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  1. ja.wikipedia.org › wiki › 潙山霊祐潙山霊祐 - Wikipedia

    潙山霊祐 (いざん れいゆう)は、 中国 の 唐 代の 禅僧 [1] 。 諡 は 大圓禅師 。 俗姓は趙。 福州 長渓県( 福建省 寧徳市 霞浦県 )の出身。 法語として『潙山警策』がある。 生涯. 大暦6年(771年)、福州長渓県に誕生した。 貞元 元年( 785年 )、15歳で出家、福州建善寺の法常律師のもとで剃髪し、 杭州 龍興寺で受戒した。 経律を学ぶ。 貞元9年( 793年 )、23歳で 洪州 に赴いて 百丈懐海 に学び [1] 、その法嗣となる。 元和 15年( 820年 )頃、 潙山 密印寺 ( 湖南省 長沙市 寧郷市 潙山郷 )に住して、多数の門弟を訓育した。 住寺は同慶寺の号を賜った。 弟子の中に 仰山慧寂 があり、彼らの門流を、後世「 潙仰宗 」と称した。

    • 大圓禅師
  2. ja.wikipedia.org › wiki › 潙仰宗潙仰宗 - Wikipedia

    百丈懐海の法嗣となった 潙山霊祐 が、 元和 元年( 806年 )に、 潙山 ( 湖南省 長沙市 寧郷市 潙山郷 )で独自の禅を提唱したのに始まる。 更に、その法嗣となった 慧寂 が、 仰山 ( 江西省 宜春市 袁州区 )に住して、師の教えを確立したので、その両者の住した山の名をとって、潙仰宗と称されている。 五代十国時代 には、 荊南 や 南唐 で教線を展開した。 慧寂の法嗣である南塔光涌( 850年 - 938年 )や、西塔光穆、光涌を嗣いだ芭蕉慧清、更に光穆の門弟である資福如宝らの名が知られている。 しかし、五代十国の末頃には、次第に衰退し始めた。 宗風. その宗風は、「方円黙契」と称せられ、『法眼十規論』では「谷の韻に応じるが如く、関の符を合するに似たり。

  3. ja.wikipedia.org › wiki › 仰山慧寂仰山慧寂 - Wikipedia

    宗派. 潙仰宗. 師. 潙山霊祐. テンプレートを表示. 仰山慧寂 (ぎょうざん えじゃく、 804年 ( 貞元 20年) - 890年 ( 大順 元年))は、 中国 の 唐 代の 禅僧 。. 諡 は 智通禅師 。. 俗姓は葉。. 韶州 湞陽県( 広東省 韶関市 曲江区 )の出身。.

  4. ja.wikipedia.org › wiki › 南泉普願南泉普願 - Wikipedia

    馬祖道一. 弟子. 趙州従諗 、 長沙景岑. テンプレートを表示. 南泉普願. 南泉普願 (なんせん ふがん)は、 中国 の 唐 代の 禅僧 。. 俗姓は王。. 鄭州 新鄭県( 河南省 鄭州市 新鄭市 )の出身。.

  5. ja.wikipedia.org › wiki › 徳山宣鑑徳山宣鑑 - Wikipedia

    生涯. 若くして仏道に入り、諸経論を学び、 律蔵 を究めていた。 また、常に『 金剛経 』を講誦していたので、「周金剛」と呼ばれる程であった。 後、 石頭宗 の 天皇道悟 の法嗣である 龍潭崇信 に師事しその嗣法となり30年間にわたってその門下で修禅したその後潙山霊祐 らに参禅した。 会昌の廃仏 時には独浮山の石室で難を避け、 宣宗 の 大中 初、復仏により、 847年 頃(『宋高僧伝』では 860年 頃)、 武陵郡 太守の薛延望の要請によって、 朗州 武陵県( 湖南省 常徳市 武陵区 )の徳山に住し、精舎を古徳禅院と号した。 門下からは 雪峰義存 、 巌頭全奯 らが輩出した。 咸通 6年( 865年 ) 12月3日 、遷化した。

  6. ja.wikipedia.org › wiki › 百丈懐海百丈懐海 - Wikipedia

    出典. 伝記資料. 百丈懐海 (ひゃくじょう えかい)は、 中国 の 唐 代の 禅僧 。 諡 は 大智禅師 。 福州 長楽県 の出身。 俗姓は王であり、名族である 太原王氏 の末裔であり、 永嘉の乱 の混乱を避けて、遠祖が福建に移り住んだものという。 南宗禅中の 洪州宗 の祖 馬祖道一 の法を継ぐ。 生涯. 西山慧照の会下で出家し、 衡山 の法朝律師の許で 具足戒 を受けた。 その後、馬祖より嗣法し、師の没後に、 洪州 百丈山( 江西省 宜春市 奉新県 )に住し、はじめて、律院から独立した禅院を設立する。 禅門の規範( 清規 )『 百丈清規 (ひゃくじょうしんぎ)』( 大正新修大蔵経 48巻所収)を定め、自給自足の体制を確立した。

  7. ja.wikipedia.org › wiki › 洞山良价洞山良价 - Wikipedia

    [3] 略歴. 幼少のころより仏門に入る [5] 。 村院の師について学んだが、『 般若心経 』を唱えたとき、六根の釈義について問いつめるなど頭角を現したので、 五台山 の高僧である 五洩霊黙 のもとへ遣わされ [1] 、21歳のとき受戒した。 のち 南泉普願 にも薫陶を受け [1] 、 潙山霊祐 にも師事 [1] 。 最後に 雲巌曇晟 ( 英語版 ) (うんがん どんじょう、782年-841年)を師と仰いだが、『 人天眼目 』によればこのとき「三種滲漏」などの真髄 [6] を相伝した。 [1] [5] [6] 武宗 による 会昌の廃仏 (843年-845年)が起きたが、大過なくやりすごした [注釈 1] 。