Yahoo奇摩 網頁搜尋

  1. 韓国瑜 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/韓國瑜

    2 陳其邁 民主進歩党 742,239 44.80% 3 璩美鳳 無所属 7,998 0.48% 4 蘇盈貴 無所属 14,125 0.85% 有権者数 2,281,338 [219] 投票数 1,677,650 有効票 1,656,907 無効票 20,743 投票率 73.54%

  2. 境界線上のホライゾン - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/境界線上のホライゾン_PORTABLE

    『境界線上のホライゾン』(きょうかいせんじょうのホライゾン、Horizon on the Middle of Nowhere)は、川上稔による日本のライトノベル。イラストはさとやす。 電撃文庫(KADOKAWA)より2008年9月から2018年12月まで刊行された。 通称『境ホラ』 [1] [2] [3]

  3. 南部氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/南部氏
    • 略史
    • 南部氏の各支族
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    平安時代末期に起きた前九年の役や後三年の役では、清和源氏の棟梁、 源頼義父子が現在の盛岡に来歴したが、頼義の嫡子義家の弟の源義光の孫である清光の子孫は甲斐源氏と称されて武田氏、加賀美氏、安田氏、浅利氏などの諸氏族があり、加賀美氏からは、さらに南部氏、秋山氏、小笠原氏などが別れている。 奥州南部氏の始祖、南部三郎光行は、清和源氏義光流(甲斐源氏)の加賀美二郎遠光の三男とされ、甲斐巨摩郡富士川西岸の南部郷(現・山梨県南巨摩郡南部町)を領し南部三郎を名乗ったが、父の官途信濃守から信濃三郎とも称された。 光行の子息は、『尊卑分脈』によれば、太郎朝光、二郎実光、三郎行朝、小四郎実長の四人であるが、「秋山系図」(『続群書類従』)は、行朝を太郎、実長を「南部破切の六郎」とし、五郎行連を加える。そのうち、光行の嫡子実光とその子時実の名は、将軍の供奉を務める御家人でかつ北条時頼の側近として、しばしば『吾妻鏡』にあらわれる。 文治 5年(1189年)秋の奥州平泉攻撃に、加賀美遠光父子四人が頼朝の本陣に従軍、藤原泰衡軍との合戦に功を立て、その功によって南部光行は陸奥国糠部五郡の土地を給され、建久 2年(1191年)の末 家臣数十人とともに入国したと、家伝では伝えられているが、拝領を支証するものはない。 南部氏は南北朝時代から戦国時代にかけて急速に勢力を伸ばし、はじめは三戸(現在の青森県三戸郡三戸町)に居城を構えていたが、豊臣政権を後ろ盾として九戸政実を鎮圧、九戸城を福岡城(岩手県二戸市) と改め移転した。さらに前田利家らの仲介により豊臣秀吉から閉伊郡、和賀郡、稗貫郡の支配も認められると、本拠地である三戸が領地の北側に大きく偏ることとなったため、本拠地を盛岡に移した。 南部宗家は三戸南部氏であり、南部光行の嫡子・実光の子孫である。後の八戸南部氏の祖となる波木井実長は弟であり、二代実継・三代長継のあと、宗家三代時実の子政行の次男師行が長継の娘婿となって波木井家を継いだとされるが、実継・長継の名は波木井南部家一族の名を記した同時代史料には見えない。八戸(遠野)南部家文書には鎌倉時代の波木井領に関する文書は存在せず、八戸南部氏が波木井家の子孫とする「八戸家系」は、享保4年(1719年)信有の時代において八戸家と身延山久遠寺との交渉を通じ遠野南部家文書の中に入った。

    根城南部氏も場合によっては三戸南部氏とほぼ同格の存在として見なされることがあり、戦国時代には九戸氏も南部氏一族の有力者として幕府に認知されていた。少なくとも室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には、宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。

    青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 1 南部氏関係資料』青森県、2004年3月31日。
    青森県史編さん中世部会『青森県史 資料編 中世 2 安藤氏・津軽氏関係資料』青森県、2005年3月31日。
    青森県史編さん近世部会『青森県史 資料編 近世篇 2 津軽1 前期津軽領』青森県、2002年3月31日。
  4. 菊池氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/菊池氏
    • 概要
    • 肥後菊池氏
    • 陸奥菊池氏
    • 常陸菊池氏
    • 参考文献
    • 関連項目

    中関白藤原道隆の子大宰権帥藤原隆家の子孫と伝承されるが、実際には刀伊の入寇の際に隆家とともに奮戦した大宰府官で、その戦功により大宰少弐、対馬守となった藤原政則の子孫であると見られる。11世紀後半から肥後国菊池郡(熊本県菊池市)の在地領主として勢力を拡大。平安時代末の治承・寿永の乱の頃の当主菊池隆直は、一国棟梁的存在として菊池権守と呼ばれ、鎌倉時代には鎌倉幕府御家人に列した。鎌倉中期の当主菊池武房は蒙古襲来時に奮戦した。1333年には菊池武時が鎮西探題館に討ち入って戦死したが、その子菊池武重は後醍醐天皇の建武新政下において肥後守に叙せられ、以降南北朝時代において菊池武重、菊池武敏、菊池武光が九州の南朝方武将として活躍した。両朝の和合後には菊池武朝が肥後の守護になり、菊池能運まで続いた。戦国時代には阿蘇惟長(菊池武経)や大友重治(菊池義武)などが菊池の名跡を継いだが、義武の時代に大友義鎮に滅ぼされた。能運の子孫は日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)へ逃れ、以後米良氏を名乗るようになったという。米良氏は江戸時代には交代寄合(参勤交代をするが、無高で肥後国人吉藩相良氏の扶養という特殊な交代寄合家だった)として続き、明治になり、菊池姓に復し、男爵家に列した。

    起源

    中国の歴史書『三国志』中の「魏志」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に登場する狗奴国の官・狗古智卑狗(くこちひく)を、その名前より「菊池彦」に通じるとし、熊本県菊池郡や菊池氏との関連を指摘する説がある。平安時代初期に編纂された勅撰史書『続日本紀』には、文武天皇二年五月甲申(698年7月8日)の條に「令大宰府繕治大野基肄鞠智三城」(太宰府をして大野・基肄・鞠智の三城を繕い治めせしむ)の記述がある。また奈良時代の天平勝宝元年十一月三日(749年12月16日)に奈良東大寺が大宅可是麻呂から進上された61名の奴婢を記録した『奴婢帖』の中には「右京四條四坊戸主鞠智足人」の名が見える。平安時代中期の承平年間(931年 – 938年)に編纂された辞書『和名類聚抄』ではこの地名を「久々知」と註していることから、上代から古代にかけてはこの地域は「くくち」と呼ばれ「鞠智」と表記していたことがわかる。康保4年(967年)に施行された『延喜式』によるとすでに「菊池」の記載があることから、この頃までには「鞠智」に「菊池」の佳字を当てていたものと考えられる。 菊池氏は、1019年(寛仁3年)の刀伊の...

    源平対立時代

    院政時代全国の在地支配層は、こぞって中央の有力者に荘園を寄進してその庇護を受け、院の武者として勢力を拡大しようとした。4代菊池経宗・5代菊池経直が鳥羽院武者と記録されていることからも、菊池氏がその例に漏れなかったことが推定される。このころまでに菊池氏一族の中に在地名を名乗る者が現れ、菊池氏一族が肥後国の在地勢力として定着拡散して行ったことが分かる。 平家台頭後は日宋貿易に熱心だった平清盛が肥後守に就任するなど、平家による肥後国統制が強化されると菊池氏は平家の家人と化したが、1180年(治承4年)源頼朝が兵を挙げると翌1181年(養和元年)6代菊池隆直は養和の乱を起こして平家に反抗した。隆直は翌年平貞能の率いる追討軍に降伏し、以後、平家の家人として治承・寿永の乱(源平合戦)に従軍したものの、壇ノ浦の戦いにおよんで源氏方に寝返り御家人に名を連ねた。源平の間を揺れ動いたことで頼朝の疑念を招き、隆直への恩賞は守護に任じられた少弐氏や大友氏・島津氏に遠く及ばず、逆に多くの関東系御家人を本拠地周囲に配置され、その牽制を受けた。

    鎌倉時代

    8代菊池能隆は承久の乱において後鳥羽上皇方にくみしたため、北条義時によって所領を減らされた[注釈 5]。乱後、鎌倉幕府は鎮西探題を設置して、西国の押さえとした。10代菊池武房は元寇に際して、鎌倉幕府から博多に召集され、一族郎党を率いて元軍と戦闘を交え敵を討ち取った[注釈 6]。 菊池氏は、伝統的に源平勢力と一定の距離を保ち在地勢力の勇としての意地を見せてきたが、鎌倉幕府に衰えが見られるようになると朝廷とのつながりを深めた。12代菊池武時は後醍醐天皇の綸旨に応じ、1333年(元弘3年、正慶2年)阿蘇惟直・少弐貞経・大友貞宗をさそって鎮西探題北条英時を博多に襲ったが、貞経・貞宗の裏切りによって善戦むなしく鎮西探題館内で戦死した。 武時の遺志は嫡男13代菊池武重に引き継がれ、建武の新政成立後、楠木正成の推薦もあって肥後守に任じられた。武時の武功は高く評価され、その庶子菊池武茂・菊池武澄・菊池武敏らも叙任を受けた。

    陸奥菊池氏も肥後菊池氏と同族で、建武の新政に関った人々の中に菊池一族も名前を連ねていることから後醍醐天皇の多くの皇子に伴って全国各地に散らばったとされる。 遠野菊池氏もその一族で、海路より青森県八戸に上陸し岩手県遠野にたどり着いたとされ、家紋にいわれが残っている。菊池氏は「丸に並び鷹の羽」もしくは「丸に違い鷹の羽」を用いることが多く、遠野菊池氏は通常の家紋に海路から入ったことを表す波紋が加えられ「丸に並び鷹の羽に波紋」で表す方が多いようだ。人口の二割を菊池姓で占めている岩手県遠野市は1998年(平成10年)8月1日菊池市と友好都市宣言を結んだ。 この他にも岩手県では菊池姓、菊地姓を名乗る人が多く、遠野菊池氏の他にも宮城県石巻から北上川を北上してきた一族がいたなどの言い伝えが残っており、岩手県奥州市(江刺地域)に多い。

    常陸国にも菊池氏がある。肥後菊池氏の流れをひく陸奥菊池氏と同族という。遠祖は関白藤原道隆。また、茨城郡谷田村にも菊池氏が見える。多賀谷重経の家臣にも菊池氏の名が見える。他、久慈郡稲村神社の由来書には鎮守府将軍源義家が藤原広重の娘に産ませた、藤原義広に従属する武士として松浦氏、菊池氏、原田氏があったという。 なお、常陸国から佐竹氏の秋田転封に随行した菊池氏が数流見える。以下、菊池と名乗る家と菊地と名乗る家があるのでそれぞれ区別して掲載した。 1. 菊地忠政流 菊池忠政はその子 政勝の代に秋田に随行した。知行高は200石という[注釈 8]。 1. 菊地武直流 菊地武直は筑紫の生まれであるという。本姓 藤原氏。流離して出羽国に移住する。新田開発大番となる。 1. 菊池縫殿允流 十左衛門の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行し、出羽国仙北郡六郷に住み、隠居 佐竹義重に仕えるという。義重卒後は同郡刈和野に移り、後に秋田城下に移り住むという。 1. 菊地正国流 本姓は藤原氏。菊池正国の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行するという。子孫は平鹿郡横手[要曖昧さ回避]に住む。知行30石。 家紋は薄[注釈 9]。 1. 菊地金信流 本姓は藤原氏。菊地金信の代に佐竹義宣に従い秋田に転封に随行するという。秋田郡十二所に住むという。 仙北郡角館に住まうという。十二所に45石を有する。 はじめ常陸国宍戸藩主となった、秋田実季に仕えるという。その後、秋田藩 佐竹氏の一門 蘆名義勝に仕え、蘆名氏断絶後は佐竹一門の佐竹北家の義隣に仕えて仙北郡角館に住まうという。 武久の代に佐竹義宣に従い秋田に転封、平鹿郡横手に住まうという[注釈 10]。 秀長の代に佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという[注釈 11]。 佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという。知行50石であるという[注釈 12]。 佐竹義宣に従い秋田に転封、子孫は雄勝郡湯沢に住むという。 知行16石という[注釈 13]。

    秋田県公文書館編『系図目録I』(PDF)第4集、秋田県公文書館〈秋田県公文書館所蔵古文書目録〉、2001年3月26日。
    明田鉄男 『幕末維新全殉難者名鑑』 1巻 新人物往来社、1986年6月。ISBN 4404013353。 NCID BN00501908。全国書誌番号:86039572。
    太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 「菊池 キクチ ククチ」 『姓氏家系大辞典』 第2巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1844-1857頁。全国書誌番号:47004572。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/12 国立国会図書館デジタルコレクション。
    太田亮 『姓氏家系大辞典』、上田萬年、三上参次監修 角川書店、1963年11月。 NCID BN01488361。
  5. 信濃国 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/信濃権守
    • 「信濃」の名称と由来
    • 神代に見える科野国
    • 歴史
    • 国内の施設
    • 地域
    • 人物
    • 参考文献
    • 関連項目

    古くは「しなぬ」と呼ばれ、継体天皇条には「斯那奴阿比多」、欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。 「科野」の語源については諸説あるが、江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、「科の木」に由来する説が古くから有力とされている。また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある。 7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、『古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。当時は科野国と書いたようである。これが大宝4年(704年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた。「科野」は和銅6年(713年)の『風土記』を境に、「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。長野県で最も古い「信濃国」の文字は、平成6年(1994年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、現在は長野県立歴史館に所蔵されている8世紀前半(715年~740年)の木簡となる。『日本書紀』には信濃国について「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。治承3年(1179年)に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。

    神代の国譲りにおいて、出雲の地で建御雷神に敗れた建御名方神が、科野国の洲羽の海(諏訪湖)まで逃れ、「この地から出ないし、父の大国主神や兄の事代主神に従う。葦原の国は天の神に奉るから殺さないでくれ」と言って同地に鎮まったことが『古事記』に見える。 一方『諏訪大明神絵詞』など諏訪に伝わる伝承では、建御名方神が洲羽に侵入し、土着の洩矢神とそれぞれ藤蔓と鉄鑰を持って争い、建御名方神が勝利したと伝わる。この後、建御名方神の後裔は大祝の諏訪氏に、洩矢神の後裔が神長官の守矢氏になったとされる。 また建御名方神が八坂刀売神を娶って生まれた御子神達[注釈 2]が、科野国の発展に大きく貢献したとされる。

    古代

    史書によると、崇神天皇の時代に神武天皇後裔の多氏族である武五百建命が初代科野国造に任じられたと伝わる。景行天皇の時代には、神代に諏訪へ来臨したと伝わる建御名方神の後裔である建大臣命が初代洲羽国造に任じられとされ、系図では科野国造家と洲羽国造家の間で複数回の通婚が見られる。また景行天皇の時代、その子の倭建命が科野国を訪れ、南信では八意思兼神の後裔赤津比古命が倭建命をもてなしたとされる。この一族は後に大御食神社の社家になったと伝わり、支族の知知夫彦命が崇神天皇の時代に知々夫国造に任じられた。 考古遺物としては4世紀前期から6世紀初頭にかけて、北信で埴科古墳群や川柳将軍塚古墳など、ヤマト王権の影響を受けた前方後円墳が多数築造された。また埴科古墳群の森将軍塚古墳の被葬者は初代科野国造の建五百建命とする説がある。一方南信では4世紀に代田山狐塚古墳が造営され、その後1世紀ほど築造が途絶えるものの、5世紀後半から6世紀末頃にかけて飯田古墳群が成立し、多種多様な古墳が築造された。6世紀中期には箕輪町に松島王墓古墳が築造され、筑摩郡周辺にも弘法山古墳が造営された4世紀以降2世紀近く途絶えていた古墳...

    中世

    鎌倉時代初期には関東御分国の1つとして鎌倉幕府の知行国であった。その後の知行権は公卿や興福寺・東大寺等の有力寺院の手に移るが、在庁官人や国人衆の幕府御家人化が進み、京都の遙任国司や知行国主、荘園領家らの影響力は薄れ、鎌倉幕府の介在なしには税の徴収も困難となり、「国司その用あてざる国」と揶揄された(『明月記』)。戦国時代まで存在した守護職には比企氏や執権北条氏、小笠原氏、諏訪氏、吉良氏、上杉氏、斯波氏、武田氏らがいた。 幕府樹立後、初代の信濃守護には比企能員が就任し、信濃国目代を兼帯して国衙機構も掌握したが、建仁3年(1203年)の比企能員の変で北条時政に滅ぼされ、将軍源頼家の近習で、十三人の合議制に対抗する側近であった中野能成や小笠原長経も連座した。時政は比企氏以外にも幕府重臣の粛清を進め、元久2年(1205年)には平賀義信の次男平賀朝雅を傀儡の新将軍として擁立しようとしたが、失脚した(牧氏事件)。建暦3年(1213年)、御家人泉親衡が、信濃武士と結んで頼家の遺児千寿丸を将軍に擁立し、信濃守護も兼帯する執権北条義時の打倒を図る陰謀が発覚した(泉親衡の乱)。承久3年(1221年)の...

    近世

    江戸時代は、途中廃絶も含めて松代藩等大小計19藩が置かれた(廃藩置県時点では松代藩の他、松本藩、上田藩、飯山藩、小諸藩、岩村田藩、龍岡藩(田野口藩)、高島藩、高遠藩、飯田藩、須坂藩)。また木曽地方は全域が尾張国名古屋藩領(山村代官所)であり、伊那郡内には美濃国高須藩(竹佐陣屋)及び陸奥国白河藩(市田陣屋)、高井郡内には越後国椎谷藩(六川陣屋)、佐久郡内には三河国奥殿藩(後に藩庁を信濃に移し田野口藩となる)の飛び地があった。その他善光寺、戸隠神社、諏訪大社等の寺社領、天領支配のための中野・中之条・御影・飯島・塩尻の5つの代官所、伊那衆三家を含む旗本知行所(維新まで存続したものは12ヶ所)などが置かれた。 正保元年(1644年)、幕府は正保国絵図の信濃分の作成を松代藩、上田藩、飯山藩、松本藩、飯田藩に命じた。この時代には貞享3年(1686年)の松本藩貞享騒動や宝暦11年(1761年)の上田藩宝暦騒動など大規模な農民一揆が発生した。また、主に北信濃の豪雪地の農村を中心に多くの出稼ぎ労働者を江戸に送り出し、彼らは「信濃者(しなのもの・しなのじゃ)」、「おシナ」あるいは暗喩で「椋鳥」と呼ば...

    国府

    歴史的文献に現れる国府の所在地として、『和名類聚抄』、『拾芥抄』、『易林本』の節用集のいずれにも全て筑摩郡と記述されている[注釈 4]。現在の松本市域に比定される。 ただし諸説として、国分寺[注釈 5]及び総社のひとつである科野大宮社が上田市にあること、東山道のルートや宿駅の配置(小県郡亘理(曰理)駅)、科野国造の本拠地であったことなどから推測して、『和名抄』編纂以前には小県郡に国府があったとする学説もあるが、1次史料による証明・裏付けは今のところ皆無であるため、憶測の域を出ない。2007年現在において、遺跡からの有力な出土物や遺構も発掘されていない。 また、一時的に信濃国から分立した諏方国の国府も未詳である。 平安中期の944年、天災により国衙が倒壊し国司が圧死した記録が残る。 鎌倉初期には善光寺近傍に「後庁(御庁)」(長野市後町)が建てられ、国司の目代や在庁官人が置かれた。1335年には、建武の新政に反旗を翻した諏訪頼重が国衙を襲撃し戦火で消失、以後再建されることがないまま、守護を務める武家にその権能が委譲され、次第に形骸化していった。

    寺院

    国分寺・国分尼寺 1. 信濃国分寺跡 (上田市国分、位置) 1.1. 国の史跡。北方に後継の国分寺(上田市国分、位置)が所在。 2. 信濃国分尼寺跡 (上田市国分、位置) 2.1. 国の史跡(「信濃国分寺跡」に包括)。 定額寺 1. 貞観9年(867年)に藤原良房によって定められた。 1. 寂光寺(伊那郡) 2. 錦織寺(筑摩郡) 3. 安養寺(更級郡) 4. 屋代寺(埴科郡) 5. 妙楽寺(佐久郡) 安国寺利生塔 1. 安国禅寺(茅野市宮川)

    神社

    延喜式内社 1. 『延喜式神名帳』には、大社7座5社・小社41座41社の計48座46社が記載されている(「信濃国の式内社一覧」参照)。大社5社は以下に示すもので、全て名神大社である。 1. 諏方郡 南方刀美神社二座 1.1. 比定社:諏訪大社(諏訪地域に二社四宮) 2. 安曇郡 穂高神社 2.1. 比定社:穂高神社 (安曇野市穂高) 3. 更級郡 武水別神社 3.1. 比定論社:武水別神社 (千曲市八幡、位置) 3.2. 比定論社:桶知大神社 (長野市大岡丙、位置) 4. 水内郡 健御名方富命彦神別神社 4.1. 比定論社:健御名方富命彦神別神社 (長野市箱清水、位置) 4.2. 比定論社:健御名方冨命彦神別神社 (長野市信州新町、位置) 4.3. 比定論社:健御名方富命彦神別神社 (飯山市豊田、位置) 5. 小県郡 生島足島神社二座 5.1. 比定社:生島足島神社 (上田市下之郷、位置) 総社・一宮以下 1. 『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく一宮以下の一覧。 1. 総社:次の2社の説がある。 1.1. 科野大宮社 (上田市常田、位置) 1.2. 伊和神社 (松本市惣社、位...

    信濃国に存在した郡と、現在の長野県に存在する郡の対応。 1. 伊奈郡(いな)→上伊那郡 - 下伊那郡 2. 諏方郡(すは、すわ)→諏訪郡(字体だけ変更) 3. 筑摩郡(ちくま、つかま)→東筑摩郡 - 木曽郡(西筑摩郡から改称) 4. 安曇郡(あづみ)→北安曇郡 - 南安曇郡(消滅) 5. 更級郡(さらしな)(消滅) 6. 水内郡(みぬち、みのち)→上水内郡 - 下水内郡 7. 高井郡(たかい)→上高井郡 - 下高井郡 8. 埴科郡(はにしな) 9. 小県郡(ちいさがた) 10. 佐久郡(さく)→北佐久郡 - 南佐久郡

    国司

    括弧内は任官年。延喜式では上国となっており、国司構成は四等官が各1名ずつの他、3名の史生からなる。

    武家官位としての信濃守

    1. 武田晴信信濃侵攻の大義名分のため。 2. 小出吉政 但馬出石藩初代藩主・和泉岸和田藩第2代藩主。 3. 小出吉親 但馬出石藩第3代藩主、丹波園部藩初代藩主。 4. 小出英知丹波園部藩第2代藩主。 5. 小出英貞丹波園部藩第4代藩主。 6. 小出英持丹波園部藩第5代藩主。 7. 小出英筠丹波園部藩第7代藩主。 8. 小出英発丹波園部藩第8代藩主。 9. 小出英教丹波園部藩第9代藩主。 10. 柳沢里之 越後三日市藩第4代藩主。 11. 柳沢里世越後三日市藩第5代藩主。 12. 柳沢徳忠越後三日市藩第8代藩主。 13. 永井尚政 下総古河藩主。老中。 14. 永井直国 大和新庄藩第3代藩主。 15. 永井直温大和新庄藩第4代藩主。 16. 永井直方大和新庄藩第5代藩主。 17. 永井直養大和新庄藩第6代藩主。 18. 永井直壮 大和新庄藩第8代藩主。大和櫛羅藩初代藩主。 19. 永井直哉大和櫛羅藩第2代藩主。 20. 池田政言 備中岡山新田藩(鴨方藩)初代藩主。 21. 南部利直陸奥盛岡藩初代藩主 22. 南部行信陸奥盛岡藩第4代藩主。 23. 小笠原長逵 播磨安志藩第2代藩主...

    長野県史刊行会『長野県史』
    長野県下の各市郡町村誌
    列車名「しなの」 - 中央本線・篠ノ井線・信越本線で運行する特別急行列車。→しなの (列車)を参照のこと。
  6. 椿井文書 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/椿井文書
    • 椿井文書に関する記録
    • 南龍子広雄・平群政隆と椿井権之輔
    • 椿井政隆偽作説
    • 参考文献

    明治23年(1890年)、滋賀県内の宮司家に生まれた中村直勝は「次の点には触れずに置こうと、いろいろと勘考したのであるが、やはり、後世を誤る倶れがあるから、短言しておくこととする」と、明治30年(1897年)前後頃の京都府南部木津町の椿井家・明治35年(1902年)前後頃の木津の今井家での由緒書の製造販売の様子について詳細に記している。 明治4年(1871年)頃から政府は政祭一致を目指し神職の人事権を掌握し社格の制度を設け、主に無社格となった神社を中心に廃止・統合を進めた。各神社は社歴調査に努めなければならなくなり、「明治三十年前後-私の小学校時代のこと-(中略)せいぜいが小学校を卒業した程度の地方神職に、そうした歴史の調査ができるはずはなく比較的上等であった親父でさえ五里霧中で」、由緒を求めて国文学の教授や和歌の師匠へ訪問してまで苦心する。「そのとき南山城の木津に椿井(つばい)という旧家があって、そこに行けば、どんな神社の縁起書でもあるという噂が立」ち、「地方の神社に対して、その社歴でも調査せしめたものか、滋賀県下の神職連は、寄ると触ると、自分の奉仕しておる神社の由緒調査について、苦い談を交わしておった」という状況下でも「〔中村〕の〔父〕の奉仕した神社は貧乏であったから、木津まで〔縁起書〕を探しに行かなかったが」、多くの神職たちが木津を訪れたという。地方の神社の神職達や寺社へ椿井家と今井家は大量に所蔵している中から探し出すという建前で「時には、今迄知れておる社歴の一部を、彼等に語らせ」注文主の財産状況を見定め上等下等の由緒・縁起・境内図等を製造販売したという。販売された椿井文書について「しかし内容は万更、虚構でないこともある。興福寺東大寺春日社等の古記録が、種本ではないか」と中村は評している。 馬部隆弘は、中村直勝が椿井文書について「明治三十年頃に山城国木津町に住んでおった椿井氏の秘庫中から探し出されたもの」と述べている点に関して、それは誤解であり、中村は今井家から流出した椿井文書について、流出の実態までは伝聞でしか知らなかったのであろうと指摘しているが、他方researchmapの2020年5月29日付の研究ブログでは、中村の誤解を指摘したうえで、「とはいえ、戦後歴史学のなかで中村氏が椿井文書に最も精通していたことは間違いありません。例えば、「興福寺官務牒...

    1926年、「近江栗太郡志(卷五)」は「興福寺官務牒疏」について「一讀すれば名寺社の來由明にして得難き史料なり然れども熟讀して更に實地に就きて其記する所と對照すれば正鵠なるあり、又事實と反するものあり、全部を信據すべき記録に非ざるを知る、按ずるに正確の原本ありて後に地方人の依頼により故意に僞説を記入したるものゝ如し」と評価した。 1986年、藤田恒春は「(水木本)元亀の起請文」の巻頭文の署名「南龍子広雄」は文政六年(1823年)版「續浪華郷友録」掲載の「南龍堂 椿井流兵学古實国学 有職及物産名廣雄字 慶龍山城泉何辺上狛士 椿井権之輔」と同一人物であろうと推定した。南龍子広雄によって蒐集された「(水木本)元亀の起請文」は原本であろうと鑑定されている。 その巻頭文には「平群政隆」という署名落款が押されていた。草津市惣社神社所蔵「宝光寺縁起」には「南京興福寺官務家 永賜従五位下椿井越前権介平群政隆」、「大般若寺由緒書」には「平群宿禰政隆」の署名があるという。 自治体史掲載の地名区分によれば「上狛士 椿井権之輔」の上狛は山城町椿井(旧椿井村)ではなく山城町上狛(旧上狛村)に該当する。 宝暦13年(1763年)「北原村絵図」では、椿井村・上狛村・北原村等の領地の区分が描かれている。ただし、椿井村も含めた旧狛野荘全域を総称して「上狛」とされることもあった。 明治22年(1889年)4月1日上狛村は単独で新村となり、北河原村・椿井村・神童子村は併合して高麗村となった。 1989年、高島幸次は「(水木本)元亀の起請文」は起請文著判者の一人の野村七之丞が椿井氏の出であり、南龍子広雄こと椿井権之輔は故実家としてだけでなく自らの祖先への関心ゆえに蒐集したのではないかと推測している。 明治15年(1882年)、普賢寺関白と称えられ天福元年5月29日(1233年7月8日)京都府京田辺市普賢寺の地で亡くなり中ノ山(法楽寺)で火葬された近衛基通の墓が、近衛篤麿により村人達が火葬の地と伝承していた場所へ立てられた。 昭和62年(1987年)、防災工事前に発掘調査が行われ、明治15年立てられた近衛基通墓の下から江戸時代後期の物とみられる家形石祠と、「號(号+帍)普賢寺前摂政 近衛基通公御廟」と彫られた墓石と自然石碑が出土したが、他に遺物はなく火葬場とは判定されなかった。 家形石祠は陽明文庫所蔵...

    椿井政隆による古文書偽作については、大正末期に中川泉三が「興福寺官務牒疏」を始めとして近江に残る絵図が椿井政隆の手になる偽作であることを把握していると、馬部隆弘は指摘している。 1927年、東浅井郡志の「平群懐英椿井政隆共著の淡海國輿地名略考巻十六に、八相山城は……八相縫殿助長祐の居城なり……後、長祐が織田信長に仕へ、天正年中信長の命を南都興福寺に傳へたる由にて、其古文書をも僞作して之を載せ置けり」という記述にみえる椿井政隆は、「興福寺衆徒の家の産にして、彼の寺社の縁起を出すを以て有名なる、木津の今井氏と姻親の関係あり」と記されている。 1994年、『ふるさと椿井の歴史』は、懐英・南竜・王順と号した椿井権之輔政隆の古記録・古文書蒐集や絵画・系図・絵図・縁起書を筆写して納めた仕事を、「今日の歴史研究の水準でもって確認できる事実が押さえられている一方、確実な事実と認めることのできない記述もかなり多いので、多くの研究者も歴史史料として扱いあぐねているのが現状といえよう」としている。 2005年、椿井文書は木津の今井家が生産販売したのではなく山城町椿井の椿井権之丞が作ったものが今井家から流通したもので、椿井権之丞は椿井政隆(1770年 - 1837年)と同一人物であるという説が1911年三宅源治郎「郷社三之宮神社古文書伝来之記」に書かれたエピソードを根拠に馬部隆弘により立てられている。椿井政隆は謎多き人物で馬部もまだよくわかっていない部分があるという。椿井政隆の墓を求めて山城町椿井へ行った馬部は椿井政隆の墓は発見していない。ただし馬部は2019年の著書で、1816年から1818年にかけて椿井政隆は近江国蒲生郡をたびたび訪れており、偽文書を各地に残していることを指摘している。

    定森秀夫編 『京都府田辺町 近衛基通公墓』 (財)京都文化財団〈京都文化博物館(仮称)調査研究報告書第3集〉、1988年3月31日。
    中村直勝 『歴史の発見 古文書の魅力』 人物往来社、1962年、193-196頁。
    中村直勝 「偽文書ものがたり」 『古文書研究』 1号 日本古文書学会、29-47頁、1968年。https://id.ndl.go.jp/bib/906429。2021年2月15日閲覧。
    中村直勝 「偽文書の研究」 『日本古文書学 下』 7巻 角川書店、1977年、1194頁。
  7. 後白河天皇 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/後白河天皇
    • 親王時代
    • 保元の乱・平治の乱
    • 二頭政治と法住寺殿造営
    • 二条親政の確立
    • 二条親政派の瓦解と憲仁親王擁立
    • 院政開始と出家
    • 政権分裂と徳子の入内
    • 日宋貿易と寺社の統制
    • 厳島御幸と安元の御賀
    • 安元の強訴と鹿ケ谷の陰謀

    大治2年(1127年)9月11日、鳥羽上皇と中宮・藤原璋子の第四皇子として生まれる。中御門宗忠は「后一腹に皇子四人は、昔から希有の例だ」と評した。 11月14日、親王宣下を受けて「雅仁」と命名される(『中右記』)。2年後に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始された。保延5年(1139年)12月27日、12歳で元服して二品に叙せられる。院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子を寵愛して、永治元年(1141年)12月7日、崇徳天皇に譲位を迫り、得子所生の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。体仁親王は崇徳帝中宮・藤原聖子の養子であり「皇太子」のはずだったが、譲位の宣命には「皇太弟」と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。 一方、皇位継承とは無縁で気楽な立場にあった雅仁親王は「イタクサタダシク御遊ビナドアリ」(『愚管抄』)と、遊興に明け暮れる生活を送っていた。この頃、田楽・猿楽などの庶民の雑芸が上流貴族の生活にも入り込み、催馬楽・朗詠に比べて自由な表現をする今様(民謡・流行歌)が盛んとなっていた。雅仁は特に今様を愛好し、熱心に研究していた。後年『梁塵秘抄口伝集』に「十歳余りの時から今様を愛好して、稽古を怠けることはなかった。昼は一日中歌い暮らし、夜は一晩中歌い明かした。声が出なくなったことは三回あり、その内二回は喉が腫れて湯や水を通すのもつらいほどだった。待賢門院が亡くなって五十日を過ぎた頃、崇徳院が同じ御所に住むように仰せられた。あまりに近くで遠慮もあったが、今様が好きでたまらなかったので前と同じように毎夜歌った。鳥羽殿にいた頃は五十日ほど歌い明かし、東三条殿では船に乗って人を集めて四十日余り、日の出まで毎夜音楽の遊びをした」と自ら記している。 その没頭ぶりは周囲からは常軌を逸したものと映ったらしく、鳥羽上皇は「即位の器量ではない」とみなしていた(『愚管抄』)。今様の遊び相手には源資賢・藤原季兼がいたが、他にも京の男女、端者(はしたもの)、雑仕(ぞうし)、江口・神崎の遊女、傀儡子(くぐつ)など幅広い階層に及んだ。雅仁の最初の妃は源有仁の養女・懿子だったが、康治2年(1143年)、守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する。次に妃となったのは藤原季成の女・成子で、2男4女を産むが、終生重んじられ...

    久寿2年(1155年)、近衛天皇が崩御すると、自身の第一皇子であり、美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王が即位するまでの中継ぎとして、立太子を経ないまま29歳で即位した。守仁はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。本来、新帝践祚 → 即位 → 立太子の順で行われるものが、新帝の即位式以前の同年9月に鳥羽法皇主導によって守仁の立太子が行われたことも後白河天皇即位の性格を示している。10月に藤原公能の娘である藤原忻子が入内し、その翌年には皇子を生むことなく中宮に立てられているが、崇徳上皇・後白河天皇にとって公能は母方の従兄弟にあたり、崇徳上皇に好意的とみられてきた公能ら亡き待賢門院(璋子)の一族(徳大寺家)を新帝の後ろ盾にする意味があった。保元元年(1156年)、鳥羽法皇が崩御すると保元の乱が発生した。この戦いでは後見の信西が主導権を握り、後白河帝は形式的な存在だった。乱後、信西は政権の強化に尽力し、保元新制を発して荘園整理・大寺社の統制・内裏再建などを行う。 保元3年(1158年)、守仁(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる。これは当初の予定通りであり「仏と仏との評定」(『兵範記』保元3年8月4日条)、すなわち美福門院と信西の協議によるものだった。父の所領の大部分は、美福門院と暲子内親王に譲られたため、後白河上皇は藤原頼長から没収した所領を後院領にして経済基盤とした。また、配流となった崇徳上皇を除いた待賢門院所生の兄弟関係を強めるためにわずか1つしか違わない同母姉の統子内親王を自分の准母(母代わり)として、後に上西門院の女院号を与えている。 二条天皇の即位により、後白河院政派と二条親政派の対立が始まり、後白河院政派内部でも信西と藤原信頼の間に反目が生じるなど、朝廷内は三つ巴の対立の様相を見せるようになった。 この対立は平治元年(1159年)に頂点に達し平治の乱が勃発する。12月9日夜、院御所・三条殿が藤原信頼・源義朝の軍勢によって襲撃され、内裏の一本御書所に幽閉される。結果、信西は殺害され信頼が政権を掌握するが、二条親政派と手を結んだ平清盛が武力で信頼らを撃破、後白河院政派は壊滅する。後白河院は乱の最中、幽閉先を自力で脱出して仁和寺に避難していた。この時、争奪の対象になったのは二条天皇であり、後白河...

    後白河院政派と二条親政派の対立は、双方の有力な近臣が共倒れになったことで小康状態となり、「院・内、申シ合ツツ同ジ御心ニテ」二頭政治が行われた(『愚管抄』)。蔵人頭・中山忠親の『山槐記』によると、国政の案件は後白河院と二条帝に奏上され、前関白・藤原忠通が諮問に答える形で処理されていた。永暦元年(1160年)10月になると、後白河院は焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる。六波羅の南、東七条末の地には、摂関期に藤原為光が法住寺を創建したが早くに衰退し、信西の邸(平治の乱で焼失)や藤原清隆・紀伊二位の御堂などが建ち並んでいた。造営は播磨守に重任した藤原家明が担当し、藤原信頼の邸を移築することで進められた。10余町の土地を囲い込み、大小80余堂を壊したことから、多くの人々の恨みを買ったという(『山槐記』永暦2年4月13日条)。 10月16日、後白河院は法住寺殿の鎮守として日吉社・熊野社を勧請する。これについて『今鏡』は「神仏の御事、かたがたおこしたてまつらせ給へる、かしこき御こころざしなるべし」としている。新日吉社は、競馬や流鏑馬など武士の武芸が開催される場となり、新熊野社は、熊野詣に出発する前の精進・参籠の場となった。17日に早速、勧請したばかりの新熊野社に参籠して、23日、初めての熊野詣に出発する。この参詣には清盛も同行している。熊野詣は以後34回にも及んだ(実際に記録で確認できるのは28回)。熊野詣の最中の11月23日、美福門院が崩御した(『山槐記』同日条)。即位以来、美福門院派との協調に神経を遣っていた後白河にとっては束縛からの解放であり、二条を抑えて政治の主導権を握ることも夢ではなくなった。法住寺殿の造営も順調に進み、翌永暦2年(1161年)4月13日、完成した御所に移り住んだ(『山槐記』同日条)。 二条親政派にとって、後ろ盾の美福門院を失ったことは大きな打撃だった。一方「清盛モタレモ下ノ心ニハ、コノ後白河院ノ御世ニテ世ヲシロシメスコトヲバ、イカガトノミオモヘリ」とあるように、後白河院が政務を執ることに不安を抱き、否定的な見解をする者も少なくなかった。後白河院には芸能に堪能な側近が多い反面、鳥羽院政以来の伝統的貴族や実務官僚とのつながりは希薄で、その支持基盤は必ずしも強固なものではなかった。後白河院の寵愛は、専ら上西門院の女...

    9月3日、滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産するが、その誕生には「世上嗷々の説(不満・批判)」があった(『百錬抄』)。15日、憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される。これ以降、後白河院は政治決定の場から排除され、国政は二条帝と藤原忠通の合議により運営されることになる。 12月17日、藤原育子が入内する。育子は閑院流出身(徳大寺実能の女)で藤原忠通の養女だった。翌応保2年(1162年)2月19日、育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となり(大夫の九条兼実は14歳で名目のみ)、清盛も内裏を警護して二条支持の姿勢を明確にしたため、後白河院政派は逼塞を余儀なくされる。3月には配流されていた大炊御門経宗が帰京を許され、入れ替わるように6月23日、実長の密告により二条帝呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となった。鳥羽院政を支えていた貴族の認識では二条帝が正統な後継者であり、後白河院はあくまで暫定という位置づけだった。 院政を停止された後白河院は、信仰の世界にのめり込む。応保2年(1162年)正月の熊野詣では、千手観音経千巻を読んでいた時に御神体の鏡が輝いたので、「万の仏の願よりも千手の誓いぞ頼もしき、枯れたる草木もたちまちに花咲き実なると説ひたまふ(多くの仏の願いよりも、千手観音の誓願は頼りに思われる。一度千手におすがりすれば、枯れた草木さえも蘇って花咲き実が熟る、とお説きになられている)」と今様を歌い、千手観音への信仰を深くしている(『梁塵秘抄口伝集』)。 長寛2年(1164年)12月17日、後白河院は多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する。造営は清盛が備前国を知行して行った。後白河院は落慶供養の日に、二条帝の行幸と寺司への功労の賞を望んだが、二条帝が全く関心を示さなかったため「ヤヤ、ナンノニクサニ」と嘆いたという(『愚管抄』)。蓮華王院・新日吉社・新熊野社には荘園が寄進され、後白河院の経済基盤は強化される。二条帝は後白河院の動きに警戒感を募らせていたが、翌永万元年(1165年)6月25日、病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位、7月28日に崩御した。

    六条天皇は母の身分が低いことから中宮・育子が養母となり、摂政・近衛基実を中心にして体制の維持が図られた。しかし政権は不安定で、後白河院政派はしだいに息を吹き返していく。12月25日、後白河院は憲仁に親王宣下を行い、清盛を親王勅別当とする。院政期に親王宣下されるのは原則として正妃所生の皇子のみであり、憲仁は皇位継承の有資格者として位置づけられた。永万2年(1166年)7月26日に基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられた。この時に清盛は、殿下渡領を除く摂関家領を実娘で基実後家の盛子に相続させているが、後白河院はこの措置を容認していたと考えられる。主柱であった摂関家と平氏が後白河院政派に鞍替えしたことで、二条親政派は完全に瓦解した。 後白河院は二条親政派を切り崩すと同時に、自派の勢力拡大を強力に推し進める。7月に源資賢が参議に補されたのを皮切りに、8月には藤原成親・藤原光隆が参議、藤原成範・平頼盛が従三位となるなど、院近臣が次々に公卿に昇進した。一方、外戚でありながら離反した閑院流に対しては冷淡な態度をとり、権大納言の徳大寺実定・藤原実長が辞任している。実定は安元3年(1177年)にようやく還任するが、実長は生涯散位のまま留め置かれた。 10月10日、後白河院は清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する。立太子の儀式は摂関家の正邸・東三条殿で盛大に執り行われ、九条兼実が東宮傅(とうぐうのふ)、清盛が春宮大夫となり、摂関家・平氏が憲仁を支えていることを誇示するものとなった。11月、後白河院は清盛を内大臣とする。院近臣の昇進は大納言が限界であり、近衛大将を兼ねずに大臣になったことも極めて異例で、破格の人事だった。さらに藤原実長が辞任した後の権大納言には、藤原師長を抜擢する。師長は保元の乱で配流されたが琵琶の才能を認められ、日和見的傾向の強い上流貴族の中では最も後白河院に忠実な人物だった。

    後白河院は人事の刷新を済ませると、御所の拡張と軍事力の整備に乗り出した。法住寺南殿は信頼の邸宅を移築したものだったが、手狭で儀式に対応しにくいことから、仁安2年(1167年)正月19日、新しく建て替えられた。法住寺殿は、儀式用の法住寺南殿、憲仁の住む七条上御所、後白河院・滋子の住む七条下御所などに区分され、政治の中枢として機能する。28日には六条天皇の朝覲行幸があり、叙位・除目が行われた。 5月10日、後白河院は清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す(『兵範記』)。これにより、重盛は国家的軍事・警察権を正式に委任された。重盛は憲仁親王立太子の儀式で後白河院の警護に当たり、9月の熊野詣にも供をするなど、平氏一門の中では後白河院に近い立場にあった。清盛は家督を重盛に譲っても、依然として大きな発言力を有していたが、仁安3年(1168年)2月、病に倒れる。後白河院は熊野詣から戻る途中だったが、日程を早めて浄衣のまま六波羅に見舞いに駆けつけており、その狼狽ぶりがうかがえる。九条兼実も「前大相国所労、天下大事只此の事に在る也。この人の夭亡の後、弥よ以て衰弊か」(『玉葉』2月11日条)と政情不安を危惧している。摂関以外の臣下の病では異例の大赦が行われ、19日、反対派の動きを封じるために松殿基房の閑院邸において六条天皇から憲仁親王(高倉天皇)への譲位が慌しく執り行われた。病の癒えた清盛は政界から身を引き、福原に別荘を造営して退隠する。 大嘗会などの即位の行事が一段落して、年が明けた仁安4年(1169年)正月、後白河は12度目の熊野詣に向かう。2月29日には賀茂社にも詣でるが、これらは出家の暇乞いのためであったという(『梁塵秘抄口伝集』)。3月13日には高野山に詣で、帰路の途中の20日、福原の清盛の別荘に立ち寄る。この時に行われた千僧供養は、以後の恒例行事となった。帰京して嘉応と改元された4月、滋子に建春門院の院号を宣下し、6月17日、法住寺殿において出家、法皇となる。出家の戒師など8人の役僧は、全て園城寺の門徒だった。11月25日、新帝の八十嶋祭が行われ、平重盛の室・経子が勅使役として公卿を引き連れて六波羅から出立する。後白河院は滋子とともに七条殿の桟敷で行列を見送っており、平氏との協力体制は磐石なものに見えた。

    嘉応元年(1169年)12月23日、延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)。後白河院が成親を擁護したのに対して、延暦寺と友好関係にある平氏は非協力的な態度を取り、事態は紛糾する。翌嘉応2年(1170年)2月には終息したものの、双方の政治路線の違いが浮き彫りとなった。4月19日、後白河院は東大寺で受戒するために奈良に御幸する。清盛も合流して翌20日に並んで受戒するが、これは康治元年(1142年)の鳥羽法皇と藤原忠実の同時受戒の例に倣ったものだった(『玉葉』『兵範記』)。御幸から戻った21日、後白河院は平重盛を権大納言、成親を権中納言・検非違使別当に任じる。後白河院と平氏の間に生まれた溝もひとまず解消し、高倉天皇元服の儀式に向けて準備が進められていった。 しかし10月21日、参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こり、元服定は延期となってしまう。盛子が摂関家領を相続して以来、基房は平氏に大きな不満を抱いていたが、この事件により更なる関係悪化が懸念された。30日、後白河院は近臣・藤原光能を福原に遣わしている(『玉葉』同日条)。九条兼実は「何事なるかを知らず」とするが、殿下乗合事件の処理について清盛と協議するためだった可能性が高い。12月9日、基房が太政大臣となったのは、事件で被害を受けたことへの慰撫と考えられる。翌嘉応3年(1171年)正月3日、摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、天皇元服の儀式が執り行われた。 後白河院政は内部に利害の異なる諸勢力を包摂していたため、常に分裂の危機をはらんでいた。前年のような混乱を避けるためには政権内部の結束が不可欠だったが、そのような中で政権の強化・安定策として浮上したのが、高倉帝と清盛の女・徳子の婚姻である。承安元年(1171年)7月26日、後白河院は清盛から羊5頭と麝(じゃ)1頭を贈られる(『百錬抄』)。10月23日には滋子とともに福原に招かれて歓待を受けるが、これらは清盛による徳子入内の働きかけと見られる。後白河院にとって、院政確立のために平氏の支援は必要だったが、平氏の発言力が増大して主導権を奪われることは避けたかったものと推測される。 12月2日、入内定が法住寺殿で行われ、徳子は後白河院の猶子として入内することになった(『玉葉』『兵範記』)。白河法皇の養女とし...

    後白河院と清盛の間には、政治路線の違いなど解消できない対立が存在したが、両者には旧来のしきたりや偏見にとらわれず目新しいものを好むという共通点もあった。後白河院は清盛の進める日宋貿易に理解を示し、貴族の反対を抑えてその拡大に取り組んだ。 嘉応2年(1170年)9月20日、後白河院は福原に御幸して宋人と会う(『百錬抄』『玉葉』同日条)。日宋貿易は民間で活発に行われ博多には宋人が居住し、越前国の敦賀まで宋船が来航することもあった。しかし畿内まで宋人が来ることは異例であり、外国人との接見は宇多天皇の遺戒でタブーとされた行為であったことから、九条兼実は「我が朝延喜以来未曽有の事なり。天魔の所為か」と仰天した。平氏は代々、博多と大輪田泊をつなぐ瀬戸内海航路の整備・掌握に力を入れていたが、清盛の力だけで宋船を畿内まで入港させることは困難であり、後白河院の助力が必要だった。同年5月25日、藤原秀衡が鎮守府将軍に任じられているのは、日宋貿易における重要な輸出品である金を貢納させる狙いがあったと見られる。前述したように清盛は承安元年において後白河にヒツジとジャコウジカを献上しているが、いずれも日本には生息しない動物であり日宋貿易によってもたらされたものと思われる。 承安2年(1172年)9月になると、宋から後白河院と清盛に供物が届けられた。その送文には「日本国王に賜ふ物色、太政大臣に送る物色」と記されていた。「日本国王」は後白河院を、「太政大臣」は清盛を指していたが、「国王」は中国皇帝が周辺諸国に授ける臣下の称号で「賜ふ」というのも日本を見下した文言であり、「頗る奇怪」であると非難の声が上がった。また供物を送ったのが皇帝・孝宗ではなく皇帝の兄で明州刺史であった趙伯圭だったこともあり、貴族は相互に差別の無い外交に反するとして、品物は受け取らず返牒も出すべきではないと反発した(『玉葉』9月17日、22日条)。 しかし、翌承安3年(1173年)3月3日、左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになった。返牒は藤原永範が草案を作成し、藤原教長が清書した。内容は進物の美麗珍重を褒めたもので、後白河は蒔絵の厨子に入れた色革30枚・蒔絵の手箱に収めた砂金百両、清盛は剣一腰・物具(鎧)を送った(『百錬抄』3月3日条、『玉葉』3月13日条)。これ以降、日宋貿易は公的な性格...

    承安2年(1172年)、法住寺殿の南に滋子御願の新御堂が建てられることになり、2月3日に上棟式が行われた(『百錬抄』『玉葉』同日条)。これに先立つ嘉応2年(1170年)4月19日、後白河院は東大寺で受戒するため奈良に向かう途中、宇治の平等院に立ち寄り、本堂で見取り図を閲覧している(『兵範記』同日条)。承安元年(1171年)11月にも滋子を連れて再訪しているので(『玉葉』11月1日条)、平等院をモデルに造営する計画だったと思われる。しかし、諸国からは御願寺造営で重い賦課が課せられたという訴えが相次ぎ、工事は難航した。承安3年(1173年)10月21日、御堂の完成供養が行われ、最勝光院と名付けられる(『百錬抄』『玉葉』同日条)。その華麗と過差は先例を越えるもので(『玉葉』)、「土木之装麗、荘厳之華美、天下第一之仏閣」(『明月記』嘉禄2年6月5日条)と称されるほど、大規模なものだった。 承安4年(1174年)3月16日、後白河院は滋子を伴って安芸国厳島神社に参詣するため京都を出発、福原を経由して26日に到着した。交通手段は福原で清盛が用意した宋船であった可能性が高い。天皇もしくは院が后妃を連れて海路を渡り、遠方まで旅行することは前代未聞であり、吉田経房は「已無先規、希代事歟、風波路非無其難、上下雖奇驚、不及是非」(『吉記』3月16日条)と驚愕した。厳島参詣には清盛に対する政治的配慮の面もあるが、単純に滋子を連れて霊験殊勝な厳島神社を見物したいという願望・好奇心が大きな動機だったと考えられる。後白河院には后妃が何人かいたが、遠方に連れて行ったり、桟敷で共に並んで行列を見物したりするのは、滋子に限られていた。 厳島神社では回廊の下の波や山の緑といった風景を楽しみ、内侍の巫女の舞を見て「伎楽の菩薩が舞の袖をひるがえすのも、このようであったろうか」と感嘆する。やがて巫女が「我に申すことは必ず叶うであろう、後世のことを申すのは感心である。今様を聞きたい」と託宣を告げたので、「四大声聞いかばかり、喜び身よりも余るらん、われらは後世の仏ぞと、確かに聞きつる今日なれば(四大声聞の方々はどれほど身に余る喜びを感じただろう、釈尊から後世において仏に成り得ると、確かに保証の言葉を聞いた今日であるから)」と今様を歌う。後白河院は感極まって涙を抑えられなくなり、清盛は「この御神は後世の願いを...

    滋子の死去によって、後白河院と平氏の関係は悪化の兆しを見せ始める。10月23日、四条隆房が後白河院の第九皇子(後の道法法親王)を抱えて参内、11月2日には平時忠も第十皇子(後の承仁法親王)を連れて参内し、2人とも高倉帝の猶子となった。九条兼実は「儲弐(皇太子)たるべきの器か」(『玉葉』10月29日条)と憶測しているが、これは後白河院による高倉帝退位工作の一環と考えられる。成人天皇の退位自体は白河・鳥羽院政期にもあったことで珍しくはなかったが、平氏にとって徳子に皇子が生まれる前の退位は絶対に認められるものではなかった。2人の皇子が高倉帝の猶子となったのは、後白河院と平氏の対立を回避するための妥協策と思われるが、これは問題の先延ばしに過ぎず、両者の対立は徐々に深まっていく。 12月5日に除目が行われ、院近臣の藤原成範・平頼盛が権中納言となる。空席となった参議には蔵人頭の西園寺実宗・藤原長方が昇任したため、後任の蔵人頭の人事が焦点となった。ここで後白河院は、院近臣の藤原定能・藤原光能を押し込んだ。定能は道綱流、光能は御子左家の出身で長く公卿を出していない家系であり、位階上臈の藤原雅長・平知盛を超えたことについて、九条兼実は「希代」と評している(『玉葉』同日条)。一方、翌安元3年(1177年)正月14日には平氏による巻き返しがあり、平重盛・宗盛がそれぞれ左大将・右大将となり、両大将を平氏が独占した。ただし宗盛は滋子の猶子で、後白河院との関係は良好だった。2月3日の宗盛の拝賀には殿上人・蔵人を前駆として遣わしている。3月14日には福原に御幸、千僧供養に参加して滋子の菩提を弔った。 平氏との関係は修復されたかに見えたが、ここで新たな要素として延暦寺が登場する。加賀国目代・藤原師経が白山の末寺を焼いたことが発端で、当初は目代と現地の寺社によるありふれた紛争にすぎなかったが、白山の本寺が延暦寺であり、師経とその兄である加賀守・藤原師高の父が院近臣の西光だったため、中央に波及して延暦寺と院勢力との全面衝突に発展した。3月28日、後白河院は師経を備後国に配流するが、延暦寺の大衆はあくまで師高の配流を求め、4月13日に神輿を奉じて内裏に向かった。後白河院は大衆の行動を「大衆已に謀叛を致す」(『玉葉』4月14日条)、「訴訟にあらず。已に謀叛の儀に同じ」(『玉葉』4月17日条)と断じて...

  8. 魚類用語 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ラム換水

    魚類用語(ぎょるいようご)では、魚類の身体の名称、特徴や生態などを示す用語について記す。 ただし、狭義の魚類に含まれない無顎類(円口類)を含む。 片仮名の部分の読みは「-」で略した。

  9. 北宋 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/北宋
    • 概要
    • 歴史
    • 政治
    • 脚注
    • 参考文献

    907年に唐が滅亡し、その後の五代十国時代の戦乱の時代の後、960年に趙匡胤により建てられたのが宋である。太祖・趙匡胤から始まり、3代真宗の時代に遼からの侵攻を受け、これと和平を結ぶ(澶淵の盟)。これによって平和は確保され大きな文化の華が開いたが、一方では外国に支払う歳幣や弱体化して肥大した国軍の維持の為の財政の悪化など問題を抱えるようになる。6代神宗の時代に王安石の手により新法と呼ばれる政治改革が試みられるが、これが政争の原因となり、混乱を招いた(新法・旧法の争い)。8代徽宗の時代に新興の金と結んで遼を滅ぼすものの自らも金に滅ぼされ、南に逃れて王朝を再建した。華北時代を北宋、華南時代を南宋と呼び分けている。この項目で取り扱うのは960年から1127年までの北宋である。 全盛期には中央アジアにまで勢力を伸ばしていた唐に対して、宋は遼(契丹)・西夏(タングート)という外敵を抱え、対外的には萎縮していた時代と見られている。一方、国内では様々な面で充実を見、特に文化面においては顕著な進展が見られた。 具体的に唐と宋との間の変化として最も大きな変化は唐までの中国で政治・経済・文化の主たる担い手であった貴族層が完全に消滅し、士大夫と呼ばれる新しい層がそれに代わったということである。 1. 五代においては有力な家臣(武人)による帝位簒奪が相次いだ。対して北宋では、武人の権限が弱められ、士大夫がそれを統制し、またその士大夫は官僚であることで士大夫なのであって皇帝を追い落として自ら皇帝となることは構図的にありえなかった。これにより「(突き詰めると)全ての政治的権限および責任が皇帝に帰する」皇帝独裁制[注釈 1]が成立した。 2. 貴族は血筋によって貴族であり、それ以外の者がどんなに努力しようが貴族にはなれない。宋代では科挙に合格できるならばどのような出身であれ、高位に上り詰める可能性が生じた。現実的には貧しい者が科挙に合格するのはまず不可能であったが、それであってもその意義は大きく、このことにより一種の平等思想を生むことになった。この「平等」を現代の「平等」と一緒くたにしてはいけないが、より開かれた意識が見られたのは確かである。 3. 経済的には銅銭の発行額が桁違いに増え、また史上初の紙幣として交子が誕生した。 4. 唐代の文化とはとりもなおさず「貴族文化」であって、その担い...

    建国

    唐の崩壊以後、中国は五代十国時代の分裂期に入り、北方の遼(契丹)などの圧迫を受けて混乱の中にあった。その中で五代最後の後周の2代皇帝である世宗は内外政に尽力し、中国の再統一を目指していた。その世宗の片腕として軍事面で活躍していたのが宋の太祖趙匡胤である。 世宗は遼から領土を奪い、十国最大の国南唐を屈服させるなど統一への道筋を付けたが顕徳6年(959年)に39歳で急死。あとを継いだのはわずか7歳の柴宗訓であった。このとき趙匡胤は殿前都点検(禁軍長官[注釈 2])の地位にあったが、翌顕徳7年(960年)に殿前軍の幹部たちは幼帝に不満を抱き趙匡胤が酔っている隙に黄袍を着せて強引に皇帝に擁立し、趙匡胤は柴宗訓から禅譲を受けて宋を建国した(陳橋の変)。(以後、趙匡胤を廟号の太祖で呼ぶ。以下の皇帝もすべて同じ) このように有力軍人が皇帝に取って代わることは五代を通じて何度も行われてきたことであった。太祖はこのようなことが二度と行われないようにするために武断主義から文治主義への転換を目指した。自らが就いていた殿前都点検の地位を廃止して禁軍の指揮権は皇帝に帰するものとし、軍人には自らの部隊を指揮...

    澶淵の盟

    太宗は太平興国9年(984年)に崩御し、その子の趙恒が跡を継ぐ(真宗)。真宗代には更に科挙が拡充され、毎年開催されるようになり、一度に数百人がこれを通過した。太祖以来の政策の結果、皇帝独裁体制・文治主義がほぼ完成した。 しかし文治主義は軍事力の低下を招き、宋の軍隊は数は多くても実戦に際しては不安な部分が大きかった。景徳元年(1004年)、北方の遼が南下して宋に侵攻してきた。弱気な真宗は王欽若らの南遷して難を逃れるという案に乗りそうになったが、強硬派の寇準の親征すべしという案を採用して遼を迎え撃ったが戦線は膠着し、遼に対して毎年絹20万疋・銀10万両の財貨を送ることで和睦した(澶淵の盟)。また遼の侵攻と同時に西のタングート族は宋に反旗を翻していたが、こちらにも翌景徳2年(1005年)、財貨を送ることで和睦した。 澶淵の盟の際に遼に送った絹20万疋・銀10万両という財貨は遼にとっては莫大なもので、この財貨を元に遼は文化的繁栄を築いた。しかし宋にとってはこの額は大したものではなく、真宗は「300万かと思ったが30万で済んで良かった」と述べたという。この逸話が示すように唐代末期からの経済...

    新法・旧法の争い

    結局、英宗は濮議の混乱に足を取られたまま治平4年(1067年)に4年の短い治世で崩御。子の趙頊(神宗)が即位する。20歳の青年皇帝神宗は英宗代に赤字に転落した財政の改善・遼・西夏に対する劣位の挽回などを志し、それを可能にするための国政改革を行うことのできる人材を求めていた。 白羽の矢が立ったのが王安石である。王安石は青苗法・募役法などの新法と呼ばれる政策を行い、中小農民の保護・生産の拡大・軍事力の強化などを図った。しかしこの新法はそれまでの兼併・大商人勢力の利益を大きく損ねるものであり、兼併を出身母体としていた士大夫層の強い反発を受けることになった。 新法を推進しようとするのは主に江南地方出身の士大夫でありこれを新法派、新法に反対するのは主に華北出身の士大夫でありこれを旧法派と呼ぶ。新法派の領袖の王安石に対して旧法派の代表としては司馬光・蘇軾らの名が挙がる。王安石は旧法派を左遷して新法を推進するが、相次ぐ反対に神宗も動揺し、新法派内での争いもあり、王安石は新法の完成を見ないまま隠棲した。 神宗は王安石がいなくなっても新法を続け、その成果により財政は健全化した。それを元に神宗は元豊...

    唐が各地に軍閥とも言える節度使の割拠を許し、続く五代十国時代の騒乱に至ったことに鑑み、世宗・太祖・太宗は、地方に強い力を持つ節度使の勢力を殺いで中央を強化する「強幹枝弱」政策を取り、そして科挙を大幅に拡充し、文臣官僚制が完成の域に達した。春秋戦国時代・魏晋南北朝時代・五代十国時代といった群雄割拠の状況は、これ以降の中華王朝では、近代にいたるまで見られなくなる。 宋代の支配体制は唐代の貴族層が五代十国の騒乱で没落した後に、士大夫と呼ばれる新しい層が中心となる。学問を積み、科挙に合格して官僚となる事で、貴族のように血縁により尊崇されるのではなく、科挙の合格者を出して顕官に登る事で周囲の尊敬を集め、地方の顔役的存在となり、財産を築く。反対に言えばどんなに財産を積んでいようと出世する人間がその一族から出なければ、尊敬は受けられず、財産もいずれは消滅してしまう事になる。 この士大夫の権勢の源は国家の官僚であるということから来ており、貴族とは違って皇帝を離れて権勢を維持することは出来ない。更に太祖はひとつの役職に対してそれに対抗する役職を新設するなど出来る限り一つの役職に権限が集中しないようにし、簒奪劇が二度と起こらないように留意した。皇帝がこれらの士大夫出身の官僚を手足として使い国政に当たる体制は、「皇帝専制」・「君主独裁」とも称される。ただ、その一方で、真宗の没後に年少若しくは病弱な皇帝が相次ぎ、宋皇室とは血縁関係のない、皇太后及び太皇太后が皇帝の職務を代行し、政治を安定させたことは注目に値する。

    注釈

    1. ^ 独裁皇帝ではない。この違いに留意。 2. ^ 北周の禁軍は殿前軍と侍衛親軍の2つがあり、殿前軍の長官が都点検で副長官が都指揮使。侍衛親軍は都指揮使が長官。 3. ^ 山西省万栄県の北方 4. ^ 冊封#冊封体制の崩壊と再生も参照。 5. ^ 河北省雄県 6. ^ 河北省覇州市 7. ^ 寧夏回族自治区固原市原州区 8. ^ 陝西省志丹県 9. ^ 河北省濮陽県 10. ^ 寧夏回族自治区呉忠市 11. ^ 南流する黄河の西側

    全般・通史

    1. 『世界歴史大系 中国史 3 五代 - 元』(梅原郁他、山川出版社、1997年。ISBN 4634461706) 2. 『五代と宋の興亡』(周藤吉之・中島敏、講談社学術文庫、2004年。ISBN 4061596799) 3. 「北宋史概説」(宮崎市定、『世界文化史体系12 宋元時代』、誠文堂新光社、1935年)、『アジア史研究』・全集の10に所収。 4. 『世界の歴史6 東アジア世界の変貌』(堀敏一他、筑摩書房、1961年) 5. 『図説 中国の歴史 宋王朝と新文化』(梅原郁、講談社、1977年) 6. 『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(斯波義信他、山川出版社、1983年。ISBN 4634440504) 7. 『中国の歴史07・中国思想と宗教の奔流』(小島毅、講談社、2005年。ISBN 4062740575)

    論集

    1. 『岩波講座・世界歴史9 内陸アジア世界の展開1、東アジア世界の展開1』(佐伯富他、岩波書店、1970年) 2. 『東洋史学論集-宋代史研究とその周辺-』(中島敏、汲古書院、1988年) 3. 『戦後日本の中国史論争』、谷川道雄編、河合文化教育研究所、1993年。ISBN 487999989X)

    政治

    1. 佐伯富 1.1. 1969年『中国史研究 第1』(東洋史研究会) 1.2. 1971年『第2』 1.3. 1987年『中国塩政史の研究』(法律文化社、ISBN 4589013371) 2. 曾我部静雄 2.1. 1937年「宋代軍隊の入墨について」(『東洋学報』24-3)、1943に収録。 2.2. 1943年『支那政治習俗論放』(筑摩書房) 3. 宮崎市定 3.1. 『宮崎市定全集10』(岩波書店、ISBN 4000916807) 3.1.1. 1930年「王安石の吏士合一策 - 倉法を中心として -」(『桑原博士還暦記念東洋史論叢』) 3.1.2. 1945年「胥吏の陪備を中心として-支那官吏生活の一面- 」(『史林』29-4) 3.1.3. 1953年「宋代州県制度の由来とその特色」(『史林』36-2) 3.1.4. 1963年「宋代官制序説」(佐伯富編『宋史職官志索引』、東洋史研究会) 3.2. 『全集11』(ISBN 4000916815) 3.2.1. 1954年「宋元時代の法制と裁判機構」(『東方学報(京都)』24)、『アジア史研究 第四』に収録。 3.3....

  10. 両替商 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/両替商
    • 語源
    • 両替商の歴史
    • 日本における両替商
    • 現在の両替商
    • 関連項目

    日本語の「両替」という言葉は、一「両」小判を、丁銀、小玉銀すなわち秤量銀貨に、また銭貨に換(「替」)えたことに由来する。また銀座において金地金と公鋳銀(丁銀)を替えること、また吹金、灰吹銀および極印銀すなわち市井銀の品位を鑑定して公鋳銀とを取り替えることを南鐐替(なんりょうがえ)、あるいは量目替、両目替(りょうめがえ)と称したことに由来するとも言われる。

    ヨーロッパ

    古代地中海世界ではフェニキア人がその役目を担い、続いて古代ギリシアの都市国家であるポリスにおいて両替商が出現した。前6世紀頃からポリスごとに異なる硬貨を用いたために両替商が必要とされ、トラペザという四脚の机を仕事に使ったことから、トラペジーテースと呼ばれた。トラペジーテースは貨幣、貴金属、文書の保管なども行い、預けられた金を元手に貸付も始め、これが銀行家の誕生につながった。有力なポリスの一つであるアテナイでは、両替商や銀行家は居留外国人であるメトイコイが主に行っていた。 ローマではエクイテス身分の者によって両替商が経営され、ギリシアの両替が海上貿易が多かったのに対して、地域の取引のための両替を行った。 中世期に入ると、ヨーロッパの商業は衰退を見せるが、東方からの貨幣流入は継続され、さらに10世紀に遠隔地商業網が再建されると再び両替商の役割が大きくなった。フランスでは1141年にパリの両替商・金銀細工師をグラン・ポン橋の周辺に集めてそれ以外での営業を禁止して掌握を図ろうとした。このため、この橋はポン・ド・シャンジュ(両替橋)と呼ばれるようになった。同じ頃、北イタリアの都市国家は独自...

    イスラーム世界

    イスラーム帝国の拡大に従って、従来からのヨーロッパとアジアを結ぶ中継貿易の役目に加えて、地域内の交易も盛んになった。アッバース朝の時代には、バグダート・バスラ・アレクサンドリアなどを結ぶ商業網が成立した。ディーナール金貨・ディルハム銀貨が代表的な貨幣であったが、各地から様々な地金や秤量貨幣などが流入して通貨として用いられた。こうした通貨間の交換を図るために9世紀にはサッラーフ(şarrāf)と呼ばれる両替商が成立し、後に砕銀・粒銀などの秤量貨幣をまとめて封印を施して、一定の貨幣価値をもって流通させたり、手形を扱ったりもするようになった。また、地方から租税として集められた貨幣や地金を公式の通貨に換金して政府に納入するジャフハズ(jahbadh)と呼ばれる御用業者もあった。

    中国

    中国では早くから銅銭による貨幣統一政策が採られていたが、国家の分裂や慢性的な銅銭不足によって金銀や絹などの軽貨が代用貨幣として用いられていた。唐から宋にかけて、金銀鋪・兌房と呼ばれる両替商が成立した。金銀鋪は元は金細工・銀細工などの製造販売を手がけていたが、後に顧客からの依頼を受けて金銀の鑑定や保管業務なども引き受けて両替・預金業務も行うようになった。更に宋代になると、飛銭・交子の発行引受なども行った。明以後になると銀錠の流通が広く行われるようになり、銀錠と銅銭の交換を専門に行う銭荘・銀楼などと呼ばれる両替商も出現するようになった。

    室町時代を発端として江戸時代に確立し、小判、丁銀および銭貨を手数料を取って交換、売買すなわち両替した商店があった。明治時代以降は両替商は銀行として金融業務を行うようになり、この銀行を両替商という場合もある。

    空港などにおいて、主に入国者および出国者を対象に、2国間の通貨を手数料を徴収して、為替相場に応じて外貨両替を行う窓口または店舗を両替商と呼ぶ。 大都市および観光地などでも両替商を多く見かけるのが一般的である。国によっては入国時に公認両替商で両替を行い両替証明書を発行してもらわないと、出国時に余剰の貨幣を再両替することができないこともある。日本で外貨両替を扱っているのは、主に銀行および空港などの両替窓口である。 日本国内では以前、外国為替および外貨両替を扱うことができるのは外国為替公認銀行に限られていたが、平成10年(1998年)4月の「外国為替及び外国貿易法」の改正により規制が緩和され、一般企業でも外国為替および外貨両替を扱うことができるようになった。

  1. 房地合一2.0 懶人包 相關
    廣告