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  1. 僕だけのプリンセス - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 僕だけのプリンセス

    『僕だけのプリンセス』(ぼくだけのプリンセス、原題:王子看見二公主)は台湾のテレビドラマ。 2008年 12月14日から2009年 4月5日まで台湾の中華電視公司で放送された。 日本では2010年 1月13日から2010年5月26日までホームドラマチャンネルで放送された。

    • wáng zǐ kān jiàn èr gōng zhǔ
    • 王子看见二公主
    • ㄩˋ ㄗˇ ㄎㄢ ㄐㄧㄢˋ ㄦˋ ㄍㄨㄥ ㄓㄨˇ
    • 王子看見二公主
  2. 吐谷渾 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 吐谷渾
    • 歴史
    • 社会経済
    • 歴代君主
    • 関連項目
    • 参考文献

    建国

    鮮卑族の慕容部において大人(たいじん:部族長)の慕容渉帰が死去すると、嫡長子の若洛廆(慕容廆)が後を継いで大人となった。一方、庶長子である慕容吐谷渾は父の代から700戸を分け与えられていたが、あるとき慕容吐谷渾の馬たちが弟の慕容廆の馬たちに危害を加えたため、その罪で慕容部から追放されてしまう。慕容吐谷渾たちは陰山に行き着くが、永嘉の乱に遭遇したため、最終的に西の隴山を越えて西零以西の甘松の界(青海地方)に移り住み、遊牧を始めた。慕容吐谷渾が死ぬと、その子孫たちは始祖である吐谷渾の名を取って国名とした。

    六朝との関係

    吐谷渾は南北朝時代の中国王朝にしばしば朝貢し、中国文化を摂取した。とくに436年には北魏から鎮西大将軍、438年には南朝宋から鎮西大将軍・都督西秦河沙三州諸軍事・西河二州刺史・隴西王を授けられ、翌年には河南王に改封された。444年、吐谷渾内部で権力闘争があり、北魏軍の侵攻を受けたため、吐谷渾王の慕利延は于闐国(現在の新疆ウイグル自治区・ホータン)に逃れて、于闐王を殺し、その地を占拠した。その後、慕利延は故土に戻り、南朝宋との関係を深め、北魏としばしば交戦した。この頃、吐谷渾は西域南道諸国も支配し、シルクロードの国際貿易を統制していた。

    隋唐との関係

    581年、楊堅はシルクロードの交易を確保するため、歩騎数万を送って吐谷渾を攻撃し、大敗した吐谷渾王は遠く逃れたため、隋は吐谷渾に傀儡政権を樹立した。隋の煬帝もしばしば吐谷渾に遠征軍を送り、この地域に西海郡、河源郡などを設置した。しかし、隋末の大乱により、吐谷渾が奪回している。唐の太宗も635年に李靖を大総管とする大軍を吐谷渾に遠征させたため、吐谷渾は東西に分裂、西部は鄯善国(現在の新疆ウイグル自治区・ロプノール付近)を中心に吐蕃に降り、東部はなお青海にあって唐の属国となった。唐はしばしば吐谷渾王に公主を降嫁させて懐柔を図り、唐との関係は友好的なものがあった。

    吐谷渾は遊牧を主として生活し、馬、牛、駱駝などを盛産した。その良馬は青海駿と呼ばれ、日に千里を行く竜種として有名であった。青海の地は寒冷で農業はあまり発展しなかったが、銅や鉄を産し、鉱山や冶金が発展した。吐谷渾の領土は現在の新疆南部に及び、そのキャラバン隊はシルクロードを通り中央アジアやペルシャにまで進出、その物産を益州や長安にもたらした。 宗教はもともとシャーマニズムであったが、後には仏教を信仰し、514年には益州に九層の仏寺を寄進している。文字はなく、上流階層は漢字を使用した。吐谷渾の婦人は金花で頭部を飾り、とくに可汗の夫人は華麗な金花冠を頭に載せていた。これは遼西の慕容部に共通する風俗である。

    『魏書』列伝第八十九
    『晋書』列伝第六十七 四夷伝
  3. 封神演義の登場人物一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 封神演義の登場人物一覧
    • 商(殷)
    • 商 → 周
    • 闡教
    • 截教
    • 女媧とその配下
    • その他

    1. 商の天子。女媧宮を詣でた際、女媧の像を見て淫らな思いを起こし詩を書き残したため、女媧の怒りを買った。名君であったが、妲己を娶ってから酒色に溺れ暴政を行う。封神されて天喜星となる。

    蘇妲己(そ だっき) / 千年狐狸精(せんねんこりせい) / 九尾狐狸精(きゅうびこりせい)

    1. 紂王の妃。その正体は冀州侯蘇護の娘の姿に化けた(殺して体を乗っ取った、とする解釈もある)千年狐狸精で、女媧の命を受けて商王朝の命数を縮めるために紂王に近づいた。 2. その性格は残忍非道で狡猾。女媧の命を自分の都合の良いように解釈して残虐な行為を繰り返しては楽しんだため、最終的に女媧の怒りを買って見放され、粛清される羽目になる。 3. 『封神演義』では、妲己を二字の字と解釈した上で蘇を姓とし「蘇妲己」と表記されている。しかし、春秋以前の時代の婦女子は姓より先に字が来るのが普通であり、『史記』殷本紀の注にも「妲は字にして姓は己であり」と記されている。 4. 『封神演義』では封神されていないが、清代宮廷大戲『封神天榜』では合貴星に封神されている。

    姜氏(きょう し)/ 姜妃(きょう ひ)/ 姜皇后(きょうこうごう)

    1. 紂王の皇后。妲己と費仲の策略にはまって紂王暗殺の濡れ衣を着せられ、両指を焼かれ片目を抜かれるといった拷問を受けた後、死を遂げる。封神されて太陰星となる。

    黄飛虎(こう ひこ) / 武成王(ぶせいおう)

    1. 商の鎮国武成王。五色神牛に跨る。妻と妹を殺された事で造反を決意し、後に周の開国武成王に就任した。三関分けでは青竜関を攻める軍の主将に任じられる。封神されて東岳泰山斉天仁聖大帝となる。

    黄天化(こう てんか)

    1. 黄飛虎の長子。清虚道徳真君の弟子。玉麒麟に跨り、二本の銀鎚で戦う。造反を起こした黄飛虎が陳桐に殺された際、これを助けるために下山した。後に道徳から「高に逢ったら戦わず、能に遇ったら引き返せ」という意味の偈を与えられたが、これを気に留めなかったために、高継能と戦い命を落とした。封神されて管領三山正神炳霊公となる。安能版では黄飛虎の次子となっている。

    黄天禄(こう てんろく)

    1. 黄飛虎の次子。父黄飛虎と共に周に帰順する。封神されて西斗星官となる。

    1. 闡教の教主。玉虚宮に住む。

    1. 元始天尊と通天教主の兄弟子。玄都に住む。

    雲中子(うんちゅうし)

    1. 終南山・玉柱洞。妲己が千年狐狸精であることに気づき、松の剣を紂王に献上して彼女を祓おうとする。剣が焼かれて失敗すると、杜元銑の壁に下山の証となる詩を記して去った。後に雷震子を弟子とした。

    通天教主(つうてんきょうしゅ)

    1. 截教の教主。碧遊宮に住む。

    四聖(しせい)

    1. 西海九竜島に住む四人の仙人。王魔(おう ま)、楊森(よう しん)、高友乾(こう ゆうけん)、李興覇(り こうは)。 2. 聞仲の頼みによって商に加担する。いずれも身長は一丈五六尺で、恐ろしい容貌をしており、跨る怪獣の瘴気によって西岐の馬は黄飛虎の五色神牛以外全て倒れこんでしまった。

    十天君(じってんくん)

    1. 練達の道士たちで、旧知の聞仲が窮地に陥っていることを申公豹に知らされ、参戦する。それぞれの個性に応じた陣を敷いて待ち構える。安能版では「一聖九君」と表記されているが、この呼称は原文には登場しない。

    1. 千年狐狸精たちに紂王の元へと行き、破滅するよう命ずる。 2. しかし、千年狐狸精らが自分の命令をわざと曲解して残虐行為を楽しんでいることを知って怒り、姜子牙らに千年狐狸精たちも倒すよう命じることになる。

    1. 千年狐狸精の義妹。千年狐狸精と共に紂王を惑わす。 2. 西岐軍が朝歌に迫るとこれを迎え撃つべく甲冑をまとって戦うが、女媧の縛妖索(ばくようさく)によって捕縛され、西岐軍に引き渡されて斬首された。

    1. 千年狐狸精の義妹。一度姜子牙に調伏され琵琶に戻るが、後に復活。最期は女媧により捕縛され、西岐軍に斬首された。

    1. 姜子牙の弟弟子。宝貝「開天珠」を持ち、自らの頭を切って飛ばすことを特技とする。 2. もともと闡教の道士だったが、姜子牙に恨みを抱き、十天君や殷郊・殷洪兄弟、土行孫、趙公明の三人の妹たちなど多くの仙人・道士を周に送り込んで、封神を妨害した。懼留孫に捕らえられた際、元始天尊の前で「再び子牙に害なることがあれば北海眼に押し込められても構わない」と誓いを立てる。しかし万仙陣で誓いを反故にして截教陣営に加わり、「西岐など俺が血の海と白骨の山にしてやる」と吐き捨て姜子牙を殺そうとする。最後は白鶴童子に捕らえられ、先の誓いのとおり北海眼に封じられた。後に封神されて分水将軍となる。 3. 原作と安能版の最大の違いは申公豹の扱いにある。安能版では許由と同一人物とされ、老子の庇護を受けており、女媧に影響を与えるほどに有力者として描かれている。また、雷を発生させる宝貝「雷公鞭」を持ち、仙界の策略に憤りを覚えて仙界を妨害するアウトサイダーとして、あるいは戦いの規模の拡大を抑えるよう姜子牙に頼んだり、時には姜子牙の命を救ったりするトリックスターとして作中で重要な役割を演じる。

    白額虎(はくがくこ)

    1. 申公豹が乗騎している虎。 2. 安能版では申公豹の騎獣は「黒点虎」になっており、人間の言葉を喋る能力や、千里眼・順風耳の能力を持つ。

    柏鑑(はく かん)

    1. かつて黄帝軍の総兵官だった男。蚩尤と戦った際に火器で海に打ち落とされ、千年もの間魂が救われずにいた。姜子牙によって助けられ、百霊旗を持って封神台に魂魄を導く役目を負った。封神されて清福正神となる。

  4. 文昭皇后甄氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 文昭皇后甄氏
    • 生涯
    • 逸話
    • 洛神賦の伝説
    • 曹叡の出生に関して

    父は上蔡県令で、甄氏は代々2千石の高官の家柄であった。幼き頃から聡明で、乱世にあって家族に慎ましやかな生活を説くなど、謹厳な性格の持ち主であった。 袁紹の次男袁煕の妻となった。鄴に残し袁紹の妻劉夫人に仕える。建安9年(204年)に曹操が鄴を攻め落とすと、甄氏は戦後に曹丕の妻となった(『後漢書』)。 曹丕の寵愛を受け、曹叡(後の明帝)と娘の東郷公主(中国語版)(早世した)を産んだ。しかし、曹丕の寵愛は次第に薄れていき、郭貴嬪(後の郭皇后)や李貴人・陰貴人に移っていった。更に山陽公劉協(後漢の献帝)の二人の娘たちが入内したこともあり、悲嘆した甄夫人は文帝に対して恨み言を述べた。これが文帝の勘気に触れ、黄初2年(221年)6月に死を賜った。後に曹丕は甄氏を殺した事を大変後悔した。 曹叡の即位後、生前に位の低かった母の名誉を回復して、皇后を追贈し、「その英知によって世を啓蒙した」との意味をこめて「昭」という諡を贈った(文昭皇后)。また、母の一族に厚遇を与え、甄家の男子を列侯に採り立てた。太和4年(230年)に改葬し、朝陽陵とした。現在も河南省安陽市北関区柏荘鎮霊芝村に「甄皇后陵」と呼ばれる高さ2mの塚が残っている。 小説『三国志演義』では、「玉肌花貌」の美人として描かれる。曹操が鄴を攻め落とした時、曹丕は真っ先に袁紹の屋敷に乗り込んだ、袁煕の妻であった甄氏を見初めて自分の妻にしたという。

    蛇を飼い、その動きを観察して奇抜な髪型を作った、その髪型は毎日変化し、「霊蛇髻」と呼ばれた(『采蘭雜誌』)。
    姑の卞夫人との関係は良好であったといわれている。曹操が孫権を討伐する時、卞夫人・曹丕や曹叡は皆従ったが、甄氏は鄴に留まった。大軍が還ると、卞氏は甄氏の顔色が豊盈なのを見て怪しみ、「あなたは子供と別れること久しく、顔色が更めて盛んなのはどうしてでしょう?」と問うと、甄氏は「叡は夫人に随っているのだから、私が何を憂えましょう」と笑って答えた。卞氏が病気になると、甄氏は姑の事を気懸かりに思い泣き続...
    曹丕が妻の任氏を廃しようとした時、甄氏は 「任氏は名門で、徳・容色では私らで及ぶ者はおりません。どうして放遣するのです?」 。曹丕は「任氏の性は短気で婉順ではなく、前後に亘って私を忿らせること一度ではない。だから放遣するのだ」と言った。甄氏は 「私が敬遇の恩を受けているのは衆人が知っており、任氏が放出されれば、必ずや私に由来すると謂われましょう。上は私心を現したとの譏りを生じる懼れがあり、下...
    甄氏が死ぬ時、文帝は青い気が地から立ち昇って天まで繋がるという夢を見たので、それを周宣に尋ねた。それに対して周宣は「天下のどこかで高貴な身分の女性が、冤罪のために死ぬことになるでしょう」と答えた。この時既に文帝は甄氏に死を賜う璽書を使者に届けさせており、これを聞いた文帝は後悔して、その使者を追わせたが、結局間に合わなかったという(『三国志』魏書周宣伝)。また『漢晋春秋』によれば、甄氏の死後、...

    甄氏に関する有名な伝説は、文帝の弟曹植との恋愛譚である。『文選』李善注は、曹植の代表作『洛神賦(中国語版)』のモデルが甄氏であるとする『感甄記』なる物語を引用している。それによれば、曹植は甄氏を思慕していたが、曹操の命により自らと一緒にはなれなかった。甄氏の死後、曹植の想いを知っていた文帝は、甄氏の枕を与えて曹植を慰めた。洛水の畔に宿営した曹植が枕を使って寝ていると、夢に甄氏が現れ曹植に対する思慕の念を伝えた。曹植は悲喜の念に堪えられず、ついに「感甄賦」を作った。後に曹叡が「洛神賦」と改名したという。 しかしこれらの記述は全て後世のものであること、またあまりにも俗説のような話であることなどから、創作の可能性が高いとされている。 兄や姉の名が残っているものの、彼女自身の名は記されていない。この物語は後世広まり、現在でも粤劇(中国語版)などの題材となっている。これらの劇では、『洛神賦』に因んで甄氏の名を「甄宓」・「甄洛」などとしている(「宓」は伏羲氏の女である宓妃のこと。洛水で溺死し、女神になったといわれる)。

    『三国志』魏書明帝紀には、明帝が景初3年(239年)に36歳で崩御したと記されており、逆算すると生年が建安9年(204年)となることを挙げ、『三国志集解』の著者盧弼(中国語版)は、曹叡が文帝から特に冷遇されたことなども傍証に挙げた上で、曹叡の実父は文帝ではなく、甄氏の前夫の袁煕ではないかと主張している。 この説に従えば、曹操が冀州を攻め落とし、曹丕が袁煕の妻であった甄氏を略奪した時点で、後の曹叡は袁煕の子として既に世に生を受けており、曹丕はその子を(冷遇しつつも)養子として養育した、となる。 ただし一般には『三国志』魏書明帝紀の没年齢が誤りだと解釈されており、例えば『三国志』の注釈者裴松之は明帝の没年齢は34が正しいと主張している。この場合、明帝の父は文帝で問題ないことになる。

  5. 張禧嬪 (テレビドラマ) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › チャン・オクチョン
    • 1995年版
    • 2013年版
    • 外部リンク

    SBS月火ドラマ(SBS)枠で1995年2月20日から同年9月26日まで放送された。張禧嬪役を、前年の1994年に映画『私からあなたへ』でデビューしたチョン・ソンギョンが、粛宗役をイム・ホが演じた。この作品は脚本イム・チュン・出演イム・ホの父子の双方が携わっている作品のひとつである。

    SBS月火ドラマ枠にて2013年4月8日から同年6月25日まで放送された連続テレビドラマ。韓国での放送回数は24回、日本での放送回数は35回。チャン・オクチョン(張玉貞)は張禧嬪の本名である。 張禧嬪を従来の悪女像とは一線を画し、王を愛しすぎたが故に罰せられた悲運のヒロインとして描く。一方、MBCドラマ『トンイ』(2010年)のヒロイン・淑嬪崔氏(チェ・ムスリ)は本作品では悪役として登場する。

  6. 宣華夫人陳氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 宣華夫人陳氏
    • 経歴
    • 逸話
    • 伝記資料

    南朝陳で寧遠公主に封じられた。聡明で容姿は美しく、ならぶものもなかったといわれる。 南朝陳が滅亡すると、隋の後宮に入れられて嬪となった。当時独孤皇后の性格は嫉妬深く、後宮に進められる女子もまれであったが、陳氏のみは許されて寵愛を受けた。晋王楊広は皇太子の位を兄の楊勇から奪うため、陳氏に金蛇や金駝などの宝物を贈って取り入った。皇太子の廃立にあたっては、陳氏の後援も有力であった。独孤皇后が死去すると、位は貴人に進み、文帝の寵愛を独占した。604年(仁寿4年)、文帝が死去すると、遺詔により陳氏は宣華夫人となった。煬帝即位の後、仙都宮に居をうつしたが、まもなく再び後宮に入れられた。605年(大業元年)、死去した。享年は29。煬帝は彼女のことを悼んで、「神傷賦」を作った。

    『資治通鑑』の記載によると、文帝が仁寿宮で病床についた時、陳氏と皇太子楊広は文帝のそばで看病した。陳氏が着替えに出たところを、楊広が関係を迫り、陳氏はこれを拒んで文帝のところに逃げ帰った。文帝が怪しんで問い質すと、陳氏は楊広の無礼を訴えた。文帝は「畜生、何ぞ大事を付するに足らん。独孤、誠に我を誤てり」といって激怒した。文帝は兵部尚書の柳述と黄門侍郎の元厳を呼んで、廃太子の楊勇を召し出すよう命じた。柳述と元厳がこのことを左僕射の楊素に告げると、楊素は楊広に報告した。楊広は張衡を寝殿に派遣して、陳氏と後宮で看病する人々を別室に移させた。まもなく文帝は死去したが、喪は発せられなかった。陳氏と後宮の人々は事変の発生を察知して戦慄した。夕暮れに楊広からの使者がやってきて、合わせ貼りで封のされたものが陳氏宛てに送られてきたので、陳氏は鴆毒ではないかとおそれて開けられなかった。使者にうながされてしぶしぶ開けると、中からは同心結(愛の契りのお守り)数枚があらわれた。宮人たちは「死を免れた」といって喜んだが、陳氏は怒って席を外し、礼を伝えることもしなかった。宮人たちは使者に返礼するよう陳氏に迫った。その夜、楊広と陳氏は関係した。

    『隋書』巻36 列伝第1
    『北史』巻14 列伝第2
    『陳臨賀王国太妃墓誌銘』:太妃姓施氏、京兆郡長安県人也、呉将績之後也。父績、陳始興王左常侍。太妃婉懿在懐、淑慎後質。宣皇帝聘入後宮、寵冠嬪嬙、恩隆椒掖。既而芳蘭在夢、熊羆之兆斯彰;瑞気休符、蘋藻之勤惟潔。載誕臨賀王叔敖、沅陵王叔興、寧遠公主。並桂馥蘭芬、金鏘玉閏。公主以開皇九年金陵平彌、大隋高祖文皇帝納公主、拜為宣華夫人。踵此二橋、非関縝髪。光斯二帳、無待更衣。以大業五年歳次己巳八月十一日薨...
  7. 胡藍の獄 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 胡藍の獄
    • 概要
    • 事件の背景
    • 粛清事件の経緯
    • 雑記
    • 事件後の影響
    • 関連項目
    • 参考文献
    • 関連文献

    本項では、洪武帝(太祖。名は朱元璋)の治世(1368年 - 1398年)に起きた以下の粛清事件、 1. 空印の案(1376年) 2. 胡惟庸の獄(1380年) 3. 郭桓の案(1385年) 4. 林賢事件(1386年) 5. 李善長の獄(1390年) 6. 藍玉の獄(1393年) を取り上げる。以上の一連の事件の犠牲者は、合わせて十数万人に及んだとも言われ、凄惨な大粛清となった。上記のうち、林賢事件と李善長の獄は、胡惟庸の与党を追及するために行われたもので、いわば胡惟庸の獄を蒸し返して、起こされた事件であり、広い意味では胡惟庸の獄に含まれる。 胡惟庸・藍玉は、それぞれ謀叛を計画していたとされ、空印の案や郭桓の案は役人の不正を追及するためという名目があった。しかし、いずれの件もほとんど取り調べが行われないまま、関係者が即時処断されている。各事件の疑惑の根拠となった造反計画や不正については、朝廷による取り調べの結果が詳細に公的記録に残されている。しかしこれらは洪武帝側による捏造の可能性が高く、本当に反逆計画や不正があったかはかなり疑わしい。一連の事件の背景には、皇帝独裁体制を推進する洪武帝の思惑があったとされる。 洪武帝は建国前、金陵(のち応天府と改名)を拠点として元末の群雄割拠の争いを制したこともあり、江南地区の地主・知識人層の支持を基盤としており、新しい明朝政権には南人地主出身の官僚が多く参画していた。新王朝で皇帝権力を強化しようとする洪武帝は、既得権益を固守する江南地主の勢力を抑制しようと様々な施策を行うが、はかばかしい効果を得られなかった。またその間、洪武帝と同じ安徽省出身の側近勢力も「建国の功臣」として重んじられるうち、地位や名声を利用して私腹を肥やしたり、制度的・軍事的に皇帝の権力を脅かす者が出かねない状態にあった。洪武帝はこれら江南地主や功臣の勢力を一掃し、権力を自分に集中させるため、粛清という手段に訴えたのである。また胡惟庸や林賢を利用して、当時洪武帝が手を焼いていた倭寇の黒幕と見ていた日本と断交するための手段とするなど、外交面でもこれらの事件を利用した。 胡藍の獄は、胡惟庸・藍玉の造反計画への処罰というより、洪武帝が仕掛けた粛清事件であるというのは、現在では定説となっている。明建国に貢献した支持層や功臣を非情にも大量処刑した洪武帝に対し、『廿二史...

    元朝末期、モンゴル帝国による支配にかげりが見え始めると、白蓮教徒の反乱である紅巾の乱をきっかけに、華南各地に陳友諒・張士誠・韓林児・方国珍らの軍閥が割拠した。そんな中、頭角を現したのが朱元璋(後の洪武帝)である。朱元璋は逐次他の軍閥を制圧し、元を北方に放逐することにより、1368年に明王朝を建国した。

    王朝設立直後の混乱も収束し、元との戦いに一段落した1375年・1376年頃になると、洪武帝は本格的に内政の整備に力を注ぐようになる。洪武8年(1375年)8月、カラコルムを拠点に明軍を苦しめていた北元の将軍ココ・テムルが病死し、モンゴル勢力が北へ後退。それまで洪武帝は華北を軍政下に置いていたが、傅友徳のみを残して他の武将を引き上げさせ、外政面ではいくらかの余裕が生じるようになった。

    官僚粛清のために、洪武帝は監察機関も強化した。胡党に掌握されていた御史台は廃止され、1382年新たに「都察院」を設け、官僚に対する監視を強めている。はじめは正七品衙門に過ぎなかったが、翌年には正三品、さらに翌年には正二品衙門と六部尚書と同格にまで陞格されており、洪武帝からいかに重視されていたかがうかがえる。この都察院と、法務省にあたる刑部(六部の一つ)、最高裁判所にあたる大理寺は「三法司」と...
    洪武15年(1382年)4月には、禁軍(近衛軍)の一つ「親軍都尉府」が改組され、「三法司」とは別に官僚の監察と刑罰を受け持つ皇帝直属の特務機関「錦衣衛」が設置された。従来からの皇帝の護衛任務に加えて「巡察緝捕」というスパイ任務が与えられ、約500人の緹騎が皇帝の耳目として、日夜官民に対し監視の目を光らせる恐怖政治の世が現出したのである。正規の朝廷機関である三法司とは別に、独自権限を持って捜査...
    洪武帝による恐怖政治の矛先は、官僚層のみならず庶民へも向けられた。その一例が「文字の獄」と呼ばれる言論弾圧である。後の清朝の文字の獄が、満洲人王朝による漢人への思想統制的な意味合いが強いのに対して、洪武帝による文字の獄は、洪武帝個人の恣意性が強いものであった。洪武帝は元々貧乏僧侶の出身であることに強いコンプレックスがあり、僧侶や仏教に関する文字・言葉に過敏に反応したといわれる。特に「光」「禿...

    洪武帝治世の一連の粛清事件は、江南官僚・功臣の粛清および朝廷機構の変革、そして日本との交渉中止という目的で行われた。これらの事件はすべて個別単独に起きたものではない。たとえば空印の案で設置された地方長官の布政使司が正二品と、当時の中央機関である六部の尚書(正三品)よりも高位に置かれた後、胡惟庸の獄で中書省が廃止された後、六部尚書が正二品に引き上げられ、布政使が正三品となりバランスが取られている。これはいったん地方の革新が行われた後に、中央の整理を断行したことを示しており、一連の動きの中で捉えられる。空印の案では「行中書省」、胡惟庸の獄では「中書省」、郭桓の案では「六部」、林賢事件では「日本(倭寇)」、そして李善長の獄・藍玉の獄では「功臣」がそれぞれ狙い撃ちされ、洪武帝に邪魔となるものは一つ一つ潰されて、皇帝専制の準備が整ったのである。

    『アジアの歴史と文化5 中国史 近世2』(1994年、谷口規矩雄編、同朋舎出版、ISBN 978-4810408577)
    上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』(2005年、講談社、ISBN 978-4062740593)
    岸本美緒・宮嶋博史『世界の歴史12 明清と李朝の時代』(1998年、中央公論社、ISBN 978-4124034127)
    檀上寛『明王朝成立期の軌跡』(1978年、『東洋史研究』37巻3号、東洋史研究会)
    阪倉篤秀「明初中書省の変遷」(1977年、『東洋史研究』36巻1号、東洋史研究会)
    佐久間重男『日明関係史の研究』(1992年、吉川弘文館、ISBN 978-4642026406)
    『日本歴史大系 2 中世』(1985年、山川出版社、ISBN 978-4634200203)
  8. 蒼穹の昴 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 蒼穹の昴
    • 概要
    • あらすじ
    • 登場人物
    • 書籍情報
    • テレビドラマ
    • 関連項目
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    清代の中国を舞台とした歴史小説。第115回(1996年(平成8年)7月)直木賞候補作。浅田自身「私はこの作品を書くために作家になった」と、帯でコメントした。なお浅田は続編として『珍妃の井戸』、『中原の虹』(ちゅうげんのにじ)、『マンチュリアン・リポート』『天子蒙塵』(てんしもうじん)を書いており、これらを含めて『蒼穹の昴シリーズ』とする(いずれも講談社刊)。 10年以上経た後に日中共同制作でテレビドラマ化された(全25回)(中国版は28回)。2009年(平成21年)4月に脚本楊海薇・監督汪俊のもと撮影が開始され、翌年1月2日から7月10日までNHKデジタル衛星ハイビジョンで字幕版が放送されたほか、9月26日からは日曜夜にNHK総合テレビジョンでも日中2か国語により放送されている。DVDソフトは2010年に出た中国版に続いて、全8巻の日本語版が発売(2010年12月に1~4巻、2011年1月に5~8巻)された。

    舞台は光緒12年(1886年(日本:明治19年))から光緒25年(1899年(日本:明治32年))までの清朝末期。貧家の子、李春雲(春児)は糞拾いによって生計を立てていたが、貧しい家族のために自ら浄身し、宦官となって西太后の下に出仕する。一方、春児の義兄で同郷の梁文秀(史了)は、光緒12年の科挙を首席(状元)で合格し、翰林院で九品官人法の官僚階級を上り始める。 清朝の内部では、政治の実権を握っている西太后を戴く后党と、西太后を引退させて皇帝(光緒帝)の親政を実現しようとする帝党とに分かれ、激しく対立していた。后党と帝党の対立は、祖先からの清朝の伝統を守ろうとする保守派と、衰えた清朝を制度改革によって立て直そうとする革新派(変法派)の対立でもあった。両者の対立は、やがて西太后と皇帝の関係にも、深い溝を生んでゆく。 春児は西太后の寵を得てその側近として仕え、一方、文秀は皇帝を支える変法派若手官僚の中心となる。敵味方に分かれてしまった2人は、滅びゆく清朝の中で懸命に生きていく。

    実在の人物と架空の人物が混ざり合って、物語を作り上げている。振り仮名は、日本語読みをひらがなで、中国語風の読みをカタカナで表記。小説内のルビは小書きではないが、ここでは拗音に読める箇所を「チユ」⇒「チュ」などと記した。

    講談社(1996年4月発行)
    講談社文庫(2004年10月発行、全4巻)

    日本国内での放送は全25回(中国版は28回)。 撮影に当たり、浙江省東陽市横店影視城に原寸大の紫禁城や当時の香港の街並みの壮大なセットが造られた。 日中共同制作だが、放送局本体ではなく、日中の民間の制作プロダクションが対等に行っている。 日本側はNHKが日本国内放映権をプリセール形式で購入しているほか、元NHK出身者がプロデュースに関与している。

  9. 国家民俗文化財 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 大韓民国指定重要民俗文化財

    国家民俗文化財(こっかみんぞくぶんかざい)は、大韓民国の文化遺産保護制度の一つ。 「韓国(朝鮮)の基本的な生活文化の特色を表しているものとして典型的なもの」を対象として、文化財庁が文化財保護法により指定する。旧名は「重要民俗資料」であり、2011年 2 ...

  10. 明清交替 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 明清交代期

    明清交替(みんしんこうたい)は、それまで中国大陸を支配していた明から、中国東北部に居住していた満洲人のアイシンギョロ氏が建国した清への移行を指す。 この移行は、17世紀初頭から数十年をかけて行われた。清は、明やその遺臣、そして李自成が率いる順などを ...