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  1. 八田與一 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 八田與一

    八田 與一 生誕 1886年 2月21日 石川県河北郡花園村(現石川県金沢市今町) 死没 1942年 5月8日(56歳没)長崎県 五島列島付近 国籍 日本 出身校 第四高等学校 東京帝国大学 工学部土木科 職業 水利技術者 著名な実績 烏山頭ダム建設 配偶者 外代樹(とよき)

  2. 奉加帳 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 奉加帳

    奉加帳(ほうがちょう)とは、寺院・神社の造営・修繕、経典の刊行などの事業(勧進)に対して、金品などの寄進(奉加)を行った人物の名称・品目・量数を書き連ねて記した帳面のこと。 寄進帳(きしんちょう)とも呼ぶ。 本来、こうした事項は勧進の趣旨などを記 ...

  3. 勧進帳 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 勧進帳
    • 概要
    • あらすじ
    • みどころ
    • 名優の『勧進帳』、後代への継承
    • 関連作品
    • 文化的影響
    • 外部リンク

    原形は初代市川團十郎が元禄15年(1702年)2月初演の『星合十二段』に取り入れたのが最初。これを五代目市川海老蔵(七代目團十郎)が能の様式を取り入れ、天保11年(1840年)3月に江戸の河原崎座で初演された。配役は二代目市川九蔵(後の六代目團蔵)の富樫左衛門、八代目市川團十郎の義経、そして海老蔵の弁慶。作詞は三代目並木五瓶、作曲は四代目杵屋六三郎だった。ただ、この上演では富樫の番卒が時代物の軍兵姿であり、弁慶の水衣も棒縞であるなど(公開されている錦絵「源義経と武蔵坊弁慶と富樫左衛門」を参照)、今日の舞台とはいろいろな違いがあった。現在見られる型は明治時代、九代目市川團十郎により完成されたもので、これ以降、番卒は狂言風の衣装に、弁慶の水衣も黒地に金糸の梵字をあしらったものへと改められた。 かつては、市川宗家(團十郎家)のお家芸として、他家の役者が勝手に上演できなかった。しかし、九代目團十郎の没後、宗家に有力な後継者がいなかった事情もあって、他の役者が弁慶を演じるようになっていく。以後『勧進帳』は、弁慶・義経・富樫の三役を歴代の看板役者が生涯に一度は演じるという、歌舞伎の代表作の一つとなった。特に昭和初期の十五代目市村羽左衛門の富樫・六代目尾上菊五郎の義経・七代目松本幸四郎の弁慶は近来の白眉とされ、1943年(昭和18年)歌舞伎座で上演された舞台は映画にも記録された。

    源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関(石川県小松市)での物語。 義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。辿り着いた関で、弁慶は焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると言う。しかし、関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。これに憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする。 感心した富樫は先の弁慶の言葉を思い出し、勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問いただすが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。 富樫は通行を許すが、部下の一人が強力(ごうりき、義経)に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、その疑いを晴らす(初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後になり、弁慶の嘘を見破りながらその心情を思い騙された振りをする好漢、として演じられるようになった)。 危機を脱出した義経は弁慶の機転を褒めるが、弁慶はいかに主君の命を助けるためとは言え無礼を働いたことを涙ながらに詫びる。それに対して義経は優しく弁慶の手を取り、共に平家を追った戦の物語に思いを馳せる。そこへ富樫が現れ、先の非礼を詫びて酒を勧める。それに応じて、弁慶は酒を飲み、舞を披露する(延年の舞)。舞いながら義経らを逃がした弁慶は、笈を背負って富樫に目礼。主君の後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

    二部構成で、前半部は義経主従を救う弁慶とそれを訝しむ富樫との台詞劇で、主に俳優の力ある台詞回しや腹芸となる。後半部は危機を脱した後、義経と弁慶との絆を見せる情感あふれる場面と屋島の合戦を追想する勇壮な舞、そして酒を飲む弁慶と番卒のユーモラスな絡み合いを経て延年の舞、幕外の飛び六方で華やかに終わる舞踊劇となる。 「読み上げ」と「山伏問答」における雄弁術。義経の正体が見破られそうになる戦慄感。弁慶の姿に心を打たれて通過を許す富樫の情。義経と弁慶主従の絆の深さの感動。「延年の舞」の巧緻さと「飛び六方」の豪快さ。『勧進帳』は見どころが多く、観客を飽きさせない。それが常に最も人気が高い(=上演回数が多い)演目の一つとなっている所以である。その上演頻度の高さから安宅の関をもじって「またかの関」、あるいは必ず観客が入るため効き目ある薬湯に因み「独参湯」とも呼ばれている(なお、歌舞伎では元来『仮名手本忠臣蔵』を指して「独参湯」と呼んでおり、現在でもそのように呼ばれることも併記しておく)。 音楽的にも優れ、長唄の代表的作品で単独でも演奏される。特に義経が弁慶に謝意を示す「判官御手を取り給い」の件は全編中の聴きどころで、「唄うのでなく語るイキで」との口伝が伝わる。巨大な松の木をあしらった背景を前に、舞台正面の雛壇に長唄と囃方が揃いの裃で並ぶのは壮観で、錦上花を据えるの趣がある。この「長唄連中」に関してはアメリカ公演の際に(オーケストラがオペラやミュージカルのように舞台下にあるという先入観から)「ミスター・トガシの大勢のボデイガードは楽器も演奏するのですか。」と間違われたことがある。 美しい見得が多数見られるのも、この作品の見どころである。登場順に「天地人の見得」、「不動の見得」、「元禄見得」、「石投げの見得」、そして幕切れ引っ込みの「飛び六方」に臨んでの見得(「打ち上げの見得」と呼ばれることもある)。いずれも弁慶がする見得だが、唯一「天地人の見得」は弁慶・義経・富樫の三役による見得である。 また、役者が見得をする時には普通ツケ打ちの効果音が入るが、五代目海老蔵は能を意識して初演の際にはツケを一切打たせなかった。この演出が定着して『勧進帳』では今日でもそれが受け継がれ、弁慶の戦さ語りで「須磨明石」の件において石を投げたような型で決まる「石投げの見得」、および「飛び六方」に臨んでの見...

    義経と知りつつ弁慶の胸中を察した富樫は、涙を隠す思い入れで目をつぶり顔を上げて、一旦退場する。この演出は、八代目市川團十郎が弁慶を勤めた際、富樫で舞台を共にした四代目市川小團次が編み出したと言われている。 明治期の九代目市川團十郎・五代目尾上菊五郎・初代市川左團次、いわゆる團菊左による『勧進帳』は、歴史に残る名演であった。 九代目團十郎の弁慶に対する富樫役はまず二代目澤村訥升時代の六代目澤村宗十郎(死後追贈)、次いで初代左團次が演じていた。左團次の朗々たる台詞回しとその骨太な芸風は、團十郎の写実的な演技と見事な調和を見せて評価が高く、当代随一の演目として1887年(明治20年)の天覧歌舞伎で四代目中村福助(後の五代目中村歌右衛門)の義経を加えて演じられたほどであった。 やがて、左團次は明治座の経営に重点を置くようになり、團十郎との共演も減っていった。その後、1899年(明治32年)4月の歌舞伎座にて、團十郎は、それまで義経が持ち役であった五代目菊五郎を富樫役に選んだ。これには賛否両論があったが、菊五郎は自信満々に「尾上菊五郎の性根で演じて見せます。」と述べて、弁慶の心根を思いやる心理描写を強調した演出を行い、左團次の「勇の富樫」に対する「智の富樫」として評価を得た。この時の上演について、團十郎は「今度のような富樫に出会ったのは初めてで、本当に心地よく毎日舞台を勤めています。」と最大級の賛辞を送っている。ちなみに、團十郎の弁慶はこれが一世一代(生涯最後の上演)であり、五代目の富樫もまた、これ一度きりであった。 なお、左團次の富樫は長男の二代目市川左團次に受け継がれるが、二代目没後は途絶えてしまう。一方、菊五郎の富樫はその後、十五代目市村羽左衛門や後代の他の役者に受け継がれ、今日では富樫の一般的な型となっている。 弁慶の役は團十郎の没後、高弟の初代市川猿之助(後の二代目市川段四郎)と八代目市川高麗蔵(後の七代目松本幸四郎)にいち早く受け継がれた。このうち、猿之助は若い時に無断で弁慶を演じて師匠の團十郎から破門された経緯があった(後に許されて門下に復帰)。兄弟子と言うこともありまず猿之助、次いで高麗蔵(幸四郎)が演ずることとなった。 猿之助と幸四郎の弁慶にはさまざまな違いがあった。例えば「詰め寄り」の場面では、猿之助は上体を前傾にして、金剛杖は右手を上に、左手を下に...

    『星合十二段』以降、弁慶と勧進帳を主題として描いた作品がしばしば書かれた。具体的には、元禄15年中に中村座で『新板高館弁慶状』、安永2年2月中座の『日本第一和布刈神事』、天明4年中村座正月狂言の『筆始勧進帳』、寛政元年11月河原崎座『大候勧進帳』といった演目が上演された。以下その中でも主要な演目と目されているものに関して詳記する。

    弁慶が「読み上げ」で持ち合わせの巻物を朗々と読み上げる場面の連想から、あたかも原稿を読んでいるようで実は即興でものを言っているさまを、「勧進帳」という。タモリが赤塚不二夫の葬儀で8分にわたる弔辞を行ったが、この際手にしていた奉書紙は白紙であり、「現代の勧進帳」とも言われた。

  4. 烏山頭ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 烏山頭ダム
    • 概要
    • ダム施設諸元
    • 烏山頭水庫風景区
    • 外部リンク

    烏山頭ダムは、1920年に着工し1930年に完成した嘉南大圳の重要な水利工事の一つであり、台湾初期のダムの一つである。計画は日本人技術者の八田與一の手により策定され、嘉南平原の農業灌漑を主目的として建設された。ダムは曽文渓支流の官田渓上流に位置し、台南県官田郷、六甲郷、大内郷、東山郷にまたがる低地を利用し、大埔渓を集水している。下流に曽文ダムが完成してからは相互補完して運用されている。建設工事には大倉土木(現在の大成建設)を主とし、鹿島組(現在の鹿島建設)、住吉組、黒板工業の各社が参画した。建設途中の大正11年には爆発事故で50人余りの死者、100人余りの負傷者を出している。 八田は、ダム建設に際して作業員の福利厚生を充実されるため宿舎・学校・病院なども建設した。だが、爆発事故の翌年には関東大震災が起こり予算削減の為に作業員を解雇しなければならなかった。八田も有能な者はすぐに再就職できるであろうと考え、有能な者から解雇する一方で再就職先の世話もした。

    嘉南農田水利会の資料 及び烏山頭水庫水門操作規定よりダム施設の主な諸元を次に示す 1. ダム湖 1. 集水面積 58.24km2 2. 満水位面積 9.54km2 3. 常時満水位 58.18m 4. 最低水位 31.20m 5. 総貯水容量 154,158,000m3 6. 有効貯水容量 79,816,000m3 (民国99年測) 1. 堤体(大壩) 1. 半水力式アースダム(半水力式土壩) 2. 堤高 66.66m 3. 堤長 1,273m 4. 堤頂幅 9m 5. 堤底幅 303m 6. 堤体積 5,400,000m3 1. 洪水吐(溢洪道) 1. 越流堰高 58.18m 2. 越流堰幅 124m 3. 水路出口幅 18m 4. 水路全長 636m 5. 設計流量 1500m3/sec(水位・流量曲線より水位=約62m時の流量) 1. 旧放流ゲート施設(舊送水口) 1. 取水塔 12角形RC, 塔高 14.85m, 内径 8.48m 2. 取水トンネル 馬蹄形RC, 全長 154.54m, 幅 7.58m, 高 7.88m 3. 取水管及び取水バルブ 内径 2.73m×2条管, φ2.73mバタフライ弁(蝶形閥)×2基 4. 流量調節バルブ ニードル弁(針閥)×6基, 設置標高32.88m(No.1,3,4,6) 29.0m(No.2,5) 5. 最大放水量 62m3/sec 6. 1930年竣工 7. 操作規定によれば、新放流ゲート施設を優先稼働し、利水需要が上回った場合に旧放流ゲート施設を稼働させることになっている 1. 放水口新放流ゲート施設(新送水口) 1. 取水塔 直立式, 全長 30m, 幅 25.4m, 高 27.5m, 取水水位(上段 48m, 下段 40m) 2. 最大取水量 90m3/sec 3. 取水口水門 4門 幅 4m×高 4.2m 4. 取水管 内径4.1m(放水口φ3.8m×1本と水力発電φ3.6m×1本に分岐) 5. 放水管 φ1.9m×3条, ゲート弁(環閘閥)×3基 6. 流量調整バルブ ホロージェット弁(空注閥)×3基, 設置標高 30.5m 7. 最大放水量 30m3/sec×ホロージェット弁3基 8. 1997年竣工 1. 烏山頭水力発電所(烏山頭水力發電廠) 1. 出力 8.75 kW 2. 年平均発電量 42...

    1969年、嘉南農田水利会(水利組合)がダム資源を観光に活かすために烏山頭風景区を設立した。1979年には省級風景特定区に指定され、現在は西拉雅国家風景区(中国語版)の一施設として管理されている。入場可能な主な施設には次のようなものがある。 烏山頭水庫風景区 1. 八田技師紀念室 2. 大壩石堤(堰堤) 3. 溢洪道(洪水吐き) 4. 舊送水站(旧制水門・取水設備) 5. 火車頭(石材輸送に使われた蒸気機関車) 6. 八田與一銅像 7. 殉工碑 8. 天壇公園 9. 露営区(キャンプ場) 八田與一記念公園区 1. 八田宅、市川及田中宅、赤堀宅、阿部宅(2009年に修復された和風建築) 烏山頭水庫風景区は年中無休で入場料金は大人200台湾元(2019年現在)である。ただし、園内一部施設はそれぞれ定休日等が設定されている場合がある。

    西拉雅国家風景区 烏山頭ダム風景区
    西拉雅国家風景区 八田與一記念公園
    嘉義林區管理處 烏山頭水庫簡介(中文)ダム諸元等の情報
  5. 布引五本松ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 布引ダム
    • 概要
    • 歴史
    • 文化財
    • 交通アクセス
    • ギャラリー
    • 周辺情報
    • 関連項目

    神戸市中央区は六甲山地の麓、布引渓流(名水100選)を布引の滝(日本の滝100選)の上流で堰き止め、布引貯水池(ダム湖100選)を形成する。現在も水道専用ダムとして使用されている。 日本最初の本格的なダムで、世界に名を馳せた"KOBE WATER"をも象徴する建築遺産である。コンクリートダムであるが型枠用の石積をそのままに残した外壁と古典様式のテンテル(歯飾り)はヨーロッパの巨大な城壁を思わせ、山麓の優れた景観の構成要素となっている。 夜間はライトアップが行われ、北野町と布引ハーブ園を結ぶ神戸布引ロープウェイからも眺めることができる。

    1887年(明治20年) - パーマーによる神戸市の近代水道計画作成
    1892年(明治25年) - 工部大学校教授の英国人ウィリアム・バートンによる計画案(土堰堤:内面石張、外面芝張、堰堤高65尺、貯水容量約31万トン)作成
    1898年(明治31年) - バートン案を基にし、吉村長策(顧問技術者)及び佐野藤次郎(主任技師)設計による大規模なコンクリート堰堤として着工

    布引五本松ダムを含む水道施設は、2006年(平成18年)7月5日、「布引水源地水道施設」の名称で国の重要文化財に指定された。布引五本松ダムのほか、分水施設、橋梁、土地などを含めた水道施設全体が文化財として評価され指定されたものである。指定範囲には以下のものを含む。 1. 布引水源地水道施設 3基6所 1.1. 分水堰堤 1.2. 分水堰堤付属橋 1.3. 分水隧道 1.4. 締切堰堤 1.5. 放水路隧道 1.6. 五本松堰堤 附:管理橋、取水管2点、排泥管、排泥管バルブ、矢板2枚 1.7. 谷川橋 1.8. 雌滝取水堰堤 1.9. 布引水路橋(砂子橋) 1.10. 附:図面8枚 1.11. 水道用地520,010平方メートル(用地内の石造擁壁、旧門柱、旧門衛所を含む)

    神戸布引ロープウェー 風の丘駅徒歩10分
    山陽新幹線 新神戸駅徒歩30分
    神戸市営地下鉄西神・山手線 および北神急行電鉄新神戸駅 徒歩35分
    五本松ダムと管理橋
    五本松ダムと管理橋
    五本松ダム
    締切堰堤
  6. 永定河 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 永定河

    永定河(えいていが、簡体字: 永定河, 拼音: Yŏngdìng hé、満州語:enteheme toktoho bira)は、中華人民共和国を流れる河川のひとつで、華北の大河・海河の支流。古くは㶟水(るいすい)と呼ばれ、隋代には桑乾河、金代には盧溝と呼ばれた(北京市郊外でこの川に ...

  7. 寄進 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 寄進
    • 寄進地系荘園
    • 永平寺
    • ピピンの寄進
    • バカラ
    • 関連項目

    日本の歴史において、寄進の行為は、荘園制度が広く普及する要因となった寄進地系荘園を生み出した。寄進地系荘園は、11世紀前後から、田堵と称された古代後期の有力農民層が中央貴族や大寺社に田地を寄進する動きのなかで登場した。

    寄進された土地に建てられた仏教寺院は釈迦の時代の祇園精舎など多数存在するが、日本での著名なものとしては曹洞宗の本山永平寺の例がある。鎌倉時代中期、越前国志比庄(現在の福井県永平寺町)の土豪波多野義重は、領地の一部を道元に寄進した。道元は、寛元2年(1244年)の夏、この地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を開創し、のちに吉祥山永平寺と改めた。

    フランク王国の国王でカロリング朝の始祖であるピピン3世は、ローマ教皇ステファヌス2世によるフランク王位承認の見返りとして、755年、ランゴバルド王国のアイストゥルフスと戦って勝利し、この戦いで獲得したラヴェンナをローマ教会に寄進した。これを、「ピピンの寄進」(英: Donation of Pepin , 伊: Promissio Carisiaca )といい、ラヴェンナはのちの教皇領(羅: Civitas Ecclesiae )のもととなった。 なお、教皇領については、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が教皇シルウェステル1世に寄進したという「コンスタンティヌスの寄進状」(羅: Constitutum Donatio Constantini )という古文書があったが、のちに教皇ステファヌス2世とその側近による偽書であることが判明している。

    クリスタルガラスで知られるフランスのバカラ(仏: Baccarat )は、1305年、サルム家のブラモン領主アンリによるメッス司教座への寄進地をもととして発展した。ガラスの製造はフランス国王ルイ15世の勅許による。

  8. 板橋ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 板橋ダム

    板橋ダム 所在地 河南省 駐馬店市 駅城区板橋鎮 位置 河川 汝河 ダム諸元 ダム型式 大(二)型水庫 堤高 50.5 m堤頂長 120 m 流域面積 768 km²総貯水容量 675,000,000 m³ 有効貯水容量 256,000,000 m³ 利用目的 治水 発電所名 (認可出力) (3200kW) 着手年/竣工年 ...

  9. 八ッ場ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 八ッ場ダム
    • 沿革
    • ダム建設反対運動史
    • 平成期の状況(民主党政権前まで)
    • 民主党政権による事業計画の転換
    • 現状
    • やんば館
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    吾妻川流域の多目的ダム建設計画は、1949年(昭和24年)に経済安定本部の諮問機関である治水調査会の答申に基づき建設省(現・国土交通省)によって手掛けられた「利根川改訂改修計画」において、1952年(昭和27年)に発表された。利根川に10箇所のダムを建設する利根川上流ダム群計画に準拠しており、カスリーン台風級の水害から東京および利根川流域を守ることが目的とされた。 当初は堤高115.0 m、総貯水容量73,100,000 tのダムとして計画されていた。だが支流の白砂川や万座川から流入する強酸性の河水のために吾妻川本流には当時の建設技術ではダム建設ができず、いったん計画は凍結された。建設省は代替案として白砂川における「六合(くに)ダム計画」または温川における「鳴瀬ダム計画」として吾妻川支流へのダム計画を進めていたが、両計画とも貯水容量や水没物件の点で問題があったため、計画ははかどらなかった。 しかし、1965年(昭和40年)に品木ダムおよび草津中和工場を中心とする中和事業「吾妻川総合開発事業」によって吾妻川の水質が改善したことから、1967年(昭和42年)現在の地点にダム建設を決定した。この間、首都圏の水需要増大に対応するため計画規模を拡大し、矢木沢ダム(利根川)・下久保ダム(神流川)に次ぐ規模の1億トン級のダムとして事業が発表された。だが、計画発表以降、水没地域である長野原町において頑強なダム建設反対運動が起きた。 昭和40年代からの実施計画調査や地元住民の生活再建案調整を経て、1986年(昭和61年)、「八ッ場ダムの建設に関する基本計画」が2000年(平成12年)の事業工期として策定された。その後、2001年(平成13年)の第1回変更で工期が2010年(平成22年)に延長され、2004年(平成16年)の第2回変更で建設目的に「流水の正常な機能維持」が新たに追加されると同時に、総事業費が2110億円から4600億円に増額修正された。2008年(平成20年)の第3回変更では建設目的に「発電」が追加されると同時に、工期が2015年(平成27年)に再延長された。 2014年(平成26年)8月7日、国土交通省関東地方整備局は一般競争入札で清水建設・鉄建建設・IHIインフラシステム3社JVが本体工事を342億5000万円で落札したと発表し、2019年度の完成を目指すとし...

    東の八ッ場、西の大滝

    このダムが当初計画どおりに完成すると、川原湯温泉街を始めとする340世帯が完全に水没するほか、国指定名勝である吾妻渓谷の中間部に建設されるので、その半分以上が水没し、一挙に観光資源が喪失することが心配された。ダムによって地元に還元される固定資産税が、水没地を抱える長野原町ではなく、ダム堤の予定地がある下流の吾妻町(現・東吾妻町)に落ちることも問題であった。また、首都圏に住む人々のために、水没地の住民が犠牲になることには断固反対するという声が地元では多かった。このようなことから、町議会の「建設絶対反対決議」を始めとして、町全体を巻き込み、長期にわたる反対運動が展開された。 この間、利根川上流ダム群の中核となる予定だった利根川本川の「沼田ダム計画」が、激しい反対運動によって廃止されている。川原湯温泉街では、建設省職員が歩くと鐘や太鼓を叩かれて追い返されるような状態が続いた。この頃より関係者の間では、全く進捗しないダム事業の代名詞として「東の八ッ場、西の大滝(大滝ダム。紀の川本川・国土交通省近畿地方整備局)」の言葉が囁かれるようになった。なお、大滝ダムは2004年(平成16年)に暫定的...

    自民党政権の内部対立

    自民党政権の内部でも、八ッ場ダム建設の是非をめぐる対立があった。1974~76年の三木武夫内閣では、金丸信・国土庁長官が、八ッ場ダム計画を推進していた。当時、水不足の東京では、工業用水などを地下水に依存しており、地盤沈下で生じた海抜ゼロメートル地帯が江東区周辺に広がっていた。八ッ場ダムには、東京の水不足を解消し、これ以上の地盤沈下を防ぐという目的もあった。しかし、中曽根康弘・自民党幹事長は建設に反対で、「閣議に出すことまかりならぬ」と金丸に抵抗した。建設予定地の長野原町は中曽根の選挙区(当時の衆議院群馬3区)だった。金丸は幹事長室に出向き、中曽根に向かって「あんたは群馬県の幹事長なのか、日本の幹事長なのか。東京は水が不足している。足りないところへ供給するのは政治の責任じゃないか。群馬県にも賛成してくれている御仁(福田赳夫)がいますよ」と述べた。中曽根は、橋口収・国土事務次官に電話して圧力を加えるなどの抵抗をした。この対立をきっかけに、金丸と中曽根はしばらく疎遠になった。

    補償基準妥結への流れ

    1974年(昭和49年)には、ダム建設反対の立場をとる樋田富治郎が町長に選出され、着工の目途はさらに遠のいた。一方で行政側は、川原湯温泉を始めとする地域の生活再建を行うことがダム着工の絶対条件であるという認識から、1980年(昭和55年)に群馬県が生活再建案を提示したのを皮切りとして、地元の生活再建策を次々と打ち出した。このような対策を支援するための法律的な枠組みとして、1973年(昭和48年)に水源地域対策特別措置法が制定されている。この法律によって、受益者である下流部の地方公共団体の負担金によって様々な生活再建対策事業を行うことが可能となった。 また昭和40年代には、建設省が、吾妻峡を可能な限り保存する観点から、ダムの建設場所を当初の予定よりも600 m上流に移動させることを表明した。その結果、ダム本体が長野原町に収まったほか、吾妻峡の約4分の3は残り、一番の観光スポットである鹿飛橋も沈まずに残ることとなった。1992年(平成4年)には、ダム建設推進を前提とした協定書が長野原町・群馬県・建設省の間で締結された。その2年前の1990年(平成2年)には、ダム建設賛成の立場の田村守...

    ダム本体および付帯工事

    1994年(平成6年)、建設省はダム本体工事に伴う付帯工事に着手した。ダム建設に伴い国道145号が水没して集落がダム湖で分断されるため、湖岸となる林、長野原、川原畑側に地域高規格道路としての位置付けを持つ国道145号八ッ場バイパスと群馬県道376号林長野原線、対岸の川原湯側に群馬県道375号林岩下線・群馬県道377号川原畑大戸線およびJR東日本吾妻線の付替線が建設され、2014年(平成26年)10月までにほぼ完成している。両岸を結ぶ道路橋として下流から順に、県道川原畑大戸線の一部をなす八ッ場大橋(湖面1号橋、2014年〈平成26年〉10月開通)、県道林岩下線の一部をなす不動大橋(湖面2号橋、2011年〈平成23年〉4月開通)、国道145号八ッ場パイパスの一部をなす丸岩大橋(湖面3号橋、2010年〈平成22年〉12月開通)が建設された。また、転居を余儀なくされる住民のための代替地造成や、防災ダム建設なども同時に進められた。 旧来の国道145号は土砂災害の危険性から吾妻渓谷付近が連続雨量120 mm以上で通行止めとなっていたため、八ッ場バイパスとJR吾妻線の付替線についてはトンネル区...

    建設の是非

    公共事業再評価に伴っていくつかの大規模ダム計画が中止されたことや首都圏の水需要減少、吾妻川の水質が元々良くないこと、洪水対策は堤防などで足りること、ダム建設地の地盤が火山層で脆弱であることなどを理由にダム建設に懐疑的な意見も根強かった[誰?]。 対して関係都県はダム推進の姿勢を崩さなかった。その理由としては、当時のダムとしては利水の面で開発単価が安かったこと、利根川全体の治水対策の中で吾妻川流域を中心とした豪雨への備えとして八ッ場ダムが重要であること、水資源はなお十分とは言えないことが挙げられる。 例えば東京都の場合、2008年時点では水資源に余裕があるが、主に多摩地区で利用されている地下水40万トンについて、水質汚染・地盤沈下のために、将来的に利用をやめる必要があるとしている。 また埼玉県の場合は、安定水利権が70%、八ッ場ダムに拠る暫定水利権が29%、その他が1%と、八ッ場ダムの水利権への依存率が他県と比べて圧倒的に高いだけでなく、平成以後もなお渇水により、利根川水系では6回の取水制限が発生している。そのうち、平成13年度の場合は、安定水利権で10%、暫定水利権の20%にも達...

    川原湯温泉

    川原湯温泉では自然湧出の源泉がダムに沈むため、ボーリング調査によって新源泉が掘り当てられているが、湯量・泉質ともに旧源泉とは異なっている。 ダムが完成した後の新たな観光地としての吾妻渓谷・川原湯温泉へ訪れる観光客数見込みに関し、国土交通省は八ッ場ダム工事事務所が2008年11月に実施した「吾妻渓谷の景観改善への取組に関するアンケート調査」および川原湯温泉に宿泊する観光客数を基に、年間約57万人に達する見込みとした。 2006年(平成18年)時点で、町が移転する進過渡期の状況に置かれていた地元住民の間では「この中途半端な状況から早く抜け出したい。国の政策に逆らうことは不可能。ダム事業を少しでも速く進めることでなるべく早い生活再建を図るしかない」という声もあった[誰?]。同年夏、国・県・長野原町は各種施設の維持管理費負担等も考慮した上で将来的にわたって望ましい生活再建策を再構築する必要があることなどを理由に、水源地域対策特別措置法などによる生活再建事業の縮小案を提示した。これに対して地元住民の間ではあきらめと不安の声を示す意見もあったが、これを機として新たな居住予定地の整備計画の具体...

    マニフェストによる事業中止

    2009年8月30日に投開票が行われた第45回衆議院議員総選挙では、マニフェストで「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止。時代に合わない国の大型直轄事業は全面的に見直す」と掲げた民主党が308議席を得て衆議院第一党となったことを受け、国土交通省の事務次官谷口博昭は、9月3日午前に入札を延期するよう発注者である関東地方整備局長に対して指示、ダム本体工事の入札は、民社国連立政権の国土交通大臣の判断・指示を待つ意向を明らかにした。9月16日、鳩山由紀夫内閣が正式に発足、国土交通大臣に就任した前原誠司は、皇居での認証式後の就任会見において八ッ場ダムの事業中止を明言し、鳩山由紀夫も翌17日の記者会見で、これを支持した。 新政権発足に伴う国の突然の方向転換に対し、永年にわたる国家政策との対立の末に苦渋の判断を下して代替地転居と事業執行を待つばかりとなっていた関係者の反発は大きく、長野原町議会は9月17日、「八ツ場ダム建設事業の継続を求める意見書」を採択した。また、水源地域対策特別措置法に基づき事業資金の一部を負担した共同事業者である群馬県知事の大沢正明は同日、「地元住民の方々の意見、関係市町村、共同...

    最大流量の計算をめぐって

    2011年1月、建設の根拠となってきた利根川の最大流量(基本高水:きほんたかみず)が過大ではないかとの指摘が出た。この点、国土交通省は中間報告で3%減る旨の再計算結果を公表したが、拓殖大学准教授の関良基(森林政策)が計算したところ、9%減るという結果になった。国土交通省の再計算の基になった図面が非公開であることもあり、3%減という計算結果は信頼性を欠くと指摘された。 算出関連の資料がないとして、国土交通大臣の馬淵が再検証を指示。2011年6月20日、日本学術会議の分科会は、国土交通省による流量の再計算結果は妥当である報告書をまとめた。独自に行った分科会の計算でも、国交省の再計算結果とほぼ同じ結果となり、「計算手法に誤りがないことを確認した」としている。

    ダム建設事業再開決定

    2011年9月13日、国土交通省関東地方整備局は利根川流域6都県の知事らとの事業の検証を進める検討会において、治水と利水の両面でダム建設が最も有利だとする評価結果を示した。 この評価結果に対して、民主党政調会長の前原誠司は自身が国土交通相時代に工事中止を宣言したが、国交省関東地方整備局が「建設が最も望ましい」とした検証結果を発表したことについて、記者会見で、「なぜこのタイミングなのか。事前説明もない。極めて不愉快だ」と述べた。前原は「大臣(政権)が変わって10日もたたない時期に(検証結果を)出してくるのはどういうことなのか」と指摘。さらに「当時の大臣に事前に説明がないことも、極めて不愉快な思いだ」と述べた。 2011年11月、関東地方整備局事業評価監視委員会は学識経験を有する者の意見聴取、関係住民の意見聴取、パブリックコメントなどを行い、八ッ場ダム建設事業の検証に係る検討報告書を作成した。検討報告書の総合的な評価は以下のとおりである。 2011年11月30日、関東地方整備局事業評価監視委員会は、この検証結果を答申した。12月9日、東京都知事石原慎太郎を始め流域6県の知事は、「八ッ...

    試験湛水

    八ッ場ダムは、2019年(令和元年)10月1日から、ダムの本格的な運用を始める前に、実際に水を貯めてダム堤体および貯水池周辺の安全性を確認するための試験湛水が開始された。国土交通省関東地方整備局によると、この試験湛水は当初3 - 4か月かけてダムの水位を平常時最高貯水位(常時満水位)まで上昇させた後、最低水位まで降下させる予定であった。実際に貯水位を上昇させたり下降させたりして設備の安全性を確認したほか、流木を処理し、2020年3月9日に終了。翌10日から貯水に移行した。 なおこの間、2019年10月に日本列島を通過した令和元年東日本台風(台風19号)の影響で水位が急上昇する状況が起きた。総貯留量約7500万 m3、最大流入量約2500 m3/sを貯め込み、ダムの貯水池は518.8 mから573.2 mまで、約54 m(10月11日2時 - 13日5時)水位が上昇した。なお、満水時の水位は標高583 mである。また長野原観測所では、累加347 mm(10月11日2時 - 13日5時/時間最大37 mm - 12日18時)の降雨を観測した。 その後、国土交通省関東地方整備局から20...

    観光

    水没した5地区への見返りに地域振興施設(道の駅八ッ場ふるさと館、川原湯温泉あそびの基地NOA、やんば天明泥流ミュージアム、八ッ場湖の駅丸岩、やんば茶屋(ダムサイト))が建設された。ダム管理所には、なるほど!やんば資料館が併設され、湖の駅には、ダム湖を遊覧する水陸両用バスが発着する。また、このほかにも吾妻線の旧線路を活用した自転車型トロッコ アガッタンがある。

    八ッ場ダムが持つ役割や現状と、水没予定地に住む住民の苦労などを広報する目的で、やんば館が1999年4月30日に長野原町内のダム建設に伴う水没予定地に建設された。に開館した。鉄骨2階建て、延べ床面積が427m2で、総工費は2億円。建設省が建設し、八ッ場ダム工事事務所が管理していた。 入館料は無料であり、開館から1,633日後の2003年10月19日には延べ入館者数が10万人を突破した。この間における1日当たりの平均入館者数は約61人であった。 2009年9月16日に国土交通大臣に就任した前原誠司のダム中止発言以降、ダム建設予定地を一目見ようと訪れる観光客が急増し、それまでは休日でも1日300人ほどだったやんば館の入館者数が、9月21日には開館以来最多となる1,200人を記録した。 月間入館者数は、9月が1万2813人、10月が約2万5000人、11月が2万9820人と推移した。10月の月間入館者数は、2008年度の年間入館者数である2万4647人とほぼ並び、11月の月間入館者数では上回った。また2009年度の年間入館者数は、過去最多の11万3293人となった。 なお、やんば館の敷地内からも眺めることができる、高さ87 mの不動大橋(湖面2号橋)も人気となっていた。 2013年4月27日に営業を終了し、広報センターの機能は同日開館した道の駅八ッ場ふるさと館内に移転した。

    『日本の多目的ダム』1963年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1963年(昭和38年)
    『日本の多目的ダム』1972年版:建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編。山海堂 1972年(昭和47年)
    『ダム便覧 2006』:日本ダム協会 2006年(平成18年)
    『八ッ場ダムは止まるか-首都圏最後の巨大ダム計画』:八ッ場ダムを考える会編。岩波書店 2005年(平成17年)
    八ッ場ダム - ダム便覧
    竹本弘幸、「「行政災害」―八ッ場ダム検証に見る国交省河川部門の不正報告について 『日本地理学会発表要旨集』 2012年度日本地理学会春季学術大会 セッションID:521, doi:10.14866/ajg.2012s.0_100287, 日本地理学会
  10. 黒部ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 黒部ダム
    • 概要
    • 沿革
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    • 観光と登山
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    • 外部リンク

    日本を代表するダムの一つであり、富山県東部の長野県境近くの黒部川上流に関西電力が建設したコンバインダム。水力発電専用ダムで貯水量2億立方メートル(東京ドーム160杯分)、高さ(堤高)186メートル、幅(堤頂長)492メートルである。日本でもっとも堤高の高いダムで、富山県で最も高い構築物でもある。黒部ダム完成により、総貯水量2億トンの北陸地方屈指の人造湖「黒部湖(くろべこ)」(ダム湖百選)が形成された。 総工費は建設当時の費用で513億円。これは当時の関西電力資本金の5倍という金額である。作業員延べ人数は1,000万人、工事期間中の転落やトラック、トロッコなど労働災害による殉職者は171人にも及んだ(建設現場以外でも、宿舎(飯場)が雪崩の被害を受け87名死亡している)。 1956年(昭和31年)着工当時、「電力開発は1万kW生むごとに死者が1人でる」と言われていた。完成時、25万kWを生み出した黒部ダムの建設工事で171人の殉職者を出したことは、人が行くこと自体が当時命がけだった秘境の黒部峡谷でのダム建設の困難さを示している。また当時、黒部峡谷のダム建設現場では「黒部にケガはない」と言われていた。落ちたらケガではすまないという意味であり、工事のミスは即死を意味した。 前述のように「黒四ダム」の別称もあるが、関西電力は公式サイトなどでも「黒部ダム」としている。また、日本ダム協会によれば、「黒四ダム」の名は仮称として用いられ、後に正式名称が「黒部ダム」となった。完成時には「黒四ダム」と呼ばれることが多かったが、最近では一般に「黒部ダム」と呼ばれるようになっている。また、かつては図鑑などで「黒部第四ダム」と書かれていたこともある。

    黒部ダムが建設された地点は黒部川の水量も多く、水力発電所設置に適した場所であることは大正時代から知られていた。ただ、第二次世界大戦があり、黒部川の開発は下流の仙人谷ダムおよび黒部川第三発電所に留まっていた。また、計画立案から建設開始までには、景観保護を訴える国立公園行政当局や国立公園協会、冷水の農業への影響や水害を心配する黒部川流域住民等による建設反対の動きもあった。 1928年(昭和3年)、日本電力がダムの高さ 120m、最大使用水量30m3/秒、最大出力 126,000kW を立案し、立地調査が行われた。しかし、国立公園内であることから国立公園行政当局および国立公園協会などは建設に反対した。1928年11月18日、黒部景観問題協議会が反対集会を実施。1941年には戦時体制になり計画は消滅した。 1945年以降、日本の電力需要のほとんどは水力発電所により賄われていたが、渇水になると各地で停電が相次いだ。関西地方では、1951年の秋に深刻な電力不足に陥り、一般家庭で週3日の休電日が設けられたが、休電日に関わらず連日のように停電していた。こうした状況は高度経済成長期を迎えた昭和30年代にも続き、工場で週2日、一般家庭では週3日、電力使用制限が行われていた。 1949年頃、日本発送電が黒部第四発電所建設計画を復活させ調査を再開した。ダムの高さ176 m、体積213万 m3、有効貯水量1億4,700万 m3、最大使用水量30 m3/秒、有効落差533 m、最大出力137,000 kW の1928年の計画を超える規模のダムと発電施設が立案された。この計画案は「KAOS」とも呼ばれたが、日本発送電の解散により頓挫した。 1950年8月上旬から行われた現地調査以前のKAOS構想は、針ノ木峠の下に延長5キロメートルの針ノ木トンネルを掘削して長野県側にも導水、発電や松本盆地の灌漑用水に利用する計画案であった。針ノ木トンネルの工事は、技術的に見て難しいものではないとの見通しが立てられていたが、大町トンネル工事が破砕帯に直面して難工事となったこともあり立ち消えとなった。 1951年関西電力は日本発送電の黒部第四発電所建設計画を引き継ぎ、1951年9月から再調査が実施された。 1955年になると建設に向けた具体的な動きが加速し、黒部第四発電所建設計画が国、県で承認され、1955年6...

    当初の計画では単純な円弧状のアーチダムであったが、1959年のマルパッセダム決壊事故を受け、両岸の基礎となる岩盤を調査したところ亀裂が見つかり、予想以上に脆いことが判明。設計変更を実施し、両側がウイング状に変更となった。ウイング部はアーチダムではなく重力式ダムである。またアーチ部を川下に向かって傾斜させることにより、水圧を両岸に逃がすのではなく、下向きの力へと変化させることでダム下部の岩盤に支えさせる構造となっている。 ダムから川へ放水する際には霧状にしている。これは放水の勢いで川底が削れてしまうのを防ぐためである。 ダム建設時、関西電力に勤務していた電力土木技術者・技術士である一方日本美術家連盟会員や一水会会友でもあった熊沢傳三は自著で、黒部ダムのダムの堤頂歩道の線形とハンドレールについて実際にデザインを任されたことを記述して残してある。事の経緯は堤頂歩道をどうするか、当時橋梁の手摺などの資料を中心に参考資料を収集していた上司から意見を求められ、自著に書いてある私見をいくつか述べると、早速その日の夕方から実際に設計を任されたというもので、6時間ほどかけてその特徴を加味してデザインを仕上げたとしている。

    黒部ダムは日本を代表するダムの一つであり、周辺は中部山岳国立公園でもあることから、立山黒部アルペンルートのハイライトの一つとして多くの観光客が訪れる。黒部ダムに到達するためには、自家用車で到達できる最奥の場所からだと、富山県側からでは立山駅でケーブルカー乗車→美女平駅でハイブリッドバス乗車→室堂駅でトロリーバス乗車→大観峰駅でロープウェー乗車→黒部平駅でケーブルカー乗車と4回の乗り換えが必要であるが、長野県側からは扇沢駅から発車する電気バスのみでたどり着ける(いずれ側からも登山装備で徒歩でアクセスする場合を除く)。 ダムの各観光施設は関電アメニックスくろよん観光事業部が運営している。6月下旬から10月中旬頃までダム湖の水を放流する「観光放水」が行われ、ダム展望台、放水観覧ステージ、新展望広場の各所から見学することができる。新展望広場特設会場内では石原裕次郎記念館から移設された映画「黒部の太陽」のトンネルセットのレプリカを展示しており、ダム建設に関する映像やパネルを見ることができる。 レストハウスのレストランではダム湖をモチーフにした名物の「黒部ダムカレー」を食べることができる。また、黒部ダム左岸側から上流側に数分歩いた地点には遊覧船ガルベの乗り場があり、黒部湖を乗船時間30分ほどで周遊することができる。厳冬期における湖面凍結による損傷を避けるため、晩秋・初冬になるとガルベは湖面から引き揚げられ、翌年初夏に運航を再開する。 遊覧船乗り場からさらに上流側には湖畔遊歩道が続き、山小屋のロッジくろよんで折り返して往復1時間ほどで散策できるが、ロッジくろよんより先は登山装備を要する)急峻な地形を結ぶ登山道となっている。1976年には沢の増水により26人が取り残されるなど遭難事故も発生しやすい環境にある。 登山客の間では、室堂駅に向かう立山黒部アルペンルートの中継地点という位置づけのほかに、アルペンルートを利用せずとも一ノ越を経由して立山に登れる直登ルート、上流側の黒部湖沿いを歩いて至る赤牛岳の読売新道方面ルート、下流側の下ノ廊下沿いを歩く日電歩道ルートの起点の観光地としても親しまれている。直登ルートの道中からは黒部湖を俯瞰することができ、黒部ダム左岸側から立山の雄山山頂までの所要時間は徒歩6時間45分。読売新道方面ルートは、ロッジくろよんのさらに上流側の平の小屋の渡し場...

    建設時におけるスケールの大きさから日本中の注目を集めていた黒部ダムは、高度成長期の映像・中継機器の発達に伴い、様々な形で映像化されてきた。 今日、建設時の模様を(再現含め)映像として見られるものとしては、下記のプロジェクトXのビデオ・DVDや、記録映画『くろよん - 黒部川第四発電所建設記録』などである。同作品のダイジェスト版は黒部ダムレストハウス3階にて『くろよん物語』として常時上映されている。また、黒部ダムオフィシャルサイトでも、インターネットを通じてダイジェスト版を6章に分けて見ることができる。なお、完全版はかつて、くろよんロイヤルホテル(当時、現在のANAホリデイ・インリゾート信濃大町くろよん)の館内放送で上映されていたが、現在はホテルブランドなどの変更に伴い実施していない。

    建設による殉職者の慰霊碑
    放水する黒部ダム
    ダム湖百選のプレート
    黒部ダムの中心
  11. 其他人也搜尋了