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  1. 蔡邕 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡ヨウ

    蔡 邕(さい よう、132年または133年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家・儒者・書家。字は伯喈(はくかい)。兗州陳留郡圉県の人。蔡叔度の子孫。父は蔡棱。娘は蔡琰。従弟は蔡谷。叔父は蔡質。外孫は羊徽瑜(西晋の景献皇后)・羊祜。

  2. 蔡氏儀間殿内 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡氏儀間殿内

    蔡氏 儀間殿内(さいうじ ぎまどぅんち)は、蔡崇(さいすう)を元祖とする琉球王国の士族(久米氏族)。 12世・蔡壎より小禄間切(現・那覇市小禄)儀間村の脇地頭職を務めた。 1世・蔡崇は、福建省泉州府南安県の出身。家譜によると、宋の書家として有名な蔡襄の ...

  3. 蔡氏具志頭殿内 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡氏具志頭殿内

    蔡氏 具志頭殿内(さいうじ ぐしちゃんどぅんち)は、蔡温・具志頭親方文若(蔡氏志多伯家十一世)を小祖とする琉球王国の士族(久米士族)。 代々具志頭間切(現:八重瀬町(具志頭地区))の総地頭を務めた琉球王国の大名

  4. 中国帝王一覧 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/中国帝王一覧

    蔡伯荒(姫荒) 宮侯 厲侯 武侯(在位紀元前863年 - 紀元前837年) 夷侯(在位紀元前837年 - 紀元前809年) 釐侯(姫所事、在位紀元前809年 - 紀元前761年) 共侯(姫興、在位紀元前761年 - 紀元前760年) 戴侯(在位紀元前759年 - 紀元前750年)

  5. 琵琶記 - Wikipedia

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    • 成立
    • 主な登場人物
    • あらすじ
    • テクスト
    • 翻訳
    • 参考文献

    作者の高明は永嘉(温州)の人で字を則誠といい、元の至正5年(1345年)の進士だったが、方国珍の乱の鎮圧後に鄞(寧波)に隠棲した。『琵琶記』のほかに『閔子騫単衣記』という劇を作ったというが、現存しない。 男性主人公の蔡伯喈とは後漢の蔡邕のことであるが、話は史実の蔡邕とは関係がなく、時代もあまり後漢らしくない。 『琵琶記』の話の元になったのは『趙貞女蔡二郎』という宋代の永嘉(温州)の戯曲(温州雑劇)である。この戯曲は現存しないが、蔡二郎が親と妻(趙貞女)を捨てて、雷に打たれて死ぬという因果応報の話であったらしい。ここでいう「蔡二郎」が蔡邕かどうかはよくわからないが、陸游の詩「小舟游近村、舎舟歩帰」其四に「満村聴説蔡中郎」とあり、南宋時代にすでに主人公が蔡邕と同一視されていたことがわかる。 金の院本にも『蔡伯喈』という題のものがあり、元曲の中でしばしば貞節のたとえとして趙貞女が素手で墓を作ることが例に引かれるなど、この物語は広く知られていた。 『琵琶記』では趙五娘の貞節についてはそのままに、蔡伯喈を悪人から善人に変え、大団円で終わるように話を変更している。

    蔡伯喈(蔡邕)- 男性主人公。
    蔡公 - 伯喈の父。名は従簡。
    蔡婆 - 伯喈の母。姓は秦。
    趙五娘 - 女性主人公。伯喈の妻。

    陳留郡の蔡伯喈は趙五娘と結婚し、官途にはつかずに老いた父母を養おうと考えていたが、隣人の張太公や父は科挙試験を受けさせようとする。伯喈は父の言葉に従って単身洛陽にのぼり、状元で合格する。しかし天子からの命令で、伯喈は丞相の牛太師の家に婿として迎えられる。伯喈は拒絶しようとするものの強要されて断りきれず、牛太師の娘と再婚する。 一方、故郷では飢饉によって食物がなくなり、趙五娘は自分の服を売って舅と姑に仕える。姑は趙五娘が自分に隠れて何かを食べているようだと疑うが、実際に食べていたのは糠だった。姑と舅は衝撃を受けて倒れ、舅は息をふきかえすものの、姑はそのまま息をひきとる。舅も病の床につき、ほどなく息を引きとる。 趙五娘は自分の髪を売って姑と舅の葬式の費用を出し、素手で墳墓を作ろうとする。趙五娘の貞節さに鬼神が感じて墓を完成させる。その後趙五娘は道姑(道教の尼)の恰好をして、舅と姑の絵を描いて背負い、琵琶を弾いて物乞いをしながら夫を探しに都へと向かう。 伯喈の側も故郷に残した家族のことが忘れられず、琴を弾いても別れの曲しか出てこない。牛氏はわけを問いただして事情を知り、父の牛太師を説得して伯喈の家族のもとに使者の李旺を送るが、すでに両親は死に、趙五娘とも行きちがいになって会えなかった。張太公は李旺に向かって伯喈の不孝をののしるが、李旺から事情を説明されて納得する。 趙五娘は洛陽の弥陀寺にいたるが、そこに舅と姑の絵を忘れてしまう。伯喈は父母の祈願のために弥陀寺に来て、従者が趙五娘の落とした絵を拾う。その後、趙五娘は夫が牛太師の家にあると聞いてその家にいたり、牛氏に会う。牛氏は趙五娘の貞節に感じいる。 帰宅した伯喈は弥陀寺で拾った絵を見て不思議に自分の両親に似ていると思うが、裏側に書かれた詩が自分のことを非難したものだとして怒る。牛氏は伯喈を試し、伯喈の本心を知って趙五娘に引きあわせる。牛氏は趙五娘を伯喈の正妻として自分はその下になり、つれだって伯喈の故郷に帰って親の喪を守る。牛太師が天子に蔡家の人々の孝心を報告し、喪があけた後に表彰される。

    『琵琶記』には多数の本が残る。田仲一成はテクストの発展を分析し、古本が社祭演劇としての性格が強いのに対して、宗族演劇脚本としてより典雅で道徳的に変更された本(通行本はこの方向への進行がもっとも進んだもの)と、市場地演劇脚本として逆に通俗性を拡大する方向に進んだ本があることを指摘した。

    アントワーヌ・バザンが1841年にフランス語に翻訳した。この『琵琶記、あるいはリュートの物語』(Le Pi-pa-ki ou l'Histoire du luth)はパリの王室出版所で出版された。1925年にボストンの中国人留学生たちが英語版を上演した。翻訳は顧毓琇と梁実秋によって行われ、梁実秋と謝冰心が主人公を演じた。ヴィンツェンツ・フントハウゼン(ドイツ語版)が1930年にドイツ語訳を著した。ジーン・マリガンによる英語の完全な訳注は1980年にあらわれた。 『Memoirs of the Guitar』は1928年に上海で出版された英語の小説で、「中国の古典戯曲から書き直された夫婦愛の小説」と自称している。著者は Yu Tinn-Hugh で、出版社は Current Weekly Publishing Company である。

    徐渭『南詞叙録』、1559年。
    Bieg, Lutz. "Literary translations of the classical lyric and drama in the first half of the 20th century: The "case" of Vincenz Hundhausen (1878-1955)." In: Alleton, Vivianne and Michael Lackner (...
    Birch, Cyril. "Introduction: The Peach Blossom Fan as Southern Drama." In: K'ung, Shang-jen. Translators: Chen, Shih-hsiang and Harold Acton. Collaborator: Birch, Cyril. The Peach Blossom Fan (T'ao...
    Mulligan, Jean (1980). The lute : Kao Ming's P'i-p'a chi. New York: Columbia University Press. ISBN 0231047606
  6. 蔡英文 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡英文
    • 経歴
    • 人物
    • 政治的立場
    • 日本との関係
    • 著書
    • 外部リンク

    生い立ち

    蔡英文の祖父は屏東県枋山郷楓港の客家の旧家であり、祖母は獅子郷のパイワン族の末裔である。 英文の父・蔡潔生(1918〜2006)は枋山郷出身の豪商。『商業周刊』の報道によれば、蔡潔生は四人の女性と家庭を持ち、英文の母は張金鳳(1924〜2018)。子供は合わせて十一人で英文は末子。ジャーナリストで政治評論家の周玉蔻は、著書で「蔡潔生は五人の女性がいて、蔡英文は五人目の女性が生んだ」と主張しているが、この説は蔡潔生の家族の確認を得られてはいない。 潔生は18歳の時に 日本軍による南洋作戦への徴用を避けるために中国大陸に渡り、満州国の満州機械学校で飛行機修理を学んだ。太平洋戦争で日本が降伏した後に台湾に戻り、自分で事業を起こし、貨物運送所を開設。後に台北市に移って自動車整備工場を開設して輸入車整備業務に参入し、駐台米軍と外国人顧問の相手を専門にして事業を営み、60歳近くになって不動産業、建築業及びホテルビジネスに参入。中山区の中山北路と新生北路一帯に少なくない不動産を購入して富を得た。2011年12月下旬の中央選挙委員会の財産申請資料によれば、蔡英文は土地4ヶ所、建物2ヶ所、ニュー台...

    学歴

    父親の勧めで法学を学び、1978年に台湾のトップ名門大学である国立台湾大学法学部を卒業後、1980年にアメリカのコーネル大学ロースクールで法学修士、1984年にイギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで法学博士を取得。帰国後、国立政治大学及び東呉大学の教授に就任。

    行政院

    国民党政権下の1990年代に、行政院経済部の国際経済組織首席法律顧問、経済部貿易調査委員会委員、行政院大陸委員会委員、行政院公平交易委員会委員、公正取引委員会委員、著作権委員会委員などを務め、1999年に李登輝総統が発表した中台関係の新定義、いわゆる「二国論」(「特殊な国と国の関係」論)にも深く関わった。民進党が政権を獲得した2000年5月、中台関係の政策を受け持つ行政院大陸委員会の主任委員に就任。

    2008年7月、台湾の主要政治家10人の支持率について行われた世論調査(中国国民党寄りとされるテレビ局TVBSが実施)では支持率49%の1位となり、馬英九総統の30%(7位)を大きく上回った。「台湾のライス」と呼ばれるなど学者出身で清廉なイメージがある。2012年総統選に立候補し、2011年4月の世論調査では現職の馬英九総統と互角の支持率を出している。 短髪・眼鏡の風貌から日本のブラウザゲーム『艦隊これくしょん -艦これ-』に登場する「霧島」に似ているとされ、現地においても「霧島小英」と称されている。2015年11月14日には、「霧島」のねんどろいどが蔡英文の選挙事務所に届けられている。 蔡英文の批判者は、その政策が抽象的で曖昧、なおかつ揺れ動くとして蔡を「空心菜」または「空心蔡」(中身のない蔡)と呼んでいる。この渾名は2011年8月から出現し始めた。当時、蔡英文は既に民進党の総統選候補者であったが、民進党内部のある人物は蔡の政策に公開質問を始めていた。先ず、民進党前立法委員郭正亮は、蔡英文の両岸政策が余りにも抽象的であるとし、続いて陳水扁オフィスの前主任陳淞山はその「十年政綱」もまた「空心政見」であると断言した。この後、「空心菜」のレッテルがずっと蔡英文に伴い、2015年の第二回目の総統選挙参戦時も依然として両岸政策は「空心」だと疑問を挟まれている。

    「二つの中国」問題

    「二つの中国」の立場に立っており、既に中華民国(台湾) は独立国家であるので独立宣言などする必要がないという「天然独」の考え方である、一方で中華民国を認めず台湾独立を主張する陳水扁のようなラジカルな独立運動とも距離を置いている。 急進的な独立活動家からは「立場を曖昧にした弱腰姿勢である」という批判がある。

    両岸関係

    政治的立場は穏健な現状維持派とされ、中華人民共和国とは新思考の交流を呼びかけている。2008年11月の中国海峡両岸関係協会の陳雲林会長の訪台をめぐって「訪台を歓迎しない」「台湾史上、最も暗い1週間」と踏み込んだ発言を行い、急速な対中接近を図る馬英九政権を強く牽制した。2010年4月25日には馬英九と共にテレビ討論会に出席し、両岸経済協力枠組協議について「安価な中国製品が大量に輸入され、台湾の産業が圧迫された結果、独立性を失い中国の寄生虫になる」として馬を批判し、世界貿易機関の下で中国と交渉するべきと主張した。 2019年11月には過去の国民党政権による白色テロによって多数の反体制派が弾圧された事件を引き合いに、香港政府と香港警察による香港民主化デモに対する暴力を批判した。台湾の世論では香港デモを追い風に2020年中華民国総統選挙で再選を狙う蔡英文の支持率が国民党候補の韓国瑜らを初めて逆転した。また、同年12月には中国からの選挙介入疑惑は台湾メディアなどで相次いで報じられたことを受け、国民党が抗議して採決に参加しない中で外国からの選挙介入やフェイクニュースを防止する反浸透法を成立さ...

    国歌斉唱について

    2015年10月10日に行われた国慶日祝賀大会では、ライバル政党で与党・国民党の党歌であり、中華民国の国歌でもある中華民国国歌の歌詞のうち「吾党」(元々は「国民党」を指す意味)の部分だけ、歌うのを拒否した。 しかし、2016年5月20日に総統に就任した際には、「吾党」の部分を唱和した。台湾メディアでは「吾党」を歌うのかが、注目の的となった。 2017年1月1日の国旗掲揚式で、問題とされている歌詞「吾党」も口を動かし、斉唱した。

    2008年10月、週刊東洋経済のロング・インタビューを受けた。この中で、対日関係について「日本と友好的関係、協力的関係を維持することは、最も良い政策的な選択肢だ」と述べた。さらに、かつて日本語を3年間勉強したこと(ただし、本人いわく「あまり上手ではない外国語」)、よく日本を観光で訪問したことなどを明かした。日本統治時代については「日本人には誤りもあったが、台湾に対する貢献もあった」と評価。 尖閣諸島(釣魚台)問題については「台湾の領土」と主張しつつ、経済利益は双方が共同で享受することを提唱している。 2017年1月28日の春節(旧正月)に際して、Twitter上で日本語と英語で新年の挨拶をしたところ、中国から批判が殺到し、その批判に日本や台湾から反論がなされるなど、インターネット上で物議を醸した。 東日本大震災から10年という節目にあたる2021年3月11日には、地震発生時刻に合わせ、Twitterに日本語で追悼のメッセージを発信した。

    『蔡英文 新時代の台湾へ』 前原 志保監訳、阿部 由理香・篠原 翔吾・津村 あおい訳、白水社、2016年5月。ISBN 978-4560092484
    『蔡英文自伝 台湾初の女性総統が歩んだ道』 劉永毅構成、前原 志保訳、白水社、2017年2月。ISBN 978-4560095249
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  7. 蔡洪 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡洪

    生涯 弁論の才があったという。呉に仕えていたが、呉の滅亡後には西晋に仕え、官は松滋県令に至ったという。著作には『清化経』・『囲棋賦』などがある。 世説新語 呉の滅亡後、西晋は天下に人材を求め、蔡洪はそれに応じて洛陽に赴いた。 。洛陽の人々は、蔡洪に ...

  8. 蔡琰 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡文姫
    • 生涯
    • その他
    • 脚注

    南朝宋の范曄編纂の『後漢書』列女伝は次のように記す。蔡琰は河東郡の衛仲道の妻となるが、早くに先立たれたため婚家に留まらず実家に帰った。興平年間(194年-195年)、董卓の残党によって乱が起こると、蔡琰は匈奴の騎馬兵に拉致され、南匈奴の劉豹に側室として留め置かれた。匈奴に12年住む間に劉豹の子を2人をもうけた。建安12年(207年)、父と親交のあった曹操は蔡邕の後継ぎがいないことを惜しみ、匈奴に金や宝玉を支払って蔡琰を帰国させた。帰国時に実の子を匈奴に残しており、子との別離に際しの苦痛を詩を述べた。帰国後、曹操の配慮で同郷出身の屯田都尉董祀に嫁いだ。その董祀が法を犯し死罪になるところであったが、蔡琰は曹操を説得して処刑を取り止めさせた。のちに曹操の要求で失われた父の蔵書400編余りを復元した際、誤字脱字は一字もなかった。

    陝西省西安市藍田県三里鎮蔡王村に陵墓がある。省級文物保護単位。1991年には付近に記念館が建てられた。 蔡琰の著作には自らの波乱の人生を綴った『胡笳十八拍』と『悲憤詩』の2首が伝わる。一説に『胡笳十八拍』は後世の詩人が蔡琰に仮託してできた産物だという。なお『胡笳十八拍』の楽曲は現代に伝わり、中国十大古典名曲の一つに数えられる。 蔡琰の人生を題材にした作品には、北京の頤和園の長廊に描かれた『文姫帰漢図』がある。他に蔡琰を主人公とした戯曲が多数作られており、元の金志甫の『蔡琰還漢』や明の陳与郊の『文姫入塞』、曹雪芹の祖父曹寅の『続琵琶』、郭沫若の『蔡文姫』などがある。 金星には彼女の名がついたクレーター(Cai Wenji、蔡文姫) がある。

    ^ 魏丁廙作『蔡伯喈女賦』では婚姻時16歳、明張瑞図編『日記故事大全』巻2では15歳
    ^ 『晋書』劉元海載記に「於扶羅死,弟呼廚泉立,以於扶羅子豹為左賢王,即元海之父也。」とあるが、『三国志』鄧艾伝では劉豹は右賢王と記されている。『後漢書』列女伝では「興平中,天下喪亂,文姬為胡騎所獲,沒於南匈奴左賢王,在胡中十二年,生二子。」と書かれているのみで、この左賢王が必ずしも劉豹を指しているとは限らない。
    ^ 『晋書』巻34羊祜伝には夏侯覇が嘉平元年(249年)に亡命した後、母と羊発が亡くなったと記載
  9. 蔡温 - Wikipedia

    ja.wikipedia.org/wiki/蔡温
    • 人物
    • 政策
    • 脚注
    • 参考文献
    • 関連項目

    実学を重んじ、物事を現実的にとらえ、自ら行動する政治家であった。特に山林の保全や河川改修において現地に赴き自ら指揮を執ることが多かった。著作として『客間録』、『家言録』、『一言録』、『簔翁片言』、『図治要伝』、『治家捷径』、『居家必覧』、『醒夢要論』、『実学真秘』、『要務秘編』などがあり『澹園全集』と呼ばれる。他にも『山林真秘』、『御教条』、『家内物語』、『独物語』、『林政八書』、『農務帳』、『自叙伝』などがある。しかしながら多くの書物は沖縄戦によって失われている。 3回の結婚歴があり、初婚は蔡氏渡久地親雲上政包の娘の思戸金(オミトガニ)であったとされる。2回目は泊村相氏上運天筑登之親雲上英章の娘の真如姑樽(マニクダル)であったが死別している。3回目は首里向氏前川親方朝年の娘で蔡温23歳の年に結婚している。好物は魚のカステラ、イチムイ(魚の刺身盛り合わせ)、牛肉などであった。夜中でも思いついたことを書き留められるよう、寝室に行灯と筆記用具を常備していた。

    当時の琉球王国は薩摩藩の支配により停滞状況にあったが、蔡温は薩摩藩に従う利点を説き、現実的に対応するよう指導した。主君である尚敬王に対して「清との付き合いは難しくないが、薩摩藩との付き合いには十分な配慮が必要」と忠言している。内政では羽地朝秀の改革を継承し、のちの琉球王国の方向性を定めた。 農業政策 1. 田と畑の転換を禁じ、また傾斜地の開墾を制限する一方で、農民に耕地の永久耕作権を与えて農地の地力保護をはかったり、農業用水路の整備を進めたりした。村や間切の境界を明確にし土地所有をはっきりさせ、旱魃や暴風に対する食糧備蓄制度を充実させた。また、農民を組合に所属させ納税の連帯責任を負わせることで農民同士の協力を促すとともに相互監視による税収の安定化をはかった。この組合組織は後にユヒ組(ユヒマワル、ユイマール)と呼ばれるようになった。しかしながら蔡温以後に有力な後継者が現れず、これらの政策は十分には浸透しなかった。 林業政策 1. 各島の木材需給状況に鑑み、ある程度の山林を有する島の用材は島内でまかない、山林のない島については沖縄本島中部や北部から供給し、八重山については将来へ向けての予備とする方針を定めた。また、山林と田畑との境界を明確にして管理を強化した。植林を奨励し、海岸部にはアダン、マツ、テリハボクなどからなる潮垣と呼ばれる林、内陸部の要所にはマツなどからなる抱護と呼ばれる林を設けた。さらには森林資源保護のために新しい家や船の建造および薪の利用を制限し、まるまる大木の一本を必要とする「くり舟」(丸木舟)の製造を禁止した。

    伊波普猷、真境名安興 『沖縄史の五人』 pp.133-182、琉球新報、1974年(1916年『琉球の五偉人』の復刻版)
    沖縄歴史研究会編 『蔡温選集』 星印刷出版部、1967年
    真栄田義見 『蔡温・伝記と思想』 月刊沖縄社、1976年
  10. Bally] ). リヒャルト・ニコラウス・エイジロ・クーデンホーフ=カレルギー ( ドイツ語: Richard Nikolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi 、日本名: 青山 栄次郎 〈あおやま えいじろう〉、 1894年 11月16日 - 1972年 7月27日 )は、 クーデンホーフ家 と カレルギ ...

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