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  1. 渋沢栄一 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 渋沢栄一

    渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体: 澁澤 榮一、天保11年2月13日〈1840年 3月16日〉 - 昭和6年〈1931年〉11月11日)は、明治・大正期に活躍した日本の実業家、財界指導者 [2]。 位階 勲等 爵位は正二位 勲一等 子爵。 雅号は青淵(せいえん)。 江戸時代末期 ...

  2. 境界線上のホライゾン - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 境界線上のホライゾン_PORTABLE

    『境界線上のホライゾン』(きょうかいせんじょうのホライゾン、Horizon on the Middle of Nowhere)は、川上稔による日本のライトノベル。イラストはさとやす。 電撃文庫(KADOKAWA)より2008年9月から2018年12月まで刊行された。 通称『境ホラ』 [1] [2] [3]

  3. 尺貫法 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 尺貫法
    • 概要
    • 単位
    • 計量法に違反しない範囲の使用
    • 尺相当目盛り付き長さ計
    • 引用
    • 関連項目
    • 参考文献

    尺貫法は中国が起源であるが、政情によりしばしば改定があった。 当初は西洋のヤード・ポンド法などと同様、身体の一部の長さや、穀物の質量などが単位として使われていたが、次第に明確な定義が定められるようになった。その最たるものが前漢末、劉歆の三統暦にある黄鍾秬黍説であり、長さは秬黍(きょしょ。クロキビ)の1粒の幅を1分(0.1寸)、黄鍾と呼ばれる音律を出す笛の管の長さを90分(9寸)とし、さらに黄鍾の管の容積(810立方分)を1龠(0.5合)、黄鍾の管に入る秬黍1,200粒の質量を12銖(0.5両)とした。この黄鍾秬黍説が後の度量衡制の基準となった。 歴代の王朝が法令によって度量衡を定めたが、特に長さや容積の単位は時代とともに長くなった。 日本では唐尺よりも前には高麗尺が使用されており、例えば法隆寺は高麗尺による建造物と唐尺による建造物が混在している。唐尺は中国のほか、中国の影響を受けた東アジア一円(朝鮮など)で、その文化とともに取り入れられた。その後各地で独自の進化を遂げているが、値は中国の唐に、1寸が3cm程度でほぼ一定し、それからそれほど変化しておらず、元の値をほぼ保存している。 現在は、尺貫法を使用していた国はすべて国際単位系に移行しており、尺貫法を公式の単位としている国は存在しない。例外的に、真珠の取引単位は直径はセンチメートル、ネックレス等の長さはインチとされ、質量はグラム表記したことで混乱を招いた歴史があることから、世界的に「もんめ(momme)」(単位記号は mom )が国際単位として使われている。

    尺貫法がメートル法と全く異なる要素は、全てが一律の十進法ではないという点である。十倍を繰り返さない十の単位が用いられたり、六十進法の単位が用いられたり、六で割り切れて十で割り切れない単位が用いられたりするのが特徴である。 以下の換算数値は、旧計量法施行法(昭和26年法律第208号)第4条、第5条に基づいている。

    日本では計量単位として使用されることはなくなったが、取引や証明に当たらない計量において尺貫法の単位が使われるケースや、国際単位系の単位を表記に利用しながらも、尺貫法の値を設計者の思考上の計算または内部的な計算に用いる例はみられる。これは計算に用いるような内部的使用は、外部との取引・証明に使われるわけでないので計量法には違反しないためである。日本の事例としては以下のものが挙げられるが、いずれも、計量単位として取引や証明に用いられることは皆無である。 以下の例において、尺や升の数値が計量上用いられているように思われる例であっても、それは計量単位としての使用ではなく、「型番」や「呼称」としての使用に過ぎない。型番や呼称は計量単位そのものではないので、計量法上も認められている。例として、テレビ受像機のサイズ呼称(46型テレビ、由来はインチ)がある。 1. 建築関連では日本家屋が尺貫法で設計されていたため、設計図面上の寸法はメートル法を用いて表記されるが、広さを坪や畳で表すなど伝統的な目安として利用されている。 1.1. 建築や不動産関係者間では土地の面積や床面積として、36平方尺(畳2帖の面積に相当)を表す「坪」を念頭において業務を行っている。不動産取引自体(これが計量法上の取引・証明である(計量法#取引、証明とは)。)に「坪」を使うことはありえず、例えば住宅の建設費で、坪当たりの単価を示す場合には「坪あたり○万円」が使われることは絶えて無く、「3.3平方メートルあたり○万円」と表記されるに過ぎない。坪(約3.305 785 m2)と3.3 m2とでは、約0.18%の差があるので、「坪当たり」ではなく、あくまで、3.3000 m2当たりの表記である。ただし、取引当事者の思考上は「坪」の概念があることは確かである。 1.2. ベニヤ板や石膏ボードなどの板材の大きさを表すのに「1.5×3(いごさん)」「3×6(さぶろく)」「4×8(しはち、よんぱち)」などといった呼称が用いられることがある[要出典]。これらの由来は長さを尺(曲尺)で表したもので、前者は3尺×6尺(= 90.9cm×181.8cm)、後者は4尺×8尺(= 121.2 cm×242.4 cm)の大きさの板材を指すことが多いが、いわゆるコンパネと呼ばれるコンポジットパネルでは同一の呼称を用いても 91 cm×1...

    木造建築や和裁などの分野では、尺や鯨尺が現在でも使われており、かつてヤミ業者の製造した粗悪品が出回り、大工職人が施工する際に混乱したり、書類送検、逮捕されるなど、日本のメートル法化の厳格運用によって、日本では社会問題が発生したことがあり、永六輔が「尺貫法復権運動」を巻き起こした。このため、計量単位の規制が、日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に留めるよう、制度の柔軟な運用を行うこととなった。 1977年(昭和52年)の計量行政審議会で議論が行われ、「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートルの物差し)は、メートル法による物差しとし、合法であるという判断がなされ、これに基づき販売が認められている。一部に、尺の使用が「黙認されている」と主張している向きがあるが、間違いである。 尺相当目盛り付き長さ計は、尺・寸の目盛り表記ではなく、1/33mごとの目盛り(曲尺相当)又は1/26.4mごとの目盛り(鯨尺相当)というように、表記上はメートル法を採用しているため、メートル法による物差しである。これは三角スケールの目盛りにおいて、1/150mや1/250m目盛りの物差しがメートル法によるものであることと同じである。 「尺相当目盛り付き長さ計」の姿形は次の写真のようなものである。 実際の運用は次の通りである。 1. 「尺相当目盛付長さ計等」については、都道府県知事を経由し大臣へ申請することとなっている。 1. 法8条1項及び9条1項を円滑に実施するため、尺相当目盛付長さ計については、計量行政室の承認を受けるものとし、次に定めるところにより行うものとする。 1. 対象となる計量器 1. 尺相当目盛付長さ計: さしがね、コンベックスケール(巻尺)、文化財修復及び畳職人用等の竹製ものさし、文化財修復及び畳職人用等の金属製ものさし 2. 鯨尺尺相当目盛付の長さ計:和裁用の竹製ものさし 1. 計量器に係る表示 計量器に係る表示 1. メートル単位表示 1.1. 製造又は輸入が認められる計量器は、通常人がメートル単位表示の長さ計であると認識できるものでなければならない。 1.2. すなわち、一寸相当の箇所に「1/33 m」、一鯨尺相当の箇所に「1/26.4 m」というように積極的にメートル単位表示「m」がなされたもので...

    渡辺英夫(日立コミュニケーションテクノロジー)「計量単位(中国度量衡)の変遷」、「計量の歴史を紐解く、記念講演会 盛況に開催(神奈川県計量協会)」。
    小泉袈裟勝『歴史の中の単位』総合科学出版、1974年。ASIN B000JA1WCG。
  4. アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › アードルフ・ヒトラー

    ... 語: Adolf Hitler, 1889年 4月20日 - 1945年 4月30日)は、ナチス・ドイツの政治家 [1]。 ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の指導者。 「自分たちが最も優秀な民族」だと主張し [2 ...

  5. 北畠家 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 北畠四管領

    北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、日本の公家・武家・華族だった家。 村上源氏 中院家庶流。 武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大 ...

  6. 建武の新政 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 建武政権
    • 歴史
    • 年表
    • 新政の機構
    • 政策
    • 建武の元号
    • 流布本『太平記』の創作
    • 参考文献
    • 関連項目

    鎌倉幕府の滅亡

    鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。 後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕...

    新政の開始

    後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言。さらに関白の鷹司冬教を解任した。 帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。 6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を...

    新政の瓦解

    建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。 鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた[注釈 2]。 尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏...

    元弘3年/正慶2年(1333年)
    建武元年(1334年)
    建武2年(1335年)
    延元元年/建武3年(1336年)

    中央

    太政官 1. 日本の律令制を参照 八省 1. 後醍醐は八省の長官である卿[注釈 4]を、前関白左大臣二条道平や右大臣鷹司冬教といった高位の上級貴族に兼任させた。これは、八省の管轄事項が上級貴族の合議体を通じて天皇に伝えられる律令制以来の体制を解体して、後醍醐が八省の長官となった上級貴族を通じて八省を統括することで天皇親政の強化に繋げる目的であったが、位階の伝統を無視した動きに公卿達は反発した。 諸官司 1. 日本の律令制を参照 記録所 1. 記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が延久元年(1069年)に記録荘園券契所を設置したことに由来する。建武政権における中央官庁の最高機関として設置された。記録所は後醍醐の親政時代に再興した。建武政権では荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当。構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光など。 恩賞方 1. 恩賞方は鎌倉幕府の討幕運動に参加したものに対する論功行賞を処理。記録所や恩賞方は調査機関であり、個々の政務に関する判断を下すための先例や意見が答申され、それらが後醍醐の決裁を経て「綸旨」の形で発せられた。 雑訴決断所...

    地方

    陸奥将軍府 1. 義良親王を将軍として、北畠親房・北畠顕家父子に補佐させた。陸奥国府多賀に置かれた。 鎌倉将軍府 1. 成良親王を将軍として、足利直義(尊氏の弟)に補佐させた。 守護・国司 1. これまで中下級貴族が就いており、知行国制度などに見られるように単なる権益と化していた国司制度を地方支配の柱と位置づけた。側近や有力者が国司に任じられ、権能の強化が図られた。守護は軍事指揮権を扱う役職として残った。(併置)

    概要

    後醍醐天皇が政治理念を標榜した言葉として『梅松論』にある「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上)という発言が知られる。 建武政権は院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍などを設置せずに、後宇多天皇ら鎌倉時代末期からの政策の方向に沿い、徐々に政治権力の一元化を目指す方向にあった。征夷大将軍については前述のように護良親王を任命することになったが、摂政・関白は建武の新政期にはついに任命しなかった。ただし二条道平と近衛経忠を内覧に任命した。 新政を批判したものとして、建武2年(1335年)8月には新政を風刺した『二条河原の落書』が書かれる。延元3年/建武5年(1338年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行い、北畠親房の『神皇正統記』や公家の日記などにも新政への批判や不満を述べる文章があるなど、武家や庶民のみならず、後に後醍醐天皇方について北朝と対立した北畠父子のような公家でさえ、新政を支持していなかったことが示唆される。後に三条公忠は「後醍醐院の措置は物狂の沙汰が多く、先例にならない」と非難している。 もっとも、後醍醐天皇が始めたものの中でも先例...

    建武の新政の最大の特徴の一つが、「建武(けんむ)」という元号の名前の付け方そのものである。これは、中国の後漢の創始者で、中国最高の名君の一人とされる光武帝が、王位簒奪者王莽を倒した時に創始した元号の建武(けんぶ、25年 - 56年)に倣ったものである。時節に合った佳字(めでたい字)であることから、公家・武家・学識者・仏教勢力からは非常に評判が良かった。しかし、建武の乱の最中に、漢籍の故事に詳しくない民衆から不吉と批判されたため、わずか3年目に延元に改元することになってしまった。一方、後醍醐天皇を崇拝し、建武政権の後継者を自認する足利尊氏によって、北朝の側ではその後も継続されることになった。以下、詳細を述べる。 『改元部類』によれば、元弘4年(1333年)、新しい元号を決めるために、5人の学者が集められ、後醍醐天皇は、「出典元の文の善し悪しは問わない」「中国の王朝の故事に倣って、今の時代を体現するような字」という条件で、元号の候補を出すように求めた。学者たちは以下の元号の候補を出した。 1. 藤原藤範 1.1. 建武、咸定、延弘 2. 菅原長員(高辻家) 2.1. 興国、垂拱、淳化、天祐、中興 3. 菅原在登(壬生坊城家(東坊城家?)) 3.1. 建武、元聖、武功 4. 藤原行氏 4.1. 元吉、元貞、大中 5. 菅原在淳(壬生坊城家) 5.1. 大武、元龍、建聖 「建」という字も「武」という字も5人中3人の学者から支持されていて人気の上に、「建武」という組み合わせは2人から挙がっていて、後醍醐天皇自身の意見とは別に、課題抽出の段階で既に有力候補だったことが見てとれる。そもそも「武」という字の成り立ちは、当時の解釈では、『春秋左氏伝』に「戈を止む」(戦乱が治まる)とあり、天下平定を表す好字だった(現代の漢字学では異説あり)。以上の中から、「建武」「大武」「武功」の3つが、「天長之例」(天下が久しく続く証)として最終候補に選ばれ、菅原在淳と菅原在成の2人の文章博士から奏上された。1月28日、右大臣の久我長通らが参内して会議が始められ、議論は29日まで続き、結局は元々の最有力候補だった「建武」に決まった。 中国の故事を踏まえた元号は、仏教勢力からも評判がよく、雄徳山護国寺(現在の石清水八幡宮)は、後醍醐天皇が昔の中国の名君の元号を採用したことについて、「一天均統之化...

    建武政権の時代にある程度の混乱があったことは事実だが、それ以上に軍記物語(一種の歴史小説)である流布本『太平記』の創作によって、誇張して伝わっている部分がある。 1. 鎌倉時代の武士の特権階級である御家人が撤廃されて、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」) 1.1. 史実:そもそも御家人制は鎌倉時代末期既に破綻しつつあった。また、後醍醐天皇は武士に好意を抱いており、武士を陪臣(家臣(ここでは将軍)の家臣)から、天皇の直臣に昇格させて、武士の地位の向上を図る狙いもあった(→御家人制の撤廃)。 2. 恩賞方を設置して、功績ある武士たちに恩賞を配布し始めたのは、後醍醐天皇が帰京して新政を始めてから二ヶ月も経った元弘3年(1333年)8月3日のことだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 2.1. 史実:実際は遅くとも7月19日には恩賞を配布し始めているため(『集古文書』)、7月には既に恩賞方が設置されていたと考えられる。 3. 元弘の乱で失脚した北条泰家の領地は、そっくりそのまま後醍醐天皇皇子の護良親王に与えられるなど、身内を優遇したために、武士に与えられる場所がなくなってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 3.1. 史実:泰家から没収された領地の多くは新田氏庶流(だが新田氏派閥ではなく足利氏派閥)の岩松経家にも与えられており、功ある武士にも良質な地の恩賞を配っている(『集古文書』)。 4. 恩賞方の長官は一人で、「上卿」と言い、洞院実世は実力不足から解任され、次の万里小路藤房は正道が行われない怒りから辞職し、さらに次の九条光経も後醍醐と佞臣の無道におろおろとするだけだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 4.1. 史実:初期の恩賞方の制度に関する文献は残っていないため不明だが、翌年に4番制になったときには藤房が恩賞方の頭人(トップの一人)となっているため、彼が恩賞方の政務を離れたというのは史実と矛盾する。 5. 元弘3年(1333年)7月に「建武」に改元したところ、疫病が流行り、さらに紫宸殿の上に怪鳥が現れたので、真弓広有が8月17日の夜に弓矢で退治した(流布本巻12「広有怪鳥を射る事」)。 5.1. 史実:怪鳥が現れたのが史実ではないのは無論のことだが、そもそも改元があったのは元弘4年(1...

    古典

    1. 『建武年間記』 1.1. 内外書籍株式会社編「建武年間記」 『新校群書類従』 19巻 内外書籍、1932年、742–755頁。doi:10.11501/1879811。NDLJP:1879811。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879811/394。 2. 後醍醐天皇著『建武年中行事』 2.1. 後醍醐天皇; 和田英松 『建武年中行事註解』 明治書院、1930年。NDLJP:1906594。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906594。 3. 『梅松論』 3.1. 内外書籍株式会社編「梅松論 上」 『新校群書類従』 16巻 内外書籍、1928年、100-121頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:1879789。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/88。 3.2. 内外書籍株式会社編「梅松論 下」 『新校群書類従』 16巻 内外書籍、1928年、121-143頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:18...

    主要文献

    1. 平泉澄 『建武中興の本義』 至文堂 1934年9月 / 日本学協会1983年5月 2. 平泉澄 『明治の源流』 時事通信社1970年6月 3. 建武義会編『後醍醐天皇奉賛論文集』 至文堂 1939年9月 4. 久保田収『建武中興』 日本教文社1965年 のち明成社 5. 佐藤進一 『南北朝の動乱』 中央公論社〈日本の歴史 9〉、1965年。のち中公文庫。 6. 森茂暁 『建武政権―後醍醐天皇の時代』 教育社〈教育社歴史新書―日本史 60〉、1980年。 6.1. 森茂暁 『建武政権―後醍醐天皇の時代』 講談社〈講談社学術文庫〉、2012年。ISBN 978-4062921152。上記の再版。 7. 網野善彦 『異形の王権』 平凡社〈平凡社ライブラリー 951〉、1993年。ISBN 978-4582760101。 8. 村井章介 「建武新政」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。 9. 伊藤喜良 「建武政権試論―成立過程を中心として―」 『中世国家と東国・奥羽』 校倉書房、1999年。ISBN 978-4751729106。初出は1998年。 10. 森茂暁 『後醍醐天...

  7. 日本語 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › Japanese_language

    日本語(にほんご、にっぽんご [注 2]、英: Japanese )は、日本国内や、かつて日本領だった国、そして日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令 [10] において日本 ...

  8. 魚類用語 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › カウンターシェイディング

    魚類用語(ぎょるいようご)では、魚類の身体の名称、特徴や生態などを示す用語について記す。 ただし、狭義の魚類に含まれない無顎類(円口類)を含む。 片仮名の部分の読みは「-」で略した。

  9. 菊池氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 鞠智
    • 概要
    • 肥後菊池氏
    • 陸奥菊池氏
    • 常陸菊池氏
    • 参考文献
    • 関連項目

    中国の歴史書『三国志』中の「魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に登場する狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)を、その名前より「菊池彦」に通じるとし、熊本県菊池郡や菊池氏との関連を指摘する説がある。平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申(698年7月8日)の條に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。また奈良時代の天平勝宝元年十一月三日(749年12月16日)に奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。康保4年(967年)に施行された『延喜式』によるとすでに「菊池」の記載があることから、この頃までには「鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたものと考えられる。

    起源

    菊池氏は、1019年(寛仁3年)の刀伊の入寇に戦功のあった大宰権帥藤原隆家の孫とされる藤原則隆が肥後国に下向して土着したとして藤原姓(藤原北家)を自称し、各種系図もこれに沿った内容となっているが[注釈 3]、1959年(昭和34年)志方正和は公家が残した日記や『源氏物語』を研究した結果、藤原隆家の後裔とするのは仮冒であり、藤原隆家の下で大宰少弐であった則隆の父藤原政則について、肥後国住人と記述されていることをもって、政則と則隆の代1070年ごろ菊池周辺に土着したとする説を発表、この説が現在まで有力とされている[注釈 4]。その出自については、太田亮による代々大宰府官を務めた紀姓の地方豪族とする説[注釈 5]、鈴木真年による百済王族出身の渡来人である鬼室福信の後裔とする説、さらには、狗奴国の官・狗古智卑狗(菊池彦) 後裔説、古代鞠智(くくち:山の麓の谷から平野へ出る口)族後裔説、源経基の後裔とする源姓説、など多様な説がある。 近年、政則の初名に「基定」と記された系図と由緒が公表され、これを隆家の五男・基定 (肥前守従五位下) であるとする新説と共に、則隆には、従五位下右近将監「則忠...

    源平対立時代

    院政時代全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる。 平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年(養和元年)6代菊池隆直は養和の乱を起こして平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。

    鎌倉時代

    8代菊池能隆は承久の乱において後鳥羽上皇方にくみしたため、北条義時によって所領を減らされた[注釈 6]。乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした。10代菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて元軍と戦闘を交え敵を討ち取った[注釈 7]。 菊池氏は、伝統的に源平勢力と一定の距離を保ち在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると朝廷とのつながりを深めた。12代菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦むなしく鎮西探題館内で戦死した。 武時の遺志は嫡男13代菊池武重に引き継がれ、建武の新政成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄・菊池武敏らも叙任を受けた。

    陸奥菊池氏も肥後菊池氏と同族で、建武の新政に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねていることから後醍醐天皇の多くの皇子に伴って全国各地に散らばったとされる。 遠野菊池氏もその一族で、海路より青森県八戸に上陸し岩手県遠野にたどり着いたとされ、家紋にいわれが残っている。菊池氏は「丸に並び鷹の羽」もしくは「丸に違い鷹の羽」を用いることが多く、遠野菊池氏は通常の家紋に海路から入ったことを表す波紋が加えられ「丸に並び鷹の羽に波紋」で表す方が多いようだ。人口の二割を菊池姓で占めている岩手県遠野市は1998年(平成10年)8月1日菊池市と友好都市宣言を結んだ。 この他にも岩手県では菊池姓、菊地姓を名乗る人が多く、遠野菊池氏の他にも宮城県石巻から北上川を北上してきた一族がいたなどの言い伝えが残っており、岩手県奥州市(江刺地域)に多い。

    常陸国にも菊池氏がある。肥後菊池氏の流れをひく陸奥菊池氏と同族という。遠祖は関白藤原道隆。また、茨城郡谷田村にも菊池氏が見える。多賀谷重経の家臣にも菊池氏の名が見える。他、久慈郡稲村神社の由来書には鎮守府将軍源義家が藤原広重の娘に産ませた、藤原義広に従属する武士として松浦氏、菊池氏、原田氏があったという。 なお、常陸国から佐竹氏の秋田転封に随行した菊池氏が数流見える。以下、菊池と名乗る家と菊地と名乗る家があるのでそれぞれ区別して掲載した。 1. 菊地忠政流 菊池忠政はその子 政勝の代に秋田に随行した。知行高は200石という[注釈 9]。 1. 菊地武直流 菊地武直は筑紫の生まれであるという。本姓 藤原氏。流離して出羽国に移住する。新田開発大番となる。 1. 菊池縫殿允流 十左衛門の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行し、出羽国仙北郡六郷に住み、隠居 佐竹義重に仕えるという。義重卒後は同郡刈和野に移り、後に秋田城下に移り住むという。 1. 菊地正国流 本姓は藤原氏。菊池正国の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行するという。子孫は平鹿郡横手[要曖昧さ回避]に住む。知行30石。 家紋は薄[注釈 10]。 1. 菊地金信流 本姓は藤原氏。菊地金信の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行するという。秋田郡十二所に住むという。 仙北郡角館に住まうという。十二所に45石を有する。 はじめ常陸国宍戸藩主となった、秋田実季に仕えるという。その後、秋田藩 佐竹氏の一門 蘆名義勝に仕え、蘆名氏断絶後は佐竹一門の佐竹北家の義隣に仕えて仙北郡角館に住まうという。 武久の代に佐竹義宣に従い秋田に転封、平鹿郡横手に住まうという[注釈 11]。 秀長の代に佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという[注釈 12]。 佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという。知行50石であるという[注釈 13]。 佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという。 知行16石という[注釈 14]。

    秋田県公文書館編『系図目録I』(PDF)第4集、秋田県公文書館〈秋田県公文書館所蔵古文書目録〉、2001年3月26日。
    明田鉄男 『幕末維新全殉難者名鑑』 1巻 新人物往来社、1986年6月。ISBN 4404013353。 NCID BN00501908。全国書誌番号:86039572。
    太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 「菊池 キクチ ククチ」 『姓氏家系大辞典』 第2巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1844-1857頁。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/12 国立国会図書館デジタルコレクション。
    太田亮 『姓氏家系大辞典』、上田萬年、三上参次監修 角川書店、1963年11月。 NCID BN01488361。
  10. 阿野家 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 阿野氏
    • 概要
    • 幕末の領地
    • 参考文献

    公家の阿野家は、藤原成親の四男で滋野井実国の猶子である公佐を家祖とする。阿野全成の女が阿野荘の一部を相続して公佐に嫁した後、公佐および全成女の子孫が代々これをそのまま相続し、やがて「阿野」が一流の家名となった。 家祖公佐の官歴は不詳だが、その子実直は宝治3年(1249年)公卿に列した。実直の子には公寛と公仲がおり、家系もこの二流に分かれたが、近代まで続くのは後者である。公寛の子孫は季長以後公卿に昇った者はおらず、実益が嫡家である滋野井家の遺跡を再興した。阿野家の嫡流となった3代公仲と4代公廉は不遇に終わるが、その子5代実廉は後醍醐天皇に仕えて公卿に昇り、妹の廉子は天皇の後宮に入って後村上天皇を産んだ。この縁から阿野家は代々南朝に仕えたが、これが家の分裂や弱体化を避けることにつながり、南北朝合一後も公家社会に留まることを可能にしたとみられる。南朝では、6代季継が権大納言に、8代実為が後亀山天皇の信任を得て異例の内大臣に昇進したほか、その子9代公為も権中納言に進んだものとみられるが、彼については北朝から叙任を受けた形跡もある。10代実治は合一後の朝廷に仕えて権中納言となり、中流公家の家格を保持したが、その子11代公熙は応仁の乱で西軍に属し、その子13代季綱は将軍足利義稙の信頼を得たものの参議のまま頓死する。これを継いだ14代季時も早世したために後嗣なく、ここに阿野家は中絶することとなった。 その約半世紀後、季時の孫16代実顕が阿野家を再興する。実顕は慶長17年(1612年)公卿に列して正二位権大納言に進み、江戸時代の阿野家はこれを極位極官としたが、40代で没した者が多い関係で実際に極位極官に達したのは18代公業・19代実藤・21代公緒・23代公縄の4代にとどまる。明治維新後の太政官政府で27代公誠は参与に補任、その子28代実允は華族令で子爵を授けられた。菩提所は松林院。 分家に羽林家の山本家(子爵)、維新後に堂上格となった奈良華族の北大路家(男爵)、同じく維新後に堂上格となった玉松家(男爵)がある。

    国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末の阿野家領は以下の通り。(7村・478石余) 1. 山城国葛野郡上嵯峨村のうち - 59石余 2. 山城国葛野郡天竜寺門前のうち - 21石余 3. 山城国葛野郡池裏村のうち - 8石余 4. 山城国葛野郡川端村のうち - 125石余 5. 山城国葛野郡生田村のうち - 9石余 6. 山城国紀伊郡六地蔵村のうち - 30石余 7. 山城国宇治郡木幡村のうち - 223石余

    橋本政宣編 『公家事典』 吉川弘文館、2010年 ISBN 9784642014427
    『阿野家譜』(東京大学史料編纂所蔵)
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