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  1. 文禄・慶長の役 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 朝鮮出兵

    文禄の役 文禄の役『釜山鎮殉節図』 [注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 戦争:文禄の役 年月日:天正20年4月13日(1592年 5月24日)-文禄2年7月9日(1593年 8月5日) 場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 ...

    • 明軍:, 48,000人, 朝鮮軍, 84,500人–192,000人, 義兵軍:22,400人
  2. 南京事件 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 南京事件_(1937年)

    南京市は東西(中山門から漢中門)約5.3km、南北(大平門から中華門)約8kmで、総面積は35km 2、城外の下関碼頭や水西門・中華門外の市街を含めても、39 - 40km 2 であり、鎌倉市(39.67km 2 )程度の面積である [31]。 総人口 南京の人口は、日中戦争以前は100万 ...

  3. 元寇 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 文永の役

    元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代中期に、当時モンゴル高原及び中国大陸を中心領域として東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国(元朝)およびその属国である高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻の呼称である。 1度目を文永の役(ぶんえいのえ ...

  4. 足利義満 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 源道義
    • 生涯
    • 死後、評価
    • 人物
    • 皇位簒奪の意図はあったか
    • 官歴
    • 系譜
    • 義満の偏諱を受けた人物
    • 参考文献
    • 関連項目

    幼少期

    正平13年/延文3年(1358年)8月22日、2代将軍・足利義詮の息子として、京都春日東洞院にある幕府政所執事の伊勢貞継入道照禅の屋敷で生まれる。祖父である尊氏の死からちょうど100日目のことである。母の紀良子は石清水神官善法寺通清の娘で、順徳天皇の玄孫でもあった。幼名は春王と名付けられた。 春王は長男ではなかったが、義詮と正室の渋川幸子との間に生まれていた千寿王は夭折してその後幸子との間に子は無く、義満誕生の前年にも義詮と紀良子の間には男子(名前不明)が生まれていたが、義満は嫡男として扱われた。幼児期は伊勢邸で養育された。 春王が幼少のころの幕府は南朝との抗争が続き、さらに足利家の内紛である観応の擾乱以来、幕政をめぐる争いが深刻さを増していた。やがて政争で失脚した細川清氏などの有力武将が南朝勢力に加担し、正平16年/康安元年(1361年)12月には細川清氏や楠木正儀、石塔頼房らに京都を占領され、義詮は後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、春王はわずかな家臣に守られて建仁寺に逃れた後、北野義綱に護衛されて赤松則祐の居城・播磨白旗城への避難を余儀なくされた。この後しばらくの間、春王は則祐に...

    家督・将軍職相続

    正平21年/貞治5年(1366年)12月7日、春王は後光厳天皇より義満の名を賜り、従五位下に叙せられた。なお、このとき尊義という諱も呈示されたが、柳原忠光により義満が撰ばれたという。 正平22年/貞治6年(1367年)11月になると、父・義詮が重病となる。義詮は死期を悟り、11月25日に義満に政務を委譲し、細川頼之を管領として義満の後見・教導を託した。 12月3日、朝廷は義満を正五位下・左馬頭に叙任した。同月7日に義詮は死去し、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継いだ。 正平23年/応安元年(1368年)4月15日、義満は管領細川頼之を烏帽子親として、元服した。このとき、加冠を務める頼之を始め、理髪・打乱・泔坏の四役を全て細川氏一門が執り行った[注釈 2]。 正平23年/応安元年(1369年)12月30日、義満は朝廷から征夷大将軍宣下を受け、第3代将軍となった[注釈 3]。幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州...

    権力強化と南北朝合一

    天授5年/康暦元年(1379年)、義満は反・細川頼之派の守護大名である斯波義将や土岐頼康らに邸を包囲され頼之の罷免を求められ、頼之は罷免される(康暦の政変)。後任の管領には義将が任命され、幕政の人事も斯波派に改められる。頼之に対しては追討令が下されるが翌年には赦免されて宿老として幕政に復帰しており、また政変後に義満の将軍権力が確立している事から斯波・細川両派の抗争を利用して相互に牽制させていたと考えられている。頼康の死後、分裂して争う土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した(土岐康行の乱)。 元中8年/明徳2年(1391年)、山名氏の内紛に介入し、11か国の守護を兼ねて「六分一殿」と称された有力守護大名・山名氏清を挑発して挙兵させ、同年12月に討伐する(明徳の乱)。 天授4年/永和4年(1378年)3月、義満は右近衛大将に任ぜられ(征夷大将軍と近衛大将兼務は惟康親王以来)、5か月後には権大納言を兼務して以後、朝廷の長老である二条良基の支援を受けながら、公家社会の一員として積極的に参加する姿勢を見せる。 天授5年/永和5年(1379年)8月14日、十市遠康ら南朝方武家に奪われた寺社...

    義満死去の3日後、5月9日に朝廷から「太上天皇」の尊号を贈られたが、義持や管領斯波義将らは「先例なし」として辞退し、宣下自体なかったこととされた。これは朝廷と幕府の間で事前の合意があったものと見られている。一方で、五山の禅僧などは大檀那であった義満の権威を高めるため、「鹿苑院太上天皇」や「鹿苑天皇」などの号をしばしば用いたが、広く通用したものではない。また、明の永楽帝は弔問使を日本につかわし「恭献」という諡を送っている。この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。義満は生前から義持と折り合いが悪かったとされ、対朝廷・公家政策、守護大名統制政策、明との勘合貿易などの外交政策をはじめとする義満の諸政策は義持によって一旦は否定された。また義満の遺産である北山第も金閣を除いて義持によって破却された。義満が偏愛した義嗣も上杉禅秀の乱の際に出奔し、謀反を企てたとして殺害された。 義満の死後、室町幕府の政治力は将軍が若くして亡くなったり、国内各地で反乱が起きたりして弱体化してしまう。父・義満より実力がないことを実感した4代将軍の足利義持は父の作った別荘の北山山荘を現在残ってる部分以外は取り壊してしまった。1425年、5代将軍の足利義量は将軍職がストレスになったかのようにわずか19歳で病没する。義量の死から1429年に足利義教が6代将軍になるまで幕府の将軍は空席で、父の義持が1428年に死去するまで政治代行を行うことになった。 幕府の弱体化を象徴するのが最初の事件が1428年の正長の土一揆であった。正長の土一揆を目の当たりした6代将軍となった義満の息子である義教は義満の政策を踏襲した施政を始めるが、それは守護を弾圧してばかりで敵を増やす政治だったので、嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された。 幕府の弱体化と内部対立をあらわにしたのが義満の孫、8代将軍・足利義政の時代の1467年から始まった応仁の乱だった。室町幕府の本部がある京都はそれを詳かにするかのように焼け野原となってしまった。義政も祖父や父の政治を引き継ごうとしたが、応仁の乱や側近政治の中で嫌気が差し政権運営への情熱をなくしてしまう。また義満の治世に従順であった有力守護大名も、再び幕府に対して反抗的な態度を取り始める。応仁の乱の末、義政の妻・日野富子が9代将軍にすることができた富子の息子の足...

    今川了俊は『難太平記』において大内義弘が「今御所の御沙汰の様、見及び申す如くば、よはきものは罪少なけれども御不審をかうぶり面目を失うべし。つよきものは上意を背くといえどもさしおかれ申すべき条、みな人の知る所なり(義満様の政治を見ると、弱い者は罪が軽くても厳罰に処され、強い者は命令に背いてもそのままにされる。このことはみなが知っている)」と語ったと記録している。佐藤進一はこの「強きを助け、弱きを挫く」姿勢が義満の生涯を貫く政治テクニックだと評し、傲岸と卑屈さが同居した性格と評している。このことは義満の猶子である三宝院満済も日明交渉や大名に対する接し方が義持よりはるかに丁重であったと回想している。このほかにも義満から様々な冷遇を受けた了俊は「上の明にわたらせ給はぬ(上が賢明でない)」と、義満を激しく批判している。 義満は当時としては珍しく時間厳守を非常に重んじた人物であり、遅刻する者を厳しく処分したという。永徳元年(1381年)7月23日の内大臣大饗に遅刻した御子左為遠が翌日の出仕で義満から追い出されたり(『後愚昧記』)、応永元年(1394年)の南都(興福寺)の常楽会では義満が夜明けから桟敷に座り込み、遅参した公家・武家の同席を許さなかった(『兼宣公記』)。また義満は自分や周囲の服装にも口うるさく、応永13年(1406年)に明使を迎えるために兵庫へ下向した際には裏松重光・山科教興らが当時の軽装である十徳を着用させられ、教興の父山科教言が「十徳の体、当世の風体」と嘆いている。自らは明使を応接する際には唐人の装束で歓待したという。また、朝廷においても毎月朔日の拝賀では武家装束の直垂を、中旬に行われる廻祈祷では公家装束である束帯の着用を指図しており、側近達は毎月直垂を新調していたという(『教言卿記』)。 一方女性関係では、他人の妻妾と通じることを頻繁に行った。記録に残るだけでも、弟の足利満詮、常盤井宮滿仁親王・伏見宮栄仁親王・九条経教・裏松重光・中山親雅・柳原資衡などの妻妾と通じている。彼女らの多くは内裏に女房として使える身であり、夫と離別した後も旧夫と連絡を取り、旧夫に恩恵をもたらすこともあった。

    田中義成、今谷明らは義満が皇位簒奪する意図を持っていたのではないかとする説を唱えている。 義満は早くから花押を武家用と公家用に使い分けたり、2番目の妻である康子を後小松天皇の准母とし、女院号の宣下を受けさせたほか、公家衆の妻を自分に差し出させたりしていた。また祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から接収し、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、上皇と同様の礼遇が取られた。応永15年(1408年)3月に北山第へ後小松が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁が用いられた。4月には宮中において次男・義嗣の元服を親王に准じた形式で行った。これらは義満が皇位の簒奪を企てていたためであり、明による日本国王冊封も当時の明の外圧を利用しての簒奪計画の一環であると推測している。 今谷は義満は中国(明)の影響を強く受けていたが、易姓革命思想ではなく当時流行した『野馬台詩』を利用していたのではないかと推測する。この詩は予言として知られており、天皇は100代[注釈 8]で終わり、猿や犬が英雄を称した末に日本は滅ぶと解釈できる内容だった。「百王説」と呼ばれる天皇が100代で終わるという終末思想は慈円『愚管抄』などに記録されており、幅広く浸透していたことが推測できる。鎌倉公方の足利氏満は申年生まれ(ただし現在では亥年生まれとされる)、義満は戌年生まれだから猿や犬とは2人のことであるという解釈もされていた。 なお、皇位簒奪とは義満みずからが天皇に即位するわけではなく治天の君(実権を持つ天皇家の家長)となって王権(天皇の権力)を簒奪することを意味している。寵愛していた次男、義嗣を天皇にして自らは天皇の父親として天皇家を吸収するというものである。

    ※()=旧暦 1. 正平21年/貞治5年12月7日(1367年1月7日)、後光厳天皇から義満の名を与えられ、従五位下に叙す。 2. 正平22年/貞治6年12月3日(1367年12月24日)、正五位下に昇叙。12月7日(12月28日)、左馬頭に任官。 3. 正平23年/応安元年4月15日(1368年5月2日)、元服。 4. 正平23年/応安元年12月30日(1369年1月28日)、征夷大将軍宣下。 5. 文中2年/応安6年11月25日(1374年1月7日)、従四位下に昇叙し、参議に補任。左近衛中将を兼任。 6. 天授元年/永和元年11月20日(1375年12月13日)、従三位に昇叙。参議左近衛中将如元。 7. 天授4年/永和4年3月24日(1378年4月21日)、権大納言に転任。8月27日(9月19日)、右近衛大将兼任。 8. 天授4年/永和4年12月13日(1379年1月2日)、従二位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。 9. 天授5年/康暦元年1月6日(1379年2月4日)、右馬寮御監兼務。 10. 天授6年/康暦2年1月5日(1380年2月11日)、従一位に昇叙。権大納言右近衛大将如元。 11. 弘和元年/永徳元年7月23日(1381年8月13日)、内大臣に転任。右近衛大将如元。 12. 弘和2年/永徳2年1月26日(1382年2月9日)、左大臣に転任。右近衛大将如元。閏1月19日(3月4日)、蔵人別当兼務。3月28日(5月11日)、牛車を許される。4月11日(5月24日)、後円融院別当兼務。 13. 弘和3年/永徳3年1月14日(1383年2月16日)、源氏長者、淳和奨学両院別当兼務。6月26日(7月26日)、准三宮宣下。 14. 元中元年/至徳元年3月17日(1384年4月8日)、右近衛大将辞任。 15. 元中5年/嘉慶2年5月26日(1388年6月30日)、左大臣辞任。 16. 元中9年/明徳3年12月26日(1393年2月7日)、左大臣還任。 17. 明徳4年9月17日(1393年10月22日)、左大臣辞任。 18. 応永元年12月17日(1395年1月8日)、征夷大将軍辞職。12月25日(1月16日)、太政大臣に転任。 19. 応永2年6月3日(1395年6月20日)、太政大臣辞任。6月20日(7月7日)、出家(道有を号し、のち、道義と改める)。 2...

    父:足利義詮(2代将軍)
    母:紀良子(側室)

    「義」の字

    1. 足利義持・義教ほか義満の男子の一部(前述参照) 2. 赤松義則 3. 斯波義重(義満の猶子。管領、武衛家当主。のち義教に改名) 4. 高橋義種(筑後高橋家) 5. 日野義資(義満の正室・日野康子の甥) 6. 細川義之(讃州家(阿波細川家))

    臼井信義 『足利義満』(新装版) 吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年。ISBN 4-642-05150-3。
    今谷明 『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』〈中公新書〉、1990年。ISBN 4-12-100978-9。
    佐藤進一 『足利義満 中世王権への挑戦』〈平凡社ライブラリー〉、1994年。ISBN 4-582-76062-7。
    桜井英治 『室町人の精神 日本の歴史12』〈講談社学術文庫〉、2009年。ISBN 978-4062919128。
  5. 川端康成 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 川端康成

    川端 康成(かわばた やすなり、1899年(明治32年)6月14日 - 1972年(昭和47年)4月16日)は、日本の小説家、文芸評論家。 大正から昭和の戦前・戦後にかけて活躍した近現代日本文学の頂点に立つ作家の一人である。 1968年に日本人初のノーベル文学賞を受賞。

  6. 加藤清正 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 加藤清正
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    秀吉の子飼いから肥後の大名へ

    永禄5年(1562年)6月24日、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。 永禄7年(1564年)、清正が3歳の時に父が死去し、母と共に津島に移った。 天正元年(1573年)、羽柴秀吉の生母である大政所と母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であった縁から、近江長浜城主となったばかりの秀吉に小姓として仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。 近江の守護大名佐々木氏の一族で、近江の名門である山崎片家の娘を娶り、正室とする。 天正8年(1580年)9月19日、秀吉から播磨国神東郡内に120石を与える知行宛行状(『加藤文書』)[注釈 2]が記録上の最初の登場である。 天正10年(1582年)4月14日、中国経略中の秀吉が冠山城を攻めた時、清正は城に一番乗りを果たして、竹井将監という者を討ち取っている。 天正10年(1582年)、本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の戦いに参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石[注釈 3]の...

    文禄・慶長の役

    文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵した。 出兵前年の天正19年(1591年)、清正は領国の家老2名に対して36か条に及ぶ出兵の準備に関する指示を出している。肥後一国を与えられる前は170人程度の軍勢を指揮するに過ぎなかった清正が、1万人単位の兵を率いる立場になってから初めての大規模な戦いであった。清正の家臣の中には新参の家臣が多く、実際の戦闘や留守の領国でどこまでの働きをするのか未知数であった。しかも、九州諸大名には肥前国名護屋城の築城など、軍役以外の負担を課せられるなど、清正は重い課題を抱えたままの出陣となった。 文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房などを傘下に置いた。同じく先鋒である小西行長率いる一番隊とは別路をとり、4月17日の釜山上陸後は行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し、臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後、黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい、海汀倉の戦いで韓克諴の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定して、現地の朝鮮人によって生け捕り...

    関ヶ原の戦いから江戸時代

    秀吉の死により、清正らは日本に帰国することになった。帰国した清正は向こう数年の百姓の夫役を停止するなどの領国建て直し策を出す。また、朝鮮出兵時から続けられていた国内外を舞台にした投機的な取引によって、収取された米や大豆、麦などの農産物を売買し、少しでも財政難を解消することにも努めた。ところが、現実には緊迫した政治情勢の中で熊本城の改築などの軍事的対応が優先され、領国の再建は先送りされることになる。 慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近し、家康の養女を継室として娶った。 慶長4年(1599年)3月28日、前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら七将の一人として石田三成暗殺未遂事件を起こし、これに失敗するとさらに家康への接近を強めた。 ところが、島津氏の重臣である伊集院氏が主家に反旗を翻した庄内の乱において、清正が反乱を起こした伊集院忠真を支援していたことが発覚した。庄内の乱は家康が五大老として事態の収拾を図っていた案件であり、清正の行動は家康からすれば重大な背信行為であった。家康は清正の上洛を禁じて、清正が上方に向かった場合にはこれを阻止するように有馬...

    藤堂高虎や黒田孝高と並ぶ築城の名手として知られ、熊本城や名護屋城、蔚山倭城、江戸城、名古屋城など数々の城の築城に携わった。また飯田直景、大木土佐らと穴太衆を用いて領内の治水事業にも意欲的に取り組んだ。この結果、熊本県内には現在も清正による遺構が多く存在する。その土木技術は非常に優れており400年以上経った現在も実用として使われている遺構も少なくない。このとき清正は莫大な人手をまかなうため男女...
    武将としては福島正則とともに豊臣氏配下の有力の武将の一人で、正則とは親しかったとされる。石田三成とは豊臣政権下で文治派、武断派が形成されるにつれて関係が悪化し、小西行長とは朝鮮出兵の際の意見対立や互いの領地が隣り合わせであったため常に境界線をめぐって争ったとも言われている。
    熱心な日蓮宗の信徒でもあり、領内に本妙寺をはじめとする日蓮宗の寺を数多く創設した。そのほか、いわゆる「三振法(清正当時の呼称ではない)」を取り入れたことで知られる。これは武士のみが対象であったが、軽微な罪や式典で粗相を3回起こすと切腹を申し付けられるものであった。
    熊本県(旧熊本藩)においては、「清正公(せいしょこ)さん」として現在も種々の史跡や祭りなどにも取りあげられているが、当時の肥後人の清正への崇敬も強かった。これはほとんどの大名が単に統治しただけであったのとは対照的に、農業行政で実績を上げたことによる。

    清正の死因は『当代記』の2年後に唐瘡(梅毒)で死んだ浅野幸長の項に、彼と同様に好色故の「虚ノ病」(腎虚(花柳病)か)とされている。一方で家康またはその一派による毒殺説もある。清正・幸長の両名が同じ病気でしかも急死したため、家康による毒殺ではないかとの憶測も流れた。暗殺説の中でも二条城会見での料理による毒殺、毒饅頭による毒殺など様々にある。根強い毒殺説を題材としたのが池波正太郎の『火の国の城』である。 また死因は瘡(癩病、ハンセン病)であったとする説もあり、罹患者の多かった時代には清正を祀る加藤神社に平癒を願う参詣者が多かったという。ちなみに熊本市の本妙寺は明治20年代まで梅毒やハンセン病で不具になってしまった患者達で混雑することが珍しくなかった。参拝客達に哀れみを乞い、この寺に墓がある清正を一種の神と崇め、病を治して貰おうという信仰があったからである(ただし全国の寺社でも同様の現象が起こっていた)。日本のハンセン病の歴史において大きな足跡を残したひとり、イングランド国教会の伝道師だったハンナ・リデル(女性)はこの寺で見た患者達の群を見て甚大なショックを受け、その生涯を彼らの救済に傾けた。ただし、本妙寺は日蓮宗の寺院であり、日蓮宗には元々「癩病(ハンセン氏病)は法華経を謗った報い」であるという考え方が存在し、法華経信仰とハンセン病平癒、そして熱心な日蓮宗信者とされる加藤清正が結びついたことに由来するという考えもあり、清正の死因とは結びつかないという説もある。 清正は熊本に帰る途中に発病し口がきけなくなり、健康は回復しなかった。遺言はなかった。赤尾口で荼毘に付され、そこには後に庵が建てられ静慶庵と名付けられた(九州森林管理局内に碑がある)。本葬は10月13日、嫡子虎藤(忠広公)の帰国後に日蓮宗京都本山本圀寺貫主である日桓の引導により厳修された。清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された。

    父:加藤清忠(大永6年(1526年)‐ 永禄7年(1564年)) 通称・正左衛門、五郎助。斎藤道三に仕えたが、合戦で負傷し武士を辞め、刀鍛冶清兵衛のもとで鍛冶師として修行し、その娘である伊都を娶り、清正をもうける。38歳で死去。
    母:聖林院(? ‐ 慶長5年(1600年)) 名は伊都。父は鍛冶屋清兵衛。天瑞院とは姉妹・従姉妹と伝わる。慶長5年(1600年)に亡くなり、妙永寺に葬られる。法名は聖林院殿天室日光大姉。
    正室 - 山崎氏(生没年不詳)、山崎片家の娘。天正頃に清正に嫁したといわれ、一子・虎熊を儲けた。没年は文禄頃といわれる。なお清正の養子である百助は実弟にあたる。
    継室 - 清浄院(1582年 - 1656年)、水野忠重の娘、徳川家康の養女。

    墓所は熊本市西区花園の発星山本妙寺の浄池廟、また山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺。さらに東京都港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌がある。 なお、東京都大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔。奉斎神社は熊本市本丸鎮座の加藤神社。 また加藤清正に殉じた大木兼能、朝鮮人の金宦(きんかん、朝鮮名:良甫鑑)も、熊本城にある加藤神社に祭られている。

    安藤英男 『加藤清正のすべて』 新人物往来社、1993年。ISBN 978-4404019851。
    熊本出版文化会館 編 『肥後の清正 -桐と葵のはざまを生きる-』 亜紀書房、1990年。ISBN 978-4750590141。
    矢野四年生 『伝記加藤清正』 のべる出版企画、2000年。ISBN 978-4877031084。
    水野勝之; 福田正秀 『加藤清正「妻子」の研究』 ブイツーソリューション、2007年。ISBN 978-4434110863。
    藤蔭会編『法華行者 清正公一代記』明治42年。NDLJP:781249
    『加藤清正』 - コトバンク
  7. 板垣退助 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 板垣退助

    板垣 退助(いたがき たいすけ、天保8年4月17日(1837年 5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、軍人、政治家。 明治維新の元勲として知られる。 従一位 勲一等 伯爵。 自由民権運動の指導者。 東アジアで初となる帝国議会を樹立し「 ...

  8. 慕容皝 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 慕容コウ
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    • 脚注
    • 参考文献

    その容姿は龍顔(天子のような高貴な顔つき)といわれ、大きく整った前歯を持ち、身長は七尺八寸(約179cm)あった。勇猛さと固い意志を併せ持ち、策略にも長け、多芸な人物であり天文学にも精通していた。 また、終生にわたって学問を好み、若い頃は経学に励んだ事で部民より大いに称賛されていた。王位に即いてからも月に一度は学び舎へ出向き、学生の優劣を試験し、時には学生たちへ講義する事もあった。さらには自ら『太上章』という教育書を著し、『急就篇(前漢末年に史游が著した漢字学習書)』に取って代わらせた。また『典誡』15篇を著して、これも宗族や諸子の為の教科書とした。

    慕容皝は傑出した才覚と遠大な計略を持った軍略家であり、戦の駆け引きに長けた将軍であった。その生涯においては絶え間なく敵地へ攻め入ってその国土を拡大し、遂に遼西・遼東地方の統一を果たした。また、その治世においては農業・養蚕に力を注いで経済を発展させ、さらに漢族を始めとした多くの流民を受け入れたので、彼の時代に人口は大いに増えた。傘下に引き入れた流民には屯田に従事させ、耕作用の牛を支給して耕田を奨励し、労役を緩和して租税を軽くしたので、民は鋭気を養う事が出来た。また、父の時代より存在していた東庠と呼ばれる学び舎を拡大させ、王公大臣の子弟には読書を励行し、また人材を積極的に登用してその中でも優秀な者を抜擢した。これにより前燕は著しく発展したのだという。

    341年、棘城の黒石谷にある大きな石が自立し、ひとりでに移動したという記録がある。これは棘城から龍城に都が移る事を暗示したのだと思われる。
    341年7月、慕容皝は龍城で新たな宮門を作らせると、昌黎県や棘城県で河岸が崩れ、鉄や杵が1170枚出てきた。永楽の民である郭陵はこれを見て、城を詣でて慕容皝へこの事を告げた。慕容皝は「宮殿を作り始めてから、鉄や杵が出現した。人と神が符合している事の表れである」と喜び、郭陵に関外侯の爵位を下賜した。
    345年2月、一対の黒龍と白龍が龍山に現れたとの報告を受け、慕容皝は自ら群臣を率いてこれを見に行った。そして、龍から200歩余りの距離まで出向くと、太牢(牛・羊・豚などの生贄)をもって祭祀を行った。すると二龍は首を交わらせながら喜んで飛翔し、角を外して去って行った。慕容皝はこれを見て大いに喜び、宮殿に帰ると領内に大赦を下し、新しく作ったばかりの宮殿に和龍宮という名を付け、さらに山の上には龍翔...
    『晋書』(成帝・康帝紀、穆帝・哀帝・海西公紀、慕容廆載記、慕容皝載記)
    『資治通鑑』巻90 - 巻99
    『十六国春秋』巻24 - 巻25
    『魏書』(列伝第83)
  9. Wikipedia:諸言語版の良質な記事/中国語版 - Wikipedia

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    中国語版の「良質な記事」一覧(日本語版あり) 中国語版記事 言語版数 サイズ 日本語版記事 サイズ サイズ比 贛語 45 147077 カン語 3431 0.02 新会区 12 86665 新会区 2049 0.02 景山公园 12 90826 景山公園 2443 0.03 制蓬峩 5 33918 阿答阿者 1105 0.03 文明

  10. 人名用漢字 - Wikipedia

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    • 導入の背景
    • 根拠法
    • 人名用漢字の変遷
    • 人名用漢字の一覧
    • 読みをめぐる議論
    • 参考文献
    • 関連書籍
    • 関連項目
    • 外部リンク

    第二次世界大戦後の一時期、従来の複雑な日本語表記法の弊害を指摘し、漢字学習の負担を軽減するため漢字使用を極力制限、もしくは廃止するなど、日本語を単純化しようとする動きが起こった。当時の国語審議会委員にもこれら日本語改革論者の多数が就任し、当用漢字制定など戦後の国語政策に与えた影響は大きかった。 こうした動きを背景として「人名用漢字」は国語政策の一環として国語審議会で審議され、1951年5月の「人名漢字に関する建議」を受けて内閣告示されたものである。そしてその根拠となった理念は また というものであった。

    子の名に用いる漢字及びその扱いは,1948年1月1日の戸籍法改正、及びそれを受けた戸籍法施行規則で規定されている。日本の戸籍に子の名として記載できる文字は、原則として常用漢字と人名用漢字、片仮名及び平仮名(変体仮名を除く)、長音符、踊り字(「々」など)のみである(戸籍法施行規則)。 根拠条文は、以下のとおりである。 戸籍法第50条(子の名に用いる文字) 1. 第1項 子の名には常用平易な文字を用いなければならない。 2. 第2項 常用平易な文字の範囲は、法務省令でこれを定める。 戸籍法施行規則 第60条(常用平易な文字の範囲) 戸籍法第50条第2項の常用平易な文字は,次に掲げるものとする。 1. 一 昭和21年内閣告示第32号当用漢字表に掲げる漢字 2. 二 昭和26年内閣告示第1号人名用漢字別表に掲げる漢字(92字) 3. 三 昭和51年内閣告示第1号人名用漢字追加表に掲げる漢字(28字) 4. 四 片かな又は平かな(変体がなを除く。)

    1946年11月16日に、内閣によって告示された当用漢字には、人名に頻繁に用いられる漢字の一部が含まれていなかった。1948年1月1日の戸籍法改正により、当用漢字の範囲に含まれない漢字は新生児の名に用いることができないとされたものの、1951年5月25日、内閣は92字を人名用漢字として新たに指定(人名用漢字別表)。子どもの名前に使用したい漢字が使用できないことから親が裁判を行って使用が認められた字(1997年の「琉」、2004年の「曽」など)を人名用漢字に追加していった。また、親が子につける名前の多様化が進んだ結果、人名用漢字別表は次第に数を増やし、2004年7月12日時点で290の漢字が人名に用いることができるようになった。それでも「苺(いちご)」や「雫(しずく)」といった漢字が使えないなど、命名に対する不満の声があった。こうした声を受けて、同年9月27日には488字の大幅な追加がなされた。 2004年9月27日の追加では、沼尻・田尻・野尻などの名字で使われている「尻」や飛驒の「驒」、荏原の「荏」、さらに「焔・錨・鮪・燐・仍・崔・悧・懍・檸・檬・欅・浚・煕・瞑・碼・茗・萃・藺・逍・釐・霖・璋・鰹・鮭・葱・韮・蒜・體・絲・號・黴・莱(旧字体の萊は人名漢字)」などの追加を望む声もあったが追加には至らなかった。 外国人が日本国籍を取得する場合の姓にもこの文字の制限が適用されていたが、2008年12月8日の国籍法改正(2009年1月1日施行)に呼応した民事局長通達によりこの制限は緩和され、「康熙字典の正字」や「国字」も状況次第で使用可能となった。2008年12月31日以前は、「田尻」「小澤」「藪」や「崔・姜・趙・尹」といった、常用漢字や人名用漢字にない漢字を含む苗字にすることはできなかったが、現在はこの制限はなくなっている。なお、この漢字制限が明確に完全撤廃されたのは、2012年7月9日施行の新しい在留管理制度開始からである。 京都大学の安岡孝一は1976年に追加された「沙」の字(現在は常用漢字)が歌手の南沙織の影響を受けていると考えられることを例に、有名人の名前に使われた漢字が人名用漢字の拡大に寄与しているようだと述べた。

    人名に使える漢字の数(2017年9月25日現在) は 1. 常用漢字2136字種2136字体(一覧) 2. 漢字の表(一)(常用漢字の異体字でないもの)633字種651字体 3. 漢字の表(二)(常用漢字の異体字であるもの)212字種212字体 である。字種としては、1.の2136字種と2.の633字種を合わせて2769字種になる。3.は、すべてが常用漢字の異体字である。また、字体としては、1.の2136字体と2.の651字体、3.の212字体で合わせて2999字体になる。 文字コード上のどの漢字とマッピングされているかと、正式な文字の字形は、法務省 戸籍統一文字情報で確認できる。 常用漢字以外の文字とその異体字 1. 丑 丞 乃 之 乎 也 云 亘‐亙 些 亦 亥 亨 亮 仔 伊 伍 伽 佃 佑 伶 侃 侑 俄 俠 俣 俐 倭 俱 倦 倖 偲 傭 儲 允 兎 兜 其 冴 凌 凜‐凛 凧 凪 凰 凱 函 劉 劫 勁 勺 勿 匁 匡 廿 卜 卯 卿 厨 厩 叉 叡 叢 叶 只 吾 吞 吻 哉 哨 啄 哩 喬 喧 喰 喋 嘩 嘉 嘗 噌 噂 圃 圭 坐 尭‐堯 坦 埴 堰 堺 堵 塙 壕 壬 夷 奄 奎 套 娃 姪 姥 娩 嬉 孟 宏 宋 宕 宥 寅 寓 寵 尖 尤 屑 峨 峻 崚 嵯 嵩 嶺 巌‐巖 巫 已 巳 巴 巷 巽 帖 幌 幡 庄 庇 庚 庵 廟 廻 弘 弛 彗 彦 彪 彬 徠 忽 怜 恢 恰 恕 悌 惟 惚 悉 惇 惹 惺 惣 慧 憐 戊 或 戟 托 按 挺 挽 掬 捲 捷 捺 捧 掠 揃 摑 摺 撒 撰 撞 播 撫 擢 孜 敦 斐 斡 斧 斯 於 旭 昂 昊 昏 昌 昴 晏 晃‐晄 晒 晋 晟 晦 晨 智 暉 暢 曙 曝 曳 朋 朔 杏 杖 杜 李 杭 杵 杷 枇 柑 柴 柘 柊 柏 柾 柚 桧‐檜 栞 桔 桂 栖 桐 栗 梧 梓 梢 梛 梯 桶 梶 椛 梁 棲 椋 椀 楯 楚 楕 椿 楠 楓 椰 楢 楊 榎 樺 榊 榛 槙‐槇 槍 槌 樫 槻 樟 樋 橘 樽 橙 檎 檀 櫂 櫛 櫓 欣 欽 歎 此 殆 毅 毘 毬 汀 汝 汐 汲 沌 沓 沫 洸 洲 洵 洛 浩 浬 淵 淳 渚‐渚 淀 淋 渥 渾 湘 湊 湛 溢 滉 溜 漱 漕 漣 澪 濡 瀕 灘 灸 灼 烏 焰 焚 煌 煤 煉 熙 燕 燎 燦 燭 燿 爾 牒 牟 牡 牽 犀 狼 猪‐猪 獅 玖 珂...

    人名に用いる読みの規定に制限はない。 しかし、近年は親が子につける名前が多様化し、中にはあらかじめ子の名前の読み方を決めてから漢字を当てるといった名前の付け方をする親も出てきた。そのため、名前がもとで「いじめ」などの社会問題が起こることがあり、人名に使用してよい読みを規定すべきだという主張もある。 なお、戸籍に登録されるのは本名だけであり、その読み方までは登録されないため、本名の字はそのままに読み方だけを変える場合には、役所に届け出れば読み方を変更することができる。本名の字も含めて名を変更したい場合には、家庭裁判所に届け出て許可を受ける必要がある。2018年に行われた茨城県境町の町長選挙に名を「勇喜」と書いて「てつわんあとむ」と読む人物が立候補して話題になったが、彼によればこれはれっきとした本名であり、同姓同名の人物が近所に住んでいるために郵便物や宅配便の誤配が相次いだため、裁判所に届け出て名を「勇喜(あとむ)」と改名し、のちに読み方を「てつわんあとむ」に変更する旨を役所に届け出たという。 2019年3月には、いわゆるキラキラネームに悩んでいた当時18歳の男子高校生が家庭裁判所に届け出て改名を果たしており、「親は、本当によく考えて子どもに名前をつけてあげてください」とコメントした。 安土桃山時代にヨーロッパと交流が始まって以降、外国語に漢字を当てた名前が使用されるようになり、読みを意訳して漢字にするケースが存在するようになっていった。そのため、無理に漢字を当てず仮名のほうがよいと指摘する専門家もいる。

    円満字二郎『人名用漢字の戦後史』岩波書店〈岩波新書 新赤版957〉、2005年7月。ISBN 4-0043-0957-3。
    安岡孝一『新しい常用漢字と人名用漢字』三省堂、2011年3月。ISBN 978-4-3853-6523-7。
    日本加除出版編集部(編)『最新 子の名に使える漢字字典』日本加除出版、2004年11月。ISBN 4-8178-1291-5。
    戸籍実務研究会(編)『わかりやすい一表式 誤字俗字・正字一覧―戸籍の氏又は名の記載・記録に用いる文字―』日本加除出版、2004年11月、新版。ISBN 4-8178-3724-1。
    日本加除出版企画部(編)『最新人名用漢字と誤字俗字関係通達の解説』日本加除出版、2005年6月。ISBN 978-4-8178-1296-4。
    日本加除出版編集部(編)『人名用漢字の変遷 ― 子の名に使える漢字の全履歴』日本加除出版、2007年10月。ISBN 978-4-8178-1338-1。
    表外漢字字体表(印刷標準字体) - 表外漢字字体表の漢字一覧
    子の名に使える漢字 - 法務省
    戸籍法施行規則(昭和22年12月29日司法省令第94号) - e-Gov法令検索
    人名用漢字別表の変遷(漢字袋) - 安岡孝一・安岡素子
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