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  1. 房地合一2 0 相關
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  1. 尺貫法 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 尺貫法

    1里 = 36町 ≒ 3 927.27 2 3927 m 1町 = 60間 = 360尺 ≒ 109.09 0 109 m 1間 (歩) = 6尺 ≒ 1.81 8 182 m 1丈 = 10尺 ≒ 3.03 0 303 m 1尺 = 10寸 = 10/33m [3] ≒ 0.30 3 0303 m 尺は時代や地域によってその長さが異なる。また、同じ時代でも目的などによって複数の ...

  2. 魚類用語 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 擬餌状体

    魚類用語(ぎょるいようご)では、魚類の身体の名称、特徴や生態などを示す用語について記す。 ただし、狭義の魚類に含まれない無顎類(円口類)を含む。 片仮名の部分の読みは「-」で略した。

  3. ムハンマド・アフマド・アル=マフディー - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ムハンマド・アフマド
    • 前半生
    • マフディー国家の樹立を宣す
    • ウラマーの反応
    • 反乱蜂起の拡大
    • ハルトゥーム
    • 没後
    • 参考文献
    • 関連文献

    ムハンマド・アフマドは、1845年8月12日(ヒジュラ暦1261年シャイバーン月8日)、スーダン北部の町ドゥンクラーのラバブ島で生まれた。おそらくはアラブ化したヌビア人(英語版)の家系を出自とする。父親のアブドゥッラーフ・ブン・ファフルは船大工で身を立て、つましい暮らしをしていたが、その家系はハサン系のシャリーフだと主張していた。ムハンマド・アフマドがまだ子どもの頃、一家はウンム・ドゥルマーンの北にあるキャラリーという町に移り住むことにした。そこでは父の仕事、船作りに使う木材が手に入るからであった。 兄弟たちが父の仕事を手伝うようになる中、ムハンマド・アフマドは一人、イスラームの教えを学ぶことにのめり込むようになった。彼は最初、ハルトゥーム周辺のジャズィーラ地方にてアミーン・スワイリフ師(Sheikh al-Amin al-Suwaylih)の下で学び、その次に北部の町バルバル(ドイツ語版、アラビア語版)の近くでムハンマド・ディカイル・アブダッラーフ・フジャリー師(Sheikh Muhammad al-Dikayr 'Abdallah Khujali)の下で学んだ。スーフィーになって神への崇拝と禁欲の一生を送ることを心に決めてムハンマド・シャリーフ・ヌールッダーイム師(Sheikh Muhammad Sharif Nur al-Dai'm)を探し始め、1861年(ヒジュラ暦1277/1278年)についに尋ね当てた。彼はスーダンにおけるイスラーム神秘主義の一派、サンマーニーヤ教団(アラビア語版、イタリア語版)の教祖の孫にあたる人物である。ムハンマド・アフマドはムハンマド・シャリーフ師と7年間を共に過ごした。この間の彼は敬虔で禁欲的な日々を送っていたと考えられている。 1870年(ヒジュラ暦1286/1287年)にムハンマド・アフマドの一家は再び木材を求めて移住した。今度の移住先はハルトゥームから白ナイル川を150キロメートルほど遡ったところにある島、アーバー島であった。その島でムハンマド・アフマドはモスクを建て、聖典クルアーンを教え始めた。すばらしい説教をする偉いスーフィーがやってきたと、彼のことは島の住民たちの間でたちまち評判になった。ムハンマド・アフマドの思想は、クルアーンの原点に立ち返り、そこから少しでも外れるものは異端(ビドア)とみなすという原理主義であ...

    1881年6月29日(ヒジュラ暦1298年シャアバーン月朔日)、ムハンマド・アフマドは「自分が正導者(マフディー)であり、来るべき預言者イーサーの再来に備えて道を整えるべき」ことを公式に宣言した。それは、飛び抜けたスーフィーのシャイフとして、サンマーニーヤ教団とアーバー島の周辺地域の部族の中に多くの弟子たちを持ったムハンマド・アフマドの衆望がなければあり得ない宣言だった。もっとも、マフディー国家(ダウラッ・マフディーヤ)を樹立するというアイデア自体はムハンマド・アフマドの宣言よりも前に、サンマーニーヤ教団の思想の中心に既にあった。前指導者、クラシー・ワド・ザイン師は「待ち望まれているお方(ムンタザル)、救い主は、サンマーニーヤ教団の教えを受け継ぐ者たち(スィルスィラ)の中から現れる」と断言していた。クラシー師によれば「マフディーとなられるお方は、数多くの予兆を通して自らが救世主であることを自覚するであろう、そのような予兆のいくつかはイスラーム黎明期に既に起きており、ハディースにもその旨が記録されているが、まだ起きていない予兆もある。それらは明白に土着的な性格を備えている」と言ったとされる。また、マフディー到来の予兆として、彼がシャイフの子馬の背に乗るであろうこと、そして、彼の死後にその墓を覆うドームが建つであろうことを予言した。 ムハンマド・アフマドは、自分の支持者と敵対者の双方によく知られている昔ながらのスーフィーの儀式を引き合いに出して、私は「預言者たちの集会」、ハドラ・ナバウィーヤ(Al-Hadra Al-Nabawiyya, الحضرة النبوية‎)においてマフディーに指名されたのだ、と主張した。タサウウフにおいてハドラはアーダムからムハンマドに至るまでのすべての預言者だけでなく、存命中に神的な高みに達したと思われたスーフィー聖者たちも大勢が集まる集会を意味すると観念される。ムハンマド・アフマドが幻視したハドラは、サイイド・ウージュード(Sayyid al-Wujūd)つまり、神との合一(ウージュード(英語版))を果たしたサイイドとして知られる預言者ムハンマドが取り仕切り、その側には7人のクトゥブ(Qutb, 軸となる人)がいた、その中で最も年かさの男はガウス・ザマン[注釈 1]であった、という。マフディーヤの信仰体系においてムハンマド・アフマ...

    ムハンマド・アフマドのマフディー宣言は、サンマーニーヤ教団や他の宗派の宗教指導者たちの間で信じられ、歴史的東スダーンの諸部族の間でも部族の垣根を越えて支持が広がったにも関わらず、正統的な宗教権威であるウラマーはこれを嘲笑した。とりわけ激しくムハンマド・アフマドを批判したのは、オスマン帝国のスルタンに忠実なスダーン人のウラマーであり、トルコ=エジプト政権(ムハンマド・アリー朝)に庇護されていた者たちであった。そのようなウラマーとしては、ハルトゥームの高等裁判所の指導者(ムフティー)であったシャーキル・アル=ガーズィー(Shakir al-Ghazi)や、クルドゥファーン地方の裁判所の判事(カーディー)であったアフマド・アル=アズハリー(Ahmad al-Azhari)がいる。 批判者たちはアル=マフディー思想の詳細に立ち入ってこれを否定することは慎重に避けた。彼らはむしろ、自分こそがアル=マフディーであるというムハンマド・アフマドの主張は信頼できるものではないと批判した。彼らはムハンマド・アフマドの宣言がハディース文献に散りばめられた予言と一致しないことを指摘した。特に彼らが問題としたのは、ムハンマド・アフマドがドゥンクラーに生まれたという事実、彼がファーティマ・ザフラーの子孫であるという証拠を欠くこと、真正なアル=マフディーの身体に現れると予言されている特徴が彼の身体には見られないこと、そして、彼の宣言がハディースで予言された「地に抑圧、暴政、怨嗟の声が満つ」「苦難の時代」になされたものではないこと、であった。 トルコ=エジプト政権の法的正当性へのムハンマド・アフマドの挑戦は、拡大解釈すればバーブ・アリー(オスマン帝国中枢)の支配の合法性を問うことにもなり、多くのエリート宗教者の反発を招いた。その一方で、彼の唱えたイスラームの教義と実践へのラディカルな変革の中には、諸国のエリートでないイスラーム法学者の見解を二分させるものもあった。特に賛否両論を沸き立たせたのは、スンニー派の四大法学派(マザーヒブ Madhahib, مذاهب)の廃止や、タフスィール(クルアーン注釈学)の長い歴史の中から生まれた権威あるテキストのすべてを拒否するといった変革であった。そのほかにも信仰告白(シャハーダ)の文句に「ムハンマド・アル=マフディー、ハリーファ・ラスールッラー(ムハンマ...

    ウラマーの助言を受けて、エジプトの治安当局はムハンマド・アフマドを偽の教義を広めた罪で逮捕することにし、遠征軍を組織した。ムハンマド・アフマドはこの遠征に対してジハードを宣言することによって答えた。このことは当時のイスラーム法学者から非常に厳しく批判された。 他の宗教改革者と違って、ムハンマド・アフマドはイジュティハードの実践を奨励することはなかった。その代わりに「神から直接暗示を受けた」として、自ら布告した内容を伝統的な法学的解釈に置き換えた。といってもそれは預言者ムハンマドを封印してその地位を奪うものではなかった。なぜならば預言者は、何らかの方法で、ムハンマド・アフマドに与えられる啓示を媒介したからであった。 アル=マフディーのダアワ(付き従った人々、信奉者)は、アル=アンサール(援助者の意)を自称した。彼らは西洋人には「デルヴィーシュ」(乞食坊主、修行者の意)と呼ばれた。アル=マフディーとそのダアワは、クルドゥファーンに向けて長い道のりを行進した。そこでアル=マフディーは大規模な教宣を行い運動への参加を呼びかけ、多数のアンサールを得た。特に、バッガーラ人たちの心をつかむことに成功し、リゼイガト部族のシャイフ・マディーッボ・イブン・アリーや、ター・アーイシャ部族のアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドといった部族長の支持を取り付けた。ベジャ人のハデンドゥア(Hadendoa, 遊牧民)もダアワに参加した。東部スーダンのハデンドゥア族長、ウスマーン・ディグナは1883年にアンサールに馳せ参じた。 マフディー運動は1881年に北部スーダンではじまり、西部スーダンまで押し返された。ところがそこでヌエル、シッルク、アヌアックの各部族の支援を受け、南部スーダンからはバフル=ル=ガザル部族の支援も受けた。ここに至り、マフディー運動は局地的な運動ではなく「民族主義革命」(a national revolution)の様相を呈するようになった。 他方で、東部スーダンと北部スーダンで信者を拡げていたスーフィーのタリーカの1つ、ハティム教団(Khatmiyya、ハティミーヤ)はアル=マフディーの主張を異端であると斥けた。マフディー軍はハティム教徒を攻撃し、カッサラーにあるサイイド・アル=ハサンの霊廟を荒らした。アル=ハサンはハティム教団で崇拝されていたイマーム、ムハンマド・ウスマ...

    この地域から吸い上げることのできる利益の少なさから、1883年12月にイギリスは、北部のいくつかの町と港を除いてスーダンを放棄することに決めた。維持することにした町はハルトゥーム、カッサラー、サンナール、スワーキンであった。スーダンからエジプト軍と将校、その他の外国人を撤退させる作戦の司令官に任命されたのは、「常勝将軍」の異名を取ったチャールズ・ゴードンであった。彼はハルトゥームの総督に再任され、そこに籠城するエジプト人たちの撤退作戦も指揮することとなった。

    政治的遺産

    イギリスはムハンマド・アフマドが亡くなった後に生まれた彼の子ども、アブドゥルラフマン・アル=マフディーをマフディストの穏健なリーダーとして重視した。アブドゥルラフマンは英挨領スーダンにおけるネオ=マフディスト運動のリーダーとなったが、スーダンが独立を達成したとき、新生独立国スーダンの王になろうという野望を持っていた彼を、イギリスは支援しようとはしなかった。1956年にスーダンが独立する前とその直後、アブドゥルラフマン・アル=マフディーは、国民政党に相当するウンマ党を経済的に支えた。 こんにちのスーダンにおいては、ムハンマド・アフマドはスーダン・ナショナリズム(スーダン人の民族主義)の先駆者とみなされることがある。ウンマ党はムハンマド・アフマドの政治的後継者を自認している。ウンマ党の指導者でスーダン首相も2度ほど務めたことがあるイマーム・サーディク・アル=マフディーはムハンマド・アフマドの玄孫(四世孫)にあたり、ムハンマド・アフマドに忠誠を誓うアンサールたちの宗教的指導者(イマーム)でもある。

    加藤博『ナイル--地域をつむぐ川--』刀水書房〈世界史の鏡 地域7〉、2008年7月1日。ISBN 978-4-88708-504-6。
    Holt, P.M. (1970). The Mahdist State in Sudan, 1881-1898. Oxford: Clarendon Press
    David Levering Lewis, "Khalifa, Khedive, and Kitchener" in The Race for Fashoda. New York: Weidenfeld & Nicolson, 1987. ISBN 1-55584-058-2
    Mohamed Hassan Fadlalla, Short History of Sudan, iUniverse, (30 April 2004), ISBN 0-595-31425-2.
    Mohamed Hassan Fadlalla, The Problem of Dar Fur, iUniverse, Inc. (July 21, 2005), ISBN 978-0-595-36502-9.
    Mohamed Hassan Fadlalla, UN Intervention in Dar Fur, iUniverse, Inc. (February 9, 2007), ISBN 0-595-42979-3.
    Dominic Green, 2011. Three Empires on the Nile: The Victorian Jihad, 1869–1899. ISBN 978-1451631609.
  4. 超機人 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 超機人

    超機人(ちょうきじん)(英語: Mechanoid [1] )とは、バンダイナムコゲームスのコンピュータゲーム『スーパーロボット大戦シリーズ』やコミック『超機人 龍虎王伝奇』に登場するバンプレストオリジナルの架空のスーパーロボットである。 ここでは併せて超機人を ...

  5. 渋沢栄一 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 澁澤栄一

    渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体: 澁澤 榮一、天保11年2月13日〈1840年 3月16日〉 - 昭和6年〈1931年〉11月11日)は、明治、大正、昭和期にかけて活躍した日本の実業家で、近代日本資本主義の指導者である [2]。 位階 勲等 爵位は正二位 勲一等 子爵。 ...

  6. アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ヒットラー

    アドルフ・ヒトラー(ドイツ語: Adolf Hitler ドイツ語: [ˈaːdɔlf ˈhɪtlɐ] (音声ファイル) [1] (アードルフ・ヒトゥラ), 1889年 4月20日 - 1945年 4月30日)は、ドイツの政治家 [2]。 ドイツ国首相、および国家元首(総統)であり、国家と一体であるとされた国家 ...

  7. 足利氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 源姓足利氏

    足利氏(あしかがし)は、日本の武家のひとつの軍事貴族。 本姓は源氏。 家系は清和天皇 清和源氏の一族河内源氏の流れを汲み、下野源氏の嫡流で鎌倉幕府においては御家人であると同時に将軍家一門たる御門葉の地位にあった。 室町時代には嫡流が足利将軍家として天 ...

  8. 建武の新政 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 建武政権
    • 歴史
    • 年表
    • 新政の機構
    • 政策
    • 建武の元号
    • 流布本『太平記』の創作
    • 参考文献
    • 関連項目

    鎌倉幕府の滅亡

    鎌倉時代後期には、鎌倉幕府は北条得宗家による執政体制にあり、内管領の長崎氏が勢力を持っていた。元寇以来の政局不安などにより、諸国では悪党が活動する。幕府は次第に武士層からの支持を失っていった。その一方で、朝廷では大覚寺統と持明院統が対立しており、相互に皇位を交代する両統迭立が行われており、文保2年(1318年)に大覚寺統の傍流から出た後醍醐天皇が即位して、平安時代の醍醐天皇、村上天皇の治世である延喜・天暦の治を理想としていた。だが、皇位継承を巡って大覚寺統嫡流派(兄・後二条天皇の系統、後の木寺宮家)と持明院統派の双方と対立していた後醍醐天皇は自己の政策を安定して進めかつ皇統の自己への一本化を図るために、両派の排除及びこれを支持する鎌倉幕府の打倒をひそかに目指していた。 後醍醐天皇の討幕計画は、正中元年(1324年)の正中の変、元弘元年(1331年)の元弘の乱(元弘の変)と2度までも発覚する。この過程で、日野資朝・花山院師賢・北畠具行といった側近の公卿が命を落とした。元弘の乱で後醍醐天皇は捕らわれて隠岐島に配流され、鎌倉幕府に擁立された持明院統の光厳天皇が即位した。後醍醐天皇の討幕...

    新政の開始

    後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言。さらに関白の鷹司冬教を解任した。 帰京した後醍醐は富小路坂の里内裏に入り、光厳天皇の皇位を否定し親政を開始(自らの重祚<復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張)するが、京都では護良親王とともに六波羅攻撃を主導した足利高氏が諸国へ軍勢を催促、上洛した武士を収めての京都支配を主導していた。尊氏ら足利氏の勢力を警戒した護良親王は奈良の信貴山に拠り尊氏を牽制する動きに出たため、後醍醐天皇は妥協策として6月13日に護良親王を征夷大将軍に任命する。 6月15日には旧領回復令が発布され、続いて寺領没収令、朝敵所領没収令、誤判再審令などが発布された。これらは、従来の土地所有権(例えば、武士社会の慣習で、御成敗式目でも認められていた知行年紀法など)は一旦無効とし新たに土地所有権や訴訟の申請などに関しては天皇の裁断である綸旨を必要とすることとしたものである。ところが、土地所有権の認可を申請する者が都に殺到して、物理的に裁ききれなくなったため、早々7月には諸国平均安堵令が発せられた。これは、朝敵を...

    新政の瓦解

    建武2年(1335年)5月には内裏造営のための造内裏行事所が開設される。6月、関東申次を務め北条氏と縁のあった公家の西園寺公宗らが北条高時の弟泰家(時興)を匿い、持明院統の後伏見法皇を奉じて政権転覆を企てる陰謀が発覚する。公宗は後醍醐天皇の暗殺に失敗し誅殺されたが、泰家は逃れ、各地の北条残党に挙兵を呼びかける。 鎌倉幕府の滅亡後も、旧北条氏の守護国を中心に各地で反乱が起こっており、7月には信濃国で高時の遺児である北条時行と、その叔父北条泰家が挙兵して鎌倉を占領し直義らが追われる中先代の乱が起こる。この新政権の危機に直面後、足利尊氏は後醍醐天皇に時行討伐のための征夷大将軍、総追捕使の任命を求めるが、後醍醐天皇は要求を退け、成良親王を征夷大将軍に任命した。仕方なく尊氏は勅状を得ないまま北条軍の討伐に向かうが、後醍醐天皇は追って尊氏を(征夷大将軍ではなく)征東将軍に任じる。時行軍を駆逐した尊氏は後醍醐天皇の帰京命令を拒否してそのまま鎌倉に居を据えた。8月には新政下の世相を風刺する二条河原落書が現れた[注釈 2]。 尊氏は乱の鎮圧に付き従った将士に独自に恩賞を与えたり、関東にあった新田氏...

    元弘3年/正慶2年(1333年)
    建武元年(1334年)
    建武2年(1335年)
    延元元年/建武3年(1336年)

    中央

    太政官 1. 日本の律令制を参照 八省 1. 後醍醐は八省の長官である卿[注釈 4]を、前関白左大臣二条道平や右大臣鷹司冬教といった高位の上級貴族に兼任させた。これは、八省の管轄事項が上級貴族の合議体を通じて天皇に伝えられる律令制以来の体制を解体して、後醍醐が八省の長官となった上級貴族を通じて八省を統括することで天皇親政の強化に繋げる目的であったが、位階の伝統を無視した動きに公卿達は反発した。 諸官司 1. 日本の律令制を参照 記録所 1. 記録所は、平安時代に藤原摂関家から権力を取り戻そうとした後三条天皇が延久元年(1069年)に記録荘園券契所を設置したことに由来する。建武政権における中央官庁の最高機関として設置された。記録所は後醍醐の親政時代に再興した。建武政権では荘園文書の調査に加えて一般の訴訟も担当。構成員は楠木正成、名和長年、伊賀兼光など。 恩賞方 1. 恩賞方は鎌倉幕府の討幕運動に参加したものに対する論功行賞を処理。記録所や恩賞方は調査機関であり、個々の政務に関する判断を下すための先例や意見が答申され、それらが後醍醐の決裁を経て「綸旨」の形で発せられた。 雑訴決断所...

    地方

    陸奥将軍府 1. 義良親王を将軍として、北畠親房・北畠顕家父子に補佐させた。陸奥国府多賀に置かれた。 鎌倉将軍府 1. 成良親王を将軍として、足利直義(尊氏の弟)に補佐させた。 守護・国司 1. これまで中下級貴族が就いており、知行国制度などに見られるように単なる権益と化していた国司制度を地方支配の柱と位置づけた。側近や有力者が国司に任じられ、権能の強化が図られた。守護は軍事指揮権を扱う役職として残った。(併置)

    概要

    後醍醐天皇が政治理念を標榜した言葉として『梅松論』にある「今の例は昔の新義なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」(『梅松論』上)という発言が知られる。 建武政権は院政を行わず、摂政・関白や征夷大将軍などを設置せずに、後宇多天皇ら鎌倉時代末期からの政策の方向に沿い、徐々に政治権力の一元化を目指す方向にあった。征夷大将軍については前述のように護良親王を任命することになったが、摂政・関白は建武の新政期にはついに任命しなかった。ただし二条道平と近衛経忠を内覧に任命した。 新政を批判したものとして、建武2年(1335年)8月には新政を風刺した『二条河原の落書』が書かれる。延元3年/建武5年(1338年)には北畠顕家が出陣前に新政の失敗を諌める諫奏を行い、北畠親房の『神皇正統記』や公家の日記などにも新政への批判や不満を述べる文章があるなど、武家や庶民のみならず、後に後醍醐天皇方について北朝と対立した北畠父子のような公家でさえ、新政を支持していなかったことが示唆される。後に三条公忠は「後醍醐院の措置は物狂の沙汰が多く、先例にならない」と非難している。 もっとも、後醍醐天皇が始めたものの中でも先例...

    建武の新政の最大の特徴の一つが、「建武(けんむ)」という元号の名前の付け方そのものである。これは、中国の後漢の創始者で、中国最高の名君の一人とされる光武帝が、王位簒奪者王莽を倒した時に創始した元号の建武(けんぶ、25年 - 56年)に倣ったものである。時節に合った佳字(めでたい字)であることから、公家・武家・学識者・仏教勢力からは非常に評判が良かった。しかし、建武の乱の最中に、漢籍の故事に詳しくない民衆から不吉と批判されたため、わずか3年目に延元に改元することになってしまった。一方、後醍醐天皇を崇拝し、建武政権の後継者を自認する足利尊氏によって、北朝の側ではその後も継続されることになった。以下、詳細を述べる。 『改元部類』によれば、元弘4年(1333年)、新しい元号を決めるために、5人の学者が集められ、後醍醐天皇は、「出典元の文の善し悪しは問わない」「中国の王朝の故事に倣って、今の時代を体現するような字」という条件で、元号の候補を出すように求めた。学者たちは以下の元号の候補を出した。 1. 藤原藤範 1.1. 建武、咸定、延弘 2. 菅原長員(高辻家) 2.1. 興国、垂拱、淳化、天祐、中興 3. 菅原在登(壬生坊城家(東坊城家?)) 3.1. 建武、元聖、武功 4. 藤原行氏 4.1. 元吉、元貞、大中 5. 菅原在淳(壬生坊城家) 5.1. 大武、元龍、建聖 「建」という字も「武」という字も5人中3人の学者から支持されていて人気の上に、「建武」という組み合わせは2人から挙がっていて、後醍醐天皇自身の意見とは別に、課題抽出の段階で既に有力候補だったことが見てとれる。そもそも「武」という字の成り立ちは、当時の解釈では、『春秋左氏伝』に「戈を止む」(戦乱が治まる)とあり、天下平定を表す好字だった(現代の漢字学では異説あり)。以上の中から、「建武」「大武」「武功」の3つが、「天長之例」(天下が久しく続く証)として最終候補に選ばれ、菅原在淳と菅原在成の2人の文章博士から奏上された。1月28日、右大臣の久我長通らが参内して会議が始められ、議論は29日まで続き、結局は元々の最有力候補だった「建武」に決まった。 中国の故事を踏まえた元号は、仏教勢力からも評判がよく、雄徳山護国寺(現在の石清水八幡宮)は、後醍醐天皇が昔の中国の名君の元号を採用したことについて、「一天均統之化...

    建武政権の時代にある程度の混乱があったことは事実だが、それ以上に軍記物語(一種の歴史小説)である流布本『太平記』の創作によって、誇張して伝わっている部分がある。 1. 鎌倉時代の武士の特権階級である御家人が撤廃されて、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」) 1.1. 史実:そもそも御家人制は鎌倉時代末期既に破綻しつつあった。また、後醍醐天皇は武士に好意を抱いており、武士を陪臣(家臣(ここでは将軍)の家臣)から、天皇の直臣に昇格させて、武士の地位の向上を図る狙いもあった(→御家人制の撤廃)。 2. 恩賞方を設置して、功績ある武士たちに恩賞を配布し始めたのは、後醍醐天皇が帰京して新政を始めてから二ヶ月も経った元弘3年(1333年)8月3日のことだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 2.1. 史実:実際は遅くとも7月19日には恩賞を配布し始めているため(『集古文書』)、7月には既に恩賞方が設置されていたと考えられる。 3. 元弘の乱で失脚した北条泰家の領地は、そっくりそのまま後醍醐天皇皇子の護良親王に与えられるなど、身内を優遇したために、武士に与えられる場所がなくなってしまった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 3.1. 史実:泰家から没収された領地の多くは新田氏庶流(だが新田氏派閥ではなく足利氏派閥)の岩松経家にも与えられており、功ある武士にも良質な地の恩賞を配っている(『集古文書』)。 4. 恩賞方の長官は一人で、「上卿」と言い、洞院実世は実力不足から解任され、次の万里小路藤房は正道が行われない怒りから辞職し、さらに次の九条光経も後醍醐と佞臣の無道におろおろとするだけだった(流布本巻12「公家一統政道の事」)。 4.1. 史実:初期の恩賞方の制度に関する文献は残っていないため不明だが、翌年に4番制になったときには藤房が恩賞方の頭人(トップの一人)となっているため、彼が恩賞方の政務を離れたというのは史実と矛盾する。 5. 元弘3年(1333年)7月に「建武」に改元したところ、疫病が流行り、さらに紫宸殿の上に怪鳥が現れたので、真弓広有が8月17日の夜に弓矢で退治した(流布本巻12「広有怪鳥を射る事」)。 5.1. 史実:怪鳥が現れたのが史実ではないのは無論のことだが、そもそも改元があったのは元弘4年(1...

    古典

    1. 『建武年間記』 1.1. 内外書籍株式会社編「建武年間記」 『新校群書類従』 19巻 内外書籍、1932年、742–755頁。doi:10.11501/1879811。NDLJP:1879811。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879811/394。 2. 後醍醐天皇著『建武年中行事』 2.1. 後醍醐天皇; 和田英松 『建武年中行事註解』 明治書院、1930年。NDLJP:1906594。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906594。 3. 『梅松論』 3.1. 内外書籍株式会社編「梅松論 上」 『新校群書類従』 16巻 内外書籍、1928年、100-121頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:1879789。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879789/88。 3.2. 内外書籍株式会社編「梅松論 下」 『新校群書類従』 16巻 内外書籍、1928年、121-143頁。doi:10.11501/1879789。NDLJP:18...

    主要文献

    1. 平泉澄 『建武中興の本義』 至文堂 1934年9月 / 日本学協会1983年5月 2. 平泉澄 『明治の源流』 時事通信社1970年6月 3. 建武義会編『後醍醐天皇奉賛論文集』 至文堂 1939年9月 4. 久保田収『建武中興』 日本教文社1965年 のち明成社 5. 佐藤進一 『南北朝の動乱』 中央公論社〈日本の歴史 9〉、1965年。のち中公文庫。 6. 森茂暁 『建武政権―後醍醐天皇の時代』 教育社〈教育社歴史新書―日本史 60〉、1980年。 6.1. 森茂暁 『建武政権―後醍醐天皇の時代』 講談社〈講談社学術文庫〉、2012年。ISBN 978-4062921152。上記の再版。 7. 網野善彦 『異形の王権』 平凡社〈平凡社ライブラリー 951〉、1993年。ISBN 978-4582760101。 8. 村井章介 「建武新政」 『国史大辞典』 吉川弘文館、1997年。 9. 伊藤喜良 「建武政権試論―成立過程を中心として―」 『中世国家と東国・奥羽』 校倉書房、1999年。ISBN 978-4751729106。初出は1998年。 10. 森茂暁 『後醍醐天...

  9. 2017年の鉄道 - Wikipedia

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  10. 北畠家 - Wikipedia

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    北畠家(きたばたけけ、または北畠氏(きたばたけし))は、日本の公家・武家・華族だった家。 村上源氏 中院家庶流。 武家としての通字は「具(とも)」。 南北朝時代に南朝の忠臣として重きをなし、伊勢国に進出して南北朝合一後も国司として勢力を保ち、公家大 ...

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