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  1. 北海道出身の人物一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 北海道出身の有名人一覧

    北海道出身の人物一覧(ほっかいどうしゅっしんのじんぶついちらん)は、Wikipedia日本語版に記事が存在する北海道出身の人物の一覧表である。 札幌市出身の人物一覧も参照。

  2. 仏像 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 仏像
    • 成り立ちと歴史
    • 荘厳具
    • 素材と技法
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    元々、釈迦が出世した当時のインド社会では、バラモン教が主流で、バラモン教では祭祀を中心とし神像を造らなかったとされる。当時のインドでは仏教以外にも六師外道などの諸教もあったが、どれも尊像を造って祀るという習慣はなかった。したがって原始仏教もこの社会的背景の影響下にあった。 また、原始仏教は宗教的側面もあったが、四諦や十二因縁という自然の摂理を観ずる哲学的側面の方がより強かったという理由も挙げられる。さらに釈迦は「自灯明・法灯明」(自らを依り所とし、法を依り所とせよ)という基本的理念から、釈迦本人は、自身が根本的な信仰対象であるとは考えていなかった。したがって初期仏教においては仏像というものは存在しなかった。 しかし、釈迦が入滅し時代を経ると、仏の教えを伝えるために図画化していくことになる。 仏陀となった偉大な釈迦の姿は、もはや人の手で表現できないと思われていた。そのため人々は釈迦の象徴としてストゥーパ(卒塔婆、釈迦の遺骨を祀ったもの)、法輪(仏の教えが広まる様子を輪で表現したもの))や、仏足石(釈迦の足跡を刻んだ石)、菩提樹、仏舎利など、形がある物を礼拝していた。インドの初期仏教美術には仏伝図(釈迦の生涯を表した浮き彫りなど)は多数あるが、釈迦の姿は表されず、足跡、菩提樹、台座などによってその存在が暗示されるのみであった。

    金銅仏

    1. 金銅仏 1.1. 蝋型 1.2. 土型 1.3. 木型

    塑造

    1. 塑造 - 粘土を盛り上げて造形する技法。 1.1. 塼仏- 粘土で造形したレリーフを焼成したもの。

    乾漆造

    1. 脱活乾漆造 - 粘土製の原型の上に麻布を漆で貼り重ねて造形し、後に内部の粘土を取り出す技法。 1.1. 興福寺八部衆像 2. 木心乾漆造

    単行本

    1. 『仏像がわかる本 基本の種類と見わけ方』岩崎和子(監修)・飯島満(イラスト)、淡交社、2001年。ISBN 4-473-01848-2。 2. 水野敬三郎監修 『日本仏像史 カラー版』(美術出版社、2001年)、ISBN 978-4-568-40061-8 3. 河原由雄監修 『仏像の見方見分け方 正しい仏像鑑賞入門』(主婦と生活社、2002年)、ISBN 978-4-391-12668-6 4. 真鍋俊照編 『日本仏像事典』(吉川弘文館、2004年)、ISBN 978-4-642-07938-9 5. 宮治昭 『仏像学入門 ほとけたちのルーツを探る』(春秋社、2004年)、ISBN 978-4-393-11903-7 6. 『仏像の本』(ブックス・エソテリカ:学習研究社、2007年)、ISBN 978-4-056-05009-7 7. 沢村忠保 『仏像の見方 正しく理解する仏像のカタチ』(誠文堂新光社、2009年)、ISBN 978-4-416-80976-1 8. 『東アジア仏教とは何か』高崎直道, 木村清孝、春秋社〈シリーズ・東アジア仏教〉、1995年。ISBN 97...

    新書

    1. 江里康慧 『仏像に聞く 鑑賞を深めるための基礎知識』(ベスト新書、2003年)、ISBN 978-4-584-12057-6 2. 松濤弘道 『仏像の見方がわかる小事典』(PHP新書、2003年)、ISBN 978-4-569-63161-5 3. 宮元健次 『仏像は語る 何のために作られたのか』(光文社新書、2005年)、ISBN 978-4-334-03324-8 4. 瓜生中 『仏像はここを見る 鑑賞なるほど基礎知識』(祥伝社新書、2005年)、ISBN 978-4-396-11024-6 5. 紺野敏文 『奈良の仏像』(アスキー新書、2009年)、ISBN 978-4-048-67747-9 6. 長岡龍作 『日本の仏像 飛鳥・白鳳・天平の祈りと美』(中公新書、2009年)、ISBN 978-4-121-01988-2

    文庫

    1. 瓜生中 『仏像がよくわかる本 種類、見分け方完全ガイド』(PHP文庫、1998年)、ISBN 978-4-569-57167-6 2. 瓜生中 『知っておきたい仏像の見方』(角川ソフィア文庫、2007年)、ISBN 978-4044064037

    石仏は何を語るか - ウェイバックマシン(2008年4月11日アーカイブ分)[リンク切れ]
  3. 甲斐銚子塚古墳 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 丸山塚古墳_(甲府市)
    • 立地と地理的・歴史的景観
    • 古墳の発見と調査
    • 発掘調査と検出遺構・出土遺物
    • 甲斐銚子塚古墳の歴史的背景
    • 第2次史跡整備と木製品の発見
    • 丸山塚古墳
    • 文化財
    • 参考文献
    • 関連項目

    所在する甲府市下曽根町は甲府盆地の南東縁に位置する。笛吹川の左岸、盆地南部に広がる曽根丘陵北端に立地する。一帯は大型古墳が集中的に分布する地域で、甲斐銚子塚古墳は盛土と推定される標高340メートルの東山台地に展開する。甲斐銚子塚古墳は標高260メートル付近に位置する。下曽根・上向山地区にかけて大丸山古墳、丸子塚古墳、かんかん塚古墳とともに東山古墳群を構成する。南西の米倉山にも古墳群がある。

    江戸時代後期の文化11年(1814年)に編纂された甲斐国地誌『甲斐国志』では甲斐銚子塚古墳に関する記述があり、この時代から「銚子塚」と呼称されていたことが確認される。 近代には伊勢講の信仰対象として山頂に石祠・石灯籠などがり、「伊勢塚」と称された。なお、現在では伊勢講に関する施設は史跡整備により別の地点に移設されている。 1925年(大正14年)に刊行された『史跡名勝天然記念物調査報告書』においては石室を有した大型の前方後円墳で、環濠(周溝)、埴輪を伴う古墳であることが著述されている。 1928年(昭和3年)3月17日、伊勢講の帳屋(あくしゃ)建設の際に竪穴式石室と大量の朱・副葬品が発見された。この時の調査は文部省嘱託の上田三平により同年9月1日刊に『史学雑誌』に掲載された論文「銚子塚を通して観たる上代文化の一考察」において報告された。上田は同論文において甲斐銚子塚古墳の規模や石室の形態、副葬品を関東・畿内の古墳と比較し、甲斐銚子塚古墳が畿内との結び付きの強い古墳であることを指摘した。 戦後には1966年(昭和41年)には明治大学考古学研究室・大塚初重の主導による測量が行われ、主軸長は169メートル、前方部幅は69メートルで高さ8.5メートル。後円部径は92メートルで高さ15メートルと推定された。1928年の出土品の大半は東京国立博物館に収蔵された。 1985年(昭和60年)には山梨県教育委員会による発掘調査が行われた。1975年(昭和50年)には『中道町史』において調査結果がまとめられた。1983年(昭和58年)から整備保存工事が施され、周辺は曽根丘陵公園として整備され、1982年(昭和57年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ山梨県内から出土した考古資料を保管・展示する山梨県立考古博物館が開館した。1986年(昭和61年)には甲斐銚子塚古墳をはじめ古墳時代前期を扱った第4回特別展「古代甲斐国と畿内王権」が開催されている。 1998年(平成10年)からは後円部周辺地域の公有地化が進められ、2004年(平成16年)には完了する。あわせて後円部の発掘調査も実施され、2001年(平成13年)には後円部西側で墳端が確認された。2004年には後円部北側で後述する「突出部」と祭祀に関わる木製品が出土した。 東日本の前期古墳において「突出部」の存在や木製品の出土は類例のないことか...

    石室

    1928年の調査で甲斐銚子塚古墳の石室は東西の主軸と後円部の交差する地点に位置し、竪穴式の割石小口積みで、あることが指摘されている。底は粘土床で、割竹形木棺の形跡が認められた。 石室は内法長6.5メートル、幅0.9メートル、高さ1.2メートル。石室内部中央に朱が厚く堆積したことが認められ、この付近から様々な副葬品が出土している。後円部で葺石を葺いた三段築成で、前方部では葺石のない二段築成である。周濠は一重で15〜20メートルである。

    出土遺物

    1985年の発掘調査において副葬品としては鏡5が出土した。甲斐銚子塚古墳の鏡は岡山県岡山市の備前車塚古墳や群馬県三本木古墳、福岡県藤崎遺跡の出土鏡と同笵(どうはん)関係にある三角縁神人車馬画像鏡1、内行花文鏡1、鼉龍鏡(だりゅうきょう)1、同じ鋳型で造られた仿製鏡(ほうせいかがみ)の三角縁獣文帯三神三獣鏡(三角縁神獣鏡)1、半円方格帯環状乳神獣鏡である。 内行花文鏡は舶載品で、「長宜子孫」「壽如金石」の吉祥句が配置される。鈕は破損しており、意図的な破壊であるとも考えられている。鼉龍鏡は画文帯神獣鏡・環状乳神獣鏡などを基に独自の構図・表現を加えた倭鏡で、甲斐銚子塚古墳から出土した鼉龍鏡は外区に鳥文・菱雲文を巡らせ、内区の構造は簡略化されている。なお、笛吹市の岡銚子塚古墳では甲斐銚子塚古墳出土品よりも鏡径の大きい鼉龍鏡が出土している。 ほか、水晶製勾玉4、碧玉製管玉、車輪石6、鉄刀4、鉄剣3、鉄鏃片、短冊形鉄斧、腕輪形石製品1、石釧(いしくしろ)・貝釧、杵形木製品などが出土した。 車輪石はオオツタノハの貝輪を模した石製品で、甲斐銚子塚古墳出土のものは碧玉製。円形で環体の幅が小さく、朱...

    甲府盆地における前方後円墳の出現

    曽根丘陵一帯では弥生時代後期後半から古墳時代前期前半にかけての方形周溝墓が多数造営された上の平遺跡があり、この時期から甲府盆地において安定した生産力が確保できる地域であったと考えられている。 このため古墳時代前期に富士山西麓(のちの中道往還)を経て東海地方から古墳文化が流入し、甲府盆地では東海系土器の特徴を有する土器やS字甕が出土しており、これは甲斐銚子塚古墳においても共通する。こうした基盤の上に、米倉山東麓には山梨県内最古の古墳で、唯一の前方後方墳でもある小平沢古墳が築かれる。なお、甲府盆地では古墳時代前期に遡る前方後方墳が小平沢古墳を唯一とし、弥生時代以来の方形周溝墓が古墳時代中期に至っても築造され続ける特徴があり、伝統的な墓制に執着した背景が指摘される。 小平沢古墳に次いで甲斐銚子塚古墳に先行する大丸山古墳が築造され、伝統的な方墳の分布する東山地域において初めて前方後円墳が出現する。前方後円墳は3世紀後半に西国において出現する形態で、ヤマト王権との関わりを示す古墳とされる。 なお、東山古墳群から南西に位置する金沢古墳群には天神山古墳が所在する。天神山古墳は全長132メートル...

    甲斐銚子塚古墳とヤマト王権

    早くに4世紀前半には畿内において確立したヤマト王権の影響が東国に及び、甲斐の銚子塚古墳のほか静岡県磐田市の寺谷銚子塚古墳や松林山古墳、長野県千曲市の森将軍塚古墳など東海・中部地方においても前方後円墳が出現し、これらの地域には甲斐国造や遠淡海国造、科野国造が設置されたと史料に見えることからも、これら地域の首長の入植・序列化が行われていたと考えられている。 甲斐銚子塚古墳は後円部の三段築成や石室構造・埋葬頭位、朱の使用、葺石、埴輪などの副葬品から、中国の神仙思想に起源を持つ畿内の埋葬形態や古墳儀礼との共有性が指摘される。 副葬品としてヤマト王権への服属の代償に分与されたとする説がある三角縁神獣鏡がみられることから、この時期に中道地域はヤマト王権に組み込まれ、新興勢力あるいは王権に服属した弥生時代以来の在地勢力による築造であると推定されている。また、三角縁神獣鏡の分布地域と年代はヤマトタケルノミコトの東国遠征と同じルートであると見られ、銚子塚古墳もそうした中で築造されたと見られる。銚子塚以後の中道地域では、円墳の丸山塚古墳や天神山古墳を経て古墳の規模は縮小しているが、被葬者としては大丸...

    甲斐銚子塚古墳以降の甲府盆地

    甲斐銚子塚古墳の築造後、東山地域における墳丘規模は縮小し、5世紀以降には東国における政治的中心地は関東地方になったと考えられている。甲府盆地では小規模な古墳の築造が東山地域以外へ波及し、市川三郷町に所在する鳥居原狐塚古墳(円墳)や笛吹市八代町に所在する竜塚古墳(方墳)など、伝統的な墳形の古墳築造が再開される。

    その後は後円部周辺の公有地化が進み、2001年(平成13年)には史跡整備に伴う第2次調査が行われ、後円部西端の墳端が確認される。公有地化の完了した2004年(平成16年)には、後円部北側において周溝から半円形に張り出した「突出部」や埋設された木柱跡が確認され、古墳におけるマツリの場であると考えられている。さらに、後円部西端の墳端の周溝からは組合せ式の木製品が出土した。 円盤形木製品は直径50センチメートル、厚さ4センチメートルで、中央が厚いレンズ状になっている。周縁部に3つの孔があり、蕨手形木製品を刺し込み目釘で固定していたと見られている。中央の孔にはホゾ加工され、直径4メートルの棒状木製品を刺し込む構造になっている。木製品の多くは火を受けており、へら状木製品に火鑽(ひきり)板があることから、これらの木製品は古墳における葬送儀礼の道具と考えられている。風雨の影響で朽ち果てている笠形木製品に比べ、円盤・蕨手・棒状の各木製品は保存状態が良く、木製品は一定期間(数年)の間は葬送儀礼に用いられ、周溝へ投げ込まれて廃棄されたと考えられている。 その後、木製品の分析が行われた。立柱は直径20メートル前後で上半分が折れており、芯部を含まないスギ材で年輪から3世紀前半の伐採と考えられており、4世紀前半の築造年代とは時間差が存在することが判明した。 1. 後円部墳頂の石室位置 2. 後円部突出部(復元) 3. 立柱(復元)

    甲斐銚子塚古墳の前方部から80メートルほど東側にある円墳(位置)。直径約72m、高さ11mを測り、墳丘は2段築成で埴輪を備え周堀を巡らせている。 甲斐銚子塚古墳より早く、1904年に発掘された。墳頂部に長さ5.5mの割石小口積みの竪穴式石室があって、石室内から画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄斧・鉄鏃・鎌などが出土した。さらに石室とは別に粘土床があり、石釧が出土したという。 1. 墳頂の石室位置

    国の史跡

    1. 銚子塚古墳 附 丸山塚古墳 - 昭和5年2月28日指定。

    山梨県指定文化財

    1. 有形文化財 1.1. 銚子塚古墳出土埴輪 3点(考古資料) - 平成8年5月2日指定。 1.2. 銚子塚古墳出土木製祭祀具 70点(考古資料) - 平成26年9月4日指定。

    大隅清陽「ヤマトタケル酒折宮伝承の再検討ー遠距離交通体系の視覚からー」『山梨県立博物館 調査・研究報告2 古代の交易と道 研究報告書』山梨県立博物館、2008年
    原秀三郎「王権と東方への道」『新版古代の日本⑦中部』
    宮澤公雄「甲斐の古墳」『山梨県史通史編1原始・古代』
    『古代甲斐国と畿内王権』(1986,山梨県立考古博物館)
  4. 偏 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 偏

    偏(へん)とは、漢字の構成要素の一つである偏旁のうち主に左側に置かれるものの総称。 部首として採用された偏は、全ての部首の中で最も種類が多く、偏を部首とする漢字は、全ての漢字の過半数を占める。常用漢字表においても、偏を部首とする漢字が占める割合は ...

  5. 人名用漢字一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 人名用漢字一覧

    この項目には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字が含まれています(詳細)。 人名用漢字一覧(じんめいようかんじいちらん) 本項では子の名に使える漢字(常用漢字 [1] および人名用漢字 [2] )について扱う。 子の名に使える漢字は2999字 [3]。

  6. 苫小牧市 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 苫小牧市

    苫小牧市は 第二次産業 の割合が高く、工業のまちになっている 。. 1910年(明治43年)に 王子製紙苫小牧工場 が操業開始して以来、 製紙業 などの素材型産業を主力に発展してきた 。. 1963年(昭和38年)の 苫小牧港 (西港)開港後、 非鉄金属 、 自動車 ...

  7. 紅楼夢 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 紅樓夢
    • 概要
    • 作者と成書背景
    • 『紅楼夢の現状』
    • 評価
    • 日本語訳書
    • 版本
    • 紅楼夢を基にした作品
    • 外部リンク

    上流階級の賈氏一族の貴公子である賈宝玉(か・ほうぎょく)を主人公とし、繊細でプライドの高い美少女の林黛玉(りん・たいぎょく)、良妻賢母型の薛宝釵(せつ・ほうさ)の三角関係を軸に展開する(と言っても、いわゆる昼ドラのようなドロドロした三角関係が小説の中心ではない)。小説は上流階級の生活の細部を描き、主人公たちの交情を克明に記しながら進行する。清代末期から紅楼夢を専門に研究する学問を紅学といい、この言葉は現代でも使用される。毛沢東も愛読し、1950年代の中国で紅楼夢論争も戦わされた。現代中国でも非常に有名な小説であり、映画や演劇、テレビドラマ化されることが多い。 この小説の特徴はストーリー中心のロマンではなく、大貴族の深窓の令息令嬢の心理のひだが繊細に描きこまれていることにある。士大夫の経世済民という表向きの世界ではなく、弱くて感じやすい「児女の情」をテーマとするといえる。『三国志演義』の「武」、『水滸伝』の「侠」に対して『紅楼夢』は「情」の文学であるとされる。その一方で、主人公たちは儒教道徳や官僚の腐敗、不正に対する痛烈な批判を口にしており、乾隆盛世と呼ばれた当時の社会に対する批判的色彩も帯びている。また、当時の上流階級の日常生活が登場人物400人を超える規模で細部まで克明に描かれており、文化史的にも価値があるとされる。男女の人情を描いた中国の長篇小説としては『金瓶梅』に次いで古いものであるが、恋愛模様がプラトニックに徹しており情感も洗練を極めている点において好対照の位置にある。また、主人公である賈宝玉と林黛玉以外にも様々なヒロインが登場し、男女の関係だけでなく、召使や侍女同士での地位や金銭による厳しい派閥争い、主従関係、主人と侍女といったような多くの関係性も描いている作品である。また、道教・仏教の思想も含まれている。

    以下の文章の参考文献はである。 『紅楼夢』の作者曹雪芹は、生活の巨大な変化を経験して、最後に鬱々として死んでいった人であった。彼の名は霑(てん)、字は夢阮(むげん)、号は雪芹(せつきん)、またの号は芹圃(きんぽ)、芹渓(きんけい)といった。生年は未詳、死んだ年は乾隆二十七年壬午年の除夜(西暦一七六三年二月十三日)、一説によると乾隆二十八年癸未の除夜とされ、ほぼ四十余歳の生涯であった。 曹雪芹の先祖はもともと漢人であったが、非常に早く満州籍に入り、漢軍正白旗人に所属した。彼の曾祖父曹璽から、父の曹頫(曹寅の養子で、曹寅の弟の曹荃の実子)の代まで、全部でほぼ六、七十年の久しきにわたって江寧織造(宮廷のために各種の御用物品を購入できる官職)を世襲した。そのうえ、曹璽の妻がかつて康熙皇帝の乳母をしたことがあり、また曹雪芹の祖父曹寅が康熙皇帝の「侍読」になったことがあった。だから曹家はそのとき、財力・権勢が天をおおう勢いの「百年の望族」となった。 曹雪芹は少年時代は、一時期、極めて富貴繁華な貴族生活を経験したことがある。しかし、父が任期中に欠損を出し、さらに皇室内部に権位争奪に巻き込まれて免職、家産没収の処分を受けた。彼は最後に非常に貧乏な日々を過ごした。 『紅楼夢』は、曹雪芹が貧乏暮しをしていた時期に書いたものである。書いていた過程では、また周囲の数人の友人の賞賛と激励を得た。『紅楼夢』が完成に近づこうとしたとき(前八十回はすでに基本的に定稿となっており、その後の部分がさらにいくらか書かれていたのだが、その当時すでに「紛失」していた)、曹雪芹は貧乏のために病気になっても治療ができず、そのうえただ一人の愛児が夭折し、非常に悲しんで、ついにある大晦日の晩に「涙尽きて逝った」。

    以下の文献はである。文化大革命以後、芸術手法、芸術弁証法、芸術技巧、芸術結構といった言葉が頻用され、『紅楼夢』の芸術性が追求された。『紅楼夢』の価値となると、中国小説の中では本当に得難い。従来の小説が善玉はあくまで善、悪玉はあくまで悪としたものとは違い、登場人物が皆本物だということ。それゆえ反面人物について高い芸術性が評価された。曹雪芹は生活の弁証法を尊重し、王熙鳳のことを邪悪な性格を浮き彫りにするに伴い、読者に好かれるような彼女の一面も描く。これが反面文学典型の創造である。『紅楼夢』は事実上政治闘争を描いたものだという人もいる。賈雨村・甄士隠を用いたことで愛情と婚姻という仮語村言から政治闘争という真実に気付かせようとした。こうした絶妙な解釈は紅楼夢の持つ豊富な社会内容や完璧な統一体という芸術的成就である。この政治闘争を描いた背景には、曹雪芹は中国封建社会最後の専制王朝に生まれ、文字獄とうい厳しい思想統制のために真実を隠し、仮語村言を使ってごまかすという芸術手段をとらざるをえなかったからだ。曹雪芹の死後、脂硯斎は名を盗み世を欺き、80回だけ世の出して後の40回については曹雪芹在世中に迷失として人々をだました。これが現在私たちが知る『紅楼夢』の現状である。

    台湾出身の著作家張明澄によれば、胡適や蔡元培などの大御所たちは『紅楼夢』をいつもカバンに入れ、数百回も繰り返し読んでいたという。しかも第一回は非常に読みづらく、最後までまともに読める人がいない。二回目はやや面白くなるが二回目くらいではあまり熱中する人はいない。第三回を読み始めると中毒状態になり、仕事や学習をさぼってでも読むようになるという。中国人からアヘン、麻雀、『紅楼夢』を取りあげたら、たちまち大発展してアメリカを追い越すだろうとさえ言った。また、『源氏物語』が(日本統治時代も含め)台湾で全く流行しなかったのも『紅楼夢』が原因だという。張明澄自身何度も『紅楼夢』を読んでゆくと、どうしても『源氏物語』が退屈に思えてしまうと述べた。 中華民国時代になって胡適らの新紅学派は作者曹雪芹の人生をありのままに描いた自然主義文学であると提唱した。これに対してマルクス主義の文学者からは「ブルジョワ階級主観唯心主義」であるとする批判が起こり、新中国成立後の1950年代に紅楼夢論争が展開した。マルクス主義派は、紅楼夢を男尊女卑の封建主義に反抗する階級闘争文学であると主張したのである。毛沢東も紅楼夢を愛読していたが、公式の発言としては「紅楼夢は歴史政治小説として読むべきで、読み解く鍵は第四回の(賈家をはじめとする豪族高官の情報を記した官界情報の)護官符のくだりにある」と述べた[誰によって?]。この解釈の例として蒋和森の「紅楼夢入門」(日本語訳は1985年、日中出版)には、宝玉を論じた章は「封建貴族家庭の反逆児」と題され、「封建制度に不満を抱きながらも人民から大きく遊離した人物」と評されている(P63)。もっとも、こういう中国の政治の影響を受けた解釈には当時から批判もあった。 宮崎市定は「そんなことならなにも<紅楼夢>でなくともよいことだ。(中略)<紅楼夢>に描かれたのは、あくまでも繊細な、優美な感触である」と述べている。合山究は「紅楼夢=仙女崇拝小説」という説を提唱しており、また宝玉が性同一性障害であったという説も唱えている。訳者である伊藤漱平は、大著『「紅楼夢」論』を長年かけまとめた。また近年、フランス語、英語、ドイツ語訳も相継いで出版されている。 中国本土では何度か映画やテレビドラマにされている。その中で特に評価が高いのが1987年に放映された連続テレビドラマ『紅楼夢』(王扶...

    日本語訳も、多数の抄訳版が出版、以下は完訳版。 1. 幸田露伴・平岡龍城共訳 「国訳紅楼夢」上・中・下、国民文庫刊行会「国訳漢文大成」第14・15・16巻、1920-1922年。初の80回全訳本。 2. 松枝茂夫訳 「紅楼夢」 岩波文庫 全12巻、1972-1985年。改訳版で数十年かけ完結した、度々再刊した 2.1. 松枝訳版で、中国連環画版「紅楼夢」(中央公論社(全5冊)、1984年/新版 全2冊、1993年)もある 3. 伊藤漱平訳 「紅楼夢」 平凡社ライブラリー 全12巻、1996-97年。旧版は平凡社「中国古典文学大系第44・45・46巻」 4. 飯塚朗訳 「紅楼夢 世界文学全集 第11・12・13巻」 集英社、1980年 - 元本が異なっている 5. 井波陵一訳 「新訳 紅楼夢」 岩波書店 全7巻、2013-14年。読売文学賞研究・翻訳賞(第66回)を受賞

    紅楼夢の写本は、当初約110回存在したと推定されるが、稿本が流出後80回以降が何らかの原因で散佚し、そのまま補足されない状態で作者と思われる曹雪芹が死去。その約三十年後、出版者程偉元の請求のもとで、高鶚が40回を付け加え、活字印刷版の120回本が世の中に出回ることになる。この高鶚の40回にも、もともと存在した前80回の手書きによる稿本にも、程偉元自身によるかなりの添削が入っていると一般に思われる。 現存最古の手抄本「甲戌本」が発掘された1927年まで、紅楼夢は一般に活字印刷版の「程本」で流通しており(詳しくは「程甲本(1791)」と「程乙本(1792)」などと区別される)、物語の内容も「程本」で広く認識されていた。一方、手抄本のほとんどがすべて「脂硯斎重評石頭記」と題しており、それぞれ朱筆あるいは墨で本文の上や行間や脇に「脂硯斎」をはじめとする評論家による評論文字を書き足している。これら手抄本は一般に「脂評本」と称されている。 「脂評本」写本の系列の中で最も内容が古く、原稿に近いとされる「甲戌本(1754)」、「己卯本(1759)」、「庚辰本(1760)」などを詳しく調べると、印刷版の「程本」の原文字に対する添竄が明らかになる。このような添竄は、後継者高鶚と程偉元が書いた後40回の内容が、散逸した原作の精神と乖離すると判断するに十分なものとされている。 なお、現存の全ての「脂評本」系列の手抄本は80回以降の内容について本文を残していないばかりでなく、散佚各回の題名「回目」も残されていない。そこで80回以降の原稿内容は、いわゆる「紅学」の中心問題の一つに数えられるようになった。80回以降の原稿の本文や回目は見つからないが、前80回の本文中の詩文や特定事件の表現手法、それに加え特に評論家脂硯斎や奇笏叟などによる評論文字などから、80回以降の少なくとも一部の内容は暗示または明記されているとみるのが定論である。

    映画『紅楼夢 貴族社会の幻想〜悲恋物語〜』(2002年 中国)
    テレビドラマ『紅楼夢』(1984年、中国)
    テレビドラマ『紅楼夢 〜愛の宴〜』(2010年、中国)
  8. JIS X 0213漢字一覧の1面 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › JIS_X_0213漢字一覧の1面

    JIS X 0213漢字一覧(ジス エックス 0213かんじいちらん)は、JIS X 0213:2004で規定された漢字の一覧(1面14区-2面94区)である。 該当文字および規格で示された面 区 点、Shift_JIS-2004、Unicodeのコード位置および規格に記載された日本語通用名称を示す。 ここ ...

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