された」とする解釈があるが、秦が統一した領域は周が影響力を及ぼした領域よりも広い。他にも南の楚は元々は自ら王号を称える自立した国であった。また東・北についても斉や晋などの国により領域が拡大された。 周辺部だけではなく、内地に関しても大きな変化が起こった。春秋時代の半ば頃まではそれぞれの邑(村落)が国内に点在し、その間の土地は必ずしもその国の領域に入っている訳ではなく、周(もしくは周の諸侯)に服属しない異民族が多数存在していた。しかし時代が下るにつれ、そうした点と線の支配から面の支配へと移行していった。 政治制度においても、それまでの封建制から郡県制へと移行する段階にあり、思想においても諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場し、様々な新しい思想が形作られた。 なお、春秋戦国時代の名称は、孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』にちなむ。

    春秋時代の終わり・戦国時代の始まりについては諸説ある。晋の家臣であった韓・魏・趙の三国が正式に諸侯として認められた紀元前403年とする説、紀元前453年に韓・魏・趙が智氏を滅ぼして独立諸侯としての実質を得た時点を採る『資治通鑑』説の2つが主流である。この他に、『春秋』は魯哀公十四年(紀元前481年)に「獲麟」(麒麟を獲た)の記述で終了するので、これをもって春秋時代の終わりとする説、『史記』の『六国年表』が始まる紀元前476年とする説などがある。主要な7説を列挙すると、 1. 紀元前481年(周の敬王39年) 1.1. 呂祖謙の《大事記》の記述が始まった年。また、《春秋》の記述が終わった年[注釈 1]。 2. 紀元前476年(周の敬王44年[注釈 2]) 2.1. 史記の『六国年表』の記載が始まった年。 3. 紀元前475年(周の元王元年[注釈 3]) 3.1. 前年に周の敬王が在位44年で死去し、周の元王元年を戦国時代の始めとする。 4. 紀元前468年(周の貞定王元年) 4.1. 林春溥の《戦国編年》、黄式三の《周季編略》、楊寛の《戦国史料編年輯証》の記載が始まった年。また、《春秋左氏伝》の記述が終わった年。 5. 紀元前453年(周の貞定王16年) 5.1. 晋の趙氏・魏氏・韓氏が晋陽の戦いで智氏を滅ぼし、戦国七雄の大枠が構成された年。 6. 紀元前441年(周の哀王元年) 6.1. 朔雪寒が《孫子兵法論正》で提言した説。 7. 紀元前403年(周の威烈王23年) 7.1. 三晋が周により正式に諸侯に認められた年。一般的にはこの年からを戦国時代とする。 春秋時代には周王は政治の実権は握っていなかったが、依然として精神面の中心であり、諸侯は王に次ぐ2番目の地位たる覇者となろうとしていた。それに対して戦国時代は、諸侯自らがそれぞれ「王」を称して争うようになり、残っていた周王の権威は殆ど無くなった。

    短い王朝交代期
    長い混乱期
    佐藤信弥 『周-理想化された古代王朝』 中央公論新社、2016年。
    島崎晋 『春秋戦国の英傑たち』 双葉社、2019年。
  7. 一遍 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/証誠大師
    • 概要
    • 略歴
    • 思想と評価
    • 時宗教団の成立
    • ゆかりの文化財
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    「一遍」は房号であり、法諱は「智真」。一は一如、遍は遍満、一遍とは「一にして、しかも遍く(あまねく)」の義であり、南無阿弥陀仏を一遍(一度、一回)唱えるだけで悟りが証されるという教義であり、智は「悟りの智慧」、真は「御仏が示す真(まこと)」を表す。「一遍上人」、「遊行上人(ゆぎょうしょうにん)」、「捨聖(すてひじり)」と尊称される。近代における私諡号は「円照大師」、1940年に国家より「証誠大師」号を贈られた。俗名は河野時氏 とも、通秀 とも、通尚 ともいうが、定かでない。古来日本では、人の名をむやみに呼ぶべきではなく、人に知らせるものではない、ましてや実名では呼ぶべきではないという慣習が存在したことが原因と考えられる。

    延応元年(1239年)伊予国(ほぼ現在の愛媛県)久米郡の豪族、河野通広(出家して如仏)の第2子として生まれる。幼名は松寿丸。生まれたのは愛媛県松山市道後温泉の奥谷である宝厳寺の一角といわれ、元弘4年(1334年)に同族得能通綱によって「一遍上人御誕生舊跡」の石碑が建てられている。有力御家人であった本家の河野氏は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方について敗れ、祖父の河野通信が陸奥国江刺郡稲瀬(岩手県北上市)に、伯父の河野通政が信濃国伊那郡羽広(長野県伊那市)に、伯父の河野通末が信濃国佐久郡伴野(長野県佐久市)にそれぞれ配流されるなどして没落、ひとり幕府方にとどまった通信の子、河野通久の一党のみが残り、一遍が生まれた頃にはかつての勢いを失っていた。 10歳のとき母が死ぬと父の勧めで天台宗継教寺で出家、法名は随縁。建長3年(1251年)13歳になると大宰府に移り、法然の孫弟子に当たる聖達の下で10年以上にわたり浄土宗西山義を学ぶ。聖達は、随縁に浄土教の基礎的学問を学ばせるため、肥前国清水にいた華台のもとへ最初の1年間派遣し、華台は法名を智真と改めさせた。「法事讃」(巻下)に「極楽無為涅槃界は、随縁の雑善をもってはおそらく生じ難し」とあり、念仏以外の善は雑善(少善根)であり、往生できない根源の雑善である随縁を名とするのは好ましくないとの判断であった。建長4年(1252年)から弘長3年(1263年)まで、聖達のもとで修学。 弘長3年(1263年)25歳の時に父の死(5月24日)をきっかけに還俗して伊予に帰るが、一族の所領争いなどが原因で、文永8年(1271年)32歳で再び出家、信濃の善光寺や伊予の窪寺・岩屋寺で修行。窪寺では十一不二 の偈を感得する。文永11年(1274年)2月8日に遊行を開始し、四天王寺(摂津国)、高野山(紀伊国)など各地を転々としながら修行に励み、六字名号を記した念仏札を配り始める。紀伊で、とある僧から己の不信心を理由に念仏札の受け取りを拒否され、大いに悩むが、参籠した熊野本宮で、阿弥陀如来の垂迹身とされる熊野権現から、衆生済度のため「信不信をえらばず、浄不浄をきらはず、その札をくばるべし」との夢告を受ける。この時から一遍と称し、念仏札の文字に「決定(けつじょう)往生/六十万人」と追加した。これをのちに神勅相承として、時宗開宗のときとする。建治...

    一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」とコメント。 阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。一遍の神祇観は「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。 浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。「六十万人」とは一遍作の頌「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄はこの算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。 寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導 は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2年8月10日の朝に所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著及び所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。 和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり...

    門弟には、『一遍聖絵』を遺した異母弟ともいう聖戒や2歳年上の他阿(真教)らがいる。現在の時宗教団は一遍を宗祖とするが、宗として正式に成立したのは江戸幕府の政策による。一遍には開宗の意図はなかったし、八宗体制下でそれが認められるはずもなかった。近世期には、本来は別系統であったと考えられる一向俊聖や国阿らの法系が吸収されており、空也を仰ぐ寺院が時宗とみなされていた例もある。制度的な面からみれば、時宗の実質的開祖は他阿真教ということもできる。一遍の死後、自然解散した時宗を他阿が再編成したのが起源である。

    その生涯は国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)があますところなく伝える。『遊行上人縁起絵』(一遍上人絵詞伝、一遍上人縁起絵)は、他阿が描かせたものである。『一遍上人語録』は江戸期の編纂になるもの。当麻無量光寺(神奈川県相模原市)、東山長楽寺(京都市東山区)に木造立像がある(宝厳寺も木造一遍上人立像(重要文化財)を所蔵していたが2013年8月10日の本堂火災で焼失)。廟所は真光寺にあり、律宗の影響が指摘される巨大な五輪塔である。阪神・淡路大震災により倒壊し、中から骨灰が現れたことで、実際の埋納が確認された。無量光寺にもそれを分骨したと伝えられる墓塔があるが、信者により削り取られ、原形を留めない。 また手許の経典の一部は死の13日前に書写山の僧に預けた。一説には、それが近世に書写山側から遊行上人に託され、現在清浄光寺に眠るともいわれるが、真偽のほどは明らかとなっていない。 なお、長野県佐久市の「跡部の踊り念仏」は、一遍上人ゆかりの古い姿を伝えているとして、国の重要無形民俗文化財に指定されている。また佐久市にある時宗の金台寺所蔵の「紙本著色一遍上人絵伝 巻二」と「紙本墨書他阿上人自筆仮名消息」は国の重要文化財。同寺の鎌倉時代の梵鐘は一遍上人ゆかりの品とされ佐久市有形文化財。

    大橋俊雄校注『法然・一遍』(岩波書店「日本思想大系」、1971年)
    大橋俊雄『一遍 その行動と思想』(評論社、1971年)
    金井清光『一遍と時衆教団』(角川書店、1975年)
    橘俊道『一遍のことば』(雄山閣、1978年)
    開湯伝説 - 各地の温泉に一遍上人が開いたという伝説が伝えられている。
    鉄輪温泉 - 鉄輪むし湯は、渋の湯、熱の湯とともに施浴をおこなう施設として一遍が創設した温泉と伝えられており、毎年9月には温泉山永福寺にある上人像を温泉で洗い清める「湯あみ法要」が行われる。
    一遍上人 - 2012年5月12日公開の日本映画。監督は秋原北胤。一遍上人役はウド鈴木。
    編布(あんぎん) - 『一遍上人絵伝』に着用がみられる(阿弥も参照)。
    一遍上人絵伝 巻第七(東京国立博物館蔵)
    一遍会(宝厳寺を拠点に活動する会)
  8. 秋篠安人 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/土師安人

    経歴. もともと 土師 宿禰 姓であったが、同族の 古人 らが 天応 元年( 781年 )本拠地( 大和国 添下郡 菅原)の地名に因んで、 菅原宿禰 に 改姓 したことと同様に、翌天応2年( 782年 )に安人も改姓を願い出て、本拠地( 大和国 添下郡秋篠)の地名に因み、併 ...

  9. 国共内戦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/第二次国共内戦
    • 概要
    • 前史
    • 重慶会談
    • 上党戦役
    • アメリカの関与
    • 全面侵攻
    • 共産党軍と残留日本軍
    • 形勢の逆転
    • 中華人民共和国の成立と中華民国の大陸拠点喪失
    • 国民党の台湾撤退と日本人軍事顧問(白団)

    1920年代から敵対関係にあった中国国民党(国民政府)と中国共産党の両党は、日中戦争の間は表面上協力関係にあったが、戦争が終結すると早くも1945年10月から再び武力衝突へと転じ、1946年6月より全面的な内戦を開始した。 日中戦争の間、国民政府軍が日本軍の前面に立って戦力を消耗していたの対し、共産党軍は後方で力を蓄えると共に巧みな宣伝活動で一般大衆からの支持を得るようになっていった。更に日本の降伏後、共産党はシベリアに抑留される日本軍から最新式の兵器を鹵獲する作戦を遂行した他、ソビエト連邦からの援助も継続的に受領し、国民政府軍に対して質的均衡となるほどの軍事力を得た。共産党軍は、拠点となる中国北方から徐々に南下して国民政府軍を圧迫し、中華民国に代る新しい中国の国家として中華人民共和国を建国した。 一方の国民政府は、日中戦争以降続いていたアメリカからの援助を受けて、内戦の前半には優勢を保っていた。だが、腐敗・失策による民心離反や1948年以降の大規模な軍事的敗北によって国民政府は1949年に入ると勢力を急速に失い、1950年の海南島陥落によって中国本土の拠点を全て失った。情勢の変化を受け、国民政府は中央政府を中国本土から台湾へ移転し、海南島陥落以降は台湾地区の防衛に専念するようになった。そのため、中華民国という国家の消滅は避けることに成功した。 国共内戦の結果、中国は台湾の中華民国と中国本土の中華人民共和国による分断国家となった。1979年以降は支配地域の変更や両軍間での戦闘行為が発生していないものの、中華民国と中華人民共和国は中国統一を巡って引き続き対立関係に在る。

    中国国民党と中国共産党は孫文の指導の下で1924年に協力関係(第一次国共合作)を組み、当初は国民革命の達成に向けて共同歩調を取っていた。だが、1927年の上海クーデターが発生すると国共合作は崩壊し、蔣介石率いる国民政府と中国共産党は全面的な内戦状態(第一次国共内戦)となった。国共間の内戦は西安事件による国民政府の方針転換や日中戦争勃発による第二次国共合作の成立によって1937年に一旦収まった。だが、これは日本という共通の敵に対応することを目的に成り立っていたため、国共間の対立関係は依然として残ったままであった。

    1945年8月に日本が降伏すると、中華民国は対外的に戦勝国かつ国際連合の常任理事国となった。しかし、日本という共通の敵を失ったことで国内では国民党と共産党が統一戦線を維持する意義も名目も消滅し、戦後構想の違いから内戦再発の不安が中国国民及び諸外国の間で募るようになった。その結果、蔣介石は国民政府の呉鼎昌の提案を受け入れ、毛沢東に対して重慶で国内の和平問題について討議すべく三度にわたって会談を呼びかけた。この呼びかけに応じた毛沢東と周恩来、王若飛は8月28日、アメリカのパトリック・ハーレー大使と共に延安から重慶を訪れ、中国共産党の代表として中国国民党の代表である王世杰、張治中、邵力子と会談を行った。 同年8月30日重慶において「蔣介石・毛沢東巨頭会談(重慶会談)」が開かれる。会議は43日にも及んだが、10月10日に「双十協定」としてまとめられ、内戦は一時的に回避された。

    しかし、同10月には会談空しく、双十協定調印の日に、山西省で上党戦役がはじまる。共産党軍は三日で、国民党軍が投入した三分の一にあたる35000人を殲滅した。この戦争で鄧小平は活躍し、その名声が高まる。

    アメリカは第二次世界大戦中から蔣介石政権崩壊と共産主義拡大を防止する対策を行った。日本の降伏とともにアメリカは、抗日戦末期の時点で既に弱体化の著しかった国民党軍に大量の援助を行い、これによって新たに39個師団に武装・訓練をほどこした。また、アメリカ船をもって在中国日本人の本国送還を急ぎ、空路・海路から約40万の国民党軍兵士とアメリカ海兵隊5万人を華北に派遣・上陸させて北京、天津など重要都市を占領、かつ国民党軍に代わってアメリカ軍自ら華北の炭坑、鉄道等を接収した(ブリーガー作戦(英語版))。こうしたアメリカ軍による北上作戦援助は、公式には日本軍勢力一掃による中国の急速な主権回復のためと理由づけられていたが、アメリカの目的はそれだけではなく、華北の主要都市および輸送・産業上の戦略拠点が中共軍の手に落ちないよう先手を打ち、さらに国民党の東北(旧満州)支配の足場をいち早く固めることにあった。 アメリカは、戦後の東アジアの政治地図として、日本が再び台頭してくるのを抑えるためにも、中国になんらかの形で民主的な政権が生まれ、それが東アジアの安定勢力になることを期待していた。本国政府や中国駐留アメリカ軍の間で、多少の意見の相違はあったものの、「国民党のリーダーシップのもとに中国の統一を図る」、「国民党をできるだけ支援するが、共産党との対立が内戦に発展することは極力回避する」、「アメリカが中国の内戦に地上軍を派遣したりすることはしない」とする点では大筋大体一致していた。中国駐留のアメリカ軍総司令官・アルバート・ウェデマイヤー中将の次の会見談話は、なぜアメリカ軍が中国に駐留し続けるのか、中国の内戦にどういう関与をするのか、という連合国の記者の質問に答えたものであるが、アメリカの大体の姿勢が窺える。「米軍は中国における内戦に捲き込まれないだろう。しかし米陸軍省からの指令で、米国人の生命財産を保護するために軍隊を使用する必要があり、余の麾下司令官にはその旨指令してある。米軍が中国の内戦に参加し、中共軍に対し攻撃を加えているといった向きもあるようだが、これまで米軍がかかる侵略的行為に出たことはないことを断言する。余はこれまで個人的に国共が妥協するよう極力努めてきたし、部下にも中国の政争や陰謀画策に参加しないよう命令していた。」。 ビルマ戦線の司令官衛立煌は国共内戦に反対し、共産党との問...

    1946年6月26日、蔣介石は国民党正規軍160万人を動員し、全面侵攻の命令を発した。毛沢東は「人民戦争」「持久戦争」の戦略によって抵抗した。毛沢東は国民党内部の内戦消極分子の獲得や、また「土地革命」を行うことで大量の農民を味方につけた。1946年年末には各都市で「内戦反対、反米愛国」というデモが発生、規模は50万以上であった。

    国民政府軍は約430万(正規軍200万)でアメリカ合衆国の援助も受けており、共産党軍の約420万(正規軍120万)と比べ優位に戦闘を進め中国全土で支配地域を拡大したが、東北に侵入したソ連軍の支援を受ける共産党軍(八路軍)は日本によって大規模な鉱山開発や工業化がなされた満洲をソ連から引き渡されるとともに、残留日本人を徴用するなどして戦力を強化していた。日本女性は看護婦などとして従軍させられた。 八路軍の支配地域では通化事件が起き、数千人の日本人居留民が処刑された。また、航空戦力を保持していなかった八路軍は捕虜となった日本軍軍人を教官とした東北民主連軍航空学校を設立した。日本人に養成された搭乗員は共産軍の勝利に大きく貢献することとなった。

    中華民国を率いる国民党の指導者の蔣介石は満洲の権益と引き換えにイデオロギーを棚上げにしてソ連のスターリンと協定を結んだため、ソ連から中国共産党への支援は消極的なものとなる。その間に国民政府軍は満洲で大攻勢をかけ、1947年中頃になると共産党軍は敗退・撤退を重ね、国民党は大陸部の大部分を手中に収めようとしていた。 だが、法幣の大量発行がインフレーションを招き、農民を中心とした民衆の支持を失う。そしてアメリカの国民党への支援も、第二次世界大戦の終結以降ヨーロッパにおける冷戦の開始や日本の占領政策への集中、政府内の共産党シンパの活動等の理由により、先細りになっていった。 1947年3月には蔣介石は「全面侵攻」から「重点攻撃」へと方針を転換する。対象地域は共産党軍の根拠地である延安などであったが、毛沢東は3月28日、延安を撤退。山岳地域に国民党軍を誘導した。5月から6月にかけて、共産軍は83000人の国民党軍を殲滅する。1947年6月の時点で共産党員は46年の136万から276万に急増、兵力も120万から195万へと増大。対する国民党軍の兵力は430万から373万へと減少していた。 農村部を中心に国民党の勢力は後退、共産党が勢力を盛り返してゆき、1948年9月から1949年1月にかけての「三大戦役(中国語版)」で、共産党軍は決定的に勝利する。まず、1948年9-11月の遼瀋戦役では国民党軍47万が殲滅され、国共軍事比は290万人対300万と逆転した。そして、1948年11月-1949年1月の徐州を中心に展開された淮海戦役では、国民党軍80万、共産党軍60万とが衝突するという大規模な戦闘が発生し、後に改革開放路線で市場経済を導入することで知られる鄧小平が指揮官の一人として参戦し、国民党軍55万5500人を殲滅した。更に1948年12月-1949年1月までの平津戦役(中国語版)でも、52万の国民党軍が壊滅した。これにより、中華民国国軍(国民党軍)は主戦力を喪失し、「重点攻撃」を仕掛けることもできずに支配地域を一気に喪失していくこととなる。中国全土を支配することを意識し始めた毛沢東は、中国北部に集中している数多くの幹部を南下させ、南方地域の接収管理工作を担わせる戦略を考えていた。しかし、国共の形勢は逆転していたが、日中戦争や国共内戦を経て疲弊する中国社会において共産党の南下...

    三大戦役後、毛沢東率いる共産党は総攻撃を仕掛けて国民党が拠点を置く大都市部を相次いで占領した。1948年時点で中華民国は主要都市として全国の12都市を直轄市に指定しており、三大戦役終結直後の1949年2月1日時点ではソ連軍占領下の大連と人民解放軍に占領された哈爾浜、瀋陽、天津、北京を除く7都市を未だに支配していた。だが、三大戦役で主戦力を失っていた国民党にはもはや共産党の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。 1949年1月、蔣介石が三大戦役での敗走の責任をとって総統を辞任すると、副総統だった李宗仁が総統(代理)に就任し、同年4月1日に共産党との和平交渉団を南京から北平(北京)に派遣して北平和談(中国語版)を行い、交渉団が最終案である国内和平協定を持ち帰ってきた。しかし、同年4月20日に国民党は署名を拒否する電報を共産党に打って交渉は決裂し、同年4月23日には渡江戦役(中国語版)で人民解放軍によって首都・南京を占領されたのを皮切りに、漢口(同年5月16日)、西安(5月20日)、上海(5月27日)、青島(6月12日)を人民解放軍がなし崩し的に占領していった。さらにアメジスト号事件(4月20日)においてはアヘン戦争以来中国に駐留していたイギリス艦隊を撤退させた。 国民党に代わる「新中国」建設の準備を進めていた共産党は、1949年10月1日に中華人民共和国の建国を宣言したが、この時点で国民党はまだ華南三省と西南部三省の広範囲を支配していた。そのため、共産党は中国大陸からの国民党勢力一掃を目指して広州(10月14日)、重慶(11月30日)、成都(12月27日)と国民党の拠点を相次いて占領し、さらに旧第二次東トルキスタン共和国の残存勢力と協力して新疆の全域を1950年春までに占領した(新疆侵攻)。そのため、1950年1月の時点で国民党に残された台湾以外の拠点は、西南軍政長官公署(中国語版)の支配下にある西康省の西昌一帯と東南軍政長官公署(中国語版)の支配下にある海南島(海南特別行政区)のほか、江蘇省(嵊泗県 [注釈 6])、浙江省(舟山群島の大部分及び大陳列島など)、福建省(金門島、馬祖列島及び烏坵)、広東省(万山群島)沿岸の島々のみとなった。 これを受け、人民解放軍は国民党の反攻拠点となる西昌一帯と海南島の制圧を目指し、1950年3月から本格的な軍事作戦を展開した。そ...

    中国人民解放軍に対して、まともに対抗できないほど弱体化した中華民国政府と蔣介石は、1949年1月16日に南京から広州への中央政府を撤退させたのを皮切りに、重慶(同年10月13日)、成都(11月29日)へと撤退した挙句、中国大陸から台湾への撤退を決定し、残存する中華民国国軍の兵力や国家・個人の財産など国家の存亡をかけて台湾に運び出し、最終的には1949年12月7日に中央政府機構も台湾に移転して台北市を臨時首都とした。 このような中華民国政府の動きに対し、中華人民共和国政府は当初台湾への軍事的侵攻も検討していたが、1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争に兵力を割かざるを得なくなった為、人民解放軍による中華民国政府への軍事行動は一時的に停止する。なおこの間人民解放軍は朝鮮戦争に介入する一方でチベットに侵攻し、さらにベトナム民主共和国に武器の援助や軍事顧問の派遣を行い第一次インドシナ戦争に介入していた。 なお、1949年に根本博中将(元支那派遣軍参謀長)は占領下の日本から台湾に密航し、中華民国の軍事顧問として古寧頭の戦いの作戦指導を行い、人民解放軍との戦いで成果を上げている。 蔣介石の依頼を受けた元支那派遣軍総司令官の岡村寧次は、密かに富田直亮元陸軍少将(中国名・白鴻亮)率いる旧日本軍将校団(白団)を軍事顧問として台湾に密航させ、蔣介石を支援した。地縁や血縁によって上下関係が構築されるなど、長い戦乱で軍紀が乱れきっていた国民党軍幹部に近代的な軍事技術を伝授し、軍の近代化を推進。特に艦艇、航空機の運用面で改善は著しく、八二三(金門)砲戦防衛に成功、際立った効果をあげた。 白団による中華民国国軍への指導は1960年代末まで行われた。

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    韓国 1. 崇神天皇65年(紀元前33年) - 日本書紀によれば、任那からの朝貢使蘇那曷叱知が来朝。 中国 1. 応神天皇20年(289年) – 9月、日本書紀などによれば、東漢氏の先祖である阿知使主、都加使主親子をはじめとする七姓漢人が渡来。 北朝鮮 1. 欽明天皇31年(570年) – 4月2日、高句麗の役人が暴風雨のため漂流し越国に漂着。 イラン 1. 天平8年(736年) – 8月、帰国した遣唐副使中臣名代が、唐人三人と波斯(ペルシャ)人の李密翳を連れて聖武天皇に面会した。 インド 1. 天平8年(736年) – 12月13日、中臣名代や日本人入唐僧の要請により、インド出身の僧侶菩提僊那が来朝した。 ベトナム 1. 天平8年(736年) – 12月13日、上記の菩提僊那の弟子の林邑国(チャンパ王国)出身の僧侶仏哲が師と同行して来朝した。 ウズベキスタン 1. 天平勝宝6年(754年) – 12月12 日、上記の鑑真らとともに安国(現在のブハラ)出身と推測される仏僧如宝が屋久島に来航した。ただし出身国については「胡国の人」とされているだけである。俗姓とされる「安」から出身国が推測されているだけであり、例えば安息国(パルティア。ペルシャ地域、現在のイラン)である可能性も指摘されているなど、ウズベキスタン出身であると確定しているわけではない。

    モンゴル 1. 文永6年(1269年)– 服属を求める元のクビライの使者ヒズルらが対馬に上陸。 タイ 1. 元中5年/嘉慶2年(1388年)– 将軍足利義満のときに、暹羅船が日本に1年間滞在したという記録がある。

    ポルトガル 1. 天文12年(1543年)– ポルトガル人を乗せた中国船が種子島に漂着し鉄砲を伝える。 スペイン 1. 天文13年(1544年)– この年ポルトガル船にガリシア出身のペロ・ディエスという人物が乗船していたとされる。 モザンビーク 1. 天文15年(1546年)– この年来日したポルトガル商人ジョルジ・アルヴァレス(ポルトガル探検家ジョルジ・アルヴァレスとは同姓同名の別人)の船にモザンビーク出身の船乗りもしくは奴隷が乗船していた。 イタリア 1. 元亀元年(1570年)– 宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノが天草に来航。 オランダ 1. 天正13年(1585年)– ディルク・ヘリッツゾーン・ポンプがポルトガル船に砲手として搭乗し来航。なお、それ以前にも一度日本を訪れたことがあったようだが、時期は不明。 カンボジア 1. 天正15年(1587年)– カンボジア人を含む奴隷商人たちが日本人奴隷を買い付けていることを豊臣秀吉が非難。 イギリス 1. 慶長5年(1600年)– リーフデ号の乗員として、ウィリアム・アダムスが渡来。

    マレーシア 1. 17世紀初頭– オランダ人の奴隷としてマレー系の人々の来日が始まったと推測される。 ドイツ 1. 慶長19年(1614年)– 南ドイツ・ウルム出身のミヒャエル・ホーエンライターが、平戸のオランダ商館に1614年-1620年の間在勤 ベルギー 1. 元和5年(1619年)– ブリュッセル出身のフランソワ・カロンが平戸に来航。第8代オランダ商館長。のちにフランス国籍を取得してフランス東インド会社の社長となり、日本との貿易も計画するが実現せず。 インドネシア 1. 元和5年(1619年)頃– この年オランダ東インド会社バタヴィアに商館設立。このころからオランダ人の奴隷としてインドネシア系の人々が来日するようになる。 フランス 1. 寛永13年(1636年)– ドミニコ会の宣教師ギヨーム・クルテが日本に来航。 スウェーデン 1. 正保4年(1647年)– スウェーデン出身のオランダ東インド会社社員ヨーハン・オーロフソン・ベリエンシェーナが来日。同年(3ヶ月後)に来日したフレデリック・コイエットは第16代、第21代のオランダ商館長を務めている。

    アイルランド 1. 宝永元年(1704年)- ウォーターフォード出身のロバート・ジャンセンが仲間5人とともに広東に向かう途中、九州沖で薩摩藩に拘束される。 ロシア 1. 元文4年(1739年)– 元文の黒船。デンマーク出身のマルティン・シュパンベルグに率いられたロシアの船団が本州に来航。ロシア人船員が上陸し現地民と交流。 ハンガリー 1. 明和7年(1770年)– イエルキ・アンドラーシュが出島に滞在。 ポーランド 1. 明和8年(1771年)– モーリツ・ベニョヴスキーが捕虜となって抑留されていたカムチャッカ半島から脱走して阿波国に来航。ベニョヴスキーはハンガリー生まれだが、ポーランドの反ロシア組織に属し、ポーランド人とも称していた。この事件をきっかけに工藤平助が赤蝦夷風説考を著す。 ジンバブエ 1. 17世紀 - 司馬江漢が、長崎に赴いた時の事を記した「西遊日記(1788年)」にて、出島にいたヨーロッパ人の召使いとして来日していた黒人について書いている。これによると「此黒坊と云は…ヤハ嶋の者、或はアフリカ大州の中モノモウタアパと云処の熱国の産れなり」とあり、ジャワ島の名や、当時のジンバブエの地にあった「モノモタパ王国」の名を残している。 アメリカ合衆国 1. 寛政3年(1791年)– アメリカ人探検家ジョン・ケンドリックが交易のため紀伊半島に上陸。

    スイス 1. 安政5年(1859年)– ルドルフ・リンダウらスイス使節団が日本に派遣される。 デンマーク 1. 慶応2年(1866年)– エドゥアルド・スエンソンがフランス海軍軍人として駐留。『江戸幕末滞在記』を出版。明治期に再来日し、日本最初の海底電信ケーブルの敷設の責任者。

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