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  1. 境界線上のホライゾン - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 境界線上のホライゾン

    『境界線上のホライゾン』(きょうかいせんじょうのホライゾン、Horizon on the Middle of Nowhere)は、川上稔による日本のライトノベル。イラストはさとやす。 電撃文庫(KADOKAWA)より2008年9月から2018年12月まで刊行された。 通称『境ホラ』 [1] [2] [3]。 ...

  2. 境界線上のホライゾンの登場人物 - Wikipedia

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    境界線上のホライゾンの登場人物(きょうかいせんじょうのホライゾンのとうじょうじんぶつ)では、川上稔のライトノベル作品『境界線上のホライゾン』と、同作を原作とするメディアミックス作品に登場する登場人物について解説する。 各登場人物は、それを含む項が ...

  3. 椿井文書 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 椿井文書
    • 椿井文書に関する記録
    • 南龍子広雄・平群政隆と椿井権之輔
    • 椿井政隆偽作説
    • 参考文献

    明治23年(1890年)、滋賀県内の宮司家に生まれた中村直勝は「次の点には触れずに置こうと、いろいろと勘考したのであるが、やはり、後世を誤る倶れがあるから、短言しておくこととする」と、明治30年(1897年)前後頃の京都府南部木津町の椿井家、明治35年(1902年)前後頃の木津の今井家での由緒書の製造販売の様子について詳細に記している。 明治4年(1871年)頃から政府は政祭一致を目指し神職の人事権を掌握し社格の制度を設け、主に無社格となった神社を中心に廃止、統合を進めた。各神社は社歴調査に努めなければならなくなり「明治三十年前後-私の小学校時代のこと-(中略)せいぜいが小学校を卒業した程度の地方神職に、そうした歴史の調査ができるはずはなく比較的上等であった親父でさえ五里霧中で」、由緒を求めて国文学の教授や和歌の師匠へ訪問してまで苦心する。「そのとき南山城の木津に椿井(つばい)という旧家があって、そこに行けば、どんな神社の縁起書でもあるという噂が立」ち「地方の神社に対して、その社歴でも調査せしめたものか、滋賀県下の神職連は、寄ると触ると、自分の奉仕しておる神社の由緒調査について、苦い談を交わしておった」という状況下でも「〔中村〕の〔父〕の奉仕した神社は貧乏であったから、木津まで〔縁起書〕を探しに行かなかったが」、多くの神職たちが木津を訪れたという。地方の神社の神職達や寺社へ椿井家と今井家は大量に所蔵している中から探し出すという建前で「時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ」注文主の財産状況を見定め上等下等の由緒、縁起、境内図等を製造販売したという。販売された椿井文書について「しかし内容は万更、虚構でないこともある。興福寺東大寺春日社等の古記録が、種本ではないか」と中村は評している。 馬部隆弘は、中村直勝が椿井文書について「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」と述べている点に関して、それは誤解であり、中村は今井家から流出した椿井文書について、流出の実態までは伝聞でしか知らなかったのであろうと指摘しているが、他方researchmapの2020年5月29日付の研究ブログでは、中村の誤解を指摘したうえで、「とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば「興福寺官務牒疏」が...

    1926年「近江栗太郡志(卷五)」は「興福寺官務牒疏」について「一讀すれば名寺社の來由明にして得難き史料なり然れども熟讀して更に實地に就きて其記する所と對照すれば正鵠なるあり、又事實と反するものあり、全部を信據すべき記録に非ざるを知る、按ずるに正確の原本ありて後に地方人の依頼により故意に僞説を記入したるものゝ如し」と評価した。 1986年、藤田恒春は「(水木本)元亀の起請文」の巻頭文の署名「南龍子広雄」は文政六年(1823年)版「續浪華郷友録」掲載の「南龍堂 椿井流兵学古實国学 有職及物産名廣雄字 慶龍山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」と同一人物であろうと推定した。南龍子広雄によって蒐集された「(水木本)元亀の起請文」は原本であろうと鑑定されている。 その巻頭文には「平群政隆」という署名落款が押されていた。草津市惣社神社所蔵「宝光寺縁起」には「南京興福寺官務家 永賜従五位下椿井越前権介平群政隆」「大般若寺由緒書」には「平群宿禰政隆」の署名があるという。 自治体史掲載の地名区分によれば「上狛士 椿井権之輔」の上狛は山城町椿井(旧椿井村)ではなく山城町上狛(旧上狛村)に該当する。 宝暦13年(1763年)「北原村絵図」では、椿井村、上狛村、北原村等の領地の区分が描かれている。ただし、椿井村も含めた旧狛野荘全域を総称して「上狛」とされることもあった。 明治22年(1889年)4月1日は単独で新村となり、北河原村、椿井村、神童子村は併合して高麗村となった。 1989年、高島幸次は「(水木本)元亀の起請文」は起請文著判者の一人の野村七之丞が椿井氏の出であり、南龍子広雄こと椿井権之輔は故実家としてだけでなく自らの祖先への関心ゆえに蒐集したのではないかと推測している。 明治15年(1882年)、普賢寺関白と称えられ天福元年5月29日(1233年7月8日)京都府京田辺市普賢寺の地で亡くなり中ノ山(法楽寺)で火葬された近衛基通の墓が、近衛篤麿により村人達が火葬の地と伝承していた場所へ立てられた。 昭和62年(1987年)、防災工事前に発掘調査が行われ、明治15年立てられた近衛基通墓の下から江戸時代後期の物とみられる家形石祠と「號(号+帍)普賢寺前摂政 近衛基通公御廟」と彫られた墓石と自然石碑が出土したが、他に遺物はなく火葬場とは判定されなかった。 家形石祠は陽明文庫所蔵「山城國綴喜...

    椿井政隆による古文書偽作については、大正末期に中川泉三が「興福寺官務牒疏」を始めとして近江に残る絵図が椿井政隆の手になる偽作であることを把握していると、馬部隆弘は指摘している。 1927年、東浅井郡志の「平群懐英椿井政隆共著の淡海國輿地名略考巻十六に、八相山城は……八相縫殿助長祐の居城なり……後、長祐が織田信長に仕へ、天正年中信長の命を南都興福寺に傳へたる由にて、其古文書をも僞作して之を載せ置けり」という記述にみえる「椿井政隆」は「興福寺衆徒の家の産にして、彼の寺社の縁起を出すを以て有名なる、木津の今井氏と姻親の関係あり」と記されている。 1994年、『ふるさと椿井の歴史』は、懐英、南竜、王順と号した「椿井権之輔政隆」の古記録、古文書蒐集や絵画、系図、絵図、縁起書を筆写して納めた仕事を「今日の歴史研究の水準でもって確認できる事実が押さえられている一方、確実な事実と認めることのできない記述もかなり多いので、多くの研究者も歴史史料として扱いあぐねているのが現状といえよう」としている。 2005年、馬部隆弘は椿井文書は木津の今井家が生産販売したのではなく「椿井権之輔政隆」が作ったものが椿井権之丞亡き後今井良政へ質入れされ流通したもので、續浪華郷友録(1823)の「南龍堂 椿井流兵学古實国学 有職及物産名廣雄字 慶龍山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」と同一人物という説を1911年三宅源治郎「郷社三之宮神社古文書伝来之記」に書かれた椿井権之丞が幕末に興福寺から持ち出した古文書類が今井良政へ質入れされたというエピソードから推定した。その人物は椿井政隆(1770年~ 1837年)と記載される事が多い。 椿井政隆は謎多き人物で馬部もまだよくわかっていない部分があるという。椿井政隆の墓を求めて山城町椿井へ行った馬部は椿井政隆の墓は発見していない。ただし馬部は2019年の著書で、1816年から1818年にかけて椿井政隆は近江国蒲生郡をたびたび訪れており、偽文書を各地に残していることを指摘している。 續浪華郷友録では「椿井権之輔」、国立国会図書館デジタルで2017年3月14日から公開されている中田憲信が筆写した『諸系譜』掲載の椿井家系図には椿井権之丞政矩の息子・「椿井権之助政隆」(天保11年12月26日(1841年1月18日)卒)、椿井権之助政隆の息子・椿井萬次郎政福の名前が見られる。...

    定森秀夫編 『京都府田辺町 近衛基通公墓』 (財)京都文化財団〈京都文化博物館(仮称)調査研究報告書第3集〉、1988年3月31日。
    中村直勝 『歴史の発見 古文書の魅力』 人物往来社、1962年、193-196頁。
    中村直勝 「偽文書ものがたり」 『古文書研究』 1号 日本古文書学会、29-47頁、1968年。https://id.ndl.go.jp/bib/906429。2021年2月15日閲覧。
    中村直勝 「偽文書の研究」 『日本古文書学 下』 7巻 角川書店、1977年、1194頁。
  4. 室町時代 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 室町時代
    • 概要
    • 特徴
    • 概観
    • 経済と社会
    • 対外関係
    • 文化・芸術
    • 学問と思想
    • 関連項目

    ヒカキン美味しいな ますお美味しいな ロン毛マスターたけざむらい 鑑真食べたらくそまずい「室町幕府が存在した時代」に当たり、足利尊氏が建武式目を制定した1336年(南朝:延元元年/北朝:建武3年)または征夷大将軍に補任された1338年(延元3年/建武5年)から、15代将軍義昭が織田信長によって京都から追放される1573年(元亀4年)までの237年間、もしくは235年間を指す。学校教育においては、1338年を室町時代の開始としている。 狭義では建武新政から明徳の和約による南北朝合一(1392年、明徳3年/元中9年)までの最初の約60年間を南北朝時代、応仁の乱(1467年、応仁元年)または明応の政変(1493年、明応2年)以後の時代を戦国時代と区分して、その間の75年間から100年間を室町時代と区分する場合もある。

    1336年、後醍醐天皇と対立した足利尊氏が持明院統(北朝)の天皇を擁立し幕府を開いたが、1392年、3代将軍義満によって南北朝が統一され、最終的に武家が優位に立った。将軍直轄の軍事力や財政基盤は弱く、中央の幕府が上位に立ち、地域権力たる守護大名がその監督下にありつつも、両者が相互補完的に政治的経済的支配を展開した(室町幕府-守護体制)。 義満が京都北小路室町に花の御所を造営して以降、歴代将軍を室町殿(むろまちどの)と呼んだことから、その政権を室町幕府、時代を室町時代と呼ぶ(なお、将軍の政権・支配機構を指して「幕府」という言葉を用いるようになるのは後世のことである)。 義満の時代に国内は安定したものの、応仁の乱(1467年から1477年)ないし明応の政変(1493年)以降は全国動乱の時代(戦国時代)を迎え、それまでの幕府 - 守護体制・荘園公領制が崩壊するとともに、各地に独立勢力とも言える戦国大名が並立するようになる。 室町時代は、鎌倉時代以前には見られない出自不明の農民・商人層の社会進出を可能とし、日本史上初めて顔が見える民衆を登場させた時代でもある。旧勢力の没落と新勢力の興隆の時代として捉えることができる(→下克上)。戦乱が続く時代だったが、経済面においては農業・工業ともに技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。文化面の充実も著しい時期である。 また、この時代において、ほんの些細ないざこざ(例えば、頭を下げる下げない、笑った笑わない、等)で民衆或いは武士をも巻き込む大騒動に発展することが日常茶飯事だった(「太平記絵巻」にその様子が描かれている。)といわれ、これには幕府も手を焼いた、という(1432年、金閣寺において、立小便を笑われた僧侶が逆上、大騒乱に発展した、という記録が残されている)。そのため、紛争を解決するために第三者が仲裁役(中人)を務める慣習があった。(中人制)

    南北朝内乱期

    1333年の鎌倉幕府滅亡後に建武の新政を開始した後醍醐天皇は、優れた政治的才覚により種々の先進的な法令改革を行い、これらは後の室町幕府や南朝の政策・法制度の基礎となった。後醍醐(諱は「尊治」)は、北条氏の親族として鎌倉幕府で力のあった足利氏[注釈 1]の当主である足利高氏に、「尊氏」の偏諱や鎮守府将軍(のち征東将軍)の地位を与えて重用し、建武政権の中枢に取り込んだ。こうした反面、相次ぐ北条氏残党の反乱や、恩賞に不満を持つ武士など、一定の火種はくすぶっていた。のち、北条時行による中先代の乱を鎮圧した尊氏は、独自の裁量で武士たちに恩賞を配りはじめた。これを自身への反乱と誤認した後醍醐天皇は、尊氏討伐を決め、建武の乱が発生した。1336年、建武の乱に勝利した尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、幕府を開き、両統迭立を再開させた。同年末、後醍醐は京都を脱出して大和国の吉野に南朝を開いたことから、両統迭立ではなく南朝と北朝(持明院統)の内乱が長期にわたって繰り広げられることになった。この2年後、尊氏は北朝から征夷大将軍の宣下を受けた。 南朝方は楠木正成・北畠顕家・新田義貞ら武将があいついで敗...

    幕府安定期

    1367年、2代将軍足利義詮が死去し、10歳の義満が3代将軍となった。このころまでに反幕府方の畠山国清・大内弘世・上杉憲顕・山名時氏らが幕府に降っており、九州では後醍醐の皇子・征西将軍懐良親王が中国明朝より「日本国王」として冊封を受けてなお勢力を拡大していたものの、中央の南朝方は抵抗力をほとんど失っていた。管領細川頼之は幼い将軍を補佐し、1368年には南軍の将楠木正儀を寝返らせ、九州の南朝勢力排除のために今川貞世を派遣、内政においては新興の禅宗である南禅寺と旧仏教勢力の比叡山との対立問題の対応や半済の実施などを行い、幕府権力の安定化を推し進めていった。1379年には康暦の政変で頼之が失脚し、後任には斯波義将が就任する。義満は奉公衆と呼ばれる将軍直轄の軍事力を整え、有力守護大名の山名氏や大内氏を挑発してそれぞれ明徳の乱、応永の乱で追討し、将軍権力を固めて、明徳の和約によって南北朝を合一し、天皇に迫る権力を確立する。 足利義満が急死すると、4代将軍の足利義持は斯波義将に補佐され、義満に対する太上天皇の追号を辞退し、勘合貿易での明との通商を一時停止するなど義満の政策を否定し幕政を守旧的...

    応仁の乱

    その後、宗全は畠山氏の家督をめぐって畠山政長と争っていた畠山義就を味方に引き入れ、義就に上洛を促した。義就を利用して幕政を牛耳ることが宗全の狙いであった。一方でこれは政長に肩入れする勝元との対立を意味していた。義政は宗全・義就陣営の軍事的優位を悟り、義就支持を表明し政長を管領職から罷免し、宗全に近い斯波義廉を新たな管領に任命した。政長はこれに反発し、上御霊神社に陣取り将軍御所をうかがう姿勢を見せた。義政は山名・細川両名に畠山家への軍事介入を禁じ、義就と政長を一対一で対決させることで事態の収拾を図った。勝元は義政の命令に従ったが、宗全はこれを無視し義就と共に政長を攻撃した(御霊合戦)。政長は敗走し、勝元の屋敷へと逃げ込んだ。派閥の領袖としての面目を潰された格好となった勝元は、宗全との全面対決を決意した。 やがて、両者の対立は全国の大名の兵力(享徳の乱の最中の関東を除く)を政治の中心地である京都に結集して遂に大規模な軍事衝突を引き起こした。これが応仁の乱である。陣を構えた場所から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。勝元の要請に応じ義政は東軍に将軍旗を与え、西軍を賊軍とした。これ...

    農業

    鎌倉時代から農業生産力が向上する。西日本から関東地方に波及した二毛作の技術や牛馬耕、水車などを利用した灌漑施設の整備や肥料の発達などは生産力を向上させ、さらに農業技術の進歩で集約的・多角的な農業を行い、自立農民の成長を促して郷村制の成立をもたらす。なお、稲に関しては室町時代に今日のベトナムから占城米(当時は中国からの流入であったため「大唐米」等と呼ばれていた)が伝来した点が特筆される。この品種はそれ以前のものより虫害や旱害に強く、結果的に収穫量が多くなった。 室町時代後期になると荘園領主や戦国大名が広域を支配することにより、中世を上回る政治権力と経済力による広範囲の灌漑工事や治水事業などが行われ、新開地の増大や低湿地帯の安定化などにより、生産力が飛躍的に向上したことも大きい。 また、この時期から手工業原料となる胡麻や桑、楮なども栽培される。それまでは輸入に頼るのみであった木綿の栽培も16世紀頃から三河地方において栽培されはじめる。この木綿の生産は帆布としての用途があり、海運事業の面でも多くの利益があった。このほか、枇杷・梨・柿・瓜などの果実類の流通が発展したため、産地名を冠して呼...

    手工業

    農民の自立が進むと、それまで宮廷に属していた工人も解放されて自立し、手工業が一般的に行われ市場が成立する。日用品や農具、織物や紙など。今日各地方の特産物と呼ばれるものは室町時代が起源であるものも多く、京都の西陣では明から輸入した生糸を利用して高級織物である西陣織がつくられた。 そのほか、日明貿易の関係上、堺、山口、博多などの都市近辺で高級織物が生産されるようになったほか、社寺の建立が地方にも拡大したため、製紙業が大きく発展した事と、製陶業が応仁の乱前後から地方にも広まった点が室町時代の特徴である。 また室町時代前期には大寺社の改修や建立により、後期には戦国大名の城郭・軍船などの建設の関係上、鎌倉時代よりも林業が発達、流通も行われた。天文初年の本願寺修築に土佐国にもとめているほか、天文年間の京の材木座には美濃や飛騨の材木が取り扱われている。

    商業

    農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市・楽座によって廃止の方向へ向かう。室町幕府から段銭・棟別銭など銭納が実施されて、土倉や酒屋から土倉役・酒屋役など巨額の税金をかけられた。

    倭寇と西洋人来航

    室町時代には倭寇(わこう)と呼ばれる無国籍海上勢力が活動し、14世紀の倭寇は前期倭寇、15世紀の倭寇は後期倭寇と呼ばれる。倭寇は朝鮮半島や中国沿岸部、東南アジアにわたる東アジア地域で活動し、海賊行為や密貿易などを行った。さらに世界史的には大航海時代を迎えており、ポルトガルやイスパニアなどのヨーロッパ人も東アジアで活動を広めていた。

    日明関係

    勘合貿易で倭寇と区別するために商業の町堺と九州の港町の博多と坊津(鹿児島県南さつま市坊津町坊)から出航し、寧波で勘合符を照査させる。足利義持が明と貿易を一時停止するが、足利義教が勘合貿易を再開した。細川氏と大内氏が実権を巡り衝突(寧波の乱)して、以後大内氏が貿易の実権を握った。

    日朝関係

    朝鮮王朝との国交と貿易。足利義満は倭寇を取り締まり朝鮮との交易。 1. 朝鮮通信使- 足利義満からの使者と国書に対する返礼で1375年に足利義満に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ごろまで続いた。 2. 応永の外寇- 1419年(応永26年)におきた朝鮮による対馬襲撃 3. 三浦の乱 - 三浦(乃而浦(鎮海市)、富山浦(釜山市)、塩浦)に定住する日本人が反乱。

    北山文化・東山文化

    室町時代は、義満の時代と義政の時代に特徴的な文化が栄え、北山文化・東山文化と呼ばれることがある。南北朝時代の活力が背景にあり、3代将軍義満の時代(北山文化)は中央集権的で公家文化と武家文化の影響や中国文化の影響があるのに対し、8代将軍義政の時代(東山文化)は庶民的で「わび・さび」という禅宗などの影響が強いのが特色といわれる。応仁の乱での京都の荒廃を機に地方伝播し、惣村や都市の発達により成長していた庶民にも文化が浸透していった。 室町時代後期、戦国時代になると城郭建築が発展する。初期のものは戦争のための軍事施設としての用途が主目的であったが、領国が広がるにつれ豪壮華麗になっていく。鎌倉時代には寺社のみで使用されていた瓦が城郭に使われるようになり、やがて町屋にも広がることとなった。同時に茶の湯・能楽・書院造など今日、文化の原型と考えられているものがこの時代に確立された。

    建築・庭園

    建築では、義満が北山に建造した鹿苑寺金閣は寝殿造と禅宗仏殿を融合させたもので、北山文化を代表する建築である。義政の建てた慈照寺銀閣は禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、楼閣建築もこの時代の特徴と言える。また慈照寺内の東求堂同仁斎は四畳半の座敷で、初期書院造といわれ、今日の和風建築の原型になっている。このほか、商工業の発展に伴い、洛中洛外図屏風などには庶民の邸宅にも2階建ての家屋が描かれるなど、富裕層の増加を見ることができる。

    連歌・茶の湯

    上句と下句を連ねていく和歌である連歌は鎌倉時代から発達し、室町時代に最盛を迎える。宗祇や二条良基、宗長や心敬らの連歌師が出現し、大名や公家僧侶が寺社に集まり連歌会が催された。連歌は貴族から一般民衆の間にまで広まった。茶の湯は、南北朝時代に行われていた闘茶や茶寄合が、東山時代に村田珠光により侘び茶が開始され、戦国時代に千利休が完成させる。この茶道の流行は同時に陶磁器の発展を促した。美濃焼や楽焼など、中世六古窯とは別の、新たな窯業を発生させた。

    学問

    室町時代の学問の担い手は主に禅僧や公家である。京都の五山を中心に禅僧の間で漢文学や朱子学の研究が行われ、五山文学と呼ばれる。五山は幕府の保護を受け、日明貿易を行う足利義満の外交的顧問役でもあった。無力化した公家は有職故実や和歌、古典の研究を行い、一条兼良や東常縁、三条西実隆などの公家より古典文化が守られた。応仁の乱で京都が荒廃すると、公家や禅僧は地方に移り、学問や文化の地方波及や庶民化が進む。関白一条兼良は越前国朝倉氏のもとへ身を寄せ、子は土佐国中村に土着して土佐一条氏となる。桂庵玄樹は肥後国及び薩摩国に招かれ、現地で朱子学の一派である薩南学派を開くが江戸時代には衰亡した。大内義隆に仕えていた南村梅軒は土佐に招かれて、同じく朱子学の一派の海南学派を開く。 また、この頃関東では、上杉憲実により足利学校が再興される。大内氏や堺、奈良の商人の間でも独自の出版が行われた。

    宗教・思想

    日本仏教では、禅宗は武家層にも広まり、武家の保護を受けた禅の五山が定められるなど仏教を通じて武家文化と貴族文化が融合するなど、室町文化に影響する。都市部では日蓮宗が広まり、京都では日親が布教活動を行い、町衆は信徒的な団結力で土一揆に対して戦う。1536年には日蓮宗は比叡山延暦寺と衝突して天文法華の乱と呼ばれる騒動となる。庶民の間では曹洞宗が広まる。 浄土真宗には本願寺派や高田派、仏光寺派、三門徒派などの宗派があったが、その中でも、本願寺派の蓮如が再興した本願寺派(一向宗とも呼ばれた)は、講と呼ばれる信徒集団を形成し、浄土真宗の宗派の中で最も有力な宗派となった。 本願寺派の信徒は、自らの宗派を守るために、信仰を基にして一向一揆を結び、団結した。本願寺派は、応仁の乱以降の戦国の騒乱の中では、加賀一向一揆を通じて加賀国を支配し、戦国大名に匹敵する勢力になり、室町幕府や様々な戦国大名と合従連衡を繰り広げた。 織田信長が上洛した際、信長は足利義昭を支持していたが、後に対立した。その際に、本願寺派は義昭を支持して信長に対抗し、石山合戦を繰り広げた。大坂の石山本願寺が落とされて以降は沈静する。...

    史書

    『増鏡』は四鏡の最後の史書で、後鳥羽天皇の即位から1333年に配流となっていた後醍醐天皇が京都に帰還するまでの宮廷社会の動向を記している。『太平記』は後醍醐天皇の即位から細川頼之が管領に就任するまでの南北朝時代を扱っており、軍記物語の性格が強く室町時代から江戸時代にかけて太平記よみと呼ばれる物語僧によって庶民にも語られていた。『梅松論』は足利尊氏の正当性を強調して書かれた史書であるが、成立は太平記よりも早く、資料性は高い。『神皇正統記』は、南北朝時代に南朝の北畠親房が関東で勢力を集めるために南朝の正統性を神代から記した所で、のちの皇国史観に繋がるイデオロギー的性格の強い史書であった。『難太平記』は今川貞世が著した史書で、太平記の誤りを訂正しつつ、今川氏の事績を中心に書かれている。『明徳記』は1391年の明徳の乱の経過が書かれている、『応永記』には1399年の応永の乱や南北朝合体の記述が、『永享記』には永享の乱を中心とした関東の情勢が、『応仁記』には足利義政の治世から応仁の乱の様子が記されている。また、江戸幕府が幕末に編纂した史書として『後鑑』があり、1333年から1597年に至る...

  5. 紅世の徒 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 紅世の徒

    紅世の徒”(ぐぜのともがら)は、高橋弥七郎のライトノベル作品『灼眼のシャナ』およびそれを原作とする同名の漫画・アニメ・コンピュータゲームに登場する架空の生命体の種族名。 原作の文中では「“紅世の徒”」とダブルクオートで囲って表記される他、単に「“徒” ...

  6. 源田実 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 源田実

    源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は、日本の海軍 軍人、航空自衛官、政治家。海軍では海兵 52期を卒業し、最終階級は大佐。戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。

  7. 日本教育史 - Wikipedia

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    • 外部リンク

    奈良時代から平安時代まで

    古代日本の教育について、多く知られているとはいえない。しかし、山上憶良の「貧窮問答歌」などにも見られるように、親が子を思い、そのために何かをしてやりたいという気持ちは時代が違っていても変わることはなかったようで、資料の残っている以前から、親や大人たちが子どもや若者が一人前になっていく上で、何かの手助けや指導をしていたことは想像に難くない。 施政にあたる人物で、日本史上最も早く教育に関心を示したといわれるのは、、飛鳥時代の政治家、聖徳太子(574年-622年)である。厩戸(うまやど)皇子・上宮(うえのみや)王・豊聡耳(とよとみみ)などともいう。理想主義的な哲人政治を志向したが、書物としての教育論は残していない。冠位十二階、十七条憲法の制定、遣隋使(小野妹子)の派遣、四天王寺、法隆寺などの建立などが主だった業績である。経典を研究し「三経義疏」という注釈書を書いたが、これに彼の教育思想、「一乗思想」が色濃く反映されている。つまり、すべての人に等しく教育を説き、理想の実現と人間平等の考え方である。教育についての日本では初めて思想として提起されたものになる。 最初の教育の制度というのは、大...

    鎌倉時代から室町時代まで

    鎌倉時代から室町時代には、京都の貴族が古典研究や有職故実の学問の担い手となっていた。しかし、貴族の地位の低下と共に、仏教寺院や学識僧が徐々にその担い手として台頭し、その中でも鎌倉五山を中心とした五山文学はその代表である。 また武家階級という新たな社会層も、自らの後進のために、学問を身につけるための施設、学校の整備に配慮するようになり、鎌倉時代には北条実時が金沢称名寺(現、神奈川県横浜市金沢区)に金沢文庫を設置し、多くの文書を収集した。また、遅れて室町時代には関東地方において上杉憲実が足利学校を再興する。これは、キリスト教の宣教師たちに「坂東の大学」といわれ、当時の日本の中心的な学校と考えられた。また西洋人の目からみて、その当時の代表的な学校は、他に高野山、比叡山などがそれに並べられていた。 庶民の間では、芸事や趣味の道が次第に洗練されたものになり始め、『風姿花伝』のように芸の道を人間の道と重ね合わせて修行のありようを考えるという視点も、この武家階級の時代の産物である(芸道論)。

    江戸時代初期・中期

    江戸時代中期の教育は教育機関となる区分が存在せず、幕府によって選定された人物が学問の研究を行い書物を刊行し、武士・百姓・町人の身分制度の中で自学自習するといったことが行われていた。

    江戸時代後期(幕末期)

    江戸時代後期(幕末)の教育制度は、、幕府の財政難や体制の危機が深刻化するなかで、武士の生活難も目立ってきた諸藩は教育の改革を断行する。諸藩では藩学(藩校)・郷学・塾(私塾)を設立して子孫の教育を行った。また、庶民の個別指導教育として寺子屋が開校。これらは全て、我が国の学校制度の始まりとされている。また、子供への訓話教育を手島堵庵が始めるなどした。

    明治時代

    明治維新と文明開化の近代思想は福澤諭吉の『西洋事情』や『学問のすゝめ』、中村正直の『西国立志編』、中江兆民の『民約訳解』、森有礼たちが設立した『明六社』により発行された『明六雑誌』などによって普及した。 明治初年には私塾や郷学校の開設など民間からの教育運動も進められた。1872年(明治5年)には学制が公布され、小学校から大学校に至る教育制度の確立が行われた。義務教育が法文化され、女子教育が普及した。国民教育の普及は近代国家の形成に大きな役割をはたした。一方で帝国大学令に見られるように、教育政策は自由主義的傾向から中央集権的・国家主義的傾向へと方向を変えた。 井上毅と元田永孚により起草された「教育勅語」は、明治天皇が臣民に与えるという形で発布された。天皇を中心とする家族国家を前提に、忠君愛国と日常生活実践としての儒教徳目を教え、徳化するというものであった。宗教ではない(帝国憲法と井上自身による言明)とされ、具体的教義を持たなかった国家神道に儒教徳目を密輸入する形で、臣民の道徳教育を実現しようとした立憲的国家主義者井上と漢学者元田の苦心の結果だが、のちに国家主義者に利用されるようにな...

    大正時代

    1920年代から1930年代前半にかけて、画一主義的な教育の反動から、子供の興味や関心を中心にした教育実践を目指す大正自由教育運動が起きた。この運動によって、官僚の澤柳政太郎による成城小学校や、自由主義教育者の伊藤長七による東京府立第五中学校(現・小石川中等教育学校) といった、個性の尊重を目指した新教育を行う学校が創立され、教育界に大きな影響を及ぼした。 大正期には文豪が多く現れ、学習院卒業者が集まった白樺派(武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎)や新思潮派(菊池寛、芥川龍之介)、耽美派(永井荷風、谷崎潤一郎)などが有名である。また、大正教養主義(人格主義)が盛んになり、学生は倉田百三『愛と認識との出発』や出隆『哲学以前』、阿部次郎『三太郎の日記』に傾倒し、ドイツ哲学や文学に流れていった。就職難や厭世観などから、文科学生には夏目漱石の文学に現れるような高等遊民になるものや、「巌頭之感」の藤村操のように自殺するものもいた。 京都帝国大学では、西田幾多郎、田辺元らの哲学者を中心とする京都学派が形成され、京都学派四天王や三木清、和辻哲郎、九鬼周造、下村寅太郎などを輩出した。田辺や九鬼、三...

    昭和~第二次世界大戦

    植民地では同化政策の一環として、朝鮮では日本語教育や創氏改名、沖縄では方言札などが行われていた。その結果インフラ整備や政治改革が行われたが、一方で帝国日本の支配に苦しむことになった。 戦争末期には中国や太平洋での戦力不足を補うため、学生を戦争へ送り出すことになり、文系学生や非工・医学系学生が徴兵された(学徒出陣)。また、神風特別攻撃隊に入隊し、敵艦に自爆特攻を行うことになった者もいた。戦後『はるかなる山河に』や『きけ わだつみのこえ』などに彼らの遺稿が纏められることとなった。沖縄戦では、鉄血勤皇隊や看護学生のひめゆり学徒隊が組織された。

    第二次世界大戦後・昭和後期~平成

    敗戦後、連合国軍の占領下で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の指導などを踏まえた学制改革が施行された。修身や地理歴史などの国粋主義的とみなされた授業は停止された。教育勅語は効力を持たなくなり、旧教育基本法と学校教育法が制定されたことを始めとして、新たな学校教育制度が確立されていく。終戦直後、戦前の教科書は墨塗りにされ、またパンフレット『あたらしい憲法のはなし』や教科書『民主主義』などにより戦後民主主義教育が始まった。一方で、冷戦下における逆コースとして、教科書検定の権限が文科大臣に集中し、修身科も道徳科として大きく姿を変えながらも復活した。 学生自治会は全学連に組織され、1960年の安保闘争などで活躍したが、その後分裂した。1968年頃から70年頃にかけて、新左翼や全共闘によって学生運動(大学紛争・高校紛争)が勃発。高崎経済大学や早稲田大学などで学費値上げ問題などをきっかけに、バリケードストライキなどによる大学当局への反対運動が行われた。日本大学は粉飾決算や当局の強圧的な態度に憤激した学生が機動隊との激闘を行った。東京大学では山本義隆議長の東大全共闘が安田講堂を占拠し...

    寺下明『教育原理』ミネルヴァ書房、2003年5月。ISBN 978-4-623-03835-0。
    『ビジュアルワイド 図説日本史』東京書籍、2006年2月、改訂5版。ISBN 978-4-487-36247-9。
    竹内洋(2011)『革新幻想の戦後史』、中央公論社。
  8. 尺貫法 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 尺貫法
    • 概要
    • 単位
    • 計量法に違反しない範囲の使用
    • 尺相当目盛り付き長さ計
    • 引用
    • 関連項目
    • 参考文献

    尺貫法は中国が起源であるが、政情によりしばしば改定があった。 当初は西洋のヤード・ポンド法などと同様、身体の一部の長さや、穀物の質量などが単位として使われていたが、次第に明確な定義が定められるようになった。その最たるものが前漢末、劉歆の三統暦にある黄鍾秬黍説であり、長さは秬黍(きょしょ。クロキビ)の1粒の幅を1分(0.1寸)、黄鍾と呼ばれる音律を出す笛の管の長さを90分(9寸)とし、さらに黄鍾の管の容積(810立方分)を1龠(0.5合)、黄鍾の管に入る秬黍1,200粒の質量を12銖(0.5両)とした。この黄鍾秬黍説が後の度量衡制の基準となった。 歴代の王朝が法令によって度量衡を定めたが、特に長さや容積の単位は時代とともに長くなった。 日本では唐尺よりも前には高麗尺が使用されており、例えば法隆寺は高麗尺による建造物と唐尺による建造物が混在している。唐尺は中国のほか、中国の影響を受けた東アジア一円(朝鮮など)で、その文化とともに取り入れられた。その後各地で独自の進化を遂げているが、値は中国の唐に、1寸が3cm程度でほぼ一定し、それからそれほど変化しておらず、元の値をほぼ保存している。 現在は、尺貫法を使用していた国はすべて国際単位系に移行しており、尺貫法を公式の単位としている国は存在しない。例外的に、真珠の取引単位は直径はセンチメートル、ネックレス等の長さはインチとされ、質量はグラム表記したことで混乱を招いた歴史があることから、世界的に「もんめ(momme)」(単位記号は mom )が国際単位として使われている。

    尺貫法がメートル法と全く異なる要素は、全てが一律の十進法ではないという点である。十倍を繰り返さない十の単位が用いられたり、六十進法の単位が用いられたり、六で割り切れて十で割り切れない単位が用いられたりするのが特徴である。 以下の換算数値は、旧計量法施行法(昭和26年法律第208号)第4条、第5条に基づいている。

    日本では計量単位として使用されることはなくなったが、取引や証明に当たらない計量において尺貫法の単位が使われるケースや、国際単位系の単位を表記に利用しながらも、尺貫法の値を設計者の思考上の計算または内部的な計算に用いる例はみられる。これは計算に用いるような内部的使用は、外部との取引・証明に使われるわけでないので計量法には違反しないためである。日本の事例としては以下のものが挙げられるが、いずれも、計量単位として取引や証明に用いられることは皆無である。 以下の例において、尺や升の数値が計量上用いられているように思われる例であっても、それは計量単位としての使用ではなく、「型番」や「呼称」としての使用に過ぎない。型番や呼称は計量単位そのものではないので、計量法上も認められている。例として、テレビ受像機のサイズ呼称(46型テレビ、由来はインチ)がある。 1. 建築関連では日本家屋が尺貫法で設計されていたため、設計図面上の寸法はメートル法を用いて表記されるが、広さを坪や畳で表すなど伝統的な目安として利用されている。 1.1. 建築や不動産関係者間では土地の面積や床面積として、36平方尺(畳2帖の面積に相当)を表す「坪」を念頭において業務を行っている。不動産取引自体(これが計量法上の取引・証明である(計量法#取引、証明とは)。)に「坪」を使うことはありえず、例えば住宅の建設費で、坪当たりの単価を示す場合には「坪あたり○万円」が使われることは絶えて無く、「3.3平方メートルあたり○万円」と表記されるに過ぎない。坪(約3.305 785 m2)と3.3 m2とでは、約0.18%の差があるので、「坪当たり」ではなく、あくまで、3.3000 m2当たりの表記である。ただし、取引当事者の思考上は「坪」の概念があることは確かである。 1.2. ベニヤ板や石膏ボードなどの板材の大きさを表すのに「1.5×3(いごさん)」「3×6(さぶろく)」「4×8(しはち、よんぱち)」などといった呼称が用いられることがある[要出典]。これらの由来は長さを尺(曲尺)で表したもので、前者は3尺×6尺(= 90.9cm×181.8cm)、後者は4尺×8尺(= 121.2 cm×242.4 cm)の大きさの板材を指すことが多いが、いわゆるコンパネと呼ばれるコンポジットパネルでは同一の呼称を用いても 91 cm×1...

    木造建築や和裁などの分野では、尺や鯨尺が現在でも使われており、かつてヤミ業者の製造した粗悪品が出回り、大工職人が施工する際に混乱したり、書類送検、逮捕されるなど、日本のメートル法化の厳格運用によって、日本では社会問題が発生したことがあり、永六輔が「尺貫法復権運動」を巻き起こした。このため、計量単位の規制が、日本の伝統や文化の中で著しく不便を生じさせている場合は、その度合いを最小限に留めるよう、制度の柔軟な運用を行うこととなった。 1977年(昭和52年)の計量行政審議会で議論が行われ、「尺相当目盛り付き長さ計」(尺相当の長さの目盛りが付いているが、値はメートルの物差し)は、メートル法による物差しとし、合法であるという判断がなされ、これに基づき販売が認められている。一部に、尺の使用が「黙認されている」と主張している向きがあるが、間違いである。 尺相当目盛り付き長さ計は、尺・寸の目盛り表記ではなく、1/33mごとの目盛り(曲尺相当)又は1/26.4mごとの目盛り(鯨尺相当)というように、表記上はメートル法を採用しているため、メートル法による物差しである。これは三角スケールの目盛りにおいて、1/150mや1/250m目盛りの物差しがメートル法によるものであることと同じである。 「尺相当目盛り付き長さ計」の姿形は次の写真のようなものである。 実際の運用は次の通りである。 1. 「尺相当目盛付長さ計等」については、都道府県知事を経由し大臣へ申請することとなっている。 1. 法8条1項及び9条1項を円滑に実施するため、尺相当目盛付長さ計については、計量行政室の承認を受けるものとし、次に定めるところにより行うものとする。 1. 対象となる計量器 1. 尺相当目盛付長さ計: さしがね、コンベックスケール(巻尺)、文化財修復及び畳職人用等の竹製ものさし、文化財修復及び畳職人用等の金属製ものさし 2. 鯨尺尺相当目盛付の長さ計:和裁用の竹製ものさし 1. 計量器に係る表示 計量器に係る表示 1. メートル単位表示 1.1. 製造又は輸入が認められる計量器は、通常人がメートル単位表示の長さ計であると認識できるものでなければならない。 1.2. すなわち、一寸相当の箇所に「1/33 m」、一鯨尺相当の箇所に「1/26.4 m」というように積極的にメートル単位表示「m」がなされたもので...

    渡辺英夫(日立コミュニケーションテクノロジー)「計量単位(中国度量衡)の変遷」、「計量の歴史を紐解く、記念講演会 盛況に開催(神奈川県計量協会)」。
    小泉袈裟勝『歴史の中の単位』総合科学出版、1974年。ASIN B000JA1WCG。
  9. 南部氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 南部氏
    • 略史
    • 南部氏の各支族
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁、 源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の嫡子義家の弟の源義光の孫である清光の子孫は甲斐源氏と称されて武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、さらに南部氏、秋山氏、小笠原氏などが別れている。 奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された。 光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人であるが、「秋山系図」(『続群書類従』)は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」とし、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名は、将軍の供奉を務める御家人でかつ北条時頼の側近として、しばしば『吾妻鏡』にあらわれる。 文治 5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を給され、建久 2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられているが、拝領を支証するものはない。 南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。 南部宗家は三戸南部氏であり、南部光行の嫡子・実光の子孫である。後の八戸南部氏の祖となる波木井実長は弟であり、二代実継・三代長継のあと、宗家三代時実の子政行の次男師行が長継の娘婿となって波木井家を継いだとされるが、実継・長継の名は波木井南部家一族の名を記した同時代史料には見えない。八戸(遠野)南部家文書には鎌倉時代の波木井領に関する文書は存在せず、八戸南部氏が波木井家の子孫とする「八戸家系」は、享保4年(1719年)信有の時代において八戸家と身延山久遠寺との交渉を通じ遠野南部家文書の中に入った。

    根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されていた。少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には、宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。

    青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。
    青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』青森県、2005年3月31日。
    青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』青森県、2002年3月31日。
  10. 高梨氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 高梨氏
    • 平安末期から源平合戦
    • 南北朝時代
    • 室町時代
    • 戦国時代以降
    • 歴代の人物
    • 参考文献
    • 関連項目

    高梨氏は、同じ北信濃の名族清和源氏井上氏流を名乗り、井上家季の息子高梨盛光の末裔(まつえい)であると称している(『尊卑分脈』)。本家の井上氏に従い、前九年の役に出陣した後、本郷高梨氏(総領家)と山田高梨氏に別れたとされるものの、系図には疑うべき余地も多く、実際には源平合戦(治承・寿永の乱)の際は井上一族ではなく安曇郡の桓武平氏仁科氏らと行動を共にしていたので、当時の慣習から見て別の一族であった可能性がある。 高梨高信・高梨忠直らは源義仲傘下として越後から南下した城助職率いる平家方を破り、その後も源義仲に最後まで従ったと思われ、高梨忠直は京都の六条河原で刑死した記録が残されている。また、建久元年(1190年)頼朝が上洛した際の御家人の中に高梨次郎の名が見え、鎌倉時代も御家人として存続していたことが伺われる。その後は保科氏らと婚姻関係を結びつつ北方へ領土を拡大していった。

    建武の新政では高梨義繁が後醍醐天皇方の武者所の寄人を務めたとされる。南北朝時代には埴科郡に割拠する有力豪族村上氏と共に北朝方に属し、正平6年/観応2年(1351年)6月に高梨経頼は小笠原為経・小笠原光宗らと直義党の諏訪直頼の代官祢津宗貞と野辺原(須坂市野辺)で戦い、8月には富部御厨(長野市川中島町)、善光寺、米子城(須坂市米子)で戦った。正平11年/延文元年(1356年)、上杉憲将の支援する市河氏と戦い、小菅荘(飯山市)まで勢力を伸ばした。また北信濃の南朝方香坂心覚(根津一族と思われる香坂氏6代目)との抗争、越後の南朝方上杉兵庫助との牧城における戦いにも高梨五郎・高梨時綱らの名が見える。

    明徳の和約による南北朝合一後、守護の斯波義種に反抗して元中4年/嘉慶元年(1387年)善光寺に村上頼国、小笠原清順、長沼太郎らと挙兵し5月に平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めて漆田原(長野市中御所)で戦い、8月には守護代の二宮氏泰が篭城する横山城を攻め落とし、続いて生仁城(千曲市雨宮)も攻めた。 明徳3年(1392年)、当時の惣領である高梨朝高が室町幕府に対して10名の一族や被官の所領の安堵を求めて言上状を出しているが、その中には高井郡北部から水内郡にかけての惣領の所領9か所を含む30か所の所領を書き上げられている。なお、既に高梨氏の本領として安堵されている土地は記載されていないと考えられるため、実際にはより広い所領を有していたと考えられる。また、所領の中には須田氏・井上氏・村上氏の勢力圏と近接する地域もあった。それだけに惣領の権力や求心力の維持や他の国人との関係が課題としてあったことが知られる。 さらに応永7年(1400年)に信濃守護職小笠原長秀との間で行われた大塔合戦では、高梨氏や井上一族など北信濃衆は500騎を動員しており、この数は信濃国人衆の筆頭(信濃惣大将)である村上氏と同数で、東信濃の名族海野氏の300騎を上回る。この戦いで高梨朝高の名が見える。その次男は善光寺後庁にある在庁官人の介職として上条介四郎と名乗った。 応永10年(1403年)に細川慈忠が幕府料国となった信濃国に「大将」として入国した際には、村上氏や大井氏、井上氏らが従わず段の原や生仁城で戦って敗走させた。翌応永11年(1404年)12月には幕府代官の所領実態究明を拒む高梨左馬助朝秀とも合戦となって桐原や若槻、下芋河、替佐、蓮、東条などを転戦した。また朝秀は上杉禅秀の乱後に将軍足利義持と公方足利持氏が対立すると、将軍方に立って関東に出兵している。 このように南北朝時代に善光寺平北部地域一帯から越後の一部にまで及ぶ勢力拡大に成功していた様子が伺われる。室町時代には、高梨惣領家と山田高梨・中村高梨・江部高梨を併せて高梨四家と呼ばれていたと記されている。 永享年間に入ると、守護小笠原氏の信濃支配が一定の安定を見るが、高梨氏は結城合戦では小笠原氏の指揮下で行動する一方、高梨教秀が将軍足利義教の偏諱を受けるなど幕府との直接関係を維持していた。 地理的に近い越後椎谷にも所領があったことから越後の勢力...

    高梨政盛の代に、越後守護代の長尾氏と関係を強めるため、長尾能景に娘を嫁がせるが、その娘が産んだ長尾為景(上杉謙信の父)が越後守護代となり、室町末期には越後で守護上杉家と長尾家の争いが起きると、高梨氏もそれに巻き込まれることになった。また明応4年(1495年)には善光寺を巡って村上政清と争いとなり善光寺を焼失させた。政盛と澄頼はこの時に同寺の本尊を本拠地に持ち帰ったとされ河東善光寺縁起(南照寺)にあるものの悪病の流行で3年もたたないうちに返還したとされる[要出典]。 永正4年(1507年)、越後の永正の乱において為景が越後守護上杉房能を殺害した際には為景を支援している。また房能の兄で関東管領上杉顕定が為景をいったんは放逐するが、永正7年(1510年)の長森原の戦いに為景方の援軍として出陣して顕定を敗死させている。政盛は永正10年(1513年)頃までに善光寺平北部の中野郷を奪取して本拠地と定め、高梨氏の全盛期を築いたとされている。しかしその年のうちに政盛が死去、越後では為景と新守護上杉定実の争いが起き、近隣の井上一族を始め信濃島津氏や栗田氏、海野氏ら北信濃の国人衆が上杉方に付き、唯一の長尾方として孤立していくこととなる。さらに善光寺平を手中に収めようとする村上氏との対立もあり、高梨氏に討たれて没落していた中野氏の牢人・被官に混じって高梨一族が高梨宗家に対して反乱を起こして村上氏支配地の小島田(長野市)に集結した。以後高梨氏は弱体化していった。 それでも政盛の孫の高梨政頼の頃まで独立性を保ってきたが、村上氏を撃破した甲斐国の武田晴信の侵攻を受け、弘治年間(1555年 - 1558年)に本拠地中野郷から信越国境に近い飯山郷まで後退した。その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けて一時的に所領を取り返したが、その後武田と長尾(上杉)の対立(川中島の戦い)の中で他の北信濃国人衆と共に上杉家の家臣化が進んでいった。 天正10年(1582年)3月に、織田信長の甲州征伐により武田氏は滅亡し、織田氏の家臣森長可が信濃川中島四郡を領する。同年6月の本能寺の変により長可は信濃から撤退、越後の国の上杉景勝が進出する(天正壬午の乱)。これに伴い高梨氏は旧領に復帰することができた。 豊臣政権による文禄・慶長の役では上杉軍として高梨頼親が熊川に在陣し城を修築している。その後上杉家は、会津・米沢...

    勝山忠三 『上高井歴史』(再版) 上高井歴史研究会、1916年。 NCID BN07860272。
    田中豊茂 『信濃中世武家伝 : 信濃武士の家紋と興亡』 信濃毎日新聞社、2016年11月。ISBN 9784784072989。
    長野県 『長野県史』 通史編 第3巻 長野県史刊行会、1987年3月。全国書誌番号:91028855。
    花岡康隆、2018、「信濃高梨氏の「国衆」化」、戦国史研究会(編)『戦国時代の大名と国衆 支配・従属・自立のメカニズム』、戒光祥出版〈戎光祥中世史論集 第7巻〉 ISBN 978-4-86403-162-2。
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