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  1. 台湾 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/台湾

    台湾(たいわん、繁: 臺灣/台灣; 台: 台灣; 簡: 台湾; 英: Taiwan )は、東アジアに位置する島嶼(台湾島)、台湾島を中心に定義される幾つかの地域としての名称、および中華民国に対する通称の国名である。 [1] 1945年、当時台湾を統治していた大日本帝国が第二 ...

    • 3,952 m (12,966 ft)
    • 太平洋
    • 136位
    • 36,197 km² (13,976 sq mi)
  2. 石淵ダム - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/石淵ダム
    • 地理
    • 着工までの経緯
    • 補償
    • 施工
    • 目的
    • 石淵湖
    • アクセス
    • 参考文献・資料
    • 関連項目
    • 外部リンク

    ダムが建設された胆沢川は北上川中流部における主要な支流の一つである。栗駒山系を形成する焼石岳(標高1,548メートル)を水源として東南に流路を取り、ダム地点上流で南西より流れ来る前川を合わせダム地点を通過すると面積約2万ヘクタールにもおよぶ日本最大級の扇状地・胆沢扇状地を形成。以後は概ね北東に流れ、奥州市水沢区において北上川に合流し太平洋へ注ぐ。流路延長は約48キロメートル、流域面積は約320平方キロメートルである。ダムは前川との合流点下流、胆沢扇状地の扇頂部に建設された。

    東北地方最大の河川である北上川は岩手県・宮城県を主な流域とするが、中流部と下流部の間、岩手県一関市狐禅寺(こぜんじ)[注 2]から宮城県登米市に至る約27キロメートル区間は急激に川幅が狭くなる。この「狐禅寺狭窄部」の存在と狭窄部より下流における北上川の河川勾配が緩やかなことで、狭窄部より上流部の一関市は慢性的な水害常襲地帯であった。北上川流域面積(10,150平方キロメートル)の7割を占める岩手県内(北上高地や奥羽山脈東側)で大雨が降ると各支流を経て北上川に到達した洪水は一関市に集まる。この一関市狐禅寺におけるピーク時の基本高水流量は毎秒1万3600立方メートルであるが、狭窄部は毎秒6,300立方メートルの流下能力しかない。このため狭窄部で処理し切れない洪水が一関市内に湛水(たんすい)する状態となり、古くより洪水の被害に悩まされていた。根本的な解決法は狭窄部の開削による流下能力の増強であるが、約27キロメートルにもおよぶ狭窄部の開削は非現実的であった。 当時河川行政を管掌していた内務省は北上川水系における治水対策として北上川改修事業を実施。従来宮城県石巻市にて太平洋に注いでいた北上川本流を追波湾側へ付け替える新北上川開削工事を1934年(昭和9年)に完成させ、下流部の流下能力増大を図ったが、一関市以北の北上川上流部における治水対策も急務となっておりこれに対応するため1941年(昭和16年)より北上川上流改修計画を立案した。この計画は従来の北上川改修事業と異なり、東京帝国大学教授・内務省土木試験所[注 3]所長の物部長穂らが提唱し内務省内務技監であった青山士(あきら)が採用した河水統制事業制度に沿った計画であった。 河水統制事業は河川に多目的ダムを建設し、従来別個に実施していた治水事業と利水事業(灌漑・水力発電など)を統合することで効率的な河川開発を行い流域の開発を促進するというものであり、既に青森県[注 4]や香川県[注 5]、山口県[注 6]、神奈川県[注 7]といった地方自治体において着手されていた。やや遅れて内務省は北上川を始め琵琶湖を含む淀川、由良川、名取川など日本の主要な河川を国直轄改修河川に指定、多目的ダムによる河川開発を開始した。北上川水系では岩手県内の上流域を対象として、北上川本流と主要な支流である雫石川、和賀川、猿ヶ石川そして胆沢川に多目的ダ...

    1945年より石淵ダムの建設事業が開始されたが、ダム建設に伴い13世帯が移転を余儀なくされた。しかし補償問題については大きな禍根を移転住民たちに残すことになる。通常、ダム事業を開始するに当たり工事を行う前には水没予定地住民に対する補償交渉を行う。しかし石淵ダムの場合は食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、当時の事業者である内務省、後に内務省解体後河川行政を承継した建設省[注 9]の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権の尊重という概念はまだ浸透していなかった。さらに水源地域対策特別措置法などダム補償に関連する法整備は、ダム事業自体の法整備も未熟であったことから皆無に等しい状況であったことが事業者の冷淡な補償姿勢の背景にある。 水没予定地の住民に対する補償交渉は1950年(昭和25年)10月に妥結された。しかし当時の日本の経済状況は急激なインフレーションの中にあり物価上昇が著しく、最初は高額であった補償金はインフレーションによる物価変動で貨幣価値が激減し住民が満足できる妥結内容ではなくなった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ、全財産を喪失した住民も現れた。加えて工事中の住民安全対策も十分ではなく、岩石発破の度に小学校では発破の爆音や振動を恐れた児童たちが机の下へ隠れ、遂には発破によって飛来した岩石が地元女性に直撃して死亡するという事故も発生した。こうした移転住民・地元住民の苦難に対する建設省の報恩意識は欠如しており、1950年秋に行われた定礎式には地元住民が全く招かれず、完成を記念して製作された記録映画にも移転住民への感謝の言葉が一言も挿入されなかった。わずかな補償金では生活が困窮する住民たちは再補償を国に求めたが、最終的に再補償は認められなかった。 石淵ダムにおけるこうした建設省の補償交渉に対する姿勢は、後年批判の対象となった。1963年(昭和38年)に科学技術庁[注 10]資源局が刊行した『石淵貯水池の水没補償に関する実態報告』には、以下の文言で事業者である建設省の姿勢を厳しく批判している。 また、地元であ...

    内務省は胆沢川にダムを建設するに当たり、まずは建設可能な地点の選定を試みた。胆沢川は前川合流点までは峡谷を形成するが、尿前(しとまえ)川合流点を通過すると次第に胆沢扇状地が形成される。尿前川合流点より下流の山間部にダムを建設することについては扇状地の構造上、谷が次第に広くなることから当時の土木技術ではダムの長さ(堤頂長)が長くなるため当初設定していたダム本体の規模では貯水量が十分確保できなかったため断念した。一方前川合流点より上流については貯水池を形成できる適地が存在せず、結果前川合流点にある猿岩(後述)地点と現在のダムサイト地点が十分な貯水容量を確保できる好適地として最終候補に挙げられた。続く基礎地盤の調査で猿岩地点ではダム建設に耐えられるだけの地盤の強度が足りなかったが、現在のダムサイト地点では十分な強度を有することが判明したことから、当時の土木技術でダム建設が可能な唯一の建設地点として現地点が決定された。

    石淵ダムの目的は洪水調節、灌漑、水力発電の三つである。先述した通り石淵ダムは灌漑に対する効果が大きいために戦後直ちに着手された。その後河水統制事業を発展させた河川総合開発事業がアメリカのテネシー川流域開発公社 (TVA) を参考として日本各地で活発になり、治水だけではなく灌漑、水力発電、上水道・工業用水道供給といった利水目的を包括した大規模河川開発計画も構想されるに至った。北上川水系では1950年の国土総合開発法制定に基づき北上特定地域総合開発計画 (KVA) が1951年に閣議決定され、隣接する鳴瀬川水系を包括し岩手・宮城両県を一体とした大規模河川総合開発が行われた。石淵ダムは他の北上川五大ダムである四十四田ダム(北上川)、御所ダム(雫石川)、田瀬ダム(猿ヶ石川)、湯田ダム(和賀川)と共に北上川の治水・利水の要として重要な位置を占めている。

    ダムによって形成された人造湖は石淵湖(いしぶちこ)と命名された。栗駒山系の山々に囲まれた石淵湖は静かなたたずまいを見せている。石淵湖右岸には於呂閉志(おろへし)胆沢川神社奥宮が鎮座する猿岩があり、山頂には岩手県天然記念物に指定されたユキツバキ群落地帯がある。またダムより上流の焼石岳にもユキツバキやヒメカユウの群落があり、下流にはミズバショウ群生地帯である馬留湿地がある。猿岩は石淵ダム建設に際し原石山として火薬による発破が繰り返されたが、その後の調査で猛禽類の行動圏に含まれていることから胆沢ダム施工に際しては原石山の予定を取りやめた。石淵湖に飛来する鳥類はオオタカ、クマタカ、サシバなどの猛禽類やイワツバメ、フクロウ、カワセミのほかコハクチョウを始めとした水鳥など多種多様の鳥が飛来することが2002年(平成14年)に国土交通省の『河川水辺の国勢調査』により明らかになっている。1968年7月22日には石淵ダム・石淵湖が焼石岳などと共に栗駒国定公園の指定を受けている。 またダム下流には縄文時代前期の成立と推定される環状集落・大清水上遺跡や約500年前に建設されたと考えられている旧穴山堰の水路・隧道といった歴史的に貴重な文化遺産があるほか、ダム直下流で胆沢川に合流する尿前川には胆沢川合流点付近に発達した柱状節理によって形成された尿前渓谷といった景勝地もある。しかし尿前渓谷については胆沢ダム完成に伴い石淵ダムと共に水没する運命にある。またかつてはダム直下流右岸に尿前温泉があり、ホテルも営業していたが胆沢ダム建設に伴い現在は建物が撤去されている。

    石淵ダムへは公共交通機関であればJR東北本線・水沢駅、または東北新幹線・水沢江刺駅が最寄となる。水沢駅からは岩手県交通バス馬留線に乗車し終点のひめかみスキー場バス停を下車すると胆沢ダム手前に到着する。そこからは徒歩またはタクシーで石淵ダムへ向かうことになる。一方自家用車の場合は東北自動車道平泉前沢インターチェンジ(東京都内・仙台市方面から)または水沢インターチェンジ(青森市・盛岡市・秋田市方面から)が最寄となり、国道4号から国道397号を横手市方面へ曲がり、直進する。胆沢ダム建設に伴う付け替え国道に入り、胆沢ダム通過後トンネルを抜けると石淵ダムの看板が見えてくるので左折し直進すると旧国道に入り、程なくダムに到着する。ダムへの立入りは洪水吐き上部までであり、ロックフィルダム部は立入禁止である。またダム直下流にはダムを下流から一望できるアーチ橋の尿前橋が架かるが、岩手・宮城内陸地震と東日本大震災の影響で崩壊の危険性があり、通行止めとなっている。このため猿岩隧道方面には進むことは出来ない。

    ウェブサイトおよびPDFのリンクについては出典の節に掲載。 1. 岩手県『岩手県企業局胆沢第二発電所』 2. 岩手県『企業局のあゆみ』 3. 岩手県交通『胆江地区時刻表目次』 4. 全国河川総合開発促進期成同盟会『河川開発』第60号、1983年 5. 建設省河川局監修・財団法人ダム技術センター編『日本の多目的ダム 直轄編 1990年版』山海堂、1990年 6. 建設省河川局監修・全国河川総合開発促進期成同盟会編『日本の多目的ダム 1963年版』山海堂、1963年 7. 建設省東北地方建設局編『北上川百十年史』社団法人東北建設協会、1991年 8. 国土交通省東北地方整備局胆沢ダム工事事務所『胆沢ダム事業概要』 9. 国土交通省東北地方整備局胆沢ダム工事事務所『いさわの大地』 10. 国土交通省東北地方整備局岩手河川国道事務所『カスリン・アイオン台風から60年!』 11. 国土交通省東北地方整備局北上川ダム統合管理事務所『北上川ダム統合管理事務所管理概要 2011』、2011年 12. 国土交通省東北地方整備局北上川ダム統合管理事務所『北上川ダム統合管理事務所 地震復旧情報(終報)』、2009年 13. 国土交通省東北地方整備局北上川ダム統合管理事務所『ダム事業再評価 胆沢ダム建設事業説明資料』、2010年 14. 国土交通省東北地方整備局北上川ダム統合管理事務所石淵ダム管理支所『石淵ダム』 15. 財団法人日本ダム協会『ダム便覧』 16. 30年史編纂委員会編『電発30年史』電源開発、1984年 17. 島本和仁ら『2008年岩手・宮城内陸地震によるダムの被害調査報告』、2008年 18. 高崎哲郎『湖水を拓く 日本のダム建設史』鹿島出版会、2006年 19. 特定非営利活動法人風土工学デザイン研究所『扇頂の湖水誕生物語』国土交通省東北地方整備局胆沢ダム工事事務所、2006年 20. 山口嘉一・三石真也『東日本大震災調査報告会 2.8ダム ダムの臨時点検結果の概要と主要被害状況について』、2011年

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  3. 瀬戸内海 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/瀬戸内海
    • 概要
    • 海域
    • 生物相
    • 地理
    • 歴史
    • 観光
    • 産業
    • 環境問題
    • 関連項目
    • 外部リンク

    東西に450km、南北に15-55 km、平均水深:約38m、最大水深:約105m(豊予海峡および鳴門海峡)。内海である瀬戸内海は複数の島嶼群を擁し、豊かな生態系を持つことで知られている。医師であり博物学者であったシーボルトを始めとして数多くの欧米人から高く評価された景勝地であり、現代では瀬戸内海国立公園に指定されている。 19世紀後半の1860年、日本では明治維新直後に瀬戸内海を訪れた、シルクロードの命名者でもあるドイツ人地理学者フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen、1833年 - 1905年)は『支那旅行日記』で「これ以上のものは世界のどこにもないであろう」と世界中に紹介した。今もなお風光明媚な風景として絶賛される地域である。

    IHOが定める範囲

    国際水路機関(IHO)が1953年に発行した『大洋と海の境界』において、瀬戸内海は英語版でSeto Naikai or Inland Sea、仏語版でMer Intérieure (Seto Naikai)と表記され、その範囲は次のように定義されている。 1. 西端 - 下関海峡において、名護屋岬から馬島と六連島を通り村崎の鼻に至る線。 2. 東端 - 紀伊水道において、田倉崎と淡路島の生石鼻、同島の塩崎と大磯崎を結ぶ線。 3. 南端 - 豊後水道において、佐田岬と関崎を結ぶ線(豊予海峡)。

    法令が定める範囲

    瀬戸内海の海域は法令の目的ごとに扱い方が異なり複数の法令で範囲が定義されている。 以下の引用文は一部漢数字を算用数字に直すなどしている。 領海及び接続水域に関する法律施行令(領海法施行令)第1条 1. 1.1. 一 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒、東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒、東経134度44分58秒)まで引いた線 1.2. 二 佐田岬灯台(北緯33度20分35秒、東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分、東経131度54分8秒)まで引いた線 1.3. 三 竹ノ子島台場鼻(北緯33度57分2秒、東経130度52分18秒)から若松洞海湾口防波堤灯台(北緯33度56分28秒、東経130度51分2秒)まで引いた線 2. ※国際的にはこの範囲が瀬戸内海とみなされる。 3. ※西端は関門海峡の西端である。関門海峡の全域と洞海湾は瀬戸内海に含まれる。 瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)第2条第1項 1. 次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海面並びにこれに隣接する海面であつて政令で定めるものをいう。 1.1. 一 和歌山県紀伊日の御...

    区分

    瀬戸内海は複数の海域で構成されている。 『領海及び接続水域に関する法律』では東側から順に次に掲げる10区分された海域で構成されている。 1. 紀伊水道 2. 大阪湾 3. 播磨灘 4. 備讃瀬戸 5. 備後灘 6. 燧灘 7. 安芸灘 8. 広島湾 9. 伊予灘 10. 周防灘 『瀬戸内海環境保全特別措置法』では前記10区分に次に示す海域を加えた計12区分で構成される。 1. 豊後水道北部 2. 響灘 上記の12区分された個々の海域を示す明確な基線(境界線)は存在しない。

    天然記念物である節足動物のカブトガニ、小型鯨類のスナメリやハセイルカ(近年は伊勢湾や大村湾など、瀬戸内海以外にもスナメリの生息地として知られる諸々の海域に本種の再定着が確認されてきている)などの海洋生物や、アユを含む400-500種類を超す魚類が生息している。天然記念物に指定されている種類も多く見られ、前述のカブトガニのほか広島県三原市有竜島はナメクジウオの生息地として、また、同県竹原市高崎町阿波島周辺は「スナメリクジラ回遊海面」として1930年に登録されている。 1. ナメクジウオは海砂の採取事業が盛んになった昭和30年代から大幅な減少を見せ、昭和60年頃には姿が確認されなかった。しかし、1990年代に再発見され、保護策の向上故か順調な自然回復が見られ始めている。 2. 阿波島はスナメリ自体よりも、スナメリを利用したスズキの伝統漁法が記念物指定対象となっており、国内唯一の鯨類関連の指定例であり(海棲哺乳類関連としては南西諸島のジュゴンと本例の二つのみ)。なお、2015年時点では、当漁法はスナメリの生息数減少故に廃止されている。スナメリは瀬戸内海全域にて大幅な減少が見られたが、近年大規模な群れの再確認や大阪湾の関西国際空港周辺で個体数の増加が見られている(ターミナルが人工環礁として機能している)。また、岡山県牛窓町 や北九州市藍島 では、本種の保護および観察事業が施行されている。 鳥類では特にカンムリウミスズメが注目されており、長島をはじめ現在でも比較的広範囲にて確認できる。 豊富なアマモ場も本来の瀬戸内海の生態系の重要な一部であり、1960年代に20,000ヘクタールを超す群生域が当海域に広く見られたが、1978年の時点では7,000ヘクタール程度に減少。環境汚染など様々な要因により、その後の顕著な増加は見られない。近年、各地で藻場復元の動きがあるほか、芸予諸島には比較的良好な分布が残されている。 2015年1月には、新種であり固有種のカタツムリ「アキラマイマイ」が発見されている。

    地形

    東西およそ450km、南北15-55 km、海岸線総延長は7,230kmに及び、面積23,203 km2、平均水深38.0m、容積8,815億km3である。多島海であり、外周が0.1km以上の島の数は727ある。それ以下まで含めれば数千ともいうが、「島」の基準によって変わるためはっきりしない。 全体的な傾向としては東に行くほど浅い。灘や湾と呼ばれる広い部分が、瀬戸や海峡と呼ばれる狭い水路で連結された複雑な構造を持つ。水路部分は強力な潮流によって海底部が浸食されている。最深部は豊予海峡(速吸瀬戸)で約195m、鳴門海峡では約200mと考えられている。

    強い潮流

    瀬戸内海は潮の干満差が大きいことで知られている。これは奥に行くほど顕著になり、最奥部の燧灘周辺では干満差は2m以上にもなる。この為、瀬戸内海の潮流は極めて強く、場所によっては川のように流れている所もある。この強力な潮流により「鳴門の渦潮」が発生している。また、この強力な潮流によって海底部の養分が常に巻き上げられ、植物プランクトンの成育を促していると考えられている。つまり、瀬戸内海が豊かな漁場であることの理由の一つはこの大きな干満差なのである。

    主要な島

    瀬戸内海には大小あわせて3,000もの島があり、無人島や、周囲数メートルしかない小さな島も存在する。 主な瀬戸内海の島を以下に示す。 1. 東部 : 淡路島、小豆島 2. 中部 : 大三島、因島、大崎上島、生口島、向島、ホボロ島 3. 西部 : 屋代島(周防大島)、倉橋島、能美島(江田島と一体)、厳島

    先史時代

    1600万年前 1. 日本列島がユーラシア大陸から分離し、古瀬戸内海と呼ばれる海が出現する。古瀬戸内海には、現在の和歌山県、大阪府河内地方、大阪湾、兵庫県西部、岡山県、広島県東部、島根県東部などが含まれていた。古瀬戸内海は亜熱帯の海であり、珊瑚やマングローブが生育していた。この時期に古瀬戸内海の海底で形成された地層は備北層群と呼ばれている。 1,400万年前から1,000万年前 1. 二上山、室生火山群、讃岐、周防大島の各地域で火山活動が活発化し、古瀬戸内海は陸地化する。 7万年前 1. ウルム氷期始まる。現在は瀬戸内海である一帯は大平原地帯で、ステゴドンやナウマン象が住んでいた。また広島県の情島で1万数千年前の石器が発見されており、後期旧石器時代には人類の生活の場にもなっていたことがわかっている。 1万年前 1. 氷河期が終わり気温が上昇。海水面も上昇し、6,000年前までに現在のような瀬戸内海が形成された。

    古代

    古くより瀬戸内海は交通の大動脈として機能した。そのことは『魏志倭人伝』の記述や『日本書紀』の国産みの段でイザナミの産んだ島が瀬戸内航路沿いに並んでいることから推察できる。 古代においては、摂津国の住吉大社の管轄した古代港の住吉津を出発地とした遣隋使、遣唐使の航路であったことから、瀬戸内海は、海の神である住吉大神を祀る住吉大社の影響下に置かれ各地に住吉神を祀る住吉神社が建てられた。またこの頃既に鞆の浦は瀬戸内海の中央に位置するため汐待ちの港町として栄えていた。 奈良時代には陸上の交通路(山陽道や南海道)が整備されたが、外国使節が瀬戸内海を通った記録が残っており、瀬戸内航路も引き続いて利用されていたと見られる。 平安時代中期は、嵯峨源氏の渡辺綱を棟梁とする摂津国の渡辺党が瀬戸内海の水軍系氏族の棟梁となり、渡辺氏の庶流である肥前国の松浦氏が九州の水軍松浦党の惣領となる。 藤原純友が瀬戸内海の海賊の棟梁として反乱を起こし(承平天慶の乱)、瀬戸内海は、純友の活動舞台となる。伊予国の警固使の橘遠保が純友を捕らえる。 平安時代末期には平清盛が瀬戸内航路を整備し、音戸の瀬戸開削事業を行ったり、厳...

    中世

    鎌倉時代から戦国時代にかけては、伊予国の越智氏や河野氏ら沿海部や島嶼の武士たちが瀬戸内航路に勢力を張り始めた。河野氏や村上氏らは海賊大将軍を名乗って海賊衆(水軍)を組織し、瀬戸内航路を制御下に置いた。戦国末期には織豊政権と三好氏、石山本願寺、毛利氏、長宗我部氏などとの抗争の舞台ともなった(第一次木津川口の戦い、第二次木津川口の戦い、四国攻めなど)。

    歌枕の地

    古代から瀬戸内海は風光明媚な海として知られ、沿岸には『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』などに登場する歌枕が点在している(住吉、難波、須磨、明石、高砂、布引、生田)

    中世日本文学と瀬戸内海

    中世になると『伊勢物語』『土佐日記』『源氏物語』『山家集』などの文学作品が瀬戸内海を取り上げたことで、作中に登場する土地が名所となっていく。

    寺社詣で

    庶民の観光旅行が一般化した近世には、『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などに登場する古戦場(屋島や壇ノ浦、牛窓、藤戸など)が観光名所として注目されるようになる。また金比羅宮、石鎚山、住吉大社、厳島神社、宇佐八幡宮、大山祇神社などへの参拝も盛んになる。瀬戸内海各地の名所は『諸国名所百景』などの浮世絵にも頻出する。さらに、こうした寺社詣での旅行者を主な顧客とする観光産業(旅籠、茶屋、土産物屋など)が丸亀や多度津、下津井、宮島などに成立し、繁栄を見せるようになった。 またこの時期、朝鮮通信使が鞆の浦を「日東第一景勝(日本一の景色)」と称えた記録が残されている。

    日本の総面積の12%にあたる4万7千km2におよぶ瀬戸内海沿岸地域には日本の総人口の約4分の1の3千万人が住んでおり、重工業、石油化学産業などが多く立地している。全国に占める製造品出荷額は鉄鋼業46%、石油化学産業40%、化学工業35%、パルプ・紙産業30%と工業化が進んでいる地域であるが、これら第二次産業の総生産額に対する比率は年々減少している。比率がもっとも高かったのは1970年で42.6%であったが、2002年には25.4%まで下がった。農林・水産業など第一次産業は、1965年には7.4%であったが、2002年には0.8%となっている。比率が増加しているのは、運輸・通信、卸・小売、金融・保険業、サービス業などの第三次産業で、1965年には52.6%であったが、2002年には73.8%となっている。人口の密集度や産業の多さから古代より海運が発達していた。漁業も盛んであったが、2000年代は1980年代に比較して漁獲量(重量)は約35%減少した。 各地で埋め立てが行なわれ、藻場、干潟、自然海岸などの浅海域が減少しており、閉鎖水域であるため下水道や油流出事故などの影響で赤潮発生など水質汚染が憂慮されている。 瀬戸内海は重要な水路として海運や漁業で多くの船舶が運行しており、近年はレジャーボートの数も増し、多島部や狭い水域では海難事故も多発している。

    赤潮

    1970年(昭和45年)から1976年(昭和51年)にかけて赤潮の発生件数は約80件から約300件と上昇した。工場排水や生活排水に汚染された瀬戸内海は一時「死の海」と呼ばれ、1973年には『瀬戸内海環境保全特別措置法』(瀬戸内法)が制定された。その後徐々にではあるが減少傾向にあるものの2002年(平成14年)の発生件数は約100件が確認されている。同年の発生海域は大阪湾、紀伊水道、播磨灘の淡路島の対岸域、燧灘の愛媛県域、広島湾、防予諸島、周防灘等である。赤潮の発生に伴い養殖のハマチ、鯛、真ガキの他、天然魚介類の漁業被害が起きている。 1992年(平成4年)8月27日に環境庁告示第67号により、海水中の窒素や燐(リン)が海洋プランクトンに対して影響を与え、著しく増殖を生ずる畏れのある海域として閉鎖性海域として指定され、赤潮を始めとして2004年(平成16年)と2005年(平成17年)には発生原因が不明の藻により底引き網漁などの漁獲に打撃を与えている。

    瀬戸内海の栄養塩問題

    瀬戸内海は1960年代から1970年代にかけて富栄養化による赤潮が発生しており、1973年に瀬戸内海環境保全臨時措置法が制定され、2001年にはCODに加え窒素、リンの総量規制が導入された。これに伴い瀬戸内海の赤潮発生が減少するとともに海の透明度も増してきた。その一方で養殖海苔の色落ちが頻発。プランクトンを餌とするイワシやイナカゴ、それらを捕食するサワラなどの漁獲量も低迷している。これらの原因を「海が痩せた」こと、つまり栄養塩の過度な減少、いわば富栄養化の逆の「貧栄養化」に求める研究者も存在する。魚介類の餌となる小魚・動物プランクトンの下で基礎生産を担う藻類・植物プランクトンは窒素・リンが必要なためである。ただし反論として、漁獲量減少は乱獲が主な原因であるという意見もある。瀬戸内海への栄養塩の減少や貝漁獲量の減少の原因になっている干潟の減少は、ダムの建設やコンクリートによる河川の整備による栄養塩や土砂の瀬戸内海への流出の減少が原因であるとも指摘されている。2015年10月2日に瀬戸内海環境保全特別措置法が改正 され、同年2月に瀬戸内海環境保全基本計画が変更 され、従来の瀬戸内海の...

  4. アラブ人 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/アラブ人
    • 概要
    • 遺伝子
    • 主なアラブ人国家
    • 著名・有名なアラブ人
    • 関連項目

    ムハンマド以前、アラブ人は統一された社会共同体もなく、部族社会を形成していた。部族はたびたび水資源や利権を巡って争い、破壊や略奪といった無法な行為を行っていたものの、戦では詩の優劣で勝敗を決めることがあるという非常に発達した精神文化も備えていた。ムハンマドによるイスラム教の創始以降、イスラム教のもとでイスラム文化は最高潮に達し、イスラム世界では錬金術を原点に各種の科学や数学、哲学が発展し、文学の発展もあった。しかし17~18世紀ごろを境にして、後にヨーロッパで起きた科学革命や産業革命に後れを取るようになった。 「アラブ人」という概念は人種的存在とは言えない。むしろセム語(アラビア語)という言語を共有する人々としてであったり、聖書に窺える、ある人物を始祖とするという共通概念で規定される。アラブ人は旧約聖書に登場するアブラハムが妻サラの女中であるハガルとの間に生ませた長男のイシュマエルを祖とするイシュマエル人の子孫と称し、イサクの次男ヤコブの子孫であるユダヤ人とは別の民族になったとしている。民族的概念と人種的概念が一致しないという点で、アラブ人とユダヤ人は共通するといえる。最初のアラブ人はアラビア半島の住民である(いわゆる「アラビア人」は、イスラム教徒でもある彼等およびその子孫全般のみを指す)が、イスラム教の聖典のクルアーンはムハンマドを通じてアラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉とされているため、イスラム教の拡大によってベルベル人やエジプト人、そしてメソポタミア人(イラク人)などの近隣の多くの人々が言語的に同化させられ、アラブ人となった。その後、20世紀初頭にオスマン帝国や欧州列強の植民地支配に対する抵抗運動の中で汎アラブ主義が勃興し、アラビア語話者の間に「アラブ人」という民族意識が補強された。 ただし、キリスト教徒のアラブ人にはアラブ人としての民族意識は宗派によってばらつきがあり、東方正教会の信者には(パレスチナ難民内にも多くの信者がいることもあり)有力な汎アラブ主義指導者(ジョージ・ハバシュなどのように一部は「テロリスト」とされることもあった)になる者もいる。 その一方で、レバノンのマロン派の信者は古代フェニキアの子孫としての民族意識が、イラクなどのアッシリア人は古代バビロニア、アッシリアの子孫としての民族意識が、エジプトのコプト正教会の信者はコプト語の話者で...

    アラブ人を特徴づける遺伝子はY染色体ハプログループJ1である。このタイプは現在アラブ人の分布する中東~北アフリカで高頻度にみられる。特に北アフリカではアラブ人の入植により急速にJ1が広まったものと推定される。人種的なアラブ人は上記の通りなのだが人種的なアラブ人 つまりアラビア半島出自のアラブ人はサウジアラビア オマーン アラブ首長国連邦 カタール バーレーン クウェート ヨルダン(現在パレスチナ系 メソポタミア系の難民が7割を占める)、エジプト チュニジア モロッコ アルジェリアで多い。シリア イラク レバノン はメソポタミア系やイラン トルコ系、リビアはベルベル人 、イエメンは原始アラブ人だが文化的にはアラブ人と定義づけられている。

    アルジェリア - ただし、人口の約20%はベルベル人である。
  5. 合気道 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/合気道
    • 概説
    • 他武道・他武術との関係
    • 健康法としての合気道
    • 護身術としての合気道
    • 主な会派
    • 合気道経験者
    • 合気道をテーマとするㅤメディア作品
    • 合気道の名称について
    • 参考文献
    • 関連項目

    「合気道」とは「天地の“気”に合する道」の意。 柔道・剣道・空手道等と並ぶ、21世紀初頭の日本において代表的な武道の一つである。大東亜戦争(太平洋戦争)終了後、一般社会への普及が始まり、日本のみならず世界で大きく広まった。 合理的な体の運用により体格体力によらず相手を制することが可能であるとしている点が特徴。 技の稽古を通して心身を練成し、自然との調和、世界平和への貢献を行う等を主な理念とする。

    大東流合気柔術との相違点

    大東流と合気道には、武道の目的と意味をどう位置づけるかという思想性に鮮明な相違が認められる。盛平の合気道は古来の武術と一線を画して、「万有愛護」や「宇宙との和合」を目指す、といった理念的傾向が強い。これは、大本の合気武道時代からのものと考えられる。大東流では多く伝わる逆関節技や、足による踏み技・固め技など、荒々しい技の殆どが合気道で省かれているのも、この思想性によると考えられる。

    柔道との交流

    1930年(昭和5年)10月、竹下勇の紹介で講道館柔道創始者・嘉納治五郎が講道館幹部二人と共に盛平の道場を訪れた。この頃嘉納は、競技スポーツ化した柔道が勝敗に囚われる余り精神性を軽んずる弊に陥り、「武道の競技化・体育化による人格教育の実現」という嘉納の理想が形骸化しつつある傾向に危機感を抱いていた。その反省から私的に「古武道研究会」を主宰し、古武道諸流派の保存と伝承に務め、それを以って武道教育に精神性の復活を図ろうとしていた。そのような経緯の元、初めて盛平の技を見た嘉納は「これこそ私が理想としていた武道、本当の柔道だ」と賞賛した。 盛平の技に魅了された嘉納は講道館から当時若手の有望株であった望月稔を派遣し合気道の修行に当たらせた。盛平の有力な弟子であった富木謙治、塩田剛三らも、盛平に入門する前は柔道の有段者であった。特に、富木や望月は盛平の高弟となってからも柔道家としての活動もおこなっており、その理念には合気道・柔道双方の影響がみられる。

    剣道との交流

    盛平は剣術の研究のために、戦前自らの道場「皇武館」で剣道の指導を行わせた。実際の指導は、親交のあった中山博道(神道無念流)の3人の高弟で「有信館の三羽烏」と呼ばれた中倉清(当時は盛平の婿養子)、羽賀準一、中島五郎蔵が行った。

    合気道は健康法としても人気がある。攻撃してくる相手の力を利用するので(空手や柔道のようには)強い筋力を必要とせず老若男女を問わず誰でもはじめることができ、和合の精神を重視し、また活動は〔組み手稽古〕(試合形式ではなく、二人一組で行う稽古)が中心であることから、健康法としても人気が高く、広く定着しているのである。 例えば以下のようなことが言われている。 1. 試合がないので、勝つための過剰に激しい稽古をする必要が無く、年齢体力にかかわらず無理なく自然に心身・足腰の鍛練ができる。 2. 合気道の稽古は、技を左右同じ動きで同回数繰り返すため、左右の身体の歪みを取る効果がある。 3. 受身で畳の上を転がることにより、血行を促す。また受身の習得で転倒による怪我をしにくくなる。 4. 関節技を掛けられることによってストレッチ効果が得られ、関節・筋肉の老化防止や、五十肩などの予防になる。

    合気道は「非力な女性の護身術として最適」と喧伝されている。ただし、護身術としての有効性については、疑問を呈する人もいる。 これらの疑念について、合気会は「日々の鍛錬をきちんとやれば基礎を何度も修練している内に体得できる。実際に使えるようになる」という見解を示している。

    ※独立年次順、「組織名(流儀名・通称):独立年~、創設者」 1. 公益財団法人 合気会 (「合気道」):1940年(昭和15年)~(「財団法人 皇武会」→1948年(昭和23年)~「財団法人 合気会」)、植芝盛平 1.1. 合気道創始者・植芝盛平の興した合気道界の最大会派。合気道人口の8割を占めると言われる。日本武道協議会加盟。 2. 公益財団法人 合気道養神会 (「養神館合気道」):1956年(昭和31年)~、塩田剛三 2.1. 盛平の高弟・塩田剛三が設立。「実戦合気道」を標榜、警視庁女性警察官の正課科目、警視庁機動隊選抜隊員の研修科目に採用されている。 3. 養正館 (「養正館合気道」):1963年(昭和38年)~、望月稔 3.1. 盛平の高弟・望月稔が設立。合気道に柔道や空手などの要素を取り入れた。(※その後養正館は合気道から独立した新武道「養正館武道」を標榜。2000年(平成12年)に「正風会」が「養正館合気道」を受け継ぐとして養正館から独立。) 4. 万生館合氣道:1969年(昭和44年)~、砂泊諴秀 4.1. 盛平の高弟・砂泊諴秀が設立。九州一円を中心に普及。 5. NPO法人 日本合気道協会(「合気道競技」「新合気道」):1974年(昭和49年)~、富木謙治 5.1. 盛平の高弟・富木謙治が設立。柔道を参考に乱取稽古法や試合を取り入れ、大学合気道を中心に普及。 6. NPO法人 昭道館合気道連盟 6.1. 日本合気道協会から分かれて設立された。 7. 一般社団法人 心身統一合氣道会(「心身統一合氣道」):1974年(昭和49年)~(「財団法人 氣の研究会」→2010年(平成22年)~「一般社団法人 心身統一合氣道会」)、藤平光一 7.1. 盛平の高弟・(財)合気会の師範部長であった藤平光一が設立。「氣」を重視する。毎年「全日本心身統一合氣道競技大会」(体技競技審査会)という形審査形式の試合を行っている。 8. 合気道S.A.:1991年(平成3年)~、櫻井文夫 8.1. 塩田剛三の高弟・櫻井文夫が設立。他流派からの参加も受け入れた打撃ありの組み手試合を行っている点が特徴。 9. NPO法人 岩間神信合氣修練会 (「岩間流合気道」「岩間スタイル」):2004年(平成16年)~、斉藤仁弘 9.1. 盛平の高弟・斉藤守弘の息子である斉藤仁弘が設立。「合...

    (※ 生年順) 1. 浅野正恭…海軍中将。心霊研究家。弟の浅野和三郎が大本の幹部であった縁で大正末期盛平に入門、綾部で指導を受ける。同じ海軍の竹下勇に「凄い武道家がいる」と盛平を紹介し、盛平が世に出るきっかけをつくった。 2. 竹下勇…海軍大将。第14代連合艦隊司令長官。第3代大日本相撲協会会長。1925年(大正14年)盛平を東京に招請、軍政財界の要人に盛平を紹介し、武道家としての盛平を世に知らしめた。門人として献身的に盛平を支え、公私に渡り強力な支援者となる。(財)皇武会(合気会の前身)初代会長。 3. 二木謙三…医学博士。東京帝国大学医学部教授。日本医学界の重鎮。昭和初期~十年代、毎朝内弟子の寝込みを襲い、叩き起こしては朝稽古に励んだという。(財)皇武会理事。昭和18年頃には大病を患った盛平のために交通事情の悪い中を茨城県岩間まで往診した。 4. 三浦真…陸軍少将。1930年(昭和5年)入門。日露戦争で銃剣で胸を刺し貫かれる重傷を負いながら敵兵を軍刀で斬り倒し続け、一躍当時の英雄となった。武田惣角の弟子であり、盛平の分派独立に憤慨し道場破りに来たが、盛平の技に感嘆しその場で入門した。自らが校長を務める陸軍戸山学校の武道指導者として盛平を招いた。 5. 山本英輔…海軍大将。第19代連合艦隊司令長官。1927年(昭和2年)頃入門。 6. 高橋三吉…海軍大将。1928年(昭和3年)入門。盛平を自らが校長を務める海軍大学校の武道講師に招聘した。 7. 百武源吾…海軍大将。徹底した対米協調・避戦派。海軍を追われた後、第7代九州帝国大学総長。1928年(昭和3年)入門。 8. 近藤信竹…海軍大将。1928年(昭和3年)入門。 9. 中里介山…小説家。代表作「大菩薩峠」で有名。1929年(昭和4年)入門。 10. 柳原白蓮…歌人。大正三美人の一人。大正年間当時一大スキャンダルとなった「恋の逃避行」中に綾部の大本教団に身を寄せ、植芝塾の稽古に熱心に通ったという。また昭和以降上京後も盛平から弟子の就職の世話を頼まれるなど交流が続いた。 11. 岡田幸三郎…実業家。塩水港精糖社長。1926年(大正15年=昭和元年)入門。(財)合気会理事。皇武会の設立・財団法人認可申請を立案・尽力。 12. 藤田欽哉…実業家。ゴルフコース設計者。霞ヶ関カンツリー倶楽部創設者。日本ゴルフ界の草分...

    小説

    1. 津本陽著『黄金の天馬』(ISBN 4569673775) - 植芝盛平をモデルにした伝記小説。 2. 火野葦平著『王者の座』(弥生書房 1958年・絶版) - 天竜三郎を主人公にした小説。 3. 山田克郎著『王者の庭 合気道 植芝盛平伝』(浪速書房 1959年) 4. 和巻耿介著『王道の門 疾風編』(ISBN 4334710263)、『王道の門 迅雷編』(ISBN 4334710484) - 盛平をモデルした冒険小説。 5. 牧野吉晴著『飛燕合気道』(報知新聞社 1970年) - 塩田剛三をモデルにした長編小説。 6. ガディエル・ショア著『合気道小説 神技 - Kami‐Waza』(ISBN 4862203159) - 「2172年フランスの合気道学校“アイキ・リブリウム”で開祖植芝盛平の最高技法“神技”を蘇らせる試みがなされていた」という設定のSF武道小説。

    ノンフィクション

    1. 増田俊也著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』 - 柔道史上最強の木村政彦の親友として塩田剛三が出てくる。また木村のライバルの師匠として植芝盛平も登場する。

    漫画

    1. 武富智著『EVIL HEART』(イビル ハート) - 心に傷を負う反抗的な中学生の少年が、合気道に出会い成長していく姿を描く。 2. 板垣恵介著『グラップラー刃牙』 - 主人公「範馬刃牙」が地下格闘技場で様々な格闘家と戦う格闘技漫画。塩田剛三をモデルとした重要キャラクター「渋川剛気」が登場する。渋川の師として植芝盛平がモデルになったと思われる御輿芝喜平もでている。 3. 安彦良和著『虹色のトロツキー』 - 満州国・蒙古・シベリアを舞台とする歴史劇。主人公の武道の師匠として盛平が、また富木謙治、天竜三郎も登場する。盛平が関わった「パインタラ事件」が物語の重要な鍵として語られる。 4. 山岡朝作画 植芝守央監修 『劇画 合気道開祖 植芝盛平物語』- 植芝吉祥丸著『合気道開祖 植芝盛平伝』(出版芸術社 1999年)の劇画化。盛平の生涯をその生誕から描く。著名なエピソードはほとんど描かれている。作画者は合気会に入門し、稽古を重ねた上で本作を手がけた。

    21世紀初めの時点で「合気道」と言えば、一般的には植芝盛平の興した合気道を指すが、実は「合気道」の名を用いたのは盛平が最初ではなく、「合気道」という名称には“合気系武道(・武術)”全般を通称的に指し示す普通名詞としての一面もある(→例)。

    『ブリタニカ国際大百科事典(4)』「格技-合気道(富木謙治)」 ティビーエス・ブリタニカ、1972年、NCID BN01561461。
    砂泊兼基 『武の真人 - 合気道開祖植芝盛平伝』 たま出版、1981年、ISBN 4884810708。
    西野晧三著・植芝吉祥丸監修 『由美かおる 美しくなるための合気道』 講談社、1983年、ISBN 9784062005340。
    鎌田茂雄・清水健二 『禅と合気道』 人文書院、1984年、ISBN 9784409410196。
  6. 超兄貴 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/超兄貴
    • 概要
    • ストーリー
    • 登場キャラクター
    • 移植版
    • 音楽
    • スタッフ
    • 反響
    • 続編作品
    • 関連作品
    • 外部リンク

    本作は、男性神・イダテンと女神・ベンテンのいずれかを選択して操作するシューティングゲームであり、システムはメガドライブ用ソフト『ジノーグ』(1991年)を元にしている。一方で、本作の世界観は『ジノーグ』とは対照的に、筋肉美を強調した奇抜で明るいものとなっている。たとえば、主人公のオプションキャラクターである二人組の兄弟「アドン」と「サムソン」は有名なゲイ向け雑誌を連想させる名前であることに加え、彼らが放つショットは「メンズビーム」と名付けられている。また、本作の#音楽も特徴的であり、作曲者である葉山宏治名義のサウンドトラックCD『超兄貴-兄貴のすべて-』もヒット作となり、2019年現在も廃盤にならず日本コロムビアから販売が継続されている。 初作は再版を5回重ねるヒット作となり[注釈 1]、その後に登場したテレビゲーム機やパソコン用アプリケーションに何度か移植されている(それぞれの詳細は#他機種版を参照)。2020年にコナミデジタルエンタテインメントがリリース予定である、PCエンジン系ソフトを約50作プリインストールした復刻系テレビゲーム機・PCエンジン miniにも他のCD-ROM2ソフトと共に収録が決定している。また、本作以後も他機種への移植を含む数作の続編が作られたほか、CDドラマ、漫画、小説(ライトノベル)などにもメディアミックス展開された。

    「ボ星」を中心とする「ビルダー帝国」を支配する、大銀河ボディービルコンテストにおいて10連覇の偉業を成し遂げた帝王「ボ帝ビル(ぼていびる)」は、プロテイン資源の枯渇に悩み、ついに近隣星系を無差別侵攻しプロテイン採掘プラントを乱立させ始めた。危機を感じた天界はビルダー軍討伐を命じ、イダテンとベンテンを派遣した。かくして、イダテンらとビルダー軍の汗臭く暑苦しい戦いの幕は切って落とされた。

    自機

    スタート及びコンティニュー時に選択(一人プレイ専用)。IIボタン押し続けで男らしく連射(連射パッド不要)。タメてタメて溜まりきったところで離した瞬間、「ドピュっと(発売当時、児童向けの新作ゲーム紹介番組に出演したメサイヤ広報担当者による公式表現)」男の一撃「メンズビーム」を発射する。なお女性であるベンテンは同じ操作で斜め攻撃も行える「スプラッシュビーム」を放つ。 イダテン 1. 声 - 置鮎龍太郎 1. 主人公である男性神。基本的にはどの作品でも異性愛者であり、アドン、サムソンを舎弟としか思っていないが、二人には自分たちは兄貴(イダテン)に愛されていると勘違いされている。 ベンテン 1. 声 - 住友優子 1. もう一人の主人公である女神。スリーサイズは90/57/88の美女だが、年齢は2歳3か月で体重が6gと、無茶なプロフィールを持つ。サムソンやアドンよりは高位にあるようだが、イダテンとの関係はよく分からず謎が多い存在。

    オプション

    サムソン&アドン 1. 声 - 不明[注釈 2] 1. 手枷、足枷、貞操帯をしたスキンヘッドのボディビルダーコンビ。『愛・超兄貴』では黒いハンドウエイト、アンクルウエイト、パンツ姿。『超兄貴〜究極無敵銀河最強男〜』(以下、『究極無敵銀河最強男』)ではウエイトはシルバー、パンツは赤。 2. ビルダー軍に侵略を受けた星の王子であり、彼らの長兄バランは、その星の王位継承者である。 3. ビルダー軍に囚われていたが、イダテン達によって救出。恩を返すため協力する。頭頂部には穴が開いており、ここからメンズビームを放ち、プロテインでパワーアップする。防弾限界を超えると切なげな断末魔を発し退場する。トレーニングをこよなく愛し、彼らにとって筋肉こそが正義である。漫画や小説ではトレーニングをすることとイダテン・ベンテンへの忠誠心以外を、どこかに置いて来ていることがことさらに強調されたキャラクターになっている。漫画版ではさらに、サムソンが一時期オカマでかつショタコンになる。 4. 田丸浩史による漫画版ではアドンは保安官、サムソンはアドンの助手のサミー(女性)として登場し、バランと出会った後に性転換した...

    敵キャラ

    サブ&マリン 1. 『超兄貴』でボスキャラとして登場して以降、シリーズ作品に背景等として度々登場。革ジャンにリーゼント姿の潜水艦。上半分のサブが後に『爆裂乱闘編』で自キャラの座を得た。 戦闘列車 1. 『超兄貴』のステージ3に登場。 2. テーマ曲は「ドイツ人ジャーマン(サントラ「超兄貴-兄貴のすべて-」に収録)」。 シェル・ジ・アニキ 1. 『超兄貴』の海底の面(タイトルは「男の海」)で登場したボスキャラ。 2. ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』を髣髴させるデザイン。最初はカーテン越しにシャワーを浴びている女性のシルエットが現れたが、しばらくするとシルエットごとカーテンがはがれ、スクワットをしているマッチョ兄貴が現れ、見る者を唖然とさせた。 3. テーマ曲は「あこがれのマッチョダンディー(サントラ「超兄貴-兄貴のすべて-」に収録)」。 エル&トポ 1. 般若の面を被った男「エル」と水泳用眼鏡を掛けた男「トポ」のシンクロナイズドスイミングコンビ。ボ帝ビルを護る四天王である。 2. 漫画版(田丸浩史)超兄貴には第四話で登場。第一話冒頭でイダテンは姿を現していない彼らによって命...

    ※現在、「メサイヤ」というゲームブランド及び全ゲーム作品は株式会社エクストリーム(extreme)が版権を保有しており、ゲームアーカイブス版以降の販売企業も同社となっている(プロジェクトEGG版およびPCエンジンmini版に関してはライセンス供給という形)。

    作曲者

    上述した通り、『超兄貴』のBGMは葉山宏治が手掛け、葉山の個人名義で発売されたサントラCDがゲームミュージック業界でも異例のヒット作となったことから、“超兄貴=葉山宏治”というイメージは根強く存在している。しかし、以降のBGM担当のサウンドコンポーザーには作品ごとに何らかの交替や変更があり一定していない。 『愛・超兄貴』(1995年)では「サウンドプロデュース兄貴 溝口功、サウンド兄貴 岩崎琢・吉村幸二」、『超兄貴 爆烈乱闘篇』(1995年)では「サウンドプロデュース 溝口功、ミュージック 笠原咲奈恵・岩崎琢・ドン・マッコウ」としてクレジットされている。そして『究極無敵銀河最強男』(1995年)ではそれまで超兄貴シリーズのBGMを担当していた4人の歴代サウンドクリエイターが“集結”という形になった。メサイヤのゲーム事業撤退後にライセンス許諾の形で制作された『超兄貴〜聖なるプロテイン伝説〜』(2003年)では葉山のシリーズ復帰が話題として大きく用いられたものの、実際には大半の曲は畑亜貴と不気味社によるものであり、葉山による楽曲は数曲のみに留まった。 ガンホー・ワークスより発売された...

    関連CD

    超兄貴-兄貴のすべて- 1. NECアベニューNACL-1088(1993年)、後にコロムビアミュージックエンタテインメントから「アベニューコレクション」と冠され再発(1998年)。社名が日本コロムビアとなった後も販売は継続中。 仁義無き兄貴 1. NECアベニュー NADL-1061 超兄貴・男の魂 1. ファースト・スマイルエンタテインメント 兄貴新世界 1. オーマガトキ 2. 上記4つのアルバムは、全面的に葉山宏治の手によるもの。 愛・超兄貴 1. 東芝EMI/ユーメックスTYCY-5437 2. ゲームのエンディングクレジットは「サウンドプロデュース兄貴 溝口功、サウンド兄貴 岩崎琢・吉村幸二」と記載。 3. CDのブックレットには「サウンドプロデューサー 溝口功、作曲・編曲 岩崎琢」と記載がある。 超兄貴ショー(出演:岩田光央、菅原正志、愛河里花子、金月真美他) 1. 東芝EMITYCY-5456 2. CDのブックレットに、岩崎琢、ドン・マッコウ、竹森久晃らを中心にバンド「アニマゲドン」を結成し、渋谷クアトロでライブデビューしたとの記載がある。 超兄貴ショーII 1...

    プロデューサー:土田俊郎
    プログラム:はまだしんぢ(濱田信次)
    グラフィック:THE 鬼 PART II(市丸雅彦)、ENDO(延東史朗)、永井一成、はやしひろし
    キャラクターデザイン:永井一成

    本作はシューティングゲームとしての完成度の高さに加え、宇宙とハードゲイを融合させた奇抜な世界観によって、シューティングゲームファンの注目を集めた。特に、主人公のオプションキャラクターであるサムソンとアドンは、有名なゲイ向け雑誌を連想させる名前だったこともあり、主人公以上に注目が集まった。また、『改造町人シュビビンマン3』に引き続いて本作に隠れキャラクターとして登場したうみにんにも人気が集まり、スピンオフ作品が発売されたほか、日本国外でも人気を博した。日本国外において本作を遊んだことのある者は多くなかったものの、世界観のきわどさと奇抜さから、I-Mockery、Seanbaby、Something Awful.といったウェブサイトで取り上げられた。

    愛・超兄貴(PCエンジン) 1995年2月24日発売

    1. 『超兄貴』から2年後という設定で、イダテンがビルダー星系の不穏な動き察知、単身調査に向かうが消息を絶ち、それを知ったベンテンに派遣されたアドンとサムソンが、ボ帝ビルの妻であるボ帝コンシャス(ぼていこんしゃす)打倒へ向かう。 2. 本作は業界初の自称『弾を撃たないシューティングゲーム』である。簡単なコマンド操作で様々なポージングとそれに対応した汗と気合い(コマンド入力で変化する多数の攻撃技)を飛ばすことによって敵を撃破(悩殺)する。男のビーム(メンズビーム)は技を何度も入力してポージングを行い、男のエネルギーを貯めないと発射できない。 3. ステージは全4ステージとなっている。体力の概念があり、満タン時で3つ、アイテムで回復することが出来る。2人同時プレイが可能で、1Pはアドン、2Pはサムソンを操作する(ただ、2人の違いは全くと言っていいほどない)。 4. 残機制ではなく、時間制となっており(画面では砂時計で表示)、ベンテンが時折出すアイテムやステージクリア時のスコアからのボーナスで時間が増加する。倒されるとペナルティが付き、残り時間がなくなるとゲームオーバーとなる(コンティ...

    スピンオフ、および他作品へのゲスト出演

    メサイアが開発したラングリッサーシリーズには、本作のキャラクターのキャラクターが登場する隠しシナリオがある。 2003年にメトロ3Dジャパンより発売されたアクションパズルゲーム『パズにん~うみにんのパズルでにむ~』は、うみにんが主人公として登場する。 マーベラスが運営するスマホ向けMMORPG「剣と魔法のログレス いにしえの女神」において2016年にコラボが行われた。アドン&サムソンが自キャラのオプションとして登場し、「メンズビーム」を撃つスキルが使用可能となる。

    漫画版(田丸浩史)

    田丸浩史作、『月刊少年キャプテン』連載。キャプテンコミックス(全3巻)として刊行後、2004年にはエンターブレイン(eb社)より未収録の番外編も収録した完璧版(上下巻)が刊行。2010年11月には完璧版を基にカラー原稿完全再現・2つ折カラーポスター封入・単行本初収録読み切りなどの細かい増補稿が成された「超兄貴 FUG(ファイナルアップグレード)」がeb社から刊行された。

    超兄貴-愛のゴールデンボール-

    原作エクストリーム、作画菊野郎。ファミ通コミッククリア連載。ファミ通クリアコミックスより刊。 ボ帝との攻防の末に大爆発が起こって、ビルダー星系から遥か別の星系まで飛ばされたイダテンとサムソン&アドン。ビルダー星系から離れたことで力が弱体化したイダテンは、同じように飛ばされたボ帝のところに転がり込んで、ビルダー星系へ帰るための力の素である愛の結晶の金玉(ゴールデンボール)を得ようと四苦八苦日々を過ごす。

    超兄貴オフィシャルWEBサイトエクストリーム 2013年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ
    超兄貴〜聖なるプロテイン伝説〜GAE 2010年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ
  7. 入れ墨 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/入れ墨
    • 起源
    • 目的
    • 入れ墨の技術
    • 日本における入れ墨
    • 日本以外の入れ墨
    • 音楽への反映
    • 関連書籍
    • 関連項目
    • 外部リンク

    入れ墨は比較的簡単な技術であり、野外で植物の棘が刺さったり怪我をしたりした際に、入れ墨と同様の着色が自然に起こることがあるため、体毛の少ない現生人類の誕生以降、比較的早期に発生し普遍的に継承されて来た身体装飾技術と推測されている。 古代人の皮膚から入れ墨が確認された例としては、アルプスの氷河から発見された5300年前のアイスマンが有名であり、その体には入れ墨のような文様が見つかっている。 2,500年前のアルタイ王女のミイラは、腕の皮膚に施された入れ墨がほぼ完全な形で残されたまま発掘されている(1993年発掘)。 3000年前の古代エジプトのミイラから入れ墨が見つかっている(1891年発掘)他、5000年前の古代エジプトの複数のミイラからもレントゲンによって入れ墨が見つかっている(2014年発見)。 3000年前のタリム盆地のミイラからも入れ墨が見つかっている。 原始アートにおいても、入れ墨と考えられるデザインのものが世界各地に存在する[注釈 1]。古いものは後期旧石器時代の彫像であるライオンマンやホーレ・フェルスのヴィーナスの体に、何本もの線が入っているのが見られる。 東ヨーロッパのククテニ文化や、日本の縄文時代(主に終期以降)に作成された土偶の表面に見られる文様[注釈 2]は、世界的に見ても古い時代の入れ墨を表現したものと考えられている。 現存する遺体および土偶に続く、入れ墨の記録となる証左は歴史書である。古代ギリシアでは、ペルシア帝国の影響で奴隷や犯罪者に入れ墨をする習慣があったとプラトンは記している。この習慣はローマ帝国にも引き継がれる。ガリア戦記では、ケルト人が刺青をしている事に触れ「ブリトン人は体に青で模様を描き、戦場で相手を威嚇する」として、ピクト人と呼んでいる。 中国の歴史書には入れ墨をした中国周辺の民族(夷人、古越人、倭人など)の記述がたびたび見られることから、中国文明の周辺では入れ墨の文化が普及していたと考えられる。弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した魏志倭人伝によると邪馬台国の男はみな入れ墨をしていたという(「男子は大小と無く、皆鯨面文身す」の記述)。一方で、中国では先秦の時代から入れ墨は犯罪者を区別するために行われていた。 また紀元前後には、アメリカ大陸のメキシコやペルーなどで、全身に入れ墨をしたミイラや土偶が見...

    個体識別

    入れ墨は容易に消えない特性を持ち、古代から現代に至るまで身分・所属などを示す個体識別の手段として古くから用いられて来た。 有名な例ではナチの親衛隊員が、戦闘中に負傷した際に優先的に輸血を受けられるよう左の腋下に血液型を入れ墨(SS blood group tattoo)していたほか、アウシュヴィッツなどの強制収容所に収容された人々は腕に収容者番号を入れ墨されていた。 人間以外の家畜やペットに対しても個体認識のために入れ墨や焼印が行われて来た歴史があり、かつての欧米では囚人の管理用に広く用いられたほか、近年でもユーゴ内戦時の各収容所において入れ墨による識別が行われていたことが知られている。 また、こうした強制的なケースばかりではなく、出漁中に事故に遭う可能性のある漁師が、身元判定のために入れ墨するケース(類似に木場の川並が好んで入れていた「深川彫」など)や、首を取られてしまえば身元不明の死体として野晒しになるおそれのあった日本の戦国時代の雑兵が、自らの氏名などを指に入れ墨したケースなども知られている。

    刑罰

    罪を犯した者に対して顔や腕などに入れ墨を施す行為は、古代から中国に存在した五刑のひとつである墨(ぼく)・黥(げい)と呼ばれた刑罰にまで遡るとされる。 墨刑は額に文字を刻んで墨をすり込むもので、五刑の中では最も軽いものだった。前漢の将軍・英布(黥布)は若い頃に顔に罰として入れ墨を施されたことから逆に自ら黥を名乗ったと伝えられている。 『日本書紀』中にも、履中天皇元年四月に、住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇野連浜子に『即日黥』(その日に罰として黥面をさせた)との記述がある。この記述は、海人の安曇部の入れ墨の風習を、中国の刑罰と結びつけて説いた起源説話とされている。阿曇野連は漁民でもある海部(あまべ)を統括する氏族であり、河内飼部は馬の飼育にかかわる河内馬飼部(うまかいべ)のことであり、また鳥の飼育をするのが鳥養部(鳥飼部)である。これらは、生き物を飼う職能集団であるという共通性がみられる。飼育している生き物からの危害を避け、威嚇する意味も含めて、こうした呪術的意味を含み黥面をしていたと推側する研究者もいる。 また『日本書紀』雄略天皇10年10月には宮廷で飼われていた鳥が犬にかみ殺された...

    ファッション

    米国における入れ墨は、1960年代末に世界的に流行したヒッピー文化に取り入れられ成長したため、その図案や表示するメッセージなどにおいて両者は不可分の関係にあり、ドラッグ・カルチャーとの関連からヒッピー達が好んだヒンドゥー教やチベット仏教に由来する梵字やオカルト的な図案が多く好まれていた。 近年の日本では、ヒッピー文化の影響を受けた両親を持つ団塊ジュニア世代以降の若年層に第2世代ヒッピーが、ファッションとしての意味合いで入れ墨を施すことが流行している。こうした「入れ墨のファッション化」と日本国内のサブカルチャーの影響により、アニメのキャラクターやアイドルなどを入れ墨する事例も現れている。入れ墨といえば前述の反社会性ばかりが取沙汰された時代があったが、歌手の安室奈美恵が自らの亡き母親や息子の名前を入れ墨にしている事例からも解るように、一部の人たちは「愛する対象との同一化」や「憧れの対象との同一化」を図るための自己表現の為の装飾道具に変化しつつあると主張している。 ナチスのシンボル等のタトゥーを入れる者もあり、アメリカではユダヤ人医師に不快感を与えたり、ドイツでは地方議員が起訴されるな...

    器具を使ったから「洋彫り」、手で彫ったから「和彫り」とは一概に分類できず、絵の画風や全体の様子で判断する。和風の絵でも筋は器具で、ぼかしは手彫りで行うなど、手法は彫師により千差万別である。現在は機械彫りが主流であるが、暴力団などの間では手彫りが一種のステータスとなっている。一般的に伝統的な手彫りの方が痛みが少なく、傷の治りが早い。現在では技術の進化、向上により肌へのダメージが最小限に抑えられていて、彫師の技術はそこで判断することもできる。手彫り・機械彫り共に彫師の技術や作風によって所要時間に開きがある。

    呼称

    日本において入れ墨が施されて来た理由は、身体装飾・個体認識・社会的地位や身分の表示・宗教上の理由など多種多様であり、その歴史的経緯はいくつかの曲折を経たため、多様な呼称が存在する。 1. 紋身(もんしん) 2. 倶利迦羅紋々(くりからもんもん)[注釈 6] 3. 紋々(もんもん) 4. 彫り物(ほりもの) 5. タトゥー など様々な表現で呼ばれており、入れ墨を施す行為も墨を入れる、彫るなどと表現されるほか、苦痛と金銭的な負担をかけて『がまん』と呼ぶ場合もあるとされる。なお、近年のマスメディアによる報道、法律・条例の条文では、入れ墨という呼称が用いられる。古来より、入墨や彫物という呼称が多く使われる。ほか歴史的に黥(げい)、文身(ぶんしん)、箚青(とうせい、さっせい)のほか、入黒子(いれぼくろ)といった呼称がある。日本の伝統的な入れ墨を和彫りと呼ぶのに対して、欧米における入れ墨の呼び名であるタトゥー(tattoo) を洋彫りと呼び分けている場合もあるが、両者に本質的な違いはなく、図案や描画の技法に違いがあるのみである。

    蝦夷・アイヌ・琉球の入れ墨

    蝦夷、アイヌ民族、奄美・琉球の領域では、それぞれ独自の入れ墨文化が存在した。 5世紀頃と比定される日本書紀の記事中には、武内宿禰の「日高見國」からの帰還報告として、蝦夷の男女が文身していたことが記されている(景行27年2月条)。 アイヌ民族の入れ墨は成人女性が手や口の周りに施すものが知られており、1871年(明治4年)以降禁止されたが、隠れて行なわれることも多かったとされ、文化的に重要な位置を占めていたとされる。また、現代のアイヌ女性が重要な儀式に際して口の周りを黒く塗るのは、かつての習俗の名残とされる。 奄美・琉球では「ハジチ(針突・ハドゥチ・パリツク・ピッツギ)」と呼ばれる入れ墨文化があった。ハジチは女性のみが行い、奄美・琉球人であることを示すことで日本本土や中国の人攫いから身を守る役割があったとされる。さらに、魔よけや後生(死後の世界)への手形とする民間信仰、成人儀礼としての意味もあり、美しさの象徴ともされた。 笹森儀助は宮古島では11, 13歳に施す成女儀礼であり、またそれがないと後生(グソー)に行けないと著作に記しており、かなり強制力があったようである。沖縄本島では14...

    アメリカ

    ヨーロッパからの侵略者が入ってくる以前から、ネイティブ・アメリカンの間では入れ墨をする部族の習慣があった。これは宗教儀式や戦いの儀式のためと考えられている。ヨーロッパからの植民者の間では、イギリスの節にあるように、土着民族の入れ墨を船乗りたちが取り入れていた。 アメリカ合衆国建国以降では、南北戦争では兵士の間で入れ墨が流行っていた記録があり、大半の兵士は体のどこかに入れ墨をしていたと考えられている。名前が記録に残る中で最も古いアメリカの入れ墨師であるMartin Hildebrandtは1845年頃から入れ墨師のキャリアを開始し、1870年にニューヨークで入れ墨彫りショップを開業した。また、イギリスから伝わってきた入れ墨をしたサーカス団の見せ物は、部族ばりの全身入れ墨を流行らせるきっかけとなった。1860年代にタタールの捕虜になり、強制的に顔から全身まで入れ墨を入れられた後、1870年代より見せ物師となり、アメリカではP・T・バーナムに雇われ興行したCaptain George Costentenusなどが有名である。1891年には、Samuel O'Reillyが最初の電動入れ...

    イギリス

    古代のグレートブリテン島では、ピクト人などが入れ墨をしていた記録がある。また、10世紀前後にイングランドを征服したバイキングも入れ墨をしていた記録がある。 16世紀より海外進出を始め、17世期から20世紀中盤まで海洋国家として世界中に植民地を保有していたイギリスでは、太平洋諸島のポリネシア人がしていた刺青を船乗りが真似たことから刺青文化が本格的に始まった。16世紀には、エルサレムに巡礼し聖なる入れ墨を入れることが流行となった。また、植民者たちが入れ墨をした土着部族をイングランドに強制的に連れ帰り、見せ物としてビジネスにすることもあった。1577年に、マーティン・フロビッシャーが3人の入れ墨のイヌイット(男、女、子供)をロンドンで見せ物にしたのが初期の記録として残っている。1769年に出版されたジェームズ・クックのタヒチへの航海に関する本では、現地人が入れ墨を指して「tatau」と呼んでいたことが記載されている。これは英語の「tattoo」の語源となった。 19世紀になると、見世物小屋やサーカスのエンターテイナーの間でも入れ墨が流行した。1804年に、Jean Baptiste C...

    中国

    歴史的には、書経、史記、志怪小説、筆記などの史書には、入れ墨に関する記述がある。越絶書や春秋左氏伝では、蛮族の入れ墨(紋身 (Wen Shen))の習慣について記述がある。紀元前3世紀の荀子は、犯罪者は入れ墨を入れられるべきであると説いている。先秦(または西周?)の頃から犯罪者に入れ墨を入れる墨刑が行われるようになった(文身、鏤身、紮青、點青、雕青などと呼ばれた)。 唐の時代には入れ墨が盛んに行われていた。段成式の著作酉陽雑俎には人々の入れ墨の習慣が興味深く記録されている。その後、棒打ちの刑や打ち首の対象となったため一時途絶えたが、その後も慣習は残る。 宋代の岳飛は背中に「精(尽)忠報國」の入れ墨があったとされる。 明代の小説、水滸伝には入れ墨をしたキャラクターが多数登場する。花和尚(牡丹の刺青)の魯智深、九紋龍(9匹の龍の入れ墨)の史進、大蛇の入れ墨の張順、燕青や楊雄などが見事な入れ墨を入れていたことになっている。この小説が版画の挿絵付きで1757年に日本でも出版されると、龍・虎・唐獅子・花・宗教画などをモチーフとした飾りとしての入れ墨が流行するきっかけを作った。 1920-3...

    入れ墨はカウンターカルチャーと相性がよく、ロック、ヒップホップ、ポップスのシンガーやダンサーの多くが入れ墨を保有し、また音楽のテーマとして枚挙に暇がないほど取り上げられていることでも知られている。2019年には歌手のアリアナ・グランデが自らのヒットソング「七つの輪」を略して「七輪」と彫ったところ、調理器具の「七輪」と混同されるなど様々な指摘が飛び交い炎上、結局、「七指輪」に修正した。

    斎藤卓志 『刺青墨譜 : なぜ刺青と生きるか』 春風社、2005年。ISBN 4-86110-053-4。
    斎藤卓志 『刺青』 岩田書院、1999年。ISBN 4-87294-150-0。
    Ian Buruma and Donald Ritchie, The Japanese Tattoo (英語)
    中野長四郎 『刺青の真実 : 浅草彫長「刺青芸術」のすべて』 彩流社、2002年。ISBN 978-4-88202-740-9。
    マフィア - ジャパニーズ・マフィア:日本の暴力団を参照。
    『入墨』 - コトバンク
    『いれずみ』 - コトバンク
  8. 相撲 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/相撲
    • 概説
    • 語義
    • 歴史
    • 神事としての相撲
    • 相撲の戦い方
    • 力士
    • 行司家
    • 関連項目
    • 関連書籍
    • 外部リンク

    相撲は古代以前(伝承としては神話の時代)に始まったとされ、江戸時代には庶民の娯楽として隆盛を極めた。 現代の相撲について民俗学の研究ではその担い手と歴史的系譜から、相撲を生業とする人々による興行相撲から連なる大相撲、学生相撲や実業団相撲などのアマチュア相撲、地方の神事や余興として行われてきた相撲(新田一郎や池田雅雄らによって「素人相撲」に分類された草相撲、野相撲、奉納相撲など)の3つに区分する。特に日本相撲協会が主催するスポーツの興行としての大相撲が有名だが、神事に由来するため、他のプロスポーツと比べて礼儀作法などが重視されており、生活様式や風貌なども旧来の風俗が比較的維持されるなど文化的な側面もある。 日本国内外で同じような形態の格闘技としては、沖縄本島の沖縄角力(シマ)、モンゴルのブフ、中国のシュアイジャオ、朝鮮半島のシルム、トルコのヤールギュレシ、セネガルのランブなどがある。それぞれ独自の名前を持つが、日本国内で紹介される場合には何々相撲(沖縄相撲(琉角力)、モンゴル相撲、トルコ相撲など)、といった名で呼ばれることが多い。

    新田一郎によると「相撲」は当初は争うことや抗うことを意味し、特定の格闘競技を意味したものではなく、格闘や技芸を一般的に意味する漢語であったという。 「すもう」の呼び方は、古代の「すまひ」が「すもう」に変化した。表記としては「角力」、「捔力」(『日本書紀』)、「角觝」(江戸時代において一部で使用)、など。これらの語はもともと「力くらべ」を指す言葉であり、それを「すもう」の漢字表記にあてたものである。19世紀から20世紀初頭までは「すもう」は「角力」と表記されることが多かった。古代には手乞(てごい)とも呼ばれていたという説もある。(手乞とは、相撲の別名とされ、相手の手を掴むことの意、または、素手で勝負をすることを意味する。) 大相撲を取る人は正式名称は「力士」(りきし)といい、また「相撲取り」、親しみを込めて「お相撲さん」とも呼ばれる。 英語では「sumo(スモウ)」または「sumo-wrestling(スモウ・レスリング)」と表記される。 なお、日本では組み合う格闘技的な競技を総じて相撲と呼ぶ。用例には腕相撲、足相撲、指相撲、拳相撲(wikidata)、草相撲などがある。他に、相撲を模して行われるものに紙相撲がある。

    古代

    日本における相撲の記録の最古は、『古事記』の葦原中国平定の件で、建御雷神(タケミカヅチ)の派遣に対して、出雲の建御名方神(タケミナカタ)が、「然欲爲力競」と言った後タケミカヅチの腕を掴んで投げようとした描写がある。その際タケミカヅチが手を氷柱へ、また氷柱から剣(つるぎ)に変えたため掴めなかった。逆にタケミカヅチはタケミナカタの手を葦のように握り潰してしまい、勝負にならなかったとあり、これが相撲の起源とされている。 人間同士の相撲で最古のものとして、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)にある野見宿禰と「當麻蹶速」(当麻蹴速)の「捔力」(「すまいとらしむ・スマヰ」または「すまい・スマヰ」と訓す)での戦いがある(これは柔道の起源ともされている)。この中で「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」とあり、試合展開は主に蹴り技の応酬であり、最後は宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされる。これらの記述から、当時の相撲は打撃を主とする格闘技であり、既に勝敗が決した相手にトドメの一撃を加えて...

    中世

    相撲節会に求められていた実践的な意味での相撲は、組み打ちの鍛錬として、封建制を成立させた武士の下で広まった。これを武家相撲という。武士の棟梁となった源頼朝は特に相撲を好み、鎌倉を中心に相撲が盛んに行われた。 続く室町幕府は、相撲の奨励には消極的であったが、戦国大名は熱心に相撲人の養成に力を注いだ。また、応仁の乱以降都落ちをした貴族とともに京都の相撲文化が地方に伝わり、民衆の間に相撲が定着、相撲を生業とするものが現れる。これを土地相撲、または「草相撲」という。

    近世

    江戸時代に入ると武家相撲はその存在意義を失い、土地相撲が興行化して民衆一般に広がる。興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称し、また武家相撲も力士を大名の抱えとすることでその名残をとどめた。 江戸の爛熟期である明和・安永期(1764年-1781年)には、急速に見世物として の性格が濃厚になり、盲人や女性の相撲が盛況をみせ、明和6年(1769年)の浅草寺の開帳では、30日間興行の予定の女相撲や盲人と女性による相撲が20日間も延長されるほどの人気を博した。11代将軍徳川家斉の時代になると、将軍が観覧する「上覧相撲」がきっかけとなり庶民の娯楽としてさらに隆盛し、なかでも寛政3年(1791年)6月11日に行われた上覧相撲によって相撲熱は一気に高まった。「勧進相撲」は神社仏閣の建立・修繕などの資金として寄進を勧めるための興行から、職業相撲としての営利的興行へと変化し、寛政年間には、第4代横綱谷風梶之助や第5代横綱小野川喜三郎、雷電為右衛門といったスター力士たちが登場し、江戸相撲は黄金期を迎えた。天保4年(1833年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所とした。

    神事との関係性

    相撲は神事としての性格が不可分である。ただし、相撲と神事の関係については、相撲が神事に合わせて奉納される場合と、相撲の所作が神事の不可欠な要素に含まれている場合に分けられる。さらに相撲が他の芸能とあわせて余興で行われる場合のほか、相撲の所作を演劇的に行うものやそれをモチーフにした舞の形式になっている場合もあり、一般的な格闘技としての相撲を要素としないものもある。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。 1. 神事相撲の例 1.1. 唐戸山神事相撲 - 石川県羽咋市 羽咋神社 1.2. 延方相撲 - 茨城県潮来市延方 鹿嶋吉田神社 1.3. 琴平相撲 - 茨城県北相馬郡利根町布川 琴平神社

    大相撲の神事

    1. 江戸中期以降の大相撲は特に神道の影響が強く、力士の土俵入りの際に拍手をうち、横綱が注連縄を巻くようになったのは、相撲の宗家とされた吉田司家の許可に基づくものである。東京での本場所前々日には東京都墨田区の野見宿禰神社に日本相撲協会の幹部、審判部の幹部や相撲茶屋関係者が出席して、出雲大社教の神官によって神事が執り行われる。 2. 土俵祭 2.1. 土俵祭とは、本場所の前日には立行司が祭主となって行なう祭事である。介添えの行司が清祓の祝詞をあげた後、祭主が神事を行い、方屋開口を軍配団扇を手にして言上する。この後、清めの太鼓として、呼び出し連が土俵を3周して式典が終わる。寛政3年(1791年)征夷大将軍・徳川家斉の上覧相撲の際に、19世吉田追風(吉田善左衛門)が「方屋開」として始めたものである。 3. 相撲場は明治中期まで女人禁制で、明治になるまで観戦することもできず、現在でも土俵上に女性が上るのを忌避している。しかしながら、伝統的な慣習であるという点については異論が出ている。女相撲という言葉は古くは日本書紀に見られ、江戸時代以降は興行記録も残っており、戦前まで女相撲の興行が行われ...

    競技の形態としては、直径4.55メートル(15尺)の円形、または、四角形をした土俵の中で廻しを締めた二人が組み合って(取り組み)勝ち負けを競う。土俵から出るか、地面に足の裏以外がついた場合、もしくは反則を行った場合、負けとなる。その判定は行司(アマチュア相撲では主審と呼ぶ)が行う。 相撲の取組は、伝統的に力士の年齢・身長・体重に関わらずに行われる。(無差別の戦い方) 相撲司家の吉田家の故実では、禁じ手制定以前の相撲の戦い方について「相撲の古法は、突く・殴る・蹴るの三手である」と伝えられている。

    力士の鍛練法

    1. 受け身・鉄砲・四股・摺り足・股割・ぶつかり稽古など

    力士の段級

    1. 日本相撲連盟が、段級位制を取っている。黒いまわしの着用が許されるのは初段以上である。

    あんことソップ

    重量級の力士をあんこ、軽量の力士をソップと称する。軽量力士は一般的には不利とされるが、軽量ゆえの動きを生かした技で大型のあんこ力士を倒す取組は大きな見所となる。近年では筋力トレーニングを重視した千代の富士や霧島といった、いわゆるソップ体型の名横綱、名大関が登場している。

    相撲司家の宗家吉田司家以外に、全国には行司家というものがあった。行司家は、五条家をはじめ、吉岡家、服部家、尺子家、一式家、岩井家、式守家、木村家、木瀬家、鏡山家、長瀬家など、その他多数存在した。
    2017年現在、木村家と式守家のみが残っている。
    日本の文化としての系譜
    力士の違いによる相撲の種類
    相撲に関わる事柄
    世界にある日本の相撲と似た競技
    神宮司庁『古事類苑 武技部』吉川弘文館、1999年1月1日、ISBN 9784642002448。
    肥後相撲協会編『本朝相撲司吉田家』。
    吉田長孝『原点に還れ〜国技相撲廃止の危機を突破した男 吉田司家二十三世追風 吉田善門』熊本出版文化会館(発売:創流出版)、2010年10月1日、ISBN 978-4-915796-88-3。
  9. 夢の扉 〜NEXT DOOR〜 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/夢の扉_~NEXT_DOOR~
    • 番組概要
    • 出演者
    • スタッフ
    • 放送休止

    様々な分野で活躍している人物を紹介し、番組の終盤にこれからの目標をMY GOALに記してもらう。 同番組は民放連の「児童・青少年に見ていただきたい番組」に推薦されている。また、千住明による音楽も評価が高い。 上記の通り、2011年4月3日で放送終了し、翌週の4月10日からは『夢の扉+』と改題・リニューアルして放送されている。音声モードもモノラルからステレオに変更された。

    ナレーター

    1. 宮沢りえ(女優、放送開始 - 2007年9月30日) 2. 長峰由紀(TBSアナウンサー、2007年10月7日 - 2010年3月28日) 3. 出水麻衣(TBSアナウンサー、2010年4月4日 - 終了まで) 4. 堀井美香(TBSアナウンサー、2010年8月29日 - 終了まで)

    ドリームナビゲーター

    番組リポーター。2010年9月19日を最後に廃止。 今まで出演した全ドリームナビゲーター

    総合演出:田中経一
    総合構成:尾首大樹
    構成:古井知克
    音楽:千住明
    2006年以降は世界陸上開催の時期は世界陸上中継で放送休止となる。
    2006年1月1日は『最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦XXXI』を放送のため、休止。
    2006年7月23日はプロ野球サンヨーオールスターゲームの第2戦中継(7月22日は降雨中止となったため)のため、放送休止となった。
    2006年12月31日は『K-1 PREMIUM 2006 Dynamite!!』を放送のため、休止。
  10. 恐竜大戦争アイゼンボーグ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/帰ってきたアイゼンボーグ
    • 概要
    • ストーリー
    • 登場人物
    • 主題歌・挿入歌
    • スタッフ
    • キャスト
    • 放送局
    • コミカライズ
    • 帰ってきたアイゼンボーグ
    • 備考

    『恐竜探険隊ボーンフリー』『恐竜戦隊コセイドン』と合わせて「円谷恐竜三部作」と称されるシリーズ作の第2作。第1作の『ボーンフリー』と同様、キャラクター部分はアニメ、恐竜や巨大ヒーローの活躍場面は特撮実写で製作された。企画は前作の続編として円谷プロダクションと旭通信社との間で企画されていたが、広告代理店が東急エージェンシーに代わり、放送局もNETから東京12チャンネルに移動した。 前作『ボーンフリー』では恐竜の保護を中心としたことで戦闘描写をしづらくなった反省から、恐竜を人類の敵として描き、それに対して主人公のアイゼンボーグ率いるD戦隊が立ち向かうという設定となっている。また、特撮も前作でスケジュールを圧迫していたモデルアニメーションから着ぐるみを中心としたものになった。 本作品企画当初は主役が男女によるコンビという設定は無かったが、タイトルを付ける時にトミーの高橋靖男がまずドイツ語で鉄を意味する「eisen(アイゼン)」から「アイゼンボーグ」のタイトルを決め、そこから主人公の二人の名を「愛」と「善」にし、兄妹のキャラクター設定を作っていった。 立花兄妹は合体(アイゼンクロス)することにより戦闘形態である「アイゼンボーグマン(劇中では未呼称)」となり、その際のエネルギーによりアイゼンI号は超戦闘マシン・アイゼンボーグ号に変形する。だが、視聴率不振などのため、第18話からはテコ入れとして愛の超能力でアイゼンボーグマンとアイゼンボーグ号が合体し、男女2人の合体によって巨大ヒーロー「アイゼンボー」が登場する。敵についても、「恐竜軍団を率いる恐竜の長」から、「怪獣を使い地上を侵略しようとする恐竜魔王」への交代といった路線変更がなされている。 ドラマ性に関しては、当初は主人公の愛と善の2人の兄妹愛を軸に比較的シリアスなストーリーを展開していたが、番組後半からコメディ色が強くなり、唐突にピンク・レディーの「UFO」の曲にあわせて恐竜が踊るというお遊び的なシーンが入る話(第19話)や、敵側の視点から徹底したコメディとして作られた第30話のようなエピソードもみられた。その一方、シリーズを通して恐竜帝王ウルルや恐竜魔王ゴッテス、調教師ソビーナによってやむを得ず地上侵略を行う恐竜の悲劇を描いたシリアスなドラマも描かれた(第6話など)。鳥居博士の知り合いの映画監督が自らの撮影所(東宝...

    1986年、七千万年前に絶滅したはずの恐竜たちが、超能力を持って蘇り人類に宣戦を布告した。事故で重傷を負いサイボーグとなった立花愛と善の兄妹は、地球上のあらゆる生物による攻撃から人類を守るプロジェクトチーム・D戦隊の仲間たちとともに戦闘マシンを駆って恐竜軍団に立ち向かう。やがて戦いは新たな敵、恐竜魔王ゴッテスや戦闘巨人アイゼンボーの参戦で、より激化することとなった。

    D戦隊

    共通の形状の制服を着用するが、善は赤、愛は緑のスーツを着ている。 立花 善 1. 1年前、父が進めていた対恐竜戦闘車の開発中に事故に巻き込まれ、鳥居博士によってサイボーグとして蘇生した。冷静な判断と熱い心を併せ持っている。愛とクロスすることによってアイゼンボーグマンになる。母は愛を産んで間もなく病死、父は一年前の事故の際に死亡している。サイボーグである善と愛は、人間以上の聴覚と、深海の水圧にも耐えられる丈夫な体を持つ。目には赤外線アイを、右手首に通信機を内蔵している。鳥居博士以外のD戦隊のメンバーは皆、光線銃を携帯し、制服の右肩に赤外線ライトを装備している。体を損傷した状態でアイゼンクロスを行うと、体に強い負担がかかる。また、体が強い磁力を帯びるとクロスしても弾かれてしまう。戦いの後、愛と共に宇宙の平和のために旅立った。 立花 愛 1. 善の妹。兄と共に事故に遭い、鳥居博士によってサイボーグとして蘇生した。性格は勇敢かつ優しく、子供や未洗脳の恐竜に慈愛の心を持って接する。善のことは「善」と呼び捨てで呼んでいる。善とクロスすることによってアイゼン号に吸収され、アイゼンボーグ号の完全...

    恐竜軍団

    地底の大空洞で密かに生息していた恐竜たちが、暗黒星雲・ガザリヤ星人であるゴッテスの手によって強制的に地球征服の尖兵にされ、地上に現れた軍団。母星である70光年彼方のレグルス系の惑星ガザリヤ星の水資源が枯渇したため、よく似た環境の地球を植民星にすることがゴッテスたちの侵略目的だった。1億年もの間に独自の進化を遂げ、防衛軍の最新鋭兵器が通用しない頑強な肉体を誇り、火炎の息や怪光線といった超能力を身につけている。目から放つ光線により、犬やコウモリなどの動物を赤く変色させ、凶暴化させる能力を持つ。この能力に操られた動物はカラージュと呼ばれ、強い電気ショックを受けるか、操っていた恐竜が倒されると元に戻る。尖兵として改造された恐竜は目が赤い。第19話までの恐竜が進化した怪獣は、恐竜と認識されているが、第20話のギラーはサイボーグ、第21話のガルウ以降はより完全な怪獣として改造された設定となった。最終決戦後は、ゴッテスが倒されゴッテスの支配下から解放されたことに喜びながら大人しく自分たちの世界へと帰り、出入り口はD戦隊によって塞がれた。 恐竜帝王ウルル 1. 恐竜軍団のボスである巨大なティラノ...

    その他

    ムサシ 1. 第38話でパトロール中の立花兄妹が出会った青年。胸に十字架型のペンダントを着けている。ゾビーナ・津波怪獣ワーラ・氷壁怪獣シーザラスに苦戦するアイゼンボーにゴールダを仕向けて助け、続く第39話(最終回)では立花兄妹を怪獣軍団の本拠地に案内、そしてゴッテスの急所がペンダントであることを見抜き、ペンダントに取り付いて再生能力を打ち消したが、ゴッテスの爆死に巻き込まれて自分も瀕死の重傷を負い、最後、自分が宇宙の平和を守るスペリオ星人であることを明かして絶命した。立花兄妹はこの後彼の遺志を受け継いで、宇宙へ旅立った。 銀河連邦獣ゴールダ 1. ムサシの用心棒的な正義の怪獣で、ムサシの十字架ペンダントから出撃する。武器は両腕をL字に組んで放つ光線。第38話でゾビーナ・ワーラ・シーザラスに苦戦するアイゼンボーを助けるべく出撃、続く第39話でも、ゴッテス・最終兵獣キラザウルス・火山怪獣マグマドン軍団(4号 - 6号)との戦いに加勢したが、最後はアイゼンボーを庇い、ゴッテスの投げた巨大岩石が命中して絶命した。

    オープニングテーマ:「戦え! アイゼンボーグ」 作詞:高木あきら / 作曲・編曲:津島利章 / 歌:サニー・シンガーズ、西六郷少年少女合唱団
    エンディングテーマ:「誓いの兄妹」 作詞:高木あきら / 作曲・編曲:津島利章 歌:西六郷少年少女合唱団
    挿入歌(第39話):「小さな出発」 作詞:満田かずほ / 作曲:子門真人 / 編曲:福井峻 /歌:朝霧マチ(現:葛城ユキ)※1973年のオリジナル曲の流用[注釈 11]
    総指揮:円谷皐(1〜2話)
    企画:東急エージェンシー、円谷プロダクション
    原案:内山伊史、高橋靖男(東急エージェンシー)、円谷皐(円谷プロダクション)
    プロデューサー:新美隆雄、石川博(東京12チャンネル)、松島忠(東急エージェンシー)、円谷粲、大木淳(円谷プロダクション)

    声の出演

    1. 立花善:上恭ノ介 2. 立花愛:麻上洋子(現・一龍斎春水) 3. 黒沢一平:兼本新吾 4. 鳥居博士:水鳥鉄夫 5. 神原五郎、ウルル:滝口順平 6. 恐竜魔王ゴッテス:筈見純 7. 魔女ゾビーナ:高橋和枝 8. その他:プロダクション・河 9. ナレーター:森功至、村山明

    スーツアクター

    スーツアクターは『ウルトラマンレオ』や『メカゴジラの逆襲』を担当した二家本辰巳と河合徹が中心となった。二家本は殺陣師のいた『レオ』との差別化を考慮し、フランケンシュタイナーと同様の技をかけるなど、よりハードな技を用いている。 1. アイゼンボー(アクション)、恐竜:二家本辰巳 2. アイゼンボー(変身シーン)、恐竜・怪獣:河合徹 3. 恐竜・怪獣:グループ・ブイ

    小学一年生 1977年11月号 - 1978年3月号連載・作画:細井雄二、いのうえだいすけ
    小学二年生 1977年11月号 - 1978年3月号連載・作画:とのづかみのる

    2017年12月5日に日本のアニメや子供番組を専門に流す中東限定のチャンネル「スペース・トゥーン」にて放送された、『恐竜大戦争アイゼンボーグ』のドキュメンタリー番組。関係者やスタッフインタビューのほか、田口清隆が監督した新規撮影パートの短編ドラマ「不滅のD戦隊!時を超えた闘い!!」で構成されている。2017年12月29日には、YouTubeの「ウルトラチャンネル」で日本語版が公式配信された。 原典は中東地域で人気が根強く、サウジアラビアの皇太子が打ち出した政策の1つ「サウディ・ヴィジョン2013」のもと、リヤド出身のジャッラーハ・アルフレイルとアズィーズ兄弟の協力や現地からの強い要望と尽力により制作が実現した。2014年に円谷プロがドバイでイベント「IGNコンベンション」に出展していたことや、原典を知る者が少ない現在の円谷プロのスタッフを驚かせたほどジャッラーハが原典に詳しいことから、2015年には始動に至った。「中東向けに新テレビシリーズを」という希望もあったが予算的に難しいので、まず原典と日本の特撮文化を紹介するドキュメンタリーを作ろうということになり、2016年にドキュメンタリーパートと新撮パートの撮影が行なわれた。 ドラマの新規撮影に際し、アイゼンI号とアイゼンII号以外は原典当時の撮影素材が残っていなかったため、修復したそれら2機以外は新作することとなった。当初、円谷プロは現代風にアレンジしたデザイン案を提示したが、ジャッラーハは原典を復活させたいという思いから、それを断った。ジャッラーハの思いを理解した円谷プロは可能な限り原典に近いものを制作し、当時の特撮スタッフによる監修のもとで現在のスタッフが撮影する体制を組んだうえ、アクションについても当時のアイゼンボーを演じていた二家本辰己に監修してもらった。合成を使用していない飛行シーンでは、当時のイメージを操演によって踏襲しているものの、キャメラワークは現代的にアレンジしている。また、プロップもサイズ感などは原典と同様のものを再現することを意図している。なお、撮影現場にはアイゼンボーのフィギュアを作って発表したことから中東のファンにも知られる声優の関智一も、見学に訪れていたという。 また、同様のセットを使用していた関係から『ウルトラマンオーブ』などに登場したビルも映っている。 アラビア語への吹き替えにつ...

    本作品の本放送当時はウルトラシリーズのブームが来ており、関東地方では同シリーズの再放送が早朝や夕方に頻繁に行なわれていた。その世相を反映し、第27話や第35話では劇中劇として、目が光っていないウルトラマンとウルトラマンタロウが登場するテレビドラマが放送されていた。主題歌には『帰ってきたウルトラマン』が使われている。
    本作品のBGMは、同じ作曲担当の津島利章が手がけていた『プロレスの星 アステカイザー』からの流用が多い。また、一部の楽曲は次作『恐竜戦隊コセイドン』にも流用された。
    2010年2月から10月まで、チャンネルNECOの「円谷特撮アワー」枠にて放送が行われた。
    イタリアでは、イタリア版『メガロマン』の主題歌を歌ったMegalonsingersがオリジナルの主題歌「I-Zenborg」を歌っている。また、韓国でも放送された。
  11. 其他人也搜尋了