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  1. 強制險 相關
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  1. 野村胡堂 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/野村胡堂あらえびす記念館
    • 経歴
    • 「あらえびす」の由来
    • 作品・著作
    • 参考文献
    • 関連cd
    • 外部リンク
    1882年 - 岩手県紫波郡彦部村(現在の紫波町)に農家の次男として生まれる。彦部尋常小学校、紫波高等小学校に学ぶ。高等小学校のときに自宅が全焼するという災難にも見舞われた。小学校時代には『絵本太閤記』や『水滸伝』を熱心に読み、特に『水滸伝』の登場人物の一人で投石を得意とした没羽箭張清は、のちに銭形平次の投げ銭を考案するときのヒントになったという。
    1896年 - 盛岡中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。同窓生には生涯付き合いが続く金田一京助がいた。金田一は胡堂の葬儀委員長を務めた。また、下級生に石川啄木が在籍しており、やはり同窓生だった及川古志郎に紹介されて知り合った。胡堂は啄木に俳句・短歌の手ほどきをしたと言われており、ともに校友会雑誌の編集を手掛けた。
    1907年 - 第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学に入学するが、学資が続かず退学し、『報知新聞』を発行する報知社に入社して政治部に配属された。同紙に人物評論欄「人類館」を連載し、このとき「胡堂」を号とした。また、「あらえびす」の筆名でレコード評論等も執筆した。社会部夕刊主任、社会部長、調査部長兼学芸部長、編集局相談役を歴任。
    1931年 - 文藝春秋発行の『文藝春秋オール讀物號』創刊号に捕物帳の執筆を依頼され、銭形平次を主人公にした「金色の処女」を発表、『銭形平次捕物控』の第1作目であった。これ以降、第二次大戦を挟んで1957年までの26年間、長編・短編あわせて383編を書いた。

    1938年発行の『レコード音楽』昭和13年3月号に、読者からの投書に答える形で、次のように述べている。 「ところで震災の前の年から私は美術と音楽のことも書くやうになつた。さうなると胡堂といふ名では少々堅苦しい感じがあるので、何か他の名を考へることにしたのが抑々あらえびすの名の出来るきつかけだつた。有名な浄瑠璃の「袖萩祭文」の中で「奥州のあらえびす……」云々と阿倍貞任が威張るくだりがあるが、胡堂の胡がそのあらえびすに相当するので(えびすに「にぎえびす」即ち熟蛮と「あらえびす」即ち生蛮の二種がある、その荒つぽい方なのである)、斯くして茲にあらえびすの名が誕生を見た次第だ。柔く平仮名で書いた」(『証言―日本洋楽レコード史(戦前編)』掲載)

    一般

    1. 『銭形平次捕物控』(毎日新聞社) 1. 再刊は新潮文庫、富士見時代小説文庫、嶋中文庫ほか、一部(傑作選)は光文社・PHP・講談社・中公・文春の各文庫 1. 『太郎の旅』(子供の科学社 1926年) 2. 『美男狩』(平凡社 1929年) のち講談社文庫大衆文学館 3. 『火星探險』(平凡社(少年冒険小説全集)1930年) 4. 『奇談クラブ』(四条書房 1931年)、河出書房新社(2018年) 5. 『三万両五十三次』(中央公論社 1934年) のち新潮文庫、中公文庫 6. 『戊辰戦役』(維新歴史小説全集 第10巻 改造社1935年) 7. 『万五郎青春記』(昭和長篇小説全集 第10巻 新潮社 1935年) 8. 『左門恋日記』(春陽堂書店(日本小説文庫) 1937年) 9. 『芳年写生帳 胡堂奇談集』(春陽堂書店 1939年) 10. 『変化七小町 野村胡堂奇談集』(春陽堂書店 1939年) 11. 『池田大助功名帖』(学芸社 1941年) 12. 『隠密縁起』(春陽堂書店 1941年) 13. 『隠密捕物帖』(今日の問題社 1941年) 14. 『南海復讐王』(学芸社(...

    少年少女小説

    参照:二上洋一『少年小説の系譜』(幻影城、1978年) 1. 梵天丸五郎(『少年少女譚海』1929年9月-1931年3月/講談社 1931年5月) 2. 岩窟の大殿堂(『少年世界』1930年1月-1931年7月/偕成社 1954年 のちソノラマ文庫) 3. 地底の都 (『少年倶楽部』1932年1月-12月/偕成社 1953年 のち少年倶楽部文庫) 4. 悪魔の王城(『少年世界』1932年1月-12月/偕成社 1954年) 5. 金銀島(『少女倶楽部』1933年1月-12月/ 愛育社 1947年3月 (野村胡堂・冒険小説名作選)) 6. 六一八の秘密(『少女倶楽部』1935年1月-12月/ 長隆舎書店 1942年 (胡堂・防諜冒険小説名作選) のちソノラマ文庫) 7. スパイの女王(『少女倶楽部』1938年1月-12月/大日本雄辯會講談社 1939年1月) 8. 江戸の紅葵(『新少年』不明/ 偕成社 1954年) 9. 怪奇傀儡城(『少年少女譚海』不明(傀儡城 胡堂・防諜冒険小説名作選 長隆舎書店 1942年) 10. 都市覆滅団(不明/ 光文社1950年)

    音楽

    1. 『バッハからシューベルト』(あらえびす レコード音楽社 1937年) 2. 『レコードによるロマン派の音楽』(あらえびす レコード音楽社 1937年) 3. 『楽聖物語』(レコード音楽社 1941年、復刻版・電波新聞社 1987年)、のち音楽之友社、角川文庫でも刊行 3.1. 『クラシック名盤 楽聖物語』(河出書房新社、2015年) 4. 『解説 運命交響曲』(野村あらえびす 東京楽譜出版社(音楽文化叢書) 1947年) 5. 『名曲決定盤』(あらえびす 中央公論社 1949年、改訂版・1979年/中公文庫(上下) 1981年) 5.1. 改訂版『名曲決定盤(上) 器楽・室内楽篇』、『(下) 声楽・管弦楽篇』(中公文庫、2015年6・7月) 6. 『紙上音楽会 レコードの選び方』(野村あらえびす 日本音楽雑誌株式会社 1946年、音楽之友社(音楽文庫) 1953年) 7. 『音楽は愉し』(野村あらえびす 音楽之友社(音楽文庫) 1953年/改訂版・音楽之友社、2014年)

    藤倉四郎『銭形平次の心 野村胡堂あらえびす伝』(文藝春秋1995年)
    藤倉四郎『バッハから銭形平次 野村胡堂・あらえびすの一生』(青蛙房2005年)
    太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』(教文館2003年)
    郷原宏『胡堂と啄木』(双葉社2019年)
    あらえびすSP名曲決定盤〜第1集〜 (日本音声保存)
    あらえびすSP名曲決定盤〜第2集〜 (日本音声保存)
  2. 人名用漢字一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/人名用漢字一覧

    この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。 人名用漢字一覧(じんめいようかんじいちらん) 本項では子の名に使える漢字(常用漢字 [1] および人名用漢字 [2] )について扱う。 子の名に使える漢字は2999字 [3]。

  3. 劉邦 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/劉邦
    • 出生
    • 任侠生活
    • 反秦連合へ
    • 漢王劉邦
    • 楚漢戦争
    • 天下統一
    • 粛清
    • 晩年

    戦国時代末期に楚の領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生した。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。生年については2説ある。 劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという。また、諱の「邦」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢の荀悦『漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである。 その頃の幼馴染に盧綰と樊噲がおり、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った。中国の主要王朝の創始者としては、後年の明の朱元璋と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかった。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。

    反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何と曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり満席になるので、この店は劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる。また、この任侠時代に張耳の食客になっていたともいう。 ある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と言った。この言葉は項羽が同じく始皇帝の行列を見たときに発した「奴に取って代わってやるわ!」という言葉とよく対比され、劉邦と項羽の性格の違いを表すものとして使われる。 あるとき、単父の有力者・呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた。これが呂雉である。 妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。ある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝と魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉...

    陳勝・呉広の乱と挙兵

    ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。 紀元前209年、陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何と曹参が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦に使者が行った後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災い...

    関中入り

    劉邦は西に別働隊を率いて行ったが、その軍勢は項羽軍に比べて質・量ともに劣っており、道々苦戦しながら高陽(現在の河南省開封市杞県)まで来た。ここで劉邦は儒者の酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた。酈食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、大梁を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける。 さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂齮を撃破して、呂齮が宛(現在の河南省南陽市宛城区)に逃...

    覇上に引き上げた劉邦は、この地に関中の父老(村落のまとめ役)を集めて“法三章”を宣言する。これは秦の万般仔細に及ぶ上に苛烈な法律(故に役人が気分次第で罰を与えたりもでき、特に政道批判の罪による処罰はいいがかりとしても多用された。しかも一族皆殺しもよくあることであった)を「人を殺せば死刑。人を傷つければ処罰。物を盗めば処罰」の三条のみに改めたものである。この施策に関中の民は歓喜し、牛などを献上しようとしたが、劉邦はこれを断った上で「我が軍の食料が十分だから断るのではない。民に出させるに忍びないのだ」と言った。これを聞いた民衆の劉邦人気は更に大きく高まり、劉邦が王にならなかったらどうしようと話し合うほどになった。後世、「法三章」は簡便な法律を表す法諺となっている。 その頃、東から項羽が関中に向かって進撃してきていた。劉邦はある人の「あなたが先に関中に入ったにもかかわらず、項羽が関中に入ればその功績を横取りする。関を閉じて入れさせなければあなたが関中の王のままだ」というを進言を聞いて、関中を守ろうとして関中の東の関門である函谷関に兵士を派遣して守らせていた。劉邦が関中入りできた最大の要因は、秦の主力軍の相手を項羽が引き受けたことにあり、それなのに劉邦は既に関中王になったつもりで函谷関を閉ざしていることに激怒した項羽は、英布に命じてこれを破らせた。項羽の軍師范増は、劉邦が関中で聖人君子の如く振る舞ったのは天下を狙う大望有るゆえと見て、殺すべきと進言。先の激怒もあって、項羽は40万の軍で劉邦を攻めて滅ぼしてしまおうとした。劉邦の部下である曹無傷は、これに乗じて項羽に取り入ろうと「沛公は関中の王位を狙い、秦王子嬰を宰相として関中の宝を独り占めにしようとしております」と讒言したので、項羽はますます激怒した。 項羽軍は劉邦軍より兵力も勇猛さも圧倒的に上であり、劉邦はこの危機を打開しようと焦っていたが、ちょうどその時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中に来ていた。項伯はかつて張良に恩を受けており、その恩を返すべく危機的状況にある劉邦軍から張良を救い出そうとしたのである。しかし張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、項伯を劉邦に引き合わせて何とか項羽に弁明させて欲しいと頼み込んだ。項伯の仲介が功を奏し、劉邦と項羽は弁明のための会合を持つ。この会合で劉邦は何度となく命の危険...

    項羽との対決

    この時期に劉邦陣営に新たに加わったのが韓信である。韓信は元は項羽軍にいたが、その才能がまったく用いられず、劉邦軍へと鞍替えしてきたのである。最初は単なる兵卒や下級将校であったが、やがて韓信の才能を見抜いた蕭何の推挙により、大将軍となった。その際に韓信は、「項羽は強いがその強さは脆いものであり、特に処遇の不満が蔓延しているため東進の機会は必ず来る。劉邦は項羽の逆を行えば人心を掌握できる」と説いた。また、「関中の三王は20万の兵士を犠牲にした秦の元将軍であり、人心は付いておらず関中は簡単に落ちる。劉邦の兵士たちは東に帰りたがっており、この帰郷の気持ちをうまく使えば強大な力になる」と説いた。劉邦はこの進言を全面的に用いた。 そして韓信の予言通り、項羽に対する反乱が続発し、項羽はその鎮圧のため常勝ながら東奔西走せざるを得なくなる。項羽は劉邦にも疑いの目を向けたが、劉邦は張良の策によって桟道を焼き払って漢中を出る意志がないと示し、更に項羽に対して従順な文面の手紙を出して反抗する気がないように見せかけていた。これで項羽は安心し、反乱を起こしていた斉の田栄を討伐に向かった。 それを見た劉邦は、...

    大敗

    紀元前205年、劉邦は味方する諸侯との56万と号する連合軍を引き連れて彭城へ入城した。入城した漢軍は勝利に浮かれてしまい、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回すという有様となった。一方、彭城の陥落を聞いた項羽は自軍から3万の精鋭を選んで急いで引き返し、油断しきっていた漢軍を散々に打ち破った。この時の漢軍の死者は10万に上るとされ、川が死体のためにせき止められたという(彭城の戦い)。劉邦は慌てて脱出したが、劉太公と呂雉が楚軍の捕虜となってしまった。この大敗で、それまで劉邦に味方していた諸侯は一斉に楚になびいた。 劉邦は息子の劉盈(恵帝)と娘(魯元公主)と一緒に馬車に乗り、夏侯嬰が御者となって楚軍から必死に逃げていた。途中で追いつかれそうになったので、劉邦は車を軽くするために2人の子供を突き落とした。あわてて夏侯嬰が2人を拾ってきたが劉邦はその後も落とし続け、そのたびに夏侯嬰が拾ってきた。 劉邦は碭で兵を集めて一息ついたものの、ここで項羽に攻められれば防ぎきれないことは明らかだったので、随何に命じて楚軍の英布を味方に引き込むことに成功したが、英布は楚の武将・龍且と戦って破れ、劉邦軍と...

    再び敗れる

    紀元前203年、劉邦は項羽と対陣して堅く守る作戦をとっていたが、一方で項羽の後ろで彭越を活動させ、楚軍の兵站を攻撃させていた。項羽は部下の曹咎に「15日で帰るから手出しをしないで守れ」と言い残して出陣し、彭越を追い散らしたが、曹咎は漢軍の挑発に耐えかねて出陣し、大敗していた。漢軍は項羽が帰ってくると再び防御に徹し、項羽が戦おうと挑んでもこれに応じなかった。 その頃、韓信は斉を完全に制圧し、劉邦に対して鎮撫のため仮の斉王になりたいとの使者を送ってきた。これを聞いた劉邦は怒って声を荒らげそうになったが、それを察知した張良と陳平に足を踏んで諫められ、もし韓信が離反してしまえば取り返しがつかないことを悟り、韓信を正式な斉王に封じた。 漢楚両軍は長い間対峙を続け、しびれを切らした項羽は捕虜になっていた劉太公を引き出して大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ」と迫ったが、劉邦はかつて項羽と義兄弟の契りを結んでいたことを持ち出して「お前にとっても父親になるはずだから殺したら煮汁をくれ」とやり返した。次に項羽は「二人で一騎討ちをして決着をつけよう」と言ったが、劉邦は笑ってこれを...

    項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。 劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。 追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。 紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。 論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。 劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。 劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、わしが天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を言ってみよ」と言った。これに答えて高...

    その年の7月、燕王臧荼が反乱を起こし、劉邦は親征してこれを下し、幼馴染の盧綰を燕王とした。その中で劉邦は次第に部下や諸侯に猜疑の目を向けるようになった。特に韓信・彭越・英布の3人は領地も広く、百戦錬磨の武将であり、最も危険な存在であった。 ある時「韓信が反乱を企んでいる」と讒言する者があった。群臣たちは韓信に対する妬みもあり、これを討伐するべきだと言ったが、陳平は軍事の天才・韓信とまともに戦うのは危険であると説き、だまして捕らえることを提案した。劉邦はこれを受け入れて、巡幸に出るから韓信も来るようにと言いつけ、匿っていた鍾離眜の首を持参した韓信がやって来たところを虜にし、楚王から格下げして淮陰侯にした。 翌年、匈奴に攻められて降った韓王信がそのまま反乱を起こした。劉邦はまた親征してこれを下した。翌紀元前200年、匈奴の冒頓単于を討つため、さらに北へ軍を動かした。しかし、冒頓単于は弱兵を前方に置いて、負けたふりをして後退を繰り返したので、追撃を急いだ劉邦軍の戦線が伸び、劉邦は少数の兵とともに白登山で冒頓単于に包囲された。この時、劉邦は7日間食べ物がなく窮地に陥ったが、陳平の策略により冒頓単于の妃に賄賂を贈り、脱出に成功した(白登山の戦い)。その後、劉邦と冒頓単于は匈奴を兄・漢を弟として毎年貢物を送る条約を結び、以後は匈奴に対しては手出しをしないことにした。 紀元前196年、韓信は反乱を起こそうと目論んだが、蕭何の策で捕らえられ、誅殺された。この時、劉邦は遠征に出ていたが、帰って韓信が誅殺されたことを聞かされるとこれを悲しんだ。 同年、彭越は捕らえられて蜀に流されるところを呂雉の策謀により誅殺され、一人残った英布は反乱を起こした。劉邦はこの時体調が優れず、太子(恵帝)を代理の将にしようかと考えていたが、呂雉らにこれを諫められ、親征して英布を下した。この遠征から帰る途中で故郷の沛に立ち寄って宴会を行い、この地の子供120人を集めて「大風の歌」を歌わせた。 そして沛に永代免租の特典を与え、沛の人たちから請われて故郷の豊にも同じ特典を与えた。

    英布戦で受けた矢傷が元で、さらに病状が悪化し、翌紀元前195年に呂雉に対して、今後誰を丞相とするべきかの人事策を言い残して崩御した。 この際、自らの死期を悟った劉邦は、「死後どうすればよいのか」と問う呂雉に対し、「(丞相・相国の)蕭何に任せておけばよい。その次は曹参が良かろう」と言う。 さらに何度も「その次は?」と聞く呂雉へ「その次は王陵が良いだろうが、愚直すぎるので陳平を補佐とするとよい。だが陳平は頭が切れすぎるから、全てを任せるのは危ない。社稷を安んじるものは必ずや周勃であろう」と言った。 そして、なおも「その次は?」と聞く呂雉に「お前はいつまで生きるつもりだ。その後はお前にはもう関係ない」と言っている。 死後、太子の劉盈が即位したが(恵帝)、実権は全て呂雉に握られ、強大な諸侯は全て劉邦に粛清されており対抗できる者もなく、呂氏の時代がやって来た。呂雉の死後、周勃と陳平により呂氏は粛清され、恵帝の異母弟の代王劉恒文帝が迎えられ、文景の治の繁栄となる。

  4. 斉国 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/斉国

    斉(せい、拼音:Qí、繁体字:齊國、簡体字:齐国、紀元前1046年 [1] - 紀元前221年 [2] )は周朝の諸侯国に端を発し、西周・春秋時代・戦国時代にわたって中国の東方に存在した国家である。 国号は単に「斉」であるが、「田氏代斉」以前の姜氏の斉と、以後の田氏 ...

  5. 非常事態宣言 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/非常事態宣言

    非常事態宣言 (ひじょうじたいせんげん)または 緊急事態宣言 (きんきゅうじたいせんげん)とは、 自然災害 、 感染症 ( 伝染病 ・ 疫病 )の パンデミック 、 原子力事故 などの 災害 や、 戦争 、 テロ 、 内乱 、 騒乱 など、 健康 ・ 生命 ・ 財産 ・ 環境 ...

  6. 常用漢字一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/常用漢字一覧

    常用漢字一覧(じょうようかんじいちらん) 常用漢字は2136字。下表の配列は常用漢字表(平成22年内閣告示第2号)に準じる。 学年の数字は、小学校学習指導要領(2017年3月告示)の学年別漢字配当表において配当されている学年を示す。 Sは中学校以降で習うことを ...

  7. 漢文教育用基礎漢字 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/漢文教育用基礎漢字

    漢文教育用基礎漢字(かんぶんきょういくようきそかんじ)は、朴正煕政権時代の大韓民国政府文教部が1972年に制定した漢字の集合。 日本の教育漢字(学習漢字)に相当 [要出典]。 漢文学習に用いる漢字として、中学校・高等学校でそれぞれ900字、計1800字を学習する。

  8. 宜蘭線普悠瑪号脱線事故 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/宜蘭線プユマ号脱線事故

    この普悠瑪号に限らずATPをカットしても最高速度で運行できていたことに対しては、カット時に60km/h制限がかかり63km/hで自動的に強制制動が発動する新仕様が2019年6月に完成、同年内に太魯閣号と普悠瑪号に、2023年までに保有するすべての車両818両に実装予定

  9. エクセター (重巡洋艦) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/エクゼター_(重巡洋艦)
    • 概要
    • 艦形
    • 機関
    • 防御
    • 艦歴
    • 創作への影響
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    エクセターはイギリス海軍の1927年度海軍計画において1隻の建造が認められ、建造・就役した重巡洋艦だが、イギリス海軍における最後の重巡洋艦となった。エクセターと姉妹艦のヨーク (HMS York, 90) はそれまでの英連邦重巡洋艦の8インチ主砲8門(連装砲塔4基)とは異なり、8インチ主砲6門(連装砲塔3基)を装備した。これは1921年 - 1922年におけるワシントン海軍軍縮条約による保有トン数量の制限の影響である。本艦の発注は、ヨークの2年後であった。

    エクセターの設計にあたっては、ヨークをタイプシップとして既存のカウンティ級で得られた運用実績により実戦的な設計がなされ、従ってエクセターの設計はヨークでの経験を踏まえた改良が組み込まれた。トップウェイトの増加に合わせて艦幅は1フィート広げられた。就役後に船首楼の側壁を魚雷発射管の手前まで伸ばし、居住空間を増した。 前後に長い塔型艦橋の形状はより低くされ、水面から16 m 以内に抑えられた。これはネルソン級戦艦に参考にしたという。ボイラーからの排煙管はボイラー室後方に収められ、ヨークでは傾斜した煙突が必要だったのが、エクセターだけは艦橋から離れた位置に直立した煙突を装備し、排気煙の確実な排気ができるようになった。その結果マストは直立し、後方の煙突は太くなった。 8インチ主砲塔の天板はヨークで考えられたカタパルトの装着には不適であったため、エクセターでは就役後に2番煙突の後方に航空施設を設け、中心線から斜め45度の角度で2基のカタパルトを埋没させた。この工夫により、風向きに関係なく水上機を発艦させることができた。水上機の運用には右舷にクレーンを装着した。 就役後の1941年の大修理の際に艦橋に遮風装置が付けられ、前後のマストを三脚型とし、新たに搭載した279型レーダーのアンテナを設置した。また、1番煙突の側面にあった10.2 cm 単装高角砲4基が撤去されて、新型の10.2 cm 連装高角砲を艦橋と1番煙突の側面に1基ずつ計4基とした。

    搭載機関には重巡洋艦と同じく、ボイラーはアドミラリティ三胴式重油専焼水管缶8基、タービン機関はパーソンズ式オール・ギヤードタービンを4基4軸合計で最大出力80,000 shp で最大速力は32.5ノットを発揮した。 機関配置は前大戦時の装甲巡洋艦のように艦首側に缶室、艦尾側に機関室(推進機室)を配置する全缶全機方式であった。カウンティ級においては3本煙突であったが、追い風時に排煙が艦橋にかかるのを防ぐために前側2基と中央部の4基の排煙を1番煙突に導いたために煙突の本数は2本であった。

    舷側防御は機関区のみを防御する物で、高さ4 m の装甲板がもっとも厚い箇所が76 mm で、末端部は25 mm へとテーパーしており、前後隔壁の89 mm 装甲と接続されていた。 弾薬庫は舷側防御とは別個で、側盾が127 mm で前後隔壁と天蓋が76 mm であった。主砲塔は最厚部で25 mm でしかなく、バーベットは最厚部で19 mm である。水平防御は主甲板の平坦部が25 mm で傾斜部は38 mm であった。 機関区を守るだけの短い範囲内のみで艦首から艦橋脇、後檣から艦尾までの広範囲は無防御であり、その防御様式の正当性は実戦で証明された。 弾薬庫は艦中央部にあったものが艦前方および後方に分散配置され、「ボックス・シタデル(箱砲郭)」で守られた。10.2 cm 副砲兼高角砲は弾薬庫の移動に合わせて、容易に給弾できるよう前方に移動した。ラプラタ沖海戦ではこの強化された増設装甲帯がエクセターを助けたと考えられている。

    エクセターはデヴォン州プリマスのデヴォンポート造船所で1928年(昭和3年)8月1日に起工し、1929年(昭和4年)7月18日に進水、1931年(昭和6年)7月27日に竣工した。 1932年(昭和7年)には艦中央部の上部デッキに装甲が追加され、煙突後部に作業スペースが形成され、フェアリー III型水上機2基が搭載された。1935年(昭和10年)には.50"/62ヴィッカース機関銃が多数増設された。1937年(昭和12年)に水上機(偵察機)がスーパーマリン ウォーラス飛行艇に更新された。 1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦が勃発すると、F.S.ベル艦長が指揮するエクセターは[注釈 2]、重巡カンバーランド (HMS Cumberland, 57) や軽巡2隻(エイジャックス、アキリーズ)と共に南アメリカ戦隊(G部隊)を形成した(イギリス海軍任務部隊一覧)。G部隊(ヘンリー・ハーウッド(英語版)代将)はフォークランド諸島に拠点を置いていた。 12月初旬、ハーウッド代将はドイツ海軍 (Kriegsmarine) のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) が、南アメリカのラプラタ河口に出現すると推理した。ハーウッド代将は分散中のG部隊各艦に集合を命じ、修理中のエクセターにもフォークランド諸島からの出撃を下令する。12月12日午前7時、G部隊3隻(エイジャックス、アキリーズ、エクセター)はラプラタ川河口東方150マイルに集結した。 12月13日、軽巡エイジャックス (HMS Ajax, 22)、アキリーズ (HMNZS Achilles, 70) と共にラプラタ沖海戦でアドミラル・グラーフ・シュペーと交戦した[注釈 4]。当初、シュペー側はイギリス側戦力を巡洋艦1隻とJ級駆逐艦2隻と誤認したので、相手が重巡1隻と軽巡2隻と気付いた時には逃げられなかった。砲火力で劣るイギリス巡洋艦3隻は、数的優勢と機動力でドイツ豆戦艦に対抗する[注釈 5]。エクセターはエイジャックス(ハーウッド代将旗艦)[注釈 4]やアキリーズと別れてシュペーに攻撃をおこない、20㎝砲を何発か命中させた。発射した魚雷は命中しなかった。だがシュペーの反撃により、エクセターもひどく損傷する。シュペーが発射した11インチ砲弾7発の直撃を受けた。61...

    1956年のイギリス映画、『ラプラタ沖海戦(英語版)(邦題:戦艦シュペー号の最後)』では、エクセターとしてフィジー級軽巡洋艦の軽巡洋艦ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) が用いられ、ベル艦長はジョン・グレックソンが演じた。

    木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
    木俣滋郎『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8。
    エドウィン・グレイ 著、都島惟男 訳『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X。
  10. エイジャックス (軽巡洋艦) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/エイジャックス_(軽巡洋艦)
    • 艦歴
    • エイジャックスの記憶
    • 創作への影響
    • 参考文献
    • 関連項目

    戦間期

    エイジャックスは1933年2月7日、イギリスはヴィッカース社バロー・イン・ファーネス造船所で起工された。1934年3月1日に進水し、1935年4月12日に竣工。 就役当初は北アメリカ・西インド艦隊 に所属していたが、1935年5月、アビシニア危機(第二次エチオピア戦争)のあおりを受け、地中海に派遣された 。 同年11月に派遣を終え、西インド艦隊に復帰したのちは、南北アメリカ、カナダへの遠征を行いつつ訓練を続けた。 1937年、改修のためにイギリスに帰国すると、翌年の1月まで入渠した(この時、4基のタービンが単段式から二段式に改装された)。 1939年1月27日、チリで発生した地震を受け、現地のイギリス領に向かい、エクセター(重巡洋艦)と共に救助に尽力した。

    ラプラタ沖海戦

    1939年(昭和14年)9月に第二次世界大戦 が勃発すると、チャールズ・ウッドハウス艦長が指揮するエイジャックスはラプラタ沖に配備された[注釈 3]。当時、南アメリカ植民地からヨーロッパに輸送される物資は戦線を支えており、敵国に対する通商破壊、及び自国船舶の通商護衛は戦略的に大きな意義を持っていた。連合国の海軍と比較して劣勢のドイツ海軍 (Kriegsmarine) は、戦争を見据えて装甲艦アドミラル・グラーフ・シュペー (Die Admiral Graf Spee) を出撃させ、同艦は開戦とともにインド洋・南大西洋での通商破壊を開始したからである[注釈 4]。ドイッチュラント級装甲艦(通称“ポケット戦艦”)を確実に葬るためには巡洋戦艦を投入する必要があり[注釈 3]、通常の巡洋艦にとっては荷が重い相手であった[注釈 5][注釈 6]。 イギリス海軍は南米方面に巡洋艦を基幹とするG部隊 (Froce G) を派遣し、ドイツ豆戦艦に対抗した(イギリス海軍任務部隊一覧)。この任務部隊を率いていたのは当時代将の地位にあったヘンリー・ハーウッド(英語版)である。ハーウッド代将はエイジャッ...

    地中海での活動

    1940年(昭和15年)1月、エイジャックスはモンテビデオ、リオデジャネイロ、シエラレオネを経由し、イギリス本土に帰投する。1月の終わりには、空母アークロイヤル、巡洋戦艦レナウン、駆逐艦ヘイスティ、ヒーロー、デインティ、ダイアモンドと航路を共にした。1月31日、プリマスに到着した[注釈 11]。 2月にはチャタム工廠のドッグに入渠し、整備を受けた。同月15日、ラプラタ沖海戦で共に戦った重巡エキセター (HMS Exeter, 68) がプリマスに到着する[注釈 12]。エクセターやエイジャックスの一部乗組員はロンドンに派遣され、イギリス国王ジョージ6世から勲章を授与された。エイジャックスの整備が終了し、戦線に復帰したのは1940年(昭和15年)8月である。エイジャックスはレーダー増設工事、艦首および艦橋の改装を受けていた。エイジャックスは地中海戦線の第7巡洋戦隊 (7th Cruiser Squadron) に配属された。 この時、すでにフランスは降伏してヴィシー政権が樹立しており、イタリア王国の主要交戦国は今やイギリスとなっていた。8月21日、通商護衛の任を受けたエイジャックス...

    カナダのオンタリオ州に存在する、「エイジャックス」はこの艦の、ラプラタ沖海戦での活躍を記念して名付けられた。また、この街の道路はそれぞれの船員の名前から取られており、街頭には、この艦のシルエットをモチーフにした看板が並んでいる。 さらに、この街のカナダ王立協会[要リンク修正]支部の前には、エイジャックスの錨が展示されている。ラプラタ河口の都市モンテビデオには、エイジャックスの鐘のモニュメントがある。 このモニュメントは1949年に、元艦長のヘンリー・ハーウッド卿および当時の外交官ユージン・ミルトンにより寄贈されたもので、現在でも税関を出てすぐの場所で見ることができる。 南極海にある「エイジャックス氷瀑(英語版)」はこの艦にちなみ、1960年に名付けられた。

    作家ワーレン・チュート(英語版)は、1930年代にエイジャックスに従軍しており、この経験を元に、『The Cruiser(英語版)』を執筆している。この作品に登場する架空の軍艦、アンティゴニー (HMS Antigone) はエイジャックスをモチーフにしている。 1956年のイギリス映画、『ラプラタ沖海戦(邦題:戦艦シュペー号の最後)(英語版)』では、エイジャックスの撮影に、軽巡洋艦シェフィールド (HMS Sheffield, C24) が用いられている。 2013年に中華人民共和国でリリースされたアプリゲーム、「戦艦少女(現・戦艦少女R)」では、擬人化された美少女としてエイジャックスが登場する。史実にちなみ、同じく擬人化されたアドミラル・グラーフ・シュペーとの交流が描かれている。 また、2017年に同国でリリースされた「アズールレーン」にも、擬人化されたエイジャックスが登場するが、こちらにもグラーフ・シュペーとの交流が描かれている。また、同作ではラプラタ沖海戦をモチーフにしたイベントが開催されている。

    木俣滋郎『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7。
    木俣滋郎「7.イギリス重巡洋艦「エクゼター」/8.オーストラリア軽巡洋艦「パース」」『連合軍艦艇撃沈す 日本海軍が沈めた艦船21隻の航跡』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2794-8。
    エドウィン・グレイ 著、都島惟男 訳『ヒトラーの戦艦 ドイツ戦艦7隻の栄光と悲劇』光人社〈光人社NF文庫〉、2002年4月。ISBN 4-7698-2341-X。
    ピーター・スミス 著、野田昌宏 訳「6 クレタ島で英艦隊を撃滅」『ユンカース急降下爆撃機 STUKA AT WAR ドイツ空軍の電撃兵器』サンケイ新聞社出版局〈第二次世界大戦ブックス59〉、1974年6月。
  1. 強制險 相關
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