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  1. 三国殺 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 三国杀

    三国殺(さんごくさつ、Legends of the Three Kingdoms、LTK)は、中国のYoka Games(游卡桌游)社が開発したテーブルカードゲームである。2008年1月1日に発売された。 日本語版については、株式会社ミントより2018年5月1日に正式発売された。

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  2. 趙雲 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 趙雲
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    • 趙雲別伝
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    • 関連項目

    もともとは公孫瓚の部下であったが、青州で袁紹と戦っていた田楷の援軍として公孫瓚が劉備を派遣した際、趙雲も随行して劉備の主騎となった。 建安13年(208年)、荊州の当陽県長坂で曹操自ら指揮を執る5000の兵に追いつかれた劉備は、妻子を捨てて逃走した。この時、趙雲が劉禅を身に抱え、更に甘夫人を保護したので、二人は危機を免れることができたが、劉備の娘二人は曹純に捕獲された(長坂の戦い)。この戦いの後、牙門将軍に昇進した。 劉備の入蜀時には荊州に留まった。建安18年(213年)、諸葛亮・張飛・劉封らと共に長江を遡って入蜀し、益州の各郡県を平定した。趙雲は江州(重慶)から別の川に沿って西進し、途上で江陽を攻略した。益州が平定された後、翊軍将軍に任ぜられた。 建興元年(223年)、劉禅が即位すると中護軍・征南将軍へ昇進し、永昌亭侯に封じられた。後、鎮東将軍に昇進した。 建興5年(227年)、諸葛亮と共に北伐に備えて漢中に駐留した。翌6年(228年)、諸葛亮が斜谷街道を通ると宣伝すると、魏の曹叡は曹真を郿に派遣し、諸軍の指揮を命じて駐屯させた。趙雲は鄧芝と共にその相手をする事となり、諸葛亮は祁山を攻めた。曹真は箕谷に大軍を派遣したが、兵の数は趙雲と鄧芝の方が多かった[注釈 1]という(『漢晋春秋』)。しかし曹真の兵は強く、趙雲と鄧芝の兵は弱かったので、箕谷で敗北した。その際趙雲は自ら殿軍を務め、軍兵を取りまとめてよく守り、輜重もほとんど捨てずに退却できたため、大敗には至らなかったが、鎮軍将軍に降格された[注釈 2]。一方、『華陽国志』では位階ではなく禄を貶したとの記録がある。諸葛亮は、箕谷では不戒の失があったと上奏している(蜀志「諸葛亮伝」)。 翌7年(229年)、没した。子の趙統が後を継いだ。 景耀4年(261年)、趙雲は順平侯の諡を追贈された。法正・諸葛亮・蔣琬・費禕・陳祗・夏侯覇は死後すぐに、関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠は景耀3年に追贈されており、趙雲は12人目である。時の論はこれを栄誉とした。 陳寿は、黄忠と共に彊摯・壮猛であり、揃って軍の爪牙となったとし、灌嬰、夏侯嬰に比している[注釈 3]。 『季漢輔臣賛』では「重厚な性質」とされ、陳到と共に「選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」とされている。

    本伝中の記述がやや簡素なのに比べ、以下の『趙雲別伝』は記述が多く、司馬光も『資治通鑑』を編纂するにあたって趙雲別伝の記述を採用している。 清の史学者何焯は、趙雲が劉備に仕えた時期が本伝と異なること、第一次北伐で降格された趙雲が褒賞を受けたのが不自然であることからその内容を否定し、「趙雲別伝とは趙家の家伝を改編したものではないか」と疑問を呈している。 李光地も、本伝中の趙雲は功績が少ない一方で、別伝中の趙雲は功績が多すぎるとして、その違いに疑問を呈している。 趙雲は身長八尺(約184cm)で、姿や顔つきが際立って立派だったという。故郷の常山郡から推挙され、官民の義勇兵を率いて公孫瓚の配下となった。 後に趙雲が兄の喪のために公孫瓚の下を辞して故郷へ帰ることになった時、劉備は趙雲が自らの下にもう二度と戻って来ることはないだろうと悟った、とある[注釈 4]。 建安5年(200年)、劉備が袁紹を頼って来ると、趙雲は鄴で久しぶりに目通りし、密かに募った数百人の兵を連れて劉備の配下となった。 博望坡の戦いに参加し、同郷の知人である夏侯蘭を捕虜とし、軍正に推挙したという。 建安13年(208年)からの荊州平定に参加し、偏将軍・桂陽太守になったとされる。また、この桂陽攻略時に降伏した太守の趙範が、自らの兄嫁(未亡人)を嫁がせようとしたが、趙雲は「趙範は追い詰められて降ったに過ぎず、内実は判った者では有りません。また、天下にも女は少なくありません」と述べて、これを固辞した。 劉備は入蜀時に趙雲を留営司馬に任じ、奥向きのことを取り締まらせた。孫権は劉備が自分を騙して入蜀したと聞くと、孫夫人を呉に帰らせたが、孫夫人は劉禅を連れて行こうとした。趙雲は張飛と共に長江を遮り、劉禅を奪回した。このエピソードは『漢晋春秋』にも載っている。 益州支配後、劉備が益州に備蓄してあった財産や農地を分配しようとした際、趙雲が反対したので劉備はそれに従ったという。漢中攻め(定軍山の戦い)では黄忠を救出し見事な撤退戦と空城計を演じたため、劉備から「子龍は一身これすべて胆なり(子龍一身都是膽也、子龍は度胸の塊の意)」と賞賛され、軍中において虎威将軍と呼ばれるようになった。このエピソードは『資治通鑑』にも載っている。 章武元年(221年)、呉を討とうとする劉備を「敵は魏であり呉ではありません」と朝議で諫めたが聴...

    正史『三国志』の趙雲は同巻に収められた五人の中で最も位が低く、劉備が漢中王として即位した際、関羽・黄忠・馬超・張飛がそれぞれ前後左右の将軍位を授かっているのに対し、趙雲は翊軍将軍のまま据え置かれた。 しかし『三国志演義』においては、五虎大将軍として他四人と同格に位置付けられ、非常に勇猛かつ義に篤い、また冷静沈着な武芸の達人として描かれている。「生得身長八尺、濃眉大眼、闊面重頤、威風凜凜」(身長八尺の恵まれた体格、眉が濃く目が大きく、広々とした顔であごが重なっている、威風堂々)と体躯堂々たる偉丈夫として描写されている。 長坂では、単騎で大軍の中を駆け抜け阿斗と甘夫人を救出する話が代表的な名場面であり、京劇でも人気がある。また、中国各地に阿斗を抱いた趙雲像が建立されている。 劉備が、孫権の妹と縁談のため呉に向かった際には同行している。そして、孫権による暗殺から劉備を守り、諸葛亮から与えられていた策を用い、呉から脱出している。

    民間伝説によると、趙雲は「白龍」(はくりゅう)(もしくは白龍駒、はくりゅうく)という名前の白い駿馬を愛馬にしていたという。『子龍池』という話では、この馬は昼は千里を、夜は五百里を走ることができ、趙雲とは意思疎通ができたといわれるほど愛されたという。子龍池は趙雲の家の裏に在り、白龍とともに趙雲が傷を癒したという。後に子龍池を、民や負傷兵らも傷が癒せるように解放し、大変喜ばれている。 また「涯角槍」(がいかくそう)という槍を得意としていたとなっている。『三国志平話によると、長さ九尺(約3メートル)で趙雲が「生涯に敵う者なし」という意味で名付けたことになっている。同説話ではこの槍で、張飛と互角に一騎討ちをしている。 妻の身分は不詳。民間伝承によると、趙雲の妻に孫軟児なる夫人がおり、この夫人が戯れに刺繍針で趙雲の身体をつついたところ、血が止まらなくなり死んでしまった。河北梆子劇『青釭剣』によると、趙雲の妻に李翠蓮の名が見られる。 上記は正史·『演義』では一切語られていないが、白龍の話は、映画『レッドクリフ』で採用されている。軟児の名は、映画『三国志』で採用されている。

    坂口和澄『三国志人物外伝 亡国は男の意地の見せ所』 平凡社 平凡社新書325 ISBN 4-582-85325-0
    『江陵県志』
  3. 諸葛亮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 孔明
    • 略伝
    • 評価
    • 『三国志平話』中の諸葛亮
    • 『三国志演義』中の諸葛亮
    • 著作など
    • 家系
    • 参考文献
    • 関連項目

    書生時代

    徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)が本貫だが、出生地は不明。身長は8尺(後漢の頃の1尺は23cmで8尺は184cm、魏・西晋の頃の1尺は24.1cmで8尺は192.8cmになる)。その祖先は前漢元帝の時の司隷校尉の諸葛豊。父の諸葛珪は泰山郡の丞(郡の副長官)を務めた人物であるが、諸葛亮が幼い時に死去している。年の離れた兄には呉に仕えた諸葛瑾(異母兄説がある)、弟には同じく蜀漢に仕えた諸葛均、他に妹がいる。 まだ幼い頃、徐州から弟の諸葛均と共に叔父の諸葛玄に連れられ南方へ移住する。この時の行き先について『三国志』本伝では、叔父の諸葛玄は袁術の命令を受けて豫章太守に任命されるが、後漢の朝廷からは朱皓が豫章太守として派遣され、その後、劉表の元に身を寄せたとなっている。これに対して裴松之注に引く『献帝春秋』では、朝廷が任命した豫章太守の周術が病死したので劉表が代わりに諸葛玄を任命したが、朝廷からは朱皓が送り込まれ、朱皓は劉繇の力を借りて諸葛玄を追い出し、諸葛玄は逃れたが建安2年(197年)に民衆の反乱に遭って殺され、首を劉繇に送られたとなっている。 その後、諸葛亮は荊州で弟と共...

    三顧の礼

    華北ではこの頃、建安5年(200年)に曹操が袁紹を打ち破って覇権を手中にし、南進の機会を窺っていた。劉備は袁紹の陣営を離れて劉表を頼り、荊州北部の新野(現在の河南省南陽市新野県)に居城を貰っていた。 諸葛亮は前述のように晴耕雨読の日々を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。人材を求める劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は3度諸葛亮の家に足を運び、やっと迎えることができた。これが有名な「三顧の礼」である。裴松之の注によると、『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽を訪ね、司馬徽は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また『魏略』には、諸葛亮の方から劉備を訪ねたという話が載っていたという。その後に裴松之自身の案語として、「「出師表」には明らかに劉備が諸葛亮を訪ねたと書いてある。それなのにこんな異説を立てるとは、実に訳の分らぬ話である」とある。この時、諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三...

    赤壁の戦い

    建安13年(208年)、劉表陣営では次男の劉琮が後継となることがほとんど決定的となり、長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じて高楼の上に諸葛亮を連れ出し、登った後で梯子を取り外して、諸葛亮に助言を求めた。 観念した諸葛亮は春秋時代の晋の文公の故事を引いて、劉琦に外に出て身の安全を図るよう薦めた。劉琦はこれに従い、その頃ちょうど太守の黄祖が孫権に殺されたため空いていた江夏(現在の湖北省東部)へ赴任する事にした。劉琦の兵力は後に劉備たちが曹操に追い散らされたときに貴重な援軍となった。 同年、劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できると勧めたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏した。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた(長坂の戦い)。 孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛を派遣してきていた。諸葛亮は...

    同時代の評価

    『三国志』裴松之注に引く『襄陽記』では、荊州時代に龐統と並び称されていた。また曹操が漢中を攻略した際、劉曄は蜀を続けて攻めるよう進言したが、この際に諸葛亮の政治がよいため放置しておくのは危険であるとしている。また魏の文帝から諮問を受けた賈詡は、諸葛亮がよく国を治めていると評価している。呉の大鴻臚であった張儼は古代の名宰相である子産や晏嬰、管仲と並ぶか、それを上回る人物であると評価している。諸葛亮の死後、蜀の相となった蔣琬は楊敏に「前任者(諸葛亮)に及ばない」と謗られた際に、「事実私は前任者に及ばない」と語った。蔣琬を継いだ費禕は姜維に「我々は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。丞相でさえ中原を平定できなかったのだ。我らなどでは問題外だ。功業樹立は能力のある者の到来を待とう」と語っている。 軍事については司馬懿が諸葛亮の築いた軍営の跡を見て「天下の奇才」とする一方、「志は大きかったが機を見ることには長けていない」と評している。 張儼は著書の『黙記』述佐篇で批評として「司馬仲達は十倍の地を支配しただ自国の保全につとめただけであった。諸葛孔明を思うままに行き来させていたのだから、もしも孔明...

    西晋における評価

    『晋書』においては諸葛亮が政治・忠誠などで高い評価を受けていた記述が見られる。蜀漢の滅亡後には、司馬昭が諸葛亮の軍法や用兵を陳勰に学ばせている。また傅玄が司馬懿を讃えた楽『宣受命』では、公孫氏討伐とともに諸葛亮に対する勝利を司馬懿の功績であるとしている。また当時、諸葛亮と楽毅を比較する論がしばしばあったが、張輔は『名士優劣論』の中で楽毅などとは比べ物にならず、呂尚(太公望)に匹敵する人物であると絶賛している。また『三国志』裴松之注『漢晋春秋』では、武帝司馬炎が「(諸葛亮を)自分の補佐にしていれば今日の苦労はなかったであろう」と。 この時代に書かれた『三国志』の撰者である陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲・蕭何に匹敵する」と最大限の評価を与えている。 しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功...

    五胡十六国時代以後における評価の上昇

    五胡十六国時代から南北朝時代になると、諸葛亮を名臣・名将であると評価する動きが高まった。東晋においては蜀と東晋の状況を重ね合わせ、蜀漢が正統な王朝であるという動きが強まり、諸葛亮が政治や軍事面だけでもなく、理想的な君臣関係を築いた者としても賞揚された。一方で北魏の宰相であった崔浩は「曹氏と天下を争う事あたわず、荊州を委棄し退きて巴蜀に入り、劉璋を誘奪し、孫氏を偽連し、守るも崎嶇の地に窮し、辺夷の間に僭号す。此の策の下なるは、趙他を以て偶と為すべきにして、以て管蕭の亜匹と為すは、また過ぎたるにあらずや」と、陳寿の評も過剰評価であり、昔の名将と比較できるものではないと酷評している。北朝でも北斉の宇文泰は、有能な部下に対し「孤(私)の孔明である」として「亮」の名を与えている(劉亮)。 唐代に至ると唐以前の中国史を代表する名将であるとして、太公望の侍神の一人(武廟十哲)として祀られるようになり、偉大な軍師・名政治家としての評価が固まることとなった。また民衆の間でも軍師としての諸葛亮像が語られるようになった。この傾向は時代を追うごとに強まり、宋代には神仙のような力を持つ諸葛亮像が生まれるに...

    宋代には『説三分』とよばれる三国時代を題材にした講談が民衆の間で人気を博した。講談の台本として元代に作成されたのが『三国志平話』である。その中で諸葛亮は豆を撒いて兵を作り、風を起こして雨を降らせるなど神仙として描かれている。また諸葛亮は農民出身とされた。

    小説『三国志演義』の中で、その名前を字で記載されているのは玄徳(劉備)と孔明(諸葛亮)のみである(このほか関羽も字の「雲長」や「関公」などと呼ばれて「関羽」と記されることはない)。 『初学記』巻二十五に引く『語林』では、諸葛亮が白い輿に乗り、葛巾をかぶり羽扇を手に軍を指揮したと描写されているが、『三国志演義』ではさらにイメージがふくらまされ、綸巾を戴き羽扇を手にして四輪車に乗り、鬼神や天候をも操り、敵の意図を全て事前に察知し、天文をもって人の生き死にを知る事が出来るといったほぼ完璧な人物として描写されている。この描写については批判もあり、魯迅などは「人物描写に至ってはすこぶる欠点がある。劉備を温厚な人格者として表現しようとしてむしろ偽善者じみているし、諸葛亮を知恵者として表現しようとしてむしろ化け物じみてしまっている」と述べている。 諸葛亮の事跡に関して、『三国志』と『演義』との主な相違点を挙げる。 1. 『演義』では曹操が南下をもくろみ、夏侯惇に10万の兵を付けて派遣するが、諸葛亮の作戦でこれに大勝した、またこの時に関羽と張飛が諸葛亮に対し反抗したが、孫武の策を使い従わせた、となっているが、実際にはこの戦いは諸葛亮が劉備軍に参加する前の話である。 2. 赤壁の戦いに於いて、前述の通り諸葛亮はあまり目立った事はしていないが、『演義』に於いては重要な役割を演じている。 2.1. 非戦論を主張する張昭ら呉の重臣達と論戦し、全て言い負かし沈黙させる。 2.2. 非戦論に傾いていた孫権・周瑜を説得して交戦に向かわせる(『三国志』に徴すれば、周瑜は最初から抗戦を主張していた、田横の最後を例に挙げ孫権を説得している)。 2.3. 戦いが始まってから周瑜は諸葛亮の才能を恐れるようになり、諸葛亮に対して10日で矢10万本を手に入れろと言う無理難題を突きつけて殺そうとしたが、諸葛亮は霧の出た夜に曹操軍に夜襲を仕掛け、曹操軍が放った矢を鹵獲して帰った(裴松之注に見られる孫権の逸話を利用したものと言われる)。 2.4. 曹操軍を火攻めにすると決まったものの北西の風しか吹かず、このままでは火を点けてもその火が自分達に返ってくる事がわかり、周瑜は悩んでいた。そこで諸葛亮は壇を築いて祈祷し、東南の風を吹かせ、曹操軍を焼き討ちにしたことになっている。 3. 赤壁の戦いでの敗戦後、曹操の敗軍...

    『三国志』諸葛亮伝では、「諸葛亮は創造力があった」「諸葛亮の言葉・布告・書簡・上奏文には見るべきものが多くあった」と諸葛亮の創造性と文才を高く評価している。 諸葛亮の著作としてはもちろん『出師表』が最も有名である[注釈 5]。また『隋書』によると論前漢事一巻、蜀丞相諸葛亮撰がある。漢詩などはまったく残しておらず[注釈 6]、その他の文章も全て政治的なことに関する文章である。『三国志』中に引用されているものとして『出師表』の他には、王朗らの降伏勧告への反論『正議』、李厳を弾劾する表、廖立を弾劾する表などがある。諸葛亮の文章を陳寿が編纂した『諸葛亮集』、また同じく旧蜀の臣寿良も『諸葛亮集』を纏めていたがいずれも、現存していない。 『後出師表』は『三国志』本伝に見えず、呉の張儼の著作『黙記』に収録されていたものが『漢晋春秋』に引用され、それを更に裴松之が「この上表文は『諸葛亮集』には見えない」と注記した上で引用している。この文章は228年に書かれたもののはずだが、翌229年に死去したはずの趙雲が既に死んでいるという記述があるなどの疑念により、後世の偽作という見解が多い。 また『三国志』諸葛亮伝によれば、諸葛亮は兵法を応用して『八陣の図』(「八陣図」「軍勝図」「八卦の陣」とも)を作成したが、ことごとく要点をつかんでいた。『李衛公問対』では、唐の名将李靖の「六花の陣」は、諸葛亮の「八陣の法」を参考にして作られているとしている。『三国志演義』では、諸葛亮は『兵法二十四編』を死の直前に姜維に托している。また宋代には『諸葛亮行兵法』『諸葛亮将苑』など諸葛亮の名を冠した偽兵法書の書名が散見する。 諸葛亮は発明家でもあり、以下のようなものが諸葛亮の発明であるとされる[要出典]。『三国志』諸葛亮伝にも、諸葛亮は連発式の弩(元戎)や木牛、流馬を開発したと記されている。 1. 晋時代に普及した筒袖鎧 2. 連発式の弩を工夫した元戎(『魏氏春秋』によれば、この弩は十本の矢を同時に発射することができた) 3. 一説に一輪車(猫車)の起源とされる木牛 4. 一説に四輪車と言われる流馬 5. 駐留時栽培させた諸葛菜(蕪) 6. 織物の技術を南蛮民に伝えた諸葛錦 7. 字を知らない民の教育に使用した紙芝居 8. おもちゃの孔明鎖 9. 孔明灯(現在の雲南省にて諸葛亮発明と伝わる) なお、諸葛亮が...

    諸葛亮の子孫たち

    中国には諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村が浙江省金華市蘭谿市諸葛鎮にあり、住民3000人のうち8割が「諸葛」姓となっている。国外へ移住した華人を含めて家系図を十数年に一度更新しており、2020年時点では中国国内のほか欧米、東南アジア、日本に合計1万3000人の「子孫」がいる。 近年になって発見された家系図(彼らの先祖は諸葛亮の孫の諸葛京の家系とされる)があるとはいえ、諸葛亮自身も1800年も前の人物であるので、実際に彼らが諸葛亮の子孫なのかどうかは家系図以外に実証する資料がない。諸葛亮が伝来させたという文化をよく守り、諸葛八卦村は中国から文化財として指定され観光地としても有名である。 清の張澍『諸葛忠武侯文集』によれば、諸葛質(諸葛瞻の子)という孫がおり(故事巻一「雑記」)、また諸葛懐という息子・諸葛果という娘と甥の諸葛望(諸葛均の子)がいたとされる(故事巻一「朝真観記」)。諸葛果は成都近くの道観で修行して、ついに仙人となって昇天したという。しかし、歴史学者の張崇琛によると、張澍が記した諸葛一族は後世の創作であろうと指摘している。

    陳寿・裴松之 注『正史三国志5 蜀書』井波律子 訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉1992年。ISBN 978-4-480-08045-5
    今鷹真・小南一郎・井波律子著 『三国志Ⅱ』 〈世界古典文学全集24B〉筑摩書房 1982年 ISBN:4-480-20352-4
    中林史朗訳著『諸葛孔明語録』明徳出版社〈中国古典新書続編〉1986年
    渡辺精一訳著『全論諸葛孔明』講談社 2004年
  4. JIS X 0213漢字一覧の1面 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › JIS_X_0213漢字一覧の1面

    JIS X 0213漢字一覧(ジス エックス 0213かんじいちらん)は、JIS X 0213:2004で規定された漢字の一覧(1面14区-2面94区)である。 該当文字および規格で示された面 区 点、Shift_JIS-2004、Unicodeのコード位置および規格に記載された日本語通用名称を示す。 ここ ...

  1. 潘政琮奪銅牌 相關
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