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司馬 達等 (しば だっと・しば たちと・しば の たちと・しめ たちと、生没年不詳)は、 飛鳥時代 の人物。 氏姓 は鞍部村主(くらつくりのすぐり)あるいは鞍師首。 出自. 『 日本書紀 』 雄略天皇 条に記載される 鞍部堅貴 の一族 [1] 。 経歴. 日本に 仏教 が公に伝わる( 仏教公伝 )以前から仏教を信仰していたとされる。 『 扶桑略記 』によると、 522年 ( 継体天皇 16年)2月に日本に渡来し、 大和国 高市郡 坂田原に草堂を結び、本尊を安置し帰依礼拝したという。 584年 ( 敏達天皇 13年) 播磨国 で 高麗 からの渡来僧で還俗していた 恵便 に、娘の嶋( 善信尼 )とその弟子2人を出家させたという。
- 生涯
- 逸話
- 評価
- 参考文献
名門の家柄
河内郡温県孝敬里出身。司馬防の次男で、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬卬の12世孫にあたる。司馬氏は代々尚書などの高官を輩出した名門の家柄で、司馬懿自身幼い頃から厳格な家風の下に育った。 兄に司馬朗(伯達)が、弟に司馬孚(叔達)・司馬馗(中国語版)(季達)・司馬恂(中国語版)(顕達)・司馬進(恵達)・司馬通(雅達)・司馬敏(幼達)らがいる。司馬家の8人の男子は字に全て「達」が付き、聡明な者ぞろいであることから「司馬八達」と呼ばれた[注釈 1]。妻に張春華、息子に司馬師・司馬昭らが居る。兄の司馬朗と同様に曹操に出仕した。 司馬懿は若年の頃から聡明で、博覧強記・才気煥発で知られ、優秀な人物が揃っていた司馬八達の中でも最も優れた人物といわれ、崔琰にも高く評価された。内心嫌悪している時も表面上は穏やかに振る舞い、疑り深いが臨機応変に動いたという。
曹操への出仕
建安6年(201年)、司馬懿は河内郡で上計掾に推挙された。当時司空だった曹操は司馬懿のことを聞き、その出仕を求めたが、『晋書』宣帝紀によれば、司馬懿は漢の衰微を知っており、曹操に屈することをよしとしなかったため、風痹(リューマチ)を理由に辞退した。当時、名士が高官の招請を断ることは一種の流行となっていた。 司馬懿の出仕については諸説あり、『晋書』宣帝紀によれば、身体の不調を信じなかった曹操は夜に人をやって刺させたが、司馬懿は臥したまま身動きを取らなかった。その後、建安13年(208年)に「丞相となった曹操が、司馬懿を文学掾に任じて「またためらうようであれば、捕らえてでも連れてくるように」と命令したため、やむを得ず出仕し、黄門侍郎・議郎・丞相主簿などを務めた。また『北堂書鈔』に引く『魏略』によれば、好学な司馬懿に対し、己を才に欠けると見なしていた曹洪が補佐を求めた。司馬懿は曹洪との交際を恥に思い、仮病を使い杖をついた。恨みに思った曹洪は曹操に告げ口した。そして曹操に出仕を求められると、杖を投げ捨てて命に応じたという。 建安20年(215年)に曹操が陽平関の戦いに勝利し漢中を制した際...
蜀との戦い
建安25年(220年)、曹操が死去した際に、遺体を鄴に運び葬儀を主催することを曹丕に命じられた。曹丕が魏王に即位すると、司馬懿は河津亭侯に封じられ、丞相長史となった。同年、献帝からの禅譲を受け魏の皇帝となった曹丕は、司馬懿を尚書とした。また督軍、御史中丞にも任じ、安国郷侯に封じた。 黄初2年(221年)、侍中・尚書右僕射となった。親征を行う曹丕の留守を守っていた司馬懿は、黄初5年(224年)に向郷侯に改封され、仮節・撫軍大将軍・録尚書事に叙せられ、5000人の兵権を与えられた。これは有力な将軍であった夏侯尚が病死したことによるものであった。司馬懿があまりに負担が大きいとして辞退すると、曹丕は「雑事にかまけてばかりで、休む暇もないのだ。栄誉を与えるというのではなく、ただ苦労を取り持ってほしいのだよ」と言ったため、引き受けざるを得なくなった。 黄初7年(226年)、曹丕が崩御し、その子の曹叡が皇帝に即位した。曹丕が死ぬ際には曹真・陳羣・曹休と共に曹叡の補佐を託された。曹叡は母の甄氏が誅殺されたことで長らく宮廷から遠ざけられており、臣下たちとはほとんど面識がなかった。このため、即位した...
司馬懿が遠大な志を抱いていると考えていた曹操は、彼が「狼顧の相」を持つという噂を聞きつけ、司馬懿の背後から名前を呼んでみた。すると、司馬懿は体を正面に向けたまま頭部のみ真後ろに振り向いた(首を180度後ろに捻転させることができた)。また以前には、3頭の馬が1つの槽(おけ)から餌を食べる夢を見ていたこともあったため、曹操はひどく嫌悪した。そして、子の曹丕に対して「司馬懿は一臣下として終わる人間ではあるまい。必ずやおまえの政事に関わってこよう」と語ったが、司馬懿を重んじていた曹丕は意に介さなかったという。本来「狼顧」というのは「狼が用心深く背後を振り返るように、警戒心が強く老獪なこと」を指す言葉であるが、『晋書』では、司馬懿の残忍さが狼顧の相に結びつけられている。 司馬懿の現存する詩は、『晋書』...
司馬懿の死後、その権力を継承した司馬師と司馬昭は魏の皇帝を廃立し、最終的に孫の司馬炎が禅譲を受けて皇帝に即位した。司馬懿自身が生前に簒奪の意図を明示したという記録はないが、井波律子が「司馬懿は文帝・明帝の遺命を受けながら、最終的に魏王朝の簒奪をもくろむ裏切り者の烙印を、これまた千古に押されつづけ」たと述べているように、後世の評価としては魏王朝の簒奪を考えていたとされることが多く、その評判は芳しくない。 司馬氏の西晋を滅ぼした一人である後趙の石勒は、司馬懿が郭太后を利用したことを、曹操が献帝を利用したことに引き比べて「大丈夫(立派な男性)たる者、磊磊落落、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を...
『晋書』『三国志』『資治通鑑』井波律子『裏切り者の中国史』講談社学術文庫、2024年。ISBN 9784065335413。