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  1. 台湾ドラマ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/台湾ドラマの一覧

    李國毅 (レゴ・リー)、謝欣穎(ニッキー・シエ)、謝坤達(シェ・クンダー)、黄騰浩(テンダー・ホァン)、謝沛恩(エイジー・シェ ) 「高塔公主〜Single Ladies Senior〜」 2018 孟耿如(サマー・モン)、莫允雯(クリスティーナ・モク ...

  2. 郝海東 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/ハオ海東

    郝 海東(かく かいとう、拼音: Hǎo Hǎidōng、簡体字中国語: 郝海东、1970年5月9日 - )は、中国・青島出身の元プロサッカー選手(フォワード)、ビジネスマン、政治活動家[1]。

    • ハオ・ハイドン
    • 郝海東
    • HAO Haidong
    • 社長
  3. グレゴリー - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/グレゴリー

    グレゴリー (Gregory) とは、原意は『見張るもの』(旧約聖書偽伝・外伝に出てくる堕天使の集団『グリゴリ』の名の意味と同義)。 英語の人名、愛称は「グレッグ」。 ドイツ語名グレゴール、ラテン語名グレゴリウス、ロシア語名グリゴリーなどに対応する。

  4. 李氏朝鮮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/李氏朝鮮王朝
    • 概説
    • 国名
    • 歴史
    • 政治
    • 都市
    • 対外関係
    • 社会階層
    • 民族構成
    • 経済
    • 文化

    1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が高麗王・恭譲王を廃して、自ら権知高麗国事(高麗王代理、実質的な高麗王の意味)になり即位を自称したことで成立した。前政権を否定するために高麗の国教の仏教を否定する崇儒排仏で儒教が国教化された。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に正式に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝洪武帝から下賜されたものであり、権知高麗国事から正式に明に朝鮮国王として冊封を受けたのは第3代太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は1894年まで中国王朝の冊封体制下にあった。李氏朝鮮は成立から併合されるまで、政治的な派閥抗争が常に絶えなかった。李成桂に貢献したとされた勲旧派は、厳格に朱子学を重んじる士林派を4度大弾圧していたが、1567年の14代国王宣祖の即位とともに、逆に士林派が勲旧派を駆逐し、以降の朝鮮の官僚派閥は士林派で占められ、より理念的な朱子学こそ至高とされた。ポストを独占した士林派は、1575年に東人派や西人派に分裂し抗争、1591年に西人派が失脚すると東人派は西人派粛清の最中北人派と南人派に分裂、1606年に北人派も大北人派と小北人派に分裂、大北人派も骨北、肉北、中北の3つの派閥に分かれ、党争は続いたが、1623年3月13日、綾陽君(仁祖)を擁護する西人派を中心とする宮廷クーデターが起き(仁祖反正)、光海君が廃位・追放されると、西人が政権を握り、大北派は粛清されて、政治の舞台からほぼ姿を消した。これ以後はまた南人派と西人派の間で政争が行われることになる。西人派も1680年に老論派と少論派に分裂するなど李氏朝鮮は党派対立が常に激しく、妥協がないために政権交代は対立する派閥に関する虚偽の謀反誣告を受けた王による粛清か権力を握った派閥による粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。このように、反対派の芽ごと摘んでしまう士禍を繰り返した朝鮮王朝の政治を「朋党政治」という。近代化に必要な実学派は常に弾圧され台頭出来ずに政権を握った理念的な朋党が歴史書の修正を書き、反対派の記録を自分たちに有利なように書き直される非生産的な歴史が繰り返され、経済・技術・軍事が停滞していた。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条...

    高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名[注 3]であったが、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。「和寧」が単に李成桂の出身地であるだけなのに対し、朝鮮はかつての衛氏朝鮮・箕子朝鮮・檀君朝鮮の正統性を継承する意味があったことから本命とされており、国号変更以前からそれを意識する儀式が行われていた。国号が朝鮮という二文字なのは、中国の冊封体制に、新王朝の君主が外臣として参加して、一文字の国号を持つ内臣より一等級格下の処遇を与えられていることを意味する。 国号を洪武帝に選んでもらったことは、事大主義を象徴していると揶揄されるが、新王朝が擬定した朝鮮の国号は、朝鮮初である檀君朝鮮と朝鮮で民を教化した箕子朝鮮を継承する意図があり、首都が漢陽に置かれたのは、檀君朝鮮と箕子朝鮮の舞台であるためである。新王朝は、檀君と箕子を直結させることにより、正統性の拠り所にする意図を持っていた。朝鮮という国名は、殷の賢人箕子が、周の武王によって朝鮮に封ぜられた故事に基づく由緒ある中国的な呼称であるため、洪武帝は、新王朝が箕子の伝統を継承する「忠実な属国」となり、自らは箕子を朝鮮に封じた周の武王のような賢君になりたいと祈念した。従って、中国への事大主義を国是とする新王朝が、周の武王が朝鮮に封じた箕子の継承を意図する朝鮮の国号を奏請したことは適切であった。 日本や中国では朝鮮半島にかつて存在した朝鮮を国号に持つ王朝と区別する為に「李氏朝鮮」あるいは「李朝」と呼ぶことが多い。学術的には日本でも近年は大韓民国の意を汲んだ者を中心に「朝鮮王朝」という呼び方が広まりつつあるが、この呼び名は広義には「朝鮮半島」の「王朝」という意味にも理解されるため李氏朝鮮だけを特定して指すには不適切だとする意見もある。 大韓民国では、「李氏朝鮮」「李朝」と言...

    李成桂による建国

    13世紀以来、元の属国となっていた高麗は、元の衰退に乗じて独立を図るが、北元と明の南北対立や倭寇の襲来によって混乱し、混沌とした政治情勢にあった。14世紀後半、中国遼東の納哈出征討と元の干渉からの脱却、遼陽制圧、女真や倭寇討伐などでの数々の武功で名声を確固たるものにした高麗の武将、李成桂は1388年、明が進出してきた遼東を攻略するため出兵を命じられ鴨緑江に布陣したが、突如軍を翻して威化島回軍を起こし、高麗の首都開城を占領、高麗の政権を完全に掌握した。その背景には、李成桂がもともと反元・親明派であって王命に対する反発があったことに加え、当時行き詰まっていた高麗の政治を改革しようとする新興の儒臣官僚たちの支持があった。遼東攻撃を不当とした李成桂は、当時の王に対してその不当性を主張し、これを廃して昌王を王位につけた。この時の李成桂の主張には「小国が大国に逆らうのは正しくない」というものがあり、事大主義だと批判する歴史家もいる。一方で、当時の高麗の軍事力で明と戦うのは無理であり合理的選択であったと考える見方もある。 李成桂を支持した両班たちは、朱子学では中華を尊んで、夷狄を斥けるから、漢...

    世祖の中央集権

    第6代の端宗(第5代文宗の息子)は11歳で即位したため、政治に関しては官僚が全てを決裁する形となり王権の空洞化が進んだ。それに伴って他の王族の勢力が強くなり、たびたび宮廷闘争などが発生する様になる。その混乱の中で、文宗の弟であり端宗の叔父である首陽大君は巧みに勢力を拡大し、1455年に端宗に圧力をかけて王位を譲らせ、自ら国王となった(世祖)。世祖は反対勢力を強力に排除し、王権を集約する。軍政や官制の改造を行い、軍権を強めると共に職田法を導入して、歳出を抑えた。これらの政策は地方豪族の反発を招き、地方反乱が頻発するが、世祖はこの反乱を鎮圧することで中央集権体制を確立させるのに成功する。一方で、日本とは融和政策を採り外交を安定させると共に、民生を安定させた。しかし強権的な中央集権主義により、自らに服従する功臣達を優遇し、高級官僚は自らの側近で固められ、実力のある者も高位には就けなくなった。これらの世祖に優遇された功臣達は後に勲旧派と呼ばれる様になる。また、儒者の多い批判勢力を牽制するために仏教優遇政策を取った。1467年の李施愛の乱では批判勢力を弾圧したが、鎮圧に活躍した亀城君李浚(...

    勲旧派と士林派の対立と士禍

    世祖の死後、睿宗が即位したが19歳で逝去。1469年に13歳の幼い王成宗が即位し、貞熹大妃が垂簾聴政を行なったが国政は不安定になった。1470年、王族である亀城君が世祖と同じ事をするのではないかと恐れた大臣達は彼を追放し、王族の政治への関与を禁止した。これによって、政治の中枢から王族は排除され、臣下の牽制としての王族の役割は終了する。政治の中枢は勲旧派が占めており、かれらが政治を壟断していたが、成宗の親政時代になると士林派勢力を取り入れるようになった。これに脅威を感じた勲旧派や外戚が士林派勢力との対立することとなったが、成宗の治世(1469年 - 1494年)では政治的には一応の安定を見た。このとき、成宗の母仁粋大妃と2番目の王妃斉献王后(廃妃尹氏)が対立し、廃妃尹氏は1479年に廃位され1482年に賜死した。 成宗が亡くなり燕山君が王位に就くと、勲旧派と士林派による対立が表面化し、1567年まで続くことになる。燕山君は士林勢力を疎ましく思っており、加えて勲旧勢力による諫言などもあり、それが1498年の最初の士禍、戊午士禍と言う形で現れる。この時、士林勢力の筆頭・金宗直(朝鮮語版...

    国王

    朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。また、上述のとおり王族の李氏は女真族系の出自であるとする説がある[注 6]。明や清の皇帝に臣従する立場から、国王・王妃・大妃の敬称に殿下を用いた。王位継承の第一順位の王子も「太子」という称号は使えず、王世子と呼ばれ、王世子・世子嬪(王世子の正室)の敬称には邸下が用いられた。1894年に独立を宣言してからは王・王妃等の敬称を陛下に改め、殿下は王太子・王太子妃の敬称となった。

    政権

    李氏朝鮮の建国以来、政治の中心であり絶対的な権力を持ったのは国王であり、王は王位こそ継げる完全な世襲であったが、背後で実際に王を動かしているのが朝廷であり外戚と呼ばれる王妃を輩出する有力な両班であった、この構図は李氏朝鮮が終わるまで脈々と受け継がれた。さらにその外戚には党争が深くかかわっていた。 李氏朝鮮の歴史は党争の歴史でもあり、党争は朝鮮王朝期の最大の特色といわれるが、その原因については諸説があって一定した解釈はない。政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。主な理由は、王権が微弱で十分に官人たちを抑圧できなかったこと、党争においては相手の政策的能力の指摘よりも道徳的欠陥や問題点を叱責することに集中するなど当時国教的位置を占めていた儒教、特に朱子学のもつさまざまな性格が政争にからんで利用され、事態を一層複雑にしていることであろう。党争の前駆をなすものとして通常指摘されているのは燕山君4年(1498年)に起った戊午の士禍 (世祖の即位をめぐる史論問題から発展した官人・儒林の対立抗争) や甲子の士禍 (1504年) 、乙巳の士禍 (1...

    官制

    官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服(〜従三品:赤官服、正四品〜従六品:青官服、正七品〜:緑官服)・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。 官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。 王朝に仕える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官...

    当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。 李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。 首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。

    清との関係

    半島の北の満洲(マンチュリア)に住んでいた女真人とは紛争が繰り返されるとともに交易も行われていたが、朝貢に近い儀礼関係を結ばせていた。しかし、女真は同時に明に対しても服属していたため、朝鮮が女真に対して朝貢させていたことを明が咎めたこともある。朝鮮政府は女真を「胡」だとして「オランケ」と呼び、蔑視の対象にしていた。それだけに、17世紀に女真の建てた後金(のち清)に武力で服属させられ、さらに清に明が滅ぼされたことは朝鮮の思想界に大きな衝撃と影響を残すことになり、小中華思想となって表れた。 その後、日清戦争に至るまで500年に渡り、李氏朝鮮は中華王朝たる明および清の冊封体制の中にあり、中華王朝に事大の礼を尽くしていた。朝鮮の君主は中華王朝の皇帝を世界でただ1人の天子として敬い、皇帝に対する朝貢や、朝鮮に対する使節の歓待を礼を尽くして行い、「東方礼儀之国」と呼ばれた。このような思想を朝鮮の人々に浸透させるイデオロギーとして儒教が活用され、儒教の本場として中華王朝には敬意が払われた。 秀吉の日本軍の侵攻に際して明が援軍を出して助けたことは「再造の恩」と呼ばれ、17世紀には実力で屈服させら...

    日本との関係

    中国以外の国や民族に対しては、自身を中華世界の上国として位置付け、交易や政治関係において朝鮮国王への服従を要求する擬似朝貢体制をとった。明が滅び清が興ると中原の中華文明は滅んだとみて、朝鮮が中華文明の正統な継承者だと考えるようになった。いわゆる小中華思想である。そこで李氏朝鮮は、周辺国の女真・琉球・日本とは交隣外交を繰り広げた。それは、女真・琉球・日本の野蛮国は獣の類だから人間付き合いはできないが、放っておいたら噛みつくため適当にあしらうという外交である。 南の日本人に対しては、倭寇を防ぐために、交易を認めた者も倭館と呼ばれる居留地への居住を義務付け、厳しく取り締まった。倭館ははじめ富山浦(釜山)、乃而浦(昌原)、塩浦(蔚山)の三浦にあり、三浦倭館と呼ばれたが、1509年に起こった三浦の乱やその後の倭寇事件で釜山一港に限定された。また1592年に勃発した文禄・慶長の役によって日朝の国交は断絶したが、財政の存立を朝鮮貿易に依存していた対馬藩は国書を偽造するなどして(柳川一件)、1609年には日朝が己酉約条を結び、釜山に倭館新設も認められた。日本使節の漢城上京は認められなかったが、征...

    西欧との関係

    西欧人に対する反発はより強く、中国と日本、それに琉球王国などを除けば長く鎖国状態であった。朝鮮にとっては、西洋人は「禽獣」であって人間としても扱われなかった。18世紀後半には、さまざまな分野で西欧の影響を受けて新たな試みが見られた。19世紀初頭にキリスト教と西欧文化を弾圧する党派が主流になると一時それらは衰退したが、完全に消滅することはなく、開港後は再びその流れを汲んだ試みが続けられた。

    朝鮮の社会は、中国式の戸籍制度によって社会階層は細分されていた。少数の特権階級(閔氏一族など)は互いに婚姻関係を持ち、それらが地主となり、要職に就くための科挙制度も支配することによって、富と権力を握っている社会であった。 戸籍上の身分は、当初は良民と賤民(奴婢・白丁、妓生など)に大きく分かれていただけであったが、良民の中でも科挙を受けられる余裕を持つ階級とそうでない階級に次第に分化していった。その結果、良民は両班(貴族および科挙官僚を輩出する階層)・中人(技術官僚・下級官僚を輩出する階層)・常人(一般の農民)と言う3つの階層に細分化される。 儒教を尊び、仏教を弾圧していたため、僧侶や工人、商人などは常人より低い地位に置かれていた。 社会階層は完全に固定されていたわけではなく、例えば科挙合格により中人から両班に上昇する一族もあったことが分かっている。しかし、李朝後期には身分制に対する社会統制自体が緩くなり、近代に近づくほど賤民層は激減し、両班層は激増している。これは身分の詐称や族譜の売買、朝鮮政府が富裕な農民や賤民に官位や官職を販売しそれが固定化されていったこと、また奴婢が良民の身分をあがなったり逃亡や両班の雇用人となることで身分転化が起こったものと考えられている。両班人口は17世紀の終わりには10%内外であったが、19世紀半ばには両班の占める割合が70%に達した地域もあった。

    民族面では、建国の時点で朝鮮国内の北部にかなりの数の女真人が住んでいたが、李氏朝鮮王朝は彼等を国民として正当に扱うことはなく、国外の女真と同じように激しい蔑視や差別、迫害の対象であった。彼らは朝鮮政府と国外の女真との関係が悪化すると追放されることもあったが、次第に朝鮮人へ同化させられていったと思われ、この過程に於ける混血や言語的影響については詳しいことは分かっていない。 朝鮮末には朝鮮民族の均質化が進み、19世紀には逆に朝鮮民族が国境を越えて清やロシアの領域に移住していった。このような民族均質化の結果、王朝末期から現在にかけての朝鮮・韓国社会で少数派の民族コミュニティを形成しているのは華僑のみとなっている。なお現在の北朝鮮はしばしばナショナリズム高揚のため、「単一民族国家」を強調しており、韓国でも保守派、民族主義者を中心に根強く他民族との混血の事実を廃し、「単一民族国家」という意識が残存しているが厳密には多民族国家であり、朝鮮民族自体が東アジアだけで見ても極めて最近生まれた民族であることが分かる。

    朝鮮半島では、李氏朝鮮王朝の時代になるとそれまで進展していた経済の発展にきわめて強い規制がかかった。朝鮮王朝のイデオロギーでは、商人に対する風当たりが強かったためである。そのため本格的な貨幣制度がなかなか定着せず、物々交換か麻布・綿布・米などの現物貨幣で取引された。李氏朝鮮王朝も何度か貨幣制度の導入を行ったものの、イデオロギーを無傷で温存したため根本的な解決はできなかった。 第4代世宗(1397-1450年)の時代に入り、金属貨幣である「朝鮮通宝」が発行され、本格的な貨幣経済への重要な一歩を示したが、流通量は少なく、秀吉や清の侵攻でそれまでも構築できていたとは言い難い国内の産業基盤が崩壊し、意図したほどの効果は上がらなかった。17世紀後半に至って「朝鮮通宝」の代わりに「常平通宝」を鋳造し、再び貨幣経済を振興させようとするが、金銀などを使用した高額貨幣の流通はあまりにも微少だった。また造幣を行う役人によって銅が横流しされ、その分を鉛で補っていたために市中でも貨幣に対する信頼度は低かった。 このような制約の中でも李氏朝鮮王朝後期の18世紀、19世紀には商人階級の勃興と富の蓄積、また両班の地位を金で購入することなどが広まり、朝鮮の商業は大きな進歩を見せた。しかしその後も支配者層の儒教イデオロギーに基づく介入が相次ぎ、また両班が一般民衆に対して常に過酷な財産徴収を行っており資本蓄積や資本による投資が不可能な状態であったことや19世紀初期の飢饉や反動政治などもあって、朝鮮における商業の発展は非常に障害が多かった。 李氏朝鮮末期に至っても物々交換が中心であり、貨幣の流通は都市部に限られていた。開国後には西洋、中国、日本などの銀貨が流通し始める事によって、対外交易を行う釜山などを中心とした港湾部で高額貨幣の流通量が増大するが、それまでは極端な場合100ドル(本位銀貨で100枚)に相当する貨幣が朝鮮の銅貨では320,000枚となり、運搬するのに馬1頭を使わなければならないこともあるなど、非常に不便を強いられていた。工業においても商業と同様、人を雇って分業で何かを生産するような企業は全くの未発達で個人や家族での活動に限られていた。 また、李朝末期まで商店はわずかな両班の使うものであり、一般民衆が使うことのできるまともな商店は存在していなかったか、あったとしても商店にある品を全て...

    廃仏崇儒

    李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、「しかしそれは、すべて中国文化の縮小版」であった。 李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。 ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再...

    シャーマニズム

    正式な国教と呼べるものは儒教の朱子学ではあったが、土着・民間信仰としての巫俗は淫習とされ巫女であるムーダン(巫堂)が賎人とされるなど蔑視されたが根強く残った。祀られる神は朝鮮独自のものもあるが、道教や仏教、後にはキリスト教の影響も見られる。 イザベラ・バードの『朝鮮紀行』には朝鮮社会が克明に記されており曰く、 「朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿が無い。家々には「神棚」が無く、村祭りには神輿も無ければ偶像を運ぶ行列も無く、婚礼葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりする事が無い。心からにせよ形だけにせよ、畏れ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず人心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られぬは非常に珍しい特徴である。」

    印刷事業の発展

    各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。 李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して書籍書である『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所...

  5. 朝鮮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/チョウセン
    • 「朝鮮」の由来
    • 「朝鮮/韓」などの相違
    • 「李氏朝鮮」の呼称
    • 韓国における「朝鮮」
    • 北朝鮮における諸事情
    • 脚注
    • 関連項目

    朝鮮の名は、『史記』の箕子のくだりに見られ紀元前からあったとされるが、李氏朝鮮時代に広まった。その由来について、南北朝時代に編纂された史記の注釈書『史記集解』には張晏(中国語版)の説で「朝鮮には湿水、洌水、汕水が有り、3つの川は洌水として合わさる。恐らくここから楽浪は朝鮮と名付けたのだろう」とある。唐代の史記注釈書『史記索隠』では「朝鮮とは潮汕の音写である[注 1]」と記されており、史記の時代から唐代までの中国では、川に因んだ地名と見做されていた。朝鮮王朝の官選地理書『東国輿地勝覧』には「朝日が鮮明なるところ」[注 2]とあり、李瀷は「朝は東方、鮮は鮮卑族の意」と解釈した[注 3]。 13世紀に成立した朝鮮の史書『三国遺事』には、伝説的な人物である檀君が国を建てる際に「朝鮮」と号したという話があるが、三韓時代の百済、新羅、高句麗、日本の史書、中国の史書にはこのような記載はなく、後漢時代にはこの伝説は生まれていなかったと見られている。 朝鮮の異称や雅号に「三千里錦繍江山」、「槿域」、「青丘」、「鶏林」、「韓」、「海東」などがある。

    日本語を含む漢字文化圏では、「○○半島」(○○반도、○○バンド)、「○○民族」」(○○민족、○○ミンジョク)、「○○語」(○○어、○○オ)などの様々な局面において、この地域を何と呼称するかが問題となる。

    日本においては王室の姓をとり「李氏朝鮮」もしくは「李朝」の呼称が用いられていたが、近年では「李氏朝鮮」を「朝鮮王朝」と言い換え、古朝鮮と朝鮮とで呼び分ける立場が日本の朝鮮史研究者の間では主流となってきた。文部科学省は2002年に「李氏朝鮮」という呼称について「表記が不適切」との検定意見をつけた。その理由を、日本における学術研究の成果を反映したためとし、特に朝鮮史学界での呼び方に倣ったことを強調した。

    韓国においては「チョソン」は古称・雅名としても認知され、そのような文脈に限っては抵抗なく使われることもあるが、北朝鮮式の呼称であることによる忌避のみならず、日本語読みの「ちょうせん」は差別の意味合いを持って受け取られることがある。また、ヘル朝鮮にみられるように、朝鮮王朝時代の後進性からネガディブなイメージの呼称として受け取られることがある。南北をひっくるめて論じるときなどは「韓民族」「韓半島」などというのが普通であり[要出典]、かつて日本の保守系親韓派知識人の一部[注 5]もこのような用語法を用いた例もある。

    北朝鮮では「ハングル」など読み方が「韓」を連想させるような語彙は嫌われることもある(ただし「ハングル」のハンは「韓」ではなく「偉大な」の意味である)。北朝鮮の日本向け日本語放送(国際放送)『朝鮮の声放送』では「チョソン」の呼称が用いられる。

    注釈

    1. ^ 原文「朝音潮 直驕反 鮮音仙 以有汕水故名也 汕一音訕」 2. ^ 「國在東方 先受朝日之光鮮 故名朝鮮」 3. ^ 意味によって発音も異なり、鮮麗の鮮は「xiān」、鮮少の鮮は「xiǎn」である(郑春兰『传统文化经典读本 汉字』四川辞书出版社, 2018.01, P.209)。 4. ^ 文部科学省は前年2001年に「つくる会教科書」における「李氏朝鮮」という呼称について大韓民国から修正を要求されたが「明白な誤りとは言えない」として拒絶したことがあった。その翌年2002年の検定意見で「李氏朝鮮」という呼称を不適切としたことについて文部科学省は、韓国の要求に応じたのではなく、学術研究の反映であると説明した。同年の検定意見では「任那日本府説」の是非に絡む「倭日本は加羅を根拠地として百済をたすけ、高句麗に対抗」との記述にも検定意見をつけて「近年は任那の恒常的統治機構の存在は支持されていない」(日本経済新聞2002年4月10日朝刊)と説明した。 5. ^ 山本七平など

  6. 台北市立第一女子高級中学 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/北一女

    台北市立第一女子高級中学(だいいちじょし-こうきゅうちゅうがく)は、台湾 台北市にある女子高校。 日本統治時代に台北における女子高等教育の拠点として設立され、初代校長尾田信直により基礎が築かれた後、歴代校長により旧制女学校の学風が築かれた。

  7. 金鋳城 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/キム・ジュソン
    • 来歴
    • 所属クラブ
    • 外部リンク

    1987年にプロ選手としてのキャリアをスタートさせたが、1986年のW杯メキシコ大会で弱冠20歳にして世界の舞台にデビューした。IFFHS選定(現AFC選定)最優秀選手に3度輝き、1990年代の韓国を代表するプレイヤーであった。W杯には1986年メキシコ大会から3大会連続出場。1999年引退。 高い身体能力を誇り、本職は快速のウィングながら、DFまでこなすオールラウンドプレイヤーであった。1992年にはドイツのVfLボーフムに移籍し活躍した。 大韓サッカー協会国際局長を経った後、現在は、事務総長を務めている。

    1987-1992 大宇ロイヤルズ(現・釜山アイパーク)
    1992-1994 VfLボーフム
    1994-1999 釜山アイコンス(現・釜山アイパーク)
  8. 大韓帝国 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/大韓国
    • 国名
    • 概説
    • 年表
    • 政治
    • 食文化

    国号の大韓は、高句麗、百済、新羅の三国[要出典](三韓)統一を達する名称として出た。 高宗実録によると、清からの冊封体制離脱に当たり、朝鮮王宮では明から下賜された国号「朝鮮」を変更する提案が家臣から高宗になされた。その際、高宗は朝鮮を「三韓の地」と認識しており、かつ「韓」を含む名称が歴代の統一朝鮮王朝の国号として使われていなかった。そのため、国号としての格が従来より上がる漢字一文字の「韓」に、修飾語の「大」を加えた「大韓」が新しい国号に定められたという。 また、国名を「帝国」としたのは、冊封からの離脱に際し、国王の称号を「皇帝」へと変更したからである。小島毅は、「清という皇帝がいる国の庇護下にある王国だったのが、日本が後押しして、清から自立した帝国になり、大韓帝国を正式な国号とします」と評している。

    李氏朝鮮時代と日清戦争

    朝鮮国(李氏朝鮮)は、1637年に清と三田渡の盟約を結んで冊封国となっていた。その後、19世紀後半に列強の帝国主義政策が東アジアにまで及ぶと、1875年(明治8年)の江華島事件を契機として翌1876年(明治9年)に日本と締結した日朝修好条規を始め、李氏朝鮮はアメリカやフランスなどの欧米諸国と不平等条約を結ぶことになった。 このような情勢を受け、朝鮮国内では清国との冊封体制を脱して近代化をすべきだという者(開化党)と、清国との関係を維持すべきだという者(事大党)とが対立する。そうした中で1882年(明治15年)、両派の暗闘から壬午事変が起こり、日本公使館も暴徒に焼き討ちされて死亡者が発生する。公使館保護を名目とする日本と、朝鮮を属国と主張する清の両国は鎮圧を理由としてともに出兵、日清の対立は決定的となった。 当時の朝鮮半島は、共に自らの勢力圏におさめようとする日本と清朝の角逐の場であったため、日本は権益を確立するため朝鮮国に対する清朝の影響を排除する必要があった。そして、1894年(明治27年)に日清戦争が勃発し、1895年(明治28年)に日本が清国に勝利、下関条約を締結した。この...

    冊封体制からの離脱

    朝鮮国王高宗は1896年(明治29年)2月11日から1897年(明治30年)2月20日までロシア公使館に逃れていた(露館播遷)が慶運宮へ戻った。1897年(明治30年)にもはや清の藩属国でなくなった以上、国王号を使用することは望ましくないという儒者の建言に従い以下の改革が実施された。 1. 国号を「朝鮮」から「大韓」と改めた。 1. 元号を前年のグレゴリオ暦への改暦にともなって定めた「建陽」から「光武」に改元した。 1. 高宗は、圜丘壇を新たに設けて10月12日に祭天の儀式を行い、翌13日に詔を出して皇帝に即位した。大韓帝国の皇帝位は明朝の皇統を継承したことにより得たものとされた。 1. 清の冊封の象徴であった迎恩門や「恥辱碑」といわれる大清皇帝功徳碑を倒して独立門を立て独立を記念した。 1. 高宗以前の朝鮮王朝の歴代君主にも皇帝としての諡号が追贈(追尊)された。

    諸外国の動き

    李氏朝鮮では、親露派の政権が誕生しており、日本とロシアは小村・ウェーバー覚書及び山縣・ロバノフ協定を結んでいた。1897年9月、ロシア公使がカール・イバノビッチ・ヴェーバーからアレクセイ・ニコラビッチ・シュペイエルへと代わり、同年10月に彼が英国人ジョン・マクレヴィ・ブラウンを強制的に解任しようとする事件が起きた。また、ロシアは、独立協会の活動を支援しているとして、アメリカの宣教師を排撃した。アメリカ公使ホレイス・ニュートン・アレンは「韓国でのロシアの干渉は、現在、軍事的及び政治的問題に関連する最も親密な事柄に広がる。」と報告している。 しかし、その後ロシアは、三国干渉によって、1898年3月15日に清国と旅順港・大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、1898年3月23日には韓国から全てのロシアの軍事・民事アドバイザーが撤退した。1898年4月25日、日本とロシアは、西・ローゼン協定を結んだ。しかし、その後、韓国政府が独立協会を排撃したため、アレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を...

    1898年(明治31年)
    1900年(明治33年) 軍人勅諭を制定。

    大韓国国制

    1899年には「大韓国国制(朝鮮語版)」と呼ばれる憲法が制定され、そこでは、 1. 大韓国が自主独立の国であること 2. 大韓国の政治は万世不変の専制政治であること 3. 大韓国大皇帝が無限の君権を享有すること 4. 大韓国大皇帝は不可侵であること 5. 大韓国大皇帝が統帥権を有すること 6. 大韓国大皇帝が法律制定権、恩赦権を有すること 7. 大韓国大皇帝が行政各部の官制及び俸給を定めること 8. 大韓国大皇帝が官吏の昇任降格を決定し、栄典を授与すること 9. 大韓国大皇帝が外交権を有し、各国に使者を派遣・駐在させ、宣戦講和及び諸般の条約を締結する。 が定められた。

    警察

    1. 詳細は大韓帝国の警察を参照。

    軍事

    1. 詳細は大韓帝国軍を参照。

    加藤政之助の『韓国経営』によれば、親族・郷党の相互扶助・共食の習慣があり、一種の共産主義となっていたため、怠惰を助長する面が存在したものの、飢饉においても乞食が少ないという利点があったとされる。また、官吏による徴収が酷かったため、貯蓄を行うことは危険な行為と見做されており、食べて一生を送るのが安全だとの認識が広まっていたとされる。 主食は米、黍、粟であった。加藤政之助によれば、料理は中華料理に似るものの、それに至らないものであったとされる。料理は山盛りにして出され、最初に来客や主人が食べ、その残りを息子が食べ、その残りを家人等が食べ、その残りを下僕が食べていた。

  9. 台湾独立運動 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/台湾独立運動
    • 運動の区分
    • 中華民国による統治以前の台湾独立運動
    • 民主化以後の台湾独立運動
    • 既に台湾(中華民国)は独立国家とする考え
    • 非現実的とする批判
    • 中国民主活動家との関係
    • 台湾独立運動を展開した代表的な人物
    • 関連項目

    台湾独立運動の起源は、日清戦争後の日本による台湾出兵(牡丹社事件に関する台湾出兵とは別)にまでさかのぼる。しかし、この時に宣言された「台湾民主国独立宣言」(後述)は、真に台湾を独立させることを意図したというよりは、台湾を日本へ渡さないための清朝側の工作という側面が強かった。 日本統治時代の台湾独立運動にも、大きな盛り上がりは見られず、大日本帝国の一植民地としての自治権強化の運動や、大日本帝国憲法を台湾にも施行して日本内地の住民並に参政権を獲得する運動などが主流となった(参政権は属地主義だったので、戦前は日本内地在住の台湾人にのみ選挙・被選挙権があった)。 1945年の日本敗戦後も台湾独立運動は起こらず、中華民国への「祖国復帰」を多くの台湾人が大きな抵抗もなく受け入れたが、実際に中華民国による統治が始まると、台湾人の多くは腐敗した国民政府に失望し、台湾人と「中国人」の違いを次第に自覚するようになった。戦後の台湾独立運動は、このような出発点に立ち、中華民国体制を克服し、大陸の中華人民共和国による支配をも拒絶する運動、即ち「中国人」ではなく「台湾人」として生きるための運動として展開されている。 国民党時代に中華民国体制を否定しない現状の独立状態の存続、中国統一のみを否定する思想も出てきた。 現在の台湾独立派の最も有力な理論は2つあり、「台湾は日本が敗戦によって台湾を放棄した時点で国際法上の独立を果たしており(中華民国が台湾を領有するという国際条約は存在しない)、戦後の台湾には台湾共和国と亡命中華民国が並存しているとしている」「既に台湾は独立国家であり中華民国である」というものである。そして、その上で中華民国の政治体制を変革することを目標としている。この運動は、泛緑連盟によって支持されているが、一方で中華民国による中国統一を志す泛藍連盟による強い反発を受けている。 台湾政府が中華民国体制からの正式な独立宣言をした場合、「一つの中国」を主張してきた中華人民共和国は台湾を回収する根拠を失うため、同国は「武力解放」を明言して台湾への圧力を続けている。アメリカや日本は、大規模な戦乱を恐れ、「台湾独立」に慎重な立場を取っているが、これらの国々の政府や民間に親台湾派が存在する。

    この時代の台湾独立運動について、まず特筆されるべきことは、日清戦争後の下関条約で日本が清国から台湾を割譲された際、台湾が「台湾民主国」として一応の独立を宣言していることである(黄昭堂:『台湾民主国の研究―台湾独立運動史の一断章』東京大学出版会。1970年)。しかし、この政権は大陸から派遣されていた清朝の官僚や清国軍、清国の科挙試験に合格したごく一部の台湾人特権階級を中心としたものであったため、短期間で解体、崩壊した。日本軍の台湾上陸の報を聞いた清朝の官僚は直ちに外国船で大陸へ逃亡し、清国兵は台北で台湾人への略奪を始めている。台湾人の有産階級は、独立どころか日本軍に救援を依頼し、進軍の手引きまでしている。 1920年代、日本共産党の指導の下にあった台湾共産党は、コミンテルンの指示を受け、「日本帝国主義」からの独立を目指したが、大きな広がりを持つには至らなかった(この時期の台湾独立運動の代表人物としては、謝雪紅などが上げられる)。また、中国共産党は、台湾共産党の主張する社会主義的理念に基づく台湾独立を認めず、彼らの多くを追放したため、台湾共産党の主導による独立運動も終焉を迎えた。

    中華民国の民主化により、急進的な台湾独立運動は進歩的知識人を除けば衰退した。 象徴的なこととしては独立派であった李登輝が中華民国総統に就任した事が中華民国の統治システムの追認であり台湾が中華民国から独立するという目的が事実上消滅した。 民主進歩党は、1999年に台湾前途決議文を採択し、党綱領にある台湾独立を棚上げした。これは、2000年総統選挙に向けて、党内最大派閥の新潮流と穏健派が妥協した結果であった。同選挙で勝利し、陳水扁政権が成立するとアメリカの意向を汲み、「四つのノー、一つのない」を唱えた。そのため、民進党と従来の台湾独立派との間には、亀裂が生じた。 李登輝は、かつての国民党李登輝派である台湾本土派の一部に台湾団結連盟(台聯)を結党させ、自らはその精神的指導者となった。台聯は綱領において、台湾新憲法の制定と、国号を台湾にすることをうたっている。当初、台聯は民進党を支援する目的で結成された。しかし、中国国民党の台湾本土派を十分に取り込むことが出来ず、固定的な支持基盤を獲得できなかった。そこで、急進的な独立派路線により、民進党と独立派に近い(深緑)支持者の票を奪い合うことになった。そのため、民進党と台聯の間で、独立的な主張を競い合うという循環に陥り、中間票を取りこぼす結果も生まれている。 一方、本来の台湾独立派は、陳水扁政権において総統府国策顧問や資政(上級顧問)に就任するものも現れた。しかし、顧問職の者も含めて、陳政権とは一線を画している。むしろ、台湾正名運動を推進し、最終的には陳政権が放棄した国号改称も行うよう求めた。また、現行憲法を廃止し、台湾新憲法の制定も求めている。 その他、政治体制についても、五院体制から三権分立への変更を求める者もいる。対中国政策については、台聯や台湾独立派は、経済交流(貿易、投資、人的交流)規制の継続と強化を求めている。 2008年、国民党の馬英九政権となり、中国に急接近する政策を取ると、反発する反政権デモが独立派によりたびたび発生するに至った。2008年8月には台北市内で主催者発表で30万人のデモが行われ、総統府前を埋め尽くした。2009年5月には主催者発表で台北で60万人、高雄で20万人が「(馬英九政権の)中国傾斜に反対し、台湾を守ろう」とのスローガンを掲げ、大規模な抗議活動を行った。 2014年には孫文の像を引き倒す事...

    台湾は中華人民共和国と無関係の島国であり一つの中国を否定する天然独と呼ばれる考え方がある。民主化後に台湾で生まれ育った若い世代によく見られる。しかし、中華民国の一部であるかどうかは個人の捉え方が大きい。台湾独立派の中には、天然独は敗北主義だとする考えもある。 特に中華人民共和国に現状の中華民国の独立状態を認めさせる考えは華獨と呼ばれる。

    台湾独立の現実性については疑問や批判もある。 中国国民党の女性市議会議員である徐巧芯は女性も兵役につくべきであると提案、それに対し兵役でなく代替システムで徴兵を終えた桃園市の市議会議員である王浩宇が「自分はそれを望まない」と発言した。ネットでは「愛国心がない、兵士になってはどうだ」と批判の声が上がった。民進党の元立法院議員林濁水は「国民党は徴兵に賛成しているが台湾独立を掲げる民進党は反対した、台湾を守りたいのはどちらなのか」と嘆いた。聯合新聞は「台湾独立派はご都合主義の打嘴炮であり兵士にならないのならどうやって中華人民共和国と独立戦争を戦うのか、アメリカが助けてくれると思っているのか、中華民国軍も弱くはないが人民解放軍は訓練された軍隊だ、一体誰が尖兵となるのだ。王のような独立派は中国共産党をコケにすることで中国人意識を持っているNanaを批判するが現実に防衛することを考えるとパニックになるが頼りになるのか疑問である。陳水扁と馬英九の台中接近政策により中国に幻想を抱き独立は空から降ってくるように自然に手に入ると考えるような世代が生まれた」と批判した。 軍事面での不安としては消耗品や部品の費用を軍人が自腹を切っているケースが起こっておりそれが原因の自殺も起きた。兵器の整備も行き届いておらず政治家に忖度をする将校の増加から腐敗が進行している、アメリカから最新鋭の兵器を購入するがそれはポーズでありまともに維持できないと元軍人が批判している。

    天安門事件で亡命した王丹など、中国民主化の活動家も当初は、台湾独立に否定的だったが、その後は「台湾のために戦う」という意識が低く「叫ぶだけでは『台湾独立』は不可能。歴史上、生命の対価を支払わずに独立した民族はない」というなど発言に変化がみられる。 ノーベル平和賞受賞者の劉暁波は著書「統一就是奴役...劉曉波論臺灣、香港及西藏 」にて、大一統と中国民主化は両立できず、台湾、香港、チベットを独立させるべき主張した。

    香港を拠点として活動した人物

    1. 廖文奎(1905年 - 1952年) : 第二次世界大戦後の早期に台湾民族主義思想の理論を築き上げた運動家。1950年代に「台湾再解放連盟」が発表した『福爾摩沙發言(Formosa Speaks)』の著者。 2. 廖文毅 : 第二次大戦後の最初期に活動した運動家。1948年に香港で「台湾再解放連盟」を成立させ、後に日本へ渡る。 3. 謝雪紅 : 「台湾再解放連盟」の創始者の一員。二二八事件後に台湾から逃れてきた。

    日本を拠点として活動した人物

    1. 廖文毅 : 第二次世界大戦後の最初期に活動した運動家。1956年に東京で台湾共和国臨時政府を樹立させ、初代大統領に就任。後に国民党政府へ「投降」。 2. 陳智雄 : 元台湾共和国臨時政府の東南アジア巡回大使。自己の政治信念を貫いたがために、1963年に国民党政府によって銃殺される。そこから、「少しも死を恐れない台湾独立の勇士(視死如歸的台獨勇士)」と称される。 3. 辜寛敏: 日本における台独運動の重要な指導者。『台湾春秋』、『黒白新聞週刊』などの雑誌を創設し、台湾青年会の委員長を歴任。中華民国総統府で資政。 4. 郭栄桔 : 日本における台独運動の指導者であり、事業に成功した企業家。世界台湾同郷会連合会の元首任会長。 5. 侯栄邦 : 日本における台独運動の指導者。台湾独立建国連盟(台独連)日本本部中央委員を歴任。 6. 黄文雄 (評論家) : 台独連日本本部委員長。日本に滞在する有名な台湾人作家であり、中国史に関する著作などを日本語で40冊以上執筆。その印税のほとんどは台独連へ献金されている。 7. 黄昭堂 : 台独連総本部主席。昭和大学名誉教授。1960年代から日本に...

    北アメリカを拠点として活動した人物

    1. 蔡同栄 2. 張燦鍙 3. 鄭自財 4. 黄文雄 (政治家) 5. 郭倍宏 6. 荘秋雄

  10. 桜田門事件 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/桜田門事件
    • 概要
    • 影響
    • 参考文献
    • 関連項目

    昭和7年1月8日、陸軍始観兵式のため、行幸が行われていた。午前11時44分頃、行幸の帰りに、皇居・桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に通りに差し掛かった行幸の列の馬車に対して、突然、奉拝者の線から沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけた。 狙われた馬車は第二両目の御料馬車で、宮内大臣一木喜徳郎が乗車するものであった。手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開けたが、手榴弾は威力が小さく、馬車と隊列はそのまま進んで午前11時51分頃、皇居内に到着した。後に破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった。 昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートルも前方で炸裂。車内にあって音を聞いた程度だった。奈良武次武官長が陪乗していたが、天皇は極めて冷静沈着で、帰還後も事件について何ら言葉をかけることもなかったという。 襲撃者は一名で、警視石森勳夫、巡査本田恒義、山下宗平、憲兵河合上等兵、内田軍曹の五名によって即座に逮捕された。犯人は朝鮮京城生まれの李奉昌という人物で、朝鮮独立を目指す金九が組織した抗日武装組織・韓人愛国団(大韓僑民団)から派遣された刺客であった。 李は先月28日に昭和天皇が観兵式に臨席することを東京朝日新聞で知り、犯行の前々日(1月6日)にバス運転手菅原久五郎[注釈 1]から偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って観兵式の警戒網を2回突破した。赤坂付近で襲撃する予定が、待っている間に付近の一つ木食堂で日本酒を飲んでいて行幸の列をやり過ごしてしまい、李は慌てて円タクを呼び止めて三宅坂の陸軍参謀本部前で降り、そこから走って警視庁正門まで行って奉拝者の列に混ざったという次第であった。李はどの御料馬車に天皇が乗車しているかを知らなかった。焦りや動揺の中で第一両目に投げようとしたが投げきれずに断念し、第二両目が次に来て漸く決心して投げきったというところで、誰が乗車しているかなどを考える余裕はそもそもなく、襲撃は失敗に終わった。 この事件は大逆罪(刑法第七十三条)に該当し、大審院特別権限に属するということで、東京地方裁判所検事正は、即日、検事総長小山松吉に送致し、小山は直ちに大審院長和仁貞吉に予審を請求。和仁は東京地方裁判所判事に予審を命じ、上席予審判事秋山高彦が取り調...

    不敬事件の発生に驚愕した犬養内閣は、内閣書記官長森恪の招集で緊急閣議を開き、政府責任について協議した。大正12年(1923年)の虎ノ門事件の際には第2次山本内閣は総辞職したため、これに倣おうという意見や自重すべきという意見など様々あった。内務大臣中橋徳五郎、商工大臣前田米蔵、農林大臣山本悌二郎が旅行中で、大蔵大臣高橋是清は病気療養中で欠席していたが、とりあえず辞表を提出して天皇の裁可を仰ごうということになり、当日午後5時に旅行中の三名分を除く全員の辞表が提出された。 ところが8日の夜、昭和天皇は現在の時局は重大であるとして鈴木貫太郎侍従長を西園寺公望のもとに派遣して下問させ、事態収拾を命じた。西園寺は犬養毅が優諚拝受して内閣を続行するように説得した。山本権兵衛も当事件は虎ノ門事件の状況とは異なると述べ、引責辞任の必要はないとした。翌9日午前8時、犬養毅首相以下全閣僚が出仕。午前10時、天皇自ら「時局重大なるが故に留任せよ」と命じて、犬養内閣は一転して留任することになった。 他方、上海では中国国民党機関紙「民國日報(中国語版)」が事件について「不幸にして僅かに副車を炸く」などと犯人に好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展して日中関係が緊迫化し、これが第1次上海事変の原因の1つになった。

    犬養毅伝刊行会編国立国会図書館デジタルコレクション 「大逆事件の突發と犬養内閣の總辭職及び留任」 『犬養毅伝』 犬養毅伝刊行会、1932年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173703/196 国立国会図書館デジタルコレクション。
    Voice編集部編 『Voice』 2015年 02月号巻戦後70年 日本の言い分号 PHP研究所、2015年。ASIN B00TFAFJE8
    森川哲郎 『朝鮮独立運動暗殺史』 三一書房、1976年、246-251, 256-257頁。ASIN B000J9JHBU
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