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  1. 禎子内親王 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/陽明門院

    同5年女院を宣下され陽明門院(ようめいもんいん)を号す。 禎子もいまや 国母 として、かつての上東門院彰子にも劣らぬ影響力を持つに至った。 そののち後三条天皇は在位5年余りで 譲位 、間もなく崩御したが、陽明門院は忘れ形見の孫娘 篤子内親王 を養女として ...

  2. 日光東照宮 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/日光東照宮
    • 歴史
    • 日光東照宮陽明門
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    江戸時代の元和2年4月17日(1616年6月1日)、徳川家康は駿府(現在の静岡市)で死去した。遺命によって遺骸は直ちに駿河国の久能山に葬られ、同年中に久能山東照宮の完成を見たが、翌・元和3年(1617年)に下野国日光に改葬されることとなった。 日光では同年4月(4月)に社殿が完成し(作事奉行は藤堂高虎が務めた)、朝廷から東照大権現の神号と正一位の位階の追贈を受け、4月8日(5月12日)に奥院廟塔に改葬され、家康死去の一周忌にあたる4月17日に遷座祭が行われた。なお、改葬の際、吉田神道と山王神道のどちらで祀るかで論争となり、天海が主張した山王一実神道が採用され、薬師如来を本地仏とする神仏習合によって祀られることになった。 寛永11年(1634年)には、9月(9月か10月)に3代将軍・徳川家光が日光社参し、寛永13年(1636年)の21年神忌に向けて寛永の大造替が始められ、荘厳な社殿への大規模改築が行われた。総奉行(日光造営奉行)は秋元泰朝、普請は、江戸はもとより京・大坂からも集められた宮大工たちが、作事方大棟梁・甲良宗広一門の指揮の下で務めた。甲良宗広は増上寺や寛永寺の建築でも活躍した。この年には江戸に来訪した朝鮮通信使が対馬藩主・宗氏の要請で日光参詣を行っており、将軍家の政治的威光にも利用されている。正保2年(1645年)に朝廷から宮号が授与されて東照社から東照宮に改称した。国家守護の「日本之神」として、翌年の例祭からは朝廷からの奉幣が恒例となり、奉幣使(日光例幣使)が派遣された。 家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からである。金地院崇伝の日記である『本光国師日記』には「遺体は久能山に納め、(中略)一周忌が過ぎたならば、日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること。そして、八州の鎮守となろう」と残されている。家康が目指した「八州の鎮守」とは、日本全土の平和の守り神でもある。家康は、不動の北辰(北極星)の位置から徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとしたと伝えられている。表参道を延長していくと寛永寺の旧本堂(根本中堂)につながる。 毎年の神事以外に、50年ごとに式年祭を行っており、家康没後およそ400年の2015年は式年大祭とした。 明治元年(1869年)の神仏分離により、日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の輪王寺の二社一寺の形式に分立...

    日光東照宮の陽明門は、建物全体がおびただしい数の極彩色彫刻で覆われ、一日中見ていても飽きないということから「日暮御門」と称されている。門の名は平安京大内裏外郭十二門のうちの陽明門に由来する。陽明門は、表門から参道を進み、石段を2つ上った先に南面して建つ。門の左右は袖塀を介して東西廻廊につながる。門を入ると正面が唐門で、その先には拝殿がある。 陽明門は他の社殿と同様、寛永13年(1636年)の造替である。建築形式は三間一戸楼門で、規模は桁行(間口)が約7メートル、梁間(奥行)が約4メートル、棟までの高さが約11メートルである。 屋根は入母屋造、銅瓦葺きで東西南北の各面に唐破風を付す。正面唐破風下には後水尾天皇宸筆の「東照大権現」の勅額がある。組物は上層が三手先(みてさき)、腰組は四手先で、柱上のみでなく、柱間にも密に組物を置く詰組とする。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)で扇垂木とする。初層の柱は円柱で、礎盤削り出しの礎石上に立つ。初層の柱間は地覆、腰貫、飛貫(ひぬき)、頭貫で固め、頭貫上に台輪(だいわ)を乗せる。礎盤形の礎石、貫の多用、台輪の使用、詰組、扇垂木など、細部は禅宗様を基調とする。柱、貫などの軸部材は胡粉塗で白く仕上げ、要所に鍍金金具を嵌める。初層柱には地紋彫を施す。 地紋彫は屈輪文(ぐりもん)の地の上に丸文を散らし、丸文の中には鳳凰、孔雀、二つ蝶、竜、象、虎、牡丹などを表す。12本の柱のうち1本(背面西から2本目)のみは屈輪文が上下逆さになっており、「魔除けの逆柱」と称されている。また、建物を全て完璧に完成させるといずれ崩壊するという言い伝えから、一箇所だけわざと完璧にせず、崩壊を防ぐという意味もある。 初層中央間に黒漆塗に鍍金金具で飾った両開き扉を吊り、両脇間は表側に一対の随身像、裏側に獅子一対を安置する。 これらの像の周囲の壁面は胡粉塗に漆箔仕上げの牡丹唐草文の彫物で飾り、欄間(飛貫と頭貫の間)は黒漆塗の地に花鳥の彫刻を貼り付けている。その上方の組物は出組で、斗(ます)や肘木は漆箔とし、組物と組物の間は菊花文の彫物を入れる。初層の地覆、腰貫、飛貫、頭貫などの水平材は柱などと同様、胡粉塗で、頭貫は牡丹唐草文の地紋の上に様々な姿態の唐獅子の彫物を配する。頭貫の木鼻も唐獅子であり、阿吽を交互に配置する。その上の四手先の組物は、斗や肘木を黒漆塗とし、...

    建造物

    国宝(8棟) 以下の5件8棟の建造物が国宝に指定されている。 1. 本殿、石の間及び拝殿(1棟)(附 銅箱入供養具9箇、旧妻戸2枚、箱入大工道具一具) 2. 正面及び背面唐門 2棟 3. 東西透塀 2棟 4. 陽明門 1棟(附 旧天井板2枚) 5. 東西回廊 2棟(附 潜門) 重要文化財(34棟) (*)印の2棟は東照宮と輪王寺のいずれに帰属するか未決着である。 1. 上社務所(祈祷殿) 2. 神楽殿 3. 神輿舎 4. 鐘楼(附 銅鐘) 5. 鼓楼 6. (*)本地堂 7. (*)経蔵(輪蔵) 8. 上神庫 9. 中神庫 10. 下神庫 11. 水屋(附 手水鉢石) 12. 神厩 13. 表門(附 簓子塀) 14. 五重塔 15. 石鳥居 16. 坂下門 17. 奥社宝塔(銅製)(附 銅製華瓶・燭台・香炉) 18. 奥社唐門(銅製)(附 銅製狛犬2躯) 19. 奥社石玉垣 20. 奥社拝殿(附 銅箱入供養具9箇) 21. 奥社銅神庫 22. 奥社鳥居(銅製) 23. 奥社石柵 23.1. (奥社の附 石狛犬2躯) 1. 仮殿本殿、相之間、拝殿(1棟) 2. 仮殿唐門 3. 仮殿...

    美術工芸品

    国宝 1. 太刀 銘助真(附:打刀拵) 2. 太刀 銘国宗(附:糸巻太刀拵) 重要文化財 1. 紙本著色東照宮縁起 画狩野探幽筆 5巻 2. 剣 銘久国弘安三年三月日(附:金銅宝剣拵) 3. 小文地葵紋付胴服 4. 太刀 銘一(福岡一文字)(附:糸巻太刀拵) 5. 太刀 銘吉房(附:糸巻太刀拵) 6. 短刀無銘 伝行光作(附:白鮫柄合口拵) 7. 南蛮胴具足 8. 脇指 銘備前国住長船勝光宗光備中於草壁作 文明十九年二月吉日(附:小サ刀拵) 9. 寛永諸家系図伝(真名本) 186冊 10. 蒔絵箱入紙本墨書東照社縁起 3巻 上巻後水尾天皇宸翰 11. 渾天儀 寛文十年酒井忠直奉納(銅製)(附:寛文九年石原信由渾天儀倭字解写) 典拠:2000年(平成12年)までの指定物件については、『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)(毎日新聞社、2000年)による。

    世界遺産等

    1. 世界遺産:文化遺産「日光の社寺」 2. 国の史跡「日光山内」

    工藤圭章「彫刻と彩色で飾る日暮御門」『不滅の建築12 東照宮陽明門』(毎日新聞社、1989年)所収
    高藤晴俊『日光東照宮の謎』(講談社現代新書、1996年)
    高藤晴俊『図説 社寺建築の彫刻 東照宮に彫られた動植物』(東京美術、1999年)
    『日光東照宮の装飾文様 植物・鳥類』(グラフィック社、1994年。解説:高藤晴俊)
    安津素彦・梅田義彦編集兼監修者『神道辞典』(神社新報社、1968年)41頁
    白井永二・土岐昌訓編集『神社辞典』(東京堂出版、1979年)263-264頁
    菅田正昭『日本の神社を知る「事典」』(日本文芸社、1989年)40-44頁
    上山春平他『日本「神社」総覧』(新人物往来社、1992年)72-73頁
  3. 陽明文庫 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/陽明文庫
    • 近衛家と陽明文庫
    • 文化財
    • 所在地・利用情報
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連文献
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    近衛家は藤原北家の流れを汲む家である。藤原氏は、12世紀に摂政、関白、太政大臣を務めた藤原忠通(1097年 - 1164年)の後、その長男・近衛基実(1143年 - 1166年)を祖とする近衛家と三男・九条兼実(1149年 - 1207年)を祖とする九条家の2家に分かれ、その後近衛家からは鷹司家が、九条家からは二条家、一条家が分かれた。後に近衛、鷹司、九条、二条、一条の5家を「五摂家」と呼ぶようになった。 近衛家の歴代当主は、藤原道長の日記『御堂関白記』をはじめ、先祖の日記や朝廷の儀式関係などの重要な文書記録を大切に伝えてきた。近衛家の当主は代々、摂政関白等の政治上の高い地位を占め、鎌倉時代以降は実権は伴わなかったとはいえ、朝廷の儀式などに関与し、摂関家としての権威を保ち続けてきた。そうした政務や儀式のよりどころとして、歴代当主の遺した日記や文書記録を保管することは近衛家にとって重要なことであった。 歴代の近衛家当主には、詩書画などの諸芸に通じた教養人・風流人が多く、彼らによって伝世の古文書が整理され、新たな書物が収集された。戦国時代の動乱期に関白・太政大臣を務めた13代当主近衛政家(1445年 - 1505年)は、応仁・文明の乱に際し、家伝の古文書50箱を京都の北郊の岩倉に疎開させた。応仁の乱によって近衛家の邸宅は焼失したが、古文書類は難を逃れた。16代当主近衛前久(さきひさ、号は龍山、1536年 - 1612年)は、室町幕府の崩壊、本能寺の変、徳川幕府成立という激動の時代に関白を務め、関白の職にありながら、上杉謙信と同盟を結んで越後や関東に赴くなど数奇な生涯を送った人物であるが、彼も当代きっての文化人で、和歌・連歌をよくし、能筆でもあった。 17代当主の近衛信尹(のぶただ、1565年 - 1614年) は三藐院(さんみゃくいん)と号し、「寛永の三筆」の一人に数えられる能書家で教養人であった。信尹には継嗣がなかったため、後陽成天皇の第4皇子であり、信尹には甥にあたる近衛信尋(のぶひろ、号応山、1599年 - 1649年)を養子に迎えた。信尋も書道、茶道、連歌などの芸道に通じた教養人であった。江戸時代中期の人物である21代当主近衛家熙(いえひろ、号予楽院、1667年 - 1736年)も詩書画、茶道等諸芸に優れた教養人であった。家熙は古今の名筆を貼り交ぜたアルバ...

    国宝

    1. 御堂関白記 26巻(自筆本14巻、写本12巻)附:御堂御記抄5巻1幅、御堂御暦記目録1通 - 藤原道長の日記で、自筆本は33歳の長徳4年(998年)から55歳の寛仁5年(1021年)にわたり、断続的に14巻が残っている。 2. 後二条殿記 30巻(自筆本1巻、古写本29巻) - 関白内大臣藤原師通の日記・・・写本は一条家の伝来本写本 3. 倭漢抄 下巻 2巻 - 11世紀半ば書写と推測される『和漢朗詠集』下巻の零巻。同筆のまたは同系統の遺品として、高野切第三種、粘葉本和漢朗詠集(三の丸尚蔵館蔵)、元暦校本万葉集巻一(東京国立博物館蔵)、伊予切(和漢朗詠集の断簡、諸家分蔵)、蓬莱切(未詳歌集の断簡、諸家分蔵)、法輪寺切(和漢朗詠集写本の断簡、諸家分蔵)などがある。 4. 神楽和琴秘譜 1巻 5. 歌合(十巻本)巻第六 1巻(附:歌合目録1巻) 6. 類聚歌合 19巻 7. 熊野懐紙 3幅 後鳥羽天皇(1201年(建仁元年))、藤原家隆(1200年(正治)2年)、寂蓮(正治2年(1200年))筆 8. 大手鑑(おおてかがみ)2帖(第一帖139葉、第二帖168葉)

    重要文化財

    日記類(歴代当主の日記) 1. 知足院関白記(殿暦)22帖 - 関白藤原忠実(1078 - 1162)の日記 2. 猪熊関白記 39巻(自筆本23巻、古写本16巻)- 摂政、関白、太政大臣近衛家実(1179 - 1242)の日記 3. 岡屋関白記 7巻 - 近衛兼経(1210 - 1259)の日記 4. 深心院関白記 7巻(具注暦本3巻、古写本4巻) - 関白、左大臣近衛基平(1246 - 1268)の日記 5. 後深心院関白記 49巻(附:近衛政家筆目録1冊) - 近衛道嗣(1333 - 1387)の日記 6. 後法興院記 3巻27冊 - 関白太政大臣近衛政家(1444 - 1505)の日記 7. 後法成寺関白記 21冊 - 関白太政大臣・14代当主近衛尚通(1472 - 1544)の日記 日記類(その他) 1. 九暦記抄(承平六年九月廿一日条等) - 右大臣藤原師輔(908 - 960)の日記の抄録本 2. 永昌記 3巻 - 藤原為隆(1070 - 1130)の日記 3. 大府記(寛治六年春、古写本) - 藤原為房(1049 - 1115)の日記 4. 兵範記 45巻(古写本...

    閲覧には学者・研究者の紹介が必要。
    展示 観覧は春・秋各3か月間のみ(予約のあった団体に限る)。10:00~16:00、日・祝休。
    住所 京都市右京区宇多野上ノ谷町1-2
    アクセス 京都駅より京都市営バス・JRバス栂尾方面行き「福王子」下車徒歩数分
    『週刊朝日百科 「日本の国宝17 陽明文庫」』 朝日新聞社、1997年
    『陽明文庫王朝和歌集影』 勉誠出版、2012年1月、ISBN 978-4-585-27010-2
    『近衞家名宝からたどる宮廷文化史 陽明文庫が伝える千年のみやび』 田島公編、笠間書院、2016年
    『陽明叢書』、思文閣出版
    『陽明墨宝』、陽明文庫編、春名好重解説、淡交社、1982年、ISBN 4-473-00792-8
    『陽明世伝』、東京大学出版会1985年復刻
  4. 近衛位子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/近衛位子

    近衞 位子(このえ いし、弘長2年(1262年) - 永仁4年正月22日(1296年 2月26日))は、鎌倉時代後期の女性。 亀山上皇の女御。 女院。院号は新陽明門院。関白・近衛基平の娘。 生涯 文永11年(1274年)6月28日に亀山上皇の後宮に入る [1]。その後文永12年(1275 ...

  5. 陽明学 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/陸王学
    • 陽明学以前
    • 王陽明の登場
    • 陽明学、その後の展開
    • 日本における展開
    • 朝鮮における展開
    • 関連文献
    • 外部リンク

    宋代の学者に従って儒学の歴史を振り返ると、隋唐以前は経書の音訓(音読)や訓詁(単語の意味)を重視した訓詁学が中心であった。しかし宋代の学者からすると、これら訓詁の学者は、六経(五経)に込められた聖人(孔子など)の本旨を正しく理解できておらず、改めて聖人の本旨を理解する試みが必要であるとの認識に達した。その際、隋唐以前の訓詁的研究を行いつつも、より率直に聖人と解釈者との一体性を強調し、解釈者の心と聖人の心とが普遍であるという前提を構築することになった。その結果、宋代以後の儒学は、孔子の思想的側面(聖人の心と解釈者の心)を明らかにすることにも力を費やすことになり、結果として思弁性のあるものとなった。その代表が朱子学と陽明学であった。 朱子学が最も重視したのは、古い歴史をもち、勝手な解釈の入る余地の少ない経書そのものではなく、「四書」と呼ばれる四つの書物であった。これは経書の中の『礼記』から分割編纂した「大学」と「中庸」、そして準経書扱いされていた『論語』と、『荀子』と並称されていた『孟子』という四つの書物である。これらの書物は比較的短文で、また勝手な解釈を混入させるに適当な内容の書物であったため、利用されるに至ったと考えられている。特に朱子学が従来の儒学議論の中から、孟子の「性善説」を取り出し、極端に尊崇したことから、「性」「善」の内容をめぐって議論を呼ぶことになった。そのため、諸種の学派間の抗争は、直接には性善説の解釈をめぐって行われる場合も多々見られることになった。 隋唐を承け、北宋を経過した儒学は、南宋中頃以後に徐々に道学と呼ばれる思想集団が頭を擡げ、南宋中頃に朱熹が道学を集大成して、遂に江南思想界を席巻するに及んだ。後、元朝によって南宋が亡ぼされた結果、南北中国の交流が始まり、朱子学は漸く華北にも地歩を築くに至った。 この朱子学の解釈は、正統的には「四書」と旧来の経書に対する注釈という形で伝わったものであった。そしてこの注釈書は元朝以来、徐々に科挙に登用され、明朝初期に及び、科挙の使用注釈書は全て朱子学系統のものとなった。この結果、朱子学は念願の王朝権力との一体化を果たし、思想界に重大な影響を与えることになったのである。 このように明朝に於いて確立した朱子学の権威は、明朝統治下のほぼ全域に亘り巨大な力を持つにいたったのだが、明朝政権下の中でも最も商業の発達...

    朱子学は支配イデオロギーとなったが、それ故に体制擁護としての作用が肥大化し、かつての道徳主義の側面が失われていった。その道徳倫理を再生させようとしたのが、王陽明である。朱子学では「理」(万物の法則であり、根拠、規範。「然る所以の故であり、且つ当に然るべき則」)はあらゆるものにあるとし(「一木一草みな理あり」)、そうした理について読書など学問することにより理解を深めた後に「性」(個々に内在する理、五常五倫)へと至ることができるとした。いわば心の外にある理によって、心の内なる理を補完せんとしたのである。 当初は王陽明も朱子学の徒であったが、「一木一草」の理に迫らんとして挫折し、ついに朱子学から離れることになる。その際王陽明は朱子学の根本原理となっている「格物致知」解釈に以下のような疑義を呈した。まず天下の事事物物の理に格(いた)るというが、どうすれば可能なのかという方法論への疑義。そして朱子は外の理によって内なる理を補完するというが、内なる理は完全であってそもそも外の理を必要としないのではないか、という根本原理への疑義である。こうした疑義から出発し思索する中で陸象山の学へと立ち帰り、それを精緻に発展させたのが陽明学である。ただ陽明学は宋代の陸象山の学を継承したものではあるが、その継承は直接的なものではない。 なお陽明学の登場は、朱子学の時ほどドラスティックではなかった。朱子学は政治学、存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。無論儒教に於いて倫理学的側面は最も重要だったといえるが、だからといって大規模なパラダイム・シフトが起こったわけではなく、その点は注意を要する。

    陽明学左派-心学の横流-

    王陽明の高弟としては、王畿(龍渓)、王艮(心斎)、徐愛(横山)、欧陽徳(南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益(東廓)、羅洪先(念庵)、聶豹(双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。王陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり王龍渓ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。 陽明学左派の中心人物は王龍渓と王心斎であって、この両者を王学の二王と称する。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」「良知」「物」には善悪を認めた。しかし王龍渓らは師の説は徹底を欠くとして、「意」「良知」「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。 1. 王龍渓 1.1. 王龍渓が上で...

    陽明学右派と東林党

    明末は魏忠賢ら宦官に与する閹党と顧憲成らの東林党が党争を繰り返していた。このふたつの党派は当時の政治や社会の現状を認めるか否かによって分かたれた集団であって、思想的な差異によるものではない。したがって宦官政治に批判的な人々は朱子学・陽明学問わず東林党に集った。しかし東林党に入った陽明学の人々は右派が中心であったため、陽明学左派の行き過ぎた思想・行動には批判的であった。ただ人欲を人間本来の自然とみる考えを全否定することはなく、それを認めつつ、人欲をコントロールする役目を「理」に与えることにより現実的な政策・思想を構想しようとした。それは清代の考証学や経世致用の学を生み出す端緒となる。 その代表的思想家は黄宗羲である。黄は陽明学右派劉宗周の弟子にあたり、『明夷待訪録』や『明儒学案』を著している。前者は政治・経済・軍事といった諸方面から国家のあり方を論じたもので、特に皇帝専制政治批判は舌鋒鋭く、清末に至り再評価された。そのため黄は「中国のルソー」と呼ばれる。後者は中国初の哲学史とも言うべき著作で、明代の儒学史研究において今でも必読書となっている。黄宗羲は、陽明学左派のようなひたすら唯心...

    陽明学左派

    朱子とその弟子たちは、いわゆる偽学の禁、すなわち政治的な問題をおこしたけれども、社会的な問題をおこしたことはなかった。陽明学派は、政治問題をおこしたことはあまりないけれども、社会問題をひきおこした。陽明学は、陽明の死後、今日のことばでいえば左派と右派とに分裂し、左派(その中核はいわゆる泰州学派)はいわゆる陽明学の横流、心学の横流と呼ばれる現象をひきおこした。すなわち、陽明学派のあるものは社会的通念、権威、に挑戦し、既成道徳をふみにじるにいたり、積極的には道徳的混迷、社会不安を、消極的には社会的頹廃をひきおこした、というのである。左派は理論的・実践的にラジカリストであった。ラジカルという意味は、おおよそ士大夫存在において、士大夫、読書人、としてふさわしいあり方、伝統的に形成せられているらしさ、いわゆる矩矱というものと、聖人をめざす理論・実践というものとの二つの極を考えることができるが、その場合、聖人という理想に対してあくまで忠実であろうとして、いわゆる矩矱を無視し、のりこえるに至る、それをいうのである。ふるい矩矱、名教は、単に習慣的なもの、外化したもの、仮、偽善、としてうちすてられ...

    日本に伝わった朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれた。一方、陽明学は王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合もあった。自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明学徒に多い。鏡面のような心(心即理)であることが本来前提であるにも関わらず、己の私欲、執着を良知と勘違いして、妄念を心の本体の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新志向になりやすいという説もある(後述の山田方谷も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子学を十分に理解して朱子学と陽明学を相対化して理解が出来る門人にのみにしか陽明学を教授しなかったと言われている)。 江戸期の代表的な陽明学者は中江藤樹と弟子の熊沢蕃山である。その他、淵岡山、中川謙叔、三輪執斎らがいる。

    朝鮮半島の陽明学については 中 2013, 馬淵 2011が詳しい(本項では未参照)。 朝鮮半島には16世紀初めにもたらされた。その初期に陽明学を奉じた者としては南彦経と李瑶がいる。次いで許筠と張維が出て、陽明学を発展させた。前者は陽明学の立場から朱子学の礼教的側面を批判した。また朝鮮では最も早く人欲を肯定した人でもある。後者は朱子学の「知先行後」を論難し、陽明学の「知行合一」を賞賛した。また陽明学の個性尊重の側面を受け継ぎ、「自治・自立・自主」に重きを置いた学説を説いた。その後張維の影響を強く受けて、朝鮮陽明学の代表ともいえる鄭斉斗(霞谷)が出た。彼は朱子の理気二元論に異を唱え、理と気は一体不可分であるとし、また「知行合一」を称揚して実践を重視した。当時李氏朝鮮でも朱子学は形骸化しつつあったが、鄭は陽明学によって儒教を再生することを唱えるに至る。 しかし朝鮮にあって陽明学は一貫してマイノリティーの地位を脱しきれなかった。本場中国以上に朱子学派から抑圧され、徐々に衰退していくのである。たとえば李滉(退渓)の著した『伝習録弁』は陽明学を批判して非常に厳しい。そのため陽明学の朝鮮史における影響は中国・日本に比して高いとは言えない。ただ朝鮮陽明学は実学・経世致用の思想に影響を与えたことは事実である。 大韓帝国末期から日本統治時代には、朴殷植や鄭寅普が陽明学を論じた。

    荒木見悟 『陽明学の位相』研文出版、1992年、ISBN 4876361045
    大橋健二 『良心と至誠の精神史―日本陽明学の近現代』 勉誠出版、1999年
    荻生茂博「陽明学」『日本歴史大事典 3』小学館、2001年、ISBN 978-4-095-23003-0
    荻生茂博『近代・アジア・陽明学』ぺりかん社、2008年、ISBN 978-4831512024
    王陽明著、佐藤一斎(坦)注釈、南部保城編『伝習録』、明治40年刊(国立国会図書館所蔵)
    大塩平八郎『古本大学刮目』(中之島図書館所蔵)
    井上哲次郎『日本陽明学派之哲学』冨山房、明治33年刊(国立国会図書館所蔵)
    三宅雪嶺(雄二郎)『王陽明』政教社、明治26年刊(国立国会図書館所蔵)
  6. 豊原区 (台中市) - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/豊原市_(台中県)
    • 歴史
    • 教育
    • 観光
    • 出身有名人
    • 出典
    • 外部リンク

    豊原区の旧名は「葫蘆墩」(ころとん)であり、その地名の由来は史料によれば、清代初の康熙年間、草木が繁茂する荒野を先住民が「松柏の林」という意味で「泰耶爾墩」と称し、「葫蘆墩」は「泰耶爾墩」の音訳であると言われている。また別説では「墩腳」と下南,坑有の3地区に小丘があり、形状が葫蘆に似ていた事から命名されたという説もある。1684年、台湾に1府3県が設置された際、豊原は諸羅県に帰属することとなった。 1733年、張達京と岸裡社平埔族土官潘墩仔が清朝のこの地の開墾許可を獲得し、福建漳州、泉州よりの入植を推進し、この地に集落を形成するに至った。1886年になると葫蘆墩に撿衙門が設置され、豊原地区に初めて官が設置された。続いて東上堡保甲局(聯保局)も葫蘆墩街に移され、それまで地区の中心であった岸裡大社に替わって中心地となるに至った。その後巡府劉銘伝が台湾を訪問した際に、豊原の土地が肥沃であり、物産が豊富であることから「富春郷」と命名され、また水質が良好な上、美人が多いことから「小蘇州」とも称された。 豊原の開発は岸裡社を起点に行われた。当初は原住民である平埔族「拍宰海」(PAZEH或いはPAZZEHE)族群の拠点であり、域内に葫蘆墩(FULUTON)、崎仔脚(岐仔下とも)、烏牛欄(AURAN)、翁仔(BARLAEON)、樸仔籬(POALY或いはABOUAN POALY)などの小社が形成され、麻薯屯を中心として「岸裡社」(RAHO DO PURU)に帰属していた。 日本による統治が開始されると、台中県を設置し現在の豊原、潭子、大雅、神岡、社口をあわせて「豊原郡」を設け、豊原の地名が誕生した。また「葫蘆墩駅」が設置されるなど、豊原は台湾中部の交通の要衝としての地位を占めるようになったばかりか、1912年、台湾製麻株式会社が設立され南嵩里及び田心里一帯にタバコと黄麻が栽培されたり、1915年からは八仙山林で材木の伐採が開始されると、豊原は木材の集積地であるばかりか重要な加工拠点となり、工業面でも大いに発展を見ることとなり、現在の経済構造の基礎を築いた。 1920年に「コロトン米を以て知らるゝ米產地なるを以て、其吉祥に因んで」内地風の豊原(とよはら)と改称され現在の名称が誕生し、戦後の1950年10月21日、台中県が設置され豊原は県政府所在地として発展し、1976年に県轄市に...

    高級中学

    1. 国立豊原高級中学

    高級職校

    1. 国立豊原高級商業職業学校

    国民中学

    1. 台中市立豊原国民中学 2. 台中市立豊東国民中学 3. 台中市立豊南国民中学 4. 台中市立豊陽国民小学

    ^ 水越幸一「市郡の區域稱呼其所在地並街庄の稱呼等に就て」『臺灣時報』第十六號、大正九年、一四二頁。
  7. 台南市 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/安平區
    • 概要
    • 地理
    • 対外関係
    • 交通
    • 観光
    • 文化
    • 出身著名人
    • 関連項目
    • 外部リンク

    台湾島で最も早くから開けた地区の一つであり、古称は「台湾」、「台湾府」。「台湾」という地名は、最初台南一帯の一地域を指し、後に台湾全体を指す名である。 オランダ人はここに根拠地ゼーランディア城を置いた。清朝時代初期相当の鄭氏政権下の台湾の首府であり、政治・経済・文化の中心地であった。日本統治時代に台湾の中心地は台北に移ったものの、その後もしばらく台北に次ぐ地方都市として発展した。現在は台湾六大直轄市の一つで、合併後の人口は約189万人(2017年3月)。 多くの旧跡が残り、現代的な都市景観と併存していることから、「台湾の京都」と呼ばれることがある。台南小吃(中国語版記事)で知られるグルメの町でもある。また、観光業に伴う結婚写真撮影専門店の数が多いことでも有名である。 かつて製糖業が盛んであったが、1990年代ほぼ停業した。製糖の土地は多く工業団地・科学園区(サイエンスパーク)として変更し、TSMC・UMCなど世界屈指の半導体製造ファウンドリの生産拠点になる。 台南は台北などに比べて台湾語が日常的に使用されている地域であり、歴史も古いことから、台南方言が台湾語の標準的な方言と見做されている。

    地形

    台南市の行政区は北側が広く、南に行くにつれて狭くなる三角形の形状で台南県(一部高雄市)に囲まれている。嘉南平原に位置するため地勢は平坦であり、市全域で海拔10〜30mの間、最高でも海拔約40mという丘陵地が殆ど見られない特徴を有している。その域内は台南台地、大湾低地、安平平原、桜丘砂丘と分類することができる。 台南台地は台南市東部に位置し、孤立した楕円形の台地である。北側には曽文渓、南側には三爺宮渓と接しており、東側は崖で大湾低地と接しており、西側はなだらかな傾斜で安平平原へと繋がっている。南北約12km、東西約4kmであり、稜線の海抜は25〜30m程度であり、台南市最高地点の海抜40m「網寮」もこの台地にある。 大湾低地は台南台地の東に位置し、大部分は台南県永康市に位置している。西側は地崖により台南台地に接しており、長さ12.5km、幅3kmで大部分は標高10m以下の地勢を成している。古くから集落が形成されていたこの地域では台南台地との境界が開発により曖昧になりつつある。 安平平原は台南市西部の沿海部に位置し、地殻変動により隆起した海岸平原である。平原の標高は海抜2~3mであり...

    気候

    ケッペンの気候区分では温帯夏雨気候 (Cwa)(熱帯モンスーン気候 - 温暖湿潤気候移行部型)に属する。

    姉妹都市・提携都市

    国内 1. 金門県(中華民国)- 1981 2. 澎湖県(中華民国)- 1981 アジア ヨーロッパ 北アメリカ 南アメリカ

    空港

    1. 台南空港は、南区にある。 1.1. 国際線:関西国際空港(大阪府)、香港、ホーチミン市 1.2. 国内線:金門、馬公(台湾高速鉄道の開通にともない台北線が廃止)

    鉄道

    1. 台湾高速鉄道(高鉄台南駅) 1. (隣接する台鉄沙崙駅と事実上同一の駅) 1. 台湾鉄路管理局 縱貫線(後壁 - 新営 - 柳営 - 林鳳営 - 隆田 - 拔林 - 善化 - 南科 - 新市 - 永康 - 大橋 - 台南 - 保安 - 仁徳 - 中洲) 1. 現在南部台湾の交通の要衝である。なお、現在軌道の地下化計画があり、南台南駅及び林森駅の通勤用駅を将来設置の予定。 1. 台湾鉄路管理局 沙崙線(中洲 - 長栄大学 - 沙崙) 1. 沙崙駅で台湾高速鉄道に接続。沙崙線内完結の列車は平日に1本のみ(沙崙→中洲)で、大半の列車が台南駅(縦貫線)まで直通運転を行う。 1. 台南捷運 1. 横貫線・環状線:モノレール方式で計画中である。 かつては台湾糖業が多くの路線を運営していたが (台湾糖業鉄道)、いずれも廃止された。布袋線・関廟線などを参照。

    バス

    1. 路線バス:台南市内を走るバスとして、以下のバス事業者がある。 1.1. 府城客運(中国語版)- 市内バス「公車」は一律18元(ドル)。乗車時に料金を支払い。 1.2. 興南客運(中国語版)、新営客運(中国語版)- 主に旧台南県を結ぶ。 1. 長距離バス:台北、台中、嘉義、高雄、屏東など、台湾各都市へ向かう便が運行されている。以下のバス事業者がある。 1.1. 統聯客運、国光客運、和欣客運

    観光スポット

    1. 花園夜市(中国語版)- 屋台夜市として大規模 2. 小北商場(中国語版)(小北夜市) 3. 海安路芸術街 4. 安平老街 5. 四草湿地 6. 漁光島 7. 台南運河(中国語版) 8. 安平港 9. 湾裡黄金海岸 10. 安平樹屋 - ガジュマルの木に浸食された廃墟の倉庫。2009年に整備され解放された新しい観光地 11. 十鼓文化村 12. 関子嶺温泉 13. 走馬瀨農場 14. 烏山頭ダム 15. 国立台湾文学館 16. 国立台湾歴史博物館(中国語版) 17. 西拉雅国家風景区(中国語版) 18. 南瀛天文教育園区 19. 奇美博物館 20. 台南市美術館 21. 飛虎将軍廟 2015年以降、観光名所への更なる訴求手段として「府城少女」を市の公式萌えキャラクターとして生み出している。

    スポーツ

    台南市のプロスポーツのチーム

  8. 正親町三条秀子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/陽禄門院

    正親町三条 秀子(おおぎまちさんじょう ひでこ、応長元年(1311年) - 正平7年11月28日(1353年 1月12日))は、南北朝時代・室町時代の女性。 光厳天皇の典侍で、崇光天皇・後光厳天皇の生母。 父は内大臣 正親町三条公秀。 准三宮。院号は陽禄門院。

  9. 大雅区 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/大雅区

    大雅區區長(現制) 李政峯:2010年12月25日-2012年07月11日 江惠雯:2012年07月12日-2015年07月05日 李順彬:2015年07月06日-現任 教育 国民中学 台中市立大雅国民中学 台中市立大華国民中学 国民小学

  10. 洞院愔子 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/洞院愔子

    洞院 愔子(とういん いんし、寛元4年(1246年) - 元徳元年8月30日(1329年9月23日))は、鎌倉時代の女性。後深草天皇の後宮で、伏見天皇の国母。女院として玄輝門院(げんきもんいん)。法名は自性智。父は従一位左大臣洞院実雄。