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  1. 週刊文春 - Wikipedia

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    週刊文春 刊行頻度 週刊 発売国 日本 言語 日本語 出版社 文藝春秋 編集長 加藤晃彦 刊行期間 1959年4月 - 発行部数 520,000部(2021年1月 - 2021年3月日本雑誌協会調べ) ウェブサイト bunshun.jp テンプレートを表示 『週刊文春』(しゅうかん ぶんしゅん [注釈 ...

  2. 緒形拳 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 緒形拳
    • 来歴
    • 人物・逸話
    • 出演
    • 著書・評伝
    • 栄典

    1937年7月20日、東京府東京市牛込区(現在の東京都新宿区)で生まれる。太平洋戦争中、空襲で牛込の家が焼かれたため、小学校2年生の時に千葉県千葉市登戸町(現・中央区登戸)に一家で疎開したという。中学まで千葉で過ごし、その後東京へ戻った。 1957年、東京都立竹早高等学校卒業後、憧れていた新国劇の二大看板俳優の一人、辰巳柳太郎の弟子になるべく、1958年新国劇に入団。辰巳の付き人となる。1960年、新国劇のもう一人の看板俳優、島田正吾に見出され、『遠い一つの道』で主人公のボクサー役に抜擢された。作品は映画化され映画デビューも果たす。 1965年、NHKの名ディレクター吉田直哉により大河ドラマ『太閤記』の主役に抜擢され、新国劇の活動も兼務して1年活動した。引き続き1966年の大河ドラマ『源義経』に弁慶役で出演し、2年続けて大河に出演する稀有な活動をし、その後も数々の大河ドラマに出演し、常連俳優の1人として活躍した。同年、新国劇所属の女優・高倉典江と結婚。1968年、新国劇を退団。映画・テレビドラマに活躍の場を移した。テレビドラマ『必殺仕掛人』シリーズの藤枝梅安を演じて多くのファンを得て映画化もされ、『必殺必中仕事屋稼業』にも出演した。 1978年、『鬼畜』に主演し、数々の男優賞を受賞する。その後も1979年に『復讐するは我にあり』、1983年に『楢山節考』に主演した。合間に出演した1981年の映画『魔界転生』では宮本武蔵に扮して、柳生十兵衛(千葉真一)と激闘を演じ、新国劇で培った殺陣を披露している。1999年、池端俊策監督の『あつもの』で「フランス・ベノデ映画祭グランプリ」を受ける。 2000年、紫綬褒章受章。同年に山﨑努も受章している。 2008年10月4日、自宅で体調が急変、栃木県下都賀郡壬生町の獨協医科大学病院に運ばれ肝臓破裂の緊急手術を受けるも、翌10月5日の午後11時53分、肝癌により死去した。緒形の最期は家族と長年の友人であった津川雅彦が看取った。緒形は津川に「お前、身体大事にしろよ!良い映画沢山創ってくれよな!治ったら、鰻食いに行こうな!白焼きをな!」と冗談を交えつつ医者に危篤を宣言されている患者とは思えないような明るい口調で語ったという。しかしそれが緒形が残した最期の言葉となり、4時間後に帰らぬ人となった。津川はブログで「最期は歌舞伎役者のように...

    役者になるきっかけ

    1937年に男ばかりの5人兄弟の四男として生まれる。終戦後緒形の父は定職につかずブラブラしていたため、母が一家を支えていたが兄弟が多いこともあり緒形家の生活は貧しかった。その後三男が俳優を志して俳優座養成所の研究生として演技を学んでいたが、緒形が15歳の頃にプールで心臓麻痺を起こして急逝。緒形はこの三男の死をきっかけに役者の道を意識するようになったとのこと[注釈 1]。 高校時代に新国劇の舞台に惚れ込むと仲間内で戯曲『王将』(新国劇の当時の人気演目の一つ)を行い、緒形は大阪の名棋士・坂田三吉を演じた。新国劇で同役を演じた辰巳柳太郎への弟子入りを目指した所、三男と『王将』を書いた劇作家・北条秀司の娘がたまたま同級生だったことが分かり、そのつてで新国劇に入団することができたという。

    芸名

    芸名の「緒形拳」は恩師である劇作家の北条秀司の夫人によってつけられたもので、元々は「おがた こぶし」という読みであった。 当初は本名の緒形明伸で活動していたが怪我が多いのを心配した北条夫人から改名を提案され、芸名の候補として「緒形 寅蔵(おがた とらぞう)」が挙がったが即答はできず、「あなたの気にするところは?」と聞かれて、咄嗟に「手が大きい」と答えると「緒形 掌(おがた てのひら)」と言われるも変な名前だと首肯せず続いて、「緒形 握り拳(おがた にぎりこぶし)」は名前が長いとしてこれまたしっくりこなかったが、最終的に「緒形 拳(おがた こぶし)」と決定するも周囲の誰からも「こぶし」と読まれず、「ケンさん」と呼ばれ続けたために意に反してそちらが定着してしまった。本人の中では読み方は「こぶし」であるとしていた。 改名後は何の因果か映画『遠い一つの道』のボクサーの役が回ってくるという効果があった。

    二人の師匠

    新国劇入団後、二大看板役者だった辰巳柳太郎と島田正吾に目をかけられた緒形は、演技指導を受けて劇団のホープとして頭角を現すようになった。しかし先述の大河ドラマでの好演によりテレビ業界からオファーが舞い込むようになり、舞台とテレビがそれぞれ拘束時間が長いことから両立が難しくなった。どちらかを選ぶことになった結果、辰巳と島田の両師匠を裏切る形で新国劇を退団することとなる。 ただしその後も緒形は「自分は舞台役者」と語っており、新国劇を離れた後も島田と辰巳という二人の師匠に対する思いは終生変わらなかった。後年、二人の師匠と和解した緒形は、新国劇が70年の幕を下ろす1987年の最終公演で、辰巳の当たり役で知られた戯曲『王将』の坂田三吉を演じ、「辰巳先生に見てもらいたい」という思いで取り組んだ。 また、島田が新国劇の開祖である澤田正二郎から受け継ぎ、取り組んでいたひとり芝居『白野 シラノ』を島田の三回忌追善興行として緒形自らが受け継ぎ、2006年にシアターコクーンで演じ、結果としてこれが舞台としての最後の作品となった。

    テレビドラマ

    1. 新国劇アワー(1961年、フジテレビ) 2. フライング・スポット(1962年、NHK) 3. 帰らぬひと(1963年、朝日放送) 4. 王将(1963年、フジテレビ) 5. おかあさん 船着き場(1963年、TBS) 6. 由井正雪(1963年、NHK、講談ドラマ) 7. 最後の将軍 風雪(1964年、NHK) 8. わが町 日本映画名作ドラマ(1964年、NET) 9. コスモスは咲いた(1964年、フジテレビ) 10. 大河ドラマ(NHK) 10.1. 太閤記(1965年) - 主演・豊臣秀吉 10.2. 源義経(1966年) - 武蔵坊弁慶 10.3. 新・平家物語(1972年) - 阿部麻鳥 10.4. 風と雲と虹と(1976年) - 藤原純友 10.5. 黄金の日日(1978年) - 豊臣秀吉 10.6. 峠の群像(1982年) - 主演・大石内蔵助 10.7. 太平記(1991年) - 足利貞氏 10.8. 毛利元就(1997年) - 尼子経久 10.9. 風林火山(2007年) - 宇佐美定満 11. 暢気眼鏡 競作女優シリーズ(1967年、TBS) 12....

    映画

    1. 遠い一つの道 (1960年、東京映画 / 東宝) 2. 間諜 (1964年、東映) 3. セックス・チェック 第二の性 (1968年、大映) - 主演 4. 積木の箱(1968年、大映) 5. 風林火山(1969年、東宝) 6. 永訣(わかれ)(1969年、松竹) 7. 七つの顔の女 (1969年、松竹) 8. わが恋わが歌 (1969年、松竹) - 山口瞳 役 9. 婉という女(1971年、ほるぷ映画) 10. 必殺仕掛人 梅安蟻地獄(1973年、松竹) - 主演 11. 必殺仕掛人 春雪仕掛針(1974年、松竹) - 主演 12. 狼よ落日を斬れ風雲・激情篇怒濤篇 (1974年、松竹) 13. 砂の器(1974年、松竹) 14. 太陽は泣かない (1976年) 15. 八甲田山 (1977年、東宝) 16. 鬼畜 (1978年、松竹) - 主演 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞ほか 17. 復讐するは我にあり(1979年、今村プロ / 松竹) - 主演 18. 影の軍団 服部半蔵(1980年、東映) 19. 復活の日(1980年、東宝) 20. わるいやつら(1980年...

    舞台

    1. 遠い一つの道(1960年) ※デビュー作 2. 横堀川(1966年) 3. 花の吉原百人斬り(1966年) 4. 元禄忠臣蔵(1966年) 5. 明治百年(1967年) 6. 華やかな夜景(1970年) 7. 春の坂道(1972年) 8. 業平 金庫破り(1972年) 9. 浪花かんざし 恋の勝負師(1972年) 10. ケイトンズヴィル事件の9人(1972年) 11. 朱鷲の墓(1973年) 12. 北斎漫画(1973年) 13. おんにょろ盛衰記(1974年、結城座) 14. 王将(1975年) 15. 淫乱斎英泉(1975年) 16. 狐狸狐狸ばなし(1975年) 17. 必殺仕掛人(1975年) 18. 浮世絵 女ねずみ小僧(1975年) 19. 悲しき恋泥棒(1976年) 20. 西郷札(1976年) 21. 日本人萬歳(1977年) 22. 座頭市物語(1978年) 23. 鶴八鶴次郎(1978年) 24. 因果小僧六之助(1978年) 25. 祭りの笛(1979年) 26. 極付 国定忠治(1979年) 27. 空白の影(1979年) 28. 関の弥太っぺ(1...

    『地球を歩く』 全国朝日放送、1989年4月(ISBN 4881311239) - 「ネイチァリングスペシャル・アンデス編」をまとめたもの。共著。
    『恋慕渇仰』 東京書籍、1993年10月(ISBN 4487790654) - エッセイと書をまとめた1冊。
    『臍下丹田―緒形拳作品集』東京書籍、1998年6月(ISBN 4487793300) - 直筆サイン、落款、番号入りの1000部限定版。
    『緒形拳 書』(図録)可必館 京都現代美術館、2004年7月- 筆の里工房書展作品、制作アルバム(写真)。
    • 緒形 明伸(おがた あきのぶ)
    • 2008年10月5日(71歳没)
  3. 永遠プレッシャー - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 永遠プレッシャー
    • 背景とリリース
    • チャート成績
    • メディアでの使用
    • 収録アルバム
    • Snh48によるカバー
    • 外部リンク

    2012年9月18日に日本武道館で開催された『AKB48 29thシングル選抜じゃんけん大会』でベスト16に入ったメンバーが楽曲に選抜メンバーとして参加した。同大会で優勝した島崎遥香がシングル表題曲では初のセンターを務める。さらにインディーズ時代から全シングル表題曲での選抜入りしていた小嶋陽菜がじゃんけん大会で3回戦敗退となり初めて選抜から外れたため、全シングル表題曲での選抜入り継続者が消滅した。 前作からの選抜入りは、板野友美、柏木由紀、篠田麻里子、島崎遥香、横山由依の5人。中田ちさと、中村麻里子、上野圭澄(SKE48)の3人が初選抜。選抜復帰のメンバーは8人で、梅田彩佳が『ギンガムチェック』以来2作ぶり、阿部マリア、竹内美宥、木本花音(SKE48)の3人が『真夏のSounds good !』以来3作ぶり、前田亜美が『上からマリコ』以来5作ぶり、内田眞由美が『チャンスの順番』以来10作ぶり、仁藤萌乃が『涙サプライズ!』以来17作ぶり、松原夏海が『桜の花びらたち2008』以来21作ぶりの選抜入りとなった。 本曲は、同年11月13日放送分『火曜曲!』スペシャルにおいてテレビ番組で初披露された。 シングル盤は、Type-A、Type-B、Type-C、Type-Dおよび劇場盤の5タイプによって発売され、通常盤のType-A・B・CにおいてはAKB48のシングルでは初めてSKE48・NMB48・HKT48のオリジナル楽曲が収録されている。さらに、Type-Dでは秋元康以外が作詞した楽曲が初収録された。また、Type-A・B・Cを組み合わせることで、選抜メンバー16人が暮らす女子寮が完成するクラフトパッケージ仕様となっている。特典として、Type-A、B、Cの初回プレス分には生写真2種、Type-Dの初回プレス分には生写真1種、劇場盤には生写真および「劇場盤発売記念大握手会」参加券が封入されている。CDジャケットのアートディレクションは吉田ユニが担当している。 キャッチコピーは、「プレッシャーの分だけ、本気なんだ」。 ミュージック・ビデオ (MV) は高橋栄樹が監督を務めている。ロケ地は菅平高原プチホテル ゾンタック(5号館・フォーレス館・合掌館)、唐沢の滝である。 Type-A・B・CのDVDには、MVが存在しない楽曲のMVを制作するという趣旨のファン投票企画『Mu...

    2012年12月11日付のオリコンデイリーチャートで84万枚を記録し、初登場1位を獲得。さらに、2012年12月17日付オリコン週間シングルチャートにおいて初登場1位を記録した。AKB48のシングルの1位獲得は『RIVER』から16作連続・通算16作目である。初動売上は約107万3000枚となり、初動のみでミリオンセラーを達成した。AKB48のシングルがミリオンセラーを達成するのは『Beginner』から通算11作目となり、『桜の木になろう』から10作連続となった。10作連続での達成はB'z(『Real Thing Shakes』で達成)以来16年半ぶり史上2組目であり、女性アーティストでは初である。通算ミリオン達成数ではMr.Childrenが記録していた10作を上回り、B'z(15作)に次ぐ単独2位となった。1週だけで年間チャート5位に入り、史上初の2年連続5曲ミリオン達成と1位から5位までを独占した。

    楽曲は以下のメディアで使用された。 1. UHA味覚糖『ぷっちょ×AKB48』CMソング 2. 2012年東京都知事選挙CMソング 3. バンダイナムコゲームス『AKB1/149 恋愛総選挙』CMソング 4. ひかりTV『びみょ〜な扉 AKB48のガチチャレ』CMソング

    AKB48の姉妹グループであるSNH48は、本楽曲の収録曲「とっておきクリスマス」を「新年的鐘聲」のタイトルでカバーしている。このカバー曲は、グループの10作目のEPとして発売された。2015年12月28日発売された。 歌詞はサビの決め台詞以外は秋元の詞を中国語に翻訳したものとなっている。

    キングレコード
    【MV full】永遠プレッシャー / AKB48[公式] - YouTube
    【MV】永遠プレッシャー ダイジェスト映像 / AKB48[公式] - YouTube
  4. 林家彦六 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 林家彦六
    • 経歴
    • 来歴・人物
    • 「正蔵」襲名と「彦六」への改名
    • 人間関係
    • 芝居噺 林家正蔵の会
    • 一門弟子
    • 演じた俳優
    • 林家彦六賞・岡本マキ賞
    • 書籍

    1907年に尋常小学校卒業後、1908年より質屋、ホーロー工場、木地屋などを丁稚奉公で転々とする。 1912年、二代目三遊亭三福に入門し「福よし」を名乗る。1914年5月 師匠三福が「扇遊亭金三」に改名し「扇遊亭金八」に改名。1915年頃から大師匠四代目三遊亭圓生の弟弟子二代目三遊亭圓楽に稽古を付けて貰うようになる。1917年1月、師匠金三と共に四代目橘家圓蔵の内輪弟子となる。 1918年2月に二ツ目昇進し「橘家二三蔵」に改名。1919年4月、圓楽が「三遊一朝」に改名し、圓楽の名を譲られ二ツ目のまま「三代目三遊亭圓楽」襲名。この頃は初代桂小南らの三遊分派に所属。 1920年6月、真打昇進、同時に結婚。1922年2月 師匠圓蔵死去に伴い、三代目柳家小さんの預かり弟子となる。その後3か月ほど二代目桂三木助の元で修行し『啞の釣』『莨の火』などを教わる。1925年9月には兄弟子初代柳家小はん、柳家小山三らと共に「落語革新派」を旗揚げするが翌年1月に落語革新派は解散、1927年に東京落語協会(現落語協会)に復帰。兄弟子四代目蝶花楼馬楽の内輪弟子になる。1928年4月 前師匠三代目柳家小さん引退に伴い、師匠馬楽が四代目柳家小さんを襲名し馬楽の名を譲られ「五代目蝶花楼馬楽」襲名。1929年10月以降の世界恐慌による不景気の影響で、寄席も客が大幅に減る。馬楽は芝居の脚本の朗読会「とんがり会」を開いていた。また、この頃、徳川夢声主催の「談譚集団」という漫談研究会に入り、木下華声らと漫談の修行をしていたこともあった。 1950年4月22日、一代限りの条件で海老名家から正蔵の名跡を借り「八代目林家正蔵」を襲名する。1963年12月、第18回文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。1965年、落語協会副会長就任。12月に第20回 文部省芸術祭(大衆芸能部門)奨励賞受賞。1968年11月3日、紫綬褒章受章。1968年12月に第23回文化庁芸術祭(1部・大衆芸能部門)芸術祭賞受賞。1970年2月からの隔月(偶数月) 「芝居噺 林家正蔵の会」を、東京・岩波ホールにて開催(この模様の一部は、16mmフィルムで記録映画として撮影された)。1971年1月 日本テレビ演芸番組「笑点」師弟大喜利、鶴亀大喜利、演芸コーナーに出演。以降1981年まで不定期に出演。1972年4月 九代目桂文治、六代目三遊...

    母方の祖父は、鎌倉河岸の船宿「岡本屋正兵衛」に生まれた息子だったが、岡本屋を飛び出して鳶職・火消しになってしまう。祖母は武士の家出身で、その二人の間に生まれた娘が、岡本義(後の8代目正蔵)の母親である。 稲荷町時代の逸話、名跡の返還など古き良き噺家として名を残した事でも知られる。「かくしゃくとした老人の噺家の代名詞」としてビートたけしなどに引き合いに出され、秋本治の漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」では「彦六みたいな奴だ」との台詞が登場する。 独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。語尾を曖昧にせず常に明瞭に発声する独特の節回し的な語り口は、若いころに三遊一朝に徹底的に芝居噺を仕込まれたためだと本人は語っている。 弟子である林家正雀は彦六の物真似が得意で、寄席の高座で披露することがある。また、正雀の兄弟子である林家木久扇も二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「彦六伝」を十八番としている。 通称「トンガリ」。曲ったことが嫌いで、すぐにカッとなるところから来ている。弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。破門宣告の回数は殆どの弟子が2桁を数えていて、木久扇は37回、好楽は23回破門宣告をされている。 若い頃は、学があり理屈っぽいことから噺家仲間から「インテリ」「新人」(学生運動団体の新人会から)と呼ばれ、「菜ッ葉服(労働服)をきて共産党とつきあっている」と陰口を叩かれた。実際に日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ」とのことであった。自身が贔屓にしている共産党金子満広などに、参院議員時代の立川談志が侮辱的な野次を飛ばして辞職後も場外で続けていたことを快く思っておらず、会えばしょっちゅう喧嘩になっていたという、いかにも通称「トンガリ」らしいエピソードがある。その一方で談志については、選挙活動を手伝ったり、「自殺するのではないか」という危惧を親しい知人にしばしば漏らしていた。なお、談志本人も自殺願望があったことを後に認めている。詳細は立川談志の項を参照。 30年以上に亘って朝日...

    いずれは名跡を三平に返上するつもりでいたが、三平の好意により終生正蔵を名乗る事とし、自らの死後三平に返上する事にした。しかし1980年三平急逝に伴い、正蔵の名跡を海老名家に返上、「彦六」に改名する。「彦六」の由来は木村荘十二の監督した映画、『彦六大いに笑ふ』(1936年)で徳川夢声が演じた役名「彦六」から。

    住んでいた四軒長屋の隣は二軒長屋で、前師匠3代目小さんの弟子で友人の9代目桂文治が住んでおり、公私共に仲が良かった。 元兄弟子の6代目三遊亭圓生とは「天敵」と呼ばれる間柄であり、最後まで徹底してそりが合わなかった。対立関係の表面化は、(馬楽時代の)彦六が6代目三遊亭圓生襲名に際して、「あの人に6代目が務まるわけがない」と酷評したことにまで遡る。ただし、笑点師弟大喜利では隣り合せで座っていた時もあった。なお、圓生の師匠は彦六が一時期師匠金三(圓蔵門下時の名は月の家圓鏡)と共に内輪弟子として所属していた4代目圓蔵である。だが、一方で圓生の総領弟子三遊亭全生は気に入り、自身の前名の一つである三遊亭圓楽を襲名させた。このことは、六代目圓楽襲名披露口上時に、弟子の林家木久扇によって触れられている。また、弟弟子4代目鈴々舎馬風も圓生の天敵だった。1978年、圓生が中心人物となって引き起こした落語協会分裂騒動では、師匠圓生に逆らって落語協会残留を決めたために破門にされ、芸名の強制返却の目に遭った3番弟子三遊亭好生を救い、自らの客分格の弟子とし春風亭一柳に改名させた。 その一方、圓生の芸の実力は認めており、弟子の林家正雀は『落語百景』(別冊歴史読本/新人物往来社)の中で、「圓生師匠がお亡くなりになったときも、青山斎場に出向いたウチの師匠は、落語の祖・安楽庵策伝の研究で知られる名古屋在住の関山和夫先生に言ってました。「これほどの名人はもう二度と出ないんだから、関山先生、大いに圓生師匠のことを褒めてやって下さいよ」と。感動しましたね」と、語っている。また、三遊亭圓丈は著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』の中で、弔問に訪れた際、「圓生さんもあんな事件(落語協会分裂騒動)さえ起こさなければいい人だったんだけどねぇ・・・」と弟子に対して語ったという。 ある寒い冬の夜、楽屋で圓生が「お先イ」と彦六に声をかけると、彦六は「外も寒いからお気をつけてエ」と答えたという。関係者は「いかにも林家らしい」と思ったという。 また、かつて共に一朝に教えを受けた5代目古今亭今輔は喧嘩友達だった。もっとも、影では互いの健康を気遣っていたという。今輔の元師匠4代目古今亭今輔の妻ハナと、彦六の妻マキは姉妹である。大阪落語の2代目露の五郎(後の2代目露の五郎兵衛)とも繋がりがあり、怪談噺の幾つかは五...

    1970年2月からの隔月(偶数月)に、江戸時代から伝え継がれている本式の道具仕立てでの「芝居噺」を、東京・岩波ホールで催した落語会。
    世話人は秋庭太郎、白井喬二、知切光歳、藤浦富太郎
    当時、この口演の模様は、今後の資料として残すために、日本大学芸術学部映画学科の協力を得て16mmフィルムで撮影されており、貴重な記録映画である。予算の関係で基本的にはモノクロで撮影されたが、特に舞台装置等で「色彩に凝ったもの」に関しては、カラーで撮影をした。パートカラーの作品もある。
    この記録映画は後に貸し出されてもおり、後にビデオ化されて、三一書房で販売もされたこともある。2004年、松竹系のCS放送局の歌舞伎チャンネルで「八代目林家正蔵 正本芝居噺の世界」として、この記録映画が番組として放送され、以後、衛星劇場等でも放送された。番組の進行役は、彦六の弟子3代目八光亭春輔、解説は舞台美術家(日本大学芸術学部講師)の伊東清で、番組内では貴重な当時の資料等も紹介されていた。

    ※太字は存命人物 1. 五代目春風亭柳朝 2. 二代目橘家文蔵 3. 七代目春風亭栄枝 - 元師匠八代目春風亭柳枝の死去に伴い移籍 4. 林家木久扇 - 元師匠三代目桂三木助の死去に伴い移籍 5. はやし家林蔵 - 元師匠三代目三遊亭金馬の死去に伴い移籍 6. 三代目八光亭春輔

    林家木久蔵(初代)「NHK特集 びんぼう一代 ~五代目古今亭志ん生~」※蝶花楼馬楽(5代目)として
    篠井英介 - 「林家三平ものがたり おかしな夫婦でどーもスィマセーン!」
    橋爪功 - 「BS笑点ドラマスペシャル初代 林家木久蔵」

    将来性のある若手芸人や、寄席文化に著しく貢献した人を顕彰して、落語・演芸界の活性化をはかると同時に、一徹に生きた名人林家彦六、そして夫人である岡本マキの名を後世に伝えるための顕彰制度。1995年6月に制定、1996年5月に第1回の表彰式を日本橋・たいめいけんで開催。毎年5月に開催。2009年に終了(後述)。 1. 運営委員:伊東清(委員長・舞台美術家)、井上和明(雑誌「東京かわら版」初代編集・発行人)、大野桂(落語作家)、大友浩(雑誌「東京かわら版」二代目編集人)、神山明久、清水一朗(落語・歌舞伎研究家)、高田文夫(放送作家)、富塚兆弥、永井啓夫(民俗芸能評論家)、山本進(落語研究家)、田谷悠紀(雑誌「東京かわら版」編集部(当時))、長井好弘(読売新聞記者(当時)・演芸評論家) 1.1. ※伊東清、永井啓夫、大野桂は故人 1. 林家彦六賞 1.1. 対象は、二ツ目から真打昇進5年以内の芸人。選考基準は、将来性や芸に取り組む姿勢。 1.2. 過去の受賞者 1.2.1. 第1回(1996年) 2代目橘家蔵之助 1.2.2. 第2回(1997年) 立川談春 1.2.3. 第3回(1998年) 桂平治(現 11代目桂文治) 1.2.4. 第4回(1999年) 7代目柳亭燕路 1.2.5. 第5回(2000年) 三遊亭吉窓 1.2.6. 第6回(2001年) 春風亭勢朝 1.2.7. 第7回(2002年) 柳家禽太夫 1.2.8. 第8回(2003年) 入船亭扇治 1.2.9. 第9回(2004年) 林家彦いち 1.2.10. 第10回(2005年) 五街道喜助(現 3代目桃月庵白酒) 1.2.11. 第11回(2006年) 柳家三三 1.2.12. 第12回(2007年) 4代目隅田川馬石 1.2.13. 第13回(2008年) 三遊亭好二郎(現 三遊亭兼好) 1.2.14. 第14回(2009年) 6代目柳亭左龍 1. 岡本マキ賞 1.1. 対象は、前座から二ツ目昇進直後の芸人。選考基準は、将来性と、寄席の楽屋等で誠実に業務に励む姿勢。 1.2. 過去の受賞者 1.2.1. 第1回(1996年) 春風亭朝吉(現 6代目春風亭柳朝) 1.2.2. 第2回(1997年) ※受賞者なし 1.2.3. 第3回(1998年) 古今亭菊朗(現 古今亭菊志ん) 1.2.4. 第4...

    速記集

    1. 『林家正蔵集』上巻・下巻(青蛙房)1974 2. 『古典落語 正蔵・三木助集』飯島友治編(ちくま文庫)1990

    著書

    彦六は筆まめな人で、多くの著書を残している。月々のファンクラブ会報も自らの手で書いており、永井啓夫・伊東清著『彦六からの手紙 <林家正蔵会>の記録』(三一書房)に全容が残されている。

    弟子による関連書

    1. 林家木久扇多数 2. 林家正雀『師匠の懐中時計』 『師匠の懐中時計(増補)』『彦六覚え帖』うなぎ書房 3. 2代目林家正楽『正蔵師匠と私』 - テレビドラマ化もされた(晴のちカミナリ)

  5. モンスターストライク (アニメ) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › モンスターストライク

    モンスターストライク』は、XFLAGのゲーム アプリ『モンスターストライク』を原作とする日本のWebアニメ作品。略称は『モンストアニメ』。2015年からYouTubeにて放送を開始した。 2018年最新シリーズの第一話は公開3時間以内に世界累計視聴回数100万回を超え、24 ...

  6. 前しか向かねえ - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 前しか向かねえ

    前しか向かねえ」(まえしかむかねえ)は、日本の女性アイドルグループ・AKB48の楽曲。楽曲は秋元康作詞、古城康行作曲。 2014年 2月26日にAKB48のメジャー35作目のシングルとしてキングレコードから発売された [注 1]。楽曲のセンターポジションを務めた大島優 ...

  7. 美少女戦士セーラームーンCrystal - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 美少女戦士セーラームーン

    美少女戦士セーラームーンCrystal. ジャンル. 変身ヒロイン 、 少女向け. アニメ:美少女戦士セーラームーンCrystal(第1期・第2期). 原作. 武内直子. シリーズディレクター. 境宗久. シリーズ構成.

  8. ストリップ (性風俗) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › ストリップ_(性風俗)
    • 歴史
    • 映画/演劇など
    • 料金体系
    • 法律上の定義
    • 女性向け男性ストリップ
    • 関連人物
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連項目
    • 外部リンク

    人類史上のストリップの歴史

    パフォーマンスアートとしてのストリップの確かな起源は、わかっていない。古代バビロニアから現代までの間に、幾多の説がある。「ストリップ(ストリップティーズ)」という語の初出は1938年とされている。しかし、女性が徐々に服を脱ぐことで男性客を興奮させるという見世物は、少なくとも400年くらいは遡ることができる。たとえば劇作家トマス・オトウェイ(Thomas Otway 1652/03/03 - 1685/04/14)の1680年のコメディ作品The Soldier's Fortuneで、登場人物のひとりの台詞に「Be sure they be lewd, drunken, stripping whores」というのがあり、「stripping」という言葉が出てきていることを確認できる[要検証– ノート]。 神話の中にも、ストリップとも受け取れる事象を見出すことができる。シュメールの神話の中に、女神イナンナが地獄に向かうシーンがある。7つの門それぞれで、彼女は衣類を脱ぎ、装身具をはずしていったという。 マタイ伝14:6やマルコ伝6:21-22には、サロメがヘロデ・アンティパスのためにダ...

    フランスにおけるストリップ史

    1880年代から1890年代にかけて、ムーランルージュやフォリーベルジェールなどのショウでは、わずかな衣装のみをつけた女性のダンスと活人画などの見世物が行なわれていた。このような状況の中で、1890年代に「這い回る虱を探すためにゆっくり服を脱いで行く女」という出し物が演じられた。アメリカ合衆国の民俗史書『The People's Almanac』は、これが「近代ストリップの源流である」としている。 1905年には、のちにフランスでスパイとして処刑され悲劇のヒロインとしても有名になるマレー系オランダ人の伝説的ダンサーマタ・ハリが、ギメ東洋美術館のステージでデビューして大成功した。彼女のショーでもっとも有名だったのは、宝石がいっぱいについたブラジャーや体を飾る宝飾品を見せるシーンだった。 もうひとつのランドマークとなった出し物は、1907年にムーランルージュで行なわれたものだった。ジェルメーヌ・アイモス(Germaine Aymos)と呼ばれた女優は、わずか3つの小さな貝殻だけを身に着けていた。1930年代、歌手としても知られるジョセフィン・ベーカーは、フォリー劇場やその他タバリン通...

    アメリカ合衆国におけるストリップ史

    アメリカ合衆国のストリップは、移動式カーニバルや初期のバーレスクの劇場ではじまった。初期の代表的なストリッパーにはジプシー・ローズ・リー(Gypsy Rose Lee 1911/01/08 - 1970/04/26)やサリー・ランド(Sally Rand 1904/04/03 - 1979/08/31)がいる。空中ブランコ芸人だったシャーミオン(Charmion 1875/07/18 - 1949/02/06)は、1896年という早い時期に、空中ブランコの上で服を脱いでいくという見世物を行なった。その映像は、1901年にトマス・エジソンによって撮影された『Trapeze Disrobing Act』という作品に残されている。 現代的なストリップを含むアメリカン・バーレスクのもうひとつの一里塚と言えるのは、1925年4月に演じられた、伝説的な「ミンスキーのバーレスク」である。それはミンスキーブラザースによってニューヨーク42番街の劇場で上演された。このバーレスク劇場でのストリップの上演は、何度か警察沙汰になった後、当該劇場「グラインドハウス」の品位を低下させたとして、1937年に廃...

    ストリップをテーマにした作品。またはストリッパー、ヌード・ダンサーらが出演した作品。 1. 映画 1.1. カルメン故郷に帰る(1951年) 1.2. かぶりつき人生(1968年)、主演・殿岡ハツエ、 監督神代辰巳 1.3. 一条さゆり 濡れた欲情(1972年) 監督神代辰巳 1.4. 濡れた欲情 特だし21人(1972年)、宝京子らストリッパー20人以上出演 1.5. 桐かおる 日本一のレズビアン(1974年) 1.6. レズビアンの女王 桐かおる(1975年) 1.7. 喜劇 特出しヒモ天国(1975年) 監督森崎東、山城新伍、池玲子、芹明香 1.8. (本)噂のストリッパー(1982年):岡本かおり 1.9. 縄とい乳房(1983年) 1.10. 美加マドカ 指を濡らす女(1984年) 1.11. 不倫(1986年)主演・児島美ゆき。宝京子らダンサー出演 1.12. でべそ(1996年):川上麻衣子 1.13. 素顔のままで(1996年) 1.14. 蝉祭りの島(1999年):土屋久美子 1.15. 火垂(2000年)監督仙頭直美:中村優子-2009年に別バージョンがカンヌ映画祭で発表 1.16. ゾンビ・ストリッパーズ(2008年) 1.17. マジック・マイク(2012年)男性ストリップを描く 1.18. ソウル・フラワー・トレイン(2013年):真凛 1.19. ハスラーズ(2019年) 1.20. 彼女は夢で踊る(2019年) 1.21. 唄え!裸舞ソング ふれてGコード(2021年) 1. テレビドラマ 1.1. 傷だらけの天使(1974-75年)第3話、有名美人女優の中山麻里がヌードになり、視聴者を驚かせた。萩原健一、水谷豊出演。 1.2. 特捜最前線 230話「ストリップ・スキャンダル!」 - 風間杜夫演じる現職警官が泡踊りショーに参加し公然わいせつ罪で逮捕される。 1.3. 聖者が街にやって来た(1982年) - NHKが「銀河テレビ小説」枠で制作・放送したストリップ小屋を舞台とした連続ドラマ。最終回では、布で巧みに隠されていたとはいえ、全裸の女性が踊った。 2. バラエティ番組 2.1. 独占! 男の時間- 厳密に言うとストリッパーではないが、浅芽けいこ、あき竹城ら日劇ミュージック・ホールのヌード・ダンサーが出演した。 2.2. 8時だ...

    入場料はおおよそ3,000円から6,000円で劇場によって異なる。ゴールデンウイーク、お盆、正月、特別興行が行われる期間は割増料金になる場合が多い。多くの劇場で学割、シルバー割引、早朝割引、深夜割引、回数券、ポイントカード(ポイントがたまると入場料割引、無料)のサービスを行っている。通常、時間制限はないので、一度入場すれば閉館時間まで楽しむことができる。 舞台を囲むように、多くの座席があり、音楽に合わせストリッパーがダンスを演じるさまを鑑賞する。このダンスに付随して衣装が脱がれていく。大都市におけるストリップ劇場は、ダンサーの美しさだけでなく、舞台の構造や照明、音楽、スモークの演出も美しく見る者をひきつける。 ショーの演目としては以下のものが主に行われていたが、2020年代現在ではソロベッド以外は稀である。 ソロベッド 1. ダンスやマイムを中心としたショーで、進行に合わせて少しずつ衣装を脱いでいく。 タッチショー 1. 複数の観客に、順番にバストを触らせる。 指ポンショー 1. 複数の観客に、順番に指を膣に挿入させる。 天狗ベッド 1. 天狗の面、張型等を用いてオナニーを演じる。 SMショー 1. 男女のペアもしくは女性単体で、SMあるいは自縛ショーを演じる。 白黒、生板 1. 後記参照 花電車 1. 女陰で吹き矢を飛ばす、ラッパを鳴らす、習字を書く、バナナ、キュウリを折る、あるいは女陰から卵、炎を出す様などを見せる。

    ストリップ劇場は、興行場法に定める興行場として、その経営や設置につき関係諸法令の規制をうける。 また、ストリップ劇場の経営は、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)に定める店舗型性風俗特殊営業のひとつに該当する。風適法第2条第6項第3号が、「専ら、性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行その他の善良の風俗又は少年の健全な育成に与える影響が著しい興行の用に供する興行場(興行場法 (昭和二十三年法律第百三十七号)第一条第一項 に規定するものをいう。)として政令で定めるものを経営する営業」を定義のひとつとしているためである。

    男性ストリップは、主として女性またはゲイ観客向けにおこなわれる。かつては日本でも「J-men's Tokyo」のように外国人男性のショーがあった。なお、日本の法律では男性が性器を露出するのは違法となっているので、大きな劇場での男性ストリップの興行は、きわめて難しい。 男性ストリッパーの世界を描いた映画として「フル・モンティ」、「マジック・マイク」、ラ・ベア マッチョに恋して(監督=ジョー・マンガニエロ)がある。

    市川市文学プラザ『昭和の市川に暮らした作家』
    『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』イースト・プレス 2014年
    ストリップ史研究会/石橋ワタル監修『ストリップ芸大全』
  9. フジ子・ヘミング - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › フジ子・ヘミング
    • 経歴
    • 人物
    • 語録
    • ディスコグラフィ
    • テレビ番組出演
    • 映画出演
    • 受賞歴
    • 脚注
    • 外部リンク

    幼少時代

    ベルリンで生まれる。スウェーデン国籍(長らく無国籍の状態が続いた)。幼少期に日本に移住したが、父は日本に馴染めず、家族3人を残し一人スウェーデンに帰国してしまう。以来、母と弟と共に東京で暮らし、5歳から母:投網子の手ほどきでピアノを始める。また10歳から、父の友人であり、ドイツで母がピアノを師事したロシア生まれのドイツ系ピアニスト、レオニード・クロイツァーに師事する。以後、藝大在学時を含め、長年の間クロイツァーの薫陶を受ける。

    学生時代

    青山学院緑岡尋常小学校(現:青山学院初等部)3年生の時にラジオに生出演し、天才少女と騒がれる。1945年2月、家族と共に岡山に疎開する。同年4月、岡山県の高等女学校に入学し、そのまま学徒動員される。終戦後、青山学院高等女学部(現:青山学院中等部)に転校。青山高女5年修了で、新制:青山学院高等部3年に進級する。高等部在学中、17歳で、デビューコンサートを果たす。東京藝術大学音楽学部在学中の1953年には新人音楽家の登竜門である、第22回NHK毎日コンクールに入選をはたし、さらに文化放送音楽賞など、多数の賞を受賞した。東京藝術大学卒業後、本格的な音楽活動に入り、日本フィルハーモニー交響楽団など多数のオーケストラと共演。かねてよりピアノ留学を望んでいたが、パスポート申請時に無国籍であったことが発覚する。 その後、留学の機会をうかがいつつピアニストとして音楽活動を行っていたが、1961年に、駐日ドイツ大使の助力により、赤十字に認定された難民として国立ベルリン音楽大学(現:ベルリン芸術大学)へ留学を果たした。卒業後、ヨーロッパに残って各地で音楽活動を行うも、生活面では母からのわずかな仕送り...

    ヨーロッパでのピアニスト時代

    その間、ウィーンでは後見人でもあったパウル・バドゥラ=スコダに師事した。また、作曲家・指揮者のブルーノ・マデルナに才能を認められ、彼のソリストとして契約した。しかしリサイタル直前に風邪をこじらせ(貧しさで、真冬の部屋に暖房をつけることができなかったためとしている)、聴力を失うというアクシデントに見舞われ、やっとの思いで掴んだ大きなチャンスを逃すという憂き目を見た。 既に16歳の頃、中耳炎の悪化により右耳の聴力を失っていたが、この時に左耳の聴力も失ってしまい、演奏家としてのキャリアを一時中断しなければならなくなった。失意の中、ストックホルムに移住する。耳の治療の傍ら、音楽学校の教師の資格を得て、以後はピアノ教師をしながら欧州各地でコンサート活動を続ける。現在、左耳は40%回復している。

    フジコは菜食主義者、クリスチャンとして知られている。幼い頃から母に言われて教会に通っていたが、ドイツ留学中に近所のカトリック教会の司祭の歌声に惹かれて受洗。食物の中で特に好むのはジャガイモであるとされる。
    20歳からずっと愛煙家である。
    ピアノ演奏以外の趣味は絵画、裁縫、書、水泳などで、バレエや映画の鑑賞も好んでいる。絵に関しては画家であった父の影響もあり幼少時から得意としており、現在までに書き溜めた絵は本やCDのジャケットで使われている。個展を開くこともある(2001年2月5日 - 2001年2月24日「幻の素描展」より)。
    愛猫家、愛犬家の動物愛護家である。
    「私はミスタッチが多い。直そうとは思わない。批判する方が愚かしい」
    「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」(『ラ・カンパネラ』について)
    「私の人生にとって一番大切なことは、小さな命に対する愛情や行為を最優先させること。自分より困っている誰かを助けたり、野良一匹でも救うために人は命を授かっているのよ。」
    「一つ一つの音に色をつけるように弾いている」

    アルバム

    1. 奇蹟のカンパネラ (1999年8月25日、2005年12月16日) 2. 永久(とわ)への響き/Echoes of Eternity (2000年4月5日) 3. 憂愁のノクターン(2000年8月3日) 4. リスト:ピアノ協奏曲 第1番 (2001年4月4日) 5. カーネギー・ホール・ライヴ フジ子・ヘミング 2001 (2001年10月24日) 6. フジ子・ヘミング トロイメライ (2003年1月1日) 7. フジ子・ヘミングの奇蹟 〜リスト&ショパン名曲集 (2003年2月5日) 8. トロイカ (2003年5月21日) 9. 雨だれ (2003年11月26日) 10. 心の詩〜想い出メロディ (2003年12月25日) 11. こころの軌跡 (2004年3月17日) 12. ショパン・リサイタル(2004年8月21日) 13. エリーゼ(2004年11月21日) 14. カンタービレ(2005年3月18日) 15. ラ・カンパネラ1973 (2005年8月24日) 16. ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番《皇帝》(2005年12月24日) 17. イングリット...

    ビデオ・DVD

    1. DVD/フジコ 〜あるピアニストの軌跡〜(NHKビデオ VHS:1999年10月15日、DVD:2000年4月21日) 2. DVD/フジ子・ヘミングとウイーンの仲間たち/サントリー・ホール・ライブ (2001年9月21日) 3. DVD/響色の舞 〜フジ子・ヘミング絵画の世界(2002年2月21日) 4. DVD/フジ子・ヘミングの軌跡(VHS・DVD:2004年3月17日)キャスト:菅野美穂, 十朱幸代, 野際陽子, 谷原章介, 宇津井健 5. DVD/フジ子・ヘミング、パリからの風-素敵なモンマルトルの部屋、そしてパリで描いた初めての絵本“紙のピアノ物語”(2004年11月26日) 6. DVD/翔け!フジ子・ヘミング 35年目の世界初挑戦 〜奇蹟のピアニスト 独占密着300日!! (2005年3月16日) 7. DVD/フジ子・ヘミング-ピアノコンサートの記録Ⅰ/LIVE IN TOKYO(ウルフプロダクツ)[2011年] 8. DVD/FUZJKO HEMMING Á L'HÔTEL LAMBERT Paris(ダギーレーベル)[2015年3月] 9. DVD/ソ...

    1. Make It Home/テレビアニメ「MONSTER」後期エンディングテーマ

    ETV特集『フジコ〜あるピアニストの軌跡〜』(1999年2月11日/NHK)
    スペシャルドラマ『フジ子・ヘミングの軌跡』(2003年10月17日/フジテレビ)フジコ役 菅野美穂
    歌うコンセルジュ〜あなたに番組案内「わんにゃん茶館(カフェ)/街道てくてく旅・熊野古道」(2010年6月17日/NHK)
    中居正広の金曜日のスマたちへ『波乱万丈スペシャル 奇跡のピアニスト フジコ・ヘミング』(2010年10月1日/TBS)
    劇場映画『ざわざわ下北沢』(2000年/監督:市川準/配給:シネマ下北沢) - 本人役 ※第10回日本映画批評家大賞 作品賞
    劇場映画『フジコ・ヘミングの時間』(2018年/監督:小松莊一良/配給:日活)主演:フジコ・ヘミング、大月ウルフ※(2018)ぴあ映画初日満足度ランキング 第1位 (2019)第22回上海国際映画祭(SIFF) パノラマ部門 正式招待出品 (2020)トロント日本映画際(TJFF)正式招待作品
    奇蹟のカンパネラ 第14回日本ゴールドディスク大賞クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー受賞
    憂愁のノクターン 第15回日本ゴールドディスク大賞クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー受賞
    フジ子・ヘミングの奇蹟 〜リスト&ショパン名曲集 第18回日本ゴールドディスク大賞クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー受賞
    フジ子・ヘミングこころの軌跡 第19回日本ゴールドディスク大賞クラシック・アルバム・オブ・ザ・イヤー受賞
    ^ ABOUT FUZJKO HEMMING, オリジナルの2015-12-24時点におけるアーカイブ。, http://www.peeep.us/7ac683b8 2015年12月24日閲覧。
    ^ 日本放送協会. “フジコ・ヘミングの才能を誰よりも信じ抜いた母の執念 ファミリーヒストリー「フジコ・ヘミング~母の執念 魂のピアニスト誕生~」” (日本語). NHK_PR(2020年2月21日). 2020年5月2日閲覧。
    ^ 18歳までに一度も入国した経験がなかったため国籍を抹消されたことによるもの。当時日本は父系血統主義を採っており、日本国籍も取れなかった。後にスウェーデンに就籍する。
    ^ 吉澤ヴィルヘルム『ピアニストガイド』青弓社、印刷所・製本所厚徳所、2006年2月10日、192ページ、ISBN 4-7872-7208-X
  10. 北里柴三郎 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org › wiki › 北里柴三郎
    • 生涯
    • 経歴
    • 親族
    • 北里の医道論
    • 北里とハンセン病
    • その他のエピソード
    • 人脈
    • 業績
    • 栄誉一覧
    • 著書

    出生から大学卒業まで

    北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる。 柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。 1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止され、熊本医学校に入学した。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得...

    留学時代

    柴三郎は同郷で東京医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた、緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツのベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。 ドイツでの柴三郎は、コッホととても仲良くなり、コッホに師事して大きな業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問して、柴三郎にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は異動命令を撤回した。 1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。 1890年(明治23年)には血清療法をジフテ...

    帰国後

    北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の原因を病原菌とする緒方正規の脚気病原菌説に対し、これを否定し批判した。北里の意見は正しかったが、これが証明されたのは後世のことであり、先述の通り緒方は北里の上司だった為、「恩知らず」の烙印を押された。緒方とは私生活では良好な関係を保ったものの、学界では母校の東大医学部と対立する形になってしまった。それは単に東大を敵に回すことだけでなく柴三郎自身の研究者生命も危うくすることを意味していた。日本に帰国した柴三郎は自分の希望する研究ができると思っていたが、実際は思う通りには行かなかった。東大と対立した柴三郎を研究者として暖かく受け入れてくれる研究所はどこもなく、学界に強大な権限と人脈を持つ東大を恐れて誰も援助する者もいなかった。研究者・北里柴三郎はまさに孤立無援の状態であり、これが東大の恩師を敵に回したとみなされた者の厳しい現実だった。そんな折に、この状況を目撃していた福澤諭吉は、海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月、「私立伝染病研究所」を芝...

    1853年(嘉永05年) - 肥後国北里村で代々総庄屋を務めた北里氏の支流の家に生まれる。
    1866年(慶応02年) - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門する。
    1869年(明治02年) - 12月、熊本藩の藩校時習館に入寮。学問・武芸に励む。
    1871年(明治04年) - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。蘭医のコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事。

    妻の乕(とら、1867 - 1926)は松尾臣善の次女。1883年に結婚し、6人の子(3男3女)を育てる。長男・俊太郎(1895 - )は法科、次男・善次郎(1897 - )は理科に進んで成業し、末男・良四郎(1907 - )は工学に進んで実業家となる。長女・安子(1893 - )は学習院女学部を出て渡辺銕蔵の妻となる。長男の俊太郎は土木・鉄道技術者の杉浦宗三郎 の三女・てる子と結婚し一児をもうけたが、三井物産在職中の1925年に9歳年下の22歳の赤坂の芸妓・琴寿と中禅寺湖で心中未遂(芸妓は水死)を起こし、てる子と離婚後、1927年に横浜の絹織物商・椎野正兵衛商店の長女・婦美子と再婚した(前妻てる子は大蔵官僚で日本長期信用銀行初代頭取の原邦道と再婚)。 柴三郎には庶子も複数あり、柴崎ナカとの間に文太郎(1918 - )、武次郎(1922 - 、のち生物学者)、三村こおとの間にトミ(1915 - )、陽子(1918 - )、正十郎(1921 - )をもうけた。 弟の北里裟袈男は帝国生命保険会社(現・朝日生命保険相互会社)の大株主であり常務取締役、弥生無尽会社顧問で、妻は柴三郎の妻の妹。妹のいくは神官の蔵原惟暁の妻となり、その息子に詩人の蔵原伸二郎。別の妹しうは、惟暁の弟で政治家の蔵原惟郭の妻で、その息子に評論家の蔵原惟人。明治製菓の会長を務め、最高顧問となった北里一郎は孫にあたる。 ほかの子孫には熊本県議会議長を務めた北里達之助がいる[要出典]。

    以下は「北里研究所誌」より。 1. 北里は1877年ごろから同盟社という学生結社を組織し、社会活動を志すなら雄弁でなければならないと、毎週土曜に演説会を開き切磋琢磨していた。1878年4月は「医道論」を書き、予防医学を力説した。原稿が残っている。 1.1. 昔の人は医は仁術とか大医は国を治めるとかいいことをいう。医の真の目的は大衆に健康を保たせ国を豊かに発展させることにある。ところが医者という地位について勉強せず、自分の生計を目当てに病気を治すことで満足する者がいる。今から医学に入る者は大いに奮発勉励し、この悪弊を捨て医道の真意を理解しなければいけない。 1.2. ついで、医学生、開業医に向かい、現状を批判、昨年のコレラの流行を引用、悲憤慷慨し、予防医学の大切さを訴えている。最後に自作の七言絶句で決意を披歴している。 また、1920年(大正9年)、北里は慶應義塾大学医学部付属病院の開院式で、次のように語っている。 「予は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である。ゆえに不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引き受けたのである。我らの新しき医科大学は、多年医界の宿弊たる各科の分立を防ぎ、基礎医学と臨床医学の連携を緊密にし、学内は融合して一家族の如く、全員こぞって斯学の研鑽に努力するを以て特色としたい」(「三田評論」、大正9年)

    第1回国際ハンセン病学会は1897年(明治30年)にベルリンで行われた。日本からは土肥慶蔵が出席、北里は出席はせず、日本のハンセン病事情を誌上発表している。第2回ハンセン病学会は1909年にノルウェーのベルゲンで開催され、北里は招待されて出席した。集合写真では、北里はハンセンの隣に座っている。北里は日本におけるハンセン病(Die Lepra in Japan)と言う題で発表した。前半で日本の...
    北里は伝染病研究所を創立してまもなく、ハンセン病の研究を開始している。これは私立らい療養所である目黒の慰廃園から専門医の派遣を要請されて行ったものである。一種の免疫療法剤である「レプリン」を開発したが、あまり有効ではなかった。『日本らい史』には、約3年間に180名を治療、全治4名、全治に近いもの3名、死亡2名、その他は快方に向かいつつあるとあるが、ハンセン病の自然治癒を薬剤効果と間違えたと考...
    来日したハンナ・リデルは、1895年熊本に回春病院というハンセン病病院を設立した。その後、敷地内にハンセン病研究所を企画した。1917年にリデルの頼みに応じ、北里研究所の内田三千太郎を研究所長に割愛した。回春病院の経営にも支援し、1918年(大正7年)の回春病院の募金活動趣意書に発起人として北里の名を連ねている。

    日本を代表する医学者として野口英世と並び、当時は世界的に著名であった人物である。野口は北里研究所に研究員として勤務しており、柴三郎とは形式上師弟関係である。また、テルモの筆頭設立発起人でもあり、CMにたびたび登場していたこともある。

    恩師・知友

    以下は北里研究所誌より。 1. コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト - オランダ予備海軍軍医。オランダ館の医師として来日。1866年から1870年まで徳川幕府の依頼で長崎医学校の前身の精得館で教鞭をとり、1871年から3年間、熊本の医学校で教鞭をとった。北里はマンスフェルトに呼ばれて特別な教育を受け、2年目からマンスフェルトの講義の通訳を務め、講義録を作成した。後年、北里が有名になって母国に帰ったマンスフェルトに会っている。 2. ロベルト・コッホ - 世界的な細菌学者で北里の恩師。1908年に来日したときは、明治天皇、森鴎外、北里などから国家的歓待を受けている。鎌倉にコッホ碑、北里大学白金キャンパス敷地内にコッホ・北里神社がある。 3. 福澤諭吉- 北里のために「伝染病研究所」を建て、その運営のために結核専門病院である「土筆ヶ丘養生園」を建てた。また、伝染病研究所の近所に自らの子息の1人を住まわせた。 4. 森村市左衛門- 福澤諭吉の求めに応じて私立伝染病研究所に多額の寄付をした。 5. 長與專齋- 長崎でマンスフェルトに師事したため北里の先輩にあたる。文部省および...

    後進の育成

    1. 石神亨(1857 - 1918) - 北里の熊本医学校時代の同輩。慈恵病院を経て、海軍軍医、北里の伝染病研究所でツツガムシ病、結核、ペストを研究。北里を助けた。 2. 梅野信吉(1862 - 1930) - 獣医。1899年、国立伝染病研究所に入所。ジフテリア免疫血清を作るなど活躍した。 3. 高木友枝(1858 - 1943) - 北里の東大時代2年後輩。伝染病研究所の助手。ペスト調査団として北里と石神が香港に派遣されたが、石神が発病したため香港に派遣された。その後、台湾の電力会社社長になる。 4. 浅川範彦(1865 - 1907) - 高知医学校、済生学舎を経て医師開業試験に合格。ドイツ語を勉強した。伝染病研究所に入所。ツツガムシ病、破傷風を研究、欧米に先駆けて腸チフス診断液を作ったが、42歳の若さで他界した。 5. 北島多一(1870 - 1956) - 東京大学卒業。伝染病研究所に入所。ドイツ留学ではベーリングのもとで研究し、帰国後、ハブ血清療法を研究。北里研究所、慶應義塾大学医学部、中央衛生会、日本医師会、済生会などすべて北里の跡を継ぎ、その長になっている。 6...

    邦文業績

    以下は北里研究所誌より[注 8]。 1. 「蒼蠅ハ病毒伝染ノ媒介者」大日本私立衛生学雑誌7号、pp.14-17(1883) 2. 「妊娠ヲ鑑別する新法」 中外医事新報96号、pp.1-2(1884) 3. 「肝蛭(肝臓ジストマ)ノ発生スル理由」 中外医事新報99号、pp.1-3(1884) 4. 「痰中にあるコグ氏(コッホ)黴菌試験法」 中外医事新報122号、pp.1-5、123号、pp.8-13(1885) 5. 「鶏虎列刺(トリコレラ)菌発見 (緒方正規、北里柴三郎共著) 官報561号、pp.15-16(1885) 6. 「衛生上飲料水簡易試験法」 大日本私立衛生会雑誌29号、pp.44-59(1885) 7. 「赤痢菌探究」東京医事新誌409号、pp.155-158、410号、pp.189-192(1885) 8. 「長崎県下虎列刺病原ノ談」 大日本私立衛生会雑誌31号、pp.14-26(1885) 9. 「第8回コッホ記念講演開會の辞」細菌學雑誌316号、pp.54-55(1922) 10. 「微生物ノ研究及應用」北里柴三郎記念室史料34号(1918、北里研究所) 11....

    ドイツ留学中の業績

    以下は北里研究所誌より。 1. 日本のコレラ(ドイツ語)Dtsch.med.Wschr.,13:921-922,1887. 2. チフス、コレラ菌の酸、アルカリ培地での様態(ドイツ語)Z. Hyg., 3:404-426,1888. 3. 敗血中のらせん菌の純培養と重層らせん菌(ドイツ語)Cbl. Bakt. Parasit.3,73-75, 1888. 4. コレラ菌の乾燥及び熱にたいする抵抗性(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 134-140, 1889. 5. 人糞中コレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 5, 487-490, 1889. 6. 乳汁中コレラ菌の様態(ドイツ語), Z. Hyg., 5, 491-496, 1889. 7. 人工培養で他種の病原、非病原菌に対するコレラ菌の様態(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 1-10, 1889. 8. コレラ菌の乾燥および熱にたいする抵抗性 追加報告(ドイツ語)Z. Hyg., 6, 11-12, 1889. 9. 気腫疽菌培養試験(ドイツ語)Z. Hyg., 6:105-116, 1889. 10. 破傷風の病原...

    帰国後に論文になったもの(欧文論文のみ)

    以下は北里研究所誌より。 1. 香港のペスト(ラウソンによる速報)(英語)Lancet, 1894 (ii), August 11:325,1894. 2. 腺ペスト菌(英語)1894 (ii) August 25:428-430,1894. 3. ペスト(中川愛咲共著)(英語)Twentieth Century Practice, vol.7, Infectious Diseases, p.325-352, New York, William Wood & Co., Boston, 1898. 4. 明治32年11月から明治33年1月までの神戸、大阪のペスト流行調査報国(高木友枝、志賀潔、守屋伍造共著)(ドイツ語)内務省衛生局報 1900年 1-104, 1900. 5. 和牛と結核(牛結核)との関係(ドイツ語)Z. Hyg. Infectionskr. 48:471-484, 1904. 6. 和牛と結核(牛結核)との関係(英語)Medicine & Technology, Vol.6, 137-148, Miffilin & Co. Boston, 1906. 7. 日本の...

    以下は北里研究所誌より。 1. 勲三等瑞宝章(日本、1892年) 2. プロフェッソルの称号(プロシア、1892年) 3. 勲三等旭日中綬章(日本、1894年) 4. ロンドン衛生研究所名誉所員(イギリス、1895年) 5. イタリア王国衛生会名誉会員(イタリア、1896年) 6. イギリス衛生院名誉会員(イギリス、1896年) 7. カタルーニア衛生院名誉会員(スペイン、1898年) 8. ロシア陸軍軍医大学校名誉会員(ロシア、1899年) 9. ベルリン万国結核中央予防局名誉会員(ドイツ、1901年) 10. 国際結核予防協会名誉会員(ドイツ、1902年) 11. マニラ医学会名誉会員(フィリピン、1903年) 12. アメリカ熱帯医学会名誉会員(アメリカ、1903年) 13. ニューヨーク医学会名誉会員(アメリカ、1904年) 14. ハーベン学会名誉会員(イギリス、1904年) 15. ロンドン伝染病学会名誉会員(イギリス、1904年) 16. セントルイス科学協会名誉会員(アメリカ、1904年) 17. ロンドン王立内科外科学会(現・ロンドン王立医学協会)名誉会員(1905年) 18. 勲二等瑞宝章(日本、1906年) 19. 帝国学士院会員(日本、1906年) 20. ロンドン王立公衆衛生学会名誉会員(イギリス、1907年) 21. 第6回国際結核予防会議名誉通信会員(オーストリア、1907年) 22. 王立協会外国人会員(イギリス、1908年) 23. パトリジー・エキゾーチック学会名誉会員(フランス、1908年) 24. 星章赤鷲第二等勲章(ドイツ、1909年) 25. ロンドン熱帯病学会及び衛生学会名誉会員(イギリス、1910年) 26. ベルリン医学会名誉会員(ドイツ、1910年) 27. サン・オラフ第二等甲級勲章(ノルウェー、1910年) 28. 熱帯医学会名誉会員(フランス、1912年) 29. アメリカフィラデルフィア哲学会会員(アメリカ、1914年) 30. コマンドール・ド・ロフドル・ナシオナル・ド・ラ・レジオン・ド・ヌール勲章(フランス、1914年) 31. フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員(アメリカ、1914年) 32. フランス学士院医学部会員(フランス、1916年) 33. 男爵(日本、1924年) 34. ハ...

    単著

    1. 『黴菌学研究』宇都宮綱条編、英蘭堂、1893年7月。NDLJP:834066。 2. 『北里医学博士演説』君沢田方郡私立衛生会、1893年7月。NDLJP:836805。 3. 『ペスト病ノ原因調査第一報告』伝染病研究所、1894年8月。NDLJP:835409。 4. 『恙虫病原調査報告書』伝染病研究所、1894年12月。NDLJP:835306。 5. 『実布垤利亜及虎列剌病治療成績報告』伝染病研究所、1895年1月。NDLJP:835255。 6. 『伝染病研究講義』第1巻、中川愛咲編纂、南江堂、1896年11月。NDLJP:835313。 7. 『「ペスト」ト蚤ノ関係ニ就テ 淡路島由良町ニ於ケル「ペスト」流行ノ研究』東京市役所、1909年3月。NDLJP:835397。 8. 『肺の健康法』広文堂、1910年12月。NDLJP:835362。 9. 『北里細菌及伝染病学雑纂』金原商店、1911年6月。NDLJP:835118。 10. 『伝染病予防撲滅法』家庭之衛生社、1911年12月。NDLJP:837085。 11. 『強肺深呼吸法』広文堂〈最新衛生叢書 第1編...

    共著

    1. 北里柴三郎、中村桂子『北里柴三郎破傷風菌論』哲学書房〈能動知性 1 生の場〉、1999年12月。ISBN 9784886792518。

    編集

    1. 『北里研究所一覧』北里研究所、1915年12月。 1.1. 『北里研究所一覧』北里研究所、1918年10月、第3版。NDLJP:934981。

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