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  1. 旧台湾ドル - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/オールド台湾ドル
    • 歴史
    • 旧台湾ドルと金円券の為替レート
    • 概要

    1946年5月20日に台湾銀行が改組され「株式会社台湾銀行」となった後、5月22日に旧台湾ドル紙幣の発行が開始された。当時の関連規定によれば、正式名称は「台幣兌換券」であった。旧台湾ドルが発行される前、1945年8月15日の日本の降伏後に中華民国政府は台湾銀行券の流通を中止すると発表し、併せて中国大陸で流通している法幣は台湾において流通できないとも規定して、中央銀行が台湾に分行を開設し過渡期の貨幣として「中央銀行台湾流通券」を発行することを計画した。「中央銀行台湾流通券」は印刷されて台湾に発送する準備までされたが、1945年10月25日に台湾省行政長官公署が成立すると、台湾銀行券の流通は暫定的に継続することが提案され、中央政府の指令を経て「中央銀行台湾流通券」発行計画は頓挫し、台湾銀行券が継続して流通することになった。 しかし中華民国政府が台湾を正式に接収した10月には、台湾銀行券の発行総額は28億7,900万元に拡大し、わずか2か月で15億元以上増加した。この増加分は日本降伏時の銀行券発行総額の1.07倍にあたり、台湾総督府の主計課長だった塩見俊二は自身の日記で、終戦後の8月30日に「インフレのため、台湾銀行券が不足となり、大蔵省、日本銀行で大量の紙幣を満載した飛行機が飛」び、これに乗ったと書いている(つまりこの15億は日本から来たというわけである)。 旧台湾ドルは当初、1元、5元、10元のわずか3種類の金種しか発行されず、紙幣は1:1の比率で台湾銀行券と交換されたが、1946年9月1日に額面が50元と100元の紙幣が発行されると、台湾銀行券の置き換えはスムーズに進んだ。 台湾銀行は1946年5月22日に旧台湾ドルの発行を事実上開始してはいたが、行政院が台湾銀行に正式に権利を許諾したのは同年6月15日であった。またこの時点では、旧台湾ドルは中央印刷局の上海工場に印刷を委託した後、発行のために再び台湾に運ばれてきた。その図案は台湾省行政長官公署が決定し、表面は台湾と国父の孫文、そして台湾銀行、裏面中央には鄭成功とオランダ軍の海戦図が描かれている。 だが1948年に上海で金融危機が勃発したため、国民政府は貨幣を大量に輸出して、台湾の人々のために砂糖、米などの資源を得た。その結果、ハイパーインフレを引き起こし、これに伴って旧台湾ドルの価値も下落、台湾の物価水準は急...

    1948年8月23日、行政院は旧台湾ドル1835元に対し金円券1元で交換すると定めた。しかし中国大陸各地での激しい経済変動のため、軍需食料の供給は膨大であり、物価は高騰し、金円券の価値はどんどん下がって旧台湾ドルは上がり続けた。悪性インフレのもと、旧台湾ドルは完全に崩壊したのである。

    第1次・凸版印刷紙幣

    中央印刷局上海工場(現在の中国紙幣印刷造幣会社上海印刷銀行)で印刷された。

    第2次・表面凹版、裏面凸版印刷紙幣(低額面)

    中央印刷局上海工場で印刷され、国父である孫文の像が鞠文俊によって彫られた。

    第3次・表面凹版、裏面凸版印刷紙幣(高額面)

    これも中央印刷局上海工場で印刷され、やはり鞠文俊によって彫られた孫文像が描かれている。

  2. 美保神社 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/美保神社
    • 祭神
    • 歴史
    • 境内
    • 文化財
    • 祭事
    • 交通
    • 関連図書
    • 関連項目

    右殿に大国主神の子の事代主神、左殿に大国主神の后の三穂津姫命を祀る。三穂津姫命は大国主神の幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)である「大物主神」の后神。事代主命は神屋楯比売神(かむやたてひめ)と大国主神との間の子供なので義理の母親にあたる。 『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものと見られる。

    創建の由緒は不詳であるが、8世紀に編纂された『出雲国風土記』の神社台帳に記載される古社である。延喜式神名帳では小社に列する。 中世より横山氏が神職を世襲した。近世頃から「大社(出雲大社)だけでは片詣り」と言われるようになり、出雲大社とともに参拝者が増えるようになった。出雲大社とあわせて「出雲のえびすだいこく」と総称される。 明治18年(1885年)に国幣中社に列せられ、第二次世界大戦後は神社本庁の別表神社となった。

    現在の本殿は寛政12年(1800年)の火災の後、文化10年(1813年)に再建されたものである。大社造の左右二殿連棟の特殊な形式で「美保造」または「比翼大社造」といわれ、国の重要文化財に指定されている。このような様式の成立時期は明らかではない。宝暦13年(1763年)の『伯様御用之覚』と呼ばれる文書では、天文3年(1534年)条に「美保神社」、天正11年(1583年)条に「美保両社」という社号で表記されている。また明治19年(1886年)の『国幣中社美保神社明細図書』によれば元亀年間(1570年-1573年)の戦災によって失われるまでは本殿は1棟であったが、その後、文禄年間(1593年-1596年)までの間に現在のように1つの基礎に2棟の本殿を持つ形式で再建されたという。この二つの文書から、天文3年(1534年)時点では1棟造りの神社であり、天正11年(1583年)までには2棟造りの「両社」と呼ばれるような構成になっていたと推定される。また、文禄5年(1596年)5月吉日と記された吉川廣家が朝鮮出兵での立願のため造営をした時の棟札にも「奉建立美保関両社御殿」とあり、当時既に2社殿が並立していたことを傍証している。ただし、当時の2社殿が現在のように連結された形態をとっていたかどうかは不明である。昭和3年(1928年)の修理によって本殿は原位置から現在の場所へ100メートル程度移築され、神域も拡張されて現在の形を完成させた。本殿を始め拝殿、神門、廻廊、通塀ともに屋根は現在では桧皮葺であるが、修理以前はこけら葺であった。本殿2棟の間に末社・大后社があり、3社5神(大后社 神屋楯比売命、沼河比売命、姫子社 媛蹈鞴五十鈴媛命、五十鈴依媛命、神使社 稲脊脛命)を祀る。

    重要文化財(国指定)

    建造物 1. 美保神社本殿 附:棟札18枚 - 文化10年(1813年)

    重要有形民俗文化財(国指定)

    1. 諸手船 2隻 2. 美保神社奉納鳴物 846点 3. そりこ 1隻

    県指定有形文化財

    1. 紙本墨書手鑑(てかがみ)

    青柴垣(あおふしがき)神事・諸手船(もろたぶね)神事は国譲り神話に因むものである。12月の諸手船神事は、大国主神が国譲りの是非を相談するため息子の言代主神に使者を送ったという故事を再現、4月の青柴垣神事は、国譲りを決めた言代主神が船を青柴垣に変えてその中に身を隠すが、再び神として甦る様子を再現している。1年間鶏肉鶏卵を避け、毎日海で身を清めた2人の当屋が前日から断食し、青柴垣を飾った2隻の船に乗り、港内を一周後、美保神社に参拝、奉幣する。 1. 1月1日-- 歳旦祭 2. 1月7日-- 初ゑびす祭 3. 2月節分 -- 節分祭 4. 4月7日-- 例大祭(青柴垣神事):例大祭が午前に、青柴垣神事は午後に行なわれる。 5. 4月13日-- 漁幸祭 6. 5月5日-- 神迎神事 7. 8月7日-- 虫探神事 8. 9月中旬 -- 浦安の舞(中学生の少女が正装で舞う) 9. 12月3日-- 新嘗祭・諸手船神事

    松江駅2番のりばから一畑バス美保関ターミナル行きに乗車(所要時間約40分)。美保関ターミナル終点より美保関コミュニティバス美保関行きに乗り換えて美保関終点下車(所要時間約30分)。美保神社入口バス停から徒歩約1分。 初詣シーズンやゴールデンウィーク、夏から初冬の土日曜・祝日と12月3日には、日ノ丸バスにより米子空港・境港駅との直行バス「えびすライナー」が運行される。 公民館の横に駐車場(無料:十数台分のスペース)と公衆便所があり、神社までは徒歩1分。

    安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』神社新報社、1968年、58頁
    白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』東京堂出版、1979年、322-323頁
    菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』日本文芸社、1989年、203頁
    上山春平他『日本「神社」総覧』新人物往来社、1992年、238-239頁
    サニー横山 - 美保神社の社家。神職にはならず曲技飛行の道に進み、現在はPeach Aviationのパイロット。
  3. 天皇大帝 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/天皇大帝
    • 概要
    • 星座(星官)としての天皇大帝
    • 信仰
    • 読み方
    • 私幣禁断に類似する禁令
    • 参考文献
    • 関連項目

    古代中国では地上からは天空のある一点を中心として星々が巡っているように見えることを知っており、そこを北辰と呼び(天の北極に該当する)、宇宙の中心と考えられていた。そして神格化され、道教や日本で使われる称号の天皇にも取り入れられたとする説がある。 中国の唐の高宗は 「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡(おくりな)が付けられた。これは日本の天武天皇による 「天皇」 の号の使用開始とほぼ同時期であるが、どちらが先であるかは研究者間でも結論が出ていない。 道教では最高神を「玉皇大帝」としており、これを星宿における紫微垣にある北極星に同定して「北極紫微大帝」としていた。のちにこれに北斗七星を神格化した北斗信仰における 「北斗真君」とが習合し、さらに星を仏教における妙見菩薩に見立てた妙見信仰が生まれた。このため、現在においても「北極紫微大帝(北極大帝・紫微大帝)」 と 「北斗真君」とは、本来は別の神であるとして分ける場合と、同一視する場合とがある。 中国の皇帝や日本の皇室の北斗信仰にもこの同一視が見られる。中国の皇帝の祭服の左袖には北斗七星、右袖には織女がデザインされている。宮内庁所蔵の孝明天皇の礼服 は背中の中央上部にも北斗七星が置かれている。ただし、織女はない。

    現在の北極星(こぐま座α星)は柄杓の柄(小熊の尻尾)の先端にあるが、紀元前1100年ごろにはこぐま座β星の北極距離が約6.5度と、天の北極に最も近い北極星であり、帝と呼ばれていた。 そして、信仰の対象とは別に天皇大帝という名の星座も存在した。『開元占経』 の「巻69 甘氏中官占」 に見える。『晋書』 「天文志」 には 「口中一星を天皇大帝と曰(い)ふ」 という記述がある。この 「口中」 は、天帝の後宮で天帝の住まう紫微宮(しびきゅう)を護衛する勾陳(こうちん)という星座で、その第二星(こぐま座δ星、4等)・第一星(同α星・ポラリス、2等)・第五星(ケフェウス座 HD5848、4等)・第六星(同 HD217382、5等)で描かれる四辺形のことを指しており、天皇大帝はその中にある5等星(同 HD212710)である。『和漢三才図絵』 でも天皇大帝は 「口」 の中に当たる位置に記されているが、この図はかなり不正確なので注意が必要である。なお、オランダの東洋学者シュレーゲルは、こぐま座α星を天皇大帝と同定している。ただし、大崎によれば、シュレーゲルによる同定は 「第一級の資料とは認められない」 とのことである。

    北斗七星(おおぐま座)は水を汲む 「斗」 の形をしており、大地を潤す農耕の神のシンボルでもあった。『史記』 『星経』 には北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、止まることのない永久時計として陰陽(太陽と月のこと)、そして夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証するとある 。 天皇大帝はその聖性の象徴として神器(道教の用語)を持っている。神器は 「鏡」 と 「剣」 であり、呪具(magic tool)と威儀具とを兼ねている。 儒教では、中間色である 「紫」 を正色(原色)である 「赤」 よりも格下に見る が、天皇大帝は 「紫宮」 あるいは 「紫微宮」、「紫宸殿」(ししんでん)、「大極殿」(だいごくでん)などと呼ばれる宮殿に住んでいることになっており、また北極星の光芒は紫色とされ、紫色を最高の神聖な色としている。

    諸橋轍次 『大漢和辞典』(大修館書店、1956年)に拠れば、歴史的仮名遣いは 「てんわうだいてい」 となる。発音は連声により 「テンノーダイテー」。なお同書の日本の 「天皇」 の読みは 「てんくわう」・「てんわう」 のみ。「てんわう」 での立項が標準である。星座名としては、通例 「てんこうたいてい」 と振って 「テンコータイテー」 と読む。ただし、鈴木駿太郎は振り仮名を振っていないが、索引では 「天乳」(てんにゅう)と 「天馬座」(てんまざ)の間に配置しているところから 「てんのう……」 と読んでいる

    私幣禁断とは、一般には皇室の祖霊を祀る伊勢神宮を天皇・皇后・皇太子以外が祀ることを禁じたことを言う。これに似た内容の禁令が以下のように出されている。 1. 796年、日本の天皇は北斗七星を祀ることを禁じた。罰則として 「法師は名を綱所に送り、俗人は違勅の罪に処せ」 と規定した(『類聚国史』 「延暦十五年」)。 2. 799年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「京畿の百姓」 に 「北辰に灯火を奉る」 ことを禁じた(『日本後紀』 「延暦十八年九月」)。 3. 811年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「北辰を祭り、挙哀改葬等の事」 を禁じた(『日本後紀』 「弘仁二年九月一日」)。 4. 835年、斎宮が伊勢神宮へ行くに際して九月の一ヵ月間、「京畿」 での 「北辰に火を供えること」 を禁じた(『続日本後紀』 「承和二年八月二日」)。 5. 967年施行の 『延喜式』 は斎宮が伊勢神宮へ行くに際して 「九月一日より三十日まで、京畿内、伊勢、近江、等の国、北辰に奉灯し、哀を挙げ、葬を改むる」 ことを禁じた。 なお、1811年、伊勢神宮の私幣禁断は解かれたが、北極星および北斗七星の祭祀解禁の時期は不明である。

    大崎正次 『中国の星座の歴史』 雄山閣出版、1987年。
    窪 徳忠 『道教の神々』 平河出版社、1986年。
    福永光司 『道教と古代日本』 人文書院、1987年。
    福光光司・千田稔・高橋徹 『日本の道教遺跡を歩く』 朝日新聞社〈朝日選書〉、2003年。
  4. 大嘗祭 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/大嘗会
    • 概要
    • 歴史
    • 祭日
    • 大嘗宮
    • 祭服と神具
    • 式次第
    • 神楽歌と御告文
    • 大嘗祭についての議論
    • 参考文献
    • 関連項目

    一般に、毎年11月23日(国民の祝日:勤労感謝の日)に行われる宮中祭祀の新嘗祭(にいなめさい)と同じく、収穫感謝の秋祭りと解されている。実際、祭儀の次第にも共通点があり、大嘗祭が行われる年には新嘗祭は斎行されない。また、大宝律令以前においては「大嘗祭」と「新嘗祭」は同一祭儀の別名であった。 祭祀は秘事であるため、その内容について様々な考察がなされてきた。かつては、折口信夫の唱えた「真床覆衾」論、つまり日本神話における天孫降臨の場面を再現することによって「天皇霊」を新帝が身につける神事であるとする仮説が支持され、その発展ないしは修正の形で研究が展開されていった。1983年に岡田精司が聖婚儀礼説を唱えてこれを鋭く批判し、日本史学界で一定の支持を集めた。 しかし1989年から1990年にかけて、岡田荘司が「真床覆衾」論も聖婚儀礼説も否定する論考を発表した。岡田荘司説によると、大嘗祭とは新帝が天照大神を初めて迎え、神膳供進と共食儀礼を中心とする素朴な祭祀である。天照大神の神威を高めることにより天皇がその神威を享受するという見解であり、折口以前の通説、さらには一条兼良などの中世公卿の見解とも一致する。のちに西本昌弘により『内裏式』新出逸文が紹介され、その検討が加えられた結果、もはや日本史学界では「真床覆衾」論も聖婚儀礼説もほぼ完全に否定されている。

    大嘗祭(=新嘗祭)の儀式の形が定まったのは、7世紀の皇極天皇の頃だが、この頃はまだ通例の大嘗祭(=新嘗祭)と践祚大嘗祭の区別はなかった。通例の大嘗祭とは別に、格別の規模のものが執行されたのは天武天皇の時が初めである。ただし、当時はまだ即位と結びついた一世一度のものではなく、在位中に何度か挙行された。 律令制が整備されると共に、一世一代の祭儀として「践祚大嘗祭」と名付けられ、祭の式次第など詳細についても整備された。『延喜式』に定められたもののうち「大祀」とされたのは大嘗祭のみである。また、大嘗会(だいじょうえ)と呼ばれることもあったが、これは大嘗祭の後には3日間にわたる節会が行われていたことに由来している。また後には通常の大嘗祭(=新嘗祭)のことを「毎年の大嘗」、践祚大嘗祭を「毎世の大嘗」と呼び分けることもあった。元来、記紀では大嘗・新嘗は、「祭」とも「会」とも称されていない。単に「大嘗」、「新嘗」とだけ記されている。奈良時代になると、「大嘗会」「新嘗会」と称されるようになり、平安時代となると、公式の記録では「大嘗祭」「新嘗祭」とされたが、日記類ではほとんどが「大嘗会」「新嘗会」である。この経緯から大嘗・新嘗を構成する重要な要素の一つが「会」にあったことが分かる。 延喜式に式次第が定められた後も、多少変化した。大嘗宮を建てる場所も、奈良時代より平安時代初期の平城天皇の御代から、大内裏の南中央に位置した朝堂院の前庭にあった竜尾壇の庭が用いられた。平安時代末期に朝堂院が焼亡してからは、安徳天皇の寿永元年(1182年)の大嘗祭のように内裏の紫宸殿の前庭を用いる例もあったが、おおよそ大極殿の旧地の龍尾壇下に建てられた。東山天皇の再興時には、大極殿址も明らかでなかったためか、安徳天皇の先例に倣って紫宸殿の前庭が用いられ、明治に至った。明治4年(1871年)の大嘗祭は、初めて東京の吹上御所で行われ、大正・昭和の時は「登極令」に拠って京都の大宮御所内の旧仙洞御所の御苑が用いられた。室町時代末期、戦国時代には、朝廷の窮乏や戦乱のため、延期または後土御門天皇の即位以降、東山天皇の時代の再興まで221年間行われなかったことなどもあるものの、天皇の代替わりに伴う重要な祭儀として、古くから継承されてきた。もっとも、江戸時代の再興の際には古式に則って、仏教僧尼の御所への出入りを禁じて歴代...

    太陽太陰暦が用いられていたころは、11月の二の卯の日に行われていた(新嘗祭も同様)。明治6年(1873年)にグレゴリオ暦を採用して以降は新暦の11月に行うようになり[注釈 1]、大正以降の大嘗祭はそれぞれ新暦の11月14日、14日、22日、14日に行われている。

    大嘗祭を行う祭祀の場所を大嘗宮という。これは大嘗祭のたびごとに造営され、斎行された後は破却、奉焼されてきたが、令和の大嘗祭から初めて資材が再利用されることになった。 古来、造営場所は朝堂院の前庭であった。祭の約10日前に材木と諸材料と併せて茅を朝堂院の前庭に運び、7日前に地鎮祭を行い、そこから数えて5日間で全ての殿舎を造営し、祭の3日前に竣工していた。後に大嘗宮の規模は大正、昭和の大典時と同規模と企画されるも、一般建築様式の大きな変化と共に、その用材調達、また技術面でも大きな変化があるためといった理由で、古来の大嘗宮のように5日間では造営できなくなったため、現在では数カ月かけて造営している。令和の大嘗宮は清水建設が9億5700万円で一般競争入札で落札し受注した。 童女が火を鑽出して国司や郡司の子弟の持つ松明に移し、その8人童男童女が松明を掲げて斎場に立ち、工人が東西21丈4尺(約65メートル)、南北15丈(約46メートル)を測って宮地とし、之を中に分け東に悠紀院、西に主基院とする。そして両国の童女が木綿をつけた榊を捧げ、両院が立つ四隅と門の場所の柱の穴に立て「斎鍬」(いみくわ)で8度穿つ。東西に悠紀殿・主基殿、北に廻立殿を設け、それぞれの正殿は黒木造 (皮つき柱) 掘立柱、切妻造妻入り、青草茅葺きの屋根[注釈 2]、8本の鰹木と千木、むしろが張られた天井を有する。外を柴垣で囲み、四方に小門をつける。使用された木材は長野県産カラマツ(柱)、北海道産ヤチダモ(神門)、静岡県産スギ(外壁)のほか、奈良県産、京都府産など約550立方メートル。 各社殿は以下の通りである。(画像について、特に明記のない場合は令和の大嘗宮のものである。) 悠紀殿(ゆきでん) 主基殿(すきでん) 1. 大嘗宮の中心をなす殿舎。「悠紀殿の儀」「主基殿の儀」と、同様の祭祀を2度繰り返して行う。 2. 殿内には中央に八重畳を重ねて敷き、その上に御衾(おんふすま)をかけ、御単(おんひとえ)を奉安し、御櫛、御檜扇を入れた打払筥を置く(寝座)。その東隣に御座がおかれ、伊勢神宮の方向を向いている。御座と向かい合って神の食薦(けこも)を敷き、事実上の「神座」として扱われる。 3. 黒木造、切妻屋根、茅葺き[注釈 2]、畳表張り、千木は悠紀殿が内削ぎ、主基殿が外削ぎ。 1. 悠紀殿 2. 悠紀殿の千木(内削ぎ...

    祭服

    天皇の祭服は純白生織(すずし)の絹地で奉製されており、これは最も清浄な服である。また、御冠は幘(さく)の御冠[注釈 8]、御石帯(おんせきたい)、御下襲(おんしたがさね)の裾(きよ)も用いての束帯である。 皇后の祭服は、白色帛御五衣(はくしょくはくのおんいつつぎぬ)、同御唐衣(おんからぎぬ)、同御裳(おんも)である。 掌典は、黒袍(くろほう)、束帯の上に小忌衣(おみごろも)をつけ、冠に日蔭蔓(ひかげのかつら)をつける。 采女は、白色帛畫衣(はくしょくはくのえぎぬ)、唐衣、紅切袴をつけ、その上に襅(ちはや)をつけ、髪に心葉(こころは)、日蔭糸をかける。 これとは別に、神座に奉安する斎服もある。 繪服(にぎたえ) 1. 絹製。古来三河国より供進されており、大正の大嘗祭以降は愛知県北設楽郡稲武町において、絹糸業者が謹製した。 麁服(あらたえ) 1. 麻製。古来阿波国より供進されていたが、平成の大嘗祭時には麻の栽培が全国的に廃れており、徳島県内では全く生産されていなかった。しかし古来の記録や畑は現存していたため、群馬県の現役の麻農家を招いて謹製した。 これらを収める細籠も延喜式に明記され...

    神具

    1. 御菅蓋(おかんがい) 2. 御菅蓋(おかんがい) 3. 脂燭(ししょく) 上:侍従用 下:神饌行立神饌行立用

    明治以降の「即位の礼・大嘗祭」関連儀式の具体的な日程等については、「即位の礼」の項目を参照。以下、特記がない場合は主な骨格が定まった『延喜式』の記述に従い、それ以降の変更(特に、明治以降の物)については追加して記載する。

    神楽歌曲目

    悠紀殿の儀、主基殿の儀ではいずれも神楽歌を演奏する。演奏は宮内庁式部職楽部が担当する。 悠紀殿の儀 1. 音取<ねとり>(笛、篳篥) 2. 阿知女作法 <あじめさほう>(本歌、末歌、和琴のみ) 3. 採物 3.1. 榊 3.2. 幣 4. 韓神 4.1. 閑韓神 4.2. 早韓神 主基殿の儀 1. 音取(笛、篳篥) 2. 阿知女作法(本歌、末歌、和琴のみ) 3. 小前張<こさいばり> 3.1. 薦枕 3.2. 志都也 3.3. 磯等 3.4. 篠波 4. 早歌 5. 朝倉 6. 其駒 7. 千歳(入御のとき)

    御告文(先例)

    現時点で史料によって確認できる大嘗祭の「御告文」は以下の通り。 1. 建暦二年(1212年)の順徳天皇大嘗祭の例[注釈 17] 建曆二年十月廿五日丁酉御記曰、公家於悠紀・主基神殿可被祈請申詞、一昨日廿三日教申 之、此事最祕藏事也、代々此事不載諸家記、又無知人歟、殊祕藏爲事也、其詞云、坐伊勢五十鈴河上天照大神、又天神地祇諸神明曰、朕因皇神之廣護、國中平安、年穀豐 稔、覆壽上下救濟諸民、仍奉供今年新所得新飯如此、又於朕躬攘除可犯諸災難於未萌、不祥惡事遂莫犯來、又於高山深谷所々社々大海小川而記名厭祭者、皆盡銷滅而已、是尤祕事也、朕字ハ只次第書樣也、實祈請時ハ可爲實名者也、 【書き下し案】 伊勢の五十鈴の河上に坐す天照大神、又天神地祇諸の神に明らけく曰さく、朕皇神の廣き護りに因り、國中平らけく安らけく、年穀豐かに稔り、上下を覆い壽ぎ、諸の民を救ひ濟さん、仍りて今年新たに得たる所の新飯を奉ること此の如し、又朕が躬に於て犯すべき諸の災難を未だ萌さざるに攘ひ除き、不祥惡事を遂に犯し來ること莫からん、又高き山深き谷所々の社々大海小川に名を記して厭ひ祭らん者、皆盡に銷し滅さんのみ、 1. 文正元年...

    憲法の政教分離原則との関係

    キリスト教・仏教関係者を始めとする国民の一部に、大嘗祭への国費支出や大嘗祭への都道府県知事の参列が日本国憲法の政教分離原則の観点から違憲であるという意見がある。この政教分離の観点から、いくつかの憲法訴訟が起こされているが、訴えは全て斥けられている。これらの原告敗訴は、国費支出が原告に不利益を与えないという判断や、知事が参列することが政教分離の目的効果基準に照らして政教分離に反しないという判断によるものである。 1977年(昭和52年)7月に最高裁大法廷で下された判決によると、「憲法の政教分離規定は国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものである。」とあり、政府はこれを理由の一つとして大嘗祭への国費支出を認めている。 ただし、1995年(平成7年)の大阪高裁判例では「平成の大嘗祭が既に終了しており、原告に不利益を与えない」との主旨で原告の訴えを斥けながらも、傍論において大嘗祭について「憲法違反の疑いは一概に否定できない」と指摘したこともある。 2018年12月10日、原告241名が天皇...

    田中初夫『践祚大嘗祭』木耳社、1983年
    岡田精司編『大嘗祭と新嘗』学生社、1979年、復刊1989年(特に折口信夫「大嘗祭の本義」)
    折口信夫『古代研究II 祝詞の発生』中公クラシックス、2003年。上記を収録
    吉野裕子『天皇の祭り』講談社学術文庫、2000年
  5. 氣比神宮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/氣比神宮
    • 概要
    • 社名
    • 祭神
    • 歴史
    • 摂末社
    • 祭事
    • 文化財
    • 気比神宮寺
    • 脚注
    • 関連項目

    福井県中央部、敦賀市市街地の北東部に鎮座する。敦賀は天然の良港を有するとともに、北陸道諸国(現在の北陸地方)から畿内への入り口であり、対外的にも朝鮮半島や中国東北部への玄関口にあたる要衝である。神宮はそのような立地であることから、「北陸道総鎮守」と称されて朝廷から特に重視された神社であった。 『古事記』『日本書紀』では早い時期に神宮についての記事が見えるが、特に仲哀天皇(第14代)・神功皇后・応神天皇(第15代)との関連が深く、古代史において重要な役割を担う。また、中世には越前国の一宮に位置づけられており、福井県から遠くは新潟県まで及ぶ諸所に多くの社領を有していた。 社殿はほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になる。空襲を免れた大鳥居は「日本三大鳥居」にも数えられる壮麗な朱塗鳥居であり、国の重要文化財に指定されている。また境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名発祥地であると伝える。そのほか祭事では多数の特殊神事が現在まで続き、古図、古面等の有形文化財を伝えている。

    神宮の社名について、史料には主なものとして次の呼称が見える(史料の引用には常用漢字体を使用)。 1. 気比大神/気比神(『古事記』[原 1]、『続日本紀』[原 2]等) 2. 笥飯大神/笥飯神(『日本書紀』[原 3][原 4][原 5]) 3. 気比神社(『日本後紀』[原 6]、『延喜式』神名帳) 4. 気比大神宮(『続日本後紀』[原 7]等) 5. 気比神宮(『日本文徳天皇実録』[原 8]等) 以上のほか、史料には「気比宮」「気比大明神」「気比社」「気比明神」などの呼称も見える。明治維新後、明治28年(1895年)には神宮号が宣下され、それ以後は社名を「氣比神宮」としている。なお、気比の松原の冠称「気比」も神宮の社名に由来するもので、同地が古くは神宮の領地であったことに因むとされる。 「ケヒ(気比/笥飯)」の由来としては、『古事記』[原 1]では「御食津(みけつ)」から「気比」に転訛したという。『古事記』の伝承に加え、古い表記の「笥飯」は当て字ながら「箱中の飯」を意味することから、「ケヒ」とは「食(け)」の「霊(ひ)」、すなわち食物神としての性格を表す名称とする説がある。これとは別に、応神天皇と気比神との名の交換を意味する「かへ(kafë)」から「けひ(këfi)」に変化したとする説もある。 以下本項では、社名には「氣比」を使用し、史料の引用など社名以外では常用漢字体の「気比」を使用して解説する。

    祭神は次の7柱。本殿(本宮)に主祭神と2柱、本宮周囲の四社の宮(ししゃのみや)にそれぞれ1柱を祀る。 本殿(本宮) 1. 1.1. 伊奢沙別命(いざさわけのみこと) - 主祭神。「気比大神」または「御食津大神」とも称される。 1.2. 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) - 第14代天皇。 1.3. 神功皇后(じんぐうこうごう) - 仲哀天皇の皇后。 四社の宮 1. 1.1. 東殿宮:日本武尊(やまとたけるのみこと) 1.2. 総社宮:応神天皇(おうじんてんのう) - 第15代天皇。 1.3. 平殿宮:玉姫命(たまひめのみこと、玉妃命) - 『気比宮社記』では神功皇后の妹の虚空津比売命とする。 1.4. 西殿宮:武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと) 祭神を7柱とする記載は、古くは『延喜式』神名帳に見える。『気比宮社記』によれば、当初の祭神は伊奢沙別命1柱であったが、大宝2年(702年)の社殿造営にあたって仲哀天皇・神功皇后を本宮に合祀、周囲に日本武尊ほか4柱を配祀したとする。

    創建・伝承

    社伝では、上古に主祭神の伊奢沙別命は東北方の天筒山に霊跡を垂れ、境内北東方にある土公の地に降臨したという。そして『気比宮社記』によれば、仲哀天皇の時に神功皇后が三韓征伐出兵にあたって気比神に祈願をすると、海神を祀るように神託があり、皇后は穴門に向かう途中で海神から干・満の珠を得た。そして仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に命じて気比神を祀らせたといい、これが神宮の創建になるとしている。またこの時、気比大神は玉姫命に神憑りして三韓征伐の成功を再び神託したとも伝える。その後大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀ったという。 また前述のように、『古事記』『日本書紀』では仲哀天皇・神功皇后・応神天皇の時期に記事が記されている。しかしながら、その後は持統天皇6年(692年)まで神宮に関する記事は見えないことから、7世紀中頃までは朝廷とのつながりは薄かったとして、7世紀後半頃に気比神の祭祀権が在地豪族から朝廷の手に移ったと推測される。

    神階

    1. 六国史時代における神階奉叙の記録 1.1. 天平3年(731年)12月10日、従三位 (『新抄格勅符抄』)[原 11]- 表記は「気比神」。 1.2. 承和2年(835年)2月23日、正三位勲一等 (『続日本後紀』)[原 15]- 表記は「気比大神」。 1.3. 承和6年(839年)12月9日、正三位勲一等から従二位勲一等 (『続日本後紀』)[原 16]- 表記は「気比大神」。 1.4. 承和7年(840年)9月13日、従二位勲一等 (『続日本後紀』)[原 14]- 表記は「気比大神」。 1.5. 嘉祥3年(850年)10月7日、正二位 (『日本文徳天皇実録』)[原 17]- 表記は「気比神」。 1.6. 天安3年(859年)1月27日、正二位勲一等から従一位勲一等 (『日本三代実録』)[原 18]- 表記は「気比神」。 2. 六国史以後 2.1. 寛平元年(889年)7月17日、越前国神を一階昇叙 (『日本紀略』)[原 19] 2.2. 寛平5年(893年)12月29日、正一位勲一等 (『類聚三代格』)[原 20]- 表記は「気比大神」。 2.3. 正一位勲一等 (『越前...

    神職

    気比神の祭祀は、古代には角鹿氏(つぬがうじ、角鹿直・角鹿海直)が担ったといわれる。この角鹿氏は敦賀における海上交通・漁業の統率者(海人族)であり、角鹿国造を務めた氏族である。敦賀市には首長墓として5世紀末の向出山1号墳(直径約60メートルの円墳、位置)が残るが、その副葬品には被葬者と東アジアのつながりが指摘される。この角鹿氏は、7世紀後半頃には朝廷の支配下に入ったと見られている。 記録上では、宝亀7年(776年)[原 21]に朝廷から初めて宮司職が置かれ、宮司は従八位に準じたとある。以後、文献では宮司として大中臣氏・中臣氏の各人物が見える[注 4]。延暦23年(804年)[原 6]からは、宮司の就任には神祇官の認可が必要となり、朝廷とのつながりを強めている。また承和2年(835年)[原 15]の記事では禰宜・祝の各職が見える。『延喜式』[原 22]によれば、松原客館(渤海使の客館)の検校も宮司が担っていた。なお『朝野群載』には、承暦4年(1080年)に神事を穢した祟りがあったため、神官に中祓を科した記録が見える。 古くは神職として大宮司・大祝・権祝・副祝・正禰宜・副禰宜職があり、...

    現在の摂末社は、摂社5社・末社9社の計14社(いずれも境内社)。摂社は伊佐々別神社以外は式内社で、末社のうちでも大神下前神社は式内社である。 これら摂末社のうち、本殿向かって左手に鎮座する伊佐々別・天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦・擬領・劔・金・林・鏡の9社には本宮と関係が深い神々が祀られており、「九社の宮(くしゃのみや、九社之宮)」と総称される。『続日本後紀』[原 14]によると、天利劔・天伊弉奈姫・天伊弉奈彦の3社は「気比大神之御子」であるという。

    例祭

    1. 宵宮祭(9月2日) 2. 神幸祭(9月3日) 3. 例大祭(9月4日) 4. 後日祭(9月5日から月次祭までの間) 5. 月次祭(9月15日) 氣比神宮の例祭(れいさい)は、毎年9月4日に行われる。古くは旧暦8月4日に行われたが、これは仲哀天皇・神功皇后以下4柱の合祀がなされた大宝2年(702年)8月4日に因むという。例祭自体は9月4日になるが、各種神事は2日の宵宮祭から始まる。そして15日の月次祭まで祭事が続くことから、一連の祭りは「気比の長祭」と称される。また、俗に「けえさんまつり」ともいう。この期間中は、敦賀市内でも「敦賀まつり」として各種行事が行われる。 2日には翌日からの祭りに備えて本殿で宵宮祭が行われ、大鳥居前には各町内から山車が集まって舞が奉納される。そして3日には神幸祭として、祭神の神霊を遷した鳳輦の市内巡幸が壮麗な行列とともに行われ、市内は大きな賑いを見せる。続く4日の例大祭は1年間で最重要の祭りである。この祭りでは神社本庁から献幣使が参向して幣帛料が献じられ、本殿において古式に則った神事が行われたのち、市内各町の山車の巡幸が行われる。その後、祭りは5日か...

    特殊神事

    神宮で行われる特殊神事。 御誓祭 1. 「みちかいまつり」。3月6日(古くは旧暦2月6日)。仲哀天皇2年2月6日、天皇自ら参詣して「此地に宮居を定めて永く居らん」と誓った故事に因む神事。 御名易祭 1. 「みなかえまつり」。3月8日(古くは旧暦2月8日)。神功皇后摂政13年2月8日、皇太子(応神天皇)と気比神が名易(名変え)を行なった故事に因む神事。本宮と伊佐々別神社(摂社)に海産物を主とする神饌が献じられる。 御田植祭 1. 「おたうえさい」。6月15日。田植え前に行われる神事で、田長以下早乙女が神楽歌を口ずさんで豊作祈願が行われる。平安時代から行われる神事であるという。 牛腸祭 1. 「ごちょうさい」。6月16日。9月の神幸祭で引く山車の順序を米くじで決める神事。女人禁制のほか厳重な制度のもと行われる。 総参祭 1. 「そうのまいりのまつり」。7月22日(古くは旧暦6月中卯日)。仲哀天皇2年に、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かった故事に因む神事。前日夜には「寅神祭」として、海上安全と船型神輿への神霊奉遷の神事が行われる。そして当日には御座船「神宮丸」に船型神輿...

    重要文化財(国指定)

    1. 大鳥居(建造物) 1.1. 1901年(明治34年)3月27日に古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行により国の重要文化財に指定。

    敦賀市指定文化財

    1. 有形文化財 1.1. 木彫 猿田彦面(彫刻) - 「天文十年(1541年)紀久次」の墨書を有する。1954年(昭和29年)4月25日指定。 1.2. 能面 尉 銘 イセキ(彫刻) - 1956年(昭和31年)4月1日指定。 1.3. 紙本著色 気比神宮古図(歴史資料) - 敦賀市立博物館寄託。1954年(昭和29年)4月25日指定。 2. 天然記念物 2.1. 気比神宮のユーカリノキ - 1983年(昭和58年)4月1日指定。

    関連文化財

    1. 氣比宮社記 9冊 - 敦賀市指定有形文化財(典籍)。平松周家著。2008年(平成20年)11月14日指定。

    気比神宮寺(けひじんぐうじ)は、氣比神宮にかつて存在した神宮寺。現在は廃寺。 『藤氏家伝』[原 28]によれば神宮寺の成立は霊亀元年(715年)で、文献上では全国の神宮寺の中で最古になる。同書によれば、藤原武智麻呂の夢に気比神が現れ、宿業によって神の身となったことの苦悩を告げて仏道による救済を求め、武智麻呂はその願いを容れて神宮寺を建立したという。 斉衡2年(855年)[原 29]には、気比大神宮寺と御子神宮寺(不詳)に対して得度僧5人・心願住者5人の計10人の常住僧を置くことが定められた。また、天安2年(858年)[原 30]には仏像造立費として稲1万束の充当、天安3年(859年)[原 31]には大般若経一部の安置の記事が見えるほか、貞観2年(860年)[原 32]記事では神宮寺が定額寺となされている。その後の経緯は記録がなく明らかでない。大永6年(1526年)の正遷宮に際して神宮寺御読経所で読経があったともいうが、廃絶の経緯・跡地は不詳。なお、付近の善妙寺や妙願寺では神宮寺を前身とするという由緒を伝える。 若狭・越前地方の神宮寺では、劔神社(丹生郡越前町)の神宮寺成立が710年代と推定されるほか[注 9]、若狭彦神社(小浜市)神宮寺の神願寺(若狭神宮寺)では養老年間(717年-724年)の創建譚が『類聚国史』[原 33]に記されている。気比神宮寺を含むこれら神宮寺の相次ぐ成立に関して、その時期・位置の近さから同一僧侶(一説に白山開基の泰澄)による活動を推測する説がある。また成立要因に関して、敗者として「祟り性」を備える仲哀天皇(氣比神宮祭神)・忍熊皇子(劔神社祭神)の霊を仏道の面から慰撫する目的であったと推測する説もある。

  6. 神宮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/神宮

    社名 所在地 祭神等 改称年 旧社格 皇室祖先神 神宮(伊勢神宮) 三重県 伊勢市 祭神:内宮・天照大神、外宮・豊受大神 伊弉諾神宮 兵庫県 淡路市 祭神:伊弉諾尊、伊弉冉尊 1954年(昭和29年) 官幣大社 霧島神宮 鹿児島県 霧島市 主祭神:天饒石国饒石天津日高彦 ...

  7. 行幸 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/行幸啓
    • 語法
    • 官報
    • 歴史上著名な行幸啓
    • 明治天皇「聖蹟」
    • 四大行幸啓
    • 古代の行幸
    • 平成期の行幸啓
    • 行幸を題材にした和歌
    • 行幸にちなむ名称
    • 記念切手

    皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の外出を行啓(ぎょうけい)/巡啓(じゅんけい)と言い、行幸と併せて行幸啓(ぎょうこうけい)/巡幸啓(じゅんこうけい)と言う。単に「行幸啓」といった場合は、天皇と皇后が一緒に外出することを指す場合が多い。 行幸啓した皇族が外出先から帰ることを還幸(かんこう)、還啓(かんけい)、還幸啓(かんこうけい)という。 これら以外の皇族の外出は御成り・お成り(おなり)、お成りをした皇族が外出先から帰ることをご帰還(ごきかん)と言う。 ただし、奈良時代などには、神功皇后の伊勢行幸[要説明]の様に行啓を行幸と言う場合もあった。また、奈良時代など[いつ?]には、行幸の際に宿泊するところを行宮(あんぐう、かりみや)と言う。 行幸に際し、地名や社名が付く場合がある。特に、目的地を持った行幸には地名が付くことがある。例えば、住吉大社に行幸する場合は「住吉行幸」などと呼ばれる。また、鎌倉時代の書物の中には「鞍馬御幸」などの表記も伺うことが出来る。江戸時代に入ると、慶安4年2月25日(1651年4月15日)の後光明天皇による朝覲行幸以後、文久3年3月11日(1863年4月28日)の孝明天皇による上賀茂神社・下鴨神社行幸まで行幸は行われなかった(ただし、火災等による御所移動時の行幸は除く。また、天保8年(1837年)には江戸幕府との合意によって仁孝天皇による朝覲行幸が計画されていたが、対象となる光格上皇の病気と崩御によって実現されなかった)。明治の「東京行幸」は行幸と言う言葉を使い、その形態を装っているが、実質的な東京奠都と言う意味で用いられる。 現在、宮内庁法他に用いられる法令用語でもある。

    独立行政法人国立印刷局が発行する官報には、天皇・皇后の行幸啓があった場合、下記の項目が掲載される。 1. 行幸啓した者(天皇の行幸・皇后の行啓・両者の行幸啓) 2. 行幸啓先とその目的 3. 出門と還幸啓の日時 具体的には、下記の例のように掲載される。 1. 天皇陛下は、九月二十八日午後零時四十一分御出門、第百六十五回国会開会式に御臨場のため、国会議事堂へ行幸、同一時十九分還幸になった。 2. (平成18年10月2日月曜日付官報第4434号より引用)

    聚楽第行幸:後陽成天皇、1588年(天正16年)4月14日-18日。
    二条城行幸:後水尾天皇、1626年(寛永3年)10月25日-30日
    地方巡幸:明治天皇、1868年(明治元年)以降。
    地方巡幸:昭和天皇による台湾行啓。1946年(昭和21年)以降、一時期の中断をはさんで1954年(昭和29年)まで続いた。昭和天皇の戦後の巡幸都道府県一覧も参照。

    史蹟名勝天然紀念物保存法により史蹟に指定されていた明治天皇の行在所等の「聖蹟」は、1948年(昭和23年)6月29日付け、昭和23年文部省告示第64号によって一斉に指定解除された。同告示(『官報』6435号所載)には指定解除物件の一覧がある。

    天皇は毎年開催される以下の行事には皇后を同伴して行幸するため「四大行幸啓」と言われる。 1. 全国植樹祭 2. 国民体育大会 3. 全国豊かな海づくり大会 4. 国民文化祭 この時には当該行事に臨席するだけでなく、天皇、皇后の希望により地域の高齢者福祉施設、障碍者福祉施設の視察・行幸啓を計画に入れるのが慣例になっている。

    天平15年(743年)に聖武天皇が恭仁宮から紫香楽宮に行幸した際に五位以上が28名、六位以下が2370名随行(当時の用語では「陪従」と呼ぶ)したと記されている(『続日本紀』天平15年4月辛卯条)他、また他の奈良時代から平安時代にかけての他の行幸でも1000名以上の随行が確認できる行幸が複数確認できるため、天皇の行幸となるとその1000名もしくは2000名クラスでの陪従者が発生したと考えられる。行幸に際しては律令官人は天皇に随従する「陪従」と宮都を守護する「留守」を務めるものとされ、特に前者は功労として位階の授与が与えられる場合があった。また、公式令には中国の例に倣って天皇の行幸時には皇太子が監国を務めて留守を守ることを前提とした条文が存在しているが、史書で確認できる行幸では皇太子が陪従している事例がほとんどで、皇親や議政官が「留守官」に任じられて天皇の留守中の宮都の管理を行っていた。

    現在(平成以降)の行幸啓は、天皇皇后の二人で行う「行幸啓」が原則である。国内の行幸は金曜日から月曜日、土曜日から火曜日の三泊四日で一つの道府県を訪問するように計画される。行幸啓においては宮内庁の総務課長が「行幸主務官」として責任者となる。そのため総務課長は警察庁からの出向者が務める。行幸啓に使用する交通機関は航空機は民間の航空会社の特別機、新幹線も特別車となる。見送りには首相、宮内庁次長、警視総監が出席する。1994年2月の小笠原行幸啓では、現地に飛行場がなく、船舶では時間がかかるため、海上自衛隊のUS-1A飛行艇が使用された。

    このたびは幣もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに(菅原道真)
    小倉山峰のもみぢ葉心あらばいまひとたびの御幸またなむ(藤原忠平)
    御幸道路:三重県道37号鳥羽松阪線等の通称で、伊勢神宮への参道。明治天皇の行幸から。
    行幸道路:東京都道・神奈川県道51号町田厚木線の通称。昭和天皇の行幸から。
    行幸通り:東京都道404号皇居前東京停車場線の通称。行幸の際に使う、皇居と東京駅を継ぐ道路。
    みゆき通り:兵庫県姫路市。明治天皇の行幸から。

    台湾総督府は1923年(大正12年)に皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)が台湾を行啓した際に1銭5厘と3銭の記念切手2種を発行している。 切手の発行権限は逓信省(現在の日本郵政)にあったため、形式的には日本国内全域で使える切手であったが、発売されたのは東京中央郵便局及び台湾総督府管内の郵便局でのみであった。描かれていたのは台湾一の高峰であり当時日本一高い山であった新高山(現在名玉山)である。なお、この切手は行啓日初日の4月9日に発行予定であったが、4月1日に北白川宮成久王が自動車事故で薨去したため、行啓が延期され発行も延期になった。そのため切手は行啓が行われた4月16日に発行された。

  8. 安房神社 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/安房神社
    • 概要
    • 祭神
    • 特徴
    • 歴史
    • 境内
    • 摂末社
    • 祭事
    • 文化財
    • 脚注
    • 参考文献・サイト

    千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、神話時代に阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。 古代の安房国はアワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない神郡が設置された点や、出雲国造(出雲大社奉斎氏族)・紀伊国造(和歌山の日前國懸神宮奉斎氏族)に並び安房国造が律令制下でも祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。中世以降は安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。 境内は、抜歯習俗を示す人骨多数を包含した洞窟遺跡の発見でも知られ、その遺跡(現在は埋没)は千葉県指定史跡に指定されている。また、社宝のうちで八稜鏡・円鏡などの文化財を伝世するほか、阿波忌部の開拓に因んだ祭礼が現在まで続けられている。

    本宮(上の宮)の祭神は次の7柱。 主祭神 1. 1.1. 天太玉命(あめのふとだまのみこと) - 忌部氏(斎部氏)祖神。 相殿神 1. 1.1. 天比理刀咩命(あめのひりとめのみこと)[注 1]- 后神。 1.2. 忌部五部神 1.2.1. 櫛明玉命(くしあかるたまのみこと) - 出雲忌部の祖。 1.2.2. 天日鷲命(あめのひわしのみこと) - 阿波忌部の祖。 1.2.3. 彦狭知命(ひこさしりのみこと) - 紀伊忌部の祖。 1.2.4. 手置帆負命(たおきほおいのみこと) - 讃岐忌部の祖。 1.2.5. 天目一箇命(あめのまひとつのみこと) - 筑紫忌部・伊勢忌部の祖。 『延喜式』神名帳での記載は「安房坐神社」の1座。同帳ではそれに続けて式内大社「后神天比理乃咩命神社(天比理刀咩命神社)」[注 1]の記載がある。これは安房坐神社の后神(妃神/妻神)を祀る神社と見られ、現在では洲崎神社(館山市洲崎)・洲宮神社(館山市洲宮)に比定されているが、いつの頃からか安房神社でも上記のように相殿神として併祀されている。 神名帳の記す「安房坐神社」とは「安房に鎮座する神の社」の意味になり、この記載からは元々の神格を明らかとしない。その具体的な神格を巡っては後述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文の記述を基に諸説があるが、現在の安房神社由緒では上記のように忌部氏祖神の天太玉命を指すとしている。

    安房神社は、古代に神郡(一郡全体を特定神社の所領・神域と定めた郡)を持った数少ない神社の1つとして知られる。『令集解』[原 8]や『延喜式』[原 9]によると、当時全国には神郡として安房国安房郡のほか伊勢国度会郡・伊勢国多気郡・下総国香取郡・常陸国鹿島郡・出雲国意宇郡・紀伊国名草郡・筑前国宗像郡の計8郡があり、これらは「八神郡」と総称された。 安房神郡に関する記事としては、文武天皇4年(700年)[原 10]に上総国司が申請して安房郡の大少領職に父子兄弟の連任が許された旨のほか、養老7年(723年)の太政官処分[原 8]における郡司職の三親等以上の連任許可の記事が見え、他の神郡同様に郡司任用で特別措置が取られている。この郡司職および安房神社祭祀を担ったのは、出雲国造・紀伊国造(紀国造)の例のように安房国造(阿波国造)一族であったと見られている。この国造一族は、前述のように膳大伴部を在地で統率する大伴直(膳大伴直、のち伴直)氏族とされ、この国造による神郡統括に見られるように、安房国・安房神は朝廷から「御食都国」・「御食都神」と認識されて重要視された。 文献では『先代旧事本紀』[原 6]で「大伴直大瀧」が初めて国造に任じられたとする伝説が見えるが、この大伴直(伴直)一族が国造を担ったことは嘉祥3年(850年)記事[原 11]の「安房国々造正八位上伴直千福麻呂」の記載からも裏付けられる。そのほか弘仁2年(811年)記事[原 12]に見える安房国人の「大伴直勝麻呂(大伴登美宿禰勝麻呂)」、また承和3年(836年)記事[原 13]に見える安房郡人の「伴直家主」も安房国造一族と推測される。『洞院家記』や『北山抄』によれば、この安房国造は10世紀頃までの継続が確認される。 なお、平安時代中期の『和名抄』では安房国安房郡に神戸郷・神余郷の記載が見えるが、これらは安房郡が神郡であったことに関わると見られる。

    創建

    社伝では、前述の『古語拾遺』[原 1]・『先代旧事本紀』[原 2]の説話を基にしたうえで、神武天皇元年に天富命(下の宮祭神)が阿波地方(現在の徳島県)から安房地方に至り、当地を開拓したのちに布良浜の男神山・女神山に祖神の天太玉命・天比理刀咩命を祀ったとし、これをもって創祀とする。続けて『安房忌部家系之図』に基づき、養老元年(717年)に吾谷山(あづちやま)山麓の現在地に遷座し、その際に天富命・天忍日命が「下の宮」に祀られたとする。 安房地方に残る伝承として『安房忌部本系帳』(白浜町下立松原神社神官の高山家文書)では、天止美命(天富命)はその創祀の際、天太玉命が天上から持ち来たった神宝を納め、娘の飯長姫命に奉仕させたとする。また『安房忌部家系』では、飯長姫は由布都主命(天日鷲命子孫)と結婚したとし、これが安房忌部氏の祖であるとする。 前述のように、忌部氏による開拓を示す確実な史料はないため、上記伝承の史実性は確かではない。確かな史料の上では、前述のように古代安房地方は食膳(特にアワビ)の供給地としての性格が強く、安房神もまた古くから朝廷の「御食都神」としての性格を持ったとされる。な...

    概史

    文献では、前述のように『古語拾遺』・『先代旧事本紀』・『高橋氏文』逸文などにそれぞれ記述が見える。また『新抄格勅符抄』大同元年(806年)牒[原 14]では、「安房神」には神戸としてすでに94戸が充てられていたが、当時さらに10戸が加えられたと見える。これは東国随一の鹿島神(茨城県鹿嶋市の鹿島神宮)の105戸に次ぐ規模になる。 国史では、承和3年(836年)[原 15]に「安房大神」の神階が無位から従五位下に昇叙された旨のほか、続けて承和9年(842年)[原 16]に正五位下に昇叙され、承和14年(847年)[原 17]には「安房国大神」の祭祀料に正税の穀100斛が加えられた旨の記事が見える。その後も、神階は仁寿2年(852年)[原 18]には従三位、天安3年(859年)[原 19]には正三位勲八等にまでそれぞれ昇叙された。 延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では安房国安房郡に「安房坐神社 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。『延喜式』臨時祭式では「安房神社」として記載される。なお、神名帳に見える下野国...

    神階

    1. 承和3年(836年)7月17日、無位から従五位下 (『続日本後紀』)[原 15]- 表記は「安房大神」。 2. 承和9年(842年)10月2日、従五位下から正五位下 (『続日本後紀』)[原 16]- 表記は「安房大神」。 3. 仁寿2年(852年)8月22日、従三位 (『日本文徳天皇実録』)[原 18]- 表記は「安房神」。 4. 天安3年(859年)1月27日、従三位勲八等から正三位勲八等 (『日本三代実録』)[原 19]- 表記は「安房神」。

    社殿

    本宮は摂社(下の宮)に対して「上の宮」と称される。境内摂社「下の宮」に対し本宮を「上の宮」と称するのは、伊勢神宮の内宮・外宮に倣ったとする説がある。 現在の本殿は、明治14年(1881年)の造営。間口三間・奥行二間の神明造で、屋根は檜皮葺であり、平成21年(2009年)に大修造が実施されている。本殿前に建てられている拝殿は、昭和52年(1977年)の造営で、鉄筋コンクリートによる神明造。また本殿北側には、主に置炭神事で使用される神饌所が接続する。 1. 本殿 2. 一の鳥居 3. 拝殿前の参道 4. 神饌所 5. 御仮屋 以前は渡御してきた神輿が安置された。 6. 二の鳥居

    洞窟遺跡

    あづち茶屋の裏手には「安房神社洞窟遺跡」として、昭和7年(1932年)の井戸掘削工事の際に地下約1メートルで見つかった海食洞窟の遺跡がある。洞窟の大きさは推定全長22メートル以上、幅3.5メートル。発掘調査により人骨22体、貝製の腕輪193個、石製の丸玉3個、縄文土器などが出土した。この洞窟は昭和42年(1967年)に千葉県指定史跡に指定されたが、現在は埋め戻されている。 出土した人骨22体のうちでは、15体に抜歯の習俗が見られることが注目される。洞窟からは弥生土器が発見されたというが、その土器の存在が明らかでなく詳細が不明であるため、従来弥生時代とした人骨の年代については再検討が必要とされる。これらの人骨を安房神社祭祀に関係する一族に比定して、安房神社の創祀を弥生時代に遡ると推定する説もある。人骨の一部は近くの宮ノ谷に埋葬されたうえで忌部氏に仮託して「忌部塚」として祀られており、毎年7月10日には神事として「忌部塚祭」が行われる。この忌部塚は、二の鳥居前の階段の手前を東に道なりに行った場所に位置する。 1. 洞窟遺跡の位置(現在は埋め戻し)

    摂社

    1. 下の宮 1.1. 祭神:天富命(あめのとみのみこと、天太玉命の孫神)、天忍日命(あめのおしひのみこと、天太玉命の弟神[注 3]) 1.1. 社伝では養老元年(717年)の創祀とする。ただし寛永年間(1624年-1645年)の旧記には祭神が天日鷲命・天神立命・大宮売命・豊磐窓命・櫛磐窓命と記されており、祭神には変遷があったことが知られる。

    末社

    境内末社として次の2社がある。 1. 厳島社 1.1. 祭神:市杵島姫命(いちきしまひめのみこと) 1.1. 本宮拝殿前の巨岩をくり貫いて小祠を作るため、元を古代磐座と推測する説がある。 2. 琴平社 2.1. 祭神:大物主神(おおものぬしのかみ) 1. 厳島社 手前の巨岩内。 2. 琴平社

    主な祭事

    有明祭 1. 「ありあけさい」。1月4日。かつては神狩祭(12月26日)から10日間に神職・総代は神社に参籠し、有明祭で籠もり明けを迎えた。現在も有明祭では「舌餅」などの特殊神饌が供えられる。 置炭神事 1. 「おきずみしんじ」。1月14日夕刻、門松の松材で起こした火で粥を炊き、燃え残った松材12本を取り出して並べ、それらの燃え具合によりその年の天候を占う。 粥占神事 1. 「かゆうらしんじ」。1月14日夕刻の置炭神事の際に粥の中にすのこ状に編んだ葦筒12本を沈め、1月15日朝に葦筒を取り出して筒を割り、筒中の粥の入り具合・色つやでその年の作物の豊凶を占う。 例祭 1. 8月10日(旧暦9月28日)。各種祭事のうち最も重要な祭で、「浜降祭」や「磯出の神事」とも称する。天富命の開拓がなってより毎年、各地の忌部が相浜に集い安房神社に参拝したとする故事に因む神事。かつては近郷9社(洲宮神社・下立松原神社・布良崎神社・日吉神社・相浜神社・犬石神社・八坂神社・熊野神社・白浜神社)から安房神社までの神輿渡御があったが、現在は行われていない。 国司祭 1. 「こくしさい」。9月中旬、敬老の日前...

    千葉県指定文化財

    1. 史跡 1.1. 安房神社洞窟遺跡 - 昭和42年3月7日指定。

    館山市指定文化財

    1. 有形文化財 1.1. 双鳥花草文八陵鏡・双鳥花草文円鏡(工芸品) 1.1.1. 八陵鏡(正しい用字は「八稜鏡」)[注 4]は鎌倉時代末期頃の作、円鏡は南北朝時代頃の作。明治26年(1893年)に東京の装束師から奉納された。昭和44年2月21日指定。 1.2. 安房神社高坏(考古資料) 1.2.1. 古墳時代、5世紀初頭頃の祭祀で使われたものとされる土師器の高坏。大正8年(1919年)の下宮再建工事時に、現在の社殿の下から出土した。昭和44年2月21日指定。 2. 有形民俗文化財 2.1. 狛犬・燧筐・木椀 4点 2.1.1. 木造狛犬は鎌倉時代末頃の作、燧筐(ひうちばこ)は御狩神事における神燈点火用具で鎌倉時代の作、木椀は神饌を供えるもので鎌倉時代の作。昭和37年7月23日指定。

    関連文化財

    1. 岡嶋家所伝安房忌部系図 - 館山市指定有形文化財(書跡典籍等)。安房神社社家の岡嶋家に伝わる系図。昭和44年2月21日指定。

    神社由緒書「安房国一之宮 安房神社略記」
    境内説明板
  9. 蘇我馬子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/嶋大臣
    • 生涯
    • 異説
    • 伝説
    • 系譜
    • 関連項目

    以下は『日本書紀』『古事記』の記述によるものである。 敏達天皇元年(572年)の敏達天皇の即位時に大臣となる。 敏達天皇13年(584年)百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国(一説によると赤穂郡矢野庄)で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。 敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。 同年6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。 同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。 1. 守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」 2. 馬子「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」 橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。 用明天皇2年4月(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた...

    馬子の人物については『古事記』『日本書紀』の記述に負うところが大きいが、いずれも後年藤原氏が権力を握ってから編纂されたもので、藤原氏が栄達する契機となった乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした正当性を高める目的で、記紀に登場する蘇我氏は皇室乗っ取りを目論む横暴な豪族として悪事ばかりが強調されているのではないかという説がある。 推古帝の時代に冠位十二階制度や十七条憲法の創設、遣隋使派遣といった政治外交における大きな事績を無視するわけにいかず、これらを中心となって主導した馬子の功績を皇族である厩戸皇子(聖徳太子)が行ったものと記し、馬子を太子の政敵に位置づけたとする説(「聖徳太子はいなかった」説、「聖徳太子=蘇我馬子」説)がある。 また、専横著しい蘇我氏を排除したとされる大化の改新についても、近年事実関係が異なるのではないかという説が提唱されており、馬子の子と孫である蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子は後に実現する律令体制への移行を推し進め、外交面では朝鮮半島への派兵計画に反対していたが、天皇即位を目論んでいた軽皇子は乙巳の変で入鹿を殺害し、蝦夷を自殺に追い込み、直後に孝徳天皇として即位した。その後、百済支援を名目とした朝鮮半島への武力介入を強行したものの白村江の戦いに大敗し、唐、新羅との対立が深まる結果となった(乙巳の変#反動クーデター説)。その後、天智天皇として即位した中大兄皇子により唐との外交関係の修復や太宰府の強化による国防計画、近江大津宮への遷都が試みられたものの国内の不満は収まらず、その死後に壬申の乱を招く結果となっている。 奈良県明日香村において、蘇我入鹿邸跡とみられる遺構が発掘されているが、日本書紀に記されているように入鹿が「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と呼称してあたかも天皇のごとく振る舞った根拠とされる遺跡からは武器庫や武器が発見されており、さながら軍事要塞の体を成していたことが確認されている。 入鹿が唐の侵略を警戒し、外交による解決を図るとともに有事の際に皇室を護る備えをしていたのではないかとする仮説が立てられており、日本書紀の記述とは大きな隔たりがあることが確認された。また、改新の詔の内容については藤原京から出土した木簡により文書が奈良時代に書き換えられたものと決着した。このように遺跡発掘による科学調査が進むにつれて、日本書紀の記述に疑いが生じ、蘇我氏専横につい...

    兵庫県相生市小河には宇麻志神社(うましじんじゃ)という神社があり、今の祭神は宇摩志阿斯訶備比古遅神であるが、明治維新以前は「馬子宮」と呼ばれ蘇我馬子を祀っていたとされる。 伝説によれば、蘇我馬子が相生に来て死んでしまい、その従者の将監光庵はその地名により小河を姓名とし、馬子の為に菩提を弔い、剃髪して庵を結び、光庵禅師を名乗り、子孫代々光庵を名乗ったという。

    父は蘇我稲目。 姉に蘇我堅塩媛(欽明天皇妃)、『日本書紀』では妹に蘇我小姉君(欽明天皇妃。なお『古事記』では「小兄比売」は堅塩媛のおばとされる)。 妻は『日本書紀』では物部弓削大連(物部守屋)の妹、『紀氏家牒』・『石上振神宮略抄』神主布留宿禰系譜料では物部守屋妹の「太媛」、『先代旧事本紀』天孫本紀では物部鎌足姫大刀自(父は物部守屋の異母弟石上贄古大連、母は物部守屋同母妹の布都姫)とある。 子に蘇我善徳、蘇我倉麻呂、蘇我蝦夷。蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂は孫。また、娘に河上娘(崇峻天皇妃)、法提郎女(田村皇子妃)、刀自古郎女(聖徳太子妃)など、外戚となって権力をふるった。

  10. 伊古奈比咩命神社 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/伊古奈比め命神社
    • 概要
    • 社名
    • 祭神
    • 歴史
    • 境内
    • 摂末社
    • 文化財
    • 参考文献・サイト
    • 関連文献
    • 関連項目

    静岡県東部の伊豆半島先端部、白浜海岸にある丘陵「火達山(ひたちやま/ひたつやま)」に鎮座する。この火達山は伊豆諸島を祀る古代遺跡でもあるが、その祭祀は現在まで伊古奈比咩命神社の祭祀として続いている。伝承では、主祭神の伊古奈比咩命は、伊豆諸島開拓神の三嶋神の后神であるという。また、三嶋神は三宅島から白浜(当地)、そして伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)へと遷座したとも伝える。 境内の火達山は、祭祀遺跡として下田市指定史跡に指定されている。また、火達山に自生するアオギリ樹林は国の天然記念物に、ビャクシン樹林は静岡県指定天然記念物に指定されている。そのほか、大久保長安奉納の鰐口(静岡県指定文化財)に代表される文化財数点が伝わっている。

    現在の社名は、主祭神の伊古奈比咩命の名を掲げた「伊古奈比咩命神社」である。この社名は、平安時代の『延喜式』神名帳に記載されるものである。当社がこの『延喜式』所載社であることを伝える史料としては唯一、江戸時代の慶長12年(1607年)の鰐口にある「伊古奈比咩命大明神」の銘が知られる。 通称の「白濱神社(白浜神社)」は、鎮座地の地名に由来するものである。「白浜」とは海岸の白砂を表した名称であるが、その起こりは明らかではない。この呼称は江戸時代に広く見られ、当社は「白濱大明神」「白濱神社」「白濱大社」「白濱五社大明神」等と称されていた。うち「五社大明神」は、祭神数に由来するものである。そのほか、三嶋神の旧鎮座地(古宮)であるという伝承から、「古宮山大明神」「古宮山五社大明神」という呼称も使用された。明治期に正式社名は現在の「伊古奈比咩命神社」に定められたが、現在も「白濱神社」と通称されている。

    祭神は次の5柱。神体は5柱とも神鏡である。 主祭神 1. 1.1. 伊古奈比咩命(いこなひめのみこと) 1.1.1. 三嶋大明神の后神。 相殿神 1. 1.1. 三嶋大明神(みしまだいみょうじん) 1.1.1. 伊豆国一宮の三嶋大社(静岡県三島市)祭神。別名を事代主命(ことしろぬしのみこと)とする。 1.2. 見目(みめ、見目大神) 1.2.1. 女神。三嶋大明神の随神。 1.3. 若宮(わかみや、若宮大神) 1.3.1. 男神。三嶋大明神の随神。 1.4. 剣の御子(つるぎのみこ、劔御子大神) 1.4.1. 男神。三嶋大明神の随神。

    創建

    社伝(由緒書)によると、まず三嶋神は南方から海を渡って伊豆に至った。そして富士山の神・高天原の神から伊豆の地を授けられ、白浜に宮を築き、伊古奈比咩命を后に迎えた。さらに、見目・若宮・剣の御子の3柱や竜神・海神・雷神などとともに伊豆諸島の島焼き(造島)を行なった。島焼きによって、初島に始まり神津島・大島・三宅島・八丈島など合計10の島々を造り、自身は三宅島に宮を営んだ。その後しばらくして、白浜に還ったという。以上の伝承は、伊豆地方に伝わる縁起『三宅記』(鎌倉時代末期と推定)に記載されるものである。同書では島焼き以前に白浜を宮としたかについては記載はないが、孝安天皇(第6代)元年に三嶋神は天竺から至り、孝安天皇21年から島焼きを行なったとする。 伊古奈比咩命神社の鎮座する火達山からは多くの祭器具が見つかっており、当地では古代から祭祀が行われていたものと推測される。また、上記『三宅記』に見えるように、三嶋神は伊豆府中の現在地以前には白浜にあったとされており、後述の天長9年(832年)記事の「神宮二院」の表現や、『延喜式』神名帳の賀茂郡における三嶋神・伊古奈比咩命の登載はそれを示唆するも...

    神階

    1. 六国史における神階奉叙の記録 1.1. 天長9年(832年)5月22日、名神に預かる (『釈日本紀』所引『日本後紀』逸文)[原 4][注 4]- 表記は「伊古奈比咩神」。 1.2. 嘉祥3年(850年)10月8日、従五位上 (『日本文徳天皇実録』)[原 7]- 表記は「伊古奈比咩命神」。 1.3. 嘉祥3年(850年)11月1日、官社に列す (『日本文徳天皇実録』)[原 8]- 表記は「伊古奈比女神」。 1.4. 仁寿2年(852年)12月15日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』)[原 9]- 表記は「伊古奈比咩命神」。 1.5. 斉衡元年(854年)6月26日、正五位下 (『日本文徳天皇実録』)[原 10] - 表記は「伊古奈比咩神」。仁寿2年の記事と内容は重複[注 6]。 2. 六国史以後 2.1. 一品 (『伊豆国神階帳』) - 表記は「当きさの宮」。

    神職

    江戸時代頃、伊古奈比咩命神社には37の社家が存在したとされる。しかしながらこれらの家は、その後の本社衰退によって帰農した。寛保元年(1741年)頃には、原家(現在の神主家)1家にまで縮小したという。この原家は、『三宅記』に見える壬生御館(みぶのみたち:三嶋神初代奉斎者)の後裔であるとされる。 明治期の原家以外の社家には27家が見えるものの、いずれも帰農して祭祀にあずかってはいなかった。これらの社家は各家1社の氏神を祀っていたが、現在それらの社は「二十六社神社」として本社境内に合祀されている。

    現在の境内は、白浜海岸北側に突き出た岬の丘陵「火達山(ひたちやま)」に位置する。境内面積は1.5ヘクタール、また境外地として2.6ヘクタールを有する。火達山には山上に本殿、山麓には拝殿が建てられている。これらの社殿は北西に面し、後背に伊豆諸島を背負っている。 火達山からは祭祀用と見られる奈良時代・平安時代の多数の土師器・須恵器が見つかっており、伊豆諸島に関する古代祭祀遺跡の様子を残していることから、境内は「火達山遺跡」として下田市指定史跡に指定されている。下田市沿岸部には火達山遺跡のほかにも海島祭祀遺跡が多く存在しており、ほかには夷子島遺跡(須崎)、三穂ヶ崎遺跡(白浜)、遠国島遺跡(田牛)などが知られる(いずれも下田市指定史跡)。

    伊古奈比咩命神社の関係社について、慶長年間(1596年-1615年)の水帳には社家持の計27社の記載が、文化15年(1818年)の縁起では末社計33社の記載があり、古くは70社近くにも及ぶ摂末社を有したとされる。現在の摂末社は次の通り。 境内社 1. 二十六社神社 1.1. 大正10年(1921年)の遷宮に際し、境内社26社を1社に合祀したものである。元々は、社家の各家で氏神として祀られていた。 1.2. 内訳は少彦名命神社、御子神社、応神神社、須佐之男命神社、天児屋根命神社、天水分命神社、天照皇大神社、級長戸辺神社、木花開耶姫命神社、瀬織津姫命神社、倉稲魂命神社、豊宇気姫命神社、経津主神社、熊野神社、海津見神社、海津豊玉彦神社、大年神社、石長比売命神社、若宮八幡宮、亥神社、大雷神社、高皇産霊神社、金山毘古命神社、金山比売命神社、大山祇神社、豊受大神宮。 2. 砂村稲荷神社 3. 見目弁財天社 4. 聖徳太子命神社 1. 二十六社神社 2. 砂村稲荷神社 3. 見目弁財天社 境外社 1. 十二明神社 (下田市白浜、位置)) 1.1. 祭神:大楠命、小楠命、御代徳命、感農八甕命、横池命、伊迦命、知宇命、尾健御子命、尾健比命、見多諾命、伊豆奈比咩命、穂便感応命 1.1. 本社北西、神明(かみあけ)の地に鎮座する境外社である。文化15年(1818年)の縁起に見える神明周辺の神々をのちに合祀したものである。その神名は、本社境内社の著名な神名とは対照的に特徴的な神名が多く、三嶋神の一族神に相当すると推測されている。このことから、社誌では当地が三嶋神(三嶋大社)の旧鎮座地に相当すると見ている。ただしそれとは別に、当地を天長9年(832年)以前の三嶋神・伊古奈比咩命の鎮座地とする伝承もある。

    国の天然記念物

    1. 伊古奈比咩命神社のアオギリ自生地 - 昭和20年2月22日指定。

    静岡県指定文化財

    1. 有形文化財 1.1. 鰐口(工芸品) 1.1.1. 径42.3センチメートル、厚10.8センチメートルの鰐口。両肩には釣手を有する。慶長12年(1607年)3月、伊豆代官大久保長安の奉納によるものである。当時長安は縄地金山奉行であり、金山の隆盛を祈願して奉納したものといわれる。地金は青銅であるが、金の成分が相当含まれていると伝える。昭和31年10月17日指定。 2. 天然記念物 2.1. 白浜神社のビャクシン樹林 - 昭和44年5月30日指定。

    下田市指定文化財

    1. 有形文化財 1.1. 御正躰(みしょうたい)1面(工芸品) 1.1.1. 金銅製(銅製鍍金)、直径15.2センチメートル、厚0.1センチメートルの薄い円形板。文字、尊像などは見られないが、当初は墨画があったと考えられている。「施主忌部能次 大歳嘉禄元年(1225年)十二月日乙酉 若宮御正躰」という鎌倉時代の銘文を持つ。この御正躰は、文化9年(1812年)9月、境内裏山にあった神木「命の松」(昭和41年に倒木)の根元から掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。 1.2. 水草双鳥鏡(工芸品) 1.2.1. 青銅鋳製、表面径10.7センチメートル、縁厚0.7センチメートル。背面には、捩菊(ねじりぎく)文様座鈕を中心として、上下に水流と水草、左右に双鳥の文様が薄肉で表現されている。鋳上りも優れており、平安時代後期の典型的な和鏡とされる。この水草双鳥鏡は、文化9年(1812年)9月に御正躰とともに掘り出されたと伝える。昭和56年8月7日指定。 1.3. 亀甲地双雀鏡(工芸品) 1.3.1. 青銅鋳製、表面径11.4センチメートル、縁厚0.7センチメートル。亀甲地で、亀座鈕の近...

    神社由緒書「伊豆ノ国最古の宮 伊古奈比咩命神社誌(白濱神社)」
    境内説明板(下田市教育委員会、昭和58年(1983年)設置)
    『幸藻』白浜神社神徳発揚会編、啓成社、1916年。
    足立鍬太郎『神潭』伊古奈比咩命神社社務所、1920年。
    三嶋大社(位置) - 伊豆国一宮。祭神は伊古奈比咩命の夫神。
    阿波命神社(位置) - 祭神は三嶋神の本后。