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  1. ja.wikipedia.org › wiki › 臨済宗臨済宗 - Wikipedia

    臨済宗臨濟宗りんざいしゅうLinji school)は、 中国 の 禅宗五家 (臨済・ 潙仰 ・ 曹洞 ・ 雲門 ・ 法眼 )の一つ。 中国、日本、台湾、韓国などに信徒を持つ。 日本仏教 においては 禅宗 ( 臨済宗 ・ 曹洞宗 ・ 日本達磨宗 ・ 黄檗宗 ・ 普化宗 )の一つ。 また 鎌倉仏教 の一つである。 曹洞宗が単一教団であるのに対して、十五派に分かれて活動している。 歴史. 臨済宗は、その名の通り、 会昌の廃仏 後、 唐 末の宗祖 臨済義玄 (生年不詳 - 867年)に始まる。

  2. ja.wikipedia.org › wiki › 相国寺相国寺 - Wikipedia

    相国寺 (しょうこくじ)は、 京都市 上京区 相国寺門前町にある 臨済宗相国寺派 の 大本山 の 寺院 [1] 。 山号 は萬年山(まんねんざん)。 本尊 は 釈迦如来 。 足利将軍家 や 伏見宮家 および 桂宮家 ゆかりの禅寺であり、 京都五山 の第二位に列せられている。 相国寺は 五山文学 の中心地であり、 画僧 の 周文 や 雪舟 は相国寺の出身である。 また、京都の観光名所として著名な 鹿苑寺 (金閣寺)、 慈照寺 (銀閣寺)は、相国寺の山外 塔頭 (さんがいたっちゅう)である。 歴史. 永徳 2年( 1382年 )、 室町幕府 第3代 将軍 足利義満 は、 花の御所 の隣接地に一大禅宗 伽藍 を建立することを発願した。

    • 萬年山
  3. ja.wikipedia.org › wiki › 鹿苑寺鹿苑寺 - Wikipedia

    鹿苑寺ろくおんじ日本の京都市 北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である [1]。 大本山 相国寺 の境外 塔頭 で 山号 は北山(ほくざん)。

    • 北山(ほくざん)
  4. ja.wikipedia.org › wiki › 大光明寺大光明寺 - Wikipedia

    大光明寺 (だいこうみょうじ)は、 京都市 上京区 相国寺門前町にある 臨済宗相国寺派 の 寺院 。 大本山 相国寺 の 塔頭 。 山号 は梵王山(ぼんおうざん)。 本尊 は 普賢菩薩 。 伏見宮 家歴代の 菩提寺 である。 歴史. 暦応 2年( 1339年 )、 後伏見天皇 女御 で、 光厳上皇 ・ 光明上皇 の生母である広義門院( 西園寺寧子 )が、後伏見天皇の菩提を弔うため現在の 伏見区 桃山町泰長老にあった伏見離宮に隣接して創建された。 応永 8年( 1401年 )、伏見離宮ともども大光明寺も焼失するが、双方再建される。 後に、光厳上皇の子・ 崇光天皇 の子である初代 伏見宮 の 栄仁親王 が応永23年( 1416年 )に当寺に葬られると、それ以来伏見宮家歴代の菩提寺となった。

    • 梵王山
  5. ja.wikipedia.org › wiki › 鹿苑院鹿苑院 - Wikipedia

    鹿苑院 (ろくおんいん)は、かつて 臨済宗 相国寺派 大本山 相国寺 ( 京都府 京都市 上京区 )にあった 塔頭 。 また、 室町幕府 第3代 将軍 足利義満 の 院号 でもある。 歴史. 足利義満は、 永徳 2年( 1382年 )に自らが 開基 となって相国寺の建立を開始した。 鹿苑院はその翌年に義満自身の 禅 の 道場 として、そこにあった 安聖寺 を撤去して創建された。 応永 5年( 1398年 )、義満は相国寺の 住持 であった 絶海中津 を退任させて、代わりにその塔頭である鹿苑院の院主に任命した。 ついで、そのまま絶海中津を 僧録 に任じた。

  6. ja.wikipedia.org › wiki › 京都五山京都五山 - Wikipedia

    起源. 五山の確定と幕府. 京都五山の寺格. 出典. 関連項目. 京都五山. 南禅寺 (三門) 天龍寺 (大方丈) 相国寺 (法堂) 京都五山 (きょうとござんとは臨済宗 の寺院の 寺格 で、別格とされる 南禅寺 とともに定められた京都にある五つの 禅宗 の寺院。 鎌倉時代 末期に創設されたが、その内訳が確定したのは 室町時代 、 足利義満 の代になってからである。 歴史. 起源. 五山 の制度はもとは 南宋 の 寧宗 のころに インド の五精舎十塔所にならって創設されたものである [1] [2] 。

  7. 大応寺 (だいおうじ)は、 京都市 上京区 にある 臨済宗相国寺派 の寺院である。 以前は日蓮宗であった。 山号 を金剛山と号する。 現在の 本尊 は 釈迦如来 。 歴史. 天正14年(1586年)、 妙満寺 ・日重上人の弟子・虚応円耳(1559年-1619年)が 法華(日蓮)宗 の教えを広めるため、 嵯峨天皇 の后の 橘嘉智子 (檀林寺を創建したことから檀林皇后とも言われた)が九世紀初頭に建てた 悲田院 跡に建立した。 悲田院とは、 聖徳太子 が病人や貧窮者、孤児や身寄りのない老人を収容する施設を造ったのが起源であり、後の正保3年(1646年)、 永井直清 が 泉涌寺 の山内に移してその塔頭となっている。