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  1. 安東氏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 津軽安藤氏

    安東氏(あんどううじ、あんどうし)は、日本の鎌倉時代から戦国時代の末まで、陸奥国・出羽国の北部に勢力を張った武士の一族である。 本姓は安倍を称した。 なお諸史料に現れるアンドウの表記について、主として鎌倉時代から南北朝時代にかけての津軽時代には「 ...

  2. 江沢民 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 江沢民
    • 経歴
    • 外交政策
    • 年譜
    • 逸話
    • 参照文献
    • 外部リンク

    生い立ち

    1926年8月17日に江蘇省揚州市に誕生する。江沢民の実父の江世俊は、日本軍占領下の江蘇省で日本の特務機関ジェスフィールド76号に協力をしていたとされ、日中戦争時代の日本の傀儡政権である汪兆銘政府の官吏だったが、中国当局はこれを否定する。 叔父の江世侯(上青)は中国共産党の幹部であったが、嫡男を得ないまま1939年に日中戦争時に地元匪賊に殺害された。江沢民は、公式にはこの江世侯の養子ということになっているが、本家の次男である江沢民が、祖父からみて第6子にあたる叔父江世侯の養子となるのは、中国の家族慣行では異例であり、「漢奸の息子」という出自を隠し、自らの「紅い血筋」を創りあげるためと考えられている。 1943年に揚州中学卒業後、汪兆銘政権で日本軍が管轄する南京中央大学に入学する。このために日本語も少し話せ、お酒が入ると日本語で炭坑節を歌うことで知られる。 日中戦争終結後の1945年10月に南京中央大学が上海交通大学と合併したため、江沢民は上海交通大学に転籍し、1947年に卒業したために学歴上は上海交通大学卒業となり、江沢民の経歴を語るとき、南京中央大学に在籍していたことについて触...

    テクノクラート

    上海交通大学卒業後、上海市で益民食品第一工場や上海市石鹸工場のエンジニアとして働く。中華人民共和国建国後の1953年に第一機械工業部上海第二設計分局電力専業科長となる。翌年、長春第一汽車製造廠(自動車製造工場)に移る。後に江沢民政権下の国務院常務副総理(第一副首相)となる李嵐清とは長春第一汽車製造廠時代の同僚である。1955年には機械技術者としてモスクワのスターリン自動車工場で研修を受ける。帰国後、長春第一汽車製造廠動力処副処長、副総動力師、動力分廠廠長を歴任した。1962年に上海に戻り、第一機械工業部上海電器科学研究所副所長となる。1966年に第一機械工業部が武漢市に新設した武漢熱工機械研究所の所長兼党委員会書記代理に任命される。同年に発動された文化大革命では実権派として攻撃されたものの、「革命烈士の子弟」とされたため、被害は少なかった。 1970年に北京に移り、第一機械工業部外事局副局長に任命される。翌年の1971年にルーマニアのチャウシェスク政権との友好関係推進のため、同国での機械工場建設プロジェクトに対して中国から視察団が派遣されることになり、江はその団長として1年間同国...

    上海市長・党委書記

    1985年に上海市の実力者で、かつて江沢民を第一機械工業部に引き上げた汪道涵の推挙により、上海市長に転出。1987年11月、第13期党中央委員会第1回全体会議(第13期1中全会)において中央政治局委員兼上海市党委員会書記に昇進する。翌月に上海で発生した学生の民主化要求運動に対しては、学生と直接対話し説得した。

    アメリカ・ヨーロッパ諸国

    江沢民は天安門事件で孤立した中華人民共和国の外交の改善に貢献したとして、「中国を変えた男」と肯定的に評価されている。とくに、大国間の協調を重視してアメリカ合衆国・ロシア連邦との関係においては緊密な関係を築いた。1997年10月にアメリカを訪問した際、江沢民とアメリカ合衆国大統領ビル・クリントンは、両国関係を初めて「戦略的建設的パートナー」と表現して米中協調の枠組み作りを本格化させ、当時のクリントン政権には「チャイナゲート(英語版)」と呼ばれる中国政府から選挙資金を得た疑惑からの批判もあった。しかし、1999年のコソボ紛争では中国を訪問して江沢民と友好関係にあったユーゴスラビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ政権をNATOは攻撃して中国大使館への誤爆も起きたために米中関係は緊張関係になり、2000年に起きたブルドーザー革命の際はミロシェヴィッチの家族はその財産を中国に持ち込んで亡命も試みていた。コソボ紛争でNATOに共に反発して、第二次チェチェン紛争でも欧米と対立を深めていたロシアのボリス・エリツィン大統領に接近し、その後任のウラジミール・プーチン大統領とは中露善隣友好協力条約を締結...

    ベトナム

    中越戦争以来初めて中国を訪問したベトナムのグエン・ヴァン・リン書記長らと会談して、国境の非武装化や捕虜交換などの国交正常化を進めることで合意した。中越戦争を「中国の侵略行為」として謝罪を求めるベトナムに対しては、「戦争の原因はベトナムのカンボジア侵攻」として、謝罪はしていない。2002年2月末にベトナムを訪問した際、ベトナム側の首脳に対し、「もう過去のことは忘れよう」「(中越)両国は未来志向であるべきだ」と主張し、ベトナムで使用されている教科書から中越戦争の記述を削除するよう要求した。

    韓国

    朝鮮戦争以来敵対し、台湾と国交を持っていたアジア最後の国である大韓民国と1992年8月に国交正常化した。同年9月29日に当時の盧泰愚大統領は中国を訪問した。盧泰愚の前任の全斗煥大統領も日本政府に対して中国の胡耀邦に韓国の国家承認を働きかけるよう要請し、全斗煥の前任の朴正煕大統領も日本の財界の後押しで鄧小平と接触するも何れも国交樹立には成功せず、中国が江沢民政権となってから中韓は急速に接近した。その後任の金泳三大統領も1994年に中国を訪問して江沢民と会談し、1995年11月13日には江沢民は中国の指導者としては初めて韓国を訪問した。1998年には金大中大統領は江沢民と「中韓協力パートナーシップ」構築で合意した。 1990年3月に江沢民は北朝鮮を訪問した際に金日成国家主席に対して韓国との通商代表部設置を遅らせることは難しいと述べ、1991年10月に金日成主席は生涯最後の外遊で訪中して中韓国交正常化の見送りを要請するも江沢民ら中国指導部は北朝鮮核問題の解決を求めた。1992年7月に銭其琛外交部長は訪朝して江沢民の中韓国交正常化の意向を金日成主席に伝えた際は恒例の宴会も開かれず、中朝関...

    1937年 - 揚州中学入学。
    1943年 - 南京中央大学入学。
    1945年10月 - 上海交通大学に転籍。
    1946年4月 - 中国共産党に入党。
    酔うと日本語で炭坑節を歌うことがある。
    2000年10月27日、当時の香港特別行政区行政長官・董建華と中南海で会見した時、董の再選可能性や董に対する中央政府の態度などについて執拗に尋ねた香港メディアの記者張宝華を数分間にわたって罵倒した。その時江が発した「Too young」(若すぎる)、「Too simple, sometimes naïve」(単純すぎて時々世間知らず)、「悶声大発財」(こっそりと千金を得る)、「弄個大新聞」(...
    中国のネット上で検閲を避けるため、江を言及する場合には「蛤」(蝦蟇の「蝦」の同音字、その風体から)や「長者」(年長者、上述の董建華事件には「今日は1人の長者として」の発言があるから)など婉曲な表現がよく用いられる。また、江を信仰としてして崇拝する行為は「膜蛤(中国語版、英語版)」(蛤にひれ伏す)と呼ぶ。
    芸術に対する造詣が深い。ピアノ・二胡・ギターなどを弾ける。ハワイ訪問中にハワイアンギターで『アロハ・オエ』を演奏したこともある。また、外遊中に京劇や現地の歌謡曲を歌ったことがある。

    報道資料

    1. 『読売新聞』2013年11月21日東京朝刊

  3. 樊少皇 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ルイス・ファン

    樊少皇 ファン・シウウォン プロフィール 出生: 1973年 6月19日(48歳)出身地: イギリス領香港 職業: 俳優 各種表記 繁体字: 樊少皇 簡体字: 樊少皇 拼音: fán shào huáng (北京語) ラテン字: Louis Fan 英語名: ルイス・ファン テンプレートを表示

  4. 桓温 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 桓温

    桓温は当時15歳であったが、 涇県 県令 江播 が韓晃の謀略に加担していた事を知ると、武器を枕にして血の涙を流し、父の仇討ちを誓ったという。. 咸和6年( 331年 )、江播がこの世を去ると、子の 江彪 ら兄弟3人は喪に服したが、彼らは桓温の報復を恐れ ... ...

  5. ふりむくな鶴吉 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ふりむくな鶴吉
    • キャスト
    • スタッフ
    • 備考
    • 映像の現存状況
    • 脚注
    鶴吉:沖雅也
    榊原又十郎:伊吹吾郎
    寅吉:西田敏行
    なら八:ハナ肇(第1回〜第16回、第18回〜第31回、第34回、第35回、第38回、第40回、第42回〜第44回)
    脚本:杉山義法、砂田量爾、須藤出穂、山田正弘、土橋成男、田中陽造、中村努、立町陽太、中沢昭二、長尾広生、国弘威雄、津上忠
    演出:岸田利彦、樋口昌弘、松尾武、北村充史、重光亨彦、原嶋邦明、和田智充、福原恒男、平山武之
    音楽:樋口康雄
    制作:沼野芳脩
    「ふりむくな鶴吉メイン・テーマ」は、ちょんまーじゅ(Sony Music Direct (Japan) Inc.MHCL 949)の8曲目に収録されている。レコード版と実際放送されたオープニングにはイントロの冒頭部分に違いがある。
    この番組終了後、NHK総合の金曜20時枠は「新・坊っちゃん」など近・現代劇が続き1977年4月「鳴門秘帖」の放映開始まで金曜時代劇シリーズはしばらく中断していた。

    当時のビデオテープは高価だったため他の番組同様に上書き消去されてしまい、ほとんど現存していない。NHKには第38回、第45回、最終回の現存が判明している。 その後、2017年に音楽を担当した樋口康雄によりUマチックに録画されていた第17回、第27回、第29回、第31回、第35回、第37回、第40回、第41回が提供された。 NHKでは番組関係者、一般視聴者にマスターテープが失われた映像の提供を呼びかけている。

    ^ 発掘ニュースNo.173 『ふりむくな鶴吉』音楽の樋口康雄さんから一挙8本!(2017年11月17日)、NHK番組発掘プロジェクト通信
    ^ NHKアーカイブス 番組発掘プロジェクト
  6. 安東定季 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 安東定季

    安東 定季(あんどう さだすえ、生没年不詳)は、室町時代の武将で蝦夷地の豪族。 下国山城守定季と称した。安藤康季の子で義季の弟とも伝えられ、いずれ檜山系安東氏の一門と推定されている。 子に恒季がいる。 『新羅之記録』によれば、安東氏宗家である下国家当 ...

  7. 禅 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 五家七宗
    • 「禅」
    • 不立文字
    • 釈迦から開祖・達磨大師まで
    • 中国の禅の歴史
    • 日本の禅の歴史
    • 日本の禅の教義
    • 禅宗の坐禅における禅定の種類
    • 方便
    • 霊魂(精神の永遠性、小我)の否定
    • 日中の禅宗比較

    言葉の由来

    禅は、サンスクリットの dhyāna(ディヤーナ/パーリ語では jhāna ジャーナ)の音写、あるいは音写である禅那(ぜんな)の略である。他に駄衍那(だえんな)・持阿(じあな)の音写もある。他の訳に、思惟修(しゆいしゅう)・静慮(じょうりょ)・棄悪[注 2]・功徳叢林[注 3]・念修[注 4]。 禅の字は元来、天や山川を祀る、転じて、天子が位を譲る(禅譲)という意味であった。これに「心の働きを集中させる」という語釈を与えて禅となし、「心を静かにして動揺させない」という語釈を与えて定とし、禅定とする語義が作られた。ただし禅那の意味では声調が平声から去声に変わっており、現代北京語では加えて声母も変わってshàn(シャン)に対しchán(チャン)になっている。

    禅那

    圭峰宗密の著書『禅源諸詮集都序』には、禅の根元は仏性にあるとし、仏性を悟るのが智慧であり、智慧を修するのが定であり、禅那はこれを併せていうとある。また、達磨が伝えた宗旨のみが真実の禅那に相応するから禅宗と名付けた、ともある。 類似の概念として三昧(サンスクリット: samādhi)がある。禅あるいは定という概念は、インドにその起源を持ち、それが指す瞑想体験は、仏教が成立した時から重要な意義が与えられていた。ゴータマ・シッダッタ(釈迦)も禅定によって悟りを開いたとされ、部派仏教においては三学の戒・定・慧の一つとして、また、大乗仏教においては六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の一つとして、仏道修行に欠かせないものと考えられてきた。

    禅那と瞑想

    禅那を現代語で俗に和訳すると瞑想となる。ちなみにヨーガ (yoga) も意訳すれば瞑想とされるが、本来は心を調御して統一に導くことをいう。瞑想は動作を言葉で説明する事ができるが、禅は不立文字(後述)を強調するため、瞑想と禅は区別される。 坐禅を組むこと。あるいは参禅すること。禅那は、仏性の存在を前提に坐禅することをいう。そのため坐禅と同じ姿勢でも仏性を前提としないものは禅那とは言えず、単なる瞑想であるとして区別する。

    禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)を原則とする。不立文字とは、文字・言葉の上には真実の仏法がないということで、仏祖の言葉は解釈によって、いかようにも変わってしまうという意味であり、言語の持つ欠陥に対する注意である[注 5]。 そのため禅宗では中心的経典を立てず、教外別伝[注 6]を原則とするため師資相承[注 7]を重視し、そのための臨機応変[注 8]な以心伝心の方便など、種々の特徴をもつ宗派である。

    禅宗での血脈相承を法嗣と呼ぶ。釈迦以降の法嗣は次のように伝えている。 マハーカーシャパ(摩訶迦葉)はバラモン階級出身の弟子で、釈迦の法嗣とされる(法の継承者)。拈華微笑と言われている伝説が、宋代の禅籍『無門関』に伝わる。 二十八祖ボーディダルマ(菩提達磨)(南インド出身)が中国に入り、禅の教えを伝えたとされる。達磨は中国禅の始祖となった。

    黎明期

    中国禅の歴史は『景徳傳燈録』等の文献にある(※禅が中国で実際に禅宗として確立したのは、東山法門と呼ばれた四祖道信(580年 - 651年)、五祖弘忍(601年 - 674年)以降)。初期の法嗣は次のように伝えられる。

    北宗と南宗への分裂

    五祖弘忍には、弟子筆頭の神秀(606年 - 706年)、その弟弟子の慧能(638年 - 713年)という優れた2人がいた。神秀は修行を通じて徐々に悟得する「漸悟」を規範としたのに対して、慧能は一足飛びに悟得する「頓悟」[注 9]を旨とする違いはあったが、ともに禅宗の布教に尽力した。やがて神秀は則天武后に招かれ洛陽へ入って破格の待遇を受け、神秀の死後も一派は唐代帝室や官人の庇護と支持を得た。すると慧能の弟子の荷沢神会(684年 - 758年)が、神秀の教義を「北宗」と呼んで批判したため、東山法門派は北宗と、彼らの南宗に分裂してしまう。しかし南宗は支持を得ることができず一時は洛陽から追放されてしまうが、755年に始まる安史の乱に際し売牒(度牒を売る制度)を進言して粛宗の信頼を得ると、洛陽への復活を果たして徐々に信心を集め始め、神秀に代わり慧能を六祖に定めた。神会は洛陽の荷沢寺に拠点を置いたため、南宗は荷沢宗とも呼ばれたが、762年に神会が没すると求心力を失った。 845年(会昌5年)、武宗による会昌の廃仏で徹底した弾圧を受け、洛陽内の南北宗は廃絶してしまう。しかし、南宗の法嗣を受けた...

    六祖壇経と禅の隆盛

    『六祖大師法宝壇経(六祖壇経)』は、神会が六祖慧能を掲げて説いた新しい坐禅と禅定の定義とされる。これを元に後の中国禅宗は確立・発展した。 さらに『景徳傳燈録』に載せる、慧能の弟子の南嶽懐譲(677年 - 744年)とさらにその弟子の馬祖道一(709年 - 788年)の逸話によって坐禅に対する禅宗の姿勢が明らかとなる。 この部分に中国禅宗の要諦が尽されているが、伝統的な仏教の瞑想から大きく飛躍していることがわかる。また一方に、禅宗は釈迦一代の教説を誹謗するものだ、と非難するものがいるのも無理ないことである。しかし、これはあくまでも般若波羅蜜の実践を思想以前の根本から追究した真摯な仏教であり、唐代から宋代にかけて禅宗が興隆を極めたのも事実である。 般若波羅蜜は、此岸―彼岸といった二項対立的な智を超越することを意味するが、瞑想による超越ということでなく、中国禅の祖師たちは、心念の起こらぬところ、即ち概念の分節以前のところに帰ることを目指したのである。だからその活動の中での対話の記録―禅語録―は、日常のロゴスの立場で読むと意味が通らないのである。 中国では老子を開祖とする道教との交流が多...

    日本には、公式には13世紀(鎌倉時代)に伝えられたとされる。また、日本天台宗の宗祖最澄の師で近江国分寺の行表は中国北宗の流れを汲んでいる。臨済・曹洞の禅は鎌倉仏教として広がった。臨済禅の流れは中国の南宋に渡った栄西が日本に請来したことから始まる。曹洞禅も道元が中国に渡り中国で印可を得て日本に帰国することに始まるが、それ以前に大日房能忍が多武峰で達磨宗(日本達磨宗)を開いていた事が知られる。曹洞宗の懐鑑、義介らは元達磨宗の僧侶であった。 鎌倉時代以後、武士や庶民などを中心に日本仏教の一つとして広まり、各地に禅寺(禅宗寺院・禅林)が建てられるようになったのに加え、五山文学や水墨画のように禅僧による文化芸術活動が盛んに行われた。 中国から日本に伝わる禅の宗派に25の流れがあり、臨済宗から独立した黄檗宗を含めると47流になるとされる。 一方で、9世紀(平安時代前期)に皇太后橘嘉智子に招かれて唐の禅僧・義空が来日し、檀林寺で禅の講義が行われたものの、当時の日本における禅への関心の低さに失望して数年で唐へ帰国したとする記録も存在する。 日本禅宗25流

    中国で成立した禅宗は、本質的に教義を否定する傾向があったが、比叡山延暦寺の影響の大きい、日本の多くの禅の宗派は、教義を展開する。この節では、現代日本に於ける禅宗の姿を鳥瞰する。 全ての人が例外なく自分自身の内面に本来備えている仏性[注 10]を再発見するために、坐禅と呼ぶ禅定の修行を継続する中で、仏教的真理に直に接する体験を経ることを手段とし、その経験に基づいて新たな価値観を開拓することを目指す。そうして得た悟りから連想される智慧を以て、生滅の因縁を明らかにし、次いで因縁を滅ぼして苦しみの六道を解脱して涅槃に至り[注 11]、その後に一切の衆生を導くことを目的とする。そのため師家が修行者に面と向かって、臨機応変に指導する以外には、言葉を使わずに直に本性を指し示す道[注 12]であるとされる。 主な修行形態として坐禅を採用するのは、達磨大師が坐禅の法を伝えたとする以外にも、古来より多くの諸仏が坐禅によって悟りを開いてきたからであるとされる。最近は、坐禅によってセロトニン神経が活性化され鍛えられることや、通常とは異なる独特なアルファ波が発生することが、精神的安定や心身の健康の一因であるという生理学教授[注 13]もいる。ただし、自分も根本的には仏祖と同一であるという境地に到達した者には、一切の行動にことごとく仏道が含まれているという価値観が生じるため、坐禅に限らず念仏や読経も行うようになる。 禅宗においては、そもそも禅宗とは何かといった、メタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して、各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達して後に、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。 文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑[注 14]における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて、経典や他人の中に...

    栄西は『興禅護国論』で『楞伽経』を引いて坐禅は四種類あると説いている。 愚夫所行禅 1. 凡夫・外道[注 16]が、単に心をカラにして分別を生じないのを禅定だと思っている境地。達磨大師は、内心に悶えることなく外に求めることもないこの境地が壁のように[注 17]動かなくなれば、そこではじめて仏道に入ることができると説く。 観察相義禅 1. 小乗・三賢の菩薩が、教わった仏法を観察し思惟する境地。しかし、いまだ仏法・涅槃を求める強い欲心があるがために悟りを開けないでいる。人々がいつまでも苦しみの輪廻を逃れられないのは、このように我が身にとらわれて自分さえよければと欲求することが、結果的に罪業[注 18]を作る結果となるからである。夢窓国師は、もし自分を忘れ一切の欲を投げ捨てて利他心を起こせば、すぐさま仏性が発揮されて、生き仏になることができると説く。 攀縁如実禅 1. 大乗の菩薩が、中道を覚って三業[注 19]を忘れ、有るでもなし空でもなしと達観する境地。生きとし生けるものすべての生滅の苦しみに同情し、苦しみを抜いて楽を与えるべく苦慮しており、その姿勢にはもはや自他の区別がない。しかし衆生を救う願があるがために如来清浄禅に入ることができない[注 20]。 如来清浄禅 1. 如来と同じ境地に入り、みずから覚って聖なる智慧が現れたすがた。禅宗で、坐禅によって本分の田地、本来の仏性に知らず知らずに立ち返るというのは、前記の二禅を飛び越え、愚夫所行禅から直にこの位に達することを意味する。それゆえ如来十号も菩薩五十二位も枝葉末節であるとされる。 また、愚夫所行禅から如来清浄禅に至るまでの上達の様子については『鉄眼禅師仮字法語』に詳しい。

    方便法輪。日本の禅では、仏祖・禅師の本意ではないものの、本意を伝える手段となりうるという意味で方便という。またいかにすれば仏性を発現できるかを模索する、柔軟な心構えをいう。教宗の学、真言宗の三密、律宗の戒律のようなものである。 只管打坐(しかんたざ) 1. ただひたすらに坐禅を実践せよの意味。ひたすらとは禅定の深さを表現した言葉である。意識を捨てて無意識下において坐禅する[注 21]、坐禅そのものになりきることを意味する。いま坐禅している自分がいる、という自覚すら忘れてしまうほどに、坐禅という行為そのものに没頭する(坐忘)。この手法によって初心者でも、より深い禅定の境地を、容易に体験可能であるとされる。 2. ただ、禅宗は臨機応変であり、大乗仏教はあらゆる道に仏道が含まれていると考えるので、坐禅以外のことはしてはならないということはないが、このようなことは初心者には理解が及ばず、そのために初心者向けの方便として只管打坐[注 22]・修証一如[注 23]こそが禅宗の極意であるということが言われる。坐禅の境地には上下なく、坐禅すれば等しく仏であるという喝も、只管打坐を奨励する一種の暗喩的方便である。 3. ただし今世で悟りを開けずとも、坐禅の功徳によって来世では悟りを開く事ができるとされるため、坐禅をすればそのままただちに仏である(坐禅しなければいつまでも仏にはなれない)という意味通りの解釈も間違いではない。仏道成就の早い遅いについて達磨いわく、心がすでに道である者は早く、志を発して順々に修行を重ねる人は遅く、両者には百千万劫もの時間差があるという。深く正しく坐禅する者は早く、しなければ遅いという意味の一連の喝は、学習よりも坐禅の実践を強調する表現手法である。 公案禅(こうあんぜん) 1. 達磨大師が西から旅をして来た理由は、国外の仏教の衰えを憂えて、悟るために重要なものが坐禅の実践であり、経典の学習ではないことを宣教するためであるとされる。しかし、ひとまず思考・議論・学習を止めよと教えても、なぜ止めねばならないかについて思考・議論・学習を始めてしまうような思考癖のある修行者にとって、只管打坐は至難の方法となる。 2. そのような修行者は、いかなる経典を学ぶとも、悟りというものの共感が得られないために、想像をふくらませて解釈しようとする。無理な想像は妄想となって理...

    禅宗(特には臨済宗)では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。 禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である[注 25]。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である[注 26]。 もし悟った禅僧が、心身は一如であり肉体も精神も不滅であるというならば、これは仏性を直指した奥の深い説法であるといえる(無常喝: 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)。

    中村元は『日本人の思惟方法』において、民族性からくる思惟傾向に応じた日本と中国の仏教の性質の相違について考察し、禅宗においても日本と中国とでは教義が同一でなく、中国人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで、中国の禅宗も隠遁的・独善的であるのに対し、日本人の思惟方法が寛容と愛情を強調することを反映するかたちで、日本の禅宗も宥和的・慈悲的なものへと変化しているのだという。中村は日本人の思惟の特徴に寛容性があるとして、これを反映して日本の禅宗は宥和的・慈悲的なものへと変化しており、日本人は国内においてもそれはそれでゆゆしき宗派であるとして敬意を払いながらも、ただ自分は別の道を行くというだけであって、キリスト教でいうプロテスタントのように論理的に争おうとはしなかった、と主張した。 日本の仏教は諸宗派がそれぞれの特徴を保持したまま今日まで維持発展しており、禅宗においてもこれは同様であるが、宗教法人制度が確立される明治初期頃までは禅宗内で臨済曹洞の宗を超えて他派の修行道場で指導者に師事する「遍参」という修行習慣が残っていた。一方、後の中国では禅宗(とりわけ臨済宗)を称するものが多数派、内容的には念仏禅が主流となり、文革の宗教弾圧後の復興を経た現在の中国大陸においては、清代の史跡を中心とするチベット仏教の寺院が都心部などで散見されるほかは、浄土教的要素が混淆した禅宗が一様化して残るのみとなった。結果として、二種類の中国禅や日本禅の古法の一部を継承する台湾や香港、華厳禅(曹渓宗)の韓国を除けば、今日の中国大陸では日本にあるようなセクト主義的な諸宗派の伝統はほぼ消失している。

  8. 梅妃 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 梅妃
    • 経歴
    • 驚鴻記
    • 参考文献

    『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』のいずれにもその名は見えず、作者不詳(唐の曹鄴という説もある)の伝記『梅妃伝』に伝わるだけである。 詩作に才能があり、開元年間、20歳の時に宦官の高力士に選ばれ、玄宗に仕え大いに寵愛を受けた。後宮の女性たちにかなうものがないほどの姿態であり、文芸に長じていて謝道韞と自分を比較していた。部屋の周りに梅を好んで植え、玄宗はそこを梅亭と名付けた。梅の花が咲いた時には、詩を作り花を愛でて、夜までそこにいたと伝えられる。そのため、玄宗から「梅妃」という名で呼ばれた。この時、7首の賦を作ったことが伝えられる。 宴席の度に玄宗の側にはべり、『梅精』と呼ばれ、笛と驚鴻の舞に長じていた。梅妃が蜜柑を配っていた時、玄宗の兄弟である王の一人に靴を踏まれたため、すぐに退出した。この時、呼び出しても、玄宗自身が迎えにいっても、理由をつけて出てこなかったという。また、「闘茶では陛下に勝てましたが、天下のことなら私が勝負になるものではありません」と言って、玄宗を喜ばせた話が残っている。 楊貴妃が後宮に入り、寵愛が奪われはじめ、二人は互いに道を避けて歩いた。梅妃はおっとりした性格だったために争いに敗れ、上陽東宮に移された。玄宗に召されたこともあったが、現場に楊貴妃が現れ、逃げるように帰った話が伝えられる。 その後、召されることはなく、自ら賦や詩を作り玄宗に贈ったが、寵愛は戻ることはなかった。安史の乱の勃発により至徳元載(756年)に玄宗が出奔した後、長安に取り残されて、安禄山の兵に殺され、哀れんだものから梅の木の傍に埋められた。後に玄宗によって埋葬されたと伝えられる。 梅樹への愛玩ぶり、闘茶の記述が宋代に流行したものであることなどから、架空の人物説が強いが、楊貴妃を題材にした多くの小説、戯曲において、物語の重要な役割を担っている。 後世において、民間で神格化されて梅の花神として祀られる。

    梅妃を主役にして、明の呉世美によって作られた戯曲が『驚鴻記』である。 内容は『梅妃伝』『長恨歌伝』等を下地にした上で、楊貴妃と玄宗の寵愛を争い詩で応酬しあう話、皇太子の李瑛との関係を疑われ幽閉される話、梅妃が長安を脱出して女道士となり玄宗と再会する話、楊貴妃の霊から梅妃の前世が許飛瓊(西王母の侍女)であることが明かされる話などが追加されている。 史実の軽視など批判も大きいが、清代の『隋唐演義』に数多く描写が襲用されている。また、同じ清代の洪昇の『長生殿』にも影響を与えている。

    村山吉広「楊貴妃」
    竹村正則「楊貴妃文学史研究」
  9. 達人伝-9万里を風に乗り- - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 達人伝-9万里を風に乗り-
    • ストーリー
    • 登場人物
    • 外部リンク

    小国に住む青年、荘丹は親友の勧めで琰王に仕える兵士となるが、ある日、都に侵攻してきた隣国の斉の軍勢に王と親友を殺されてしまう。民の皆殺しを回避すべく、斉の大将軍に「9年のうちに秦に対抗できる達人たちを集める」と咄嗟の大法螺を吹き、受け入れられ、大陸へ彼らを探す旅に出る。まもなく出会った無名と丁烹と共に「丹の三侠」と呼ばれ活躍することとなる。

    丹の三侠

    荘丹(そう たん) 1. 本作の主人公。荘子の孫で、祖父譲りの独特の呼吸法「大呼吸」と大法螺が特技。琰王に仕える兵士だったが、国と親友を奪った秦の暴虐に立ち向かうべく、限られた時間で達人を結集させるため各地へ赴く。親しくない人からしばしば「びらびらしたやつ」呼ばわりされる。若いころから戦場では「秘剣”絶界”!」と叫んで自身の武を嵩増しするはったりをよく用いていたが、秦軍追撃戦の途中で突如覚醒しその呼称にふさわしい武技を会得する[注 2]。 無名(ウーミン) 1. 広い世界に憧れ、豊富な知識を持ち独特の言葉遣い[注 3]で話す人物。登場当初は素性不明であったが、やがて周王族の庶流のひとり・周翔(しゅう しょう)であることが判明する。自分に外の世界を教えてくれたチータイ先生を処刑[注 4]した叔父・旻公を襲撃し、洛陽から逃げ出した過去がある。現実を見ず過去の栄光に閉じこもる周王室には愛想を尽かしている。自分たちのことを「丹の三侠」と名付ける。 庖丁(ほうてい) 1. 「人に神髄を味わわせること」と「人の心髄と交わること」すなわち「食」と「侠」を自らの天命の両輪とする料理人。義理人情に...

    荘丹の故国

    琰王(えんおう) 1. 荘丹・玄信の国の王。黥骨に斬首された。 玄信(げん しん) 1. 荘丹の親友。琰王に仕える兵士。琰王を救うべく黥骨に立ち向かうも返り討ちにあい死亡した。 玄峻(げん しゅん) 1. 玄信の長子。立派な武人に成長し、長平で荘丹と再会する。戦場から離脱し趙に向かう途中、秦王の御者を務めていた黥骨と遭遇し父の仇討ちを挑み、梅雲・李璋の助太刀もあって黥骨に深手[注 6]を負わせるがその直後、昭王の衛兵に惨殺される。 玄修(げん しゅう) 1. 玄信の次子。盗跖(九代目)を参照。

    秦国

    昭王(しょうおう) 1. 作中で「虎狼の国」と呼ばれる秦国の王。白起の提言する覇業を受け容れた後は、戦を旧来の馴れ合いじみた物から征服のための苛烈な戦に変え、有能な人材を集め強国化を推し進め天下を狙う。 安国君(あんこくくん)→ 孝文王 1. 昭王の太子。昭王の死に伴い、秦王に即位することとなるも、父親と同じような威を保てるか不安を抱いており、孝文王として即位後3日で急逝した。 異人(いじん)→ 子楚(しそ) 1. 昭王の孫。趙への人質として暮らしていたが、呂不韋に「奇貨」として見出され、秦の公子となる。呂不韋のところにいた朱姫を見染め、妻に貰い受ける。安国君の太子となってからは名を子楚と改める。急逝した父孝文王の跡を継ぎ秦王となるが、その重圧に苦しみ、体調を崩し早世した。 嬴政(えいせい) 1. 朱姫が異人の子として産んだ男児。幼少期より周囲を圧する威を備え持ち、両親や呂不韋らを戸惑わせる。昭王の墓を暴き罪人として縛についていた鯨骨を教育係として配下にする。早世した子楚の後を受け秦王となるや、呂不韋の構想を全く意に介せず、トップダウンの人事や命令を連発する。 華陽夫人(かようふ...

  10. 志怪小説 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 志怪小説
    • 発生と伝承
    • 小説史での位置付け
    • 代表的な作品
    • 関連項目

    中国において古代から歴史書の編纂は重要な仕事とされて盛んに行われたが、市井の噂話や無名人の出来事、不思議な話などはそこには記載されることは稀で、それらは口伝えに伝えられるものとなっていた。秦・漢などの宮廷では、優倡、俳優といった娯楽のための職業人がおり、芸能とともに民間の話題をすることもあった。後漢末になると、曹丕が奇怪な話を集めた『列異伝』を編したと伝えられ、六朝の東晋では干宝『捜神記』を著した。これらは志怪小説と呼ばれ、民間説話が数多く含まれている。 一方で、劉宋の劉義慶は古今の人物の逸話を集めた『世説』を著し、20世紀になってこのような作品を志人小説と呼ぶようになった。これらのあと六朝時代以降、多数の志怪小説、志人小説が書かれた。 この発生の背景には、魏・晋以後に「竹林の七賢」に象徴される知識階級の人々が集まって談論する清談の風潮があり、その哲学的議論の中での、宇宙の神秘や人間存在の根源といった話題に、奇怪な出来事は例証として提供された。またこの時代当時の政治的動乱を、流行していた五行説に基づいて解釈したり、仏教や道教の思想の浸透に伴って、輪廻転生の物語や、仙人や道士の術の話題が広められており、仏教、道教の信者は志怪小説の形式で書物を作り出した。六朝末期には、仏教を媒介として伝わったインド説話を元にしたと思われる作品もある。 これらの志怪小説、志人小説は、見聞きした話をそのまま書きとめたもので、素朴な文体で、長さも短かったが、唐代の伝奇小説では著者の創作や情景描写が大きな位置を占めるようになった。 宋代にも伝奇小説が書き継がれたが、過去の史料の収集という観点で志怪回帰的な作品も生まれ、洪邁 『夷堅志』などがある。 六朝時代の原本は現代にはまったく残っていない。これらは宋代に太宗が命じて編纂した『太平広記』で収集されて残った。また唐代にかけて作られた類書である『芸文類聚』『北堂書鈔』『初学記』などに、志怪小説、志人小説からの採録がある。『太平広記』と同時期の類書『太平御覧』にも志怪・志人小説からの部分転載が多い。南宋の曽慥 『類説』や、明の陶宗儀 『説郛』でも収集され、明・清には志怪や伝奇が叢書の形で『五朝小説』『唐人説薈』『竜威秘書』『秘書二十一種』などが印刷出版され、日本でも江戸時代以降に広く読まれた。中でも明の顧元慶(中国語版)『顧氏分房小説』、毛晋...

    『荘子』では、つまらぬ説、些末な議論といったものを「小説」と呼び、後漢の班固は『漢書』の「芸文志」で諸子百家の分類で思想的でない「街談巷語、道聴途説」(噂話や立ち話程度)の著作者を「小説家」とした。その後数が増え、雑多になっていた小説類を明の胡応麟が六類に分けた。その一つに志怪があり、『捜神記』、『述異記』、『宣室志』、『酉陽雑俎』などが挙げられている。この後裔として六朝時代に志人小説を小説と呼び、唐宋時代に志怪のことを志怪小説と呼ぶようになった。この経緯から、『列異伝』は成立に不明の点もあるため、『捜神記』が現代的な意味での中国小説の祖とされる。 ただし荘子や班固の「小説」は議論のあるものを指しているが、志怪小説、志人小説は、面白い話ではあるが作者の主張は含まれないことが多い。志怪小説や伝奇小説は文語で書かれた文言小説であるが、宋から明の時代にかけてはこれらを元にした語り物も発展し、やがて白話(口語)で書かれた『水滸伝』『金瓶梅』などの通俗小説へと続いていく。

    『列異伝』 曹丕(魏の文帝) 作として伝えられるが断簡が残存するのみ。現存するものには後人の作品が混入しており、成立の経緯は不明。
    『捜神記』 東晋の干宝作。
    『捜神後記』 晋 陶潜 作。『桃花源記』が含まれる故に陶潜(陶淵明)作とされることが多いが、決め手とはなっていない。
    『異苑』 宋の劉敬叔(中国語版)作。劉は江蘇省銅山の人で、東晋の劉毅、劉裕に仕えた。

    志怪小説を翻訳・紹介した日本の著作家。 1. 岡本綺堂- 蒼蛙房に集う男女が志怪小説を再話するという設定の翻訳集『中国怪奇小説集』を著す。 2. 田中貢太郎- 中国の伝奇物を多く翻訳。 3. 佐藤春夫- 『支那童話集』を著す。のちに『中国童話集』として再版。 4. 諸星大二郎- 漫画『諸怪志異』を著す。 5. 南伸坊- 志怪小説を漫画化した『チャイナ・ファンタジー』(のち『仙人の壺』→『李白の月』と改題)を著す。 6. 前野直彬- 『中国古典文学大系』を編訳。 7. 中島長文- 『中国小説史略 1』を日本語訳。

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