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  1. 牧場物語2 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/牧場物語2
    • ゲーム概要
    • ゲームシステム
    • 花の芽町の施設と住民
    • 外部リンク

    亡くなった祖父の牧場を引き継ぎ、「花の芽町」での3年間の牧場生活を評価される。2Dで表示されていた従来のシリーズとは異なり、3Dクォータービューで描かれている。イベントの数や、会話の内容などが豊富で、住民達とのふれあいを楽しめるようになっている。また、シリーズで再び結婚できるようになった。 なお、後の『ハーベストムーン』でも同じキャラクターが使われているが、両親をはじめとした家族構成や人間関係は同一ではない。

    ゲーム全体

    1. 一年は、春、夏、秋、冬の4ヶ月、1ヶ月は30日の計120日からなる。ゲーム開始は春の月3日で、ゲーム終了は3年目の夏の月1日である。この時点で主人公の父親から牧場や主人公のしあわせ指数の評価を受ける。高評価だとこれ以降もゲームを続けられる。

    しあわせ指数

    1. エンディングに影響する隠しパラメータで主人公がどれだけ幸せな牧場生活を送っていたかの指数を表している。町のお祭りに参加、結婚する事などで指数は上昇する。逆に家畜を死なせてしまったり、風邪を引いたときに誰も見舞いに来てくれなかったときは指数は下がる。

    お仕事レベル

    1. 前2作では、道具をパワーアップさせることにより作業効率が上がっていたが、今作では、自分が作業を繰り返すことにより、レベルを上げ、作業効率を上げるようになった。レベルは3段階あり、レベルがあがると各道具の色が、黒→銀→金と変化する。

    花屋「フラワーリリア」

    リリアが経営する作物の種などを扱うお店。季節に合わせた作物の種を販売する。条件を満たせばほとんどの種を販売するようになる。 リリア 1. 花屋の店主でポプリの母親。植物に詳しく、買う種の育て方などを教えてくれる。年齢は秘密だが、ポプリと同じ年の頃にポプリを生んだらしい。 バジル 1. 植物学者でポプリの父親。36歳。冬の間はどこかに旅に出ているので、花の芽町にいるのは春から秋の間だけ。花の芽町にいる時でも、月山の植物についての研究を行なっている。 ポプリ 1. 花屋の手伝いをしている女の子。人見知りをせず楽天的な性格だがなかなかのしっかり者。趣味はガーデニング。両親のことが大好きだが、父親のバジルから子ども扱いされることと、放浪癖を不満に思っている。エリィと仲が良い。結婚可能な女の子の一人。第1作に登場したニーナの孫にあたる。

    ケーキ屋「花の芽ケーキ店」

    ジェフの経営するお菓子の店。牧場を経営するにおいて必要なアイテムは取り扱っていないので、重要度は低いが、お菓子を食べることで体力を回復したり、住民にプレゼントして好感度をあげたりする事が出来る。 ジェフ 1. ケーキ作りにこだわりを持つケーキ屋の店長。30歳。エリィのことを小さい頃から知っており、12歳も年の差があることでエリィへの好意に悩み始める。ゲームの進行によってはエリィと結婚する。 エリィ 1. ケーキ屋の手伝いをしている女の子。両親を幼い頃に亡くしているが、明るく家庭的な性格。料理や釣りが好き。祖母のエレンと2人で暮らしている。ポプリと仲が良い。結婚可能な女の子の一人。 エレン 1. エリィの祖母で、ケーキ屋で暮らしている。72歳。主人公の祖父と仲が良かったようで、主人公の幼い頃を良く覚えている。第1作に登場したエレンと同一人物。

    道具屋「リックの店」

    リックが経営する酪農に関する道具を主に扱う店。主人公が家畜を飼うのに合わせて商品を売ってくれるが、開店している日が他の店と比べて少ない。また結婚するときに必要なアイテムも取り扱っている。 リック 1. 道具屋の店主。26歳。道具の発明が趣味で、発明したものを店で売るなどしている。店が開いている日が少ないのはこの趣味が原因。失恋した過去があるらしい。グリーン牧場のグレイとランのいとこで、第1作に登場したアンの孫にあたる。

  2. 耽羅 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/耽羅
    • 略年表
    • 歴史
    • 民族・言語系統
    • 支配者
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    この年表の月は旧暦表示である。 1. 紀元前58年-紀元前7年 高厚、高淸、高季などは新羅入朝。 2. 476年4月 百済の文周王に朝貢した(『三国史記』)。 3. 498年9月 百済の東城王に服属した(『三国史記』)。 4. 508年12月 南海中の耽羅人が初めて百済国と通じた(『日本書紀』)。 1. 梁職貢図に百済の附庸国で下耽羅 1. 661年5月 王子の阿波伎らを派遣して日本に対して初めて朝貢を行った。 2. 662年2月 新羅の文武王に来降し、これ以後は新羅の属国となった(『三国史記』)。 3. 665年8月 日本へ使者を送って来朝した。 4. 666年1月 王子の姑如らを日本に派遣して朝貢した。 5. 667年7月 佐平の椽磨らを日本に派遣して朝貢した。 6. 669年3月 王子の久麻伎らを送って日本に朝貢した。日本は耽羅王に五穀の種を賜い、その上で耽羅の王子らは帰国した。 7. 673年5月 王子の久麻藝や都羅、宇麻らを送って日本に朝貢した。 8. 673年8月 天武天皇即位にあたり耽羅王と王子の久麻藝らに大乙上の冠位を賜る。 9. 675年9月 王子の久麻伎が入貢し筑紫に宿泊する。 10. 675年9月 耽羅王姑如が難波に来朝する。 11. 676年2月 天武天皇が耽羅の使者に船一艘を賜る。 12. 677年8月 王子の都羅らを日本に送って朝貢した。

    耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする三姓神話がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国(『高麗史』では日本)から来た美しい3人の女を娶り、王国を建国したことが伝えられている。[註釈 3]。歴史的な記録としては3世紀の中国の史書『三国志』魏志東夷伝に見える州胡が初見であり(「三姓神話」)、朝鮮人とは言語系統を異なるものとするのが通説である(これには異説もある)。 『三国史記』では耽羅が476年に百済の文周王に朝貢し、498年に百済の東城王に服属したとあるように、498年以後は百済に朝貢していた。しかし660年百済が唐・新羅連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。662年には新羅に服属したとみられるが、このとき唐から帰国する日本の遣唐使船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が『日本書紀』にある。また、継体天皇二年(五〇八)『南海中耽羅人初通百済国』とあり、日本書紀では、百済と初めて通じたのが508年と記録されている。 当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅文武王が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。 東シナ海の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となり、9世紀の商人張保皐(生年不明 - 846年)は新羅王の認可の下、耽羅と莞島を拠点に新羅、唐、日本の三国との貿易を盛んにし、北は日本の能登半島(石川県)や十三湊(青森県五所川原市)から南は広州、西は山東半島に及ぶ海上貿易を行い、航海安寧のために観世音菩薩を祀るための法華寺を耽羅と莞島に、赤山法華院を山東半島に建立し、この三寺院の建立によって耽羅は大乗仏教による共通の信仰と共に東亜世界と結ばれた。 935年に新羅が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、938年に耽羅国の星主の高自堅は高麗に服属した。高麗は1105年に「耽羅郡」を設置し、1108年に「済州郡」に改称、ここで「耽羅国」としての歴史は途切れた。 1121年には済州と改称したが、星主、王子など旧来の支配者の称号は認めていた。高麗支配下での済州島では1168年の良守の乱...

    耽羅民族は「星主」という国王を中心として、独自の言語・神話・称号文化を持った民族であった。王氏高麗の侵略や李氏朝鮮の併合後も朝鮮半島からの人口流入は殆どなく独自も文化を維持し、20世紀まで保っていた。 朝鮮王朝実録によれば、李氏朝鮮との併合後も中央政府からは事実上従属国として扱われ、耽羅人もまた自分を朝鮮人と思う人は少なかった。 作家大宅壮一の著書「炎は流れる」の朝鮮編には、「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。 『三国志』『後漢書』によれば、耽羅の前身である州胡の人は言語が韓と異なり、背が低く、鮮卑(匈奴あるいは烏桓も含む)のように髪を剃った弁髪の風習を持ち、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。 日本に来た耽羅国の使者としては、「阿波伎」、「始如」、「椽磨」、「久麻伎」、「都羅」、「宇麻」等の名が知られている。いずれも耽羅の固有語を万葉仮名のように表したものだと思われるが、その意味などは全くは分かっていない。 アレキサンダー・ボビンによると、「耽羅」という名称は、日本語の「たにむら(谷村, 'valley settlement')」や 「たみむら(民村, 'people's settlement')」で分析することができるという。したがってボビンは耽羅語は日本語族系であると推測した。

    耽羅郡(済州)時代

    いずれも1446年に世宗が訓民正音(後のハングル)を公表する以前の支配者名である。

    註釈

    『高麗史』巻57地理志2 耽羅縣 1. 初無人、三神人從地聳出其主山北麓有穴曰毛興、是其地也。長曰良乙那、次曰高乙那、三曰夫乙那、三人遊獵荒僻、皮衣肉食。一日、見紫泥封蔵木函、浮至東海濱、就而開之、函內又有石函。有一紅帶紫衣使者、隨來開函、有靑衣處女三人及諸駒犢五穀種、乃曰:「我是日本國使也、吾王生此三女、云西海中嶽降神子三人、將欲開國而無配匹、於是命臣侍三女而來、宜作配以成大業。」使者忽乘雲而去、三人以年次分娶之。就泉甘土肥處射矢卜地、良乙那所居曰第一都、高乙那所居曰第二都、夫乙那所居曰第三都、始播五穀且牧駒犢、日就富庶。十五代孫高厚、高淸、高季昆弟三人、造船渡海、泊于耽津、蓋新羅盛時也。于時客星見南方、太史奏曰:「異國人來朝之象也。」及厚等至、王嘉之、稱厚曰星主、以其動星象也。令淸出袴下、愛如己子、稱曰王子。又稱其季曰都內。邑號曰耽羅、以初來泊耽津而朝新羅也。各賜寶蓋・衣帶而遣之、自此子孫蕃盛、敬事新羅。以高爲星主、良爲王子、夫爲徒上。其後服事百濟、除星主・王子之號、以其爲佐平使者、爲恩率。及羅濟亡、耽羅國主見太子未老、朝高麗太祖、因賜星主・王子爵瑞山。

    高野史男『韓国済州島――日韓を結ぶ東シナ海の要石』中央公論社〈中公新書1326〉、東京、1996年10月25日、発行。ISBN 4-12-101326-3。
    伴信友 『日本書紀考』 岸田吟香他 1883年
    文京洙『済州島四・三事件――「島のくに」の死と再生の物語』平凡社、東京、2008年4月18日、初版第1刷発行。ISBN 4-583-45437-6。
    • 탐라、탐모라、둔라
    • 耽羅、耽牟羅、屯羅
    • たんら、ちんら、たむら・たんもら、とんら
    • タムナ、タンモラ、トゥルラ
  3. 王懿 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/王懿

    王 懿(おう い、367年頃 - 438年)は、前秦から南朝宋にかけての軍人。名が晋の宣帝司馬懿の諱を冒していたため、史書では字の仲徳で呼ばれることが多い。 本貫は太原郡 祁県。 経歴 後漢の司徒 王允の弟の王懋の六世孫である王苗の子として生まれた。

  4. 王永 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/王永

    王 永(おう えい、? - 386年)は、五胡十六国時代前秦の人物。本貫は北海郡劇県。父は前秦の丞相王猛。弟に員外散騎侍郎王皮・河東郡太守王休(王鎮悪の父)・王曜がおり、他に妹が一人いる。

  5. 王如 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/王如

    王 如(おう じょ、? - 315年)は、西晋末年から五胡十六国時代にかけて活動した流民集団の首領。 京兆郡 新豊県の出身。 生涯 雍州の武吏として西晋に仕えていたが、西晋末年の混乱を避けて宛城に移った。 310年9月、朝廷は詔を下し、全ての流民へ郷里に帰還する ...

  6. 北涼 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/北涼
    • 歴史
    • 北涼の君主
    • 高昌北涼の君主
    • 北涼の元号
    • 北涼主要年表

    建国期

    北涼の実質的な建国者である沮渠蒙遜ははじめ後涼に属しており、匈奴系であるとも月氏系であるともいわれ諸説存在する。 397年4月、後涼の天王呂光は西秦討伐に失敗し、その責任を尚書の沮渠羅仇と三河郡太守の沮渠麹粥兄弟に取らせて処刑した。これに激怒した兄弟の甥である沮渠蒙遜は2人の葬儀の際に集結した一族万余を前にして後涼からの自立を宣言し、臨松郡(現在の甘粛省民楽県)を陥落させて金山に駐屯した。これに対して呂光は討伐軍を送り、沮渠蒙遜は敗北したが、酒泉に駐屯していた沮渠蒙遜の従兄の沮渠男成が呼応して勢いを取り戻し、5月には楽涫に迫って後涼から建康郡太守に任命されていた漢族の段業を涼州牧・建康公に擁立して神璽と建元し、事実上の北涼建国を成し遂げた。建国者は擁立された段業だが、実質的な権力は沮渠蒙遜と沮渠男成の両者が掌握した。 沮渠蒙遜は398年4月に西郡(現在の甘粛省永昌県・山丹県)や晋昌郡(現在の甘粛省瓜州県・玉門市)・敦煌郡などを陥落させ、6月には沮渠男成が張掖を落とし、ここを北涼の首都とした。こうして北涼は後涼の西部をほぼ支配下に置くことになり、段業は399年2月に涼王を称した。

    沮渠蒙遜の時代

    400年11月、北涼の漢人で敦煌郡太守であった李暠が自立して西涼を建国したため、北涼は西部の領土失陥と漢人の離反が進むことになった。さらに段業と沮渠蒙遜との間で対立が発生し、沮渠男成が段業を支持したため、沮渠蒙遜は401年4月に沮渠男成に謀反の罪ありとでっちあげて段業に殺害させ、さらにその後弔い合戦として段業をも葬り、6月に沮渠蒙遜は涼州牧・張掖公として北涼の君主となった。 だが西涼の自立で北涼の領域はかなり限定的な上、周辺には後涼や北魏・南涼などが控え、さらに段業や沮渠男成ら実力者を葬ったためにその実力はかなり衰えており、北涼の存続には外交が欠かせなくなった。沮渠蒙遜はまず南涼と同盟を結ぶが、401年7月に後秦が後涼を攻撃するとその圧力を恐れて使者を派遣して従属し、後涼が滅亡した直後の403年8月には後秦の沙州刺史・西海侯に封じられて自ら後秦の藩を称して南涼や西涼と対立した。その内の南涼とは406年・407年・409年と連年にわたって戦い、410年3月には遂に南涼の首都姑臧を包囲したが、この時には姑臧を落とせずに撤退し、411年1月に姑臧を落として412年10月に遷都した。沮渠...

    北涼の滅亡

    沮渠蒙遜が死去すると、北魏はその葬儀を監護する使者を派遣した上、北涼の後継者には南朝宋が認めた沮渠菩提を廃してその兄である沮渠牧犍を擁立するなど、すでに北魏の内政干渉をもろに受ける立場にまで追い込まれていた。沮渠牧犍は文物を南朝宋に送るなど文治を盛んにした。一方で北涼は沮渠牧犍の妹を北魏皇帝の太武帝に入嫁させ、太武帝の妹の武威公主を北涼に入嫁させるという二重の通婚関係を結ぶなど強い友好関係を結んだ。 439年9月、華北統一を目指す北魏の太武帝は親征して北涼の首都姑臧に迫り、その圧力に屈した沮渠牧犍は北魏に降伏し、北涼は滅亡した。

    段業(在位397年 - 400年)
    文王段業(在位400年 - 401年)
    拓王沮渠無諱(在位443年 - 444年)
    武拓王沮渠安周(在位444年 - 460年)
    神璽 (397年 - 399年)
    天璽 (399年 - 401年)
    永安 (401年 - 412年)
    玄始 (412年 - 428年)元始とも書かれる
    397年 - 沮渠蒙遜が臨松郡に兵を起こす。段業が建康郡に兵を起こして涼州牧・建康公を称し、神璽と建元する。
    398年 - 沮渠蒙遜が後涼に侵攻し、晋昌郡太守王徳・敦煌郡太守孟敏を降す。
    399年 - 段業が涼王を称し、天璽と改元する。
    400年 - 晋昌郡太守唐瑶が敦煌郡太守李暠を冠軍大将軍・沙州刺史・涼公に推して西涼を建国する。
  7. 舜天 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/舜天
    • 名前
    • 経歴
    • 琉球における為朝伝説
    • 『椿説弓張月』にみる舜天
    • 陵墓・拝所
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    「舜天」という名前は、「首里の王」という意味の「首里天(しゅりてん)」からの連想と考えられ、神号の「尊敦」もそれに近い音とされる。また、中国神話に現れる聖天子・舜を想起させる名前である。舜天をはじめとする舜天王統3代の名前は、『おもろさうし』や『歴代宝案』に見受けられる琉球の人名の漢字・かな表記とは特殊で、後世になって付けられた諡(おくりな)ではないかと思われる。また、『中山世譜』[注 1]によれば、舜天の神号を「尊敦(そんとん)」としているが、『中山世鑑』は、「舜天尊敦」とだけ記されている。東恩納寛惇は、「尊敦(スントゥン)」と「舜天(シュンティン、スンティン)」の方言名から、これらは同じ根源をもつ語ではないかと述べている。

    実在性

    舜天の実在を証明する史料は全く残っていない。また、彼を祖とする舜天王統に関しても、存在さえ不明であり、実在しない伝説上の王統と考えられる。しかし、伊波普猷は、『沖縄歴史物語』において、1522年(嘉靖元年)の「国王頌徳碑(石門之東之碑文)」の碑文より、実在する人物と解し、舜天王統の成立から建立まで約3世紀しか経過しておらず、舜天の事績が伝説化されていたとしても、幾分は伝承されていたと述べた。また、喜舎場一隆によれば、舜天の活動期がおもろの盛行期の13世紀初頭でありながら、他の王統の始祖がおもろで聖王として謡われているのに対して舜天が脱落していることであり、舜天の実在はおもろからすると否定的に考えられるが、1543年(嘉靖22年)の「国王頌徳碑(かたのはなの碑)」に「大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ」と記され、実在性をまったく否定することもできないと述べている。

    出自

    『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、舜天の父は「鎮西八郎為朝公」、すなわち源為朝としている。また『中山世譜』は、舜天の姓を「源(みなもと)」としているが、これは「鎮西八郎為朝公」を父としているからである。『中山世鑑』の為朝伝説は、『保元物語』を参考にしており、1165年(永万元年)に為朝が渡った鬼が島を琉球に置き換えて、舜天の出生につなげている。 舜天の母は「大里按司の妹」と伝えられる。ここで、「大里」は東の島添大里(南城市大里)、もしくは西の島尻大里(糸満市字大里)のどちらの地域に比定されるかが問題となる。また、洪武年間(1368年 - 1398年)における中国への使者名に、「大里(ウフザト)」と「島尻(シマジリ)」とあり、さらに、1450年の『海東諸国紀』所載の「琉球国図」に「島尻城」と記されていることから、島添大里は「大里」、島尻大里は「島尻」といわれ、大里按司は東の島添大里を支配していたと考えられる。『中山世鑑』には、沖縄本島南部の大里按司の妹と為朝が通じ合い、子・舜天は即位するまで、距離の離れた本島中部の浦添を拠点にしていたというが、島村幸一は、1795年に四国に漂着し...

    幼年・青年期

    為朝は大里按司の妹と通じ合い、誕生した男子を「尊敦(そんとん)」と名付けた。『中山世鑑』には、為朝は望郷の念に駆られ、妻子とともに故郷へ向けて出港しようとするが、船に女房を乗せると龍神の怒りを買い、遭難してしまうと言われ、為朝は泣く泣く妻子を置いて帰ってしまった、とある。舜天(尊敦)とその母が、父の帰りを待ちわびたという洞窟(ガマ)が沖縄県浦添市牧港(まきみなと)に所在する。標高約20メートルの琉球石灰岩台地に形成された自然の洞窟で、「牧港テラブのガマ」と呼ばれる。 母親と共に浦添に居住を構えた尊敦は成長し、10歳になる頃には他よりも器量が優れていたという。1180年(淳煕7年)、15歳で人民から推挙され、浦添按司となった。その頃、首里城で天孫氏が琉球を治めていたが、臣下の利勇が、毒の入った酒を薬と偽り、王に飲ませて殺害し、自らを中山王と称した。この出来事を知った尊敦は、利勇を倒すべく、父の形見である鎧と兜を着け、弓と24本の矢、黄金作りの太刀を装備し、そして金覆輪の鞍を置いた鹿毛の馬に乗り、50余りの騎兵を連れて、首里城へ出陣した。尊敦率いる軍勢の奇襲により、利勇は戦意を無くし...

    1165年(長寛3年)3月に伊豆大島を脱出して鬼ヶ島に渡り、周辺の島々を征服したといわれる源為朝は、沖縄本島北部の運天港に上陸した後、大里按司の妹と通じて後の舜天である尊敦を生んだとされ、この伝説は鬼ヶ島を琉球とする説から始まる。琉球の為朝伝説に関する記述で最も古い文献は、月舟寿桂の『幻雲文集』(1572年)とされ、小葉田淳が最初に紹介した。曲亭馬琴の『椿説弓張月』などに為朝伝説が取り入れられ、琉球処分後の1922年(大正11年)、運天港近くに東郷平八郎の揮毫による「源為朝公上陸之跡石碑」が建立した。 薩摩侵入後の1650年に編纂された、『中山世鑑』の編集者である羽地朝秀は、いわゆる「日琉同祖論」を唱え、舜天と為朝伝説を合わせた人物であり、薩摩藩主・島津氏が「源氏」を称していることから、それにへつらった羽地の創作であると言われている。しかし、1605年(慶長10年)の袋中著『琉球神道記』にも為朝伝説は記されていることから、薩摩侵入以前からすでに琉球に当伝説はあって、羽地朝秀の作為によるものと断定できない。また小葉田淳によれば、『幻雲文集』から、1527年(大永7年)頃に月舟は琉球の僧であった鶴翁に尋ねた際、『中山世鑑』の舜天と為朝に関係する記述の内容は琉球において周知されていなかったと述べている。しかし、小葉田はジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』から、16世紀後半には為朝が琉球に渡来したという話が日本本土から琉球に伝わり、『琉球神道記』に琉球における為朝の記事が記されたとしている。 『中山世鑑』の為朝伝説は、『保元物語』を基にしているが、東恩納寛惇は、『保元物語』が史実だとしても、どれほどの信頼性があるものか疑わしく、それを確かめる術はないとしている。しかし、加藤三吾が琉球の為朝伝説を否定した論文を発表した後の1906年(明治39年)から1908年(明治41年)にかけて、東恩納は計6本の反論文を書き上げ、どれも『中山世鑑』の舜天が為朝の子であるという記述は否定できないとする内容であった。東恩納は『おもろさうし』の中の一句を為朝の運天港上陸を詠ったおもろだと解して加藤に反論し、さらに伊波普猷と真境名安興も東恩納と基本的に同じ見解で、『中山世鑑』における為朝伝説の記事を否定してない。彼らが為朝伝説に関わる史記の記述を否定しなかった理由として、島村幸一は、舜天が源...

    曲亭馬琴は家族とともに、琉球使節団の行列(江戸上り)を見学した。これを機に、『椿説弓張月』は、『保元物語』に登場する源為朝を主人公とし、保元の乱で伊豆大島へ流刑となった為朝が琉球へ渡来したという伝説を構想にして書き上げた作品である。また、『水滸伝』の李俊が暹羅に渡り国王になったという話を為朝に置き換えて作られ、その子供・「舜天丸(すてまる)」が国王として琉球を治めるという内容を含んでいる。馬琴は琉球について、徐葆光の『中山伝信録』と森島中良の『琉球談』などを参考にして解説し、当時の日本人にとって、異国情緒のある琉球を舞台に仕上げている。『椿説弓張月』の登場人物は、『中山伝信録』と『琉球談』から多く取り入れられ、「舜天丸」は、舜天のモデルであるが、母は大里按司の妹ではなく、阿多忠国の娘「白縫(しらぬい)」としている。作中の「利勇」は、天孫氏25代を滅亡させた利勇がモデルであるが、作中における最大の敵は彼ではなく、馬琴が作り上げた妖僧「曚雲(もううん)」である。 「源為朝」と「白縫」の間に生まれた「舜天丸」は、為朝の臣下・「紀平治(きへいじ)」によって育てられた。「舜天丸」に武芸や文字を教えたところ、10歳で「紀平治」よりも全てにおいて優れた若者となった。その頃、琉球の国王の側近・「利勇」が実権を握り、政治をほしいままにしていたので、国は乱れ、衰退していた。しかし、「曚雲」という妖僧が、国王を殺害し、また「利勇」も討たれたので、「曚雲法君(もううんほうくん)」と名乗り、琉球を支配した。その後、「舜天丸」は「曚雲」を倒し、文治3年(1187年)12月15日、17歳にして中山王の位を授かり、「舜天王(しゅんてんおう)」と称した。彼は善政を行い、琉球は治世安楽となり、国民は繁盛したという。

    沖縄県中頭郡北中城村の仲順(ちゅんじゅん)に、「ナスの御嶽」とよばれる御嶽がある。その中に石垣があり、その奥の岩が当御嶽の本体(イベ)で、さらにその岩の上に、舜天と舜馬順煕の二人の王を葬ったとされるコンクリート製の墓が存在する。また、伝承によれば、義本も葬られているとされ、「ナスの御嶽」は「義本王の墓」とも呼ばれている。 同県南城市字大里の南風原地区に所在する「食栄森(いいむい)御嶽」に、舜天を葬ったとされる墓がある。御嶽の基壇の中央に、頂上に宝珠のついた円筒形の墓があり、周辺住民はこれを「ボーントゥー墓」と呼んでいる。戦前まで、毎年中城御殿の使者も、この墓に拝みに来ていたという。沖縄戦終結直後に、修理をかねて墓の中を調査したところ、人骨と水晶、銅鏡が発見されている。また同字の西原地区に、舜天の母と伝えられる大里按司の妹の墓があり、「ウミナイ御墓」と呼ばれる。 崇元寺に、舜天から尚泰王までの歴代琉球国王の位牌が祀られていたが、沖縄戦により建物は焼失した。また、そこに舜天のものと言われる鏑矢が保管されていたという。浦添城東端部に位置する「為朝岩(ためともいわ)」と呼ばれる岩は、舜天と英祖の子息を祀った拝所となっている。

    安里進 『琉球の王権とグスク』 山川出版社〈日本史リブレット 42〉、2006年12月20日。ISBN 4-634-54420-2
    安里進ほか 『沖縄県の歴史』 山川出版社、2004年8月5日。ISBN 4-634-32470-9
    井上秀雄「舜天王統滅亡の考察 - 英祖王への禅譲説に対する疑問 -」、沖縄女子短期大学紀要編集委員会編 『沖縄女子短期大学紀要 第4号』 pp.21 - 30、沖縄女子短期大学、1985年3月。
  8. 李琰 (棣王) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/李琰_(棣王)

    李 琰(り えん、? - 752年)は、唐の第9代皇帝玄宗の四男。 生涯 初名を嗣真と称した。714年に鄫王に、724年には棣王に封じられ、同年名を洽と改めている。 琰とは736年に再び改めた名である。 参考文献 旧唐書』 (巻一百七 列伝第五十七) 棣王琰,玄宗第四子也 ...

  9. 禅林墨跡 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/禅林墨跡

    禅林墨跡(ぜんりんぼくせき)とは、禅林 高僧の真跡のこと。 印可状・字号・法語・偈頌・遺偈・尺牘などがある。 単に墨跡ともいい、墨蹟・墨迹とも書く。 墨跡という語は中国では真跡全般を意味するが、日本においては禅僧の真跡という極めて限った範囲にしか使 ...

  10. 陳牧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/陳牧

    地皇3年(22年)に、陳牧は同郷の廖湛と共に千人余りの兵を集め、「平林軍」と号し、王匡らの新市軍に呼応した。 この時、劉玄も平林軍に安集掾として加わっている。 さらに劉縯率いる舂陵軍とも連合して宛を目指して進軍したが、連合軍は小長安聚(南陽郡育陽県) ...

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